イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

喪失を超えて・・・

2007-09-08 | 第八章「魂と聖霊」

人生において、親しい人を亡くしたりする喪失体験は本当に辛い。

そうした体験を思い出させるようなことにちょっと触れても、また傷口が開き、暗い気分がずっと離れないこともある。

先日、青山ユニマット美術館に立ち寄った。シャガールが愛妻ベラを突然感染症で失い、9ヶ月筆を持つことができなかった。その後での復帰作のひとつブルーコンサートが展示してあった。

ゆったりとしたスペースで、じっくり観賞することができた。

失った妻への愛、悲しみ、そういったものが二重に織り込まれたような絵は素晴らしかった。他にもいくつか好きになった絵があった。シャガールの不思議な絵画は、本当に魂をゆする。

喪失の辛い時、どのように自分は回復していったか。魂とは何か?シャガールの画集をだしながら、この週末は考えてみたい。

人気blogランキングへ <- 1クリック是非とも応援お願いします!


人生という道!

2007-09-07 | 第八章「魂と聖霊」

ビジネスの世界では、沢山の企画書、計画書の類を書いたり読んだりした。30代、40代となり、その影響が顕著で、自分の人生計画もビジネスの計画書のようになってしまった。

それは、書かないよりはずっと良いと今でも思うが、今になって考えると、自分のビジネスライクの計画書の弱いところ、抜けているところがだんだん見えるようになってきた。

如何に効率よく、目標を達成するかという面では、ビジネスライクの計画書はいろいろ教えてくれるが、何を目標に選ぶかという基本が弱いように思う。

人生計画の場合は、生身の人が、本音で自分のやりたいことを見つけることがもっとも重要である。その面で、今一生懸命学んでいる「生き甲斐の心理学」は真に奥が深いと思う。

自分自身にピッタリの人生の道は、本来先が見えにくい細い道のように思う。

その中で、正しく自分の道を辿ること、50代後半でもありとても大切だと思う。

今日は台風が通過し、夕焼けが綺麗である。のんびり考えてみたい。

人気blogランキングへ <- 1クリック是非とも応援お願いします!


混沌、カオス・・・・

2007-09-06 | 第八章「魂と聖霊」

先日行った、都立公園の池、濁っていて何処か不気味であった。

そんな、池を思い浮かべながら、混沌ということを考える。

混沌、カオスというのは、いろいろな神話に出てくる。泥、沼、有象無象のものがひしめき合って、希望の無い状態。

そんな中から、何かが始まる。何かが生まれる。

生命が地上で発生したことも神秘である。さらに、この宇宙が137億年前に一点からビックバンとして誕生したことも神秘である。

混沌の闇が深いほど、光の意味が増す。

今日も東京は雨が時折強く降っている。早く台風一過で爽やかな光を見たい。

人気blogランキングへ <- 1クリック是非とも応援お願いします!


個性の美!

2007-09-05 | 第八章「魂と聖霊」

人それぞれ、顔も形も成育史も違う。そして、人それぞれの個性がある。

とかく良い悪いのめがねで見つめてしまうが、倫理道徳を離れじっくり理解を深めるようにすると、それぞれの美しさが感じられる。

本来大切なはずの個性であるが、意外とその個性が大事にされない。家庭の文化、地域の文化、会社の文化、時代の価値・・・は個性に対し寛容でないと思う。これは、自分もそうだったなと反省する。

個性に対するマワリを環境と呼べば、個性は環境によって大事にされたれ、粗末に扱われたりするようだ。

7歳のときにアラスカに両親と住んだが、その前後は、日本からアラスカ(米国)、アラスカ(米国)から日本の文化ギャップにストレスを感じたものだ。

教科書をランドセルで背負って登校する文化、教科書は学校の机にしまっとく文化。「キオツケ 前へならい!」をやる文化、英語ができなくても一人づつスピーチをさせる文化。

両親も子育てに関して、文化ギャップで混乱したようなところが、後から考えるとある。

学校や企業においても文化がある。そして自分の個性は、その中で相対的に評価される。文化が先で個性が従う格好である。

ただ、一度しかない人生をじっくり考えると、個性を大事にと思う。自分も他人へも・・・

人気blogランキングへ <- 1クリック是非とも応援お願いします!


球としての地球を感じる!

2007-09-04 | 第八章「魂と聖霊」

毎日綺麗な夕日が観られていた猛暑のころと様変わりで、このところ毎日曇りがちである。太陽も月も見ることもなく一日が終わってしまう。

涼風が窓から吹き渡り、過ごしやすいので良いのであるが、どこか物足りない。

昨晩は、東京の直下型地震の危険性についてのテレビ番組を見た。先日のペルー地震のことも思い出した。いつもは微動もしない大地を感じて生きているが、大きな揺れの地震が起きることは、本当に怖い。

太陽、月、地球という生活に馴染みの三つが、このところ意識化しにくくなっているようでもある。それが、何か不安定さを産んでいるように思う。こころなしか、身近な人々も何となく不安げである。

話は変わるが、地球が球であり、ひとつの天体であることを知っていたのは古代からである。アリストテレスはBC340年に、月食、北極星の位置が緯度によって変わること、水平線の向こうから近づく船の現れ方を論拠として地球が球であることを論述している。

荘子(BC369?年~286年)も、逍遥遊篇で、9万里の上空を飛ぶ大鵬から見れば、地上が青一色に見えることを述べている。ガガーリンが地球は青かったを想像させるような言葉でもある。

現代では、学校教育を受けた人々は殆ど地動説を信じ、太陽や月の科学的な知識も昔と比べ、遙かに持っていると思う。

ただ、曇りの日でも、太陽、月、地球がきちっと法則にのっとって安定して動いていることを実感することは、意外に私も含めて難しいことなのかもしれない。

静かに、地球を感じると、心が落ち着くように思える。

人気blogランキングへ <- 1クリック是非とも応援お願いします!