渡辺恒雄の後継者、宮崎信行の国会傍聴記

政治ジャーナリスト宮崎信行、50代はドンドン書いていきます。

野党の達人、中曽根康弘さん「民主党の完熟には5年かかる」「国民にも野党にも忍耐する義務がある」

2011年02月07日 05時02分16秒 | その他

[写真]元総理・中曽根康弘さん(同氏ホームページから)

 最近コメント欄が「炎上」ならぬ「混乱」になって、かなり疲れています。このブログを客観的に見てくれている旧い友人によると、1月31日の「小沢起訴」から「タガが外れた状態」になっているようです。しばらくコメント欄は閉じます。とにもかくにも、3月末に予算関連法案を通す方策をいろいろ考えています。衆・予算委一般的質疑は、歳入のはなしと歳出のはなしがごっちゃになりがち。自民党の田村憲久さんが、「マニフェストの問題は歳入なんですよね」と言っていて、センスの良さ、厚労委員の長さを感じました。議会政治先進国では歳出委員会と歳入委員会が分かれていて、また「歳出法案」など議案そのもの(審議の入り口)が分かれている国の方が多いです。日本の国会も見直すべきです。基本的には予算委の下に「歳入小委員会」をつくり、予算委本体で歳出・歳入をやる方がいいでしょう。もちろん、総務委・財金委が「歳入委員会」という考え方もできます。ただ予算委で区別できていない議員が与野党とも大半です。あまりにもレベルが低い!

 ◇

 さて。

 私は原理主義者と言っていいほど、前半生を「政権交代可能な二大政党(+α)デモクラシー」の確立を人生の目標にしてきました。元自民党の与謝野馨さんの税と社会保障の一体改革大臣としての入閣を歓迎しているのは、70歳を超えていることと、中曽根康弘元首相の直弟子だからです。中曽根さんは野党の達人で、「初当選は民主党」ですし(後述)。

 ◇

 中曽根さんは、国会閉会中に、「週刊ポスト」で、インタビューに答えています。その中から民主党、自民党、双方の支持者に読んでいただきたい部分があります。ねじれ国会の中での安定感ある知見を感じました。

[週刊ポストから部分的に引用させていただきます。はじめ]

(前略)

 --政権交代から1年半も経って「仮免許だから」というような民主党政権では心もとない。

 中曽根

 日本の政治は二大政党制になったけれども、政策的な二大政党制はまだ成就していない。特に外交においては、あまりにも長く野党にいた民主党は、この分野ではまだ処女性が強く、うぶな面がある。鳩山外交から今日まで民主党外交は失敗ですね。
 それが国民から見ると落ち着きがなく不安に映る。鳩山政権時代には、言葉が走ってしまって現実がついてこなかった
 では菅政権はどうかというと、その後始末に追われているだけで新しい菅外交というものは見えないですね。主体性が見えず、おっかなびくびくやっている。それが国民に政権の脆弱性を痛感させる結果になっている。

 --二大政党制は失敗だったという見方もある。

 中曽根

 政治を訓練する期間、訓政期という言葉がありますが、まあ国民も野党の自民党も、もう少し忍耐強く民主党が完熟するのを待ってもいいのではないですか。鳩山政権は、初めて政権を持った野党がどういうものかを見せつけましたね。直観的な発言をバンバンやって、後始末に困ってしまった。菅政権になると、今度は冒険的な発言をまるでしなくなった。追われてばかりいて、押し返す力がない。
 あと1年くらい経てば、政権も3年目で、落ち着きと慣れが出てくる。そうすれば独自の戦略も生まれてくるかな。しかし首脳部の力量不足が目につく。

 --うぶな鳩山政権が国民を不安にしたのは事実だが、かつての自民党政治に回帰しようとしている今の菅政権にも、政権交代を支持した国民は失望している。

 中曽根

 処女性の魅力を失ってはいけないが、しかし未熟さを早く脱却しないと国民に見捨てられる、そういうジレンマですね。
 しかし、そう短気になってはいけないんです(笑い)。この選挙制度、政治制度というものが成熟するには3年、5年はかかります。新しい路線を目指して進むという以上は、国民にも忍耐する義務があると私は思いますね。

 --民主党政権のどこが新しいのかが見えない。

 中曽根

 自民党政権との違いということならば、自民党が官僚寄り、財界寄りであった点を是正しようということでしょう。最初は極端にやろうとして官僚からも財界からも見放された時期が続いた。それを反省して修正し、その修正が続いているのが今の段階でしょうね。しかし、修正の時代は、長く続く、太く強靱なものを国民に示すというところまでできない。そこがこの政権の弱みです。(略)

(中略)

 --(略)日本に二大政党制が根付く可能性はあると思うか。

 中曽根

 ありますね。今はそこに行く過渡期でしょう。だから早く民主党は完熟する必要があるのです。

 --一方では、大連立も取り沙汰されている。

 中曽根

 考えや言葉が専攻し過ぎている。現実の必要性から出ている言葉ではない。大連立の理由にされている「ねじれ国会」などは政治の常道で、これまでいくらでもあったころです。
 例えば、憲法改正とか経済的危機を克服するために大連立というのならあり得る話だろうが、そういう現象もないのに言葉が先行するのは政治的に未熟な発送ですね。

(後略)

[引用おわり]

 ◇

 中曽根さんが野党経験が豊富で、「初当選は野党・民主党だった」と書くと、何のこっちゃ?と思う方が大半でしょう。

 中曽根さんは、現行憲法での初めての国会選挙(第23回総選挙)に、28歳の若さで打って出ました。ちなみに、同じ高崎周辺を地元とする、年長の福田赳夫さんは大蔵省主計局長を務めてから、第25回総選挙で初当選するので、年齢と当選回数がねじれて、両者の争い(上州戦争)はややこしくなります。ご存じのように、福田さんが先に総理になりますが、「三角大福」が激戦で消耗してくれたおかげで、中曽根さんは5年間の長きにわたり、総理をやれました。

 第23回総選挙は、女性も初めて参加し、「戦後ニッポン」のホイッスルが高らかに鳴った総選挙であり、内務省を辞めて、出馬した中曽根さんは政治センス・歴史観があったということでしょう。政権交代の夏(第45回総選挙)をテレビで見て、それから民主党に公募資料を送った2000人近くの人が、第22回参院選で落選したり、統一選で苦労したりしているはある意味では当然だ、と私は思います。28歳の中曽根代議士は、既に総理大臣で、新憲法で初出馬した吉田茂と同期なのです。

 中曽根さんの「民主党公認」はもちろん、今の民主党とは違う政党で、芦田均が党首でした。芦田は後に首相になりますが、衆院憲法調査委員長として、日本国憲法第9条第2項に委員長職権で重要な法案修正をした偉人です。芦田は第21回総選挙で無所属(非翼賛議員)として当選しており、非翼賛議員からは、後に多くの首相が出ています。三木武夫首相まで数えると、その30年以上後まで総理を輩出したことになります。この辺にも歴史観・政治センスが政治家に必要なことを感じます。例えば、自民党の逢沢一郎さんの祖父、逢沢寛さんも非翼賛議員。逢沢国対委員長は先週のツイッターで、「理事会のネット中継」に前向きに取り組む考えを示しており、ぜひ実現して欲しいと思います。

 中曽根議員は、民主党の次に、「苫米地訴訟」で有名な苫米地義三総裁の「国民民主党」に。そしてその次に、不屈の外交官で杖と共に国会議事堂に進んだ重光葵を党首に仰いだ「改進党」。そしてその次に、公職追放が明けて軽井沢から東京に戻ったのに、吉田茂に首相の座を明け渡してもらえず宙ぶらりんの鳩山一郎率いる「日本民主党(鳩山民主党)」へ、と渡り歩きます。そして、1955年の保守合同(自由党と民主党の合併)で自民党に入り、勤続8年で初めて与党を経験します。その後は連続38年間与党で、総理もやりました。1993年8月の第40回政治改革総選挙で自民党は第一会派ながら下野します。細川・羽田内閣(1993年8月~1994年6月)では下野しましたので、合計9年間の野党経験があります。

 その8年間の野党暮らし。中曽根さんは、南極を訪問したり、原子力予算というものをつくったりして、さっそく目立つ存在だったようです。2005年の「9・11」の大ショックを受けた岡田克也さんは中曽根さんから「kill the time」のススメを受けました。岡田さんは、それから3年間、全国を2周以上周り、気候変動枠組み条約のインドネシア会議に「NGO民主党」として参加したり、米中の人脈を太くしたりしました。現在幹事長補佐に起用している1期生は、3年間の副代表時代に応援演説をしながら、後援会作りを観察していたメンバーです。

 中曽根さんの野党時代の議事録を調べてみました。

 国会の会期で言うと、第1回特別会(1947年5月20日召集)から第22回特別会(1955年3月18日召集)まで。それと第127特別会(1993年8月5日召集)の首班指名から第129通常国会(1994年1月31日召集)まで。通常国会で数えると、9つの通常国会を野党で過ごしています。

 それで、第1回国会から第22回国会までの中曽根さんは188回、国会で発言しています。

 中曽根さんの記念すべき国会での初めての発言は、第1回国会の衆院財政及び金融委員会。

 中曽根さんは、「預金の増強をはかるということが、インフレーションを克服する上に相当重大な意味をもつておると思いますが、最近日銀券の増徴の趨勢を巷間でいろいろ取沙汰して、あるいは政府においては、社会党はかつて唱導したところがあるので、新円に手をつけるのではないか。あるいは登録するのではないかというようなデマが横行して、若干不安な状態があるように考えられます。こういうことは政府においては絶対にないと確信しておりますが、政府としてもう一回そういうことを確認する必要があるのではないか。政府の御所信をお伺いいたします」と質問しています。何か今と似たような議題ですが、社会党vs自由主義政党という対立図式の中で、自由主義陣営の野党だという矜持を感じながら、「政府の御所信をおうかがいします」と質問しています。

 また、これは高崎では有名なのかもしれませんが、驚くべきことに、中曽根さんの一つ前に発言した人は、大蔵省の福田赳夫さん(政府参考人)なんですね。中曽根さんへの質問の答弁者は小坂善太郎・大蔵政務次官でした(1 - 衆 - 財政及び金融委員会 - 4号会議録 1947年昭和22年07月11日)。

 第22回特別国会では参議院の議事録に名前があるので、「あれ間違えた、もう与党の大臣だったのかな」と思ったら、やはり野党でした。政府本予算の共同修正者として、衆院段階での修正者として答弁に立っていて、冒頭、「どうもふなれでありまして、御満足行かないかもしれませんが、御了承願います」とかわいらしいことを言っている。(第22回国会  参 ・予算委員会  33号会議録 1955年(昭和30年06月25日)。

 「バカヤロー解散」のときには、懲罰委員会で発言。総理を衆院議員として懲罰委で裁くことの正当性を主張しています。30歳代前半で懲罰委でしゃべれたのは、やはり小さい野党にいたからなんだと思います。

 そう言う意味では、先日の常任幹事会で第46回総選挙の候補者に内定した北海道5区の中前茂之さん、岡山3区の西村啓聡さん、熊本3区の本田浩一さんの3人は、ラッキーなのかも知れません。

 中曽根さんが初当選、第1回国会で最初に質問に立ったのが財金委員会とはうれしかったです。私の大学ゼミ同窓生で唯一の国会議員である小山展弘君が初登院から今通常国会までの1年半にわたり財金委員をやっているからです。今国会の財金委員は憲政史上最強のプレッシャーがかかるのは必定。衆院側とはいえ、出口(参院側)を見通して、法案を整えなければなりません。30代前半にして老獪ゆえ、先輩たちに「かえって心配」とすら評価される(僕は全く心配していませんが、)小山展弘君が日本を代表する政治家に飛躍するチャンスを迎えています。

 ◇

 だいたい、北橋健治・北九州市長だって、河村たかし・名古屋市長だって、新進党・民主党で連続当選し続けた衆議院議員なんですよ。新進党のゴタゴタ、保保連合のゴタゴタで、北橋さんは民主改革連合、河村さんは自由党なんかに所属して、訳分からなくなってますが、その責めは小沢一郎被告にあります。そのゴタゴタがなければ、もっと早く政権交代できたし、こういった人材が首長にスピンアウトしてしまうこともなかったし、日本の衰退のスピードも緩くなっていたのはまちがいなし。

 報道各社の世論調査の「内閣支持率」「党支持率」「解散総選挙の時期」の項目を読んでいると、日本国民の2割前後が、「民主党を与党として育てよう」「それからは民主党と自民党を競わせよう」と考えているように感じられます。

 経済的に厳しいのは分かっています。だから、国民一人一人にとって、まさに正念場なのです。

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