時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

黒衣の賢人たち: ルター、エラスムス、トーマス・モア

2018年03月14日 | 午後のティールーム

 


デジデリウス・エラスムス (1466-1536) 

世界が新たな危機的時期を迎えていることは改めて説明するまでもないだろう。2020年東京五輪までの世界は何色に見えるだろうか。これまで何度か記してきた色彩に関わる探索の過程で、「黒」という色の与える効果についても考えてきた。「黒」という色から人々は何を思うだろうか。暗黒、闇、恐怖、死、尊厳、権威、厳しさ、威厳、規律、フォーマル、厳正、端正など、さまざまだろう。人類の歴史においても、「黒」には長い間、深い恐怖、闇などのネガティヴな感覚がつきまとっていた。しかし、時代を追って「黒」の与える印象も異なってきた。しかし、この色にはそれ自体を気づかせる要素が何もない。他の色彩との関係で初めてその存在が認識される。以前に記した下記の著作を思い起こして欲しい。
Michel Pastoureau, BLACK: The History of a Color, Princeton University Press, 2008.

このブログのひとつの柱としてきた15-16世紀絵画についての文化的背景を探索する過程で、本書を含め、いくつかの文献を眺めている時、エラスムス、トマス・モア、ルターの黒衣姿に目が止まった。近世初期といわれる時代を形作った人文学者、思想家であり、宗教家である。


デジデリウス・エラスムス (1466-1536)は、ネーデルラント出身の人文学者であり、カトリック司祭、神学者、哲学者だった。しばしば初期人文学者の最高峰とされてきた。普通、「ロッテルダムのエラスムス」として知られてきた。

 1500-1515年頃、エラスムスは来るべき未来についての輪郭を構想していた。当時、古いヨーロッパはローマ教会によって支配されていた。教皇を頂点とする厳格な階層的体系、権威、伝統、告白と聖餐拝領などの形式が支配していた。しかし、当時すでに権威の体系は揺らいでおり、人文知識や識字率の拡大、貿易の拡大、都市の成長、印刷技術の発展、さらに知的水準の高い、豊かな中間階級が拡大しつつあった。彼らは富と知識を求めていた。

エラスムスは多くの都市をめぐり、その考えを披瀝しながら、1515年にはエッセイ Dulce vellum inexpert (“War is seen only to those who have not experienced it”) 。彼は横暴な君主たちなどが引き起こす絶え間のない争い、戦いに反対した。主権者たちに自分たちの目的を追求するばかりではなく、他の人々の考えも尊重されねばならないと諭した。1511年、有名な『痴愚神礼讃』で当時の王侯、教皇を含め、神学者、知識人の驕りや幻想を嘲笑し、新たな刷新の形を示唆していた。

エラスムスの考えの根底には新約聖書の改定があった。彼の考えの一部には、支配階級の不道徳を批判し、改革の道を示唆するものがあった。キリスト教世界の改革のためには、キリスト教の基盤が清くならねばならないと述べた。当時広く使われていたウルガタ Vulgate (ラテン版聖書だが、古代のギリシャ語版から翻訳されていた)がその対象であった。この聖書はすでに数千年の間使われ、時代と内容がかなり離反していた。ローマン・カトリックの柱を形作り、長い時を経過した聖書だが、多くの誤訳や曖昧な表現も含んでいた。

1500年にはエラスムスはギリシャ語を学び始め、福音書や書簡をそれが書かれた当時のように読むことができた。ローマが没落した後、ラテン世界からギリシャ語に関わる知識は社会からかなり消えていた。

その後、エラスムスは1506年には念願のイタリア行きを果たした。聖書翻訳の作業は進捗し、新訳は聖書研究の里程標となった。1516年の春にはエラスムスのギリシャ、ラテン語学での名声は全ヨーロッパ的なものとなった。Erasmianという言葉まで生まれた。エラスムスの『改定版新約聖書」は世界へ普及し、後のマルティン・ルターのドイツ語訳聖書の原版になった。

徹底したエリート教育を受け、一般的人文主義のチャンピオンとなったエラスムスは世界クラスのスノッブでもあった。エラスムスの思想は、宗教改革、カトリック宗教改革の双方に大きな影響力を持った。エラスムスはカトリック教会を批判した人文主義者と言われたが、彼自身は生涯を通してカトリック教会に忠実であった。1536年、69歳、バーセルで没した。

- エラスムスは生前、1499年にイングランドへ渡り、同地の上流社会に多くの知己を得た。なかでも、終生の共にとなった政治家トマス・モア Thomas Moreとの交友は深く、よく知られている。

- エラスムスの新たな啓蒙運動が展開している時に、全く別の形での運動がマルティン・ルターによって始められていた。エラスムスはカトリック教会内部で古代から議論が続いてきた自由意志の問題についての『自由意志論」を展開したが、それはルターの思想的骨子でもあり、ルターはそれに対する形で「奴隷意志論」を著した。エラスムスはそれに対する反論を企てたが、それを最後に混迷した議論から手を引いた。

-マルティン・ルター(1483-1546)


ルターはエラスムスが活躍していた頃、別の啓蒙の試みを行っていた。ルターはよく知られているように、神の恩寵は、ローマ教会が教えるような良い行いをしたことよりは、キリストへの信仰の深さにかかっているとした。ルターがウィッテンベルグの教会の扉に伝えられる95ヶ条の論題を掲げたのは、1517年10月31日のことであった(この点についての細部には異論がある)。その後の経緯は改めて記すまでもなくよく知られている。

はじめのうちはエラスムスはルターの教会改革を賛辞した。しかし、その後信仰に関わる自由な意志を巡るやり取りで、対立は決定的となり、二人はお互いに敵視する間柄となった。

二人の対立はさらに、宗教世界のルネサンスと改革という点での対立であった。エラスムスのスノビズムとエリート意識にもかかわらず、エラスムスの人文主義は黙示録との選択肢となっていた。

ルターにも試練が待ち受けていた。1524-1525年にかけてドイツの農民がルターの言説に一部影響を受けて、世俗と宗教界の支配へ反乱を起こした。ルターはアナーキズムを恐れ、彼らの言動を強く批判した。農民たちは必然的にルターに反対した。ルターとスイスのカルヴァン派との間でも聖餐の意味をめぐり、分裂が生まれ、両者の非妥協的な対応もあって、プロテスタントの統合もならなかった。

トマス・モア( Thomas More、1478年-1535)は、最後に取り上げる賢人である。イングランドの法律家、思想家。カトリック教会と聖公会で聖人とされた。政治・社会を風刺した『ユートピア』の著述で知られる。

トマス・モア( Thomas More、1478年 - 1535)

 

「わが命つきるとも」A Man for All Seasons

モアは、大司教・大法官Lord Chancellor のジョン・モートンの家で従僕として教育を受け、オクスフォード大学、リンカーン法曹院で学び、法律家となった。1504年、下院議員。1515年からイングランド王ヘンリー8世に仕え、ネーデルラント使節などを務めた。1529年、官僚で最高位の大法官に就任した。

しかし、自らの節度を曲げることなく、悲劇的な最後をたどった。ヘンリー8世が離婚問題からローマ教皇クレメンス7世と反目すると、大法官を辞任。ヘンリー8世の側近トマス・クロムウェルが主導した1534年の国王至上法(国王をイングランド国教会の長とする)にカトリック信徒の立場から反対したことにより査問委員会にかけられ、1534年ロンドン塔へ幽閉され、1535年斬首、断罪された。人間の生きる価値と権力をめぐる陰謀に、信仰に命を懸けるトマス・モアの生き様には強い感銘を受ける。ここにたりあげた三人の黒衣の人たちは、近世初期といわれる時代にあって、政治と信仰という領域に関わる根源的な課題にそれぞれの思想と個性をもって対峙し、生き抜いた賢人であった。その結果は、現代のヨーロッパ世界に複雑な遺産 legacy を残した。

 

宗教改革の遺産:現代ヨーロッパのキリスト教宗派別分布(概略) クリックで拡大


Carlos M.N. Eire, Reformations: The Early Modern World, 1450-1650, Yale University Press, p.755

追記

今回とり上げた三人は同時代人として、宗教上、政治上の立場は異なるが、それぞれに強靭な個性を持った人たちであった。互いに交友や対立の関係にあったが、とりわけ、エラスムスとモアについては、下記の形で往復書簡の一部が残されている。大変丁寧な翻訳、解題、解説が附せられ、当代屈指の知識人の思想・見解の詳細を知ることができる。今回、論及する余裕はないが、改めて取り上げる機会を待ちたい。

『エラスムス=トマス・モア往復書簡』(沓掛良彦・高田康成訳) 岩波文庫、2015年

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江戸の女性弦楽三重奏

2018年03月11日 | 午後のティールーム


葛飾応為
『三曲合奏図』”Pictorial evidence for sankyoku gassou”
ca.1844-1856絹本著色、1幅、46.5x67.5cm, Museum of Fine Arts, Boston, William Sturgis Bidelow collection.

3人の女性が三味線、胡弓(尺八の代わり)を合奏する画題で、女性の配置の構図、色彩ともに素晴らしく、応為の画家としての力量を思わせる。


映画は別として、TVで連続物や長編ドラマを見ることは、ほとんどないのだが、『眩〜北斎の娘〜』(くらら〜 ほくさいのむすめ〜)は、葛飾北斎への関心とのつながりで、なんとなく見てしまった。女流作家、朝井まかてによる歴史小説が元になり葛飾北斎の娘で天才女絵師・葛飾応為の知られざる生涯を描いた作品のテレビドラマ化であるとのこと。

筆者の古いTV画面でも画像は大変美しく、ストーリーを楽しむことができた。葛飾北斎の娘で「江戸のレンブラント」とも称される天才女絵師・葛飾応為の知られざる生涯を描いた佳作である。

実は、ラ・トゥールほどのフリークではないが、北斎については、比較的以前から機会があれば追いかけてきた。番組は葛飾北斎の娘(異論もあるが三女と推定)で、天才女絵師・葛飾応為(お栄、応為)の知られざる生涯を描いた作品だ

応為は北斎と後妻の間に生まれた子供たちの三女であった。北斎と後妻(こと)との間に出来た子供たちについて判明していることがいくつかある。次男・多吉郎(崎十郎)は本郷竹町の商人勘助に養わせている。その後、多吉郎は御家人の加瀬家に養子に入り、多知という女子が誕生、この多知は臼井家に嫁いで二人の男子を産み、次男の昶次郎は加瀬家の養子に入り家督を継いでいる。

四女のお猶は早世、三女のお阿栄がよく知られる葛飾応為(生没年不明、応為は画号)で、阿栄は堤派の絵師・南沢等明と結婚するも、夫の絵が自分より下手だといつも馬鹿にし、これが原因で夫婦仲も良くなく、離別して父のもとに帰り一緒に暮らし、再婚もせず晩年およそ20年近くにわたり父の世話をしながら代筆もやり、美人画については北斎を超える腕前とされ、江戸後期を代表する女絵師の一人に数えられている。

阿栄は父の死にショックを受け、その後は門人や親戚縁者のもとを転々とするものの、突然消息を絶ってしまった。加賀前田家に扶持されて、金沢で没したとの説もあるが、今の段階では真偽不明になっている。慶応年間に没したとの推定もある。現存する作品も10点前後と少ない。北斎の作品とされていながら、実際は応為あるいは父親との共同制作がかなり含まれるとの推定もある。

応為の手になると確定しうる作品数が少ないのが残念だが、継承された作品から見る限り、父北斎の血筋を引き、画才の点でも構図、色彩の選択など、この時代の画家として突出していた女流画家であることが伝わってくる。

 

葛飾北斎の先妻との関係:北斎には先妻に一男二女、後妻(こと)にも一男二女いたといわれる。ただ北斎は自由奔放な生涯を送っているので、家族についても不明なことが多い。先妻との子供の内、長女の美与は、門人の柳川重信と結婚、男子を産むが、離婚して父のもとに戻って若くして死亡。残された孫(名は不詳)は手に負えぬ放蕩者となり、祖父である北斎を悩ませることになるが、その後は不明。長男の富之助は、北斎の実父と考えられる公儀御用鏡師・中島伊勢(北斎の叔父とも、父方は川村氏という)家を継がせるも早世し、次女のお鉄も早世した。

 

葛飾応為は、「江戸のレンブラント」と言われることもあるようだが、実はレンブランドの娘も画家として放逸、貧窮の生活を過ごした晩年の父を助けて画家となった娘があったことが小説化されている。このブログで小説化された『バタヴィアへ行った画家の娘 』を紹介している。画家であった父親の死後、画業を継承した娘の事例は他にもあり、いずれ紹介してみたい

 

Reference:

HOKUSAI: BEYOND THE GREAT WAVE, EDITED BY TIMOTHY CLARK, Thames & Hudson, The British museum, Reprinted 2017.

HOKUSAI AND JAPONISME: 北斎とジャポニズム、国立西洋美術館、2017.

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HOKUSAIの偉大さ:大英博物館展の迫力

2018年02月10日 | 午後のティールーム

 

 Hokusai, Choshi in Soshu province, from the series A Thousand Pictures of the Sea
About 1983, Chiba City Museum of Art
千絵の海、総州銚子、1983年、千葉市美術館

全十図からなる名所絵揃物である「千絵の海」は、「富嶽三十六景」が発表された後の1833年頃に制作されたと推定されている。日本各地の海や川を舞台に、変幻する波や水と、漁業に携わる人々が織り成す情景がいきいきと描かれている。『富嶽36景」のダイナミックさとは異る構図である。藍のグラデーション、ダイナミックな構図が印象深い作品で、波や水しぶきといった、北斎が追求し続けたモチーフである。

葛飾北斎 総州七里ヶ浜,1831年、British Museum
鎌倉の南西に当たる浜辺からの富士山遠望

上と下の作品を比較しても一目瞭然、「動」と「静」の対比が見事に描き分けられている。  

このところ世界的に葛飾北斎の評価が高まっているようだ。ジャポニズムの観点からの企画展が日本で開かれる前に、昨年大英博物館で『HOKUSAI』の企画展(5/25-8/13)があった。日本でもあべのハルカス美術館で開催された(10/6-11/19)。大英博物館の方はコミッショナーがイギリス人美術史家によるもので、ジャポニズムをテーマとした国立西洋美術館展とは異なった視点、Beyond the Great Wave(大浪『神奈川沖波裏』を超えて)で企画されている。北斎の作品はこれまでかなり見てきたと思っていたが、改めて日英両国の企画展に出展された作品を見て、その数と多彩さに驚かされる。ジャンルの広さにおいてもほとんど比肩する画家は見当たらない。世界レヴェルで見て、ダントツな画家といえる。大英博物館展では、前売り券はすぐに売り切れ、当日券も長い行列が続いたようだ。イギリス人の好む植物画も大変人気だったようだ。

北斎の制作活動はきわめて長かったこともあり、生涯における制作点数はきわめて多い。北斎の研究者でも数え方などもあって正確な作品数は分からないようだが、1,000点を越えるとみられる。木版画が一つのジャンルということもあって、作品の浸透度は油彩画などの比ではない。愛好者は日本国内に止まらないだけに所蔵先は広範に渡り、ブログ筆者も実物を見たことがない作品がかなりある。北斎の作品イメージが頭の底に集積されて行くにつれて、日本が世界に誇りうる偉大な画家であることを一段と実感できる喜びがある。

 

HOKUSAI: BEYOND THE GREAT WAVE, Edited by Timothy Clark
Thomas & Hudson, in collaboration with The British Museum, 2017
Cover 

 

 

 

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シャーデンフロイデ :日本語は?

2018年02月01日 | 午後のティールーム

 

ジョルジュ・ド・ラ・トゥール『女占い師』メトロポリタン美術館、部分


最近訪れた書店で、脳科学者・中野信子氏『シャーデンフロイデ』なる新書に目が止まった。この表題で何をテーマとした書籍かすぐ分かる日本人はどのくらいいるだろうかと一瞬思った。実はブログ筆者はこのテーマにかなり関心を呼び覚まされ、5年ほど前に「他の人に良くないことが起きたとき」という短い記事を掲載している。2000年に刊行されたJohn Portmann, When Bad Things Happen to Other People というこの分野の力作を話題としたものだ。

この書物の表紙には、またもやラ・トゥールの作品『女占い師』が使われていることに読者の注意を促した。世事に疎い貴族の若者がジプシーの占い師に手相を見てもらっている間に、高価な装身具などをハサミで切り取られて盗まれるという光景を描いた作品だ。この画家の作品制作に際しての熟考、検討には何度見ても感嘆する。画家は「シャーデンフロイデ 」を意識して、見る人が貴族の若者が不幸な目に出会う不運を密かに喜ぶものか、あるいは俗界に溢れるリスクに警告を促したものか。画家は制作の意図を明らかにせず、描写に徹して見る人の解釈に委ねている。「深謀遠慮」([文選、賈誼、過泰論] ずっと先のことまで深く考えて計画を練ること:『広辞苑』)の好例と言えるかもしれない。ほぼ同時代のフェルメールなどとは、全く異なる人間の深層心理についての深い精神的 (心理的) 探索がある。いうまでもなく、’Schadenfreude’ などという表現は、この画家が生きた17世紀ロレーヌには存在しなかった。

この言葉、’Schadenfreude’ は改めて述べるまでもなく、元来ドイツ語である。「意地の悪い喜び、他人の不幸を喜ぶこと」(self-harm)という特別の含意がある。18世紀半ば頃に使われるようになったらしい。しかし、この言葉には英語やフランス語の直訳(同義語)がない。一説では、19世紀イギリス国教会の大主教が英語化されるのを執拗に拒んだともいわれる。彼はどんな言葉でもある特有の文化的意味 ‘culture’ を持つと主張した。イギリス、とりわけ宗教界にこうした含意の概念が持ち込まれることを懸念したのだとの推測もあるが定かではない。結果として今日の英語環境でも、ドイツ語表示のままで使われており、大文字で始まっている。今では英語やフランス語にも多少似た類語はあるが、このドイツ語を念頭に作られたものではない。


こうした背景には、このような人間心理は、ドイツ人特有のものでイギリス人は持ち合わせないとでも言いたいのだろうか。しかし、少し考えてみれば分かることだが、こうした心理状態がかなり普遍的な人間心理であり、とりたててドイツ人に限ったものではないことはほとんど自明なことだ。上述のPortmann が明言していることでもある。


最近のひとつの例を挙げると、アメリカ大統領選でヒラリー・クリントン女史がトランプ氏に敗退した時、この言葉を使ったメディアもあった。しかし、その結果がどうなったか。シャーデンフロイデ を感じた人はなにか得をしたのか。あるいは「糠喜び」(あてがはずれて、よろこびが無駄になること。またそのようなつかの間の喜び:『広辞苑』) に終わったのか。なかなか興味深い含意と広がりを持つ言葉だ。言い換えると、人間に固有な影を秘めた特性ともいえる。


ブログ筆者が以前の記事で記したように「バナナの皮で滑って転んだ人を見て笑う」程度ならば許容できるが(?)、「正義」「道義」「節操」justice の領域に踏み込むと多くの難しい問題が生まれる。


他方、日本語では「判官贔屓」(源義経を薄命な英雄として愛惜し同情すること。転じて、弱者に対する第三者の同情や贔屓(ひいき), 『広辞苑』)という表現もある。同じような一語での表現が英語、ドイツ語、フランス語などにあるかと少し考えてみたが、思いつかなかった。


「シャーデンフロイデ 」という概念の難しさ、広がりを改めて思い知らされる。

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いかさま師召使の帽子はどこから来たか

2018年01月26日 | 午後のティールーム

 



Never ending story


1月23日の草津白根山の突然の噴火と火山事故の報道を見ていると、いくつかのことが脳裏に浮かんできた。それも半世紀近く昔にこの山に登った記憶である。鏡池という名前は忘れていたが、その美しい火口湖のイメージは記憶に残っていた。草津白根山ばかりでなく、日光白根山、吾妻山など比較的親しんできた火山には、「五色沼」などの名がついた神秘的な色をした火口湖があることが多い。記憶は不思議なもので、火山特有の硫黄や硫化水素臭のことまで思い出していた。


このブログに過去に訪れてくださった皆さんの中には、ラ・トゥールの「いかさま師」に描かれている妖艶な?顔の女主人公の召使と思われる若い女性が被っている鮮やかな黄色の帽子のことをご存知かもしれない。この召使いの表情、目つきもかなり怪しげだ。しかし、よくみると、この帽子の色彩は大変複雑で、画家がかなり考えての配色であることがわかる。おそらく手元にあった唯一の黄色の顔料だろう。その濃淡を駆使して、後世に残るこれだけの表現を成し遂げた画家の力量には、ひたすら感嘆する。顔料が極めて高価で限られていたこの時代、17世紀始めの頃の絵画で、黄色がこれほど目立つように使われている作品は数少ない。この黄色、大変鮮やかであり、Jaune Brillant 「鮮やかな黄色」とも言われていた。

Jaune Brillantは、当時の画家たちが非常に欲しがった色だった。金色を表現するに使ったり、光の効果を出すのに適していた。錬金術師たちが活躍していた時代、画家や薬剤師が欲しがる顔料の材料や配合は秘中の秘であった。画家が使える顔料、絵の具の種類は限られていた。今日のように人の手で化学的に合成された絵の具はほとんどなかった。この黄色は通称「ナポリの黄色」Naples yellow の名でも知られていた。というのも、ヴェスビアス 火山Mount Vesviusの中腹で採掘された鉱石から作られたのではないかと推定されていたからだ。今では分析で、主たる成分は、鉛アンチモニーであることが分かっている。アンチモニーは顔料の歴史でも古代エジプトまで遡る古い歴史を持っている。


この絵具の顔料が発見された経緯も明らかになった。18世紀初め、プルシャン・ブルーが発見された経緯と似ているが、1970年代初め、ドイツのダルムシュタットの古い薬屋でおよそ100近い小瓶が発見された。それぞれに違った色の液体や固体の入ったジャムの瓶のような容器、インク壺のようなもの、香水瓶のようなものからなっていた。さらに、それぞれに手書きで注意深く記された名称のラベルが貼ってあった。しかし、それでも何が入っているかは容易には分からなかった。’Virid aeris’、’Cudbeard Persia’ など奇妙で風変わりな名称がつけられていた。多くは19世紀頃から貯蔵されてきたものだった。その中に’Neapelgelb Neopilitanische Gelb Verbindung dis Spießflz, Bleies’ という名称で、長らく伝説となって多くの薬剤師や画家たちが探し求めてきた Naples yellow (「ナポリの黄色」)と思われる顔料も含まれていた。

これらの瓶を受け継いできた薬屋は、「ナポリの黄色」は画家がとても欲しがった顔料だったことは知っていた。製法は不明であったが、ラベルから鉛アンチモニーが原料であり、それを何らかの合成プロセスを経て作り出されたものだということが推定された。

この色名を最初に使ったのは、1693-1700年くらいの時期に、ジェスイットの修道士であり、ラテン・フレスコ画家でもあった アンドレア・ポッソ Andrea Pozzoではないかと推定されている。彼は黄色の顔料を’luteolum Napollitanum’ と名づけており、当時すでにその名称が使われていたようだ。

クローム・イエローという別の黄色よりは画家たちに好まれたが、「ナポリの黄色」は必ずしも安定した顔料ではなかった。色調は明るく、暖かく、好ましい黄色なのだが、日光に長く晒されると退色することが分かってきた。そのためスパチュラという象牙などで作られたへらで伸ばして厚めに使うことが口伝で勧められていた。顔料の原料もどこから来たか分からなったが、探索の結果、やはりヴェスビアス火山が源ではないかと推察されるようになった。

今日、世の中に存在する色には Index Generic Name が付けられるようになっている。この「ナポリの黄色」は 通常 Pigment Yellow 41 として知られている。「黄色 」yellow という色名だけをとっても、Blonde, Led-tin yellow, Acid yellow, Naples yellow, Chrome yellow, Gamboge, Orpiment, Imperial yellow, Gold など、よく知られたものだけでも数多く、それぞれ独特の色調と、歴史を持っている。絵画一点をとっても、その鑑賞の世界は色々と奧深い。それにしても、ラ・トゥールはあのいわくありげな召使いの帽子の絶妙な黄色を何から思いつき、顔料はどこから手に入れたのだろうか。以前に本ブログで「フェルメールの帽子」について記したことがあるが、「帽子」について書き始めると、 Never ending story の世界に入ってしまう。

 

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現代は何色の時代だろうか

2018年01月20日 | 午後のティールーム

 


現代の世界は色で表したら何色の時代と言えるだろうか。全地球規模で見ると、核戦争、異常気象、難民などに象徴される人類史上の危機、あるいは破滅の兆しも忍び寄っている。灰色や黒色に近いと感じる人々も少なくない。将来が希望に満ちた時代とは思いがたい17世紀に近い「不安な時代」に我々は生きているのだ。

他方、一部では青色への関心も高まっている。青色 blue には、ブルー・マンデイ、ブルーな気分など、憂鬱、不安、弛緩などの状態を表現するにも使われる。実際、オックスフォードの英語辞典(OED)などを引いてみると、1)晴れた日の空や海のような緑色と紫色の中間の色、2)冷たさや呼吸の困難の結果として皮膚の色が蒼白に変わった色、などの解釈が出てくる。最近話題の「広辞苑」(第7版)は未だ手元にないが、第6版には、「一説に、古代日本語の固有の色名としては、アカ・クロ・シロ・アオがあるのみで、明・暗・顕・漠を原義とし、本来は灰色がかった白色をいうらしい」との記述もある。

人々、とりわけ日本人は、この「不安な時代」を何色のフィルターで見ているのだろうか。蛇足ながら、筆者のブログは青色が基調になっているが、HPやブログなるものに慣れない頃に出会ったテンプレートを使っているにすぎない。視力の弱くなってきた筆者には、白地に黒の文章はコントラストが大きく疲れる。長い間活字を目にしてきた職業病?なのかもしれない(笑)。

最近、金沢兼六園内、成巽閣の和室天井の群青色が話題となっているとの短い報道を見た。天井などに和室としては極めて斬新な印象を与える鮮やかな群青色が使われている。使われている顔料はフランスから輸入されたラピスラズリではないかとも伝えられている。日本絵具の「群青」(岩絵の具、深みのある濃い青色)に近い。成巽閣はかつて訪れたことがあるが、その革新性には驚かされた印象が残る。

少し視点が変わるが、旧・新石器時代、赤、黒、褐色が最高の色とされた。古代ギリシャ・ローマ時代は黒、白、赤色が重要だったとも言われる。とりわけ、ローマ人にとっては青色は野蛮・未開の色とされた。ケルトの兵士は身体を青色に染めていたとの話もある。古代ローマでは青色の衣類を着ることは、喪や不幸の時であった。もっとも古代エジプトなどは例外で、前回記した青色が尊重された。もっとも、他のヨーロッパ地域では必ずしもそうではなかった。

13世紀以前にはキリスト教世界でも青はあまり使われなかった。全体の1%程度だった。しかし、その後、変化が起きた。1130-40年建設のパリのサン・デニ教会でガラスに青色が使われた。さらにシャルトルやサン・ドニ聖堂でも有名な美しい青色ガラスが使われるようになった。中世以来、聖マリアの外衣など、衣装にも高貴な色として使われている。

このように、日本と西洋では受け取り方も異なり、時代によっても変化している。

顔料の素材も、鉱石系(藍銅鉱、アズライト azurite、植物系 藍)が大きな流れだったが、現在は人工的に製造されたウルトラマリンが多い。色調の区別、名称にも混乱もある。青色と言っても与える印象は様々なのだ。

拙速な結びだが、冒頭の疑問については、青色が持つ時代への不安感、鬱積感を抱く現代人が、成巽閣和室に使われたような同時代の通弊、制限などを打ち砕く革新、深遠さを含んだ群青色の天井に、一抹の救いや希望の兆しなどをなんとなく感じ取るからかもしれないと思ってもいる。


Reference

*追記(1/21/2018) 『広辞苑』第7版も全く同じ記述であることを確認。

色彩の歴史については内外に多くの出版物がある。青については例えば下記が近づきやすいかもしれない。

小林康夫『青の美術史』ポーラ文化研究所、1999年。

成巽閣:石川県金沢市兼六町1-2
http://www.seisonkaku.com/
13代藩主前田斉泰母堂の隠居所



 

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青いカバ? 蒼いカバ?

2018年01月14日 | 午後のティールーム

 

 



Standing Hippopotamus
Metropolitan Museum of Art

カバ立像、メトロポリタン美術館蔵
 

青という色に関心を持ち始めたのはいつ頃なのかは、よく分からない。ただ、青色にはどんな色調があり、いかなる顔料から作られるのだろうかということに興味を抱いて多少調べたことがある。その頃から前回取り上げた「プルーシアン・ブルー」と並び、「エジプシャン・ブルー」という名がついた青色があることに気づいていた。

後年、青色の歴史をさらに調べる機会があり、興味深いことがわかった。かつてニューヨークのメトロポリタン美術館を訪れた時に古代エジプト美術の部門で、小さなカバ(河馬 hippopotamus)の陶器置物(faience 乳濁釉のかかった装飾陶器) が展示されていたことを思い出した。その後、ルーブル美術館、大英博物館などでも同様な置物に出会った。王のピラミットの副葬品だろうか。いずれもが美しいエナメルのような光沢のある青色であったことに気づいていた。概して blue azur と言われた薄い空のようで、光沢のある色だったが、濃淡もあり色調は厳密に比較できたわけではない。

古代エジプト人とカバの関係にも興味を持った。こうした副葬品が多数作られたのは、ナイル川沿岸にカバが多数生息し狩猟の対象となっていたらしいが、現代人が動物園などでイメージする以上に、かなり獰猛な動物であったようだ。貴人の墳墓にはその時代の様々なものが副葬品として葬られていた。想像だが、カバは当時のエジプト 人にとってかなり身近な存在だったのだろう。

カバはギリシア、ローマでも知られていて、その勇猛さで「河の中のライオン」ともいわれていたらしい。しかし、古代エジプト人がカバをなぜこのような美しい色で彩色し、後世の記憶に残したのかはよく分からない。カバという動物に何か特別に崇められるような意識を持っていたのだろうか。この陶器には、ナイル河の岸辺に咲いていたのだろうか、蓮の花、蕾が描かれている。

カバを青色で彩色したことについて、古代エジプトでは天然の鉱物顔料であるラピスラズリ、トルコ石は知られていたようだが、その供給は極めて限られていた。例えばラピスラズリは現在のアフガニスタンなどで産出した貴石であり、交易を通して伝わってきたと考えられる。

古代エジプト人はこの貴石の色に魅せられ、この神秘的な青い(蒼い)色を自らの手で作り出そうとしたようだ。彼らは、人工的に合成顔料を作り出すことに長けていた。推定700度以上の高い温度の火力を使い、天然には存在しなかった青色の合成に成功していた。錬金術のようなプロセスがあったと思われるが、現代人の想像を超える。19世紀ヨーロッパの陶磁器メーカーは、その製法を探索したが、なかなか分からなかったらしい。今日では、アレキサンダー・ブルーとも言われる緑青(ケイ酸銅カルシウム)に近い成分であることが分かっている。

これらの古代エジプトの美術品、装飾品などをみると、顔料ひとつをとっても、現代人がすぐには想像できないような化学的手法から生み出されていることが分かる。多数の試行錯誤の結果と思われるが、その美的感覚、豊かな創造力の源には改めて感嘆する。 

 

Reference

ちなみに、このカバの置物は”William” の愛称で親しまれてきた。古代エジプト中王朝 ca. 1961–1878 B.C. の作品と推定されている。材質は陶器用の粘土を含んでいないが、通常は陶器の範疇に入れられている。同博物館のショップでスーヴェニアとして販売されていたと記憶している。


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色々物語:北斎の青

2018年01月06日 | 午後のティールーム

 

葛飾北斎
冨嶽36景 甲州石班澤
1830-33 (天保元−4)年頃 


北斎の作品と生涯が各所で大きな話題となっている。元旦に載せた作品 (『神奈川県冲波裏』)に加えて、今回は『甲州石班澤』について少し記してみたい。これも大変有名な作品だ。この作品は現在の山梨県鰍沢のどこかからの富士山遠望を、漁師が網を打っている光景を前景にして描いている。構図の秀抜なことに加えて、ほとんど全てを濃淡のある青色を駆使して描いている美しさは際立っている。とりわけ、青一色の濃淡でこれだけの迫力ある作品に仕上げた技量には、日本人ならずとも感嘆することは間違いない。実際、大変な人気で北斎は200枚ぐらいで磨耗して、線の鋭利さが薄れてしまう板木を様々に工夫して需要に応えたようだ。

その結果、初刷(しょずり)、後刷(のちずり)、異版(いはん)などで使われている色、構図などに違いはあるが、この青色の美しさは、”北斎ブルー” として内外の人気を集めてきた。使われている絵具が何であるかは、今後の化学分析に待つことになるが、「べろ藍」,「藍」(植物性)などを駆使しての作品と思われる。初刷の評判が大きかった後、北斎が工夫した多色刷も美しいが、筆者は青一色で制作した作品が素晴らしいと思う。

 


ジャポニズムとして大きな影響を与えたヨーロッパでは、18世紀初めは青色はウルトラマリーン Ultramarine が画家たちには人気があった。しかし、価格はまだかなり高価であり、供給も安定していなかった。また、smalt,といわれた青色顔料、 緑青、azurite 藍銅鉱,インディゴ  indigoなどが使われていた。しかし、これらは多少緑がかっていて、顔料の供給も不足していて、画家にとっては頼りにならなかった。そこで新たに生み出されたPrussian blue は理想の顔料として歓迎されたようだ。濃淡の色調が作れる上に、地塗り材の鉛白とも相性がよかった。

前回記した薬剤師ディッペルはうさんくさい所もあったらしいが、商才に長け、1710年にはこの顔料を売り出した。1724年、イギリスの化学者 John Woodwoodが、製法、プロセスを公にするまでは製法も秘密だったらしい。その結果、1750年頃にはヨーロッパ中で作られるまでになった。さらに価格も安くなり、ウルトラマリーンの10分の1近くになった。もっとも、強い光やアルカリに影響を受けると退色することも分かってきた。

こうした問題はあったが、プルーシアン青は、イギリスの版画家 W. ホガース、画家のJ.コンスタブル、ヴァン・ゴッホ、モネなどが好んで使いだした。さらに北斎、広重など、日本の浮世絵画家や版画家も大変よろこんだらしい。北斎もその一人だった。青の時代のピカソもこの色を好んだ。用途も拡大し、壁紙、塗料、布の染色などに広く使われるようになった。

少し時代を遡り、17世紀頃は青色は高価なラピスラズリなどを別にすると、アズライトなどの鉱石系顔料が主だったようだ。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの場合をみると、青色系は大変少ない。『松明のある聖セバスティアヌス』(ルーヴル蔵)の侍女のヴェール
 、『槍を持つ聖トマス』の外衣など、数少ない。一枚の作品もよく見ると、様々なことを語ってくれる。


 

Referencee 

日本経済新聞(2018年1月5日,夕刊)が「北斎の世界にタイムスリップ」と題して 「めでたい北斎〜まるっとまるごと福づくし〜」と題する「すみだ北斎美術館」の展示について紹介している。北斎は作品数が多く、今後も多くの発見が期待される。

Kassia St. Clair 

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謹賀新年

2018年01月01日 | 午後のティールーム

葛飾北斎 富嶽三十六景 神奈川沖波裏
1830-33 (天保元年ー三年)頃 


新年おめでとうございます

 

荒波の彼方に見える富士山、なんとなく、激動避けがたい今年の行方を暗示するようでもある。

北斎の作品は青が大変美しい。しかし、一口に青と言っても様々な色調がある。北斎の作品に使われた青は植物性の藍が多かったと推定されるが、江戸時代後期には「べろ藍」といわれた明るい色調のペルシャ風青 Prusian blue が輸入され、この画家の手元にも届くようになっていた。北斎や広重が好んで使ったといわれる。『富嶽三十六景』の時点では藍が使われていたのではないかと思われるが、画材の化学分析をしてみないと見ただけでは良く分からない。「ベロ藍」の名は、ベルリンの藍色に由来するともいわれる。明治時代になってから使われるようになったようだ。なぜ、ベルリンなのかを少し調べてみると、意外なことが分かってきた。

1704年から1706年くらいの時期に、偶然作り出されたといわれる。ベルリンにいたヨハン・ヤコブ・ディースバッハという絵具屋で錬金術師が、コチニール・レッドといわれる赤の顔料、レーキをなんとか作ろうとしている時に、配合の誤りで偶然出来てしまったという話が伝わっている。コチニールについては、このブログでも取り上げたことがるが、当時はその原料や製法は秘密になっていて、謎だったらしい。この錬金術師がいつも通りの怪しげな手順で、それに近いような色を作っていたところ、強い色調の赤になるはずが、薄いピンクがかった青色になってしまった。鉄硝酸塩と炭酸カリウムとを混合して作っていたらしい。

不審に思って原料を買った錬金術師で薬屋であるヨハン・コンラッド・ディペッル なる男に文句をつけ、作り直している過程で、よく分からない化学反応を起こして、Blutlaugensals 文字通り「血のようなアルカリ塩」という名で今日にも伝わる色になったという。それと併せて青色の塊が出来たらしい。これが、’Prussian blue’ という名の源のようだ。どうやら「ベルリンの青」が「ベル藍」の源らしい。

「藍より青く」
この点の詮索はこのくらいとして、晩年の北斎はこの新しい鮮やかな「べろ藍」を好み、使い分けたようだ。この「藍より青く…….」という語句から連想されることがいくつかある。「出藍の誉れ」(弟子がその師匠を越えてすぐれているという名声;「広辞苑」第6版)という著名な成句、山田太一『藍より青く』という小説で、1972 年にはTVドラマにもなったようだが、ブログ筆者には読んだような記憶はおぼろげにあるが、TVを見た記憶は全くない。元来、連続TV番組はほとんど見たことがない。もう一つは、第二次大戦中に歌われた軍歌の始まりの部分で、メロディーは数少ない音楽的軍歌と言われる。これもブログ筆者は聞いた覚えはあるのだが、残念ながら?初めの部分だけで、歌詞の全文は覚えていない。確か「落下傘部隊」?の歌だったと微かに記憶している。戦後、時々宴会などで軍歌を歌う人がいたので、その残像かもしれない。歌詞は調べればわかることだが、その意欲がない。このブログを訪れてくださる方の中にもしかするとご存知の方がおられるかもしれないが、いずれにしろ少数だろう。

新年、世界が平和であることを祈りながら。


 

 

Reference
『色彩用語事典』東京大学出版会、2003年
Kassia St Ckair, The Secret Lives of Colour, John Murray, 2016. 


 

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色々物語(1):北斎の絵具

2017年12月15日 | 午後のティールーム

 

長野県小布施町雁田曹洞宗梅洞山岩松院
本堂大間天井絵「八方睨み鳳凰図」
本堂内の写真撮影は認められていないため、同院観光案内の複写。
画面クリックで拡大 



小布施という小さいが大変美しい町は「栗と北斎と花のまち」というキャッチフレーズで、珠玉のような見所が各所に散在している。いくつかの小さな美術館もあるが、この町でしばらく画業の時を過ごした北斎との関連で「北斎館」という小さいが、大変居心地がよく素晴らしい美術館がある。

町中には北斎が小布施に滞在している間に制作した作品が残されている。その一つが「岩松院」という寺(雁田山の自然に囲まれた寺院で、戦国の武将福島正則や葛飾北斎、俳人小林一茶ゆかりの古寺)の本堂天井に描かれた上掲の「鳳凰図」だ。鳳凰(ほうおう)とは、古来中国で、麒麟、亀、竜とともに四瑞として尊ばれた想像上の瑞鳥だ。

「形は前は騏驎、後は鹿、顎は蛇、尾は魚、背は亀、頷(あご)は燕、嘴は鶏に似、五色絢爛、声は五音にあたり、梧桐に宿り、竹実を食い、醴泉を飲むといわれ、聖徳の天子の兆として現れると伝えられる。雄は鳳、雌は凰と称される」(「広辞苑第6版」)。その通り、一見すると奇怪な印象を受けるが、画家はこの大きさに収めるために想像の力と長年の蓄積を駆使したのだろう。

葛飾北斎(1806-1883)最晩年の作品とされ、間口6.3m、奥行き6.5mの大きさで、通称21畳敷の天井絵である。制作は画面を12分割し、床に並べ彩色し、天井に取りつけたと伝えられている。鳳凰図は朱、鉛丹、石黄、岩緑青、べろ藍、藍などの顔料を膠水で溶いた絵具が使われている。周囲は胡粉、下地に白土を塗り重ね、金箔の砂子がまかれていて豪華な印象を創り出している。画面には絵皿の跡など制作時の痕跡が残っている。

大変興味深かった点のひとつは、デザインと共に、使用された絵具の色彩であった。北斎の作品で特に目立つ色は、筆者が見た限りでは、藍色、青色、赤(朱)ではないかと思う。とりわけ、『富嶽三十六景』に代表されるように、富士山と海がほとんど青色で描かれている作品もある。

『鳳凰図』は晩年の作品ということも反映してか、絵の具の顔料も多数に渡り、絢爛たる印象を与える。北斎は黒(墨)、赤、青、黄の顔料さえあれば、即座に必要な色を作り出したといわれる。

最近では美術館、鑑定家などが、作品の制作者、年代、下絵、修正などの鑑別にX線、画材の化学分析などの手段に頼ることも増加している。

例えば、ラ・トゥールのような17世紀画家の制作に関わる研究などを調べていると、使われた絵具の原料(顔料)が何であるかが、制作年代、制作手法などの推定に重要な意味を持つことが分かってくる。当時の画家の作品には主題も署名も記されていないものが多かった。今日では美術館、鑑定家などによってX線、化学分析などの手法が頻繁に使われるようになってしばしば新たな発見がある。

北斎の場合は、18-19世紀にかけて長年の画業生活を送ったため、制作時の環境、使用した絵具顔料もかなり多岐に渡り、詳細も明らかにされている。北斎晩年の頃には西洋画の画材なども輸入されていたようで、北斎という日本が生んだ世界的天才画家がいかなる嗜好を抱き、画材などの選択をしていたのか、考えてみると興味深いものがある。


 

岩松院山門(筆者撮影)

 

 水溶性で濃淡の出しやすい人口顔料「プルシャンブルー」の略とされる。この顔料が輸入される前は植物性の藍(インディゴ・ブルー)が使われていた。

2019年8月1日 BS3「偉人たちの健康診断選:天才絵師葛飾北斎の秘密」

 

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猫・アムステルダム・リシュリュー

2017年10月18日 | 午後のティールーム

 

Albert Anker(1831-1910)
Little Girl Playing with Cat
Privately owned

アルバート・アンカー
「猫と遊ぶ少女」

 

3題話のようだが、眠気覚ましにBS3を見ていると、画面に猫が大写しで出てきた。例の写真家岩合光昭さんの猫シリーズかと思ったら、アムステルダムの「猫博物館」の光景であった。本ブログでも取り上げた「隠れカトリック教会」のような珍しい映像もあった。「2度目のアムステルダム」という「2度目シリーズ?」の一つだった。時々ブログの記事入力などをしながら、見るともなしに見ている番組だ。かつて訪れたところが出てくることもあるので、その後の現地の変化に驚くこともある。いつの間にか入力を忘れて見ていることがあるので、何か魅力があるらしい。

アムステルダムはこれまでに何度か訪れている。しかし、住んだことはない。(ただ、かつてイギリス・ケンブリッジ滞在中に、招かれてアムステルダム大学で講演したり、最初のノーベル経済学賞受賞者のヤン・ティンバーゲン教授(ちなみに、1969年の同時受賞者はラグナー・フリッシュ教授)を記念して設置された研究所から、オランダ短期研究助成を受けたことがあり、お礼の挨拶に行ったことはある。マウリッツハイス国立美術館は改修中のことが多かったが、ご贔屓の17世紀美術を見るために度々出かけた。今はその後の時の経過の早さにただ驚くばかりだ。

この猫博物館は個人の所蔵品の展示らしく、うっかり見落としていた。というか、そうした博物館があることを知らなかった。猫は嫌いではないのだが、子供の頃、時々アレルギー喘息症状を起こしたことがあったので、距離を置いて付き合っている。この猫博物館にはミケランジェロの猫のデッサンもあるようで、知っていれば訪れたと思うので一寸残念な思いがした。

猫のデッサンといえば、パリ滞在当時、知人のT氏が経営するギャラリーのパリ支店へ出かけたことがあった。その時、ちょうどT氏が壁に無造作に立てかけた猫の作品を見ていたので、一緒に見せてもらった。なんと藤田嗣治の「猫のデッサン」だった。当時は絵画バブルの最中で、「一枚どうですか」と冗談混じりで言われたが、筆者などにはとても手が出ないものだった。しかし、本物の猫ではないので、ゆっくり楽しませてもらった。

猫を描いた画家は非常に多いようだ。マネも猫好きであったらしく、三菱一号館美術館で見たことがある。

このブログでも、あの宰相リシリューが激務の合間に、猫と遊ぶ情景を描いた作品を掲げたこともあった。作者は後代の画家だが、リシュリューは猫好きとの逸話でも伝わっていたのかもしれない。リシュリューという政治家は有名なわりには謎の多い人物で、王に代わってフランスを治めていたと言われる。現代であったら、誰に当たるだろうか。ちょっと思い当たらない。本ブログでも一部は触れたが、改めてその生涯を振り返って見たい興味を惹かれる人物である。








 

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帰りたやヴァージニア Carry Me Back to Old Virginny

2017年08月28日 | 午後のティールーム

 

 

この人は誰でしょう。ヒントはアメリカ合衆国歴代大統領の一人である。直ぐわかった方はアメリカ史にかなり通じた人だ。


去る8月12日土曜日、ヴァージニア州シャーロッツビルでの事件を知って、ほとんど半世紀前に一度訪れ、数日滞在したことを思い出した。その時はワシントンDC郊外マウント・ヴァーノンやウイリアムズバーグなども訪ねた旅だった。訪れた時は、公民権運動の最中であった。

この日シャーロッツビルは大規模な白人至上主義者の集会によって非常事態宣言が出されるほどの混乱に陥り、その過程で集会に抗議する人々に車が突っ込み、一人が死亡、十数人がケガをするという事態となった。また関連して近くで警戒にあたっていた警察のヘリコプターが墜落し、乗っていた二人の警察官が死亡した。ここで起きた事件は、アメリカにおけるヘイトスピーチの問題を考える際に避けて通れない事例として、おそらく今後繰り返し論及され続けることになるだろう。事件にただちに反応した人々で目立つところだけ拾っても、バラク・オバマ、ヒラリー・クリントン、ジョン・マケイン、ジョー・バイデンなど、アメリカで影響力をもつ政治家は、党派を超えてすべて何らかの形で事件に対する非難を表明している。特に問題となったのは、トランプ大統領による「非難」声明であった。避難対象を明確にせず「多くの立場による憎しみ」という表現をしたことが、「この期に及んでどっちもどっち」という批判を浴びた。

 出来事の直接のきっかけは、市内の公園にあるロバート・E・リー(南北戦争時の南軍の司令官の像を、市議会が今年4月に撤去(および公園の改名)を決めたことだった(現在はまだ裁判係争中で執行はされていない)。現在のアメリカにおいて南北戦争時代の南軍側を支持することはそれ自体がヘイトスピーチやレイシズムと同義であるわけではないが、今回のイベントでも南軍旗が象徴的に使われていたように、白人至上主義とのつながりは非常に強い。このような背景もあって近年こうした像については撤去する動きが進んでおり、今回のシャーロッツビルでの市議会の決定も、その流れに沿ったものだった。

今回のイベントにはKKKなどの他にも多くの「オルトライト」運動の関係者が参加したと言われており、そうした意味ではイベントは既存の白人至上主義者とオルトライトの接点を作ったともいえる。KKKが今も活動していることはその昔を知る者には衝撃的だが、南部にはそれを許容する不思議な風土がある。変化など起こりそうにない微妙な静まりを感じる。北部と南部はかなり近接したとはいえ、そこにはなんとも形容しがたい違いが今日も継承されている。


静かな町シャーロッツビル

ヴァージニア大学などのある美しい静かな町だった。今回の騒動など予想もしなかった。ここはアメリカ合衆国第3代大統領トーマス・ジェファーソン(任期1801-09)が生まれ育ったことで知られている。一時期かなり読んでいた南部文学の巨匠ウイリアム・フォークナーが、ヴァージニア大学内に住んでいたことも知った。シャーロッツビルのジェファーソンの邸宅モンティチェロはその後世界遺産となっていた。

さて、シャーロッツビルの事件は、KKKなどの白人至上主義者の集まりにおけるヘイト・スピーチが火だねであったが、この点は日本の新聞でも報道されたので、ご存じの方も多いだろう。筆者は実はトーマス・ジェファーソンのことを思い出していた。この点は今回ほとんど記事にならなかったので、少し記しておこう。

トーマス・ジェファーソンは、「独立宣言」Declaration of Independence の起草者として、アメリカの大統領の評価順位では常に最高位を維持している。アメリカ創生期の重要人物の中では最も長くその地位にあっただけに、その評価も影響力が大きく、その人格と遺産が今日まで大きな意味を持つ。

ワシントン大統領の下で、初代の国務長官を務め、反連邦派(anti-federalist)の主要人物として、後にリパブリカン党を結成し、1800年の大統領選挙に出馬し、当選、第3代大統領となった。

ジェファーソンは反連邦派でありながら、州政府を犠牲にして連邦権力を強化する立場をとっていた。当時フランス領であったルイジアナを1803年に購入したことで、この広大な地域を支配するため、連邦政府の権限を強化することがどうしても必要となっていた。このルイジアナの格安の購入は、当時のアメリカの国土をほぼ倍増させ、その後のアメリカにとって大きな貢献であり、ジェファーソンの評価を定める最大要因であった。

ジェファーソンは、連邦議会で反連邦派の党が掲げる大衆的な価値観を拠り所として大統領制を民主化した。

かくして、ジェファーソンはアメリカ建国期においては、極めて長い間中心的人物の位置にあった。しかし、彼が起草した独立宣言の内容とジェファーソンの実際の私生活(1826年死去)の間には大きな断絶を伴う距離があった。それにも関わらず、「独立宣言」はアメリカの信条として黒人を含めて今日までその高い精神性を維持してきた。

語られざる側面
筆者はアメリカの政治史は専門でもなかったので、副産物として知ったことだが、トーマス・ジェファーソンは、彼のプランテーション、モンティチェロで、当時奴隷であった女性で未亡人だったサリーの間に数人の子供があったとの噂があった。この真偽が長らく論争の種となっていたようだ。とりわけ、彼の起草した高い理想を掲げた「独立宣言」の内容との関係でジェファーソンの真意や人格に関わる論争として長く続いてきた。その後、子供の一人は、DNA鑑定でジェファーソンの子供であると確定されたようだ。アメリカ大統領の個人的背景が、大統領としての公的評価にいかに影響するかを示す例と言える。

実際、ジェファーソン自身はヴァージニアの大農園主で奴隷を200人近く所有していた。公的には奴隷貿易には反対し、黒人奴隷制度は徐々に消滅させてゆくことを主張していた。しかし、現実とはかなり離れていた。こうした隔絶を伴う例は当時の指導者層の間でもかなり多数存在したとも言われている。

ジェファーソンは当時の現実に身を置きながら、「独立宣言」では新大陸アメリカのあるべき理想の姿を、いわば期待、情熱の形で描いたのだろうか。アメリカ合衆国という国は、その建国以来、自らを理想の実現のための実験材料と考えてきたようなところがある。そのためか、大統領、議会の下で展開する政策があたかも時計の振り子のように、大きく揺れ動き、時の経過とともに落ち着くべきところに収斂するようなところがあった。今、その振り子は再び大きく揺れ動いている。行き先を見定めるにはまだかなりの時を待たねばならないようだ。


*1997年までヴァージニア州の州歌であった。
和訳もされ、よく歌われていた。「帰りたやヴァージニア、花咲き実るよきところ・・・」 

 

Carry Me Back to Old Virginny
By James A. Bland
 
 

 

Carry me back to old Virginny,
There's where the cotton and the corn and taters grow,
There's where the birds warble sweet in the spring time,
There's where the darkey's heart am longed to go.
There's where I labored so hard for old massa,
Day after day in the field of yellow corn,
No place on earth do I love more sincerely,
Than old Virginny, the state where I was born.
 

 

 

 

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あれ! 三銃士? 

2017年07月27日 | 午後のティールーム

Alexandre Dumas, The Three Musketeers, Penguin Classics, 2008, cover



あれ? このお兄さんたち、どこかでお目にかかりましたね。「三銃士」のイケメンでしたか。それにしては、時代が合わない? アレクサンドル・デュマ・ペールの名作「三銃士』が新聞紙上で活字になったのは、1844年のことであった。

ル・ナン兄弟(長兄アントワーヌ ca.1588-1648、次兄ルイ ca/1593-1648、末弟マティュー 1607-1677)が活躍したのは、それより200年くらい前ではなかったの? 実際、この歴史的事実に誤りはない。この作品や画家については、ジョルジュ・ド・ラトゥールと同時代の画家として、概略を本ブログで紹介している。ル・ナンも長い間忘れられた画家であった。

ちょっと不思議な因縁話。今日、ある書店で英文学のクラシックスの棚を見ていると、この表紙に惹きつけられた。先日、このブログで取り上げたル・ナン『三人の男と一人の少年』は、Penguin Classics series の1冊に入っている『三銃士』の英語版の表紙に採用されていたのだ。実は、『三銃士』は最初、フランスの新聞紙上に掲載された後、大変な人気作となったため、書籍として刊行されるようになってからも、フランス語から翻訳された言語の違いもあって、その表紙は何種類あるかわからないほど、様々なものがある。そのため、この表紙に出会ったことには、偶然とはいえ大変驚いた。

もちろん、この世界的な出版社がこの絵を表紙に採用するに際して、上記のような事実を知らなかったわけではない。当然承知の上で採用しているのだ。

しかし、この絵画作品には未解決の多くの謎が含まれている。そのひとつ、制作者とこれまで想定されていた画家末弟マティユーは、真ん中に描かれ、ただ一人、こちらを見ている若者ではない可能性が出てきた。確かに、当時の集団肖像画の慣行ならば、真ん中に描かれている若者が中心的制作者であることが多い。しかし、ル・ナン兄弟の他の作品について検討が進むうちに、どうもこの想定は必ずしも当たっていない可能性が指摘されるようになった。もしかすると、画家が描かれている人物が誰であるかを詮索の目で見る人を、からかっての作品かもしれないとの考えまで提示されるようになった。要するに、長兄、次弟、末弟が描かれた肖像のどれに当たるかが分からないよう、工夫されているという推測だ。

この作品、発見された当時、大変汚れていた。1968年ロンドンのNational Galleryが洗浄、修復を引き受けて、今日のような状態まで復元された。信頼に足る署名が残されていることも確認された。実は右側に男の子の顔が描かれているのだが、ル・ナン兄弟と思われる三人組と関係があるのかも判然としない。もしかすると、工房で習作のために画架に置かれていて、適宜筆が加えられていたのかもしれない。何れにしても、多くの興味ふかい未解決の謎を含む作品である。


 

 

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「壁」さまざま

2017年06月19日 | 午後のティールーム

 

ジョンパ・ラヒリ(中嶋浩郎訳)『べつの言葉で』In Altre Parole (新潮社、2015年)
表紙(クリックで拡大) 

 

 いつの頃からか、古書や評価の定まった書籍以外は、自分の手にとって確認しないと購入意欲が高まらないようになった。人生の残りの長さが見えて来た頃から、意図して蔵書を整理して来た。その反動からか、手元に残っている書籍の中には、愛おしく長い間の友人のような気がするものもある。

 元来、長く手にする書籍は表紙や紙質まで気になったこともあった。出版社の好みか、名作に「ゾッキ本」(死語かも)のような品のない表紙が付いていると、他の出版社の版はないだろうかと探したこともあった。実際、海外の出版社の場合、とりわけPBの場合など、これはひどいなあと驚くようなデザインの表紙が付いていたりする。

最近読んだ一冊、ジョンパ・ラヒリ(中嶋浩郎訳)『べつの言葉で』 In Altre Parole (新潮社、2015年)について、少し記してみよう。書店でふと手にしたこの本、表紙に目が止まった。顔は判然としないが少女?が一人、数歩は必要と思われる道(線路?)の真ん中を跳ねるように渡っている。後方には屋台のような屋根のある店が写っている。モノクロの表紙で、何を意味しているのか、一見した限りではわからなかった。

ローマでイタリア人のジョンパ・ラヒリという著者も馴染みはなかったが、どこか耳に残っていた。西欧の名前ではない。ひとつだけ、訳者の中嶋浩郎氏の名前は『ルネサンスの画家ポントルモの日記』で、知っていた。手堅い翻訳者という印象で、この珍しいテーマの本は大変興味深く読んだ。

さて、ジョンパ・ラヒリは女性で、ロンドン出身のベンガル人。幼少時に渡米し、ロードアイランド州で育つ。大学、大学院を経て、その後夫と二人の息子(話には娘も出てくるのだが)とともにローマへ移住。この本はイタリア語で書かれた初のエッセイ集とのことだ。これまでに、O.ヘンリー賞、ピュリツアー賞など、著名な文学賞を次々と受賞している。初めて読む作家の本だが、購入した。

暑さ凌ぎに読み始める。エッセイなのでスラスラと入ってくる。しかし、立ち止まり、少し考えることも多い。そこで少し息継ぎをする。

「壁」というエッセイに出会う。主人公がローマに来て2年目のクリスマス過ぎ、家族で旅をしたサレルノで、買い物をする。イタリア語をしっかり勉強し、上手に話す私(主人公)は容貌も影響してか、イタリア人には見られない。本書に著者の小さな顔写真も付されているが、近年は「典型的な」イタリア人とはいかなる容貌なのか、一口には語れない状況だ。それでもイタリア生まれのイタリア育ちとはかんがえにくい。

他方、アメリカ人の夫はスペイン語は話すが、きちんとした文にもなっていないイタリア語で店員に返事をしても、「ご主人はイタリア人でしょう。訛りもなくて、イタリア語を完璧に話しています」と評される。

彼女が長く過ごしたアメリカでは、「英語を母語話者のように話していても、名前と顔かたちのせいで、どうして自分の母語でなく英語で書くのを好むのかと、と聞かれることがたまにある」(92ページ)。

さらに、彼女の母語の町、インドのコルカタでは、ベンガル語は少ししかわからないと思い、英語で話しかけてくる。

かくして、彼女は壁にいたるところで取り囲まれる。そして、壁は彼女自身なのではないかと思う。

そして、コルソ通りの店のショーウインドウを見ていると、店員が May I help you? と話しかけ、彼女の心は粉々に砕けるという。

国境を越えて、母国とは別の国に移住する移民にとって、言葉の問題がいかに微妙で複雑なものであるかを端的に示すエッセイである。



かつて、筆者はある研究誌の依頼で「見える国境・見えない国境」という巻頭論説(2004年)を寄稿したことがあった。その後、一部大学入試の問題にも使われたようだが、ここで論じた“見えない国境” は、ジョンパ・ラヒリの「壁」の概念にも通じることを意図していた。移民問題は、「偏見」、「差別」、「公正」といった概念と切り離しては論じ得ない。




『ルネサンスの画家 ポントルモの手記』(中嶋浩郎訳、宮下孝晴解説)、
白水社、2001年(新装版)表紙





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天才たちのパズル遊び:GCHQの別の時間

2017年06月09日 | 午後のティールーム

 

THE GCHQ
PUZZLE BOOK

Pit your wits against the people who cracked Enigma
Penguin Random House UK, 2016, cover



 世の中にはパズルや謎解きが大変好きな人たちがいる。日本の新聞にはこの頃はあまり掲載されていないが、海外の新聞、雑誌にはほとんどと言って良いくらいクロスワード・パズルが掲載されている。

海外を旅すると、カフェなどで新聞に顔をつけるようにして、片手に鉛筆を持ち、クロスワード・パズルを楽しんでいる人たちを見かけた。その多くは暇を持て余した高齢の人たちだ。ちなみに若い人の姿はあまり記憶にない。スードク(数独)なども含めて、一定のフアンがいるようだ。筆者もクロスワードは、マニアにはほど遠いが、時々試みることがある。

アメリカで学生生活を始めたころ、来週はクイズをすると言われて、最初は何のことか分からず面食らったこともあったが、要するにテストだった。QuizesもPuzzlesも意味はほとんど同じように聞こえるが、パズルはやや難解で込み入った質問を意味することが多いようだで

以前にこのブログで第二次大戦中、ナチズムと戦い、イギリスの安全を確保するために、敵の暗号解読に日夜当たっていた人たちのことを記したことがある。その人たちの本拠は、GCHQ(Govenmet Communications Headquarters)と呼ばれている。

ほぼ100年近くGCHQの職員は、イギリスの安全を確保するために働いていた。第二次大戦中、ナチズムと戦うため、ENIGMAといわれた暗号解読に全力を入れていた。ミルトン・キーンズのブレッチェリー・パーク Bletchley Parkというところにある。映画化もされた、天才アラン・テューリング Alan Turing などが、数学、機械工学、言語学などの同僚の蓄積を駆使して、暗号コード解読のための斬新な電子機械装置を発明した研究所だ。ケンブリッジからさほど遠くなかったので、日系の自動車工場を見学、聞き取り調査にいった折り、同行した友人の知り合いがいるというので、訪れたことがあった。ここで働く人たちは、その分野の世界でも最高の頭脳の持ち主で、創造的で国家の防衛のために献身的に日夜働いている。時に、我々凡人とは違った世界に住んでいるのではないと思わせる言動の人もいる。

その後、ディジタル・エイジの到来とともに、彼(女)らは、テロリズム、サイバーアタックへの対応、国家の最も根幹である正義を脅かす犯罪と戦っている。しかし、この人たちの住む世界は、我々凡人のそれとはかなり違っている。

最近、スノーデン問題について関連記事を読んでいた時、一冊の興味深い本に出会った。ブレッチェリー・パークで働くスタッフが、1980年代ころからクリスマス休暇などの余暇に楽しむため、作ってきたパズルの本である。日頃の職業活動の中から副産物のように生まれてきたパズルであり、クロスワードまで含めて実にさまざまな謎解き問題が集められた一冊だ。この世界の分野のマニアには、またとない楽しみの時間を与えてくれる。しかし、天才たちの頭脳の遊びのために作られた問題だけに、一見解けそうにみえて、それぞれがかなりの難問だ。

たとえば、最初の例題は次の1行だけだ。

M, N, B, V, C, X, ?

答は Z
ヒントはタイプライターのアルファベット・キー配列の最下段にあり。

第2問目の例題は:

BAGG is to William the Conqueror as BEJC is to whom?

答は 1492, Christopher Columbus.

ヒント:

BAGG represents 1066, with each letter representing its place in the alphabet minus one, i.e. A=0, B=1, C=2, etc. BEJC iis therefore 1492.

このような調子で、あらゆるタイプの短いパズルが満載されている。有名人の顔を見て名前が分からないと、空欄が埋められないCelebrity sudoku まであり、マニアには大変魅力のある1冊だ。なかには、パズルの説明もなく、自分でこれがいかなるパズルなのかをかんがえさせるもの(PUZZLE HUNT)まである。しかし、ひとりの力で300問を越えるパズルに正解できるとは一寸考えがたい。考えようによっては、それだけ挑戦のしがいがあるともいえる。これからの暑さしのぎには格好な読み物?だ。とにかく、問題を考えているだけで楽しい。

アラン・テューリングやエドワード・スノーデンのような天才たちにとっては、激務の間の軽い頭の体操なのだろう。ご関心のある向きは、書店、図書館などで、実物を手にした後に決められることをお勧めする。ちなみに、筆者の机上にも一冊置かれているが、まだ3問しか解けていない。しかし、凡人には問題を見ているだけで楽しいこともある。解けなくても、嘆くことはないのだから。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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