物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

北日本は雪

2014-12-16 11:47:15 | 日記
昨日、札幌の知人に電話をしたら、札幌は30センチくらいの雪が積もっているということだった。

テレビのニュースでもこれは北海道だけではなく日本海側では今年はもう雪がたくさん積もっているということだった。今金沢に住んでいる友人は福井の出身だったが、西日本で大学の職を探したが、とうとう見つからず金沢の大学に就職をした。

彼は福井の出身だから冬の雪の多さに辟易していたのだろう。だから冬もほとんど雪の積もらない西日本に就職したかったらしい。それにもかかわらず、皮肉なことに金沢の大学に就職することになった。

そういえば、ドイツ語の先生で金沢大学に勤めた私よりも若い方もおられた。このNさんのお宅に金沢で学会があったときに一晩泊めてもらったことがあった。

そして奇遇なことにこのNさんと先に挙げたA君は犬を散歩させるときにときどき出会う犬友達だという話を年賀状で知ったのももう
10年くらい前のことである。

近くとはいってもそれほど近くはないけれども住んでいる団地がおなじところなのかもしれない。

一強多弱

2014-12-15 10:54:23 | 日記
今回の衆議院選挙は評すると一強多弱である。

アメリカの中間選挙で共和党の圧勝にアメリカは保守の国だからしかたがないと思っていたが、日本もそれに負けず劣らず保守の国である。それはある程度人々が生活をできているからであろうか。

それにしてもアベノミクスへの期待感の表れでもあろうか。これはあくまでも期待感であって現実感ではない。そこがおかしいところだが、それぐらいにしかすがるところがないというべきか。

経済だけで人は生きているわけではないはずだが、どうも経済の要素は大きすぎる。

slow in, fast out

2014-12-14 14:50:43 | 日記
「slow in, fast out」は自動車学校で教えられた決まり文句である。車で交差点に入るときはゆっくり入り、交差点からは素早く出る。

なんでも取り掛かりはゆっくりとして、取り掛かれば脱兎のごとく仕事を済ませるという風に考えてもいいかもしれない。この種の口調のいい決まり文句は役に立つことが多い。

高校時代に英語のN先生から英単語のアクセントは「名前動後」と教えられた。アクセントは名詞の場合には前にあるが、動詞の場合には後ろにあるという。

こういう決まり文句は結局のところ記憶術でもあろう。記憶術とは英語でmnemonicというが、なかなかこの綴りが覚えられない。今回も辞書の助けを借りてようやくこの英語の綴りが書けた。

数学のベクトル3重積の覚え方が「bac-cab law(バック・マイナス・キャブの法則)」といわれるのもこの種の覚え方である。こういう決まり文句は人口に膾炙されており、役に立っている(注)。

数年前に I 医師がドイツ語のクラスで旧制の高校時代にドイツ語の先生から「男はこすい」と覚えなさいと教わったとおしゃっておられた。一瞬なんのことかわからなかったが、ドイツ語にはdie Seeとder Seeとがあるが、男性名詞のder Seeは湖水(みずうみ)(湖水をこすいと発音する)を意味するということだった。もちろん女性名詞のdie Seeのほうは海を意味する。

またdas Meer(中性名詞)というドイツ語もあり、これも海を意味する。

話が外れてきたが、私が明治21年生まれの祖母から学んだのが「キロキロとヘクト出かけたメートルはデシに追われてセンチミリミリ」という一連の文句である。これはいまでも単位の補助単位としてある種のテキストの中で覚えるのに都合のいい文句として使われている。

先日のことだったが、タダ塾で小学生を指導するときに、1ha(1ヘクタール)は何アールだったか忘れていたので、近くにいたY先生に1ヘクタールは何アールだった?と尋ねたら、100アールとすぐに返事が返ってきたので、それを単位の換算に使って説明をしたが、上の決まり文句からはキロは1000, ヘクトは100であることがすぐにわかったはずだった。

こういう話とはちょっと違うが、やはりドイツ語で「複数3格 n おわり」と覚えましょうと言われていたドイツ語の先生がおられた。なかなかドイツ語の複数3格が n で終わるということは私には定着しない。これは私だけの問題なのでしょうか。それとももっと普遍的なのでしょうか。

(注)cabはタクシーキャブtaxicabと言われ、タクシーのことである。これは高校時代に英語の模擬試験でcabという語が出てきて、どうも前後関係からはタクシーだなとは思ったがわからず、その試験後にもらった解答の解説にタクシーことだとあった。そういうことから覚えたという私にはいわくのある語である。

本質は?

2014-12-12 11:52:16 | 日記
自著『四元数の発見』(海鳴社)をある友人に送ったら、お前の本をちょっと読んでみたが、その本質が何かわからなかったというメールをもらった。

この人は常に本質が一言で言えると思っているのだろうか。いや、友人だから歯に衣を着せない言い方をしてくれたのであろう。

『四元数の発見』という本の名前は出版社の方でつけてくれた書名である。閲読者になってくれた友人の K さんはこの書名と内容とがかい離しているのではないかという風に何回か忠告してくれたが、どうも私がつけた書名ではないので、変更はできなかった。

今、思ったのだが、有名な岩波新書に数学者の吉田洋一さんの『零の発見』というのがある。この書は高校生が読んでも面白いし、一般の人が読んでも面白い。

それくらい有名な本の題名からその一部「の発見」を借用したわけである。だから、出版社の意気込みもわかるような気がする。

21世紀の資本1

2014-12-12 11:23:35 | 日記
トマ・ピケティ「21世紀の資本」(みすず書房)という本が出ている(注)。

この本の閲読を訳者の一人から頼まれた、ある人から「この本の言いたいことはなんとか(ここのところを覚えていない)だ」と一言で要点を聞いたので、もう読む必要はないと思った。

それが何であったのか覚えていない。覚えていれば、この本を買って読もうと思っている人が本を買うことをやめさせてしまうかもしれないが。覚えていないから、この本の売れ行きを阻害することはない。

その要旨が、お金持ちはますますお金持ちになり、貧乏人はますます貧乏になるということだったのか、どうだったか。

もっともそのことだけをすごい分量のデータで裏づけるなどということはなかなか普通の人にはできることではない。

もっともこういった類の本はあまり読まない。こういった類の本とは経済の本という意味ではなく、その時代時代で話題になった本という意味である。

ボルケナウの『封建的社会像から近代的社会像へ』(みすず書房)とかいう書名の本は歴史研究者のTさんからぜひ読んでみるようにというお勧めを学生時代に頂いたが、結局読まなかった。これからも読まないとは断言はできないが、たぶん読まないであろう。

ブローデルの『地中海』とかいう有名な本があるが、読む機会は多分ないであろう。しかし、だから私は一般教養に欠けていると言われても返す一言もない。

(注) トーマス・ピケティと著者の名前をしていたが、フランス人なのでトマ・ピケティに修正をした。新聞等でそのように表示されていることに気がついたからである。Thomasの最後のsはフランス語では発音されないのが普通である。

これと同じようなことだが、Rodriguesというベクトルの回転公式を導いたフランス人の数学者がいた。最近読んだ金谷健一さんの『幾何学と代数系』(森北出版)で金谷さんは名前としては索引では本人の名前をロドリーグとしているが、回転公式はロドリゲスの公式と「ス」をいれている。これは「日本ではもう一般的にロドリゲスとして通用しているので」と説明をつけ加えてある。

これとはちょっと違うが、ライプニッツという名で知られたドイツの学者がいた。ところが電磁気学の著書等で知られている物理学者の太田浩一さんによれば、これはライブ二ッツと発音すべきだとあるドイツ人の物理学者から指摘があったという。そのせいかある独和辞典にはLeibnizにライブ二ッツとカナで表しておきながら、日本ではライプニッツと言われているとあった。私のドイツ語のクラスの先生であるR氏にいつだったかこのことを質したら、どちらもありだとのことであった。




















どうしてだかわからない

2014-12-11 17:11:47 | 日記
どうしてだかわからないが、たとえば仕事をしていたときに、必要な書類の一部をどこかに見失ってしまうというようなことがある。

あちこち探すのだが、なかなか出てこない。たった今もそのような事態に襲われた。一枚の紙片に書いたッセイの最後の原稿があるはずなのだが、どこかに行ってわからなくなった。何処かに落としたのかと床の上を見回すが、そこいらに落ちてはいない。

確かに先刻そのページの紙を見てパソコンの前にもってきたつもりなのにである。今回はよくよく探したら別の書類の中にはさまれていたのだが、私にはこういうことがよくある。

どうも一瞬狐につままれたような不思議な感覚となる。私がぼんやりとしているせいかもしれないが、こういうことが一日に何回もは起こらないが、一週間とか一か月には必ず何回か起こる。そのうちに探し物は出てくることもあるが、わららずじまいになることもある。そしていつか思わぬときに思わぬところから出てきたりする。

ある種の傾向をもった人によく起こるのかもしれない。そして私はそういうことをよく起こすタイプの人間なのかもしれない。

そういう観察をする人はいないのであろうか。少なくとも私はそういう風な経験を書いたエッセイは読んだことがないが、普通の人に頻繁に起こることなのだろうか。

原発の廃止を!

2014-12-11 11:47:57 | 日記
自民党が300議席を越えそうだという。

残念ながら、新聞の予想はほとんど正しいのでその通りとなろう。それで解せないのは原発は即廃止した方がいいのにそれが票にならないことである。

福島で選挙の大勢がどうなっているのかしらないが、原発の廃止は多分政治の話題から外れているのであろうか。即廃止ではなくても自然エネルギーの電源の開発をしていき、徐々に原発依存を止める方向に行かなくてはならない。

これは合理的に考えることのできる人なら、だれでも思うことだが、それはどうもあまり浸透しない。人々がどうでもいいと思っているとは思わないが、結局はどうでもいいと思っているのではないかと判断してしまう。

鹿児島県の川内原発は来年早々にも稼働しそうである。自分のところは原発事故を起こさないだろと思っているとすれば大間違いだというのはわかっていそうなものなのに電力会社からのお金が落ちることが大切なのであろう。

一時はそれで潤うが、一度事故を起こすと目も当てられない。要するに人間その日暮らしなのである。先のことまで考えるのが本当の政治家ではないのか。





ベルリンの壁のかけら

2014-12-11 11:21:00 | 日記
先日、NHKの「ニュースで英会話」を見ていたら、司会の女子アナがそのころ中学生だったが、社会科の先生がベルリンの壁のかけらをお土産に買って帰って見せてもらったと言っていた。

そしたら、「その壁にはアスベストが含まれていて危険なものだったんですね」と岡部解説委員が付言されていた。

私の判断だが、もちろんその壁のかけらをいつも触っていたりすれば、あまり健康にはよくないだろうが、一瞬くらい触っても健康に問題はないであろうと思ったが、本当はどうなのであろうか。

よく放射性物質に汚染された魚を食べたらという話がある。そういう食物を常食にするということはよくないことは誰にでもわかる。それと高度に汚染していればもちろん論外なく問題であろう。

しかし、許容される基準量のぎりぎりくらいの汚染食物を1回くらい食べたくらいではどうってことはないと思っている。だが、それを何回も食べると問題になってくる。

注釈の多い文章は悪文?

2014-12-10 14:08:50 | 日記
注釈の多い文章は悪文なのだろうか。

私は別にそう思ったことはない。これは若い大学院生の時代に指導教官が私たちの書く論文にコメントを脚注として結構多く挿入された経験を持つからである。

第一、文科系の書籍とかだと注釈が多くついているのではないだろうか。本文に書くほどではないことでやはりちょっと注意をしておく必要のある事項を脚注に書くというのはあると思う。

それとも理系の論文とかでは脚注を書くことをあまりしない方がいいという教えでもあるのであろうか。それがわからない。

山本義隆氏の著作等でも長い脚注がつくものが多いのではないだろうか。もし脚注が長すぎるならば、付録とか補遺にまわすことも考えられる。

私も自著『四元数の発見』で付録に面倒な計算を回したという経験をもつ。本文はできるだけ話の筋を展開するようにして、計算のようないわばテクニカルなことは付録に回した。

それが親切だったかどうかはわからないが、話の筋と詳細な計算とは二律背反するような気がする。

現在準備している「余弦法則と正弦法則」の原稿にしても関連のサイトを見ていると話の筋がよくわかるサイトとそうではないが、計算が詳細なサイトとがある。

よく読んでわかりやすいように書くというのはなかなか難しいものである。









講演とユーモア

2014-12-09 13:02:58 | 日記
ノーベル物理学賞の赤崎勇、天野浩、中村修二3氏のストックホルム大学での講演のことが新聞に出ていた。

赤池先生は自分の名前の赤池の赤はredを意味するが、青(blue)のLEDのことを話しますと話し、天野さんは自分なら窒化ガリウムの結晶をつくれると勘違いをしたためにきれいな結晶がそれも古い機械で温度が十分上がらない状態で実験したときにできたと話したという。

中村修二さんは日本の学会で他の材料の会場には数百人の聴衆がいたのに自分たちの学会の会場には赤池、天野両氏と自分くらいしかいなかったと初期の段階の学会の様子を話して会場を沸かせたとか。

要するにまじめに自分の業績を話すだけでは十分ではないのだ。どこかにちょっとしたユーモアをはさむことが必要不可欠なのである。

私が大学院で教わった相対論の数学が専門だった竹野兵一郎先生はテクサスの重力崩壊の国際学会で重力崩壊というテーマで話したときに、話を終えるときに自分が崩壊してしまう前に言って講演を終えた(before collapsing myself,I will stop my talk)と言ったと聞いた。

最近では誰かそういう講演のアドバイスをしてくれる専門家がおられるということは想像に難くはないが、それでも自分でそういう発想ができるともっといい。

(注) 間違って赤崎 勇先生を赤池さんと入力していた。大学の寮で御一緒だったという飯尾先生がコメントで間違っていたことを指摘して下さった。

赤池さんというのも数理統計学でとてもすばらしい業績を挙げられた先生がおられたので、混同をしてしまった。

謹んでお詫び申し上げます。

石鹸交代

2014-12-09 10:56:48 | 日記
政権交代という言葉が流行ったのもう5、6年も前のことになってしまったが、そのころ松前町の中川原というの町内での演劇で「石鹸交代」という寸劇を見た。

固形石鹸を使っているのは私のような年寄りであり、若い人は液体のソープを使っているという話題の寸劇であり、まだ政権交代という語が目新しかったころのことである。

学校や病院とかでも液体のソープを使うのが普通になった。手術をする医師が手を洗うのはまだひょっとしたら、固形の石鹸を使っているかもしれないが、若い夫婦の家庭では固形の石鹸は使われていないらしい。

毎朝、固形石鹸で手を洗いながら、この寸劇をいつも思い出している。

数学・物理通信4巻8号の発行

2014-12-08 19:23:14 | 日記
数学・物理通信4巻8号の発行を年内にはするつもりであったが、年末近くになると考えていた。しかし、この発行の時期が早まりそうである。

それは昨日2編の投稿があった。すでに1編の投稿を頂いていたので、併せて4巻8号を発行するに十分なページ数になったからである。

まだすぐには発行とはならないが、それでも1週間後くらいを目途に発行できるのではないかと密かに考えている。

編集後記を急いで書いたのだが、それで振り返ってみると、この4巻8号が発行されると通算で33号を発行することになる。

こういうなんでもないサーキュラーでも、続けているうちにある種の権威をもちそうになるから危ない、危ない。気を付けて権威主義にならないように、心すべきであろう。

(2014.12.11付記) 

すぐにでも4巻8号を発行できそうだったが、投稿された方が一人自分の原稿をよく検討したいと申し出られた。それで編集段階ですでにその原稿を取入れてあったが、削除することになろう。やはり私が書くことを予定していた二つの原稿を書かないと4巻8号を発行できそうにない。

しかし、なんとか一つのエッセイは入力があらかた済んだ。もう一つはまだだが、こちらの方は入力済のエッセイと比べれば、長さが半分くらいであるので、2,3日で入力できるであろう。わからないのは文章の検討にどれくらい時間がかかるかである。いずれにしても年内発行を目指すことに変わりはない。

さぼってしまった

2014-12-08 13:37:04 | 日記
先週の土曜の午後は教育会館のタダ塾に詰めている必要があったのだが、さぼってしまった。

実は正弦定理と余弦定理の関連を議論したエッセイを書いている途中だったので、そちらのほうを優先してしまった。

先々週に直方体の箱の展開図が小学6年生のしていたプリントに出ていたので、空箱をもって行こうと思っていたのに。

そして直方体の箱を展開するとどんなに表されるかを実際にやって見せようと思っていたのにである。まあ、そのことの実演は来週にでもできるけれども。

それで土曜日にあらかたエッセイを書き上げて、日曜日にそれを見直すことをコタツでした。やはり見直すといろいろ気がつくところがある。

まだlatexでの入力はしていないが、今日これからの作業である。それ以前に加比の理のほうは書き上げているが、これだってlatex入力はまだだ。


Gesetz ist m"achtig,・・・

2014-12-08 13:20:00 | 日記
朝日新聞に最近漱石の書いた「三四郎」が何十年振りかに連載されている。

それを読むともなく読んでいて、ふと末尾を見たら、欄外にGesetz ist m"achtig, m"achitiger ist die Noth. (
Goethe) 「法は有力なり、必要はさらに一層有力なり」(ゲーテ)というような格言か何かが毎回書かれていたとあった。

新聞に書いてあったのを紙片にかき取って持ってきたつもりだったが、カバンの中を見てもその紙片がない。それで・・・のところを忘れてしまった。

明日にでも紙片をもって来て空所を埋めるので待ってほしい。ということで、本日(12.9)・・・のところを埋めました。

昨日の新聞の俳句短歌欄に「学問はどこまでも恋夜長かな」福沢義男(伊賀市)というのもありました。「未知なるものへの恋と思えば学問は楽し」と選者の長谷川櫂さんは評されていました。

いつもの夢

2014-12-08 13:01:08 | 日記
昨夜はあまり寝付けなかったので、朝がなかなか起きられなかった。そのせいで朝方にいつものような夢を見た。大抵は私がどこかへ行こうとしているのだが、行き着けないという夢である。

今朝の夢は同じようだが、若い知人の結婚式に招待されてその結婚式が午前10時15分から始まるのだが、なかなかその会場に行けつけないというものであった。

その知人は若い優秀なドイツ語学者であり、その夫人となった女性も彼らが結婚する前から存じ上げている方であった。実際にはその知人の結婚式には招待をされて出席したのに、今頃なんでそんな夢を見たのか。

それに彼らにはすでに二人の子どもさんまでおられる。多分夢は彼らのことではあるまい。私のいつもの夢と同種のものであるはずだ。

私はなんらかのまだ果たしていない仕事か何かがあると潜在意識下で思っているらしい。それがいつもどこかに行こうとしながら、到着できないという夢を見させるのであろう。

『四元数の発見』を書き上げたとき、ちょっとその一部を達成したようにも感じたが、それもわずかの一瞬で私の心の中ではそれくらいでは達成感を感じないような何かがあるのだと思われる。それが何かは自分でもわかっていない。