【2014年2月19日(水)参・国の統治機構に関する調査会】
野中広務・元内閣官房長官が参考人として2時間半にわたり、質疑に応じて、「安倍首相は(憲法96条を改正しないで集団的自衛権の解釈改憲をめざしているので)せこい」、「私は(安倍自民党で)戦争の危機が迫ってきていると感じる。戦争は絶対にやってはいけない」と語りました。
その前にまず、「調査会」とは何かから。これは昭和61年改正国会法で、本会議、委員会、特別委員会に加えて、参議院だけに設けられたもので、「参院不要論」に対抗する会議体です。3年間の任期中に本会議で決めたテーマについて議論し、報告書をまとめて本会議に出します。ただ、報告書を読んでいる人はほとんどいないと思います。なぜなら、報告書が出たころには、すでに参院選の前哨戦に入っており、改選議員は必死、非改選議員も応援に走り回っています。前の前の任期では、通常国会会期末の混乱で、調査会長の本会議報告ができない事態もありました。前の任期では3つの調査会がありましたが、「復興」「原発事故調査」の特別委員会ができたこともあり、今の任期では2つの調査会に絞られています。
そのうちの一つ、国の統治機構に関する調査会が、2016年通常国会末をめどにまとめる報告書に向けて、きょうは野中広務さん(88)に来てもらい、2時間半、話を聞きました。
野中さんは、阪神・淡路大震災・オウム真理教事件のときの、自治大臣・国家公安委員長で、その後、小渕内閣の官房長官も務めました。
まず、国の統治から。
野中さんは冒頭のスピーチで、「小渕恵三首相は自民党から選ばれた首相というよりも、国会から選ばれた首相という意識が強かった」として、最大野党・民主党の「金融再生法案」丸飲みなどで、ねじれ国会を乗り切れたとしました。
「民主党はマニフェストを実現できなかったが、3党合意に踏み切った。しかし、政権交代により、国会の合意を無視され、消費税だけが上がり、国民の政治不信は増すのではないか」と安倍内閣を批判しました。
「内閣の総合調整と国会の関係に関しては、内閣は国会が定めた法律を誠実に執行し国会に報告する。 同時に、必要な法律(案)を国会に制定してもらう。内閣には、総合管理機能と総合企画機能がある」と述べたうえで、「こういう憲法の要請に昨今の議院内閣はどうこたえているのか、不安を覚える」と安倍内閣を攻撃しました。
この後、会派順に自由討議になりました。
民主党の風間直樹さん。
[写真]民主党参院議員(新潟2019年改選)の風間直樹さん=首相官邸ホームページから。
「私はきょうのテーマである内閣の総合調整機能に関連して(1)内閣法制局(2)安倍首相の靖国参拝(3)憲法72条「総理の権能」について質問します」と述べ、「安倍首相が内閣法制局による解釈改憲で集団的自衛権を認めようとしていることの是非」について聞きました。
野中さんは「集団的自衛権について、(安倍首相は憲法96条の発議要件の衆参両院の総議員の)3分の2条項を2分の1条項に変える、と言っていたのに、内閣法制局の長官を交代させた。ところがその人物が不幸にも入院したら、今度は総理は「自分の意見が最高であり法制局(の長官事務代理)を退けるようになった。言葉は悪いがせこいやり方である」と語り、解釈改憲の手法を批判しました。
靖国参拝について、アメリカの長官2人が千鳥ヶ淵を訪れたことなどを説明し、「今議員で戦争をどれだけ知っている人がいるのか。私は戦争の危機が迫ってきていると感じる。戦争は絶対にやってはいけない、と若いみなさんに申し上げたい」。
他の議員の質問で、参院の問責決議については「問責された閣僚は立ち上がって丁重にお礼をする。あれをしたら辞めざるを得ない。あのような(ひな壇のあたかも)被告席に座らせるのが 参議院として良いのか。失礼ながら、参議院の先生方にはお考えいただきたい」と廃止を求めました。
かつて地方政治で激しく対立した京都共産党の倉林明子議員に対して、「先般のNHKの会長や経営委員の発言が問題ない、という人もいあるが、私が(衆議院)逓信委員長(現在の総務委員長)だったころに、国会で虚偽の発言があって、島桂治会長が辞任した。百田さん(百田尚樹・NHK経営委員)が人権を無視して、『人間のクズ』とか、『南京大虐殺は無かった』と言うことは、南京大虐殺記念館に実際に行けば(間違いだと)分かる。 『永遠の零』を2回も読んで、涙を流した自分が悔しく思うし、映画館にも脚を運んで涙を流した自分が悔しい」と名指しで痛烈に批判しました。
京都共産党の議員が「回顧録では、(連立でねじれを解消し)官房長官として国会で法案が次から次への通っていくの見て(国会運営が)安泰となったのを見て、安堵するなかで怖さを感じた、とあります。 今の安倍内閣を見てもそうだが、特定秘密保護法は立憲主義を破壊するのではないか」と質疑。野中さんは「すでに議席を持たない私ですが、しかし、一人の国民として、十分な論議(が国会で不足していること)と(国会提出前の)立案の過程で、法案が通ったことに、古い時代を知る者として、怖さを感じた次第です」と語りました。
会派が一巡して、自民党、民主党は2度目の質問順となりました。民主党は2度目も風間直樹さんが質問し、時間の関係で、最後の順番となりました。
風間直樹さんは「私が最後の質問になります。私は田中角栄先生と同じ新潟県出身で隣町の出身です。私は政権の最後に外務省でわずか2か月半でしたが、大臣政務官を務めました。このとき、(日中国交正常化交渉において田中首相と周恩来首相が尖閣諸島の棚上げで合意していたとされる)尖閣の棚上げ論について、外務省内で聞いてみたのですが、在任期間が短かったこともあり明瞭には見えてきませんでした」と質問しました。
野中さんは田中角栄先生の名前が出たのがうれしかったのか、いずれにしろ、最後の答弁でこう答えようとしていたのか。分かりませんが、風間さんに次のようにこたえました。
「昭和29年、町会議員のときに、田中先生に知人の紹介でお会いし、田中先生が郵政大臣のときには町の郵便局の開設をお願いしたこともあります。その後、たびたびご自宅を訪問し、2人区の衆議院補欠選挙になったときに、谷垣専一先生の後継者に、今法務大臣を務めている谷垣禎一さんが決まりました。前尾繁三郎先生は後継者を指名せずなくなりました。私は当時57歳で京都府副知事でしたが、『前尾先生は京都府政を転換してくれた野中君、と話していた』 と言われ、田中先生と、青年団からの付き合いで島根出身の妻が代表教員として習った竹下登先生のご縁で、ロッキード事件が吹き荒れているときに、田中派(木曜クラブ、現・平成研究会)から立候補しました。『なぜ田中派から』と言われましたが、私のような学歴の者が(町議初当選以来)33年間(政治を)教えていただき、わずか20年間の国会議員生活の中で分を過ぎたポストを与えていただくことになり、何一つ思い残すことはありません。中国から(日中国交正常化をなしとげ)帰ってきた田中先生は、私にこう話しました」。
以下、田中角栄首相と野中広務さんの話。
「おい、大変なことをしてきたよ。あのときの北京は晴れていた。本当に、周恩来、毛沢東というのは立派な人だなあ。あれだけの戦争をしたんだから、どれだけ賠償金を取られるのかと思った。周首相は『わが国は日清戦争では3億円の賠償金を請求しました』と言われたが『今回は賠償金を放棄します』と言ったとき震えたよ」
「私が、日本では尖閣諸島のことを言うやつがいるんだ、と言うと、周首相は手で制して、『その件はアメリカからもフィリピンからも言われています。これは先送りしましょう』と言ったら、大平(正芳)外相が「(田中)総理は日本に帰った時に右翼の人に言われたら困るから言っただけで、(日本政府は尖閣が日本の領土だという認識を持っているとはいえ、その件は)先送りしましょう」と言ってくれたんだ。あいつは「ああ、うう」と言っているだけだと思っていたけど、たいしたもんだなあ、やっぱり大学出ている奴は違うなあ」
こういう風に角さんは野中さんに話したそうです。
野中さんは、「田中角栄先生との会話について、『一介の(当時)町会議員に首相がそんなことを言うだろうか』と報道されたが、私は田中真紀子さんが5歳のときから、田中邸に出入りしている。その写真を持って新聞社に抗議したら、常務から手紙が来た。我々は間違ったことを報道されたときには裁判もやる。すべて自分が正しいと思うことについて貫かねばならない。私は昭和34年、当時の高木文雄・国税庁大阪国税局長、のちに大蔵事務次官や国鉄総裁になった人ですが、当時の解放同盟(の大阪府連)の上田卓三(うえだ・たくみ)委員長(のちに日本社会党衆議院議員)が(控除などの)協定書を結んだ時に、私はえせだと訴えて、(衆院議員になった)のちに国税庁長官から協定書はなかった、と言ってもらうことができた。私はそのことが間違ってなかったと思うし、私は余命いくばくもないけれども、心情を申し上げたいと思いました」
清和会全盛時代を迎え、すっかり影が薄くなってしまった平成研究会・経世会ですが、その志を引き継いでくれよ。野中さんは、そう風間さんに言っているように感じられました。東京にはこの日も14日の大雪が残っていました。