【元日経新聞記者】宮崎信行の国会傍聴記

政治ジャーナリスト宮崎信行、50代はドンドン書いていきます。

仲井真弘多・沖縄県知事が普天間飛行場返還へ歴史的英断 辺野古崎沖埋め立て移転へ

2013年12月27日 15時24分04秒 | 岡田克也、旅の途中

[写真]名護市役所前で記念撮影する筆者、1998年。

 やっとのど元に刺さった魚の小骨がとれた気がします。

 沖縄県の仲井真弘多(なかいま・ひろかず)知事が、宜野湾市のアメリカ海兵隊「普天間飛行場(普天間基地)」を、名護市の辺野古崎沖の埋め立て飛行場に移す計画を2013年12月27日(金)決断しました。アメリカは数年以内に、普天間飛行場を返還する見通し。

 結果として、1997年11月の政府決定に沿った格好となります。

 鳩山由紀夫・民主党代表(ネクスト総理)が2009年7月19日、国民新党代表の亀井静香氏にせまられる格好で、思わず口をついた「最低でも県外」の発言で、迷走しただけに、一人の民主党員としてのど元に突き刺さった小骨がとれた気がします。

 沖縄本島の北部は、もともと、那覇とは違う王朝がありました。この北部地域の国政府の地域振興策により、読谷村(よみたんそん)、北谷町(ちゃたんちょう)は、商業施設が整っていますが、名護市は北部地域でも他自治体に比べて見劣りしてきたとされています。今回の名護市への負担増により、地域振興は確実であり、名護市民のみなさんは、自分たちの生活を考えて、政治行動をすればいいように、門外漢の私には感じられます。

 一方、宜野湾市にある普天間飛行場(普天間基地)は本島の交通では要衝といえる位置にあり、交通渋滞と危険性にさいなまれてきました。普天間飛行場が返還されれば、まずは道路の拡張ということもあるでしょう。開発ということになりますが、しっかりと自然もいかした素晴らしいものにしてほしいと、切望します。

 ちなみに、安倍首相は2021年度までの予算確保を明言しました。「2021年度」とは「2022年3月31日まで」のことです。沖縄では大事なことは、下1桁が「2」の年に決まると言われます。これは単純な理由で、1972年に本土復帰し、アメリカ軍基地と那覇防衛施設局(現・沖縄防衛局)と、それぞれの地主との契約が始まっているため、この更新期に大事なことが決まるとされています。

 もともと、「最低でも県外」発言のあと、アメリカに呼び出されて、1週間説明したのは、民主党政策調査会の職員と、岡田克也幹事長の秘書の2人です。かなり厳しいことを言われたこともあったようです。

 その後、岡田克也外相が「米海軍嘉手納基地への統合案」を検証。私もいまだに、2度にわたり「嘉手納統合案」が消えた理由はさっぱりわからず、いつか知りたい。


 さらに、岡田さんが幹事長に戻った後、マニフェストの「地方一括交付金」について、内閣府沖縄総合事務局から実現させることにし、沖縄県地域振興交付金が実現しました。これが、安倍内閣でも功を奏した格好になります。ぜひ、沖縄県庁の自由度100%の交付金として、2021年度以降も、どの党の内閣でも続けて考えます。止めるのは税源そのものを移譲するときだけです。

 そして、何よりも、防衛事務次官だった守屋武昌さんが自叙伝のなかで、稲嶺恵一・沖縄県知事から「守屋さん、沖縄では大事なことは20年かかるんですよ。石垣島空港だって20年かかって誰も困らなかったではないですか」と言われて怒りを持ったという話。これは防衛事務次官が上記の沖縄返還と地主と沖縄防衛局の関係を事務次官ともあろうものが知らなかったんだろうと、私は思います。4年間事務次官を務めたのですから有能な官僚なんでしょうが、事務次官在任中に歴史に名を残そうとして暴走した可能性もあります。

 やはり、20年以上かかる話は政治家がしっかりグリップして、国民が支えなければならない。


新進党きょう17回忌 2013年、赤坂プリンスホテル取り壊しで広がる青い空

2013年12月27日 13時35分53秒 | 政権交代ある二大政党政治の完成をめざして

[写真]グーグルストリートビュー(=2013年6月撮影)から、右はかつての赤坂プリンスホテル解体中に広がる青い空。

 新進党の17回忌(解党から16年間)。

 政界の回り舞台となった赤坂プリンスホテルがことし解体されました。

 写真はグーグルストリートビューで、赤坂見附(あかさかみつけ)から弁慶橋を渡ったところから。

 右は赤坂プリンスホテルがあった場所から見上げる青い空。

 左はホテルニューオータニの新館です。

 このちょっと先に、新生党本部があった「戸田ビル」があり、学生時代には週に何度も行っていた時期があります。だから、学生時代には、「赤坂見附駅」で降りたことの方が、「国会議事堂前駅」で降りたことより多かったと思います。 

 けっこう、この場所は国会議事堂から歩くと、坂を下って、さらに坂を上り、歩いて15分ほどかかります。地下鉄で移動することもできますが、アクセスとしては、黒塗りの公用車の乗ったセンセイ方が移動する世界です。

  新進党分党を党首・小沢一郎氏が一方的に発表した両院議員総会は、1997年12月27日午後1時3分から始まりました。法律上は31日に解党しています。私は、17回忌を、あす28日ととらえたい気もします。というのは、1997年12月27日は土曜日だったんですね。その晩のNHKの7時のニュースは20分の短縮版で、7時20分からは「ニュースハイライト今年を振り返る」でした。ことしも、きょう27日(金)は30分の後、7時30分から、ニュースハイライトになります。ですから、12月27日土曜日、テレビは年末特番、新聞は日曜付朝刊というタイミングで、小沢氏は解党を発表したんです。大学院生から衆議院議員になったという職歴しかない人物だから、なしえたことでしょう。

 私は新聞記者としては、12月12日に開かれた臨時国会会期末の両院議員総会(星陵会館で開催)は取材しましたが、1997年12月27日(土)は休みでした。当時は自宅(実家)に友人数人が遊びに来る予定で、実際1人は到着していたのでしたが、新進党解党後の知らせにあわてて本社に出社し長い夜を過ごしました。だから、私は解党の瞬間はまじかで見ていません。ただ、学生として新進党結党大会に参加しましたから、とてもショックでした。

 赤坂プリンスホテルは民主党結党大会が開かれた場所でもあります。1998年4月27日(火)でした。つまり、前半国会最終日に、統一会派から政党へとなったのが、「民主党」です。

 いわば、協議離婚のようなもので、今の民主党の衆院選挙区選出者は、ほぼ新進党系、オリミン系、民主党系の3つが同じくらいいますが、離婚と再婚の経緯にはあまり触れたくない状況があります。

 そのため、新進党の経緯について積極的に情報発信しているのは私だけになりがちですが、実は、議員会館内では新進党の話はよくしているというのが実態です。

 私の経験では、やはり30年間という単位で物事は忘れられがち。だから、新進党17回忌(解党16年)に、解党大会と民主党結党大会があった赤坂プリンスホテルが取り壊されたという舞台回しについては、書きとどめておきたいところです。

 赤坂プリンスホテルというと、もともと清和会(自民党福田派)結成メンバーの堤康次郎・衆議院議員がつくったものです。堤衆議院議長秘書をつとめた堤清二さんも11月に亡くなりました。赤坂プリンスホテルの経営を引きついだ、堤義明さんですが、一説によると、2020年東京オリンピック決定について働きかけをしたそうです。また、西武鉄道の外資系ファンドからの買収計画で、個人の持ち株だけでなく、西武鉄道の株を持つ法人の株主として、こまかいところをていねいに働きかけて、外資から守ったとされています。現経営陣から依頼があったようです。

 実は、民主党結党大会の当日、赤坂プリンスホテルでは、もっと大勢の人が参加したバンケット(宴会)がありました。森喜朗さんの政治資金パーティーです。記者たちも驚いていました。そして、森さんは自民党総裁・総理となり、清和会から4代連続で総理大臣を出す絶頂期を迎えました。そして、そのおごりによる自爆で、ようやく、民主党が第1次与党期を迎え、下野し、1年経ちました。

 2013年12月2日付で出た「角栄のお庭番 朝賀昭」(執筆者・中澤雄大)に、田中角栄元首相が病に倒れた時、田中家が「田中事務所を閉鎖する」ことを田中派(木曜クラブ)の総会で発表。そのため、佐藤昭子秘書と、朝賀昭秘書が事務所を探したときのエピソードが載っています。それによると、「当時せ、西武グループ総帥だった堤義明さんから「赤坂プリンスホテルの一室を提供します」との申し出もあったが、丁重に断った。ちなみに、堤さんは、今はなき赤坂プリンスホテルを福田派の「清和会」事務所に長らく提供していた」(318ページ)との記述があります。「提供する」とはおそらく無償という意味でしょうが、経世会の「筋を通す」というのはこういう意味なんだろうと考えています。バブル期には、クリスマスイブに縦に揺れたといわれる赤坂プリンスホテルも、今は昔。バブル崩壊により、政界に流入するマネーはおそらく100分の1に減り、必死に政党交付金にすがる政治となりました。ただ、それにより、ようやく民主党への政権交代が実現したのは事実。

 やはり、政治には時間がかかるのでしょう。

 1996年の日経新聞の宮本明彦記者の「アメリカ、普天間基地、日本返還へ」の大スクープから、17年。私は当時まだ大学生でした。それがようやく、きょう、沖縄県知事が代替地(名護市の辺野古沖)の建設に着手することを決定しました。普天間基地の返還までにはまだ5年以上かかるようですが、あの場所がかえってくれば、沖縄本島の交通はスムーズになり、危険性もだいぶ除去されます。北部地域で他の自治体に比べて、開発が遅れていた名護市も、地域振興につながるでしょう。

 失われた20年の出口を迎えつつあります。

 思えば、1997年11月には、山一證券が廃業し、1998年2月には長野オリンピックがありました。ところが、12月の新進党解党に関しては、なぜかリアルタイムがおぼえいない方が多いようです。後付けでいいから、知っていたふりをしてください。これから、今20歳の有権者は当時幼稚園生です。知るわけがありません。若者が新しい政治勢力に期待するのは、時の今昔、洋の東西を問いません。人として当然の摂理です。
 
 だから、これからまた十数年後に新進党解党のようなことが起こりかねません。そのときに向けて、情報量を増やしてください。そなえてください。

 若い人は、アベノミクスで景気のいい間に、経済環境を整えて、「王様は裸だ」と言える人になってください。

  どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への天職を持つのです。

 それでは、16年前の当選3回生、岡田克也さんの両院議員総会での発言を復元して、「祈り」にかえます。

【1997年12月27日の民主党両院議員総会での岡田克也さんと小沢一郎さんとのやりとり】
 
 岡田克也衆議院議員

 「
党首におたずねしたい。参院の公明が出るだけですね。分割政党は新進党と同じ規約、綱領、旧公明党系議員を除いた同じメンバーで運営されるんですね。保証されるのですね。それとも全くのクーデター、乗っ取りなのか。新進党のままの移管を約束して欲しい

小沢一郎党首

 「約束するたぐいの話ではありません。分党方針が確認されれば、あとは一人一人の議員が判断することです。みんなの意見が一致すればそうなるが、私が強制したり、保証したりする性格のものではありません」


 岡田克也衆議院議員

 「私は今の説明には納得がいきません。
新進党の分割後をどう描いていくかは党首の責任です。新進党を分割して、あとは勝手にやってくださいでは、

新進党と書いてくださった有権者に対する裏切りだ

小沢一郎党首

民主主義は十分に理解しています。 政治家は国民の負託で国政に参画しており、信念を持って行動すべきです。岡田さんのお話はよく伺いました」

【終わり】