時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

大恐慌の前:人物群像を通して見たアメリカ社会

2020年07月06日 | 書棚の片隅から

1927(昭和2)年という年について、どんな印象をお持ちでしょうか。このブログを訪れてくださる方々のほとんどは、まだ生まれていない時代ですね。したがって、答もそれぞれの人の人生経験、教育や学習の結果次第ということになります。ほとんど何も印象らしきものは持っていないと答えられる方もかなりおられるのではないか。

世界史を振り返ると、この年は大変興味深い年でした。このブログで最近話題としている1929年の「大恐慌」(1929年10月24日、暗黒の木曜日)の少し前、直前と言ってもよい時期に当たります。

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NB
新型コロナウイルスに席巻されている現代の世界は、カタストロフ(大破局)的な状態にあり、その終息のあり方を求めて、人類が経験した過去の類似の事態との比較がさまざまに行われています。例えば、新着のThe Economist誌(June 27th-July 2nd 2020)の表題は「次なる大破局、そしていかに生き残るか) The next catastrophe (and how to survive it) という恐ろしげなもので、いつから世界はこんなことになってしまったのかと思ってしまうほどです。
わずか1年ほと前、東京オリンピック・パラリンピック招致で、熱狂していたこの国の実態を思うと、すっかり熱が冷め、代わって「コロナ熱」が蔓延してしまった今の状況はなんというべきでしょう。そして日本列島は九州地方を中心に記録的大雨によって、さながら災害列島の様相を呈しています。
こうした状況で、世界的に現代社会の病状を推し量るひとつのベンチマーク(目安)となってきたのが、1929年の「大恐慌」the Great Depressionです。大恐慌の実態や原因については既に多数の研究蓄積があります。ブログ筆者は「大恐慌」の前後の時期を一貫し、総合的に見直す必要があると考えています。

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1927年の夏
それでは大恐慌の直前のアメリカはどんな状況だったのでしょう。ほぼ2年前の1927年の夏(大体5月から9月)に焦点を当てたドキュメンタリー・ストーリーがあったことをを思い出し、書棚の片隅から引っ張り出しました。以前入手時に読んだ記憶を頼りにページを繰っていると、思わず引きずりこまれ読み耽っていることに気づきました。書き手のビル・ブライソンは稀代のストーリー・テラーであり、膨大な資料の渉猟の上に巧みに読者を虜にしてしまう図抜けた才能の持ち主です。

Bill Bryson, One Summer: America 1927, Black Swan, 2013 (ビル・ブライソン、伊藤真訳、白水社、2013年)

1927年の夏、アメリカは株式市場もブーム状態で、活気を呈していました。平均すると1日4時間しか仕事をしないで(他の大統領よりも長い時間寝ていた)と揶揄された大統領カルヴァン・クーリッジ Calvin Coolidge(1923~1929年)の時代でした。この大統領は自由市場に介入することを一切拒否していた最後の大統領として知られており、さらに現代の右翼政治家のモデルともいえる人物でした。

「大恐慌」前とはいえ、時代は決して平穏に過ぎていたわけではなく、今日の基準からしても極端な振幅で揺れ動いていました。自然災害という観点からみると、1927年にはアメリカ合衆国の歴史上最大と言われるミシシッピ川の大氾濫が起きている。ミシシッピ川の堤防は145ヶ所で決壊し、7万 km2が洪水に襲われた。一帯は10mの深さで浸水しました。

政治社会面では、極右の秘密結社Ku Klux Klanへの加入者も多く、さまざまな差別が社会的弱者に向けられ、「嫌悪の時代」”the Age of Loathing”ともいわれているほどでした。

ちなみに同じ時の日本を見ると、ジュネーヴ軍縮会議が始まっていたが、軍部が台頭し戦争の予兆が急速に浸透しつつありました。暗い時代の始まりでした。芥川龍之介が「ぼんやりとした不安」という言葉を残し、服毒自殺したのもこの年7月24日未明だった。.

NB
6.1 憲政会。政友本党合同して立憲民政党を結成(総裁浜口雄幸)。政友会とともに2大政党時代始まる。
6:20 日・英。米の3か国海軍軍縮会議,ジュネーブで開催(8.4失敗に終る)。
6.27 在中国外交官・陸海軍当局者,東方会議を開催。権益擁護を目的とした軍事干渉政策と満蒙分離政策を骨子とする対中国政策を決定。
7.7 兼任外相田中義一,対支政策綱領を発表。権益自衛の方針を打ち出す。
8.4 奉天総領事吉田茂,奉天省長に反日的姿勢の放棄を要求して京奉線軍用列車の満鉄付属地通過停止を警告。
8.15 外務政務次官森烙。関東軍司令官武藤信義・奉天総領事吉田茂ら,旅順で満州問題を協議(大連会議)。
8.30 政府,山東派遣軍の撤兵を声明(9.8撤兵完了)。
11.5 蒋介石,田中首相と会談。国民政府への援助を要請。
11.12 満鉄社長山本条太郎,満蒙5鉄道建設に関する了解を張作霧より獲得。


チャールズ・リンドバーグとベーブ・ルースの快挙
ブライソンが最初に取り上げたのは、この夏最大の注目の的であった、チャールズ・リンドバーグという無名の若者の快挙だった。5月20日から21日、ニューヨーク・パリ間を単独で無着陸飛行に成功した。単葉機「セントルイスの魂」Spirit of St. Louis で5898kmを33時間39分をかけて飛行した。パリでは大歓迎され、帰国後の6月13日ニューヨーク・ブロードウエイでの祝賀パレードには400万人が見物に集まった。リンドバーグは後に水上飛行機を駆って太平洋を飛び、日本にも来ている。リンドバークが搭乗した単葉機はスミソニアン航空宇宙博物館に展示されている。彼はここに愛機が置かれることに強く固執した。
リンドバーグの人生の前半は冒険心に溢れ、華やかなものであったが、後半は愛児の長男ジュニアが1歳8ヶ月で誘拐されるなど、多くのトラブルを生んだ。

この夏、アメリカを驚かせたもうひとりの若者がいた。ベーブ・ルースである。9月27日、ニューヨーク・ヤンキーズのベーブ・ルースは年間60本のホームランを打った。この記録は1961年にロジャー・マリスが61本を打つまで破られなかった。
ベーブ・ルース(George Herman “Babe” Ruth, Jr., (1895年-1948年)は、メリーランド州] ボルチモア 出身の プロ野球選手であり、愛称はバンビーノであった。ルースの人生は、放埒、傍若無人なところがあるが、その無類な明るさと相待って、アメリカ人の心を捉えた。

折しも1920年代、ラジオは時代の脅威と言われ、全米の家具販売額の3分の1を占めた。ベーブ・ルースの活躍と人気は、1922年当時ロンドンを抜いたニューヨークを舞台に、新しいメディアの展開によって創り出されてところがある。大谷翔平選手がルースの記録に追いついた時、アメリカ社会にいかなる衝撃が走るか興味深い。

見事に描かれた人物像
ブライソンは人物の活写が絶妙である。この作品でも、アナーキストとされたサコおよびヴァンゼッティの処刑(8月23日)、自動車王ヘンリー・フォードのモデルAへの転換の始まり、闇の世界の帝王アル・カポネ、ボクシングのジャック・デンプシー、銀幕のアイドル女優クララ・ボウなど数多くの人物が取り上げられている。この作家の特徴は、ひとりひとりの人物像の列挙ではなく、それらをいわば結び目として社会的背景や相互の関係を巧みに描き出したことにある。中間選挙を目前に控えたトランプ大統領が、訪れたラシュモア山壁の大統領の肖像彫刻も、1927夏にスタートし、1941年10月31日の完成まで14年間を要した。

アメリカ合衆国建国から150年間の歴史に名を残す4人の 大統領 ジョージ・ワシントン 、 トーマス・ジェファーソン 、 セオドア・ルーズベルトと エイブラハム・リンカーンの肖像が岸壁に刻まれている。トランプ大統領がここに刻まれることはないだろう。

著者は、1927年の夏を駆け抜けた有名無名の人々の生きざまを、ウィットとユーモアを織り交ぜ色彩豊かに描き出し、見事な群像を描き出している。しばしば株価の暴落をもって、恐慌の原因とする見方が有力だが、近年はその背後にある人間行動を中心とする実体経済により重点を置く見方が台頭している。

本書は、アメリカという大国が初めて世界の表舞台に存在感を示した5カ月間の、情感豊かな歴史物語である。「ひと夏」という小さな窓から激動の二十世紀の胎動を展望するという、名手ブライソンがストーリーテラーとしての真骨頂を発揮した読み応えのある作品だ。図らずも自粛の夏を強いられることになった人たちが、20世紀から今日までを振り返るに当たって、取り上げるにふさわしい一冊だろう。





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カラーラインがなくなる日は

2020年06月20日 | 書棚の片隅から

  

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いくど繰り返されたことだろうか
ジョージ・フロイドという人間は決して有名ではなかった。しかし、5月21日黒人(アフリカ系アメリカ人)の彼が、アメリカで47番目の都市ミネアポリスの路上で警官に殺されたことで、その名は世界に広まり、知られることになった。さらに日ならずしてジョージア州アトランタで別の黒人が同じく警官に射殺される事件が発生し、人種差別をめぐる反対運動は世界的な次元へと拡大した。

アメリカに限っても、同様な事件はこれまで数多く発生してきた。その都度、多くの人々が抗議の行進をし、”We shall overcome” の歌声が響き渡った。このたびの出来事でも、黒人に限らず多くの人種からなる参加者が世界の至る所で人種差別反対を叫んでいる。こうしたプロテストはこれまで多くの場合、なんらかの現状改善につながる結果をもたらした。今回も警察制度の改革を含めて、いくつかの対応が導入されるだろう。しかし、人種差別は執拗に生き残る。

一冊の本から
差別には様々な対象が考えうるが、ブログ筆者が最初にこの問題に気づかされたのは、1960年代、アメリカ、コーネル大学院の政治思想史(公民権法)セミナーだった。尊敬するMFN教授からアサインメント史料として最初に指定されて読んだのが、前回ブログ記事で言及したW.E.B.デュボイス(William Edward Burghardt Du Bois: 1868年〜1963年 )の『黒人のたましい』であった。

デュボイスは20世紀初頭のアメリカにおける最も影響力を持った黒人学者で、ジャーナリスト、政治運動家でもあった。この著作は、奴隷解放以降の黒人の歴史、レーシズム、ブラック・アメリカンの闘争を記した大変情熱的で強い意志で書かれた迫力ある著作である。デュボイスはその生涯を道徳、社会、政治、経済面における平等の実現にかけた。

原著は1903年に刊行され、今日ではKINDL版を含めきわめて多数の版が存在するが、以下では英語版、日本語訳版について、下記に依拠した。

W. E. B. Du Bois, The Souls of Black Folk(original: 1903), with a new introduction by Jonathan Scott Holloway, Yale University Press, 2015
Jonathan Scott Holloway の解説がつけられている。

W.E.B. デュボイス(木島始/鮫島重俊/黄寅秀訳)『黒人のたましい』岩波文庫、1992年(同じ訳者による未来社、1965年刊行の改訳)。大変充実した訳注がこなれた本文訳と併せ、1世紀を越える時代の経過を感じさせない。

人種差別問題を身近に
半世紀近くも前のこと、記憶は鮮明に残っている。10人くらいのセミナーで、外国人で非白人は二人だけ、トリニダード・トバコから来たトーマス(後に名門University of West Indies の経済学部長となった。後年、不思議な再会もあった)と私だけであった。トーマス(Tと略称)は年齢も数歳上で、物静かで教養豊かな黒人であった。寄宿舎でも偶然に部屋が隣り合わせだったこともあり、何かにつけては話し合い、教えてもらった。

1960年代後半の時点では、キャンパスに黒人の姿はきわめて少なかった(その後、ある事件が突発し、状況は大きく変わったが、その詳細は後日にしたい)。とりわけ、このデュボイスの著作については、セミナーでもTの独断場であった。それまでブログ筆者はデュボイスのことはある程度知ってはいたが、著作自体を手にしたことはなかった。一読して、この著作を読まずして、アメリカの人種差別問題を論じることはできないことを直ちに思い知らされた。

デュボイスを形容する言葉は実に多様だ。曰く、ニューイングランド気質、中流階級の意気軒昂の思想家、論客、都市社会学者、南部人、パン・公民権アジテーター、編集者、小説家、進歩主義者、核反対平和運動家、注意人物、表看板、コミュニスト、ガーナ人など。(J.S. Holloway, 2005)

こうした形容詞は、W.E.B.デュボイスの人生のそれぞれの時点に当てはまる。1868年、マサチューセッツ、グレート・バリントンに生まれ、奴隷解放以降の文壇、政治の世界で、最も重要で絶えず関心を惹きつける人物であった。W.E.B.デュボイスの人生で基軸を成したのは、やはり公民権運動であろう。

戦う知識人
1903 年に、デュボイスは本書 The Souls of Black Folk を出版した。学者のシェルビー・スティールによると、この 本は「順応と謙虚という黒人種の思想形態に対する激しい反 発」であり、「20 世紀の問題は、人種差別の問題である」こ とを正面から宣言した歴史的著作となった。

デュボイスは、しばしばほぼ同時代の黒人の社会運動家ブッカー・T・ワシン トン(1850~1915)と対比された。ワシントンはアメリカにおいて先住民、黒人などの教育に尽力した教育家であったが、黒人の自立のための自助努力を強調していた。

デュボイスは、ワシントン氏について大略次のように述べた(本書第3章「ブッカー・T・ワシントン氏その他の人たち」参照):
 
彼の理論のせいで、北部でも南部でも白人は、黒人の問題は 黒人に背負わせ、自分たちは批判的かつ悲観的な傍観者とな る傾向があった。しかし実際には、そうした問題は国民全体 で背負うべきものであり、われわれがこれらの大きな間違い を正すことに全力を傾けないならば、われわれすべてに罪が ある。 

その2年後の1905年、デュボイスおよび大勢の黒人知識人が、順応と 漸進主義というブッカー・T・ワシントンの方針に真っ向から反対する公民権組織「ナイアガラ運動」を設立した(場所:カナダ領フォートエリー)。そして「われ われは完全な成年男子参政権を今すぐ要求する!」と宣言し た。彼は女性の参政権についても支持した。ナイアガラ運 動は、1906 年に、ジョン・ブラウンの反乱の地ウェストバー ジニア州ハーパーズフェリーで有名な会議を開催した。しかし、この組織は、組織力・資金力共に 不足しており、1910 年には解散した。

NAACPの設立
1909年、彼らは、デュボイスが組織した「ナイアガラ運動」と、イリノイ州スプリングフィールドの進歩的白人団体を母体として全米 有色人種地位向上協会 (NAACP:NAACP=National Association for the Advancement of Colored People) を設立した。この新組織の 指導層には、多くのユダヤ人を含む白人も含んでいた。デュボイス も指導者の一人として、NAACP の有力な機関誌『ザ・クラ イシス』の主筆となった。  NAACP は、その後、近代公民 権運動の闘いを始めることになる。 

1913 年に、南部生まれのウッドロー・ウィルソン大統領が連 邦政府の公務員の人種隔離を認めたのに対し、NAACP は裁 判によってこれに対抗するようになり、ジム・クロウ法を覆 すための何十年にもわたる法的な闘いを開始した。デュボイ スの指導の下で、「ザ・クライシス」誌は当時の状況を分析し、ラン グストン・ヒューズやカウンティー・カレンなど 1920 年代・ 30 年代のハーレム・ルネッサンスの偉大な作家の作品を掲載 した。同誌の購読者数は 10 万人を超えたとも言われている。

ジム・クロウ法 Jim Crow lawsは、1876年から1964年にかけて存在した、人種差別的内容を含む [アメリカ合衆国南部諸州の州法の総称。「ジム・クロウ」の名称は、黒人奴隷を題材とする芸人トマス・D・ライス〔1808–60〕の芸能ショーの登場人物名に由来するとされる。

ガーナ人になる
デュボイスは執筆活動を続け、20 世紀における米国の偉大な思想 家の一人としての名声を確固たるものとした。彼は、屈指の 反植民地主義者、そしてアフリカ史の専門家となった。1934 年、汎アフリカ民族主義を提唱してマルクス主義・社会主義 的な思想を強めていったデュボイスは、人種差別撤廃を求め る NAACP と決別した。デュボイスは、90 歳代まで生き、死 去したときにはガーナ国民であり熱心な共産主義者となって いた。 

デュボイスは「アフリカ独立の父」と言われる ガーナの [クワメ・エンクルマ大統領 によって招待され、エンクルマが長年夢見ていた政府の事業、エンサイクロペディア・アフリカーナの編纂を監督した。デュボイスと妻のシャーリー・グレアム・デュボイスは米国籍を放棄し、ガーナに帰化した。デュボイスの健康状態は1962年に悪化し、彼は1963年8月27日に95歳で アクラで死去した。アメリカにおける公民権法制定のおよそ1年前であった。妻のシャーリー・グレアム・デュボイスはエンクルマの失脚後に タンザニアに逃れ、1977年3月27日に80歳で 中華人民共和国で死去して 北京郊外の八宝山革命公墓に埋葬された。

公民権法の成立
ジョンソン大統領による精力的な働きかけの結果、世論の高まりもあり議会も全面的に 公民権法 の制定に向け動き、 1964年7月2日に公民権法(Civil Rights Act)が制定され、ここに長年アメリカで続いてきた法の上での人種差別は終わりを告げることになった。

ブログ筆者はここに記したような背景の下で、「差別」discrimination という現象とその対処のあり方に関心を抱いてきた。日暮れて道遠く、来た道を振り返ると遠くに見えるのは、W.E.B.デュボイスの著書に出会った頃、差別と戦う純粋でひたむきな人たちの姿である。

はからずも6月19日は奴隷解放記念日である。



 

 

 

 

 

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デフォーに取り組むが・・・:パンデミックを考える

2020年05月15日 | 書棚の片隅から

 
このたびの新型コロナウイルスの世界的な蔓延とともに、人類の歴史における感染症、とりわけ世界規模で蔓延したウイルスや細菌との戦いを描いた専門書、記録、啓蒙書、小説など多くの文書がメディアに登場した。ブログ筆者の目についた内外の書籍だけでも優に20冊を越えたのではないか。かなりキワモノもあるようだ。その中でこの機会に、もう一度読んでみようかと思ったのはカミュ、ダニエル・デフォーの著作だった。カミュ*1については比較的最近、放送番組にも取り上げられたこともあったので、とりわけ強い印象が残っていた。この作品を最初に読んだ時の衝撃は忘れられない。
 
*1 NHK 100分 de 名著 アルベール・カミュ『ペスト』(中条省平) 2018年 6月 
 
デフォーについては、『ロビンソン・クルーソー』(1719)を子供の頃、平易に書き下ろした版で読み、その後大学で経済学を志すようになった時、かなり読み込んだので馴染み深い。しかし、同じペストの流行を扱った A journal of the Plague Year (1722)については、カミュほど詰めて読んでいなかった。翻訳で読んだのだが、原著が18世紀初めの刊行ということもあってか、かなり苦労した。1665~66年にロンドンで蔓延したペストの大流行(Great Plague of London)なのに、なぜ半世紀以上経過した1722年になって自ら体験したように書かれねばならないのか、いささか疑念を抱いたためでもあった。1665年当時は、デフォーはまだ5歳だった。
 
同時代人としての想い
しかし、もう一度デフォーを読んでみようという気になった。それについては、別の要因も背中を押していた。このブログでも取り上げている同じ17世紀に、ヨーロッパで大きな問題となっていた魔女審判につながるものがあると感じたからだ。ペストなどの疫病が流行すると、社会の片隅に生きる人たちへの偏見、排除などがしばしば頻発した。事件が起きると、社会の雰囲気も一変した。
 
特にデフォーが執筆に際して感じていたのは、「コンテンポラリー」contenporary (同時代人) の意識ではないだろうか。ロンドンでの大流行から半世紀以上経過しているにもかかわらず、デフォーが、この出来事を取り上げ、Journal (年記)としたのは、自らが後世への記録に残すべき出来事として、同時代人 contemporaries としての思いがどこかにあったのではと思われる。
 
ブログ筆者が17世紀の画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールを追いかけてきた動機の一つは、まさにこの視点だった。17世紀、同時代に生きていた人たちは、この画家や作品をどう見ていたのか。その後の時代の経過の間に、21世紀の人間の視点との間にギャップは生まれていないか。
 
いずれにしても、デフォーのこの作品は、ペストがロンドンを襲った時には子供であった本人が、その後長じて自らの記憶と記録資料の上に、あたかも同時代人が目の当たりにした事実を書き記した体裁をとっている。
 
その意味では、第一級の史料というわけではない。本書は時系列を追った(chronological)体裁をとってはいるが、今日我々が考えるような厳密なものではない。かなり右往左往している。実際、本書はデフォー本人が記録をとって記したというのではなく、デフォーのおじではないかと思われる ’H.F.’ というイニシャルの人物が記したことになっている。イースト・ロンドンに住んでいたこの人物は、記録を残していたのかもしれないが、定かではない。デフォーが展開する叙述の基点は、ロンドンの主要な道路、地区、時には特定の家々で起きた出来事を描写する形で展開している。記された事柄が事実なのか虚構なのか、歴史なのか小説なのかという点についても後年議論が続いている。ジャーナリストでもあり小説家でもあるとの評も有力だ。
 
デフォーの辿った人生の激動についてみると、それ自体がそのまま小説や人物伝となりうる波乱万丈であった。彼が生まれた1660年まで、イングランドも二つの世界に分裂していた。蝋燭販売業だった家に生まれたデフォーの姓で、貴族的な’de’ が’ Foe’の前に付けられているのも、彼が階級class の重みを意識していたからと推定されている。デフォーは14歳まで学校教育を受けていないし、その後もオックスフォード、ケンブリッジのような古典的教養を身につける機会はなかった。それが彼の人生にとってプラスとなったか否かもわからない。
 
今回手にしたのは、たまたま見つけた下記のPenguin Classics版*2である。時間はあるし、翻訳を離れて、原文に挑戦しようと思った。この版、作品理解に関わる史料などが多数付記されていて、大変便利な上に、1966年版へのAnthony Burgesの紹介も掲載されている。表紙もこのテーマにありがちなどぎつさもなく、好感が持てる。粗筋は大体覚えていたので、多分英語版でもなんとかなると思ったが、苦労することになった。そのため、途中から武田将明訳、研究社を横に置いて読むことになった。大変こなれた訳で感謝している。友人のイギリス人の間では、このPenguin版を使った読書サークルが生まれたようだが、英文学専攻でもない日本人にはかなり手強い。
 
大きく変わったロンドンの表情
ロンドンの姿はこの感染症の蔓延で、短期間に異様な変化を見せた。1965年から1966年の18ヶ月の間に、ロンドンの人口の6分の1に当たるおよそ10万人の命が失われたといわれる(異説も多い)。
 
今回の新型コロナウイルスの世界的蔓延を彷彿とさせる叙述が各所に現れる。デフォーの作品の冒頭に出てくる1644 年9月初め、「ペストがオランダに戻ってきた」という部分は、今回の新型コロナウイルス蔓延の発端当時の世界の受け取り方を想起すると、あまりに衝撃的だ。あれは外国のこと、自分たちには関係ないと思っていたことがある日突然、目の前に現れ、自分の問題となる。現代社会では、その感染時間がきわめて短縮されている。
 
当時のロンドンは決して美しい都市ではなかった。ペストの流行で、その光景は異様なまでに変化した。人影は少なくなり、ネズミやノミが目立った。ネズミが媒介するということは、分かっていたようだ。病死した人々の死体ばかりでなく、犬、猫の死骸も目立った。犬が4万頭、猫はその5倍との記述もある。
 
デフォーはロンドンの各地域での出来事を記述し、臨場感をつくり出している。人間の様々な行動、愚かさや悲しさとともに描写されている。奇矯な人物 Solomon Eagle なども現れ、フリート街*2をパレードしたりしていた。パンデミックの影に怯える人間の様々な行動、その愚かさや悲しみが描かれている。感染病についての知識が少なかった当時と今とでは、その現れ方は当然異なるが、人間の抱く不条理、不合理、狂気、偏狭さなど、本質に大きな変わりはない。
 
*2 余談:フリート街はロンドンではかなりよく知られたストリートだが、その変容ぶりは驚くほどだ。1980年代、かつてこの地域に詳しいインペリアル・コレッジの友人に同行して何度か新聞社などを訪れたことを思い出した。その後の変化も驚くほどだ。
筆者稿「フリート街の革命:イギリス新聞産業における技術革新」『日本労働協会雑誌』1986年9月

ソロモン・イーグルについては、デフォーのA Journal of the Plague Year に次のような記述がある:

I suppose the world has heard of the famous Solomon Eagle, an enthusiast. He, though not infected at all but in his head, went about denouncing of judgment upon the city in a frightful manner, sometimes quite naked, and with a pan of burning charcoal on his head. What he said, or pretended, indeed I could not learn.

 
本書を読むには、18世紀ロンドンの地図にある程度通じていないと、興味がそがれるかもしれない。幸い、今日われわれが手にする版(翻訳を含む)には、こうした点への配慮がなされていて、読者には大変有難い。それでも、なんとか読み通すには2ヶ月以上かかってしまった。新型コロナウイルスの脅威はまだ去っていない。
 
 
REFERENCES
 
Daniel Defoe, A Journal of the Plague Year, Penguin Books, 2003

Contents
Chronology
Introduction
Notes
Further Reading
A Note on the Text
A Journal of the Plague Year
Appendix I: The Plague
Appendix II: Topographical Index
Appendix III: London Maps
Appendix IV: Introduction by Anthony Burgees to the 1966 Penguin English Library edition
Glossary
Notes
 
ダニエル・デフォー(武田将明訳)『ペストの記憶』 (英国十八世紀文学叢書第3巻 カタストロフィ]) 研究社、2017年

 

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芥川龍之介『江南遊記』を読んで

2020年02月06日 | 書棚の片隅から

 新型肺炎の流行で世界が大きく揺れ動いている中で、かつて縁あって毎年のように訪れていた中国の世界がまた近くに思えてきた。たまたま、芥川竜之介の作品のいくつかを読み直していた。この鬼才と言われた大正の大作家は中国文学、漢籍への造詣が非常に深かった。併せて、中国への旅への憧憬が年を追って強まっていった。

今日、芥川の作品を読み返すと、中国への旅を前にした29歳前後でこれだけの知的蓄積を達成していることに、その非凡さに改めて感嘆する。もちろん、作家は中国への旅に憧れ、多大な努力を積み重ねてもいた。しかし、今日の大学教育を前提とした上で、この年齢でこれだけ博識で透徹した論理で文章を展開できる人は想定し難い。芥川は中国へ旅する前に『杜子春』『南京の基督』『アグニの神』など、中国を舞台とする作品を書いていた。35歳という短い人生で、どうしてこれほどの作品が書けたのだろうと思うほど、作品数もきわめて多い。

芥川の大学の専攻は英文学であり、中国に関する知識は、この作家の努力の成果であった。さらに、英語、ドイツ語についても努力をしており、暇を持て余した折などにはドイツ語動詞の活用などを思い起こしている(『江南遊記』「杭州の一夜」)。

天才と努力
芥川の小説はこれまで折に触れ、かなり読んできた。しかし、短篇、紀行文などの中には未読の作品もある。『上海遊記』を再読した折に、関連する『江南遊記』を読み直してみた。1921年、29歳の芥川龍之介は大阪毎日新聞の依頼で海外特派員の資格で上海を皮切りに4ヶ月間中国各地を旅行し、その紀行を新聞に連載した。

ブログ筆者は、芥川に限らず紀行文を好んで読んできた。紀行文は小説より完成度は低いが、それだけに作者の自由でアドホックな発想、思考が感じられて興味深い。自分の行ったことのない土地には憧憬を、行ったことのある土地には回想と比較して読むことができる。

流行作家の心の内
小説ほどの作品完成度は紀行文には求められていないとしても、作者としては、新聞掲載ということを前提とし、時間に追われながら執筆に専念していた。さらに、芥川はこの旅に出る前から健康を損ない、旅の途上で入院をしたりしていた。この点は、芥川自身が『江南遊記』の中で記している。作家の心境の一端を知る上で興味深いので、下記に引用しておこう。

(前略)――こんな事を書いていると、至極天下泰平だが、私は現在床の上に、八度六分の熱を出してゐる。頭も勿論、ふらふらすれば、喉も痛んで仕方がない。が、私の枕もとには、二通の電報がひろげてある。文面はどちらも大差はない。要するに原稿の催促である。醫者は安靜に寢てゐろと云ふ。友だちは壯(さかん)だなぞと冷かしもする。しかし前後の行きがかり上、愈(いよいよ)高熱にでもならない限り、兎に角紀行を續けなければならぬ。以下何囘かの江南游記は、かう云ふ事情の下に書かれるのである。芥川龍之介と云ひさへすれば、閑人のやうに思つてゐる讀者は、速に謬見(べうけん)を改めるが好(よ)い。(後略)[『江南遊記』十 西湖(五)]

なんとも強烈なアイロニーで終わっているが、芥川は慣れぬ旅の途上で体調を崩していた。当時は大変死亡率の高かった肺炎に罹患することを最も恐れていたようだ。ブログ筆者は、この芥川の辿った経路とほぼ同じ道を旅したことがあるが、その旅路の各所で、読者を惹きつける論稿を準備することがいかに大変なことであるかを身にしみて体験した。上海の豫園、杭州の西湖、蘇州の庭園や寒山寺などは芥川が訪れた当時、すでに世界中の観光客が集まっていた。日本人の間にもこうした観光地の状況はかなり伝わっていた。そこで、すでに著名な作家として知られていた芥川が、海外特派員として作家の目で彼の地の実情を報道することに白羽の矢が立ったのだろう。

芥川が旅した1921年といえば、北洋軍閥政権の時代で、中国は軍閥割拠と帝国主義の侵略にあえぐ暗黒時代にあった。しかし、芥川が描く中国はそうしたことを感じさせない。作家が見た庶民、知識人などの日常生活は、危機を背景に雑然とながらも、しっかりと地に根付いていた。芥川はだいたいどの観光地もくだらないと書き、風景は良くても、必ず何かで興ざめすると記している。さらに、作家の言辞は、今日の環境でみれば、しばしばかなり差別的、侮蔑的である。当時であっても、新聞社の担当者はさぞかし困ったのではないか。しかし、作家の見方も旅路を重ねるにつれて、次第に落ち着き、この欧米、日本などの列強に支配されている大国の精神世界の深み、とりわけ長い歴史を誇る北京の文化環境への傾倒の念が深まっていくことが興味深い。

 

典拠:『芥川龍之介紀行文集』(山田俊治編)岩波文庫、2017年

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謎は謎を生む:『アルノルフィーニ肖像画』が描かれた背景

2020年01月27日 | 書棚の片隅から

 

前回、『アルノルフィーニ夫妻』像について記した時、確かどこかにあるはずだと思った一冊の研究書があった。目につくところを探したが、直ぐには見つからなかった。これまでかなりの数の蔵書を涙を呑んで断捨離したり、ディジタル・ライブラリーに寄贈してきたので、あるいはと思ったが、幸い書棚の片隅に残っていた。『アルノルフィーニ夫妻像』は、かつてブログ筆者がイギリス滞在中、好んで通ったロンドン、ナショナル・ギャラリーが所蔵する至宝の一枚である。

Carola Hicks, GIRL in a GREEN GOWN: The History and Mystery of the Arnolfini Portrait, Vintage, London, 2011

 

この作品、前回記したように、この時代には大変珍しく制作年が1434年と、画面の中心部に明記されている。テンペラではなく3枚のパネルに油彩で描かれた作品である。テーマとしても、中流階級の安らぎと一夫一婦婚の姿を描いたと思われる貴重な作品でもある。さらに、画家はこの作品に描きこまれたあらゆるものに全て意味を持たせたと思われる。画面を見ると、実に細々としたものが描きこまれている。しかし、15世紀の人々にはそれらが何を意味するものかは、暗黙のうちにも伝達され、かなり容易に理解されてきたと思われる。少なくも、何を意味するかを考える材料となっていた。しかし、長い年月が経過するうちに含意の内容は風化したり、忘れられて、現代人には理解できないものになってしまった。


描かれたのは誰だったのか

この絵を鑑賞する時にしばしば話題に上がる美術史家のエルヴィン・パノフスキー(1892-1968)は、この絵の制作年(1434)から500年後の1934年に図像学を駆使した画期的な論文を発表している。しかし、それで全て謎が解明されたわけではない。その後多くの研究が積み重ねられてきたが、上掲の美術史家カロラ・ヒックスの研究を見ると、謎はかえって深まった感じもする。カロラ・ヒックスはパノフスキーの時代には知られていなかった古文書などを掘り起こし、この謎の多い作品に新たな光を当てた。

それによると、これまでに解明されたと思われた事柄が、実は謎のままに残されていることが判明した。例えば、作品に書き込まれた制作年と思われる1434年の時点では、作品に描かれた夫妻と思われるジョヴァンニ・アルノルフィーニとジョヴァンナ・セナミは結婚していなかった。彼らが結婚したのは1447年であり、画家ファン・エイクの死後6年を経過した後のことであった。

そこで次の可能性が探求され、従兄弟のGeovanni di Nicholas Amolfiniと結婚したCosstanza Trentaではないかとの推定が行われた。彼らが結婚したのは1426年だったが、妻のコスタンザは、この絵画が制作された1年前の1433年に子供の出産時に死亡していたことが判明した。そうなると、描かれている女性はコンスタンツアか、夫が再婚した女性の婚約記念?なのかも分からなくなった。画家ヤン・ファン・エイク夫妻ではないかとの推定も行われている。こうした背景も考慮してか、今日のナショナル・ギャラリーは、作品の表題にThe Arnolfini Portrait と簡単に記している。

謎はこれだけに留まらず、次々と現れてきた。カロラ・ヒックスの研究書にはこの他にも多くの興味深い指摘・発見が含まれている。画家ヤン・ファン・エイクや、その作品、時代背景などに関心を寄せる人にとってはお勧めの一冊でもある。

この興味深い研究書の著者カロラ・ヒックスは、ケンブリッジ大学のキングス・コレッジのステンドグラスの研究(The King’s Glass: A study of Tudor Power and Secret Art, 2007)でも知られている。彼女はケンブリッジのニューナム・コレッジで20年以上、美術史を教えた。

ブログ筆者の専門は美術史ではないが、たまたまケンブリッジに滞在時に彼女の話を聞く機会があった。筆者もケンブリッジ近傍のイリー大聖堂の建築過程に関心を抱いていたので、大変興味深く記憶に残っている。惜しむらくは、カロラ・ヒックスは新著の刊行直前の2010年に世を去り、その後は夫の手によって遺稿が整理されて出版が実現した。

作品が辿った数奇な経路
この絵がブルッヘの持ち主の手を離れた後、ハプスブルグ家一族の所有を経て、フランダースからスペインの王室へ移り、その一隅に掲げられていた時もあった。ベラスケスも見る機会があったのではと考えられている。ナポレオン戦争の渦中でウエリントン公の軍隊によって没収され、スコットランド軍将校のコレクションに入った。その後、摂政皇太子に贈られたが関心を惹くことがなく、1842年にロンドンのナショナル・ギャラリーに600ギニアで買い取られた。その後一時はヒトラーの手に入ったこともあるらしい。その後、1991年からナショナル・ギャラリーに展示され、多くのファンが生まれることになった。この作品が辿った来歴 provenance についても未解明な点があり、カロラ・ヒックスの著書はその面でも興味深い点を指摘している。

カロラはパノフスキーなどの先行研究を再検討し、作品に描かれた鏡の周囲の装飾から、ブラッセル・グリフォンとして知られる足元の犬に至るまで、興味深い再検討を行っている。記述はこの作品の現代の美術や風刺画への影響まで及んでいる。例えば、鏡のアイディアはその後多くの画家によって、様々に導入されている。

改めて読み返すと時間を忘れる。断捨離されないで良かったねと、一冊の本の幸運を思った。

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これもアニメの世界?:指で観るラ・トゥール

2019年08月02日 | 書棚の片隅から

 

ジョルジュ・ド・ラ・トゥール《イレーヌに介抱される聖セバスチアヌス》ルーブル美術館


この絵を見た現代の子供たち、いや大人でも、興味を惹かれて立ち止まるでしょうか。その可能性は多分、かなり少ないでしょう。17世紀の絵画、とりわけ宗教画は、現代人が関心を寄せるには魅力に乏しく、その含意を正しく理解するには詳しい説明がほとんど不可欠です。

この絵の前を通り過ぎる大人の中に、多少何かを感じて立ち止まる人がいたとしても、現代ではかなり例外的でしょう。描かれた情景が意味する内容を知る人は、このブログに来てくださった方ぐらいかもしれません(笑)。 

まして、幼い子供たちがこの絵に興味を持つという可能性はほとんどないでしょう。一瞬、そこで立ちどまるかもしれません。 せいぜい彼らが口にするのは、暗い絵だなあ、なにの絵なんだろう。どうしてこの若者は矢で射られてしまったのだろう・・・・。

17世紀以降、フランス王ルイ13世までが魅せられてきたこの作品について、現代の人がその意味を分からずにいるというのは、悲しいことです。

そこでこの小さなアートブック・シリーズの編者は考えました。「The Senses of Art」(「アートのセンス」)は、Cnedとの提携による、Circonflexe Editionの新しいコレクションです。その目的は、子供と大人が芸術作品の発見を共有できるようにすることです。さすが、フランス、なかなか凝った作りです(下掲表紙)。

 La Tour du bout des doigts, Un livre anime pour decouvrir une oeuvre avec tous ses sens, Circonflexe,Paris, 2013

残念ながら、この本はフランス語版であり、日本語版もありません。しかし、よくある「飛び出す絵本」の体裁を取りながら、視覚障害のある読者のために、熱収縮印刷用に加工された特別な紙まで使っています。

きわめて単純な構成でありながら、知性に溢れ、アルバムは子供の目と好奇心を導いて彼を絵の中に引き込みます。描いた線に起伏をもたせたり、 ポップアップ、切り絵の手法などを駆使して、巧みに画中に引き込みます。

一人の男が全身に矢を射られ、前景に横たわっています。ページを切り取ることで彼の地位が明らかにされ、胸に刺さっている矢は、「指先で」安心して触れて見ることができます。

次に、聖セバスティアヌスの物語について、順に説明します。 背景に描かれた二人の女性の敬虔な姿、濃青のヴェール、中心で介抱に当たる女性の高貴な姿と役割も浮かび上がります。

テキストは、CDが付属し、オーディオガイドが美術館訪問でするようにキャラクターの役割や意味について子供たちに説明します。 こうして、遊びながら、子供は絵を読むことを学ぶことができます。 非常にバランスのとれたこのアルバムは、子供の好奇心を維持し、揺るがない真のアートブックの真剣さを持っています。実際に手にとったブログ筆者自身、感心しました。

最後に、視覚障害のある子供たちのために、出版社のウェブサイトは、「指先で」17世紀の大画家 ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの世界を新技術 thermogonflageによる印刷のための絵のロードを可能にします。大変行き届いた未来型の絵本です。


 絵画の構成線を強調表示するポップアップの導入、隠れたウィンドウを使用した質問と回
答、音声による説明などを駆使して一枚の絵を遊びながら理解させるその目的は、子供と大人が芸術作品の発見を共有できるようにする素晴らしい試みです。

本のいたるところで説明を例証するゲーム、質問とアニメーションは芸術の世界を誰でも(老いも若きも)アクセス可能にします。主として指先のツアーで、素晴らしい大家の作品の細部を探索できます。

そして、リフティング・ウィンドウ(隠された質問)を使用した質疑応答ゲーム、音声による説明まであります。出版不況といいながら、頭脳と技術を駆使すれば、大人でも楽しめる子供の本が実現することを示してくれます。

こうした体験をしていれば、歳をとった時に下掲のような書籍に出会っても興味を新たにするかもしれません。

上掲書籍のカヴァーには、ブログ筆者の必要上、原表紙にはない加工をしております(上右端赤丸)。

以前にブログ筆者が記したこの作品についての感想(2005年4月28日)に、的確なコメントを下さった炯眼の読者が、本テーマにはベルリン美術館、ルーブル美術館所蔵の2点が現存しているが、前者を現代の研究者が(真作とみなし)、後者の方が(工房作とみなされる)前者より優れていると考える根拠は少なく、両者とも等しく名画なのではと指摘されていました。さらに、この作品から若干のデジタル・グラフィック(アニメーション)的印象を受けるとの感想も付されており、大変敬服いたしました。当時から、ラ・トゥールは、工房に自らの作品について型紙を制作して、配色、構図などに関してさまざまな工夫を凝らしていたようです。両者の差異は、作品を並立し自らの目で確かめねば分からないほど僅かです。


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失われた真実は元に戻らない?

2019年07月16日 | 書棚の片隅から

 


MICHIKO KAKUTANI ミチコ・カクタニの名を知る日本人は、それほど多くはないかもしれない。いつもこのローマ字表記で記されているから、日系のアメリカ人二世であろうと思ってはいた。(漢字では角谷美智子と書くようだ)。

ブログ筆者がその名を知るようになったのは、正確には記憶していないが、『 ニューヨーク・タイムズ』The New York Times を読み始めてからのことであることは確かだ。 常時読んでいたわけではないが、そのうちに、彼女はジャーナリズムの世界に大きな影響力を持つ同紙の指折りの文芸評論家であることを知った。彼女が担当していたのは、主に書評であったが、政治や文化の領域にも広い視野で論評を展開していた。ピュリツアー賞(批評部門)の栄にも輝いている。いつも歯切れの良い鋭い論評で、目にするとその部分だけは必ず読んでいた。

その著名な評論家が刊行された自著(邦訳)を手にしてみると、ブログ筆者の好むシンプルで、好感の持てる装丁でもある。早速、読み始めた。

今回(1997年)、34年間にわたるニューヨーク・タイムズ紙上での書評担当の後、2017年に退任することを発表されたことで、彼女が歩んできた道を詳しく知ることになった。これだけの有名人でありながら、新聞紙上などの論評はともかく、自著としての書籍刊行は今回が初めてであることも知った。「ニューヨーク・タイムズ」紙の文芸批評で名を馳せた著名な文芸評論家が、同紙からの引退を機に、今日の世界を揺るがしている政治、そして文芸に関わる倫理上の問題に正面から対する書籍を著したのだ。

取り上げられている最も重要なテーマは、なんとロナルド・トランプ大統領が当選してからの世界の変化であった。確かに、この前代未聞の大統領が当選してから、世界は大きく変化した。最大の変化は、トランプ大統領が多用する、自説に反する報道は、すべてフェイク・ニュース fake news (捏造、偽造、でっち上げ)とされることで、真実ではない言説、ニュースが世界に流布され、氾濫したことから始まる。真実を主張するメディアがあっても、”フェイク”の名の下に埋没してしまう。その結果、真実が何かということを知ることが難しい時代となってしまった。そのこと自体は淵源を辿ると、ベルリンの壁崩壊当時から徐々に世界を蝕んできた潮流の現時点の状況ともいえる(Tony Judt, 2019)。

カクタニ氏はこうした一連の変化の根底には、ポスト・モダニズム(とりわけ脱構築主義)、ニヒリズム、インフォティンメント(infotainment, edutainment:特に小学生向けの教育効果と娯楽性を合わせ持つテレビ番組、映画、書籍など)の拡大、浸透が根底にあるとしている。日本についても同様な傾向を感じる人も多いだろう。インターネットの発達もあって(真実か虚偽か分らない)情報が氾濫し、一般の人々には何が真実であるか判別できなくなっている。

政治・外交の世界でも当事者のどちらが主張ししていることが正しいのか、善悪の判断も容易につきにくくなった。真実を主張していると思われる側の立場が、「フェイク!」の一言でいとも簡単に覆される。事実から遠く離れている者ほど、正否の判断ができなくなる。そして、この疫病ともいえる手法は、アメリカから世界へと拡大してしまった。結果として、民主主義の基盤が大きく揺らぎ、精神的な荒廃が人々の心を蝕んでいる。

文芸評論家としてミチコ・カクタニが活動してきた 「ニューヨーク・タイムズ」も、トランプ大統領から名指しで、フェイク・メディアとまでいわれるまでになる。いうまでもなく、トランプ大統領は、その手法を存分に使い、今にも崩れ落ちそうな自らの政治家イメージを、大方の予想に反して、思うがままに立て直してきた。大統領再選期を前に、民主党側にはこの奔放で何を考えているか分からない現職大統領に対抗しうる有力候補は未だ現れていない。

トランプ氏は、就任当時は大統領の任期をまっとうできるかとの危惧を、その強引とも横暴ともいえる対応で巻き返し、一時代前なら軽佻浮薄な時代のメディアにも思えたツイッターを駆使して世界を翻弄してきた。前言を覆すことなど、トランプ氏にとっては、なんの良心の呵責もないようだ。

著者の問題への切り込み方は、新聞評論の影響もあってか、いつも鋭く、問題の核心へと導く。しかし、なぜこのようなことが起き、しかも伝染病のように拡大するのか。世の中には真実を知る人もいるはずだ。なぜ、彼らはそのことをもっと力強く語らないのか。そのための手がかりを本書を手にする読者は得ることができるだろうか。民主主義の将来を含め、多くのことを考えさせる好著である。

 

 

Reference
トニー・ジャット『真実が揺らぐ時:ベルリンの壁崩壊から9.11まで』慶応義塾大学出版会、 2019 (Tony Judt, WHEN THE FACTS CHANGE CHANGE ESAYS 1995-2010)

 

*ミチコカクタニ MICHIKO KAKUTANI
『真実の終り』岡崎玲子訳 集英社 2019 (THE DEATH OF TRUTH: Notes on falsehood in Age of Trump)

本書目次:
第1章 理性の衰退と没落
第2章 新たな文化戦争
第3章「わたし}主義と主観性の隆盛
第4章 現実の消滅
第5章 言語の乗っ取り
第6章 フィルター、地下室、派閥
第7章 注意力の欠如
第8章「消火用ホースから流れ出す嘘
 プロパガンダとフェイクニュース
第9章 他人の不幸を喜ぶトロールたち
    おわりに

 
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老いた漁師の見た夢は

2019年06月19日 | 書棚の片隅から

先日、話題として取り上げたーネスト・ヘミングウエイ(1899〜1961) の作品『老人と海』Old Man and the Sea に代表される短編が、なんと英文法の学習書として大人気となっていることを知った。生来かなりの本好きであるから、ヘミングウエイ の作品も大方手にとっており、以前に記した依頼のあった若い世代に勧めることができるリストの一冊に入れることはほとんど決まっていた。

しかし、かなり個人的関心からの選択であり、ヘミングウエイ だったら他の作品を選ぶ人もあるかなと感じてもいた。ましてや、書店で「受験学習書」の棚にはこの数十年まともに対したことはなかった。しかし、ブログ開設以来、不思議なことにここで取り上げたトピックスが、日ならずしてメディアその他に取り上げられることが、かなりの回数に上った。なんとも不思議なことでもあるのだが、タイムマシンのもたらしたものと思っている。

前回、記した通り、『老人と海』は作家の死後刊行された『海流の中の島々』Islands in the Streamとの関連で、脳裏のどこからか連鎖的に浮上してきた。『老人と海』との関連を探りたいとの思いが、長らく筆者のどこかに潜んでいたらしい。『海流の中の島々』は作者の死後に刊行された唯一の作品だが、『老人と海』のいわば背景のごとき印象を与え、ブログ筆者には見ようによっては『老人と海』がそこから抽出されたような思いもする。

『老人と海』(1952刊行)は、ヘミングウエイ の生涯で最後の作品であり、1953年ノーベル文学賞を授与された。ピュリツアー賞(文学部門)など、多くの受賞対象にもなった。

ストーリーは中編とでもいうべき適度な長さであり、簡潔で分かりやすい。キューバの海辺の地で老境に差し掛かりつつある漁師サンティアゴは、84日間も漁に出ても、獲物に恵まれなかった。漁師仲間が’salao’ と呼ぶ、救い難いどん底の状態にあった。老漁師にはさらに不利な条件がつきまとっていた。小舟 skiff で漁に出ても、他の漁師のように若い見習い徒弟の同行は親の反対で許されず、老人はひとりで大海原に出ていた。しかし、少年は誠実に老人の小屋に食事を運び、老人と好きな野球の話をするのが楽しみだった。彼らが話題にしたのは決まって偉大なプレーヤー、ジョー・ディマジオだった。老人と少年、二人の間は不思議な尊敬と愛情で結ばれていた。ディマジオが出てくることが、20世紀の後半を経験した筆者には、なんとも懐かしい思いがする。

不漁の日が続いた日、老人はキューバの北に流れるガルフ・ストリームへと乗り出すことに決意する。そして、しばらくして、巨大なカジキ marlin の当たりがあり、2日2晩に渡る漁師と魚の壮絶な戦いが始まる。

かくするうちに、老人は、死闘の相手となったカジキへ不思議な尊敬のような念を抱くようになる。死力を尽くしての戦いで3日目、老人は銛で獲物を仕留めることに勝利した。

しかし、老人の帰途には思わぬことが待ち受けていた。巨大な青サメの群れが獲物を待ち受けていた。老人はこの戦いで、唯一の武器である銛を失ってしまう。そして、魂を失ったようになり、身体も傷つき、今や骨だけになった18ft(5.5m)もの巨大なカジキの残骸を船側に結んだまま、ようやく帰港し、自らの小屋で深い眠りにつく。

老人のことを心配した忠実な少年は、いつものように新聞とコーヒーを運んできた。そして老人が眠っていることに安堵する。そして目覚めた時、二人はもう一度漁をしようと約束する。老人が再び眠りについた時、彼は若い時の夢を見ていた。アフリカの浜辺に寝そべるライオンの夢だった。

ヘミングウエイ は行動する作家だった。高校卒業後、「カンザスシティ・スター」の見習い記者となるが、退職。翌年には第一次世界大戦「赤十字」の一員として人民戦線側で北イタリアのフォッサルタ戦線に赴き、重傷を負う。

『 [日はまた昇る』(1926年)、『 [武器よさらば]』(1929年)、『 誰がために鐘は鳴る』(1940年)などの作品に、若き頃の精力的で活動的な姿が重なる。

ノーベル賞受賞後、同年に二度の航空機事故に遭う。二度とも奇跡的に生還したが、重傷を負い授賞式には出られなかった。それ以後、肉体的な頑強さや、行動的な面を取り戻すことはなかった。

 ヘミングウエイ の短編を英文法の学習素材としたことは、素晴らしいと思う。かつて仕事の必要もあって、スペイン語の入門手ほどきをキューバ系アメリカ人から受けたことがあった。幸い半世紀近くを経た今でも、この作品に出てくるスペイン語程度はほぼ消化できている。ブログ筆者はこの話題の学習書を目にしてはいないが、単なる文法の学習ではなく、簡潔な文体に秘められた深い意味を汲み取って欲しいと思う。削り落とされた文体の行間に深い意味が込められている。ヘミングウエイ の真髄は、この簡潔な文体で描かれた味わい深い描写と含意にある。残念ながら、筆者はライオンの夢を見ることはないが、時々深く青いカリブの海を思い浮かべることはある。

 

 

*「英文法 ヘミングウエイで味わう」『朝日新聞』夕刊6月17日

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もう手にとることはないか:E. ヘミングウエイ 『海流のなかの島々』

2019年05月07日 | 書棚の片隅から

 

Earnest Hemingway, Islands in the Stream, cover


最近若い高校生から、比較的読みやすい英語のリーディングスのことを聞かれて、少し頭をめぐらしたことがあった。内容が子供向けではなく、大人になっても印象が残るような本をリストとして教えて欲しいとの難しいご依頼だ。冊数としては20-30冊ぐらいとのご希望だった。長い人生を過ごしてきて、相当の書籍と対面してきた筆者にとっても、かなり難しい要望だ。

『老人と海』を選ぶまで
筆者は英語や文学の専門家ではない。しばらく考える時間をもらった挙句、ヘミングエイの『老人と海』The Old Man and the Sea, 1951 を含む第一次リストを作った。リスト自体については作業途上で、語るべきことは多々あるのだが、今回はこのヘミングウエイの作品を取り上げてみた。その中でもあまり読まれることのない作品『海流のなかの島々』Islands in the Sea, 1977である。ヘミングウエイ ・マニアの間でも、あまり読まれることがないようだ。ひとつには、作者の没後に発見された遺稿が、多分作家の十分な検討なく刊行されたためかもしれない。ちなみにこの作品はリストに入れない。

『老人と海』は文体がシンプルで、しかもそれ自体大作ではないので、比較的容易に読めると思ったからであった。話の梗概も比較的知られている上に、なにしろ、ノーベル文学賞の対象に擬せられた。筆者は映画(スペンサー・トレイシー主演)も見ていて、うろ覚えながらいくつかのシーンが眼底に残っている。一時はヘミングウエイの作品には、かなりのめり込み、主要なものはあらかた読んでいた。しかし、今回改めて知らないことが、きわめて多いことに気づき、驚くとともに新たな知識を求める意欲が出てきた。

アーネスト・ヘミングウエイという世界に冠たる大作家は、若い頃からかなり好きではあるが、最も好きな作家というわけでは必ずしもない。しかし、半世紀ほど前になるが、ジャマイカ、プエルト・リコなどの地域の政治経済調査をする時に、文学好きでカリブ海プエルト・リコ出身のアメリカ人の友人ラモン・Q から、スペイン語の手ほどきを受けたことがあった。その時にヘミングウエイのいくつかの作品を読んだ。この作家は言うまでもなく英語で作品を書いているが、短いスペイン語がかなり出てくる。

余計なことだが、ラモンはとびきりの美男子で一緒に街を歩くと、女性が声をかけるほどだった。ラテン系文化の一端を感じた。残念なことに、その後筆者がアメリカでの研究生活に追われている間に音信普通になってしまった。とても残念に思った。若い頃は空軍中尉として日本に滞在した経験もあった。ヘミングウエイは、V1号戦闘機部隊で実戦訓練をしたことを、回想録に記している。彼は「空」のみならず「海」と「陸」に関わる壮大な作品構想を強く抱いでいたようだ。本書『海流のなかの島々』は言うまでもなく「海」が舞台となっている。1940年頃、英独が戦争状態にあった時代、かつてパリで活躍してしていた芸術家がとその家族をめぐるストーリーである。主人公は2度結婚したが、別れてしまい、三人の男子が残された。本書には彼ら全てが登場する。再言するまでもないが、カリブ海の描写は素晴らしい。

壮大なガルフ・ストリーム
さまざまな縁で、ブログ筆者も『老人と海』や『海流のなかの島々』Islands in the Stream を読んだ時、壮大なガルフ・ストリーム(メキシコ湾流)と、そこに散在する島々には格別の思いを抱いてきた。日本で想像するイメージとはかなり異なる激しい様相を呈する海と気象状況がそこにはある。『海流の中の島々』のタイトルが、ヘミングウエイの人生で、いかなるものを暗示しているか。謎ではあるが、なんとなく思い当たるような気がする。しかし、この作品は、構成からして他の作品とは異なっているように感じた。作品としての緊迫度が少し弱い。作家自らが最終的検討に専念する時間が足りなかったのかもしれない

『海流のなかの島々」
ヘミングウエイの作品は、テーマは鮮明で作家の意図はよく理解できた。しかし『海流の中の島々』 という作品は長い間、心の中でなんとなく落ち着かずにいた。フロリダからキューバにかけてのガルフ湾流が流れる地域は、日本から遠く離れた地域であるにも関わらず、不思議と近くに感じていた。作家はハバナ郊外の邸宅で主たる活動を行ったようだ。

この作家の作品には、ほとんど戦争や内乱がプロットとなっている。『海流のなかの島々』でも、彼自身が1942年から43年にかけて、愛するボート『ピラー』号を改装してQボート、つまり囮船にし、キューバ沿岸に出没するUボートの狼群のパトロールに従事させている。作品では主人公がキューバの警備隊との戦闘で、息子を失い、主人公も銃弾に倒れる。なんとなく、ヘミングウエイ 自身の最後の時を暗示するような作品だ。

後年ふとしたことから、この作品が作家が自決する悲劇の10年ほど前、それもほぼ1951年に書かれた作家のいわば最後の遺作であり、しかも作家の生前、唯一刊行されていなかったことを知った。さらに『海流のなかの島々』の一部に当初『老人と海』が構想されていたことも知った。

スクリブナーとの関係
ヘミングウエイはノーベル文学賞授与の対象となった『老人と海』(1954年)を取り除き、残りの部分を第I部「ビミニ」”Bimini”, 第II部「キューバ」”Cuba”, そして第III部「洋上」”At Sea”からなる構成で、現在公刊されている『海流のなかの島々』Islands in the Stream とすることをイメージしていた様だ。このことは、作家の2番目の妻メアリーが、作家の没後、発見された遺稿について、チャールズ・スクリブナー・ジュニアと話し合い、作家の残したと思われる意図を尊重し、そのままに1970年に刊行したという。

小説『海流のなかの島々』自体は、20年近く前に読んだが、この作家の他の小説の方が、構成力という点でもしっかりしていると思った。しかし、もう一度読みたいとの思いが常に残っていた。作家は「陸」「空」「海」の3次元に関わる作品の構想を抱いていたが、アフリカやスペイン、パリなどを描いた小説に比して、「陸」に関わる『河を渡って木立の中へ』(1950年)は批評家の間で、不評であった。

こうしたこともあって、作家は「海」の次元での作品として、「老人と海」を含む「海」を舞台とする大作を構想していたらしい。いかなる理由からか、作家はそこから『老人と海」だけを取り出して作品化し、生前に刊行した。なぜ、作家がそうしたのか、「海」全体としていかなる構想を持っていたのかは、今となっては全く分からない。『老人と海』はこの作家にとって、「海」に関わる作品シリーズのいわば「コーダ」(大きな作品、テーマなどを統括する結び・まとめ)のような役割を持たせようと思ったのかもしれない。

解明しきれていない謎
ヘミングウエイ の人生が、生活面で幸せであったとは言い切れない。失敗に終わった二人の前妻の間に残された3人の息子は、主人公を愛してくれた。しかし、その息子たちもいなくなった時に、真の孤独、寂寞が迫ってくる。そして、その先にあの衝動的に描かれる自決の最後があった。この事実を考えると、この遺稿作は、より深く考える必要があるように思えた。もう一度、手にとって読む時間はあるだろうか。

 

REFERENCES

Earnest Hemingway, Islands in the Streem, Scribner, 1970: Arrow Books (Random House Group, 2012)

日本語訳 ヘミングウエイ (沼澤洽治訳)『海流のなかの島々』上、下、昭和52年、新潮社 

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現代人はナチの負の遺産にいかに対するのか

2018年11月11日 | 書棚の片隅から


偶然だが、続けてナチ体制の宣伝に深く関わったヨーゼフ・ゲッベルスを扱った作品に出会った。ナチの宣伝相ゲッベルスの元秘書の回想録『ゲッベルスと私:ナチ宣伝相秘書の告白』と映画である。そして、BSドキュメンタリー「帝国のファーストレディ」(2018年11 月8日)を見た。新聞の番組見出しでは、「ナチの美魔女」とあった。後者で主人公のマグダはゲッベルスの妻として、ナチの狂気と恐怖の中に生き、そして自ら命を絶った妖しい雰囲気を持った女性であった。

ヨハンナ・マリア・マクダレナ・ゲッベルス、通称(マクダ・ゲッベルス、1901年 - 1945年)はナチス・ドイツの宣伝相ゲッベルスの妻であり、第三帝国の理想を具現した母親像を具現して生きた。自決したため、44歳という短い人生ではあった。平穏な時代であれば、ブログ筆者と一部は重なるかもしれないほとんど同時代人であることに気づき改めて戦慄する。

ブログ筆者の父親の書斎の片隅にゲッベルス『宣伝の威力』の翻訳があったことを思い起こす。戦後の混乱の中、ほとんど読むこともなく禁書のように処分してしまったことを残念に思うこともある。

ゲッベルスについては多少の予備知識もあり、その後の知識の蓄積で、かなり関心度は高かった。かつて見た映画で、どうしてこの貧相とも言える細身の男にドイツ国民が意のままに翻弄されていたのか、不思議に思った。幼少時の小児麻痺によって発育に問題があったゲッベルスは、小柄で足を引き摺り歩く、見栄えのしない風貌であった。それにもかかわらず、人を扇動する鋭い弁舌をもって大衆を思うがままに扇動し、ヒトラーとともに狂気の時代を築いたナチス最高幹部の1人であった。

マクダとゲッベルスの秘書であったブルンヒルデ・ポムゼルという2人の女性については、ほとんど知識がなかった。2人ともヒトラーおよびゲッベルスというナチの中枢に最も近いところにいた。

かつて見た映画で妻マクダはゲルマン系の金髪の美女、そしてたくさんの子供を産み育てる、ナチのプロパガンダ通りの模範的な女性像を誇っていた。

マクダはヒトラーがご執心だったようだが、ゲッベルスとの結婚に賛成し、立会人を務めていた。ゲッベルスはナチ体制の広告塔であったが、マグダはそれを支える最大の柱だった。妻子のいなかったヒトラーの愛人エヴァ・ブラウンが、最後まで大衆の前に姿を現さなかったのに対して、マグダの動向は、大衆の注目するところだった。

1945年4月20日、ソヴェート赤軍がベルリンに到達し、『ベルリンの戦い』が始まる。22日、マクダは6人の子供を伴って、総統地下壕に避難してきた。子供達は着弾の音に怯えながらも耐えていたようだ。まもなく訪れる最後の日を知っているマクダは子供たちにことさら明るく振る舞い、歌を歌わせる。他方、自らは急速に鬱屈した表情に陥っていく。

1945年4月20日、ソヴェート赤軍がベルリンに到達、『ベルリンの戦い』が始まる。ゲッベルスはひたすら自分の書類や日記の整理をするだけだった。29日、ゲッベルス立会いのもと、ヒトラーはエヴァと結婚し、その後間もなく2人は自殺する。

ヒトラーの遺言により首相に任命されたゲッベルスは、ソ連に条件付き降伏を願い出たが拒否され、無条件降伏を迫られて交渉を断念した。ゲッベルスは地下壕で家族と自決する覚悟だった。

5月1日、医師の助けを借りながら、マクダは6人の子供たちにモルヒネ入りのココアを飲ませて眠らせ、青酸カリを投与して殺した。映像が残っているだけに、不憫で衝撃的だ。マクダは生きながらえても、ナチの重荷、ゲッベルスの子供という負の遺産が、一生子供たちを苦しめるだろうと考えていたようだ。そしてゲッベルスとマクダは戸外に行き、服毒あるいは銃殺により心中、遺体には隊員にガソリンをかけさせ焼失させたが、不完全なままに残った。夫妻の黒焦げの遺体と子供達の遺体も道路上に並べて放置されている写真が残っている。これが第三帝国の最後を象徴するものとはいえ、慄然とする。

他方、ポムゼルはゲッベルスの秘書として働き、昨年2017年2月に死去するまで、103歳の人生を生きた。ゲッベルス夫妻や子供たちとは異なり、絶頂と破滅・弾劾の二つの時代を生きたのだ。「なにも知らなかった私に罪はない」という彼女の言葉は、ゲッベルスの秘書であったという役割の重みからすれば、自己弁護としてはあまりに卑屈、卑怯にも聞こえる。全てを知っていたのではないかという声が聞こえてくる。マクダとは異なり、生きることで針の筵の時間を長引かせたともいえる。彼女の生き方を非難・指弾することはたやすい。しかし、それは自ら責任をとることを避けることが多い現代の我々の生き方に重なってくる。折しも2020年の東京オリンピック開催に無批判に突き進んでいる時流に何か恐ろしいものを感じている。メルケル首相は、反ユダヤ人の動きが目立っていると警告している。


ブルンヒルデ・ポムゼル+トーレ・D..ハンゼン『ゲッべルスと私』(監修:石田勇治、翻訳:森内薫+赤坂桃子、紀伊国屋書店、2018年)

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1枚の絵が語る数千の言葉:プルーストと絵画

2018年07月23日 | 書棚の片隅から

 

異常な酷暑が続く毎日、ともすれば気力が低下して、眠くなったりする。そうした折々に見ているものがいくつかある。多少は消夏法になっている。今回はそのひとつをご紹介しよう。

『プルーストにみる絵画』Paintings in Proust なる一冊だ。20世紀を代表する作家マルセル・プルースト(1871~1922)の一大長編『失われた時を求めて』に明示的あるいは暗黙裡に登場するさまざまな絵画を対象とした巧みな構成の一冊である。必ずしも最初から読み始める必要もない。プルーストの作品には200を越える絵画が出て来るといわれるが、プルースト・フリークではないブログ筆者は、掲載されている絵画作品を見てもプルーストのどこに出てきたか、すぐに思い当たるものは多くはない。それだけに改めてあの大著を繰ってみようかという思いも生まれる。日本はフランスに次ぎプルースト愛好者が多いのではないか。何しろこれまで10種類近い翻訳があり、優劣を競っている。ちなみにブログ筆者は鈴木道彦氏訳で読んだ。大変洗練され、読みやすい訳と思った。

さて、本書は、354ページにわたる書籍だが、装丁も瀟洒で素晴らしく、プルースト・フリークでなくとも、手元において、折に触れて手に取りたい魅力的な体裁だ。総数209点の掲載絵画作品のうち199点はカラー印刷であり、本書の魅力を際立たせている。

さらに著者のEric Karpeles エリック・カルペレス自身が画家でもあり、絵画の世界に通暁していることも、本書の価値を引き立てている。類書とは異なる巧みな構成だ。

ブログ筆者にとって有難いことは、本書が英語で書かれていることだ。これまで比較的、未開拓だった英語圏の読者を誘引、魅了することだろう。さらに本書は判明している限りでは、下記の2種類の表紙の版があり、読者の好みで選択できる。

上掲:
絵画作品 

Grand Odalisque, Jean-Auguste-Dominique Ingres, 1824 (関連記事、Karpeles, p.170)

 

Supper, Leon Bakst, 1901(関連記事、Karples, pp.208-209)
このパリの社交界の女性の頭を飾る帽子の奇抜ともいうべきファッションは、当時大きな話題となったようだ。初めて見た作品で大変興味深かった。

プルーストについての知識が少なかったブログ筆者に大きな救いになったのは、かつて勤務した職場に日本を代表する卓越したプルーストの研究者がおられたことだった。ご著作をいただいたり、啓発され自分で関連文献を求めたりで、作品のいくつかは読み、そのつど目を覚まされた。わずかではあるが、この世界的な作家の作品、人となりについての知識も増えた。しかし、専攻分野も異なり、プルーストにのめり込んだことはない。

プルーストの作品と美術、音楽が切り離せない関係にあることはかねて感じていた。とりわけ吉田一義氏のご労作などを手に取って以来のことである。今回のカルペレス の著作は視角が異なり、プルーストの作品に出てくる絵画作品の一枚ごとに、該当箇所やコメントが記されている。Narrator はマルセルという設定だ。

プルーストの仕事部屋には、ほとんど絵画(複製を含め)の類はなかったといわれるが、名作『失われた時を求めて』の執筆の時には、ほとんど組み込むべき絵画作品の詳細なイメージが作家の頭には入っていた。プルーストは「私の作品は美術だ」とジャン・コクトー宛の書簡に記していたといわれる。

View of Delft, Jan Vermeer, 1619-60
(関連記事: Karpeles pp.216-217) 

身体は虚弱であったプルーストであったが、ヨーロッパの美術作品についての造詣は深かったことがうかがわれる。ルーヴルへはいうまでもなく数多く足を運んだ。ヴェネツィアやオランダの美術館には行ったことがないようだが、作品についてはジョットからシャルダンまで幅広く良く知悉していたようだ。本書を見てその視界の広さに驚かされる。

Charles I, King of England, Anthony van Dyck, c.1633
(関連記事、Karpeles, pp266-267) 

Charles I: King and Collector
22 Jan 2018 by Edited by Desmond Shawe-Taylor and Edited by Per Rumberg

 

プルーストはラスキン Ruskin に深く傾倒していたが、ブログ筆者もかつて、ターナーの作品について多少調べた折、ラスキンの著作を読み、考えさせられることがあった。

本書の著者 エリック・カルペレスは、プルーストはベルリーニ Berlini からホイッスラー Whistler まで100人を越えるヨーロッパの画家を見ていると述べている。さらに、『失われた時を求めて』を 「西欧文学の中で最も充実したヴィジュアルな著作のひとつ」と評している。
 
Portrait of Savonarola, 1498
(関連記事:Karpeles PP.92-93) 

プルーストは身体が虚弱であったこともあり、ニューヨークなどの美術館にまで出かけることはできなかったが、小説に取り上げられた作品は彼の地まで包含している。プルーストの著作をひもとく人々にとって、フィリップ・ミシェル=チリエ[著] 保苅瑞穂[監修] 福沢英彦・中野知律・横山裕人[訳}とともにまたとない手引きとなるだろう。ちなみに、ミッシェル=チリエのこの大部な著作は、これまでの人生で、ブログ筆者が手にしたことのある最も興味深い一冊である。ある作家や画家の生涯、性格、家族、友人、社会的関係などに関して、これほどまでに仔細に調査が行き届いた著作を見たことはない。プルーストに関わる百科事典と言えるだろう。今回のカルペレスの新著は、それをさらに補填する瞠目すべき一冊だと思う。

Roses in a Bowl, Henri Fantin-Latour, 1882
(関連記事:Karpeles pp.118-119) 

 

References: 

Eric Karpeles, PAINTINGS in PROUST, A Visual Companion to the Search of Lost Time, Thames & Hudson, 2017

Valentin Louis Georges Eugène Marcel Proust
À la recherche du temps perdu, Bibliothèque de la Pléiade,1987,4 vols.
テクスト(邦訳)
『失われた時を求めて』鈴木道彦訳 集英社 文庫版13冊本、 2006年~2007年

吉田一義『プルーストと絵画』岩波書店、2008年

フィリップ・ミシェル=チリエ[著] 保苅瑞穂[監修] 福沢英彦・中野知律・横山裕人[訳}『事典 プルースト博物館』筑摩書房、2002年
(本書はプルーストの百科事典の感があるが、この時代の知識階級の自伝、社会史として読んでも極めて興味深い。よくぞこれほどまでに調べ上げたという畏敬の念を抱く。プルースト愛好者ならずとも魅了される。)

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あらゆる障害を乗り越えて:マルクスとエンゲルスの妻たち

2018年06月12日 | 書棚の片隅から

 

トリーア、ポルタ・ネグラ


映画『マルクス・エンゲルス』を観る。今年はマルクス生誕200年に当たり、この世界に突出して大きな衝撃を与えた人物と思想を回顧するさまざまな試みがなされている。関連した出版物も多い。マルクスは1818年5月5日、ドイツ(プロイセン)のトリーアでユダヤ人家庭に生まれている。映画の原題は、The Young Karl Marx 。監督のラウル・ペック Raoul Peck については、ブログ筆者は知らなかったが、今回の作品は失われていた記憶を少し取り戻す効果はあった。2017年、フランス、ドイツ、ベルギーの合作である。日本語版タイトルは『若き日のカール・マルクス』とした方が原題と内容に近かったのではないか。

実は、マルクス、エンゲルスの生涯を通しての人物像、時代回顧が観たかった。例えば、マルクスの晩年はいかなるものだったか。エンド・クレジットに20世紀の劇的出来事と人物像が流れるが、全体に詰め込み過ぎで忙しい印象だった。映画というメディアの限界かもしれない。

確かめたかった問題
最近のThe Economist誌「マルクス再考」'Reconsidering Marx' と題した短いエッセイに、マルクスに関する伝記は数多いが、アイザイア・バーリン Isaiah Berlin(1929-1987)のKarl Marx(1939)が、依然としてベストだと記されている。実はこの哲学者、思想家についての研究者であるカナダ人の友人に推薦され、若い頃に読んだことはあった。小著の部類に入るが、マルクスという型破りの人物を自分なりに理解できたと思った。

1840年代、怪獣ビヒモスにたとえられる産業革命(ブログで一部連載中)が、発祥の地イギリスからヨーロッパ大陸へも拡大、本格的展開を始めた頃が舞台となっている。社会体制が大きく揺らぎ、それまでの貧困とは質を異にする資本主義の巨大な波が生み出した新たな貧困と差別が蔓延するようになった時代である。

映画は、若い時代のマルクスと妻のイェニー、そして終生の友となったエンゲルスとの出会いと交友関係が中心となっている。世界を揺るがせた人物だけに、今ではその人物像などもかなり明らかになっている。しかし、映画は字幕スーパーなので、ある程度の時代背景、人物についての予備知識がないと速度が早すぎ、分かりにくいところがある。映像を止めて見たい箇所がいくつかあった。

振幅の大きな人間
マルクスの生涯は彼が生きた時代環境も影響してか、かなり破天荒なところがあった。1949年トリーアを出て以降、無国籍者として放浪の人生だった。性格もかなり粗暴で自己中心的でもあり、飲酒、喫煙にふけり、家計も生涯を通してほとんど貧窮状態に近かった。盟友エンゲルスの多大な援助、妻イェニーの母の遺産相続などで、窮地を救われたりしていたらしい。それでも一時期家政婦との間に非嫡出子をつくるなど、放埓な生活を過ごしていた。こうしたひどい生活を送りながらも、主たる活動の場となったロンドンでは貧困地域のソーホーに住みながら、大英博物館図書館に日参する側面があったことも、興味深い点だ。

新たな知見もいくつかあった。そのひとつは、1836年トリーア時代に4歳年上のイェニー(イェニー・フォン・ヴェストファーレン)と婚約し、1843年に結婚したことだ。妻イェニーは名前から推定できるように貴族の娘であった。かつてトリーアのマルクスの生家を訪れた時、説明を読んだはずだが記憶になかった。最近のように中国人を中心に観光客がひしめく時代ではなかったから、マルクス・ハウスの展示も簡素であった。マルクスは弁護士だった父親の考えもあって、1836年ボン大学からベルリン大学へ転学している。乱脈な息子に危惧を感じたのだろう。その後、パリ、ブラッセル、ロンドンなど転々とする人生だった。

妻イェーニの存在
貧困な家庭のマルクスと貴族階級の娘という取り合わせは、経済的にも思想的にも正反対だが、結果としてはイェニーはマルクスを助け、歴史に残る人物を支え切った。マルクスは経済学者でもありながら、家計の管理能力は全くなく、生活は貧困を極め、一時は離婚の危機もあったようだ。マルクスがなんとか波乱の多かった生涯を全うしえたのは、妻イェニーの絶大な忍耐、献身と盟友エンゲルスからの経済的支援があったからではないだろうか。イェニー自身はその出自からも、家計の管理能力などはあまりなかったらしい。しかし、彼女は家庭の貧困や夫の人格的欠陥を補い、3人の娘を残し、1883年に世を去っている。「マルクスの妻」というテーマで映画化もできるかもしれない。

エンゲルスの妻は
他方、死後のマルクスの遺稿整理まで深く関わった盟友フリードリッヒ・エンゲルスは、マンチェスターの大紡績工場主の父の下で、裕福な家庭に生まれた。しかし、労働者としてエンゲルス(父親)の工場で働いていたリッジー(メアリー)・バーンズと出会い、相互に愛し合う関係になる。エンゲルスが彼女のいかなる点に惹かれたのかよく分からない。彼女は極貧のアイルランド系で教育もほとんど受けていなかった。彼女の人生については、これまでもほとんど知られていない。彼女がエンゲルス(父親)の工場を解雇された後は同棲生活に入った。イェニーについてはこれまでかなりのことが語られてきたが、メアリー・バーンズについては映画では比重が他の3人より一段低いのはこうした点にあるのかもしれない。エンゲルスはメアリーと生活をともにしながらも、他方では大紡績工場の経営者の嫡男ということもあって、女性関係はかなり乱脈でいい加減だったようだ。

しかし、1863年エンゲルスがマンチェスター近くのサルフォードへ工場経営のため移った年、20年近く連れ添った事実婚の伴侶リッジー・バーンズが亡くなった。それまでリッジーは、移住後のロンドンにおけるヴィクトリア社会に慣れることだけでも大変な苦労だったはずだ。それでも、国籍、階級、教育、宗教の違いにもかかわらず、二人の関係は続いた。興味深いことは、遊び人のエンゲルスにとって、リッジーは他の女性関係とは一線を画す存在であり、その死は大きな衝撃だったようだ。マルクスにもそのことを知らせている。これに対し、なんというべきか、マルクスは彼女の死を悼むことより、返信で金の無心をした。エンゲルスが激怒したことはいうまでもない。マルクスにはエンゲルスの悲しみもなかなか通じなかったようだ。マルクスの人間性を疑いたくなる一面だ。しかし、エンゲルスは最後まで人間として欠陥だらけのマルクスを支援した。マルクスは、資産家で脇の甘いエンゲルスにたかって('sponge off': The Economist) 生きてきたともいえる。マルクス、エンゲルスともに、当時の社会規範から見ても、放縦で逸脱した人間だった。その二人をつなぎとめていたのは、その判断の正否は別として、人間世界の悲惨な現実と将来への正義感であったといえるだろうか。

最近は、リッジー・バーンズについてもわずかに残る史料を手がかりに小説も生まれ、その輪郭が語られるようになった。リッジーは夫エンゲルスを助け、きわめつきの悪筆だったマルクスが残した断片的資料などを整理し、マルクスの思想体系をひとまず完結するに影の力となったと思われる。労働者としてまともな教育すら受けられなかったリッジーについても、もう少し知りたかった。エンゲルスは彼女の仕事にもかかわらず、妹のリディアと結婚した。

岩波ホールを出ると、そこは映画の世界から200年経った夕闇迫る世界だった。一時は足繁く通った界隈だが、最近は1年に数回になった。馴染みの店も大きく変わってしまった。


References

’Second time, farce’、The Economist May 5th 2018
ハンス ユルゲン クリスマンスキ(猪股 和夫訳)『マルクス最後の旅』太田出版社、2016年
 Gavin McCrea, Mrs. ENGELS: A Novel, Catapult, 2015

大繊維企業の経営者であったエンゲルスは、ロンドン市内にこうした住宅を複数所有していた。

 

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読み尽きることのない世界:パンディモニアム

2018年04月21日 | 書棚の片隅から

Philip Jamea deLoutherbourg, Coalbrookdale by Night, 1800, Oil on canvas, 26 3/4 x 42 1/8 in.
Science Museumu/Sciencens Socoety Picture Library, London

フィリップ・ジャメア・デルザーブルグ『夜の炭鉱町コールブルックデール』(アイアンブリッジで知られる地域) 

 

 

これまでの人生で手にしてきた書籍や書類の数はかなり多い。しかし、その中には様々な理由で最後のページまで読まなかったものもある。他方、いくら読んでも尽きることのない圧倒的な迫力を持つ本もある。といっても百科事典の類いではない。そのひとつの例を上げれば、下記のなんとも不思議な著作だ。入手して以降、断捨離で整理されることなく、書棚から消えたことがない。時々引っ張り出しては、辞書のように読んでいる。

Pandaemonium, 1660-1886: The Coming of the Machine as Seen by Contemporary Observers, By Humphrey Jennings, Edited by Mary—Lou Jennings and Charles Madge. New York :The Free Press, 1985, 376pp. (ハンフリー・ジェニングス(浜口稔訳)『パンディモニアム』パピルス、1998年 )

18世紀半ば、イギリスに起きた産業革命、その発生の過程、発展・衝撃について、当時の人々はそれぞれにどう感じ、何を考えていたのか。元来、詩人であり、”ドキュメンタリー・フィルム・メーカーであったハンフリー・ジェニングス Humphrey Jennings が、1937年から1950年の初めまで(この年ジェニングスは早逝した)のほぼ13年間に集めに集めた膨大な文書、資料などの集積が本書の源になっている。ジェニングス自身この世界においてもかなり変わった人物であった。

目的を果たす以前に世を去ったこの異才の死後、娘のマリー・ルー・ジェニングスおよび(ハンフリーの協力者)チャールズ・マッジがおよそ35年近くの年月を費やしてやっと一冊の書籍の体裁にまでまとめ上げた。なぜこれほど時間を要したのか。実は早逝したジェニングスには自ら本書を編纂・刊行する時間が与えられなかった。その意図を娘と友人が推し量り、一冊の本の体裁で出版するには想像を超える努力、試行錯誤があった。残された資料の編纂作業だけでも、それはあたかも「無数の異なった動物がお互いに争い、貪り食い合った結果」と形容されるほどの多難な仕事だったのだろう。


 

Humphrey Jennings

 

ジェニングスの死後に残されたものは20冊の綴じられた書類の束、その内容は産業革命を間に挟んだおよそ200年近い年月に生きたあらゆる領域の文人、学者、ジャーナリスト、科学技術者、政治家、社会観察者などの手になった作品やノートの部分の的確な引用、それらの手書き、タイプ印字、ジェニングスの覚書、注などの体裁をとっており、加えて1000枚を越える大量の複写資料であった。ジェニングスは当時としてもかなり変わった人物ではあった。何本かの映画は残したが、書籍は一冊もない。

新たなイメージによる産業革命史の組み直し
生前、精力的に集めたこれらの資料を使って、彼は何を創ろうとしていたのだろうか。あくまで近くにいた人々の推定にすぎないが、彼が常に頭ををめぐらしていたことは、”想像(イメージ)の世界における産業革命の歴史”を作品化しようという思いだった。その実現のための筋書き、そのための手がかりだけが残された。しかし、その作品の構成をいかにするかという点についてはほとんど何もジェニングスは具体案を残さなかった。しかし、ジェニングスの頭脳には、恐らくこれらの資料を使い、一連の想像上の膨大な歴史を、それまでにない斬新な形とアイディアで(その中には映画も含まれていたかもしれない)構成することだった。産業革命を挟んだ時期を、その時代に生きた人々の残したものから、新たなイメージで再構成しようとの試みだったと思われる。さらに編者の大変な努力の成果だが、読者が本書のどこの部分から入り込もうと、その緒と思われる口を手がかりに探索を深め、全体が見渡せるようなとてつもない次元の作品世界を構想していたかに見える。そのためには、本書には特別に極めて詳細な索引とともに、「主題系列」という工夫された作品系列が準備されている。その一つを選ぶことで、読者が自らの意図に応じて、新しいイメージの産業革命当時の世界観・世界像を築き上げることができると考えられたのだろう。

産業革命を動かしてきたもの
本書の題名はジョン・ミルトンの『失楽園』Paradise Lost (1660) の第1巻で描かれる Pandaemonium (世界のあらゆる悪が累積する地獄の宮殿、伏魔殿)からとられている。オーウエル(1903-50)はその名作『ウイガン波止場への道』で「通常、話題とされる社会主義は、機械的な進歩という考えと強く結びついていて、究極ではあたかも宗教のようになっている」と嘆いた。さらに「社会主義者は常に機械化、合理化、近代化に好意的だ。あるいは少なくもそうあるべきだと考えている」と述べている。現代は第四次産業革命の最中にあるといわれるが、この考えは今でも無意識のうちにもかなり受け継がれているのではないだろうか。

ジェニングスは、イギリスにおいて、毛織物業、綿織物業、製鉄業、蒸気機関の発達などを契機に展開した第一次「産業革命のイメージ上の歴史” imagenateive history of Industrial Revolution」として描くことを企図したようだ。産業革命を体験した同時代人contemporaries の詩人、小説家、化学者、美術家、社会観察者などの手によって書かれたさまざまなものを持って描き出そうという構想らしい。ブログ筆者も若い頃、産業革命期綿織物業の展開過程に関心を抱き、かなりのめり込んだ。今でも探索して見たいトピックスがいくつかある。産業革命のもたらした影響と衝撃については多数の評価がなされてきた。ジェニングスの試みは、できうるがきり多くのスナップショットのような材料の集積から新しいイメージを持った歴史像を創り出そうというものであったのかもしれない。

人々が選んだ道
産業革命が綿織物業などで生まれ、織物機械の音が響くようになり、”進歩”という名の車輪が動き出した。各地に工場が生まれ、資本家に雇われて働く以外に生きる道がない労働者が急増した。工場の煙、油や塵埃で汚れた工場地帯、スラム、ワークハウスなどの実態は、カーライル、ディケンズ、ナスミスなどが生き生きと描き出した。かつては美しい田園地帯も煤煙と油で汚れた殺風景な工場地帯へと変容して行った。莫大な「富」とともに多数の「貧困」が生まれ、それを救おうとする人々が現れた。

産業革命で生まれる新しい物質主義とモラルの衝突もある。ウエリントン公とサー・ロバート・ピールという古い貴族的体制の守護者が、産業革命の立役者のひとつ、新型の蒸気機関車の運行に際して、不慮の事故があったことに関わって、鉄道の起業家や資金提供者に蒸気機関車のお披露目行事の中止を求めたこと、それに対する反対の動きなども記されている。収録されたテキストやフレーズの含意はさまざまで容易に収斂しない。

目の前に起きていることへの執着
チャールズ・ラムはワーズワースとの会話で、快活に「彼が愛した汚いロンドンを出て行こうと思わないと話している。・・・山など見なくても構わない」。以前に取り上げた「ロウソクの科学」のマイケル・ファラディも大御所のデイヴィとともに時代の人であり、なんども登場している。例えば、1827年の10月6日の日記には、セント・パウル大寺院の方向に眺望された美しい夕空の光景が記されている。「その光景はたいへん美しかった。多くの人々は、暗闇の光は寺院の方から射していると思って信じて歩いて行った。時は8時頃だった。」(マイケル・ファラデーの日記から)。

失われるもの
さらに、チャールズ・ダーウイン Charles Darwin は「自らの生涯を科学の研究に費やしたため、審美的な感覚を失った」と嘆いている。あるいは大化学者ハンフリー・デイヴィ Humphrey Davyは、かつてアマチュアの詩人であったが、今はルーヴルの展示品でもアンティノオスの石膏作品については、”大変美しい鍾乳石”と賞賛するが、その他については惹かれなくなったと告白する。

産業革命という「進歩の車輪」は多くのものを作り出すとともに、破壊して行った。その時代はジェニングスが構想したように、時代の多くの著名な人々、ディケンズ、デフォー、ラスキン、バイロンなどばかりでなく、それほど著名ではなかった人々によって、さまざまに記され、描かれた。

ジェニングスは1950年に世を去る前に、自身はどのような考えを持っているかと問われた時、「機械の到来は人間の生活の何かを破壊しつつある」と考えていたようだ。


『パンディモニアム』という破天荒なイメージ世界の構想を抱いたジェニングスは社会主義者としても変わっていて、ウイリアム・モリス William Morris のロマンティックな伝統を継承している。そしてこの機械化が人間の生活に様々な悪い結果をもたらすという考えが本書に溢れている。Paradise Lost 「失楽園」の堕天使から始まって「伏魔殿」(あらゆる悪の宮殿)がいかにして世界に生まれるのか。人間は伏魔殿の築造に向かって進んできたのか。

最終的に、本書に収録されたテキストは372本、さらに数えきれないフレーズ、図などからなり、最初に設定されたジョン・ミルトンの「パンディモディアム」に絡みとられ、紡がれて、不思議な作品として提示される。「パンディモニアム 」についての著者の構想や説明は一切ない。答えは何も準備されていないのだ。しかし、このとてつもない作品に接する読者は、当時を生きた人々の様々な足跡から、産業革命期という特別の時代に生きた人々の考えや社会の空気にこれまで以上に緊迫感を持って接することができるだろう。

破壊と混迷の中にある第四次産業革命といわれる現代、その行方はほとんど何も見えていない。ジェニングスの本書から学ぶことは多い。

 

* 本ブログ連載の『L.S.ラウリーの世界」と一部重なる印象を抱かれる読者がおられるかもしれない。ラウリーは絵画という限定されたメディアではあるが、一般の画家が題材にしないような産業革命後のマンチェスター近傍の変化を克明に描いた。産業革命という変化が単に生産や技術の仕組みや工程での変化にととまらず、産業社会全体の性格、そこに暮らす人々の生活様式や思考、審美感まで変容させる変化であることの意味を、様々な観点から包括的に見ることの必要性を痛感する。

 

 

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ロウソクはなぜ燃えるのか

2018年04月06日 | 書棚の片隅から

 

ジョルジュ・ド・ラ・トゥール作品部分
Q. 作品名はなんでしょう? 
 

 

17世紀初めのフランスでは、燃えている薪などの焔は身体に悪いといわれていたらしい。アンリIV世の侍医であったデュレ医師は当代きっての名医と言われていたが、暖炉の残り火が燃えているとすぐに水をかけて消したといわれる。ロウソクを見ても、身震いしたほどだと伝えられる。火が燃えるという現象が分からず、説明できない恐怖や神秘的なものを感じていたらしい。確かに、闇の中で焔が揺らめいているのを見ると、神の存在などを思ったのかも知れない。

このくだりを読んで、すぐに頭に浮かんだのは、子供の頃読んだマイケル・ファラデーの『ロウソクの科学』だった。小学生の頃は理科好きで、6年生の学芸会で塩素酸カリウムと二酸化マンガン(触媒)を反応させ、酸素をつくる実験をしたことなどを思い出した。今でも化学反応式や装置を思い出すことはできる。『ロウソクの科学』を読んだのはその頃だろうと思い、調べてみたところ、日本語訳と年代から『ロウソクの科学』矢島祐利訳(岩波文庫、1933年)であったと考えられる。当時はかなり読まれたのではないかと思われる。ファラデーの名はよく知られ、実際、世界中で理科への入門書として使われていた。ただ、肝心の内容については、あまりよく覚えていない。「ロウソクの画家」ともいわれた「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール」のことも思い出し、もう一度読んでみたいと思っていた。

素晴らしい新訳
過日、書店でたまたま新訳『ロウソクの科学』(竹内敬人訳、岩波文庫、2010年)が目に止まったので早速購入し、読んでみた。驚いたのは、懇切丁寧で目配りのきいた素晴らしいい一冊であることだった。なぜ、もっと早く読まなかったのだろうという思いがした。ファラデーの6講にわたる講演もさることながら、訳者の『ロウソクの科学』ができるまで〜訳者前書きに代えて〜、「ファラデー 人と生涯」、文献・資料、「訳者後書き」が実に充実しており、感激した。昨今、しばしば見られる粗雑な翻訳書とは明らかに一線を画する、それ自体ファラデーの研究書のごとき印象を受けた。読後、大きな充実感とともに、多大な努力を傾注された訳者に感謝の思いでいっぱいであった。

柱となる6つの講義は、ファラデーが行った青少年のためのクリスマス講演の講義録であった。その部分も大変わかりやすく、改めて若い世代への講演のお手本のような感を受けたが、ブログ筆者がとりわけ訳者に感謝の思いを抱いたのは、ファラデーの生涯についての詳細な解説・記述であった。少し、その概略を記してみる。

ファラデーこと、マイケル・ファラデー (Michael Faraday, 1791-1867)は、サリー州の村で生まれ、父親が鍛冶屋であった。出自は労働者階級といえる。ファラデーが生まれた頃に田舎からロンドンへ移住した。産業革命が展開し始めた頃であり、多くの人がロンドンなどの都市へ移住していた。

ファラデーが受けた学校教育とはせいぜい読み書きの手ほどき程度であり、13歳の時に書籍商で製本業も営むリボーという名の店に使い走りとして無給で雇われ、約1年後の1805年に製本工見習いとなり、約8年を過ごした。当時の徒弟制度ではごく当たり前の経路だった。この頃、仕事で目にした電気関係の書物に興味を惹かれ、化学と電磁気学に関心を持つようになっていた。大変仕事熱心だったので店主のリボーや顧客からも目をかけられていたらしい。

才能を見出した人
リボー の店の上得意で富裕な紳士であり名高い音楽教師であったダンスから、ある日、当時ロンドンの名物でもあった王立研究所教授のハンフリー・デイヴィー(Sir Humphry Davy, 1778-1829)の最終公開講演シリーズの入場券(4回分)をプレゼントされた。ダンス氏もファラデーの日頃の働きぶりを見ていたのだった。この講演は当時ロンドン社交界の名物行事となっており、入場券も徒弟見習いの身ではとても手が届かないものだった。ファラデーはこの好意が大変嬉しかったのだろう。克明にノートを取り、お得意の技術で立派に製本化した。

進学の道も閉ざされていた徒弟のファラデーは、製本のために送られてきた文献や大英百科事典(Encyclopaedia  Britannica)の記述を読んで独学で知識を蓄積していたようだ。余談だが、ブログ筆者も戦後出版物が十分なかった頃、平凡社と富山房の百科事典を楽しみに読んでいた。インターネットなき時代、これ以上の情報源は他に見当たらなかった。

科学の道への勉学の思いが絶ち難かったファラデーは、その後王立研究所の会長やデイヴィー教授に仕事の可能性を尋ねる書簡を送ったが、当時の階級社会ではほとんど実現されない、不可能な願いだった。その中で、デイヴィー教授はその熱心さに好感を抱いたようだが「科学の道は厳しい。自分の仕事(製本工)に専念するのが良い」との書簡を送っていた。

思わぬ幸運
しかし、まさに幸運というべきだろう。デイヴィー教授の助手が喧嘩が原因で解雇され、助手が必要になった。ファラデーは急遽採用され、週給25シリング、研究所内の居室と石炭、ロウソク込みで雇われることになった。1813年3月1日に正式辞令が交付された。デイヴィー教授の父親も労働者階級の木工であったことなども、ファラデー採用に影響していたかもしdれない。

王立研究所は財源確保のために、富裕な上流階級を対象に研究所の教授が最新の科学情報などについて講演をしており、デイヴィー教授はそのためにも大変めざましく活躍していた。広範な研究活動の成果の一つとしての坑夫用安全燈デイヴィー・ランプの発明でも知られている。

他方、ファラデーは研究所の下級職員ではあったが、人生を託する所を得て真摯に研究に励んだ。そこへ再び思わぬ幸運が舞い込む。大陸フランスで科学研究に大きな関心を寄せていたナポレオンは、仏英が交戦中であったにもかかわらず、デイヴィー教授に入国許可と様々な恩典を与え、フランスへ招聘する。ファラデーも一行に加えられ、形の上ではデイヴィー教授夫妻の従僕としてではあったが、当時としては莫大な資金を要するグランド・ツアーに随行することになった。正規の高等教育も、外国語教育も受けることができず、社会的活動の機会もなかったファラデーにとっては、このツアーはその後の活動に多大な財産となった。デイヴィー教授はこの旅行の途上、ファラデーにとって個人教師のような立場にあり、ファラデーにとってはまたとない機会となった。ファラデーにとっては名実ともに「グランド・ツアー」であった。

ファラデーはその後着々と業績を上げ、1824年にはイギリスの科学者にとって最高の名誉である王立協会会員に選ばれた。しかし、世俗的な栄誉や地位には恬淡としていた。ナイトの称号も、王立協会の会長職もすべて辞退して、「ただのマイケル・ファラデーでいたいのだよ」と知人に述懐したと伝えられる。ブログ筆者のごひいきの画家L.S.ラウリーの人生観に近いものを感じる。

ロウソクに火をつける人
ファラデーの生涯を振りかえると、階級の壁などの限界を乗り越えるための本人の絶えざる努力が大変印象的である。いかなる時でも諦めることなくたゆまぬ研鑽、努力を続けた。そして、その誠実な人柄、秘めたる能力、とりわけ、ファラデーの才能を見出し、その発揮のために支援の手を差し伸べた人々の存在が印象に残る。ファラデーはそうした恩人の好意に最大限の努力と成果で応えている。
なんとなく、パン屋の息子として育った画家ラトゥールの隠れた才能を見出し、さまざまに支援した教養人ランベルヴィエールを思い起こさせる。逆境にあっても努力を怠らない人の隠れた才能ともいうべき「ロウソク」を見出し、それが輝くように火をつけた人の存在と役割を十二分に感じる。現代に置き換えると、教師を軸とする教育の本来あるべき役割、奨学制度などの社会的意義も含めて多くのことを考えさせるファラデーの人生であった。

最後に、若いファラデーを科学史の上で今日に残る金字塔としたクリスマス講演、正式には「少年少女の聴衆のためのクリスマス講演」が今日まで当時と同じ形で6回の連続公演として、年末から年初にかけて行われているということに、イギリスという国の持つ大きなレガシーを感じる。減少著しい若い世代の活躍に未来をかける日本のことを考えると、教育の持つ重みと広がりにさまざまなことを考えさせられる。

 

* Pascal Quignard, Gerges de La Tour, Flohlic  Eitions, Paris, 1991, p.2

ファラデー著(竹内敬人訳)『ロウソクの科学』岩波文庫、2010年
本書には日本で出版されたファラデーに関する邦訳、関連文献、海外で刊行された主要な海外文献リストも掲載されており、若い世代を含めて教育関係者にとっても極めて有益である。




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錬金術まで手がけた女性

2018年01月30日 | 書棚の片隅から

Vicki Leon, Uppity of Women  in the Renaissance, Conari Press, 1999
cover 


ラ・トゥールのこの絵は、様々な所で使われているので、見たことのある人は多いだろう。これもその一つである。タイトルの uppity というのは、「高ぶった、偉ぶった、横柄な、高慢な」「自己主張(自我)の強い、我を張る、素直さのない、不遜な」(ランダムハウス)という意味の形容詞である。『ルネサンス期の我の強い女性たち』というテーマの書籍の表紙に使われている。左側は前回取り上げた主人公(右側)の召使だが、二人ともかなり意味ありげな(怪しげな)表情である。17世紀の宮廷にはこうした女性が出入りをしていたことが史料に残っている。必ず実在のモデルを題材にしていたと思われるラ・トゥールの近辺にも、恐らくこのモデルに近い女性がいたのだろう。

錬金術まで手がけた女性 
前回は左側の召使いの黄色の帽子の顔料を取り上げたが、17世紀当時の画家たちが使っていた顔料は、出所、原材料が極度に秘密にされていたものが多かった。そこでは錬金術師 alchemists といわれる秘密の材料、工程から最終的には「金」を作り出そうとするかなり怪しげな職業が大きな勢力を持っていた。彼らはその過程で生まれる様々な色を顔料として、高価な価格で薬剤師や画家たちに売りつけていた。

 今回は、16世紀にこの怪しげな世界へ足を踏み入れた勇敢な女性の話である。現代では疑問の余地がない「機会のことを別にすれば、男女はあらゆる点で平等である」というコメントは、マリー Marie le Jars de Gourney という自らの人生における機会を創り出したことで有名な女性が述べたものだ。彼女はフランスの小さな田舎の下層貴族の家に生まれた。しかし、とりたてて学校教育のようなことも受けなかった。しかし、彼女は積極的に学ぶことで自分自身を教育し、人生に機会を創り出した。

モンテーニュに手紙を書く
最初の機会が大きく道を開いた。彼女は物怖じすることなく、当時ヨーロッパきっての哲学者・思想家モンテーニュMichel de Montaigne(1533-1592) へ手紙を送った。彼女の知性に溢れた手紙は、この偉大な哲学者を動かし、その後長い交友がつづいた。さらに1593年にはMontaigne の寡婦から「私の夫の遺稿を編纂してくれますか」との依頼まで受けた。Marieはこの仕事に飛びつき、程なくしてフランスの知的なサークルでの有名人へと変身していった。1597年にはさらに各地のインテリ・サークルを訪れるヨーロッパ旅行をしている。

この経験に勇気ずけられ、彼女はパリへ行き、文化人のサークルへ入ろうと試みた。しかし、まもなく生活費を使い果たし、所得を得る必要に迫られる。そして、なんと錬金術師の世界へ飛び込む。錬金術師の目的は「金」gold を作り出すことにあった。現代では金を作り出すことはあり得ないのだが、当時の錬金術師はそれが可能と考えられていた。しかし、錬金術師になることは、費用の点でもかなり大変であった。そこで、彼女は謎の多い錬金術師の世界について書くことで十分な所得を稼いだ。秘密の世界をあからさまにするという当時としては考えられないことだった。

錬金術師の工房を開設する作業
きわめて大変なことが一目瞭然
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さらに当時、錬金術は魔女とかなり重なるところがあった。1610年にはボルドー Bordeauxだけで400人を超える女性が魔女として処刑された。さらに錬金術は器具や材料に極めて高額な資金を要した。しかし、幸いなことに彼女には溶鉱炉のある工房を持つ友人がいた。そこで、ほとんど10年近くをそこで過ごし、香水師として生活費をまかなっていた。香水をつくることにもかなりの経験と技術を要した。貴婦人を中心に多くの顧客がいた。

さらに、未婚であった彼女は当時のフランスでは社会的に偏見の目で見られたのだが、1622年と1626年にフェミニズムについて2冊の本を出版した。伝統的な考えに縛られていた彼女の母親には大変衝撃的だったこの本、『男女の平等』Equality of Men and Women と『女性の苦難』 The Grief of Women はヒット作となり、再版にまでこぎつけた。かくして彼女は時代の波に乗り、フェミニズム、言語、詩、政治のジャンルまでカヴァーして執筆依頼を受けるまでになった。当時としては大変稀であった80歳まで生きたマリーは自立した女性として、若い世代のロール・モデルとなった。

本書ではルネッサンス期における100人近い図抜けた女性たちの群像が描かれている。

当時としては破天荒なマリー
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