時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

浮遊する祖国とさまよう人々

2018年01月22日 | 書棚の片隅から

 

記憶は出来損ないの犬のようだ


崩壊する世界システムと故国喪失

友人のドイツ人の紹介で、ドイツ人作家が描いた移民問題のコミック(グラフィック)・ノヴェルがあることを知った。なんとすでに日本語訳まで出ていた。早速、取り寄せ旅の途上で読んでみた。

Birgit Weihe, Madgermanes

ビルギット・ウェイエ「マッドジャーマンズ:ドイツ移民物語」(山口侑紀訳、花伝社、2017年) 、多和田葉子氏推薦(本書帯)

著者は1969年ドイツ生まれ、東アフリカ(ウガンダ、ケニア)で3歳頃からの幼少期を過ごし、19歳からドイツに戻り、現在はハンブルグに住む女性グラフィック作家である。本書でコミック分野での大きな賞とされる「マックスとモリッツ賞」などを受賞している。

Was ist Heimat?  故国とは?
半世紀近く「労働」、「人の移動」、「移民、外国人労働者」などを研究テーマの一つとしてきたブログ筆者にとっては、本書のストーリー自体は、比較的見慣れたイメージである。生まれた故郷、故国を離れ、外国で働く間に、自分にとって真の故国はどこであるかを喪失した、Heimatlose[r], Diaspora (故郷喪失、家族の分裂、離散)
のケースである。元来、資本主義の下に生み出された労働者は Heimatlose[r]なのだ。しかし、現代的コンテクストに置いて、秀抜なのはその特異なグラフィックスである。ブログ筆者は「漫画」は若い頃は数多く読んだが、近年の「マンガ」はほとんど読むことはない。このビルギット・ウエイスのグラフィックスは、そのどちらでもない。

本書のテーマは、GDRで働くモザンビークからの契約労働者が帰るべき故国、家族とともに住むべき故国のいずれをも失った話から現代世界に見られる移民労働者三人のケースである。東西ドイツの統合前に東ベルリンへ契約労働者として出稼ぎに出たケースの顛末もある。いずれも、実際のケースではないとの断りが付されている。しかし、作者自身が体験した現実を想定した上で描かれたことは容易に推察できる。

そこでは、母国を離れた多くの移民、難民が共有する、自分にとって本当の祖国はどこなのかという、よく知られたテーマが提示される。加えて、家庭・家族の概念に関する問題、故郷と文化的アイデンティなどが扱われている。しかし、長い文章ではなく、すべてシンボリックなグラフィックスで描かれている。時々出てくる短い言葉が印象的だ。

取り上げられた対象は、実在したケースそのものではないとされるが、同時にドイツに生れながら、長年のアフリカ生活から「故国」へ戻った?著者の脳裏に刻み込まれたGDRの現実が重なっている。彼女にはドイツ社会はオープンではなかったという。彼女にとって現在そして近い未来のGDRは、心の故国になりうるのか。

2015年、GDRのメルケル首相がオバマ版(Yes, we can!)ともいうべき”Wir schaffen das” (“We can do”) のスローガンの下に多数の移民・難民を受け入れたことは、世界的な賛辞の的となった。しかし、現実にはその後の外国人排斥を旨とする「ペギーダ」、極右政党AfDの台頭を招いた。新たなパンドラの箱が開かれるきっかけとなった。

折しも、「ノーベル文学賞」を受賞したカズオ・イシグロ氏が日本文化の一つの特徴としての「漫画文化」についての関心を語っているインタヴューを見た。

ビルギット・ウエイエの提示は「漫画」ではない。しかし、新たな可能性を感じさせる独特のグラフィックスと短文が小説やドキュメンタリーとは異なる、ある種の新鮮さを持っている。直截に読者の心中に訴えるグラフィック・ストーリーは、現代の一つの有力なコミュニケーション手段であり、文化であることを感じさせられる。時間が与えられるならば、今後の作品を見て見たい気がする。

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歴史の真実とは何かを知る:アメリカ人種差別問題(2)

2017年11月11日 | 書棚の片隅から

アメリカ南北戦争前の奴隷制度と反乱:
南部の多くは奴隷制度維持の諸州
北部は自由州、西部の白色部分は所有、去就が

未だ定まっていない地域 

1526-1684年
313件の記録:Vieginia 84, Louisiana 42, South Carolina 42
quoted  from the Internet public source

 やや旧聞になるが、MBAのワールド・シリーズでは、不本意な結果に終わったドジャーズのダルヴィッシュ投手に対して、アストロズのグリエル内野手がアジア人への人種差別的行為を示したことで、思わぬ話題を提供することになった。幸い双方の節度ある行動で、それ以上には悪化しなかった。

「差別」への社会的制裁
アメリカではこうした「明白な差別」的行為が時に公然と起きるが、他方ではそれらを批判する社会的正義も働いている。むしろ、「明白な差別」overt discriminationは「隠れた差別」covert discriminationよりは対応しやすいところがある。日本にも様々な要因による「差別」が存在するが、どちらかというと「隠れた差別」で陰湿な面がある。

アメリカを引き裂く人種問題
「差別」という行為はしばしば動機が複雑で解きほぐすことが難しい問題だが、アメリカの場合は、その建国の過程での経緯から、人種問題が今日まで根強く存続している。かつてアーサー・シュレジンジャーが「民族が国を引き裂く」と述べたことがあった。現在のアメリカが分断状態にあることについては、黒人(アフリカ系アメリカ人)、白人、ラテン系、アジア系など、移民国家を構成する人種間に複雑な軋轢が見て取れる。さらに最近では、アメリカが経験しつつある様々な社会的分裂現象には、人種あるいは宗教(とりわけイスラムとその過激派IS)という要因が強く関わっていることが多い。アメリカという複雑な大国を理解するには、この人種や宗教問題の本質と変遷を深く理解しなければならない。

「地下鉄道」という舞台装置
いずれ邦訳も出るようだが、前回、例に挙げた作品も単なる過去の話ではない。アメリカ社会に深く根付いた偏見・差別の根源についての理解が欠かせない。邦訳もいずれ出るようだが、 C.ホワイトヘッドのピュリツアー賞受賞(2017年の小説部門)作品「地下鉄道」 The Underground Railroadは、アメリカ南東部ジョージアのプランテーションで過酷な労働に明け暮れる少女の奴隷コーラ Cora が自由を求めて逃亡を企て北を目指す。時は1820年頃に設定されている。「地下鉄道」は複雑な意味を持つが、逃亡についての知識、隠れ家、逃亡の経路など奴隷、自由を獲得した奴隷、奴隷への白人同情者などの間で築かれたものだ。逃亡奴隷をなんとか安全な地帯へ逃すため、様々な手助けをする一種の秘密結社だ。「鉄道」も貨車、客車、馬車、山林地帯の秘密の通路、その他さまざまな手段が想定されている。一見、事実を背景とする逃亡小説のようだが、ホワイトヘッドは想像力を駆使して、歴史を生き生きと見せる装置として工夫を凝らしている。人種問題を知る人にとっては、強い迫真力がある。単なる皮膚の色の違いが差別を生むわけではない。今日の社会に根強く残るアメリカでの人種差別の根源には、奴隷制度が作り出した暗く、残酷なトラウマが拭い去られることなく残存していることが大きく影響している。

緊迫した雰囲気
奴隷制度が存在していた当時は、逃亡奴隷は、プランテーションの経営主、奴隷捕獲人 slave catcher などが後を追い、多くは捕らえられ、連れ戻されて首吊りなどの極めて残酷な処刑の対象となる。見せしめのために恐ろしい手段が使われる。コーラの場合も、一度は捕らえられるが、逃亡に成功する。逃亡は通常、徒歩で伝聞による経路をたどり、北部諸州やカナダまで歩くしかない。話は第3者によって語られる形式だが、波乱万丈、息を継がせぬ迫力がある。ジョージアからサウス・カロライナ、ノース・カロライナ、テネシー、インディアナと北の自由州への道を必死にたどる。各州 stateそれぞれが対応、環境が大きく異なるのだ。初めて、広大で見知らぬ旅をする逃亡奴隷にとっては、大きな恐怖と危機が付きまとう。地下鉄道の内容については、機密維持の必要があって、全て口頭の伝承で秘密裏に伝えられてきた。経路は文字では全く記されず、すべて伝聞で密かに伝えられてきただけであった。複雑で危険に満ちた網目をたどり、彼女はようやく追っ手から抜け出し、西へ向かうキャラバンに合流する。彼女はたまたま出会った黒人のワゴンへ乗り、自由な地を目指す。しかし、その先に待ち受けるものについては、これまでの経験以上に全く分からない。


ナット・ターナーの反乱
アメリカにおける差別の問題は、対象は人種、性、宗教、思想など様々だが、研究の蓄積という点でも「人種」差別、とりわけ白人と黒人の間に生まれる差別が最も多い。背景には長い奴隷制度の歴史があるので、その点を理解しない限り、今日でも頻発している問題を理解することは難しい。アメリカ社会の奥深く潜在し、人々の生活風土のあり方を定めている。

南北戦争前の奴隷制度は極めて過酷なものであったため、しばしば限度に達した奴隷の反乱など衝撃的犯行もあった。中でも、ウイリアム・スタイロンによるナット・タナー(1800-1831)に率いられた反をテーマとした小説は大変良く知られていて、本ブログでも記したことがある。ナットが神の存在を感じ、反乱の時と決断したような幻視を見た情景など、今も思い出すことがある。反乱後に捕らえられたナットの「告白」と思っていた裁判文書が、実は弁護人によるもので、本人の手によるものではないことも驚きだった。歴史における真実とは何であるかを後に身にしみて感じた。「事実」factsと「真理」truth の区分を思い知らされた。

 

* 桑原靖夫『国境を越える労働者』岩波新書、1981年。

* Colson Whitehead, The Underground Railroad, Fleet, 2017.(コルソン・ホワイトヘッド、谷崎由依訳『地下鉄道』早川書房)

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人種差別の源流を探る:大統領も感銘したピュリツアー賞受賞作品

2017年10月30日 | 書棚の片隅から

Colson Whitehead, The Underground Railroad, Fleet, 2017, cover

コルソン・ホワイトヘッド「地下鉄道」表紙

画像はクリックで拡大


2017年のピュリッツァー賞(フィクション部門)の受賞作のリストが先日書店から送られてきた。見ていると、アメリカ奴隷制度廃止前、南部プランテーションから自由な北部諸州へ逃亡を図る奴隷(逃亡奴隷)をテーマとした作品であることが分かった。筆者の関心領域でもあり、直ちに入手、早速、最初の部分を読み始めたが、その圧倒的魅力に引き込まれ、止められず一気に読んでしまった。

大統領も読みたかった本
オバマ前大統領も直ちに読み、 ’Terrific’ (素晴らしい)と絶賛したと言われる。トランプ大統領も夏の休暇に読みたい本のリストに入れたとホワイトハウスが公表したが、メディアは好みと違うのではと、からかったようだ。

アメリカの奴隷制度とその廃止に至る過程は、今日まで根強く国民の心にさまざまな影を落としている。アメリカという国の精神構造の奥深くに入り込み、刻み込まれて消え去ることはない。とりわけ、アメリカの北部と南部には、さまざまなレガシー(歴史的遺産)が根強く残っている。トランプ大統領の”白人至上主義”と言われる考えや発言はメディアの大きな話題となってきた。これもアメリカの建国過程における歴史的出来事の現代における反映の一面と言える。南北戦争をめぐる傷跡は今でも北部人と南部人との間に深く、広く残っている。


筆者は子供の時、ストウ夫人の「アンクルトムの小屋」を読み、大きな感銘を受けた。影響は消えることなく、その後、関連してフォークナー、スタイロンなど南部小説と言われるカテゴリーの作家にも強い関心を抱いてきた。

地下鉄道」の深い含意
The Underground Railroad 「地下鉄道」という題名を見て、これがアメリカの奴隷制度に関わる小説と分かった方は、かなり奴隷制度の歴史に通じた方である。The underground  (地下鉄道)とは、19世紀アメリカにおいて、奴隷制度が認められていた南部諸州から、奴隷制度が廃止されていた北部諸州、時にはカナダまで逃走する奴隷を支援した奴隷制度廃止論者 abolishonists や北部の市民たちの組織、そしてそれらに支えられた逃亡経路のことを意味している。逃亡奴隷の逃亡経路を確保し、隠れ家や食事などを支給するため、一種の秘密組織も形成されていた。自由を賞賛し、高揚する思想の具体的姿として、アメリカの黒人の歴史においても、特別な意味を持っている。

ストーリーは南部奴隷州ジョージアの過酷なプランテーション主の横暴・被虐から逃げ出した奴隷(逃亡奴隷)がたどる物語である。

コルソン・ホワイトヘッドはすでに文壇で名声が確立された作家であり、本作はアメリカ南部作品史上にその名を残す重要な著作となるだろう。作品の内容と意義についてはいずれ改めて記すことがあるかもしれない。現代のメキシコなど中南米諸国からの不法移民の運命に通じるものもある。

オバマ大統領がアメリカの知性と讃えた人

ホワイトヘッドの「地下鉄道」は小説である。しかし、最近の南部諸州における独立戦争当時の南軍将軍の銅像撤去騒動などを思い浮かべながら読むと、迫力に満ち、最後まで一挙に読み通したい素晴らしい小説だ。

この作品を読みながら筆者の念頭に浮かんだのは、アメリカの優れた歴史家 David Brian Davis(1927- ) デイヴィッド・B・デイヴィス教授のことであった。教授は1967年のピュリツアー賞(歴史部門)の受賞者である。



David Brion Davis, The Problem of Slavery in Western Culture, Penguin Books, 1966.
, 2017

 

アメリカ屈指の歴史・思想家であり、とりわけアリカの奴隷制度撤廃の歴史とそれがアメリカ及び西欧文明に与えた影響を深く追求した。ピュリツアー賞を始めとする数多くの賞を受賞している。最近では、2014年にホワイトハウスにおいてオバマ大統領から極めて名誉ある国家人文メダル the National Humanities Medal を授与された。

メダル授与の式典で、オバマ大統領は「我々アメリカ人の誤った歴史観を正し、現在でも半分はほとんど奴隷制、半分は自由制度を抱え、十分に統合できぬままにいるにもかかわらず、自由の理念の上に築かれたこの連邦(アメリカ合衆国)の矛盾に見事に光を当てた」として、同教授のこれまでの功績に最大限の賞賛の言葉を述べた。さらに「同教授のアメリカという国の奴隷制度とその廃止に関する研究は、我々の時代における道徳上の進歩を継続するについて大きく貢献した」と絶賛した。オバマ大統領は、特にその背景からしても、デイヴィス教授の著作や思想から強い影響を受けたものと思われる。

実は以前にブログにも記したが、筆者はデイヴィス教授と対面で親しくお話を伺う機会があった。今となってはほとんど奇縁とも言えるが、半世紀前の1967年のことであった。デイヴィス教授はこの年から遡る14年間、コーネル大学院の歴史学部教授であった。

1967年、教授がピュリツアー賞を受賞してまもなく、筆者の指導教授であったMFN教授がデイヴィス教授夫妻と未だ大学院生であった私を自宅のディナーに招いてくださった。アメリカの北東部から南部への繊維産業の地理的移転を研究課題として調査し始めた私に、アメリカの奴隷制度廃止の歴史とその後の精神的レガシーについて、今や時の人となったデイヴィス教授から直接話を聴くという機会を準備してくれたのだった。教授はその後イェール大学に移られたが、筆者にとっては終生忘れがたい時となった。デイヴィス教授は今年90歳を迎えられたが、改めて深い感謝の念を持って、さらなるご長寿をお祈り申し上げたい。


References

David Brion Davis, The Problem of Slavery in Western Culture, Penguin Books, 1966,1967
Colson Whitehead, Underground Railroad, Fleet, 2017

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子供たちは何を訴えているのか:セピア色の写真が伝えるものは

2017年02月17日 | 書棚の片隅から

 

Alexander Nemerov, SOULMAKER; The Times of Louis Hine, Princeton and Oxford: Princeton University Press, 2016, cover..(Exhibition at Cantor Arts Center, Stanford University, May 21-October 30, 2016). 画面クリックで拡大。

この少女はノースカロライナ州ウイットネル綿工場で紡ぎ手(紡績工)として働いていた。工場は夜間も操業しており、50人が働いていた。そのうち、10人はおよそ12歳で、それ以下の年齢の子供もいた。今からほぼ1世紀前、1908年12月に社会派の写真家ルイス・ハインによって撮影された。原写真は合衆国議会図書館印刷・写真部所蔵している。スタンフォード大学カンター・アーツ・センターが企画した回顧展にあわせて刊行された研究書の表紙である。

今回の企画展の呼び物の一つは、1世紀以上前に、子供たちが働いていた職場であった工場の写真や環境が、現代の写真家 Jason Francisco,  Stanford MFA, '98)によって多数撮影され展示されたことである。それによって、写真を見る人たちは、ルイス・ハインの時代の子供たちがどこへ行ったかをそれぞれに考えることになる。


この少女の写真については、以前にもブログに掲載したことがある。写真が撮影されたのは、1908年アメリカ、ノースカロライナ州、ホイットネル繊維工場の片隅であった。撮影したのは当時、国立児童労働委員会で働いていた社会派の写真家ルイス・ハイン。ニューヨーク市の学校教員の職を辞し、働く子供たちの実像を記録に残すべく10年間近くをニューイングランド、南部、中西部の工場、炭鉱などでの撮影に費やした。当時の児童労働禁止立法の証拠資料として大きな貢献を果たした。それからすでに一世紀を超える年月が経過した。しかし、それでも忘れ去られることなく、多くの人の網膜に焼き付けられ記憶されている。今ではアメリカ史を象徴する記念すべき一こま(アイコン)とされている。上掲の写真は、昨年スタンフォード大学で開催されたこの画家の展覧会のために書かれた作品の表紙である。

 ルイス・ハインの作品のいくつかは、本ブログでも紹介したし、一部分については日本語の説明がついた出版物もある。IT上でも多数の画像が公開されている。ご関心のある方は、この過酷な労働の現場で働いていた幼い少年・少女(児童) たちの一枚、一枚をよく見ていただきたい。時代を超えて、なにか心の底を揺るがされるような感じがするものが必ずあるはずだ。

子供の貧困:なにが変わったか
 子供の貧困が大きな国民的問題となっている今日、子供自らが親や家族を支えるために、埃と湿気と騒音があふれた危険な職場で、しばしば一日12時間を越えて働いていた時代のイメージである。

 画像の子供たちは、その多くが何かを必死に訴えるように、時には絶望感を漂わせている。とりわけ目の表情を見て欲しい。現代の日本の子供たちの表情とどこが違うだろか。一枚の写真だが、そこには時代の持つ過酷さ、恐怖、そして美しさが凝縮されている。写真機自体が珍しかった時代、その対象となった子供たちはなにを思ったのだろうか。

 本書の著者であり、企画展のキュレーターを務めたアレクサンダー・ネメロフ Alesandaer Nemerov (スタンフォード大学美術・人文学教授)は、現代人にとって生きて働くことの意味を深く考えさせる手がかりとし、膨大な数の写真の中から厳選し、編纂している。表題の通り、ルイス・ハイン(1874-1940)の時代である。

子供たちはどこへ行ったか
 soulmaker は邦訳が難しい言葉だが、過酷な現実を対象としながら、作品は言葉を失うほど美しい。セピア色の幾多のイメージは、これまでに何を残し、何を失ったのだろうか。ルイス・ハインの作品の多くは、これらの子供たちはその後いかなる人生を過ごしたかということを考えさせる。子供たちがいなくなった後、工場はどうなったろう。企画に際して、ネメロフが思ったことであった。

 本書はルイス・ハインの数ある写真集とはかなり異なる。基軸はハインの写真とその意義を時代背景とともに描いているが、出来うる限り当時の職場のその後を追い求め、記録に残している。かくして、1世紀前のハインの時代状況が時を超えて現代と結びつく。子供の貧困が日本などの先進国においても大きな社会問題となっている今日、ハインの子供たちは今も生きているのだ。現代も過酷な時代だ。児童労働も絶えることなく地球上のいたるところに存在している。こうした事実は、人々の心を揺り動かし、その奥底でなにかを考えさせる。

 上掲の写真はブログの筆者にとっても、忘れがたい一枚だ(「窓外の世界を見る」も同様)。半世紀ほど前、駆け出しの研究者として、アメリカでの労働経済研究に手を染め始めたころ、膨大な資料に圧倒される過程で、この希有な写真家ルイス・ハインが残した多数の作品に出会った。そして、アメリカの繊維工業、女子・児童労働の資料の山にのめり込んだ*。ルイス・ハインが残した写真は、工場や鉱山のみならず、建設現場町中で働く子供たちまで、克明に記録していた。

後戻りする時間?
 日本ではしばしば migration というと、「移民」のことを想像するが、ルイス・ハインの時代は、アメリカ東部に多数立地していた繊維工業が、南部の原綿産出州へ「産業移転」industry migration することが大きな国民的注目を集めていた。アメリカ史に刻み込まれ、今も進行している。

 トランプ大統領が就任後、保護障壁を高め、国内への産業の強圧的な誘致、復帰を促す政策も、似たところがある。船に工場を積んで、アメリカを目指すシニカルな描写も見たことがある。

 ルイス・ハインが南部に移りつつあった繊維産業の労働者を記録撮影していたころ、テネシー州ノックスビルでは、「新しい南部」New South の入り口として「アパラチアン・博覧会」が大々的に開催された。この度のトランプ大統領当選を支えた「貧しい白人」poorwhite の原点ともいえるアパラチア山脈の山麓に開かれる新産業と、対照的にその足元で働く奴隷を思わせる綿花摘みの黒人労働者が描かれたポスターがある。ハインの残した写真の中にはこの博覧会の出品展示まで含まれている。その中にはアトラクションであった飛行機、飛行船、パラシュート降下のデモンストレーションまであった

Appalachian Expoaition Guiswbook, 1910, cover
アパラチア博覧会ガイドブック表紙、1910年
Nemerov, p.48 

 しかし、その足下、アパラチア山脈の山麓には、ルイス・ハインが、克明に記録撮影したような、貧困と過酷な労働の場が広がっていた。アメリカ東部ニューイングランドから南部への繊維工場の歴史的移転を生んだ要因の一つには、こうした低賃金、劣悪な労働条件があった。さらには各州、地域が提示した課税免除、インフラ提供などの誘致条件があった。100年を越える年月が経過しても、ほとんど変わらない事実もある。今日まで連綿とつながっている問題もある。レガシー(遺産)という言葉が流行している日本だが、その意味をよく考える必要がある。

 

 

 

桑原靖夫「技術進歩と女子労働力:アメリカ繊維工業の事例分析」佐野陽子編『女子労働の経済学』(日本労働協会、昭和47年)

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暑さしのぎになるだろうか:1600年のローマ

2016年07月29日 | 書棚の片隅から



Clare Robinson, Rome 1600, The City and the Visual Arts under Clement VIII,
New Heaven: Yale University Press, 2016  (cover)

拡大は画面クリック

 

“Summer afternoon—summer afternoon; to me those have always been the two most beautiful words in the English language.”
– Henry James

夏の午後 ― 夏の午後; それは私にとって英語の中で最も美しい言葉だ。
                  ― ヘンリー・ジェイムス

 

 この梅雨の間、折に触れて眺めていた美術書があった。Clare Robertson, Rome 1600: The City and the Visual Arts under Clement VIII, New Heaven: Yale University Press, 2016(クレア・ロビンソン『1600年のローマ:クレメンス VIII の時代のローマと美術』がそれである。著者は現在、University of Reading の美術史の教授でイタリア美術の専門家だが、かつて講演を聞いたことがあり、Il Gran Cardinale: Alessandro Farnese, Patron of the Arts, New Heaven: Yale University Press. 1992 を読んだことがあった。

 美術書は、しばしば版が大きく、上質な紙が使われ、大変重い。書棚なども一般書籍の棚には収まらないことがしばしばある。長らく専門としてきた経済学の書籍は、一般にはるかに小さく、片手で楽に持てる程度のB5、A4など軽い体裁だが、美術書の多くは一般に片手の上で読むこと自体不可能に近い。とりわけ海外の研究書や展覧会カタログは非常に重い。電車の中で手軽に読むなど、とても考えられない。変色を防ぐため日焼けも避けたく、取り扱いにもかなり気を遣うのだが、いつの間にか、自分の専門でもない美術書が書棚を占領してきた。

 本書は450ページくらいで、美術書としてはとりたてて大きいわけではない。しかし、うっかり足の上にでも落としたら骨折しかねないほどの重さがある。この書籍の場合、重さは約2kg、表紙は鋼板のように硬い。実は筆者も別の書籍だが、一度取り落として、骨折は免れたが、しばらく打撲傷で厳しい時を過ごしたことがある(これまで多数の書籍を断捨離してきた報いかも?)。それ以降、こうした大部の美術書は、床あるいは大きな机の上に置いて見るようにしている。夏の暑い午後など、行儀は悪いが、寝転んでルーペ片手に名画の細部などを眺めるのは暑さしのぎにもなる(余談になるが、何度か訪れたローマの夏は何時の頃からか、際だって暑くなったような気がする。本書を見ながらもう一度訪れたい気もするのだが、あの暑さを思うと、考えなおすことになる)。

 本書に関心を抱いた動機のひとつは、その表題であった。『
1600年のローマ』 という主題に惹かれた。もちろん「教皇クレメンスVIII世(1536-1605)の時代のローマと美術」という副題がついているから、この1600年は、教皇および美術家のパトロンとしての治世下におけるローマに展開した美術活動ということは直ちに分かる。この時代区分については、歴史家ジャック・ル=ゴフが問題にしている重要テーマなのだが、今回は深入りしない。

 興味ふかいことに、1600年は、jubilee (古フランス語:jubile、通例25年ごとの聖年、大赦の年)にあたっていた。イタリアン全土のみならず、アルプスの北からも多くの巡礼、そして画家、彫刻家、建築家なども集まってきた。一説によると、1600年におけるローマの常住人口は通常年の2倍以上に膨れ上がったという。ローマはヨーロッパ美術世界の中心として燦然と輝いていた。教皇は、この機会にローマの教会活動の発展を図りたいと考え、サン・ジオヴァンニ・ラテラノ大寺院の建設、多くの教区の教会の修復などを企画、実施した。ローマのカトリック教会は、この年を対抗宗教改革の反攻の年と考え、美術もその有力な手段として活用した。

本書がスコープを当てているのは、このカトリック、プロテスタントそれぞれの宗教改革、そして美術史上の革新期でもあるローマの発展の俯瞰である。その中心には二人の画家がいた。アンニバレ・カラッチ Annibale Carracci (1560-1609)とカラヴァッジョ Caravaggio (1571-1610)である。この二人は目指した方向は大きく異なっていたが、17世紀のヨーロッパ絵画の世界に多大な影響を与えた。

アンニバレは美術家学校を設立し、古典美術の伝統と併せてミケランジェロやラファエルのようなルネッサンス盛期の天才の画風を取り入れ、新たな方向を目指していた。他方、カラヴァッジョは生来、粗暴で、重大な犯罪に関わるなど、悪評の高い画家ではあったが、テネブリズムなどの技法を十二分に活用したリアリズムは、文字通り衝撃的であり、イタリアのみならず北ヨーロッパまで、多大な影響を及ぼした。

 この時代、ローマの絵画界はきわめて多士済々であり、この二人にとどまらず、多くの画家たちが切磋琢磨する場でもあった。ルーベンス(1577ー1640)もそのひとりだった。ローマの藝術空間は、瞠目すべき広がりを持っていた。

1593年にはローマで最初の美術アカデミー Accademia di San Luca が設立された。初期の段階はズッカロ Federico Zuccaro (1539/40-1640)
が指導したようだ。ズッカロは画家としてきわめて人気があり、ヨーロッパの広い領域で活躍し、エリザベス女王一世の肖像画も依頼されている。

この時期は宗教画にとどまらず、世俗画の領域でも多くのパトロンや愛好家が生まれ、今日の画廊の原型も生まれた。画家を志す若者の技能習得、修業の輪郭もかなり明らかになっている。これまでにもブログで簡単に取り上げたこともあるが、機会があれば深入りしたいテーマだ。さらに、このブログでも話題としてきた、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールのイタリア行きの可能性についても、さらに議論したいこともあるが、少なくも1600年の時点では。ジョルジュはおよそ7歳と推定され、仮にローマを目指すにしても1607年くらいから後のことになると考えるのが妥当と思われる(筆者はブログでも記したが、ラ・トゥールはなんらかの理由で、ローマへ行く機会を逸したと考えている)。

  本書はいわば1600年頃のローマの美術界のスナップショットといってもよいかもしれない。探し求めていたいくつかの事実も確認できた。いずれ、紹介する機会があるかもしれない。

  世俗の世界は、日本でも各地に高温注意情報が出るほどの酷暑となった。一冊の美術書は使い方によっては、格好な清涼剤となってくれるかもしれない。荒涼たる光景が増えてきた昨今だが、少しでも楽しく、ゆとりをもって過ごしたい。
 


 

 今夏も何人かの素晴らしい先達、知人、友人とお別れした。来たるべき世界のことを考えると、良い時に去られたのかもしれない。謹んで哀悼の意を捧げたい。

 

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『帰ってきたヒトラー』はどこへ行く

2016年06月22日 | 書棚の片隅から

  


  新聞広告で、ティムール・ヴェルメシュ『帰ってきたヒトラー』(Timur Vermes, ER IST WIEDER DA, 2011) が映画化され、日本でも上映されるというニュースが目に入ってきた。実は、この作品、映画化されることはうっかり見過ごしていたが、すでに読んでいた。最初、この衝撃的的な書籍のタイトルを見たとき、一瞬、ドイツ、フランス、オーストリアなど、ヨーロッパ諸国に近年台頭しつつあるネオナチなど極右勢力の動きを題材としたものかと思ったほどであった。しかし、そうではなかった。

この作品、邦訳の出版、そして映画として上映されれば、日本のジャーナリズムでも、さまざまに評判となると思われる。しかし、いまやヒトラー(Adolf Hitler 1889-1945)のことは歴史の授業などを通して知っていても、ひとつの歴史上の出来事としてしか理解できない世代が、過半数に達している。事実とフィクション(虚構)の区別がつかず、こうした工夫を凝らした作品に接すると、重要な含意を読み取れない。ヒトラーとナチズムが生んだ人類への恐るべき挑戦の真の意味を誤って理解しかねない。

 ストーリーは、『ヒトラー最後の12日』から、スタートする。実際はベルリンの総統府塹壕の近辺で、愛人エヴァとともに自殺したと思われていたヒトラーが、2011年8月30日、突如として当時のままの姿で、現代のベルリンの市民生活の真っ只中に、蘇ったという書き出しである。読者の意表を突いた奇想天外ともいえる発想だ。しかし、いったい、ヒトラーのどこが笑いを生む材料になるのだろうか。その疑問は最初のパラグラフを読むうちに急速に消滅し、ストーリーに惹きつけられてしまった。その後は一気呵成に読んでしまった。パロディという触れ込みであったが、読み進めるうちに新機軸のホラー小説ではないかと思うこともあった。受け取り方は世代によっても、かなり異なるようだ。今日のドイツ連邦共和国でいかなる評価をされているのか、250万部を越えるベストセラーとなったことは知ったが、客観的な評価は難しい。ネオナチなどの勢力に、目に見える影響を与えたのだろうか。

作品はフィクションではありながらも、巧みなプロットで、ヒトラーという20世紀の世界を大きく揺るがした恐るべき人物にかかわる多数の事実、疑問が巧みに散りばめられている。タイムトラヴェラーという視点が巧みに生かされている。そして、著者の綿密な下調べの周到さが伝わってくる。あのローラン・ビネ Laurent Binet のHHhH』も、同様だった。近年のナチズム、ヒトラー研究の成果がいかんなく取り込まれている。ちなみに本書に付された原注は、きわめて興味深く、本文だけでは気づかない多くのことを教えてくれる。

 ヒトラーという一時は人類を滅亡の淵にまで追い込んだ人物が現代に存在した事実が、時代の経過に伴い、急速に風化し、人々の記憶の底に沈んでいくことは怖ろしいが、避けがたい。ドイツと並び「枢軸国」の名の下に、第2次世界大戦の勃発に加担した日本の軍部についての国民の記憶喪失はさらに激しい。

これまでの人生で、ドイツという国や歴史、あるいはその国民性については、おもいがけずもかなり長いつき合いをしてきた。学生時代、素晴らしい教師に出会い、一時は、ドイツ文学を専攻しようかと思ったこともあった。しかし、文学で一生を貫けるほどの自信はなく、他の専門領域に進んだ。しかし、周囲には多数のドイツやオーストリアなどの友人たちがいた。最初、大学院生として過ごしたアメリカという国で、不思議と最も気の合ったのは、ドイツ人やイタリアからの留学生たちであった。アメリカ人は大変おおらかで、わだかまりなく受け入れてくれた。しかし、いつとはなく、ドイツ人やイタリア人とのサークルもできていた。彼らの側にも、日本人に対する親近感のようなものがあったようにも思われる。

 ドイツ人の中には、自らその思いを語ることは少なかったが、心の奥底に深い傷を負っていたようにみえた友人もいた。ドイツ人であることの心の痛みに耐えかねて、国籍をオーストリアに移した友人もいた。しかし、それがどれほどの意味を持つことなのか、突き詰めて聞くことはなんとなくためらわれた。

閑話休題。

ベルリン・オリンピックとヒトラー 
 さて、このパロディとなった書籍の表紙(上掲)を見たとき、ふと脳裏に浮かんだのは、どういうわけか、あのコピー問題で幻のように浮かんで消え、再募集になった東京オリンピックの最初のシンボルマークだった。

ベルリン・オリンピックは、1936年8月に開催された。およそ80年前のことだ。その具体的イメージを植え付けることになったのは、金メダル6個を含む18個のメダルを獲得した日本人選手のさまざまなエピソードが、その後教科書その他で繰り返し語られてきたことを通してであった。そして、ナチス党のお抱え監督ともいわれた女性映画監督レニ・リーフェンシュタールの手になった映画『オリンピア』(正式には『民族の祭典』『美の祭典』の二部作)の映像は未だに眼底に残っている。すでに断片的なセピア色の世界になっているとはいえ、女子平泳ぎの前畑秀子の金メダル、棒高跳びの西田修平、大江季雄のメダル分割の話など、名前を聞けば直ちに浮かんでくるイメージがある。

 他方、1964年、東京で開催されたオリンピックについては、筆者にはどういうわけか、開会式当日の澄み渡った青空くらいしか印象に残っていない
日本は記録によると、開催国として、金16個を含む29個のメダルを獲得し、金メダルだけの数では参加国中第3位の座を獲得した(合計では東西ドイツが50個を獲得して上回っている)。

 エムブレム、都知事問題と、すでに今の段階から薄汚れた感のある2020年「東京オリンピック」だが、果たして、かつてのような青空を期待できるだろうか。


英訳 'Look Who's Back:邦訳森内薫、河出書房新社、2011年、その後河出文庫、上、下、2016)。


 

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思いがけない出会い:L.S.ラウリーと英文学名作短篇

2016年02月13日 | 書棚の片隅から

 

 
 ある書店で見るともなしに新刊書の棚を眺めていた時、あっと思う表紙に出会った。なんと、あのL.S.ラウリーの作品が使われていた。日本ではほとんど知られていない画家であるが、このブログではかなり記している。書籍のタイトルよりも先に画家と作品が目に入った。タイトルと翻訳者に目がいったのは、大変失礼ながら、その次になってしまった。この書籍は英米文学者として令名の高い柴田元幸氏の手になる翻訳叢書の2番目である。すでに『アメリカン・マスターピース 古典篇』が刊行されている。

ラウリーの作品が表紙に採用されている新刊書の訳者と書名は次の通りである。


柴田元幸翻訳叢書『ブリティシュ&アイリッシュ・マスターピース』(スイッチ・パブリッシング、2015年

 少し落ち着いて、取り上げられた作者を眺めてみる。ジョナサン・スウィフトに始まり、メアリ・シェリー、チャールズ・ディケンズ、オスカー・ワイルド、W. W. ジェイコブス、ウオルター・デ・ラ・メア、ジョセフ・コンラッド、サキ、ジェームズ・ジョイス、ジョージ・オーウエル、ディラン・トマスの12 人の作品である。作者の名前はほとんど知っていたが、これまでの人生で、読んだことのある作品は3分の一くらいだろうか。オスカー・ワイルドの「しあわせな王子のように、いつの間にか諳んじてしまうほど、何度も読んだ作品も含まれている。ジョナサン・スウィフトの「アイルランド貧民の子が両親や国の重荷となるを防ぎ、公共の益となるためのささやかな提案」など、歳を重ねて次第に著者の真意が分かってきて、もう一度読んでみたいと思う作品も目についた。本書の帯には『「英文学」の名作中の名作』とある。人生残された時間は少ないのだが、やはり読んでみたい。この"ブック・ウイルス"は、子供のころに感染しまったようでもはや除去が困難だ。今回も、考える間もなく手に取り買い求めていた。書店の外のカフェで、早速、読み始めてしまった。
  
 その中のひとつ、チャールズ・ディケンズ「信号手」The Singnalman, 1866を最初に読んでみた。読んだことがない短編であること、ディケンズはかなりのごひいきだからだ。折しも、ドイツ南部で列車の正面衝突事故が報じられ、この作品も鉄道事故が背景にある怪奇小説である。小品なのだが、たちまち引き込まれる。ディケンズはこれまでどちらかというと長篇を好んで読んできたが、この小品もなかなかの名作といえよう。この小説、ディケンズ自身の人生で体験した事件に連なっているようだ。遠い記憶の霧の中に沈んだような情景が、語り手である主人公とある過去を持つ信号手の会話の中から不気味に浮かび上がってくる。結末がなんともいえず衝撃的だ。話は、ある山あいの小さなローカルな単線で、トンネルの入口近くに設置された信号手待機所での出来事だ。信号手の仕事は、列車を安全に運行させるための合図をするという、なにも起こらなければ平凡な日々となる。しかし、事故が起きれば彼の人生を含めて状況は一変する。

信号といえば、アメリカの中西部の無人駅で、列車を止めるために乗客が駅にある大きな旗を振って合図をする(フラッグ・ストップ)経験をしたことも思い出した。この駅は見通しのよい直線に沿ってあったので、視界さえ確保されればなにも問題はなかった。しかし、小説のように、深い山あいの難しい場所では、信号手は長い人生でさまざまな経験をしていることだろう。実際、信号手は事件にまつわる亡霊にとりつかれていた。それが怖ろしい結末にもつながる。

本書に収められた名品を読んでいると、それぞれに記憶の底に沈んでいたエピソードなどが浮かんでくる。これは読書の醍醐味のひとつだ。

  冒頭に記したL.S.ラウリーの作品についても少しだけ記しておこう。本書のカヴァーに使われた作品の来歴 provenance を確認している時、あっと思うことがあった。この作品、L.S. Lowry, Millworkers, 1948, Preston Harris Museum & Art Gallary となっているのだが、ある資料に、Millworkers (工場労働者)ではなく、Mineworkers (鉱山労働者)ではないかとのコメントがあるのに気づいた。作品の制作年、1948年は、イギリスエネルギー史上のエポックである最初の石炭業国有化の直後であり、誰もが石炭産業に注目していた時期だった。

このコメントで、改めて作品を見てみると、確かに描かれているのは、なにかの製造・加工などをしている工場 mill ではない。長年、ペンドルベリー Pendlebury の近くに住んでいた画家は、このあたりは自分の庭のように知っていた。仕事の行き帰るなどにいつも通っていた地域だ。明らかにこの画家が好んで描いていたなにかを製造する工場ではないようだ。この時代のColliery(炭坑およびその関連施設、建屋など) 特有の風景である。縦坑の設備がいわばその目印である。前景の建物は、事務所か選炭場なのだろう。手元の画集などを見ると、作品『ペンドルベリー』 Pendlebury (1936, pencil, 28.2 x 38.1cm)などには、まさにこの炭坑の光景が描かれている。ラウリーが、不動産会社の集金掛として、この近辺を歩いていた当時は、Wheatsheaf (Pendlebury)と呼ばれていた。この画家の作品には、今はもう無くなってしまった産業革命後の遺産のような光景を描いたものが多いから、記録という意味では画題が後年になって意味を持つこともある。

ラウリーは自分の作品に特に画題を記してはいなかった。この作品も画家本人ではなく、誰かが後から画題をつけたのだろう。工場やそこに働く労働者を好んで描いていた、この画家特有の「鉛筆のような人物」に気を取られて、背景を工場と見誤ったのだ。それ自体はたいした問題ではない。炭鉱労働者も工場労働者も、細部に入れば明らかに異なるのだが、L.S.ラウリーの世界においては、さほど重要な違いではない。ただ、現代絵画の鑑賞においても、作品の時代背景、描かれた対象などについての理解をおろそかにできないことを改めて知らされた。それにしても、この画家の作品を表紙に選ばれた装丁者のセンスには改めて敬意を表したい。

 


L.S. Lowry, Millworkers(mineworkers), 1948, Preston Harris Museum ' Art Gallery
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マンガになったラ・トゥール

2015年09月01日 | 書棚の片隅から



Li-An & Laurence Croix, Georges de La Tour 
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拡大は画面クリック


 

マンガにもなったラトゥール
 日本のマンガの影響力は、すでに世界的規模に及んでいるが、日本に次いで最も大きなマンガ文化圏を構成するまでになっているのは、フランスかもしれない。そのフランスで、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールのマンガ(劇画)が出版された。「偉大な画家たち」 Le Grands Peintres というシリーズの1冊である。すでにヤン・ファン・アイク、ピーター・ブリューゲルなどを題材としたマンガが刊行されている。マンガにしうるほど、この画家はフランスそして英語圏でも知られており、小説や映画にもなっている。最近では研究が進み、断片的ではあるが、かなりの史実が明らかになっている。しかし、画家がいかなる容貌をしていたのか、プッサンやステラのような自画像も残っていない。したがって、マンガに出てくる画家の顔も、とりたてて根拠があるものではない。

日本では、ラトゥール(1593ー1652)という画家の名前も、作品、生涯も一部の愛好家の間でしか知られていない。今日に残る真作は50点近くにすぎないが、日本にも国立西洋美術館の『聖トマス』を含めて、2点が所蔵されている。

プッサン以上にフランス的画家
この画家については、名前が似ている18世紀の画家カンタン・ド・ラ・トゥール(1704ー1788)と取り違えている人に出会ったりして、がっかりしたことも少なくない。17世紀フランスの画家といえば、ニコラ・プッサン(1594ー1665)、クロード・ロラン(本名ジュレ、1600ー1682)などが知られているが、彼らはフランスあるいはロレーヌ生まれでありながら、その画家生活はすべてイタリア、とりわけローマであり、二人とも故国へ帰ることはなかった。

その意味ではラトゥール自身、ロレーヌ公国という小さな国で画業を続けていたが、ほとんどフランスの政治的、文化的な強い影響下にあった。ラトゥール自身、ロレーヌとフランス、とりわけパリの間を往復しながら、画業を続けた。ラ・トゥールは、ローマなどで有力なパトロンの庇護の下で、芸術的な環境にも恵まれて、豊かな画業生活を送っていた画家たちと比較して、いつ外国の軍隊が攻め入ってくるかも分からない不安に満ちた日々を過ごしながら、家族を守り、転々と避難を繰り返し、文字通り劇的な生涯を送った。パン屋の次男として生まれながら、不安定な画家への道を選び、その才能を買われて貴族の娘と結婚したり、貧困に苦しんだ農民などからはうらまれるような裕福な生活を送った。絵の才能以外にも、処世の術にもたけていた。しかし、このマンガが対象とした時期には、10人生まれた子供のうち6人は生きていなかった。

さて、このマンガ、フランス語であることは別として、大部分はフィクションである。それも画家の生涯のほんの一部に過ぎず、あらかじめ画家についてのかなりの知識がないと、最初のページからなんだか分からないという状況になるだろう。マンガの作者は、かなり工夫をして、それぞれの場面を描いているので、登場する人物が誰であるかを想像するのも楽しい。フィクションといっても、要所要所は、史実の裏付けがなされている。(文末には簡潔な画家と作品の紹介、位置づけが付されている)。

筋書きを記すわけにはゆかないが、たとえば第1ページ、最初の光景は次のような場面である。これがなにを意味しているか分かれば、お見事と申し上げたい。 



そして、下記のそれぞれの人物の名前あるいは位置づけは。フランス美術史専攻の方でも難しいでしょう。ヒントは当時ラ・トゥールが生活を共にしていた家族、使用人などです。研究が進み、今では作品だけ見ていたのでは分からない、この画家の意外な側面も明らかになっています。



Reference
Li-An & Laurence Croix, Georges de La Tour, Glenoble, Clenat, 2015.


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「べにはこべ」を知る皆さんは:記憶テスト?

2014年11月03日 | 書棚の片隅から



 「べにはこべ」? この名を聞いて、あっと思われた方はどれだけおられるだろうか。最近なにげなく開いた出版目録で、バロネス・オルツィ(村岡花子訳)『べにはこべ』(河出文庫)の書名を見て、大変懐かしく思った。早速入手し、読み始めたところ、やはり他のことは目に入らなくなった。面白さに引き込まれ、その日のうちに読んでしまった。この文庫版「あとがき」に、訳者の村岡花子氏がやはり一晩で読了されたと記されているが、少年時代に母親の書棚にあった本書を読み、その後も二度、三度と読んだ記憶がよみがえってきた。どちらかといえば、男性向けの冒険、スリル1杯の作品だが、ラヴ・ロマンスも巧みに折込まれ,読者層は少年から大人までかなり幅広いと思われる。

知る人少ないこの花の名前 
 数人の若い世代に、「べに(紅)はこべ」(英:Scarlet Pimpernel,仏:Le Mouron Rouge)を知っていますかと尋ねたが、残念ながら、だれも知らなかった。中には「はこべ」は知っていますがという人もあったが、今の時代、「はこべ」がいかなるものであるかを知る人も少ないのだ。ちなみに「はこべ」繁縷はナデシコ科の越年草で、春の七草のひとつだ。例のごとく、多少のいたずら心も働いて、フランス語の先生に本書のタイトルをご存知か尋ねてみたが、オルッイが東欧系の名であることはすぐに分かったが、本書のことはご存じなかった。日本を含め、27カ国ともいわれる多数の国で出版されたのだが、フランス人には心の底に残るなにかがあるかもしれない。しかし、フランス語版も刊行され、かなりの人気を集めた。



 さて、イギリス人の秘密グループの名前は、この可憐な野の花「べにはこべ」からとられており、オルッイが細部にも心を配っていることが知られる。

謎のグループ「べにはこべ」
 話の舞台は、1792年、フランス革命のまっただ中のフランスとドーヴァー海峡を介在して対するイギリスだ。国内の革命に加えて、オーストリアとの戦争状態にもあったフランスでは、貴族や聖職者で、オーストリアに密通しているとの嫌疑だけで、毎日多くの人たちが捕らえられ、ギロチン(断頭台)へ送られていた。その中で義侠心に駆られたのか、捕らえられた貴族たちを救い出し、イギリスへ亡命させる「べにはこべ」の名で知られた謎の一団がいた。かれらはいったい何者なのか。

 大変良く考えられたプロットで読者をあきさせない。グローバル化が進み、両国を結ぶ列車まである今日でもフランス人とイギリス人の間には、微妙な対立感、競争心が残っているようだ。原題 The Scarlet Pimpernel  は、1905年、小説の刊行よりも舞台での上演が早かったようだが、世界的なベストセラーとなった。イギリスでの上演回数だけでも2000回を越えたとされ、記録的な興行成績を残した。後先になった出版は大成功を収め、フランス、イタリア、ドイツ、スペイン、日本など16以上の言語に翻訳された。日本でも村岡訳意外に数人の訳者による刊行がなされ、アメリカ、イギリスでの映画化、TVドラマ、ミュージカル化、2008年、2010年には宝塚歌劇団による上演もなされたようだ。 管理人はTVドラマを見たような記憶はあるが、ひたすら強く印象に残るのは、波瀾万丈の最初の小説『べにはこべ』だ。村岡花子訳であったことはほぼ間違いないのだが(朝のドラマ化で一躍有名になった村岡花子だが、『赤毛のアン』は私にはあまり面白くなかった)。

 著者バロネス・エンマ・オルッイ(1685ー1947)は,ハンガリー生まれだが、両親が農民戦争を怖れてブダペスト、ブラッセル、パリ、と転々とし、最終的にロンドンに落ち着いた。その間に蓄えた知識で本書を書き上げたのだが、作家としての才能があったことは、そのよく考えられたプロットからも伝わってくる。この『べにはこべ』は、その後シリーズとして書き続けられ、1940年に刊行された『マダム・ギロチン』まで続いた。管理人は大成功を収めた最初の作品しか読んだことはない。『べにはこべ』は、簡単にいえば、歴史小説風のメロドラマなのだが、ずっと以前からお互いに対抗心が強いイギリス人とフランス人の双方を巧みに登場させ、オルッイの好みである貴族の優越性とイギリスの帝国主義的底流を織り交ぜて描いている。フランスの貴族を救出するという筋立てで、フランス人の貴族意識も充足するというバランスがとられている。


 
フランス語版 Le Mouron Rouge 表紙

記憶の糸がほぐれて
 明らかにチャールズ・ディケンズの『二都物語』が意識されており、弱きを救うという点で、後年のゾロやバットマン などへの影響も考え得る展開だ。それとともに、私は時代は革命前に遡るが、17世紀のフランス宗教戦争のほぼ終結となった1628年のラ・ロシェル攻囲戦を思い出していた。ロシェルに本拠を置いた改革派信徒ユグノーを降伏に追い込み、イギリスからユグノーの援軍に来ていたバッキンガム公を追い返した。戦争の埠頭に立つリシュリュー枢機卿の赤い戦闘服が記憶に甦る。

 日本でも恐らく現在60歳代以上の方々なら、読まれていなくとも書名は記憶に残っているかもしれない。当時の表現でいえば、血も沸き肉躍り、ドーヴァー(英仏)海峡を越えたロマンスも色を添えた一大話題作であった。その後、複数の翻訳も刊行され、映画、宝塚歌劇団による上演まであったことを考えると、相当多数の方が、『べにはこべ』には、なんらかの親しみや記憶をとどめておられるはずと推測するのだが、その後周囲の反響をみると、多少心許なくなった。

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今後を考える道しるべ:トマ・ピケティの最新作

2014年07月13日 | 書棚の片隅から

 


Thomas Piketty, CAPITAL IN THE TWENTYーFIRST CENTURY
The Belknap Press of Harvard University Press, 2014


英語版表紙

  
 


  われわれが生きている世界はいったいどこへ向かって進んでいるのか。その将来はどうなるのか。最近の動向をみるかぎり、あまり明るい方向に進んでいるとは思いがたい。今世紀もまた紛争・戦争の世紀となることは、ほとんど確実になっている。人間はなぜかくも争いが好きなのか。イスラエルとパレスティナ(ガザへのイスラエル侵攻)、イラク、ウクライナ、そして日中韓をめぐる対立など、まもなく終幕となるワールド・カップ後の世界は、かなり心配なものがある。


 今後の世界を見通すための手がかり、羅針盤がほしい。そうした思いがつのる中、昨年来アメリカ、ヨーロッパなどで大きな話題を呼んできた
フランスの経済学者トマ・ピケティの労作については、ようやく日本でも一部の経済学者やメディアの間で注目を集めるようになった。このブログでも簡単な紹介を行ったことがある。

 当初、フランス語で900ページ近いこの作品を手にした時は、目次内容などから一見して読書欲をそそられたが、同時に読了にはかなりの覚悟が必要とも感じた。あの難解なマルクスの『資本論』を考えたからだった。しかしながら、フランス人 professeur particulier の助けを借りながら、意を決して読み始めてみると、論旨は実に明解で読みやすい。現代の世界が抱える課題を、「持てる者」と「持たざる者」の格差に集約し、その過去、現在、未来を統一した視点から見事に分析している。

  近年の経済学の専門書は論理は精密ではあるが、前提条件などの制約が多すぎ、数量化が暗黙の前提になっているため数式も多く、結果として迫力を欠き、読後感が薄いものが多かった。しかし、本書はテーマの設定、資料の選定、集計、推論、政策的課題など、専門書として手堅くステップを踏んで、結論に導く作業が見事で、きわめて成功している。『21世紀の資本』という壮大な表題からして、読者を一瞬ためらわせるが、読み始めてみると、歴史書の側面も含まれ、急速に引き込まれて行く。世界の主要国が注目する課題である所得格差の過去・現在・未来を、見事な分析と筆致で解き明かしている。

 主として米日独仏英の5カ国を対象に、時間軸では実に200年以上も遡り、所得階層などを基準に、近現代史を通した資産・所得の変遷が鋭利なメスで切り裂かれ、分かりやすく提示されている。バルザックのたとえ話なども随所に出てきて、経済の専門家でなくとも、容易に読めるよう巧みに工夫されている。ともすれば、仕掛けばかり複雑な現代経済学の専門書と比較して、政治経済学の伝統が継承され、同時に歴史書を読むような楽しさもある。挿入されているグラフなどについても、必要最小限で大変分かりやすい。さらに詳細な内容・背景を知りたい場合には、著者のHPに照会するなどの手段がある。インターネットが生みだしたきわめて利便性の高い手段が駆使されている。

 とりわけピケティの母国フランスは1789年のフランス革命直後から、国民の資産を「土地・建物と金融資産を併せて驚くほど現代的かつ総合的に記録」し続けてきたと書かれているが、こうした認識が著者をして、この壮大な作業に向かわせたようだ。まったく別の領域での関心から17世紀のフランスの史料のわずかな一端に接したことのある管理人も、各地の古文書館に思いもかけない記録が保存されていることに驚嘆した。とりわけ租税公課にかかわる史料は、今日からみるとまさに宝庫にふさわしい。税金は古来、領主や国家の財政基盤を支える最たる手段であるだけに、徴税に関連する史料は詳細で、しばしば付帯する情報も貴重なものがある。

 ピケティは共同研究者とともに、15年におよぶ歳月をかけて、膨大な資料の解析に切り込み、「資本(または資産)の収益率は常に経済成長率を上回る」という驚くほど簡単な論理に整理してみせた。有効な政策手段をとらずに放置すれば、格差は広がるばかりなのだ。これはアメリカ経済学会会長でノーベル経済学賞を授与されたサイモン・クズネッツ(1901-85)の「所得格差は経済が成長すれば自然に縮小していく」という命題に、正面から対決を迫るものである。至近な例では、日本のアベノミクスの成長戦略にも関わっている。さまざまな多国間貿易交渉が格差のあり方にいかなる影響をもたらすか、考える基準にもなる。

 経済のメカニズムはそれ自体複雑である上に、自然災害や戦争などによって歪められる。200年を越える資料を駆使して、時間軸の上で俯瞰することで、ピケティは自らの見出した一般的原則がいかなる場合に例外的結果を生むかを記している。たとえば、二度にわたる世界大戦や恐慌期には富裕層の資産が大きく目減りすることで、格差が縮小している。

 もちろん、これだけの大著に批判される点がないわけではない。欧米諸国では、すでにかなりの議論が白熱して行われている。総じて賞賛が多く、統計記録の整備だけでも優れた貢献であるとの評価もなされている。今後、本書の提示した衝撃的な結果をさらに掘り下げた議論が世界的に展開することは確実だが、現時点で管理人が見るかぎり、最大の難点は、過去・現在以上に将来についての推論であり、今後の世界を救うための政策的提案の妥当性にある。この点をめぐっては、さらに議論が必要だろう。しかし、次の世代にとって残された時間は多くはない。格差が破滅的な事態にいたらない前に、グローバルな政策対応に着手する必要がある。

 この大著を読み終えて、数々の問題を考えさせられた。ピケティの導き出した論理が、今後の世界経済にどれだけの妥当性を持つかという点が問題だが、ここではひとつだけ記しておこう。かつて、マンサー・オルソン(Mancur Olson、Jr., 1932-1998 )という優れた経済学者が第二次大戦後の時期における戦勝国であったイギリス、アメリカ経済の低成長、衰退と敗戦国である(西)ドイツ、日本の相対的に高度な経済的発展を、集団的行為の理論という彼独自の理論の延長線上で、説明してみせた。ドイツと日本は、敗戦で国土は壊滅状態となり、多くの国富を喪失したが、同時に専制的政府、財閥などの特別な利益集団の硬直的なネットワークも破壊された。戦前に存在した大きな社会的格差もかなり消滅した。しかし、復興とともに新たな桎梏の源が胚胎し、発展する。格差は再び拡大の道へ戻って行く。これらの国々の経済的盛衰を見てみると、さまざまなことを考えさせられた。所得や資産の格差がそこに存在する人間の行為にいかなる影響を及ぼすかという問題もそのひとつだ。

 いずれにせよ、ピケティの功績は、平等と結果をめぐる古くからの論争に大きな一石を投じ、ひとつの新鮮で注目すべき前進をもたらしたことは確かだろう。ピケティのこの斬新な分析と推論がすべての点で、問題なしとは言い切れない。すでにいくつかの欠陥や政策の実現可能性について指摘もなされている。重要なことは、政治家や政策立案に当たる者が、こうした分析をいかに考え、今後の政策のために生かすかにかかっている。今後の世界を生きる若い世代の人たちには、人生の指針となるかもしれない。仏英版ともにきわめて読みやすく、しかも多くのことを考えさせる注目の作品である。暑さ(厚さ)をいとわず、大著に挑戦する気概のある人たちには、今夏の読書にお勧めの一冊である。





References
Mancur Olson. The rise and Decline of Nations: economic Growth, Stagflation, and Social Rigidities, New Heaven and London, Yale University Press, 1982.(加藤寛監訳『国家興亡論ー『集合行為論」からみた盛衰の科学』PHP 研究所、1991年。

拙稿「国家の盛衰と労使関係ー80年代労使関係研究のための覚え書」 『日本労働協会雑誌』1984年4,5月合併号

 

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ワールドカップの後に来るもの: 次の世代のために

2014年06月20日 | 書棚の片隅から

 

国立西洋美術館は、ル・コルビュジエ氏(1887-1965、スイス生まれ、フランスの建築家・画家)の設計で1959年に建設された。2011年6月パリ(フランス)で開催された第35回世界遺産委員会において「登録延期」となったが、推薦書を再提出することによって登録の可能性が残っている。6月21日、富岡製糸場は世界文化遺産に決定。

 

危機の前の陶酔?
 世界はサッカー・ワールドカップに湧いているが、
実はワールド・カップの後の世界が大変気になっている。このブログでは何度か記しているが、世界経済の見通し、来たるべき世界の姿がどうなるかという問題だ。ワールドカップのニュースに隠れているが、イラク戦争はフセイン時代に逆戻りしたような様相を呈している。ウクライナ問題もこのブログで懸念したように、ウクライナを経由する天然ガス・パイプラインが大きな駆け引きの手段になってしまった。早急な解決の目途はなく、EUの前線はきわめて緊張度が高くなっている。東アジアの対立も緩和の見込みはない。一触即発の可能性が高い、かなり危うい地域となっている。この小さなブログでも、そのいくつかの問題を取り上げてきた。たとえば、長期的な人口爆発に関連する諸課題である。世界を脅かす危機が近づいているといっても過言ではない。さらに、相互に関連しながらも別のきわめて重要な根本的問題がある。

 昨年来、経済学の世界で大きな話題を呼んでいる一冊の書籍がある。フランスの経済学者Thomas Piketty, Capital in the Twenty-First Century 『21世紀の資本論』というタイトルも壮大だし、英語版でもページ数も600ページを越える大著である。著者トマ・ピケティはパリ経済学院の教授である。昨年夏、フランス語の研修の途上、書評欄で出会い、早速購入し読み始めたが、三分の一くらいで息切れがしてきた。幸い、今年初めに英語版が出版されたので、そちらに切りj替えて読んでいるが、大変な力作である(ちなみにフランス語版は900ページ近く、英語版はその全訳だが、ページ数もかなり少なくなる)。日本語版はかなり時間がかかるようだ。関心のある方には仏英版をお勧めする。かなりの大冊なのだが、論旨は明快、18世紀以来の膨大な長期統計の裏付けもあって、説得力もある。仏英版共に、経済学の知識がなくとも十分理解できるほど、説明が巧みで分かりやすく、多くのことを考えさせられる。Amazon.comの売り上げ総合一位にランクされたりしているのだが、日本では一部の新聞が短く紹介しただけで、専門家でも知らない人が多い。

 タイトルからみると、マルクス経済学者かと思いがちだが、まったくそうではない。主題は18世紀以来のヨーロッパとアメリカにおける富と所得の不平等を扱っている。日本のデータも部分的ながら使われている。本書の基軸は、資本利益率が経済成長率を上回るかぎり、富の集中が起きることを立証したことにある。そして長期的視野から、富の集中と経済的不安定が今後も存続することを予想している。ワールドカップ、オリンピックなどスポーツ・メディアがつくり出すつかの間のユーフォリア(陶酔感)に浸っている間に、世界の底辺部では、世界の平穏を、そして次の世代の運命を根源から揺るがしかねない変化が進行している。

資本主義に内在する格差拡大への動機
 
本書が強調するのは、経済的不平等が歴史的な偶然ではなく、資本主義が内在する明白な特徴ともいうべき点である。それだけに、必然的なものではなく、国家の介入次第では改善しうる可能性が残されてはいる。しかし、すでに多方面で指摘されている通り、世界の格差の問題は、いまや次世代の存在を危うくせしめるほどの危機的内容を含んで進行している。ほとんどの人たちは、自らが関わる目前の仕事に従事し、世界の広い範囲で進行している重大な変化やその意味することを考えることをしていないか、先延ばししているのだ。ウオール・ストリートの反乱など、時折噴出するマグマによって、足下で進行している重大な変化の存在に気づかされているにすぎない。

 この小さなブログでこうした大著の全面的な紹介や分析を行うことはできない。せいぜい問題の所在を指摘して、注意を促すくらいだ。しかし、次世代の人たちはこうした提示に真摯に立ち向かうべきだろう。その責任があるというべきだろう。世の中には安易に資本主義の終焉や改革のあり方を内容とする書物が溢れているが、そのほとんどはピケティが鋭く提示する事実への対応姿勢という点では、ほとんど的外れか蟷螂の斧(はかない抵抗のたとえ)に近い。たとえば、資本主義の崩壊の後に残る世界があるとすれば、いかなる姿なのか。

 もちろん、ピケティの作品を読んでいると、多くの問題点を感じる。しかし、大変抑えどころが良い。これらのいくつかについては、時に応じて議論にとりあげてみたいと思っている。格差問題というのは、必ずしも資本主義という制度に限定されるわけではないが、資本主義が引き起こしてきた格差問題には固有の特徴が指摘できる。

 ピケティはヨーロッパや日本など
では経済の低成長(g)に対応して、資本(r)の利益率が高くなっていると指摘する。ここで資本(r)には利潤、配当、利子、時代、その他の資本からの報酬が含まれる。他方、成長(g)は所得か産出物で測定される。そして成長率において、r>gという形で、所得の格差、富の不平等が均衡を失して、急激に拡大、継続すると推論されている。

 ピケティの大きな功績は、他の経済学者の協力を得て、ほぼ200年間にわたる経済格差の推移を推計したことにある。そして、世界の富の偏在はますます拡大し、不平等は歴史上、19世紀の水準に達するか、それを上回る結果になるとされる。

つかの間のベル・エポック?
 
アメリカはヨーロッパに比較すると新しい資本主義国だが、そこでは不平等はヨーロッパ以上に拡大する可能性もある。信頼できる統計の利用可能性の関係で中国や新興国における不平等については、触れられていないが、これらの国々においても急激な不平等の発生と拡大は、すでにさまざまに伝えられている。ピケティが指摘するように、不平等の拡大傾向は、必ずしも時系列的に一直線に進行してきたものではなく、1930年から1975年のように、世界大戦期(二つの大戦、大恐慌を含む)、傾向線から離反した時期もある。しかし、その他の時期で富の不平等が反転、縮小する要因、傾向は見出されず、さらに拡大すると推定される。現在の欧米は最後のベル・エポック(belle époque、良き時代、特にフランスで文化、芸術の栄えた19世紀末から20世紀初頭を指す)にあるとピケティは言う。さらに、世界は「世襲財産的資本主義」 "patrimonial capitalism" ともいうべき、富裕な家族などによって、同じ家族の次世代に引き継がれた財産の比率が高く、その富によって動かされる社会に戻りつつあるともいう。そのほか、本書には多くの考えるべき問題点が多数記されている。

 ピケティは世界の先進国の成長率が今後1-2%で推移するならば、資本/所得比率は増加を続けると考えられ、富の格差はさらに拡大し、世界経済において重大な問題を引き起こす。これまで、世界は「公正」という課題をなんとかかわして今日までやってきた。しかし、すでに多くの国で問題化しているように、もはや避けて通ることはできず、真剣に対決しなければならなくなる。

 これまでの論理で明らかなごとく、ピケッティの提示する問題へのほとんど唯一の対応は、富裕税(資本への累進課税)、それもグローバルな次元での課税である。ブログ管理人は幸い見ることのない世界だから、ここで議論を拡大するつもりはないが、緻密で壮大な歴史分析に比して、政策面での実現可能性という点では、大きな疑問を感じてしまう。現在の世界の多極化の中で、発展段階の異なる国々の政策をいかにして整序してゆくのか。地球温暖化への対応ひとつを見ても、それがいかに困難な課題であるかが分かる。しかし、格差がこれ以上大きな問題となり、保護主義やナショナリズムがさらに拡大した時に気づいても手遅れだろう。若い世代(たとえば50歳代以下)の方々は避けては通れない問題であり、どうしても考えていただきたい、かなり切迫した課題である。



 

References

Thomas Pikety, Le Capital au XXIe siecle, Editions du Seuil, 2013, pp.696

English edition, Capital in the Twenty-First Century, Translated by arthur Goldhammer, Harvard University Press, 2014




★やや遅きに失した感がありますが、NHKも取り上げるようです。
NHK グローバルWISDOM
BS1 2014年7月26日(土)午後10時ー11時49分

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夏の日のテラス:花と海を眺めて

2014年06月09日 | 書棚の片隅から

 

クロード・モネ『サンタドレスのテラス』

Claude Monet(Paris, 1840-Giverny, 1926)

Garden at Sainte-Adrresse、Oil on Canvas, 98.1 x 129.9cm
1867
New York, The Metropolitan Museum of Art
Source:http://jenl.pagesperso-orange.fr/frame.html

 

  6月に入ったばかりというのに、真夏のような暑さの日が続いて、この夏は厳しいかとおもったが、梅雨入りして、少し気温は下がったようだ。呼吸器が強くない管理人は、冬よりは夏の方が好きだ。汗をかくことで、新陳代謝が促され、夏の方が過ごしやすい。それでも、この蒸し暑さには異常さを感じる。子供の頃も暑かったけれど、真夏は7-8月頃であり、5月や6月ではなかった気がする。

暑気忘れの読書
 この数年、いつとはなく、ある暑さ対策を始めた。酷暑の日であっても、気軽に手にとれ、読み始めたらしばし暑さなど忘れて、ページを繰っているような書籍を近くに積んでおく。これはいつの間にか習慣のようにになってしまった。海外に滞在していた時は、夏休みのお勧め本のようなリストが、書店などから多数送られてきたが、大体読みたい本は含まれていないので、自分で選び積み上げておく。多くは大きな書店へ出かけた時に選んでおく。最近の例では、ブログに記した「HHhH」などはその一冊だ。このところ、フランス語のレッスンの関係で、フランスものが多くなっている。

 その中の一冊を取り上げてしてみたい。ブノワ・デュトゥルトル(西永良成訳)『フランス紀行』(早川書房、2014年)なる小説だ。実は、この作品、フランス語版の刊行時に書店で見ているのだが、今日まで手にとって読むことはしなかった。この小説に気づいたのは、平積みにされていた書籍の表紙(クロード・モネの作品)に惹かれたことにある。最近の書籍の場合、表紙と内容が必ずしも直接的な関係がないことも多いのだが、これはもしかすると面白いかもしれないと直感した。



ガリマール社文庫版表紙



印象派好きの日本人
 
 日本人は印象派の絵画が好きな人が多いが、
印象派の巨匠のひとりクロード・モネについては、フランス人以上にファンがいるのではないかとさえ思う。オルセー美術館、オランジェリー美術館、マルモッタン・モネ美術館、シカゴ美術館など、モネの作品がある所には、必ず日本人がいるといってもよい。とりわけ、あの睡蓮が描かれた作品は多くの日本人を惹きつけてやまない。

 モネの真作が何点あるのか数えたことはないので知らないが、おびただしい数になる。世界中に分散しており、日本にもかなりの点数が所蔵されている。モネの作品の大多数はフランスにあると思い込んでおられるとしたら、大きな思い違いだ。そのこともあって、モネ好きを自称される方でも、
フランス以外の美術館に所蔵されているモネの作品をご存じない場合も多い。

 この小説の表紙になっている作品も、モネの手になるものであることを知る人は案外少ない。作品がアメリカにあることも影響しているかもしれない。モネの初期の代表的作品『サンタドレスのテラス』である。ひと目見るだけで、心が開かれるような風景だ。輝くような日の光に照らされて、足下には美しい花々が咲き乱れ、さらに前方の視界には美しい青色の海が飛び込んでくる。爽やかな海の風が感じられるほどだ。実際にはこの日の空は曇天であることを気づかせないほど、光が満ちている。画面をよく見ると、はるか地平線の彼方にはセーヌ川左岸河口に位置するオンフルール Honfleur と思われる町が望まれる。今はル・アーブルとノルマンディー橋で結ばれている。

家族のための作品 
 
作品の色彩がモネ独特の印象主義的なものというよりは、きわめて現実に近い鮮やかな色彩である。モネは自らのこの作品を『旗の翻る中国画』と呼んでいたらしい。たまたま、前回のブログに掲載した浮世絵「横浜名所之内渡せん場」の光景にもフランス国旗と日の丸が描かれていることに気づいた。画面は花の溢れる庭園、海、そして空と水平にほぼ3分割されており、モネは制作当時、かなり冒険的な構図と言っていたようだ。多彩な色、画面を縦に切るような旗、そして水平線上の多くの舟のマスト、煙を上げる煙突など、細部にもこだわりが感じられる。

 
この作品は、フランス、ノルマンディ地方のル・アーヴルに近い港町サンタドレスに住むモネの父親アドルフ(白いパナマ帽を被っている)と伯母ソフィー・ルカドルの一家の人々を描いたとみられる。椅子に座っているのは、モネの父親アドルフとルカドルの他の従姉妹ソフィー(白い日傘で顔は見えない)、海辺に近い垣根の近くに立っているのは、モネの従姉妹ジャンヌ=マルグリット・ルカドルと彼女の父親アドルフと推定されている。

 特にモネをごひいきにしているわけではないのだが、この絵画作品については、最初アメリカでお披露目があった時の印象が強く、好きな作品である。たまたまニューヨークに滞在していた1967年に、メトロポリタン美術館が美術館友の会の募金と基金で購入した。またフランス絵画のアメリカ流出と、当時かなり話題となった。画面の両側にフランス国旗とサン・タドレスの旗だろうか(カタログなどにも説明はない)が翻っている。モネの作品としては、初期の珍しいもので、フランス美術関係者としては大変残念に思ったのだろう。

「パリのアメリカ人」新ヴァージョン?
 モネの作品についての前置きが長くなってしまったが、このブノワ・デュトゥルトルの『フランス紀行』は、フランスに憧れるニューヨークに暮らすアメリカ人青年デイヴィッドが、「俗悪な」アメリカを離れ、「洗練された」フランスへ旅行する話だ。印象派の絵画を好み、ドビュッシーを聴き、パリに憧れる。すでに出来上がっている「パリのアメリカ人」の現代版ともいえる。この手の話はイギリス人から見たフランス版「パリのイギリス人」も生まれており(たとえばStephen Clarkeのシリーズもの)、テーマとしては、それ自体とりたてて目新しさはない。双方共に、ユーモアと社会風刺に充ちている。

 いまやインターネットが発達し、フランスでマクドナルドのハンバーガーが若者の間に定着している時代だけに、それよりテンポが遅れているアメリカ人青年の行動、考えが笑いを誘う。ちなみに本書は2001年に刊行され、フランスでは著名なメディシス賞を受賞している。作者のブノワ・デュトゥルトル自身は、それまでに多数の作品を世に送っているフランス文壇で地位を確保している作家である。原著の出版と翻訳の間には、少し年月の経過があるので、その後フランスのグローバル化(アメリカ化)は急速に進んだこともあって、今読むとその間のギャップも面白い。

 ただ、ブノワ・デュトゥルトルの方は、より文学的でアメリカからやってきたフランスかぶれの青年に、中年のフランス男の「私」を対峙させてのかつての旧大陸と新大陸の関係を、巧みに今に再現させている。

 アメリカとフランスの双方について、ある程度知識のある読者には、テーマとともに、細部の記述に工夫がこらされていて、大変興味深く、暑さしのぎにはお勧めの一冊と思う。 





ブノワ・デュトゥルトル(西永良成訳)『フランス紀行』早川書房、2014年
Benoit Duteurtre Le voyage en France (Éditions Gallimard, 2001)

   

 

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これはフィクション?それとも:HHhH?

2013年11月22日 | 書棚の片隅から

 



チェコ、プラハ市内に残るオットー・ペチュカ邸宅跡を
示す銘板。ペチュカ家は1930-40年代、チェコ有数の
ユダヤ人富豪のひとり。ドイツ軍の占領(1939年)前年
アメリカへ亡命。ナチ時代はチェコ総督代理が占拠。
大戦後、在プラハ、アメリカ大使邸として使用。




 読み始めると止まらない。フィクションのようで、かぎりなくノンフィクションに近い強い迫力、リアリティがある。語られる時代は1930-40年代の恐怖の舞台だ。そして、読者がその世界にのめり込みすぎたとみると、ほどよく作者の身代わり?が顔を出し、自らの経歴、執筆の舞台裏などを語り、しばし読者を現代に引き戻し、また消えてしまう。読者は適度にじらされて、先が知りたく、他のことを放り出して読み進む。

 記憶力の衰えを嘆きながら、しばらく前から始めたフランス人の先生とのレッスンの過程で飛び出した作品である。定番の語学学習用テキストはもう意欲が湧かない。そこで、2010年度のゴンクール賞最優秀新人賞を受賞したローラン・ビネ Laurent Binet の『HHhH』なる奇妙な表題の作品を手に取る。初めての読者は、この表題からはなにを題材にした作品かまったく分からないはずだ。管理人も、最初は人の笑い声の擬音かと思ったほどである。しかし、少し読み進めるうちに、説明が出てきて、なるほどと作者の才智に感嘆する。

 一気に読み切れるとはとてもいえない読解力の上に、作品の巧みな構成に最初は惑わされたが、ストーリー自体はきわめて整理されており、語り口の絶妙さに魅了され、大分時間はかかったが、なんとか最終頁にたどりついた。途中、かなりドイツ語版(電子版)、英語版にも助けられた。今は、日本語版も刊行されたようだ。日本語版は管理人がかなりのめり込んだパスカル・キニャールの翻訳などを手がけられている高橋啓氏なので、信頼できる版に仕上がっているだろう。

心も凍りつく恐るべき「最終計画」
 読み始めてフィナーレの段階に来た今月、11月9日の夜から10日にかけて、この小説が、ある歴史的事件が出発点になっていたことに気づかされる。第二次大戦のきっかけになったともいうべき「水晶の夜」kristallnachatが起きた日である。1938年のこの日、ドイツの各地で反ユダヤ主義の暴動が発生し、その後に起こるユダヤ人ホロコーストへつながる契機となったと言われる重要な事件だ。名前の由来は、町の住宅、商店などのガラスが破壊され、月明かりの下で水晶のようにきらめいていたというところからつけられたとされる。命名したのは、後のナチス宣伝相ヨーゼフ・ゲッペルスといわれる。表現しがたい氷のような不気味な冷たさが背筋を走る。この感覚、戦争についての現実感が薄い若い世代に話したが、本当に共感してもらえたか、はなはだ不安だった。ユダヤ人を地上から殲滅するという「最終計画」に向けて、次々に実施される恐るべき行動の数々。当時の人々(コンテンポラリーズ)が感じた恐怖と次に来るべき恐るべき殺戮の空気を感じてもらうには、多くの下準備が必要な気がした。

 そして、その翌日11月11日、年次は前後して遡り、1918年になるが、第一次大戦休戦記念日であった。イギリスにいた頃、隣家の住人から今日は Poppy Day といわれて、一瞬聞き直したことも思い出した。この日、特に第一次世界大戦の戦死者をしのんで corn poppy(ヒナゲシ)の造花をつける。ヒナゲシの花言葉は、consolation (なぐさめ)である。

コンピエーニュの森へ
  第一次大戦末期、1918年11月11日、連合国とドイツ帝国はフランス郊外のコンピエーニュの森に引き込まれた秘密の客車内で暫定休戦協定に調印する。はるか以前のことだが、この森に保存されている客車を見に行ったことも思い出した。ドイツ側の代表は、銃弾が飛び交う中を車でおよそ10時間走り、連合軍の指定した場所まで行き、そこから列車で森に行ったらしい。


 今回は種明かしをしないでおくが、この小説『HHhH』は、ナチのある高官をめぐる実際の暗殺計画という高度に緊迫感のある主題である。ヒットラー暗殺計画を始めとするナチをテーマとする作品はかなり読んできたが、全般に陰鬱、暗澹とした印象が残るものが多く、一時は手に取ることをためらっていた。それでも、『ヒトラーの最後の12日間』を始めとして、このブログでもいくつか取り上げている。

 ビネが戦争を経験していない若い世代(執筆時33歳?)、それもフランス人作家の作品であることを知り、急に読んでみたくなった。ひとたび、手に取ると、しばらくなにも出来なくなった。

 この天賦の才に恵まれた30代半ばの若い作家の手になる作品は、強い迫真性を保ちながら、陰鬱一辺倒に傾くことなく、最後まで読者を魅了し尽くす。この悲惨きわまりない戦争を知らない世代が、よくここまで描ききったという感嘆の思いにみたされる。文中にしばしば登場する作家の身代わりらしき人物が、2ページ書くのに2000頁の資料を読んだと述懐するくだりがあるが、実際それに近いのだろう。

 この作品の主たる舞台は、チェコスロヴァキア、それもチェコの首府プラハだ。舞台設定も絶妙だ。日本人にはともすれば分かりがたい遠い国だが、チェコとスロヴァキアの違いを始め、この地域の複雑な関係の一端も知らせてくれる。

文学とはなにか
 
「虚実皮膜の間」という表現があるが、フィクションのようでかぎりなくノンフィクションに近い。その間合いの取り方は絶妙だ。伝統的スパイ小説の流れを受け継いだ作品との批評もあるが、この小説家はひとつの新しい次元を切り開いたと思う。21世紀という別の激動の時代に生きる人間が、1930-40年代、厚い秘密と恐怖のヴェイルに覆われた重大事件を、あたかもわれわれの目前に展開するがごとくに仮想体験する。

 このブログが漠然と考えていたことも、「時空」という障壁を超えて、過去と現在の仕切りなしに、障壁のないトピックスを論じることだった。そのひとつのモデルを見たような思いがした。

 しかし、ビネの新しい方法は、文学とはなにかという困難な疑問を再び提起する。フィクション(虚構)とリアリティ(現実)との距離が問われる。ビネの作品はこの時代に関する綿密な事実考証の上に書かれている。ナチスの時代は体験していない若い世代が、そのために費やしたであろう時間と労力にひたすら感服する。作品のプロットは当時の世界で最も怖れられ、嫌悪されたナチ・ゲシュタボの長官を追い詰める2人のチェコ人とスロヴァキア人の軍事スパイ(暗殺者)の話といってしまえば、元も子もないが、そこに存在した事実は短い言葉に尽くせない、ユダヤ人に対する「工業化された大量殺人」ともいうべき狂気に対して、細い糸のようにわずかに残された抵抗、レジスタンスの試みと顛末だった。戦後書かれたナチを題材としたフィクション、ノンフィクションは数知れない。管理人もそのいくつかを目にしたにすぎない。しかし、この作品はそれらの多くと明らかに一次元を画していると感じるものがある。極限の恐怖の時代を、サスペンス・ドラマのような感触も感じさせながら、現代人(同時代人)として追体験させる。

 読み始めた時、すぐに頭をかすめたのは、フレデリック・フォーサイスの小説『ジャッカルの日』(篠原慎訳、1971、1979年角川書店)であったシャルル・ド・ゴール大統領暗殺を企てたテロリストグループOASが雇ったプロ暗殺者ジャッカルとフランス官憲の追跡を描き、映画化もされた。両作品が実際の歴史的事実を主題としている点とそのプロットには、多くの近似性があると管理人は見ている。現代史上の含意では、『HHhH』はナチのユダヤ人大量殺戮とその計画・実施過程への接近という意味で、計り知れない荷重を負っている。

 そして、ほぼ同時にかつて愛読したもう一冊の作品と人物が念頭に浮かんで来た。チェコ生まれの文人カレル・チャペックであり、愛してやまない故国のさまざまな情景を描いた『チェコスロヴァキアめぐり』(1996恒文社、2006年筑摩書房)である。ビネはフランス人であるが、兵役に従事し、チェコスロバキアに滞在していたことがあった。そのことがこの国への深い愛と、そこに起きた驚くべき陰惨な出来事をできうるかぎり現実に近い形で小説化するという目標に向かわせた。現実は、いたるところ、描ききれない恐怖、残酷、悲惨、非人間的冷酷で充ちていたはずだ。ビネは、その点を和らげて描きながら、「小説」として、見事に時代を再現している。

 

 


Laurent Binet, HHhH, Grasset et Fasquelle, 2010(邦訳:高橋啓『HHhH』東京創元社、2013年)
幸い、邦訳も刊行された。ドイツ語訳も含め、多数の言語に翻訳されているようだ。たまたま手にしたドイツ語版は、管理人には少し異なった響きがする。ドイツ国内の読者の文学としての評価は、フランス、イギリスなどでのそれとさほど変わらないようだが、当然他国での反応とは微妙な違いがあるようだ。
ドイツ語版は下記。
Laurent Binet, HHhH, Rowohlt Taschenbuch Verlag, 2013

テーマを推測するヒント:
Himmlers Hirn heißt Heydrich.
「ヒムラーの頭脳はハイドリッヒと呼ばれる」
ドイツ語の動詞が生きていますね!


 

 

 

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他の人に良くないことが起きたとき

2013年09月24日 | 書棚の片隅から

 





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  東日本大震災が勃発した時のこと。この国はいうまでもなく、世界中が大きな衝撃を受けた。一時は日本の存在自体が危ぶまれるほどであった。それでも日本はなんとか最悪の局面を乗り切ったかに見える(原発の廃炉化の行方、予想される次の地震などを考えると、だれも将来には確言はできない。)。

 他方、東北の被災地に対する大きな同情と物心両面の支援の動きが世界規模で生まれ広がり、今日に続いている。うまく表現できないが、地球上に生を受けた人間という生き物の持つ計り知れない感性と行動の力をこれほど感じたことはない。

 今日にいたる過程にはおよそ書き記せない出来事が多々あった。すべてが明るいことではない。たとえば、隣国中国などのネット上に、「熱烈慶祝日本大地震」などのあからさまな悪意がこめられたコメントも現れたことも報じられた。中国にかなり友人、知人がいる管理人にとっても、大変残念に思ったことだが、さすがにこうした言動・行為は衰退したようだ。両国の政治家の一部などが政治の次元で対立・反目しあっていたとしても、未曾有の大震災という天災への反応としては、発言者や国家の品位にもかかわる言動だ。

 実際にはかなり追跡が可能なのだが、インターネットという匿名性が確保されているかにみえるメディア上での出来事である。IT時代における匿名性 anonymity にかかわる問題については、論じたい点はきわめて多いのだが、今は取り上げることをしない。

深い意味を持つ作品
 今回は、これらの問題に深く関連はするが、まったく別の心理現象について考えたことを少し記したい。すでにお馴染みのラ・トゥールの作品、とりわけ「昼」の作品ともいわれるカテゴリーに属する『占い師』、『ダイヤ(クラブ)のエースを持つ詐欺師』について探索していた時からの論旨の延長である。

 今日残る作品から判断するかぎり、ラ・トゥールという画家は作品のテーマ選定については、あまり冒険をしていない。その時代に流行していたテーマを選択していることが多い。しかし、そのテーマの扱い方や思考の深さで、他の画家の作品とは格段に違うものに仕上げている。制作にとりかかる前に、深く熟慮を重ねたことが伝わってくる画家である。上記の作品は、美術史の分類範疇では「風俗画」といわれる世俗画に含められている。しかし、イタリア、あるいはオランダの同時代の画家たちの描いた風俗画とは、受ける印象がかなり異なる。

 ラ・トゥールの数少ない風俗画としてのこれらの作品に接すると、多くの人は、世の中のことに疎く、財産だけは恵まれた貴族の若者が、ジプシーの占い師の一団やカードゲームの仕事師たちに、だまされて金品をせしめられる光景と受け取るのではないか。それを単純な怖い話と思うか、身分の違いだけで華美・贅沢な生活を送っている若者がだまされていることへの快哉とみるか、あるいはこの時代における風俗画に多い、倫理道徳にかかわる
ひとつの教訓とみるか、作品を見る人の受け取り方はそれぞれ異なるだろう。この点に関して、管理人はこれまでの通説とは少し異なった見方もしてきた。その点について、少し記してみよう。

他人の不幸を喜ぶ行為
 
これらの作品に描かれている、誰かがなんらかの災厄などを受けたことについての反応について、ドイツ語には Schadenfreude (シャーデンフロイデ;意地の悪い喜び、他人の不幸を喜ぶこと)という特有の表現がある。その意味はかなり深いものがあり、すでにひとつの研究領域を形成するほどの広がりがある(Portman 2000)。

 ちなみに知人のフランス人に、フランス語にこれに相当する語があるか聞いてみたところ、しばらく考えた後、ドイツ語ほど限定的な表現ではないが、思いつくのは、le cȏte diabolique かなという答えが返ってきた。diabolique という語からは、「非常に邪悪な、残忍な、悪魔的な」といったイメージが浮かぶ。しかし、Schadenfreude は、フランス語のune machination diabolique (悪辣な陰謀)などから思い出す残酷、陰惨なイメージとはどうも違いそうだ。

  そこで、次にフランス語に堪能な友人のドイツ人に確かめてみても、ドイツ語の意味する内容とはかなり違うような感じがする。フランス語のこの表現は、上に記した中国のインターネットに記された一部の悪意、敵意の発露にむしろ近いのではないか。英語の resentment、フランス語の ressentiment がほぼこれに当たり、あらゆることへの(しばしばいわれのない)憤慨、憤りに相当しよう。
 

バナナの皮に滑る人も
 ドイツ語のSchadenfreude には、軽いものとしては、路上のバナナの皮に滑って転ぶ男などを見て、笑いの種とするようなものも含まれるようだ。これは時々コミックなどにも登場しており、現実に大怪我?などをしないかぎり、見物人の失笑を買うくらいの軽いものだ。フランス語なら、se moquer de qualqu'un とでもいうところか。いずれにせよ、他人の不幸を笑いの材料としていることに変わりはない。

 他方、現代の世界的小説家 批評家ゴア・ヴィダール Gore Vidal(1925-  )は、「誰か友達が成功するたびに、私の中の小さななにかが壊れる」"Whenever a friend succeeds, a little something in me dies," と述べている。現代アメリカの激しい競争社会で浮沈をかけて競い合っている小説家にとって、馬鹿げているが、恐ろしくもあり、そして真実なのだ(Portman 2008)。小説家にかぎらず、他の分野でも十分ありえよう。

 上掲のPortmann の研究は、この Schadenfreude なる人間の品性の質にかかわる特性(どちらかというと陰の部分)を対象とした、きわめて興味深いものだ。偶々、表紙にラ・トゥールの『占い師』が使われているように、この光景は Schadenfreude のひとつの典型と考えられているとみてよいだろう。この作品の中心に位置する不思議な顔をした女性は、その一回見たら忘れがたい容貌から、当時かなり著名な話の主人公ではなかったかとの推測も行われている。その詳細が分かる日も遠くないかもしれない。

 他方、被害者にされた若い男は、自分の直近に起きることも予想できないほど、先が読めないおめでたさ。それで将来をジプシーの老婆に占ってもらっている。いったい、どんなお告げが語られるか、興味津々。画家も制作に際して、十分にエンターテイメントの要素を想定しているのではないか。現代のブラック・ユーモアに近いかもしれない。きわめて深い宗教的意義を内在させた作品を残しているラ・トゥールが、他方でこうしたことを考えていたとすると、ラ・トゥールの人物像もかなり変わってくる。

 度々記してきた通り、ラ・トゥールが生涯の多くを過ごした時代、17世紀とロレーヌという地域は、文化的にはフランスに近かったが、領土という点では神聖ローマ帝国側にあった。この画家はフランスのバロックの時代に片足を置きながらも、根底ではゴシック、ゲルマンの風土、思考を強く保持していた。ラ・トゥールは美術史上、しばしば安易にバロックの画家と分類されることがあるが、その作品は底流において、ゴシックの流れを継承していると考えられる。

深さと広がり
 この Schadenfreude の意味の深さ、広がり(どこまで含むか)などについては、興味が尽きない多くの議論がある。いづれまた紹介の機会を待つとして、カフカやマーク・トウェインなどの小説家やニーチェ、カントなど哲学者の議論にもなっている。他人の状況と自分の立場を比較して、一喜一憂?することは、ある程度、人間の性(さが)とはいえ、そこには人間として自ずと越えてはならない一線があるはずだ。人間性の本質を究める議論において、少なからず議論になる問題である。その意味で、Schadenfreude という言葉ひとつをとってみても、その奥行きはきわめて深い。

 この問題を最初に本格的に提示した研究者のPortmann は、Schadenfreude を「(良い悪いの判断の情緒的な推論として)、他人の失敗、挫折について、道徳的に許容できる範囲の楽しみ」(Portmann 197) と考えており、根深い道徳的失敗、欠陥に相当する ressentment とは一線を画し、対比されるものとしている。

 人間の本性は複雑であり、多くは外見から計り知れない。最初は表に現れない、小さな好き嫌い程度の感情が、ある閾値を越えてしまうと、民族や国家間で敵意や嫌悪という次元にまで暴走してしまう。そして、関係国の国民までが、互いに嫌悪、敵意といった感情をあからさまにする次元にまでいたる。中東諸国の内戦、イスラエル・パレスチナ問題、そして日・中・韓国の政治的現状は、この段階にある。

 ここにいくつかの例を示したが、問題の奥行きは深く、哲学的課題にまで到達してしまう。多くのことを議論の俎上に載せることはできる。しかし、日常の生活行動としては、「自分がしてもらいたいように、他人にもしてあげなさい」という古来の知恵を愚直に行ってゆくことしか、今は考えられない。


John Portmann, When Bad Things Happen to Other People, New York & London, Routledge, 2000. 

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ラ・トゥール瞑想:ノルウエーの闇と光

2013年08月26日 | 書棚の片隅から

 

ノルウエーの詩人P-H ハウゲンによるジョルジュ・ド・ラ・トゥールに
ついての詩集
 


暑さから逃れて

 酷暑、豪雨、旱天と異常気象が矢継ぎ早に日本列島を襲った夏だった。ある日、猛暑の昼下がり、近くの行きつけのイタリアン・レストランに入る。若いイタリア人の経営で、予約が必要な人気の店だ。幸い空いていた。間もなくお隣の席に、中年の外国人男性が一人座った。手持ち無沙汰のように見えたので、コーヒーの時に、「イタリアからいらしたのですか」と聞いてみた。

 すると、思いがけない答えが戻ってきた。「いいえ、ノルウエーですよ。妻は日本人で子供も日本の学校へ行っています」との答えである。近所に外国人が増えたことは、感じていたが、ノルウエーの人までとは思わなかった。なにかと住みにくくなった日本だが、住んでくれる外国人もいることは有りがたいことだ。

原発がない国
 早速今年の猛暑が話題となる。日本の暑さは厳しいが、今はなんとか過ごしていますよとのこと。かつて管理人が訪れたオスロー、フィヨールド探訪の拠点ベルゲンなどの話になる。ベルゲンは雨の多いことで有名で、すぐにその話に移る。ちなみにノルウエーは国土面積は日本とほぼ同じだが、人口は450万人くらいで、自然環境、社会環境はまったく異なる。うらやましいことに水力、石油、天然ガス、石炭とエネルギー資源に恵まれ、国内発電能力の大部分は水力で充足している。原子力発電は基礎研究はしているが、発電所の計画もない。しかし、他の北欧諸国同様、核燃料廃棄物の放射能の減衰年月と〈安全性を考えて最終格納場所まで研究されているようだ。

 こんなことを話題にする日本人はほとんどいないようで、会話は弾んだ。外国に住んでいて、自国のことを知っている人に出会うことは、一寸した驚きで、また喜びでもある。こちらも、最新情報を教えてもらう。

ラ・トゥールに出会う
 
さらに話は思いがけない次元に飛ぶ。ノルウエーの詩人パールーヘルゲ・ハウゲン Paal-Helge Haugen(1941-) の詩集 『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール瞑想』 Meditations on Georges de La Tour のことである。日本では、フランス通といわれる人の間でも、意外に知られていない画家である。ハウゲンはノルウエーでは著名な詩人でスエーデン・アカデミーの文学賞を含めて、ノルウエーの主たる文学賞5つを受賞している。



Paal-Helge Haugen 氏イメージ 

  ラ・トゥールに関する同氏の詩集がノルウエーで出版されていることは、聞いたことはあったが、英語版が刊行されたことは最近になって知った。この17世紀フランスを代表する画家については、実にさまざまな試みがなされてきた。その一端はこのブログでも記している(まとまった紹介を考えてはいるが、果たせていない)。日本ではほとんど知る人も少ないが、世界中でこの画家と作品を題材とした文学作品は数多く刊行されている。

 さて、このハウゲンの詩集は、1990年にノルウエー語で書かれ、同国批評家賞 Norwegian Critics' Prize
を受賞した。そして1991年に英訳もされたが、今年2013年にはノルウエー語と英語並記の詩集が刊行された。17世紀激動の時代に数奇な生涯を過ごしたラ・トゥールという画家の世界と作品について、詩の形式で思索、瞑想したものである。ラ・トゥールの時代と作品について、かなり詳しくないと、理解不能と思われる。

 ラ・トゥールが生きた17世紀ロレーヌの闇と、北欧ノルウエーの闇とは、同じヨーロッパであっても、かなり異なる。しかし、この画家には時代や国境を超えて共鳴しあうなにかがある。


 この詩集が刊行された今年春の出版記念会 Book Raunch において、ハウゲンの作品の一部が紹介かたがた朗読されている。読んでいるのは英語版への翻訳者Roger Greenwald である。この朗読を聞いて、共鳴できる方は、相当のラ・トゥール・フリーク(?)であることは間違いない。


 詩集の概略と朗読の動画サイトはこちら。 

   

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Read by Roger Greenwald 

ちなみにハウゲンが詩の対象としたのは、ラ・トゥールの「ヴィエル弾き」を含む五点の絵画です。

 

Paal-Helge Haugen, Mediations on Georges de La Tour, Translated by Roger Greenwald, BookThug, Canada, 2013.

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