毎週土曜日の午前11時から、テレビ東京・BSジャパンで放送されている「田勢康弘の週刊ニュース新書」の2011年2月19日の放送に、農相の鹿野道彦さんが出演し、元代表・小沢一郎氏との「知られざる経緯」として、1997年末の新進党党首選→小沢氏ぶち切れ解党のビデオが放送されました。元日経新聞政治部記者で、司会の田勢康弘さんは、山形の人(中国黒竜江省生まれて山形に引き揚げ)ですので、鹿野さんと同郷ということになります。
[画像]珍しくセミカジュアル姿の鹿野農相(テレビ東京さんの映像からキャプチャさせていただきました、以下同)
[画像]再現VTRがスタート。自民党時代の鹿野さん。この場所は清和会の事務所があった赤坂プリンスホテル旧館だと思います。
[画像]自民党幹事長時代の小沢一郎氏、1990年ごろ?の映像
[画像]自民党にかわる政権担当能力可能な政党として細川・羽田内閣退陣後に「新進党」結党。鹿野さんは清和会→新党みらい→新進党、小沢さんは経世会→改革フォーラム21(自民党羽田派)→新生党→新進党に合流しました。
[画像]新進党結党。1列目左から、細川護煕元首相、海部俊樹元首相、石田幸四郎元総務庁長官、鹿野道彦・現農相、2列目に野田毅元建設相、中野寛成・現国家公安委員長、小沢一郎氏、3列目には神崎武法元郵政相ら閣僚経験者がずらり。
[画像]1996年の第41回総選挙で敗北した新進党を建て直すために1997年の党首選(代表選)に立候補を表明した鹿野道彦さん。
[画像]当初はダークホース的存在だったが、選挙戦中に支持を伸ばし、党首選当日を迎えた鹿野さん、後ろ左は北側一雄・現公明党副代表。
[画像]結果は鹿野182票、小沢一郎230票。大善戦。
[画像]左から、握手を求める鹿野候補、加藤六月元農相、石田幸四郎元総務庁長官、小沢一郎党首。
[画像]小沢党首の強引な党運営に対して、反省を求める党の意思を示せたことで、笑顔で小沢党首の腕を持ち上げる鹿野さん。握手を見守るのは米沢隆・元民社党委員長。
[画像]小沢辰男・元厚相の音頭取りで、政権交代に向けて「新進党バンザイ」をやる、小沢氏、鹿野氏ら。後ろは高木義明・現文科相。
しかし・・・
[画像]降壇の直前に、鹿野さんの方を振り向き、にらみつけるようなそぶりを見せた小沢氏。
そしてわずか9日後・・・小沢一郎が選んだのは「融和」ではなく、「純化」だった・・・
[画像]両院議員総会を突如開催し、新進党解党を一方的に「報告」する小沢一郎党首。右上の切り込み画面(ワイプ)は、VTRを見るスタジオ内の鹿野さん。
[画像]両院議員総会で、新進党解党に反対する草川昭三・現公明党副代表(国会最年長議員)=背中。その後ろには、岡田克也さん。執行部側には野田元建設相、西岡武夫・現参議院議長(元文相)ら。
[画像]両院議員総会終了後、報道陣のインタビューに答える岡田克也さん。
[画像]両院議員総会後、報道陣にモミクチャにされる、鹿野道彦・前党首候補。鹿野氏の隣は、日経・山口真典記者。
[画像]VTRは最後は、小沢氏を「壊し屋」と表現して終了。まあ、こうまとめるしかないでしょう。
[画像]スタジオで、新進党解党の経緯をきかれる鹿野農相。
1997年の新進党解党と、2011年の渡辺浩一郎・笠原多見子・川島智太郎氏ら16人の民主党離脱届提出はかなり意味合いは違います。
まず、新進党は、閣僚経験者を大量に擁しながら、野党の経験しかありません。政権は、村山・橋本両首相の自民党・社会党連立内閣ですから、政権政党だったことは1日もありませんでした。それに対して、2011年の民主党は政権政党です。また新進党は結党時、小沢氏は幹事長(海部俊樹党首)で、その後、党首になり、解党時まで、党首か幹事長のいずれかにいましたが、2011年の民主党では一兵卒に過ぎません。
このように新進党は多くの閣僚経験者を有していましたから、消費税引き上げや山一・拓銀ショックによる平成不況のなか、第42回総選挙を闘っていたら、2000年には政権交代できていたかもしれません。しかし、小沢党首と側近らの強引な党運営に疲れて、かつ導入されたばかりの小選挙区の特徴をまだよく体感していなかったことなどから離党者が相次ぎ、また、自民党による一本釣り工作で、自民党に復党・入党する人が相次ぎました。また国会運営では、住専処理問題での国会内ピケ戦術が極端だったのと、自民党の亀井静香氏らによる、「新進党は創価学会だ」キャンペーンで、創価学会の秋谷栄之助会長が国会に引きずり出される事態になったことなどから、求心力が大きく低迷していました。それでも新進党を建て直そうとしたのが鹿野さんの立候補で、当初は大差で敗北すると思われていたのが、岡田克也さんら政治改革議員や民社協会、旧日本新党系議員らの運動が急浸透して、あわや小沢党首落選というところまで追い上げました。これに驚いた小沢氏が、「純化路線」ということを言いだし、地方政党「公明」や、民社協会に解体を迫ったところ、受けれ入れられなかったので、新進党を解党することになりました。ということは、解体を拒否した、地方政党「公明」の判断は正しかったということになります。
こういった歴史的経緯は、多くの議員がトラウマであり、語りたくないようで、あまり表に出てきません。この悔しさを頑張る力に変えられたのは、選挙も強く、年も若かった岡田克也さんで、まっすぐにひたむきに政権交代まで走り続け、この局面でも菅直人・総理の総辞職も解散もない、と断言できる政治家になります。一方の鹿野さんは、第44回郵政選挙で、完全落選してしまい、4年間の浪人を経て、ようやく第45回総選挙で国政復帰し、衆院予算委員長、そして21年ぶりの農相(1992年の総務庁長官以来18年ぶりの入閣)として政権に参加しました。
新進党解党については、過去にも、以下のエントリーなどでまとめています。
新進党解党史 辛くても書かねばならない
岡田vs小沢、“天命”の最終戦がスタート 新進党解党から13年
最後に触れたいのですが、山一證券社長の「悪いのは私たちですから。社員は悪くありませんから、どんどん雇ってやってください」という野澤正平社長の号泣は覚えているけど、新進党解党はほとんど覚えていないという人は、それはテレビの見過ぎです。わずか14年前の話です。ただ所属議員が誰かということを見ていくとグチャグチャになってきますから、一つだけ歴史の教訓だけ、知っていて欲しいのです。「日本を衰退させたのは、小沢一郎だ」ということです。