イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

何を撮ってるの?

2007-09-13 | 第八章「魂と聖霊」

2006年からブログを書き始めたが、そのために撮った写真が何と1514枚となった。約21ヶ月経過しての枚数であるので驚きである。

携帯電話のカメラで撮り、パソコンのマイクロソフト社の付属ソフトで画像を修正して掲載している。

カメラは小学校のときに富士ペットを両親に買ってもらい楽しんだが、学生時代、社会人になってから特に趣味というほどでもなかった。子供たちの成長記録のためにビデオを撮ったり写真を撮ったりしたが、今のような撮り方はしていない。

今とっているものの大半は、何かに感じて撮ったものだ。五感で知覚したものを、撮っているのだが、意識してとった写真も、そうでない何となく撮った写真もある。無意識が捕らえた何かを撮っていることもあるようだ。蝶の写真などで、タイミングその他を考えると奇跡的な写真と思えることもある。

無意識の世界のかなたに、魂や聖霊の世界があるのだろうか。

こちらから言えば、何か閃いて写真を撮るのだが、魂や聖霊の働きが無意識を越えて、映像を意識化させているようにも思える。

技術的には素人写真だが、大げさかもしれないが、魂の息吹を感じることもある。

デジタルカメラという最先端の技術と、眼に見えない検証できない魂や聖霊の繋がり。現代は不思議な組み合わせの時代だと思う。

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成長すること・・・

2007-09-12 | 第八章「魂と聖霊」

草木の育つ様を見ていると、何故生命は育つのだろうとつくづく思う。

科学者は現象を説明はするが、その元の育つこと自体の理由には触れない。これも生命に関するSomething Greatの働きと答えるしかないのだろうか。

人間のこころの働きも、様々な状況の変化の中で、古い殻を脱ぎ捨て新しくなることを繰り返しているようだ。そして、その中に何か成長という要素が含まれているように思う。

エリクソンの生活周期の理論などを見ていると、つくづく人間は恐らく遺伝子の働きも含め、次々と特に若い頃はすばやく成長しているように思う。まだまだ勉強中で、判らないことが多いが、疑惑感、自発性・・そんな原型を思い出すとこころの成長の様子が実感できる。

そして、人は死の瞬間まで成長し続け、そして永遠の生命に旅立つのだと思う。

雨の日は憂鬱だが、成長の糧なのだろう。

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貧しさは内部からの光!

2007-09-11 | 第八章「魂と聖霊」

人には、変わる時というのが在る。言葉を変えれば恵みの時の到来といえる。

ある日、今まで見えにくかったことが見え、そしてもっと自然なありのままの自分が感じられる過程である。

この一週間、いろいろな要素が重なり、この10年の滓というものの存在に気づき、解決への過程に入りつつある。アイデンティティの統合の問題だと思うが、この数年受容しにくかった真実がより見えてきたようだ。

プロセススケールが、先週の後半から低下し、現実吟味力は低下し、防衛機制も高まり、アイデンティティの統合も混乱し、ストレス曲線も一時はウツまでいった。

今は徐々にではあるが、回復しつつあるように思える。幸運であったのは、いくつかの語らいや助言を頂いたこと、良い本を読んでいたことなど、本当にいくつかの要素があったお陰だと感謝している。

昨晩は、学生時代に愛読したオーストリアの詩人リルケ(ライナー マリア リルケ)の時祷詩集をぱらぱら捲っていた。その時、偶然学生時代に感動した一節にめぐり合った。

・・・
素朴にみち、あくまでもあなたの下部(しもべ)です。
何も欲しません。彼らがもし何かを欲するとすれば、
それはただ一つ―

ほんとうにありのままに貧しくあること。

なぜなら、貧しさは内部から射す偉大なかがやきだから。
・・・(筑摩書房 世界文学大系 リルケ 手塚富雄編)



この一節は魂とは、聖霊とは何かを実感させる何かがあるように思った。そして、今この変化しつつある時にとって大きな糧になるようだ。

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名前に縛られる!

2007-09-10 | 第八章「魂と聖霊」

名前というのは、自分自身に対する一つの概念として、自分をいつのまにか束縛するところがある。子供のことを充分理解しているはずの無い両親や近しい方がつけた名前が、その人の人生を深く束縛する。

毎日のように、自分の名前が他人から呼ばれ、自分でも言ったり書いたりする。いつのまにか、自分のアイデンティティの一部になってしまう。

昨年、自分の名前とは別に、ミクシイでハンドルネーム「八王子の森」をつけた。

そしてミクシイやブログの魅力に取り付かれ、毎日覗き、書き、そしてインターネットの友人達からは、「八王子の森」と呼ばれた。

静かに一日をパソコンの前で過ごす日は、自分の本名以上に「八王子の森」が自分の意識を占有した。

この「八王子の森」は、福祉の勉強をしてから、自分の地域を大切にしたいという考えがあった。ただ、それは自分の本音とちょっと違っていたのかもしれない。当時は本音だったが、今は状況が変わり、本音が変わったのかもしれない。理屈はともかく、「八王子の森」が苦痛に感じ、別の「虹森マリオ」と改名した。

何故「虹森マリオ」なのかは、学生時代につけたものであり、その由来は若気の至りで、今となっては話せない。ただ、現在は、マリオは男性がカトリックの霊名をつけるとき、マリアではなくマリオとつけることがあり、私の霊名もマリアが入っていることから気に入っている。

虹森は虹と森が好きなので良いと思うし、マリオだけより自分であることを特定できてよいのではと思ったからである。

「虹森マリオ」で、より広大な時空を自由に羽ばたきたいと願う。

名前の本当の由来をしっている方は、黙っていてほしい!

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夜が近づく時・・・

2007-09-09 | 第八章「魂と聖霊」

私は出かけるときに、いつもカバンを持って出かける。中には本とか、引き用具、手帳、筆記用具、メガネなどが入っている。

本当に必要なものもあるが不要なものも多い。そんな習性は学生時代からのようである。

今日は、午前中クリスチャンなので教会に出かけたが、何も持たずに出かけた。あえて何も持たないように決めたのだ。

何となく在ると不安を解消するものは意外に回りに多い。妻や子供や親戚、同志や友人、コミュニティ、勤め先、地位、名誉、住宅、携帯、お金、貯金、投資信託、保険証、保険、夢、人生計画、健康な身体・・・・

本当にいろいろな鎧やこころの防衛機制に覆われて生きていると思う。

ただ、人生の最後とか、生死を彷徨うような事態、緊急事態などではそういったものは、役立たないと思う。何も無い状態。勿論生まれた時もそうであったから。それが、人間の真実なのかもしれない。

死を迎える時、より真実の世界が見えてくるかもしれない。そして、自分の持ち物が無くなることは一般に不幸と思われているが、不幸即幸福なのだと信じたい。

恵みの中で、死を通して永遠のいのちに与る。人生の最後における最大のプレゼント!

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