映画「ひろしま」を昨日見に行った。
1953年(昭和28年)の映画なのだが、最近まであまり顧みられなかったらしい。ところがこれが最近見られるようになった。
私は広島で学んだから、原爆ドームなどはよく知っている。しかし、この映画は私が広島に住むようになった時期よりも5年も前の制作である。
大勢の広島の人々が文字通り、大人も子どももこの映画に協力して、出演をしている。そして原爆投下後の悲惨さを再現しようとしている。
しかし、私はその映画ですらも、本当の悲惨さは再現することはできなかったと思う。もちろん、その悲惨さを現実に起こった通りに再現することが映画でもなかろう。
それにしても、その努力を評価できると思っている。そして、この映画を多くの人に見ていただけたらと願っている。
フリクション・ボールの発明をしたパイロットの技師の一生が先週だったか、NHKの「逆転人生」で放映されていた。
パイロットは昔は万年筆のメーカーだったが、万年筆は使う人がすくなくなり、いまではボールペンのメーカーである。
その技師は花形の第一開発部には属さず、やや日陰の第二開発部で雌伏35年だったという。色の消えるインクを発明するが、鳴かず飛ばずで35年だというからなんでそういう人生を歩むことになったのか。
会社の幹部がその技師をどう評価していたのか気になる。それでも現在ではこの摩擦熱でペンの頭についたゴムで消せば、きちんと消えるボールペンはもう大人気という。
このボールペンのおかげでパイロットは生き返ったといっても言い過ぎではなかろう。
そして、この摩擦熱で消えるインクは―20度まではそのインクが現れるということはないという。
このブログで紹介をしたことがあるが、このペンの存在を知って、N先生がこのボールペンを使うようになったと聞いた。
私は原稿の校正のときに赤いフリクション使っているが、これを数式の計算をするときには使っていない。もちろん、黒いインクのフリクションもあるので、それを数式の計算用にも使うことができる。
私などは数式の計算でミスをよくするので、これからは使ってもいいと思っている。
秋晴れて塔にはさはるるものもなし 子規 (1894)
clear autumn sky
nothing is touching
the tower
これはE大学校友会が配布してくれたカレンダーの写真に載っていた子規の句である。1894年(明治27年)の句であるから、いまから120数年前の句である。
写真はここには載せられないが、松山市民の人なら、通称、中村城といえば、ああ、あれかといわれる、松山総合公園の西洋風の城の写真が載っている。背景は秋かどうかはわからないが、雲一つない青空である。
ここへは私も1度か2度は行ったことがあるが、私たち松山市民がそんなにたびたび行くところではない。
「どこで読んだのか」がわからない。
武谷三男の文章で、科学はその時点でわかっていることもあるけれど、まだわからないことをもっているので、将来はわかることも予想してなんでも考えなくてはならないというような趣旨の文章だったと思うのだが、それが何で読んだのかわからない。
実際にこういう風に書かれてあったわけではないが、私の解釈は上に書いたことである。
徳島科学史会のS先生の勧めで、11月に徳島である、日本科学史学会の西日本大会の発表を申し込んだのだが、それが「武谷三男は科学至上主義者か」というタイトルである。
いや実はこれは私の考えではなく、朝日新聞の記者Nさんから私たちへの問いである。もっとも、これはエコロジストたちの見解であったのかもしれない。
その文脈を知らないのだが、最近、宇宙物理学者の池内了さんが宗教学者の島薗さんとの対談でも武谷は(自然)科学至上主義者だとでもいうようなことを言われているらしい。
対談なので、池内さんも口が滑ったのかもしれないが、私自身はそうではないと考えている。武谷は科学至上主義者ともとられるような文章を書いたりしているので、そうとられる恐れは十分あるが、科学至上主義者ではないと思う。
そのことがよく表れているのが、彼の著書『原水爆実験』(岩波新書)である。彼は合理主義者であるが、がちがちの合理主義者ではない。
『原水爆実験』は興味深い書ではあるが、武谷三男著作集にも収められていないし、武谷三男現代論集にも収められていない。そういう理由で武谷の重要な側面が見落とされているような気がする。
もっとも『原水爆実験』はそれほど読みやすいわけではない。
昨夜のNHKのテレビでちらっと見たのだが、AIが文系と理系の境をなくしていくという風な番組だったらしい。
そういえば、岩波のPR雑誌「図書」10月号にもサイエンスライターの渡辺政隆さんが『二つの文化をつなぐ」というエッセイを書かれており、その冒頭部にイギリスの作家C.P. スノーの本『二つの文化と科学革命』(みすず書房)のエピソードを書いている。
一言でいえば、この世には二つの世界があるということだ。
昨日、松山市コミュニティセンターで前進座の「ちひろ」を観た。
ちひろといってもピンとこないかもしれない。画家の「いわさきちひろ」さんの若き日を描いたドラマである。
私が「いわさきちひろ」さんと言って思い出すのは松田道雄の岩波新書『わたしはあかちゃん』『わたしは2歳』に挿絵を描いた人という知識である。
そのころの松田道雄の『わたしはあかちゃん』『わたしは2歳』はすばらしい本だった。これがいつのことだたったかよく覚えているわけではない。
それでも大学に入学したころだから、1958年か1959年くらいのことであろう。これはまず大阪の朝日新聞に連載されたコラムであったと思う。
あまりに評判がよかったために後で岩波新書になった。この2冊は大事にもっていたが、1,2年前に孫が生まれたときに、東京に住む子ども夫婦に譲って、送ってしまったので、もう手元にはない。
松田道雄の話の方に焦点が行ってしまったが、その挿絵を描いた人が「いわさきちひろ」という人だとは知っていたが、その人がどんな人生を送った人なのかは全く知らなかった。
生まれは私の母よりは後の人だが、私よりは前の生まれの人である。私と比べれば、14,5歳も年上のひとだろうか。
彼女の描く子どもとか赤ちゃんの絵はほのぼのとした香りが感じられる。人間を見る目がとてもやさしいという感じがする。
残念ながら、ちひろさんは55歳の若さで亡くなったという。
NHK「プロフェッショナル仕事の流儀」の料理人の肇さんの放映を見た。
とても感心させられたことはリピーターの方に2度と同じメニューを出さないということとか、デザートにいたるまで自分の納得ができるまで突き詰めるという姿勢である。これはちょっと真似ができない。
それもゲストがすでに来店されていて、食事が進んでいるのに、なお、自分の納得を求めていたことだった。合言葉は「食は希望だ」という。
料理を食べて下さる人に希望を与えるというのは簡単にできるようにことではない。すごい料理人がいるものだ。
この方は数学がよくできたために大学は工学部を卒業して一般の会社に勤務されたのちに自分の求めるところにしたがって料理人になったという。
納得ができるまでメニューを何日も何日も考えられるという。その緻密さはなかなか見倣うことができない。ミシュランの三ツ星レストランの称号は数年で得たが、その後がどうも自分らしさがないというかそういうことで悩まれたという。
日本人好みの道を究める人という印象である。しかし、これは肇さんの生まれつき持っている性質であろうか。ここまで突き詰める人を私はしらない。
1週間くらい前に大学の生協から、注文していた上の書をもらって帰ったのだが、しばらくはまったく見る暇がなかった。
昨日の午後はすべての当面の作業が終わって、心の余裕ができたので、少し見てみた。まだ読むほどの準備はできてはいない。それでちらっと眺めただけだが、なかなか興味深い書である。
これはテクストではないのであるが、それでもテクスト風のところもある。
第4章は「ハイゼンベルクの訪日」となっている。私は彼の1967年の訪日のことだと思って読んでみたら、そうではなくて1929年のハイゼンベルクとディラックの訪日のことであった。
前々から準備をしていた、数学・物理通信9巻7号を発行した。
いつものように肩の荷を下ろしたので、ちょっと放心状態である。
すくなくとも今日の午後はなにか積極的に仕事をする元気がでない。すくなくとも明日以降にしたい。徳島科学史雑誌への投稿もすんだ。
この投稿があったので、数学・物理通信の9巻8号の発行はできなかった。Sさんからは投稿をいただいていたのに。私も徳島科学史雑誌の原稿にとりかかる前に、Pauli行列の導出の原稿を書いていたのだが、これはおよそ出来上がったのに、ちょっとうまく書けないところがあって、まだ完成していない。
これができていれば、9巻8号の発行もできたかもしれない。しかし、無理に発行することはできなかった。
ローマ字変換のわるさが最近ひどい。
それで作業の能率が大幅に落ちている。ローマ字入力を使っているのだが、なかなか日本語に変換してくれない。もちろん、英語やフランス語またはドイツ語の入力もしばしばするのだが、それでかどうだか変換能率がわるい。これは候補の中に自分の望まないもの英語ばかりだということも多い。
それに入力行がどこかへとんでしまったりする。それで原稿をつくってもよく読み込まないと思わぬところにおもわぬ語が入っていたりする。
だいたい原稿はよく読むほうだが、それでも変な風に思わぬ行に入力していたりして、能率がおちること甚だしい。