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時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

天才たちのパズル遊び:GCHQの別の時間

2017年06月09日 | 午後のティールーム

 

THE GCHQ
PUZZLE BOOK

Pit your wits against the people who cracked Enigma
Penguin Random House UK, 2016, cover



 世の中にはパズルや謎解きが大変好きな人たちがいる。日本の新聞にはこの頃はあまり掲載されていないが、海外の新聞、雑誌にはほとんどと言って良いくらいクロスワード・パズルが掲載されている。

海外を旅すると、カフェなどで新聞に顔をつけるようにして、片手に鉛筆を持ち、クロスワード・パズルを楽しんでいる人たちを見かけた。その多くは暇を持て余した高齢の人たちだ。ちなみに若い人の姿はあまり記憶にない。スードク(数独)なども含めて、一定のフアンがいるようだ。筆者もクロスワードは、マニアにはほど遠いが、時々試みることがある。

アメリカで学生生活を始めたころ、来週はクイズをすると言われて、最初は何のことか分からず面食らったこともあったが、要するにテストだった。QuizesもPuzzlesも意味はほとんど同じように聞こえるが、パズルはやや難解で込み入った質問を意味することが多いようだで

以前にこのブログで第二次大戦中、ナチズムと戦い、イギリスの安全を確保するために、敵の暗号解読に日夜当たっていた人たちのことを記したことがある。その人たちの本拠は、GCHQ(Govenmet Communications Headquarters)と呼ばれている。

ほぼ100年近くGCHQの職員は、イギリスの安全を確保するために働いていた。第二次大戦中、ナチズムと戦うため、ENIGMAといわれた暗号解読に全力を入れていた。ミルトン・キーンズのブレッチェリー・パーク Bletchley Parkというところにある。映画化もされた、天才アラン・テューリング Alan Turing などが、数学、機械工学、言語学などの同僚の蓄積を駆使して、暗号コード解読のための斬新な電子機械装置を発明した研究所だ。ケンブリッジからさほど遠くなかったので、日系の自動車工場を見学、聞き取り調査にいった折り、同行した友人の知り合いがいるというので、訪れたことがあった。ここで働く人たちは、その分野の世界でも最高の頭脳の持ち主で、創造的で国家の防衛のために献身的に日夜働いている。時に、我々凡人とは違った世界に住んでいるのではないと思わせる言動の人もいる。

その後、ディジタル・エイジの到来とともに、彼(女)らは、テロリズム、サイバーアタックへの対応、国家の最も根幹である正義を脅かす犯罪と戦っている。しかし、この人たちの住む世界は、我々凡人のそれとはかなり違っている。

最近、スノーデン問題について関連記事を読んでいた時、一冊の興味深い本に出会った。ブレッチェリー・パークで働くスタッフが、1980年代ころからクリスマス休暇などの余暇に楽しむため、作ってきたパズルの本である。日頃の職業活動の中から副産物のように生まれてきたパズルであり、クロスワードまで含めて実にさまざまな謎解き問題が集められた一冊だ。この世界の分野のマニアには、またとない楽しみの時間を与えてくれる。しかし、天才たちの頭脳の遊びのために作られた問題だけに、一見解けそうにみえて、それぞれがかなりの難問だ。

たとえば、最初の例題は次の1行だけだ。

M, N, B, V, C, X, ?

答は Z
ヒントはタイプライターのアルファベット・キー配列の最下段にあり。

第2問目の例題は:

BAGG is to William the Conqueror as BEJC is to whom?

答は 1492, Christopher Columbus.

ヒント:

BAGG represents 1066, with each letter representing its place in the alphabet minus one, i.e. A=0, B=1, C=2, etc. BEJC iis therefore 1492.

このような調子で、あらゆるタイプの短いパズルが満載されている。有名人の顔を見て名前が分からないと、空欄が埋められないCelebrity sudoku まであり、マニアには大変魅力のある1冊だ。なかには、パズルの説明もなく、自分でこれがいかなるパズルなのかをかんがえさせるもの(PUZZLE HUNT)まである。しかし、ひとりの力で300問を越えるパズルに正解できるとは一寸考えがたい。考えようによっては、それだけ挑戦のしがいがあるともいえる。これからの暑さしのぎには格好な読み物?だ。とにかく、問題を考えているだけで楽しい。

アラン・テューリングやエドワード・スノーデンのような天才たちにとっては、激務の間の軽い頭の体操なのだろう。ご関心のある向きは、書店、図書館などで、実物を手にした後に決められることをお勧めする。ちなみに、筆者の机上にも一冊置かれているが、まだ3問しか解けていない。しかし、凡人には問題を見ているだけで楽しいこともある。解けなくても、嘆くことはないのだから。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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スマホが変えた社会:書籍がなくなる日?

2017年05月12日 | 午後のティールーム

スマホの普及でパソコンを使えない人が増えているとの議論があるようだ。客観的な調査を見たわけではないので、なんとも言えない。さらに、パソコンが使えないのではなく、ワードやエクセルなどのソフトを使えないのが問題だとの議論もあるらしい。インターネットが使えないので、世の中の話がわからないと聞かされたこともある。パソコンやインターネットなど、関心もないし、キーボードなどに触れたこともないという人にはしばしば出会う。概して高齢者が多い。「キーボード・アレルギー」も多いようだ。

タイプライターの時代から
 幸い筆者は半世紀以上、キーボードに付き合ってきたので、最近の新機種もなんとか使っている。振り返ると、最初はタイプライターとの出会いから始まった。当時パソコン(personal computer)は商品化されていなかった。タイプライターも電動ではなく、機械式だった。アメリカの大学院に入学するため、応募書類、論文など、タイプライターでの印字が必要だった。友人のアメリカ人から中古のタイプライター、「レミントン」を譲ってもらったが、一本指では到底長い文章を作ることなどできない。その後アメリカ人でも時々一本指打法?でかなり早く打ち込める人にも出会った。機関銃のよう?と形容された英文タイピストの仕事ぶりを見て、いずれキーボードとの勝負になると思い、当時千駄ヶ谷駅前にあった「津田スクール・オブ・ビジネス」のタイピスト科?に申し込み、夏休みに1ヶ月くらい特訓?を受けた。当時、タイピストという職業は秘書などを目指す女性がほとんどで、20人くらいのクラスで男性はただ一人だった。居心地悪く、途中でやめてしまったので、今でも、かなり自己流だ。英語はともかく、ドイツ語、フランス語の文章を打ち込むことは一苦労する。

 渡米した後は、論文作成などで、タイプライターにはいつも対面していた。しかし、機械式で行変えなども全て手動でバーを操作した。PCと違い、打鍵すなわち印刷であり、内蔵メモリーがないので、打ち間違えると、修正液などを使ったり、訂正に大変苦労した。そのうち、電動タイプライターが売り出され、スミス・コロナという機種に乗り換えた。しかし、これもメモリーのない機械だった。行替えなどが多少楽になった程度だった。

 

パーソナル・コンピューターの登場
 そして、ついにパーソナル・コンピューター(PC)の時代がやってくる。これなしで仕事はできないと思い、中古車が買えるくらいしたPCを買い込んだ。当初は国産のPCを使っていたがワープロなども開発途上で「松」、「一太郎」などの名がついた日本語用ソフトが流行していた。

その後、投資した額を考えると恐ろしくなるくらい、ガジェットに類するものまで含めて様々な機種と付き合った。その中で最も愛着が残るのは当時の先端であったマッキントッシュSE/30という機種である。今の若い人たちは見たこともないだろう。この機種との出会いについては、ブログに記したこともある。

現在も、ウインドウズ、Mac の双方となんとかつきあっている。しかし、最近は目も弱くなり、タイプ・ミス、変換ミスが多くなった。やめ時なのだ。一国の大統領までが、ツイートなどの安易な手段で人格を疑うような粗暴な応対をするようなひどい時代になっている。

冒頭のテーマに戻るが、若い世代と一緒にすごしてきて近年かなり気になるのは、本を読まなくなったなあと思うことだ。読書人口は激減した。かつてよく見られた電車内で本を読んでいる人も少なくなった。ご贔屓だった大書店も次々と撤退し、駅前書店まで少なくなった。駅名に大学の名を掲げた町でも、まともな本屋がない。仕方なく、インターネット上で購入した本が、全く見当違いの内容でがっかりしたことも多い。書籍は実物を手に取らないと分からないと思うのだが、将来はどうなるのだろう。小さな画面で、無機質な活字の本を読む時代には生きたくない。

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花を追って

2017年04月23日 | 午後のティールーム

明日何が起こるかわからない昨今、少しだけ世俗の世界から離れようと出かけた所。
さてどこでしょう。前方の桜はそろそろ散り始めています。
目を移すと、五重塔か仏塔のような建物が。 

さらに歴史を感じさせる古い建物や木々のたたずまい。

ここまでに分かれば、合格?

そして、正解は。

蔵王堂には秘仏、彩色も鮮やかに巨大な御三体の本尊蔵王権現(安土桃山時代・重文)が鎮座。「権現」とは仮の現れという意味。御三体は釈迦如来、弥勒菩薩、千手観音菩薩を意味しているとされるが、異様な青色で憤怒に満ちた形相は訪れる人々をひたすら圧倒する。それはただただ悪を許さない「威厳」に満ちている。今の世が必要とするものかもしれない。 花の季節はそろそろ終わりに。その先にに見えてくるものは。

国宝仁王門修理のため、2012年から10年、期間限定のご開帳です。

 

 

 

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戦争を記憶する:30年戦争の傷跡をたどる

2017年04月17日 | 午後のティールーム

 

北東アジアに急速に緊迫感が強まっている。火元はまたもや朝鮮半島になりそうだ。と言っても、若い世代は朝鮮戦争をほとんど知らない。1950年6月25日大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国が衝突。それぞれアメリカ軍を主体とする国連軍と中国義勇軍の支援のもとに、戦争状態となった。53年7月にようやく休戦となった。敗戦後日の浅い日本はアメリカ軍の後方基地として漁夫の利を占めたような状況だった。

安易になってきた戦争認識
1960〜75年には北ベトナム・南ベトナム解放民族戦線とアメリカ・南ベトナム政府の間で戦争状態となり、今に残る深い傷跡を残した。アメリカはいずれの戦争にも加担している。20世紀以降の世界で、アメリカが関係していない戦争を探すのは難しい。あらゆる戦争に介入してきた。アメリカに頼る国もある。アメリカは今後世界の警察官であることをやめるといっても、これまで思うままに振舞ってきた武力優位の持つ魔力は捨てがたいのだ。シリアの戦争も、今や「内戦」どころか、外部から介入する大国の新兵器の試験場のごとき様相を呈してきた。核兵器ではない在来 conventional の爆弾では最も爆風が凄まじいという兵器が、トランプ政権になっていとも安易に使われている。シリアはピカソの「ゲルニカ」そのものだという見方もある。

「戦争」で区切り直す時代認識
20世紀はしばしば短い世紀であったと言われるが、「世紀」は歴史軸上の区切り(ベンチマーク)に過ぎない。歴史を真に区分してきた要因を見定める必要がある。やはり、「戦争」の持つ影響力は大きい。この点を重視する立場からは、その端緒はこの世紀の世界的悲劇、第一次大戦の開戦年の1914年に始まり、1991年の第二次世界大戦の終結で区切られるとされる。第二次大戦は、第一次大戦の結果がもたらしたものの延長線上で理解される。もちろん朝鮮戦争、ヴェトナム戦争や中東での紛争もこの流れに包括される。こうした視点からすれば、20世紀の基底を流れたのは「戦争という恐るべき怪物」であり、それが支配した世紀だったと言えよう。

 21世紀はいかなる世紀になるだろうか。この時代の始まりを画したものは、天文学上の発見でも、新大陸の発見でもなかった。それは9.11同時多発テロという世界を震撼させた出来事であり、前の世紀からのつながりが生み出したものだ。その結果はテロリストへの報復という形で直ちに中東戦争へと拡大して行った。戦争という残酷な争いがいかに悲惨で、虚しいものであることを人々が心から認めるまでは戦火は地上から絶えない。疲弊しきるまで止まらない戦争 悲惨と荒廃だけを残したともいわれる「30年戦争」だったが、人々と国土が疲弊しきって、やっと終結の時が来た。1635年に皇帝とザクセン選帝侯の間で《プラハ条約》が結ばれ、ドイツ内部の両派の間では和睦が成立したが、フランスがスウェーデンと結び、戦争に介入し、30年戦争は終わらなかった。(「フランス・ステージ」ともいわれる段階)。その後も、混迷は続き、ようやく1648年、プロテスタント側はミュンスターで、カトリック側はオスナブルックに集まり、同じ日に署名されて、「ヴェストファーレン」条約として、後世に知られることになった。

 神聖ローマ帝国は長い疲弊の時から抜け出たが、ドイツは多くの領邦(実際にはroyaumes, principautes, margraviates, landgraviats, comtes, seigneurics などの名で呼ばれた複雑な状況)に分割され、新な苦難の時代を迎えることになった。30年戦争とその後のドイツ世界がいかに荒廃し、悲惨なものであったかを知ったのは、ブログにも記したグリンメルスハウゼンの戦争小説などを読んでからであった。歴史では習ったが、それまでほとんど実感が生まれなかった。16世紀にはその美しさを誇ったドイツの国土が、その復興に100年余を必要とするまでになってしまったのか。ドイツはその後も戦争の中心となって、歴史の舞台へ登場してきた。戦争を基準として時代区分を仕切り直すならば、第一次大戦以来今日まで、地球上から戦火は絶えていない。「戦争の世紀」がこれ以上続かないよう、戦争の歴史を忘れないことが必要だ。「戦争」について真実を次世代に伝承することは「平和」について語るよりはるかに困難だ。

 30年戦争による神聖ローマ帝国の地域別人口増減
 30年戦争は時と所を変え、様々な要因で入り乱れ続いたが、地域では現在のドイツを中心とする地域が、最も過酷で悲惨な戦場となり、多数の人命が失われた。戦争の直接的結果あるいは他の地域への流出で、半数以上の人口が失われた地域もあった。

フランスに近い西部のパラティネート(プファルツ)、東北部のヴュルテンベルクなどの荒廃は、甚だしかった。下図で色の濃い地方ほど、人口減が激しく、領土も疲弊した。

C.M.N.Eire, Reformations, 2017, p.553

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振り返ってみる30年戦争の時代

2017年04月07日 | 午後のティールーム

 

Carlos M.N. Eire, Reformation, The Early Modern World, 1450-1650
New Heaven: Yale University Press, 2017, cover

偶像破壊によって壊された聖人像
聖マーガレット、聖アンドリュー教会、
イギリス、エセックス 


昨年はマルティン・ルター(1483-1546)没後500年という記念の年にあたり、ルター派教会を中心に様々な行事が行われてきた。ルターに関する出版物もかなり増えたようだ。ルターというと、直ちに思い浮かぶのはやはり「宗教改革」だ。ルター、カルヴァンなどを中心として形成されたプロテンタスティズム、とりわけルターは現代の保守主義、リベラリズムの源流としても議論されている。学生時代に読んだ「プロテスタンティズム˚の倫理と資本主義の精神」,「一般社会経済史要論」などを思い出した。スマホ世代の人たちはほとんど手にすることはないのだろう。読んだことがあると答える人が少なくなった。 

   このブログでも取り上げたこともあるが、ルターが1517年に提示したヴィッテンベルグ城教会の扉に貼り出したといわれる95か条の提題は、ローマ教皇の贖宥状販売を攻撃し、教会の腐敗を糺し、「宗教改革」 Reformations という運動へと展開、カトリック側の反対と自己改革を中心とする「反宗教改革」(カトリック宗教改革)の動きを誘発した。この対立の実態はその後の研究で、現実は世界史教科書で学んだような分かりやすい展開ではなく、極めて複雑なものであることが分かってきた。ルターの人物像も、かつて宗教学概論などの講義で習ったイメージとはかなり異なっているようだ。

 17世紀ヨーロッパを特徴づけた30年戦争(1618-1648)には格別の関心を持ってきた。地球上に戦争が絶えたことはないが、20世紀を特徴づけた第一次、第二次世界大戦とは異なった複雑さと深さを持っている。一般には、スペインと神聖ローマ帝国という巨大なカトリック勢力に対するプロテスタント優勢の諸国連合の対決と理解されている。しかし、この戦争は開戦から終戦まで一貫して継続した戦争ではなかった。多くの局面とそれぞれの背景が異なり、複雑を極める。当初は宗教戦争と言われたが、その後の展開で様々な政治的要因や利害と戦場が重なり合って現れた。時には敵と味方の宗教的属性が反対になったりもした。この戦争の実態に立ち入るほどに多くのことを学ぶことができたが、とりわけその宗教性と時間の経過に伴う変質が注目を惹く。時代は異なるが、多くの外国勢力が介入している現代の複雑きわまるシリア内戦などと似た点もある(このたびのアメリカ・トランプ政権のシリア政権軍攻撃で事態は一段と厳しさを増した)。

 30年戦争にブログ筆者が関心を持ったきっかけは、恩師のひとりが、ドイツ文学者で17世紀の研究者であったことにあった。その影響もあって「30年戦争」文学ジャンルには、その後全く異なる専門を志すようになってからも、折に触れ興味をひかれた作品を読んできた。この戦争については、世界でどれだけの書籍が刊行されただろうか。研究書だけでも数え切れないほど膨大で、多くの名著が書かれてきた。最近でも新しい観点からいくつかの力作が刊行された。宗教改革のようなテーマは、ともすればバイアスがかかりがちで、かなり時間を置かないと実像が見えてこない。

 最初の頃読んだのは、シラー「30年戦争」、シラー「ヴァレンシュタイン」、グリンメルハウゼン「阿呆物語」、ブレヒト「肝っ玉おっ母とその子どもたち」あるいはいわゆる農民戦争ものなどであった。銅版画家デユーラー、クラーナハ、カロなどの作品に出会ったのも、この過程だった。

 「30年戦争」というテーマで、思い浮かぶトピックスは尽きない。これだけでいつまでも書いていられるが、その時間はない。今回はこの戦争の発端といわれる事件について、最初の頃に抱いた単純な疑問について記してみよう。  

 1618年5月23日、プラハで起きた「窓外放出事件」である。30年戦争の開幕であり、「ボヘミアン・ステージ」と呼ばれることもある。舞台はベーメンとプファルツだった。すでに神聖ローマ帝国は宗教革命の展開に伴って分裂状態に入っていた。「新教徒同盟」と「神聖同盟」との対立は戦争寸前の危機状態にあった。その中で何人かのプロテスタント側の指導者たちがプラハの王宮に抗議に出かけた。王宮の行政担当者はカトリックであったから、激しい論争となった。訪問者たちは二人の行政当局者と一人の秘書を窓外に放り出した。

プラハの窓外放出事件を描いた版画(1618年5月23日):30年戦争の発端となった。

 この記述を最初読んだ頃は、窓から放り出された3人がどうなったか、ほとんど気にならなかった。多分、死んでしまったものと思い込んでいた。ところが、その後文献を読むうちに、実際には3人は20メートル以上の高さから落下したにもかかわらず、無傷で済んでいたらしい。

 放り出された3人が信仰するカトリック側は、神の奇跡であると祝福し、プロテスタントの暴力を批判した。他方、プロテスタント側はたまたま窓外に積まれていた堆肥の上に落ちたので衝撃が和らげられたに過ぎないとした。プラハの壮大な王宮と石畳の道を思うと、どちらもにわかには信じられない事件であった。真実は神のみぞ知る。


 



 

 

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春の行方

2017年04月03日 | 午後のティールーム

 


春の光は草木にとって想像がつかない力を与える。長い冬の間、厳しい雨風や雪に耐えていた種や球根が春の訪れとともに、一気に活動を始める。あたかも新たな命を得たようだ。例年秋口に植えるチューリップなどの球根の類も、時を計っていたかのように確実に芽を出し、花開く。自然の摂理の絶妙さに幾度となく感動してきた。

他方、人間の世界は近年著しく不確実性が増した。「想定外」という流行語が出現したように、思いもかけない出来事が突如として起こる。人間の予知能力は格段に低下し、神でさえ未来は分からないといわれる時代となった。

しかし、巨大コンピューターの能力とAIの発達で、ロボットが人間の能力を凌ぐような状況も出てきた。典型的には囲碁、将棋、チェスなどの分野で名人が破れるという水準まで、ロボットの予測能力が高まった分野もある。人間行動のパターンをコンピューターが読み切れるまでにプログラムの精緻化と計算能力が拡大した成果といえる。だが、コンピューターが人間に勝つような状況が生まれるのは、未だ囲碁や将棋という思考ゲームに限られている。コンピューターが棋士の対決が行われている座敷の外の世界の変化まで予測することは、現在の段階ではできない。棋士には見える室外の桜も、今の段階では、コンピューターには見えない。

経済学の推論などで、ceteris paribus (other things being equal) という前提がつけられることがある。「他の条件が一定ならば」というかなり厳しい限定である。モデルが設定した条件以外は凍結されて動かないという意味である。しかし、現実には予測値と実際の結果(実績)の間に大きな離反が生じることはしばしば起こる。例えば、投機家などはある予測の内容を知って、予測とは相反するような行動に出る。例えば、当面の株価安値が予測されれば、素早く買い入れを増やすなどの行動に出る。その結果、予測値を結果が上回るということが起こりうる。

人間社会は実験室の世界とは異なり、行動する主体が自らが置かれた状況を判断し、考え、さらに行動する。その結果、世界は変わる。激変する世界、予知能力の充実はこれからの時代を生きる人たちには欠かせない。しかし、その答えは人々が電車の中や歩きながら覗き込んでいる小さな画面の中にはないようだ。

 

 

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消えゆくものの美しさ:北の旅から

2017年03月21日 | 午後のティールーム

 

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 春とはいえ、時には肌を刺すような寒気が感じられる日、遠く北を目指す旅に出る。初めての土地ではない。この10年くらいの間にも何度か訪れている。地縁や血縁などのようなつながりがとりたててあるわけでもない。最初はこの地に生まれた育った友人との縁で、観光を兼ねて訪れてからすでに半世紀を経過している。今はとりわけ親しい知人、友人も住んでいない。しかし、なんとなく惹かれるものがあって、学会などで近くに来るたびに格別用事がなくとも、足を延ばしてきた。上掲の写真からどこか推察いだだけるだろうか。北の海を目前にした海岸に並行する運河に沿って百年余りの風雪に耐えてきた倉庫群が並ぶ。

太平洋岸の明るい海の色とは異なる濃い灰色の薄暗い海の色を見ながら、列車は海辺をひた走る。線路と海辺の距離は狭いところは数メートルしかない。海岸線を小一時間走った列車は、上野駅を模したと言われる外観はかなり古びてしまった感じの駅に到着する。駅名は「小樽」。駅舎自体は寂れてはいるが、内部は改装され、繁栄した当時はさぞや賑やかであったろうと思う。

列車から降りてくる人のほとんどは旅行者風だが、最近はここでも多数の中国人観光客の集団を見る。一時の爆買いはなくなったようだが、それでも大きな荷物を持って車両から降りてくる。彼らにとっては、未だ雪が道路の両側に積まれたままで人影の少ない港町も興味津々のようだ。東京、京都などの大都市集中型の旅行ではなく、古き時代の日本が残るローカルな地を訪ねる動きが少しずつ増えているように思われる。

駅から海に向かって下ってゆくと、かつては鰊や昆布の交易、北方ロシアとの取引で賑わった地域が現れる。海岸近くの運河に沿って大きな倉庫群が連なっている。しかし、その多くはもはや倉庫の役割を終え、主として観光客相手の地元産品の店や食堂のようなガランとした店が並ぶ。春とはいえ、風は肌を刺すような冷たさだ。昼間はまだしも、夕刻には人影も少ない。

夜になって、かつて訪れたことのある一角を訪ねてみた。街灯も少なく、街は暗闇に沈んでいる。かつては町の中心であった。車がかろうじて通れるほどの狭い道には残雪が凍りつき、慣れないよそ者には大変歩きにくい。路上に人影はなく、店内も閑散とした店が並んでいる。店の数の多さだけが目につく。

この地の出身で何年かの修行の時を過ごした後、故郷へ戻り、昨年店を開いたという店主と話す。あたりの店は、どこを見ても、これで店が成り立つのかと思う人の入りだが、故郷が持つ力は不思議なものだ。客との何気ない会話にも都会では感じられない温かみがある。その日の客は私たちだけだという。明日は地元の高校の卒業式なので、少し騒がしいですよとの店主の言葉。しかし、その後は今晩とあまり変わりないようだ。それでも手を抜くことなく、丁寧な仕事ぶりに、もう一度来る機会があればと思う。それまで、ぜひ残っていて欲しい。帰り際にはシェフの主人とスタッフ一同が一段と寒気が増した戸外へ出てきて、その日唯一の客を見送ってくれた。東京などではもう見られない情景だった。



 

 

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「いかさま師」が生きる時

2017年03月09日 | 午後のティールーム


EN COUVERTURE
Leonard de Vinci (1452-1519)
Saint Jean Baptiste
Vers 1508-1519
huifle sur bois, 69 x 57 cm
Coll. musee du Louvre 

レオナルド・ダ・ヴィンチ
洗礼者聖ヨハネ』
Grande Galerie
表紙以下のイメージは同誌所収の紹介論説から引用。

イメージ拡大は画面クリック

 

 

着のルーヴル 美術館の月報 Grande Galerie, Le journal du Louvre (dec 2016-Janv/Fenv 2017)を眺めていると、興味深い記事に出会った。下掲の写真から、なんのことかお分かりでしょうか。

 

 

 なんとなく事務室のような空間に大きなパネルが置かれている。よくみると、その一枚は、あのジョルジュ・ド・ラトゥールの「クラブのエースを持ついかさま師」のコピーではないか。さらに読んでみると、どうやらルーヴル美術館とパリ市内の病院の協定で、の作品を様々に活用することで、病院の雰囲気、サービス環境、さらには治療効果の改善にも寄与しようとする試みのようだ。真作を展示することは困難があるとはいえ、3D技術なども活用して作品の面白さを見る人に提示しようと試みている。


このラトゥールの作品なども、痛み、恐れ、憂鬱、退屈などの病院にありがちな雰囲気を変化させ、患者に好奇心を抱かせ、自ら考え、回復への自立支援に役立てようとの視点から選び抜かれた主題といえる。フランスではあまりによく知られた作品ではあるが、実際にゆっくりと鑑賞した人はすくないだろう。

この作品は、17世紀の世俗画の範疇に入るが、見方によって現代に通じる多くの含意を読み取ることができる。戦争、飢餓、悪疫など、歴史的にも稀な危機の時代だった。その中で人間はいかに生きるべきか。

病院に展示されるルーヴル美術館の作品は、これに限らず、プロジェクトを企画した者が考え抜いたものだ。なかにはミロのヴィーナス像まで入っていて、病院の中庭に置かれている。思いがけない所で、予想もしなかった美しい作品を目にした関係者は、それぞれの立場で多くのことを考えるだろう。

 

美術館と病院の連携というのは、きわめてユニークだ。心身ともに不安や苦痛を抱えた患者も、診療や待機の合間に、世界最高レヴェルの絵画作品のイメージやヴィデオ解説あるいは様々に工夫された展示に接しながら、落ち着いた時を過ごすことができる。

病院の待合室は一般に雑然として、時に陰鬱な空気が漂っている。日本の病院などでも、壁に絵画作品を飾ったり、グランドピアノを置いて、日に何回かピアニストによる演奏を聞かせたりしているところもあるが、その数は少ない。これらの斬新な試みを目や耳にすることで、芸術が医療という行為やその過程に及ぼす効果を改めて考えさせられる。いつか、こうした実験の評価を知りたいと思う。


 

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短かった2016年

2016年12月31日 | 午後のティールーム

 


今年は月日の過ぎるのが早かった気がする。世界中で驚くことが続いたからかもしれない。とりわけBREXITとアメリカ大統領選でのトランプ候補の当選には世界中が驚いた。どちらも、世論調査などがありえないとしたことが現実のものとなったから衝撃が大きかった。その陰に隠れた形になったが、気候変動も大きく異常だった。

 この時期、例年話題とすることが多かったカナダ、オンタリオの友人からのクリスマス・カードをまた例に挙げよう。ナイアガラに近いセント・キャサリンスというカナダ側に住むこの友人は、ツツジやサツキを中心に30種近い植物の栽培でその世界では知られた園芸家夫妻だ。

 今年は「もうクリスマスなの」という気分だったという。
12月最初の週のことだった。気温が一挙に17度近くに上昇したそうだ。その前の週も全く雨が降らず、丹精込めて育てている草花、樹木が枯れそうになり、散水に大慌てだったという。

 ところが、クリスマスの10日ほど前から気温は急低下、零度以下となり、雪が降り出し、例年の冬モードになったらしい。それでやっとクリスマス・カードを書く気になったとのこと。カードには同家を訪れた孫たちが作った大きな雪だるまが写っていた。

 この異常気象はこのところ全地球的問題となっている。この友人の奥さんは退職前モントリオールの大病院の看護部長をしていて、看護学部の教授でもあったが、5月にヴィクトリア病院看護学校の55年卒業記念でロンドンへ出かけた。ところがロンドンにいた5月から9月初めは大変暑く、雨もほとんど降らなかったらしい。しかし、BBREXT騒動の中で^、カナダへ戻ってみるとこちらも気温は高く、地域の樹木は立ち枯れ寸前の状態だったが、庭園の方は隣家が好意で散水してくれたので助かったとのこと。

 カナダに限らず、イギリスも暑いのだ。筆者もかつてオックスフォードで短期ステイの家探しをした折り、滞在していた市内のホテルのあまりの暑さに、少し離れた郊外のサマータウンまで逃れた?ことがあった。ここでも暑かったが、市内よりはるかにましであった。確かハリケーン「カトリーナ」がフロリダを襲って大被害を出していた頃だった。この頃、ロンドンでも高級ホテルでないと、冷房は入らなかった。

 さて、友人の丹精こめて栽培した樹木は救われたが、人間の方は暑さに耐え難くなり、10日ほどニューファウンドランドへ逃げ出したとのことだ。セント・ジョンからドライブして、グロス・モーン国立公園 まで行ったとのこと。半世紀前に友人たちとキャンピング・カーを借りて、旅した所でなつかしい。氷山まで見られ、Figgy Duff(ニューファンドランド名物のレーズンの入ったプディング)から有名なロブスターまで堪能して戻ってきたという羨ましい限りの話もつけられていた。

 他方、パリや中国大連からの空気汚染のひどさも今年は話題となった。異常な気象も大気汚染も、この地球に深刻な異変がおきていることを示している。

 その外、いろいろあって、この1年大変早く過ぎてしまった。来年は平穏に過ぎますよう。どうぞ皆様よいお年をお迎えください。

 

 

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美術と文学:ヒエロニムス・ボスとトーマス・モア(2)

2016年12月25日 | 午後のティールーム

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Hans Holbein. Portrait of Thomas More, 1527
The Frick Collection, New York
(Quoted in Belting (2002), 2016)

ハンス・ホルバイン『トーマス・モアの肖像」
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NHK『日曜美術館』が『クラーナハ展』(国立西洋美術館)を取り上げていたが、日本でのこの画家の知名度は、それほど高くはない。作品について、かなり好き嫌いが分かれる点では、ヒエロニムス・ボスと似たところがある。

  今日のテーマもブログを訪れてくださる方にはあまり興味を呼び起こさないだろう。あくまで筆者の心覚え、メモのようなものである。世の中のブログと言われる形式からも遠く離れている。話の輪郭は確保したつもりだが、基本はメモなので詳しい説明は意図していない。それでも、筆者の記憶力の低下に比例して、文字数は増加してきた(笑)。

文人たちの世界観 
 今回、取り上げた問題は、簡単に言えば、ヒエロニムス・ボス、トーマス・モアをめぐるエラスムス、ピーター・ジャイルス、アンブロシウス・ホルバイン(ハンス・ホルバイン 1497/98-1543の兄)など、16世紀前半のヨーロッパの文人たちのあまり知られていない関係である。

 ボス以外は、トーマス・モアの『ユートピア』に直接関係していることがほぼ明らかになっている。彼らは一体どんな世界観を持っていたのだろうか。画家のヒエロニムス・ボスの作品『地上の楽園』と思想家トーマス・モアの『ユートピア』の間には何か共通する点があるのだろうか。ほぼ同時代人の画家と思想家の描いていた理想の世界がいかなるものであったか、興味深いところがある。さらに言えば、もはやユートピアを描くことのできない現代人にとって、時代のおかれた位置を見定めるひとつの材料になりうるかもしれない。

ボスの『地上の楽園』とクラーナハの作品には、類似した点が見出されるものもある。たとえば、ルカス・クラーナハ(子)(ヴィッテンベルグ 1515ー1586 ヴィッテンベルグ)『ディアナとアクタイオン』1550年頃、油彩 板、トリエステ国立古典絵画館

  トーマス・モア(1478−1535)が、『ユートピア』 Utopiaを書いた1516年頃は、世界は北米新大陸などの発見、植民開拓、交易拡大の黎明期にあり、新たな可能性が大きく開けそうに思われた。大西洋のかなたには、それまでヨーロッパの人々が見たことも、想像したこともないような世界が広がっていた。画家ボスの作品は奇想に溢れ、不思議な動植物が描かれているが、その発想の一部にはアフリカや北米新大陸から様々に伝えられてくる情報が色濃く反映している。他方、宗教改革の動きなど、時代は変革の胎動を見せていた。

モアが意図していたことは
 こうした中で、思想家トマス・モアは文筆の力をもって『ユートピア』という空想の島を描くことを試みた。しかし、モアにとっては、単なる架空の世界を描くことが目的ではなかった。モアはこの「ユートピア」を借りることによって、彼が生きたイギリス commonwealth の政治や社会の制度的批判を密かに意図していた。

 モアが作品を構想した時代背景は極めて難しい状況にあった。ヨーロッパは宗教改革が展開期に入りつつあり、とりわけイギリスはヘンリ8世(在位1509−47)の時代だったが、王妃キャサリンとの離婚問題でローマ教皇クレメンス7世と対立、1534年には首長法の成立をもってカトリックから分離、イギリス国教会の成立にまでになった。

 この難しい時代にモアはギリシャ古典の世界にヒントを得た概念 Utopia(No-place:存在しないの意味)を拡大することで、新大陸の仮想の島を舞台に、ひとつのモデル社会を構想した。

 モアは、素晴らしい社会ではあるが、現実にはまったく存在しない場所という意味で、想像の産物としてではあるが、ひとつの完成した社会のヴィジョンを提示してみせた。ただ、ユートピアといっても、モアの展開した概念は、その後かなり一般化した牧歌的な理想郷(アルカディア)にはほど遠い。様々に管理され、非人間的な側面もあり、奴隷も存在する社会で、時代の制約も感じられる虚構の共和国である。

 モアがこの作品を構想した動機は、当時のイギリス社会のあり方を批判することにあったことはほぼ確かである。ユートピアの概念はその後の時代にきわめて多様化するが、モアの提示した概念は、特別に限定されたものであった。今日と違って16世紀のイギリスで、政治や社会の批判を行うことは、作者の生命に関わる大きな危険をはらんでいた。そのためにモアは作品の構成自体に慎重な配慮をしている。作品は最初、ラテン語で書かれていた。ラテン語は人文学者など知識層の間では、理解されていた。さらに、モアが一人の敬虔なカトリック教徒としての立場を維持しながら、大陸から押し寄せる宗教改革の激浪に抗していたことも反映している。 

 モアの『ユートピア』は、ギリシア的脈絡という独自の設定を行っているが、自分がユートピアの体験をしているわけではない。もともと存在しない仮想の存在である。ボスの作品が聖書的な楽園というフィクションではあるが、かなりの程度現実の享楽的側面を描いているのに対して、モアのユートピアは、あるポルトガル人の新世界の島への旅の報告を聞いてという形で、宗教的色彩を排除し、巧みな構成をとっている。

 当時、モアは国王へンリ8世の命を受けてフランドルに行き、スペイン王との外交的交渉に携わっていた。その間にアントワープなどを訪れ、多くの人々に会っているが、作品『ユートピア』にも登場するピーター・ジャイルスPeter Jails(1486-1533)という実在した優れた人物がいた。ジャイルスはエラスムスの弟子として,人文学者で印刷業にも携わり、アントワープで判事もしていた。エラスムス、モアの支援者でもあり、モアも作品に登場させ、冒頭でその人格を高く評価している。1515年の夏、モアはジャイルス のところへ滞在していた。彼はそこで本書の構想を発展させたと思われる。

 Utopiaのストーリーはベルギー、ルーヴァンのノートルダム寺院のミサの後、モアがジャイルスのはからいで、新大陸から帰ったばかりのかつてはポルトガル人であったラファエル・ヒスロディ(Raphael Hythiodaeus、おしゃべりが得意な人の意)なる人物に出会うところから始まる。彼はアメリゴ・ヴェスプッチの船団に加わり、4回目の航海の折に現地に残ることを決定する。そして、長らく現地に滞在した後、現在のインドから別の船に乗船してヨーロッパへ戻った。モアはピーターの紹介という設定で、この赤銅色に日に焼け、いかにも航海から戻ったばかりと思われるラファエルから新大陸についての話を聞くという構成である(下掲図)。この版画で左側に長い杖を持つのがラファエル、中心がモア、右側がジャイルスである。

Ambrosius Holbein, Woodcut, in the Basel edition of Utopia published by Joh.Froben,1518
アムブロシウス・ホルバイン『ユートピア」木版画。バーゼル版『ユートピア』所収

 この構成は、ギリシャの風刺家ルシアン・サモサータ Lucian Samosata(c120-180AD)の使った常套手段だったといわれる。こうした組み立てで、ハンス・ホルバインの兄 によって上掲のような木版画などが挿入された。Utopiaが刊行されたルーヴァンは、モアの生涯の友人であったエラスムス(Desiderius Erasmus, 1466-1536)がいた地でもあった。エラスムスはここで彼の人生に大きな影響を与えた『新約聖書註解』の写本に出会っている。

 

ピーター・ジャイルスの肖像
Qw
entin Massys, Portrait of Peter Jails, 1517,
Longford Castle, The Collection of the Earl of Radnor 

『ロッテルダムのエラスムスの肖像
Quwentin Massys, Portrait of Erasmus of Rotterdam, 1517,
The Royal Collection of Hampton Court

 

現代に通じるモアの社会批判
 以上のように設定されて始まる『ユートピア』は、モアが想像し、作りだしたものだが、著者がかなり楽しんで描いていると思われる光景が随所にある。たとえば、この島では金は最も価値のないものに使われている。たとえば、溲瓶、奴隷を縛る手かせ、足かせの鎖などである。金は本来、人間が使うことで価値が生まれるのだが、当時のヨーロッパ(そして現代)では、人間が金に使われていると評されてきた。また、弁護士は揉め事を増長するばかりで必要ないとしている(モアは法律家だった)。イギリスで当時展開しつつあった新興地主による農地の囲い込み「エンクロージャー」を「羊が人間を食べている」として批判したこともよく知られている記述である。いずれも痛烈な風刺である。

 ユートピアにおける労働のあり方についても、興味深い点がある。ユートピアでは昼夜を24時間に等分し、労働に当てているのは6時間にすぎない。午前中、3時間の労働、昼食の後2時間の休息を経て3時間の労働で1日は終わることになっている。

 さらに戦争を忌み嫌い、「戦争で得られた名誉ほど不名誉なものはないと考えている」(p.144)。そのほか、モアの批判には、社会における人間の働きとその意義など、現代に通じる多くの興味深い点が含まれている。モアが英国で法律家として最高の地位であった大法官にまでなったこと、その悲劇的な最後などを知ると、多くのことを考えさせられる。

 モアは、この島がどこにあるのかを聞きただすことを思いもしなかったと記している。実際に「ユートピア」はどこにあるかとの質問がかなりあったらしい。さらに、『ユートピア』は刊行後、大きな話題を呼ぶが、モアは作品の情報源であるラファエルのその後の消息は不明であるとしている(元来、実在しない架空の人物である)。

ヒエロニムス・ボスとモアの違い 
 モアとヒエロニムス・ボスの間には直接的な対話や交流の機会があったか、不明である。ボスについての文書の記録は少ない。しかし、ほぼ同時期、ボスはフランドル地方でも活動していた。ヨーロッパの知識人を軸にして次第に形成されつつあった新たな思想的風土が、結果としてボスの地上の楽園(パラダイス)的な考えを生み出す刺激になったといえるかもしれない。ボスの作品には、モアの『ユートピア』同様、奇怪な動植物が多数描かれている。他方、アフリカやアメリカ新大陸などに実在し、ヨーロッパへ持ち込まれた実物も描かれている。

 ボスとモアの間に出会いのような直接的な関係があったか否かは分からない。しかし、お互いにその存在は知っていたことと思われる。モアがヘンリー8世の命でスペインとの外交折衝のための使節としてフランドルに赴いたのは、1515年の夏であった。ボスの作品『快楽の園』については、以前に記したナッソー・ブレダのヘンドリックIII世(画家ヤン・ホッサールト制作)のことを想起せずにはいられない。ヘンドリックIII世は1520-25年の間、ネーデルラントに滞在していた。彼がボスの『快楽の園』を持っていたことは、ほぼ確かであり、この地の画家や人文学者などの活動の支えでもあった。

 かくして、ユートピア世界は単にキリスト教的未来の絵画ばかりでなく、虚構の世界ではあるが、文学によっても描かれるようになった。モアに始まるユートピア思想、そして同時代のヒエロニムスの「快楽の園」は、それぞれ「非科学的」「空想的」と批判されることになるが、両者ともに、当時の社会に蔓延していた欠陥や退廃を鋭く指摘、批判することが秘められていた。

ヒエロニムス・ボスと推定される肖像画(作者不詳)
1550年頃
アラス、市立図書館蔵

 ヒエロニムス・ボスの作品に限ったことではないが、作品を唯眺めるだけでは見えてこない時代の底流が、こうした探索を通して明らかになってくることは、美術、文学の領域にとっても意義深いことと思われる。


References
Hans Belting, Hieronymus Bosch: Garden of Earthly Delights,Munich Prestel
(2002 first hardback) 2016 reprint

トマス・モア『ユートピア』(平井正穂訳、岩波書店、1978年

 

 
 
 
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美術と文学:ヒエロニムス・ボスとトーマス・モア(1)

2016年12月13日 | 午後のティールーム

 

ヒエロニムス・ボス『地上の楽園』(『快楽の園』)
マドリード:プラド美術館
2000年に修復

 

 1588 年、スペインの無敵艦隊アルマダがイギリスに破れて間もない1593年に、ヒエロニムス・ボスの最高傑作といわれる『地上の楽園』(『快楽の園』) Garden of Earthly Delightsは、フィリップII世の美術コレクションに正式に認定されたといわれる。作品は1世紀ほど前の1504−5年くらいに制作されたと推定されている。しかし、正確な制作年次、画家の詳しい経歴は明らかではない。南ネーデルラントのエルトーゲンボスで生まれ、広くヨーロッパで活動したとみられる(これらの点は以前にブログでも記した)。

 彼の作品がいかなる経緯でスペイン王室のものとなったかについても経緯は不明ではあるが、スペインは当時南ネーデルラントへ進駐し、北ネーデルラントと戦っていた。今日、ボスはフレミッシュの画家たち、ピーター・ブリューゲル(父)、ルーベンスなどのカテゴリーに含まれている。

  このような経緯は別にして、ボスはいかなることを思い描き、この作品を制作したのだろうか。画家は当時の状況で、世界観のようなものを思い描いていたのだろうか。もし、そうだとすれば、彼の抱いていた世界観とは、どのような背景から生まれ、形成されたのだろうか。さらに、この世における「地上の楽園」あるいは「ユートピア」なるものは、なにが契機となって絵画作品へと具体化されていったのだろうか。

人類社会の行方
 多くの現代人とっては、来たるべき世界について考えたりする余裕もない日常だろう。ましてや地球上のどこかにボスが描いたような「楽園」や「ユートピア」が存在するなど想像しがたい。それどころか、最近のシリアのアレッポの惨状に見るように、地球上の現実は人類滅亡の危機に近づいていると考える人々も少なくない。近年の世界の激変はこれ
からの時代が容易ならざるものであることを様々に告げている。

 それならば、あのヒエロニムス・ボスは、なぜ到底平和な時代とは言えなかった16世紀ヨーロッパにあって、この祭壇画『地上の楽園』を制作したのだろうか。さらに、そこにかなり奇怪でもあり、官能的ともいえる享楽的な光景が描かれるについては、なにかそれを裏付ける背景があったのだろうか。画家は作品を通して、なにを語ろうとしているのだろうか。

 今日に残るこの3連式祭壇画の左右両翼には天国(エデンの園)と地獄と思われる光景が描かれているが、中心に描かれている光景は、伝統的なキリストや聖母の姿ではなく、人間があらゆる快楽を享受していると思われる、きわめて享楽的で異様な光景だ。この作品が生まれた16世紀に、これを思わせる光景がどこかに存在したとは到底思えない。現世における人間が享楽にふける有様を、想像のかぎりを尽くして描いたのだろうか。

 この作品に限ったことではないが、細部にわたって見るほどに、画家が並々ならぬ蓄積、熟慮と発想の下に制作したことが伝わってくる。総体として、当時の絵画では異端としか思われかねない
奇想と深い知的蓄積に溢れた作品である。このたびの生誕500年記念事業で、現代の科学的分析とこれまでの研究の成果を元に考え直しても、依然として画家の真の意図が解明しきれたとはいいきれない。

暑さを忘れさせた作品
 酷熱の日々が続いた今夏、暑さしのぎに、ボスの生涯と作品について、多少深入りして考えてみた。幸い、今年は画家没後500年にあたり、2016年には大規模な記念事業を含めてきわめて多くの研究書や解説書が出版された。筆者が目にしえたのは、そのうちのわずかなものに過ぎないが、それでも多くのことを考えさせられた。 

Hans Belting, Hieronymus Bosch: Garden of Earthly Delights, cover


「地上の楽園」と「ユートピア」
 人類の未来はどうなるのか。先の見えた筆者としてはどうでもよいことなのだが、それでも興味を惹かれることもある。ボス・ヒエロニムスとその時代的な意味について考えている間に、ある指摘に行き当たった(Belting 上掲書 2002, 2016, 107-122)。

 ボスの作品『
地上の楽園』」と、サー・トマス・モア『ユートピア』に関するきわめて興味深い議論である。とりわけ、ここで話題とするのは、ベルティングが「文学との対話における美術の新しい概念」A new concept of art in dialogue with literature と題した論考である。ただし、ここに記しのは、そのほんの一部にすぎない。

 著者ハンス・ベルティング Hans Beltingは、ボスのこの作品を黙示録的というよりはユートピア的であるという。他方、美術史家のラインデルト・ファルケンブルグ Reindert Falkenburug は、この作品は、画家の神人同形説(擬人観)ともいうべき範疇に入るもので、見る人の想像的対応が必要という。客観的解釈を拒否する考えともいえる。他方、エルウイン・パノフスキ Erwin Panofskyは、白昼夢あるいは悪夢のようなもので解明すべき点がきわめて多く残されているという。いずれにしても、ヒエロニムス・ボスの本作品制作に当たっての心象世界については依然謎が残る。

「ユートピア」の思想と影響
 他方、ユートピアという考えは、プラトンの時代まで遡るが、ボスの時代にヨーロッパでも一定の浸透があったようだ。しかし、影響力という点では、ユートピアという言葉を世界に広めた16世紀の大思想家サー・トーマス・モア Sir Thomas More (1478-1535)が傑出している。1516年に仮想の島「ユートピア」Island of Utopia への旅行記を刊行し、大きな話題となった。偶然この年に、「地上の楽園」 を描いたボス・ヒエロニムスが世を去っている。ボスとモアは、ほとんど同時代人であったのだ。

Thomas More
The Island of Utopia
1518

Woodcut, 17,8 x 11,8 cm
Öffentliche Kunstsammlung, Basel 

 ユートピアという言葉を世界に広めたトーマス・モアの作品「ユートピア」は大きな話題を呼んだが、初版の原文はラテン語で書かれた。画家であるボスは、モアの「ユートピア」を読む機会を得なかった。他方、「ユートピア」が発行された翌年からマルチン・ルターの宗教改革活動も始まっている。15世紀後半から16世紀前半にかけての時期は、ヨーロッパでそれまで見えなかった新たな思想が、深層から芽生え、胎動し始めた時代だったと言えるかもしれない。

 モアのユートピア社会という構想が、ほぼ同時代の画家ボスの『地上の楽園』に描かれている享楽的ともいえる人間の世界の理解といかなる位置関係にあったかということは大変興味深い。文学と美術という観点からベルティングが示唆する点でもある。モアの『ユートピア』は、ボスの世界ほどパラダイス的ではない。さらに、現代人が「理想郷」と考えるような素朴なユートピアでもない。モアの描いた「ユートピア」には非人間的な管理社会の色彩があり、奴隷も存在する階層社会でもある。単純な自由主義的理想郷ではない。この点はモアの辿った悲劇的な人生とも重ねて考えたいが、このブログの次元を超える。

 ボスそしてモアの作品の根底に流れる思想を考えると、絵画と文学という違いはあるが、この時代のヨーロッパの人々、とりわけ知識人の間に漠然と共有されていた世界観の本質的な部分が反映されているように思われる。

 その点をめぐり去来することはかなりあるのだが、到底この小さな覚え書きの範囲を逸脱するし、筆者の能力を超える。ただ折に触れ、夏の夜の夢想(妄想?)の断片を記すことがあるかもしれない。 

 

Thomas More, Utopia, Penguin Classics, cover
イギリス人の多くが手にしたといわれるRobinson 訳
なかったので、Dominic Baker-Smith (Penguin Classics)と
平井正穂訳を参考に読んだが、今読んでもきわめて
興味深い作品である。 

 

References

Hans Belting, Hieronymus Bosch: Garden of Earthly Delights, Munich Prestel (2002 first hardback) 2016 reprinted. 

トマス・モア『ユートピア』(平井正穂訳、岩波書店、1978年





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THE DAY AFTER

2016年11月19日 | 午後のティールーム

 


 11月10日を境に世界は変わった。変化は人々の心の中で起きている。震源地は今度はアメリカだ。

 アメリカ大統領選挙で当選がほとんど確実視されていたクリントン候補をトランプ候補が僅差でしのいで当選した。世界の著名メディアでこの結果を予測したものはほとんどなかったといわれる。当然、大きな衝撃が世界を走った。BREXITの予想外の結果に続き、世界は激震に揺れ動いた。どうしてこんなことになったのか。CBSのキャスターは自戒するかのように状況を伝えていた;「メディアやジャーナリストたちは、現実を見ていなかった」。彼らはいったいなにを見ていたのか。 

 10年前の2006年11月、ある経営者団体で小さな講演をしたことを思い出した。論題は『移民が引き裂くアメリカの行方』だった。人口に占める白人層の比率は傾向的に低下、黒人の比率はほとんど動かず、減少した白人層の分をヒスパニック系、アジア系が取って代わるという予測の構図を説明した。そして、その変化がアメリカ社会や政治の領域にいかなる変化がをもたらすかを推理して論じた。出席していたのはアメリカでビジネスの経験がある企業の経営者、元外交官などであった。しかし、移民の実態が生みだす人種構成の変化と、それにより社会が分断されるという話は未だ遠い将来のように思えたようだ。しかし、筆者はその前にアメリカ、カリフォルニア大学サンディエゴ校との間で日米移民調査を終えたところで、アメリカの移民先進地域であるカリフォルニアでの実態変化を肌身で実感していた。

「数は力なり」
  メキシコを中心に中南米からアメリカに入国審査を回避して入り込んでくる「不法移民」illegal immigrants、 言い換えると「入国に必要な書類を持たない移民」 undocumented immigrantsは、カリフォルニアを中心に南部諸州へじわじわと入り込んでいた。多くは南部における農業やサービス分野の人手不足を補う形であった。こうした越境者たちは最初は男子を中心に単身で働いていたが、年数の経過とともに配偶者を呼び寄せる、あるいはアメリカで結婚するなどで、家族の形を整えてきた。子供達も次第に成長し、学齢期に達し、なし崩し的に住居地域の公立学校へ入学していった。最初は、英語で行われる授業に苦労していたが、居住者の数が増加するとともに 、スペイン語の教師を要求するまでになった。

  時が過ぎ、2016年11月8日、大統領選挙で当選したトランプ候補は選挙戦の途上で公言していたように、メキシコからの越境者を敵視し、アメリカに居住する不法移民(約半分はメキシコ系)を国外退去させ、国境にメキシコの費用負担(本国家族への送金に課税か)で壁を作ると述べ、アメリカ国内にいる正当な入国書類などを保持しないメキシコ人を怯えさせた。なかには、今のうちにカナダへ出国しようと試みている者もあるという。

 メキシコ政府はアメリカに不法居住するメキシコ人に向けて、最寄りの領事館などで早急にメキシコ人であることを証明する書類を発行するので、手続きをとるように呼びかけている。

  トランプ大統領が実際に公言していることを実行に移すかは定かではない。しかし、一度口にしたからには、かなりの程度、実行する可能性はある。オバマ大統領の時代と異なり、上下両院共に与党共和党が多数を占めるため、政治環境が有利になっている。司法長官には移民に厳しい考えを持つジェフ・セッションズが就任することが決まった。

  世界中が混迷の霧に包まれている時代、いつまでウオッチャーを続けていられるだろうか。移民の旅は終わりなき旅路なのだから。オバマ大統領は自らの任期中に公約した移民制度改革をなしとげられなかったことを「正義へ弧を描く移民システム」と表現して、目的に到達する道が一直線ではない難しさを嘆いた。トランプ政権移行で移民制度改革の道はさらに厳しさを増す。


桑原靖夫編『グローバル時代の外国人労働者: どこから来てどこへ』東洋経済新報社、2001年。

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決断の時間:「ハドソン川の奇跡」その後

2016年09月06日 | 午後のティールーム

ハドソン川とニューヨーク市中心部
黒色線は航空機の想定飛行経路(筆者加筆)
始点はラガーディア空港
到達点はニューヨーク市ハドソン川フェリーターミナル付近


 

  先日は一冊4.5キログラムの書籍を話題としたが、今日は約70トンの航空機のお話。

 半年ほど前から本ブログに掲載しているアメリカ、ニューヨーク市のハドソン川についての記事に、雑誌社などから2,3の問い合わせがあったが、なぜ同じような質問がなされたのか分からずにいた。ハドソン川の問題については、上記の記事以外にも何度かブログに記しているが、筆者の関心はこのアメリカを代表する川の歴史的・自然環境的側面にあり、今回取り上げる航空機事故のその後の推移については考えたこともなかった。

 9月4日、新聞の折り込み広告を見て、なるほどと思った。2009年1月15日、酷寒のニューヨークで起きた「ハドソン川の奇跡」といわれる航空機事故に関連している。文字通り奇跡としか思えなかったハドソン川への航空機の不時着、そして155人の乗客全員が生存、帰還しえたという驚くべき出来事。ここまでは、当時日本でもかなり詳細に報道された。

 このいわば奇跡の表側の事実については、当時オン・サイトでスリルにあふれた出来事がメディアで報道され、率先して乗客の救済に当たった機長や乗務員、さらに当時現場付近を航行中であったフェリーや民間船舶の懸命な支援活動が報じられた。この出来事は、たとえてみると、東京の隅田川に大型の航空機が突如として下降、着水するような、通常では想像も出来ない光景だった。その内容から、アメリカの歴史に残り、長く語り継がれることは疑いなかった。
 
 広告は、この出来事の主役であった事故機の機長サレンバーガー氏の個人的問題を中心に、これまでほとんど報道されることのなかった奇跡的事件の後日談が映画化され、日本でも近く上映されることを告げていた。

 このブログでもたまたま、筆者の昔の個人的思い出などもあって、多少長く記したことがあった。この事件が起きる前には、同じ飛行経路を乗客としてノース・キャロライナまで、今はお亡くなりになったO先生(上智大)に同行、当時注目を集めていたミニ・ミルの調査に出かけたこともあった。

 この「ハドソン川の奇跡」の裏で、国民的英雄となったサレンバーガー機長をめぐる、もうひとつの事実の展開があったということは知らなかった。この出来事の表と裏をクリント・イーストウッド監督が映画化したのだった。全米のヒーローとなったサレンバーガー機長の役を演じるのは、「ダ・ヴィンチ・コード」などで2度のアカデミー賞主演男優賞に輝くトム・ハンクスという最高の配役だ。これはどうしても見てみたい。

  映画では、この想像を絶する環境で乗客全員を救った機長は、なぜ過失責任を問われることになったのかが語られるようだ。このブログでも、表の事実はかなり詳細に取り上げた。ハドソン川のこの地域は、事件が起きるまではあまり意識していなかったが、気づいてみると、これまでの自分の人生で格別の思い出があるところだった。

  改めて、マンハッタン島、ニュージャージ州に挟まれたハドソン川の事故機の着水地点を地図で見てみた。サレンバーガー機長操縦の航空機はニューヨークのラ・ガーディア La Guardia Airport を離陸した直後、二つのエンジンの双方に一羽2.5から8.2キロに近い大型の鳥カナダ・ガンが飛び込んでしまい、エンジンがまったく機能しなくなってしまった。いわゆる「バードストライク」という事故だ。機長としては、なんとか航空機が空中で操縦対応が出来る短い時間に不時着の場所を決定しなければならないという厳しい場面に追い込まれた。

   当時の航路を見ると、この航空機US1549便は、当日の午後3時25分ラガーディア空港を離陸した直後に事故に遭遇し、エンジンがすべて停止、機長は空港には戻ることができないと判断した。地図で見れば素人目には、少し前に離陸したばかりのラガーディア空港が距離的には最短に思われるが、おそらく急旋回などの危険な操縦は失速などを引き起こし、リスクが多いと思ったのだろう。機長が選んだのは、緩やかに旋回してハドソン川に下流に向かって不時着するという選択だった。筆者はかつてこの川の歴史に興味を抱き、友人と共に遡行した経験があった。ニューヨーク市の北方に多少川幅が広い地域があるが、概してはるか上流のシャンプレイン湖近くまでは、航空機の大きさと比較すると、川幅は狭い。今、地図上でみると、ロングアイランドの岸辺近くの方が安全のような印象も持った。しかし、機長は不時着して重い機体が水面に浮いている間に、乗客を安全に救出できる場所はどこかということまで考えていたようだ。後になって分かったが、機長に残された時間はわずか208秒だった。

 機長が選んだ地点はハドソン川の河口に近いオランド・トンネル Holland Tunnel(1927年完成)に近い場所だ。筆者は一時期、このトンネルを通って、マンハッタンとニュージャージ州のエセックス・フェルズにある友人の家に週末、滞在していたことがあり、ニューヨークに出た時は、帰途マンハッタンのバス停からこのトンネルを何度も通ったなつかしい所でもある。9.11同時多発テロで消滅してしまったワールド・トレード・センターにほど近い。その少し上流 Lower West Side と呼ばれる地域にはリンカン・トンネル(1937-52年完成)という4本の川底を通るトンネルがある。さらに上流のワシントン・ハイツ Washington Heights と呼ばれる地域には、対岸のフォート・リーFort Lee にかけて、巨大なジョージ・ワシントン・ブリッジが架けられている。この空中高くそびえる橋への激突などは絶対避けねばならない。この橋から下流は川底トンネルでニューヨークとニュージャージが結ばれていて障害となる橋はない。しかし、下流に行くほど大小の船舶の往来が激しくなる。

 サレンバーガー機長は地上の状況にも通じていた。旋回した航空機は巨大なジョージ・ワシントン・ブリッジを巧みに避け、かつてのヤンキーズ・スタディアムを左下方に見ながら、ハドソン川へと高度を低めてフィフス・アヴェニューに通じるフェリー乗り場の前に見事に着水した。実際にこのあたりをボートなどで通行してみると、河口に向かって多数のフェリーや各種の船が頻繁に往来している。それらに衝突でもしたら、航空機ばかりか当該船舶の乗客にも被害が及ぶことになる。その川面を数百メートルもバランスを失うことなくグランド・ゼロで滑走させ、救援の最も期待できるフェリー乗り場の前に着水停止させたという神業的な着水を成功させた。管制官にハドソン川に着水すると連絡したのは3時27分、3分後の3時30分には川面に着水、停止していた。35分ころから救援活動がはじまった。機長は上空から救援を手助けしてもらえそうなフェリーなどを期待しながら、障害物を避け、このきわめて難しい操縦をやってのけた。

 その後、期待したとおり、フェリーが乗客・乗務員の救出に当たったなど、アメリカらしい人道的な対応を多くの人たちが率先して支援したことで、歴史に残る感動的な出来事となった。

 機長は、刻々迫る最終期限の制約の下、文字通り沈着冷静に約79トンの航空機を時速240キロで見事に着水させ、ひとりの死傷者も出さなかった。切迫した時間に、機長は冷静沈着な判断力と長年培った高度な操縦技術でこの難事切り抜けた。しかし、世の中には前代未聞なことであっただけに、口数少ない機長の決断内容と対応に予期せぬ追求などがあり、過失責任を問われるまでにいたった。サレンバーガー機長は、こうした社会の理不尽になにを考えていたのだろうか。

 サレンバーガー機長について、これまで語られることのなかった奇跡の裏面を映画化しようと思い立ったイーストウッド監督の非凡さはいうまでもないが、なによりも知りたいのは急迫した環境で下した機長の決断にいたる過程を映画で追体験してみたい。


映画『ハドソン川の奇跡』の公式サイト:
 http://wwws.warnerbros.co.jp/hudson-kiseki/


 The Asahi Shimbun Globe, September 2016 No.185 

 

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タイムトラヴェラーの夏: 歴史に逆流はあるのか

2016年08月04日 | 午後のティールーム

 

 酷暑の日々、いつもは考えもしないようなことが頭に浮かんだ。都内で電車に乗ったところ、前の座席に座った人たちのほとんどが、なにかに憑かれたように小さな画面を覗き込んでいる。これ自体はもうお馴染みの光景だ。最近では屋外で歩きながら、画面に目を据えている人たちがさらに増えた。駅の階段を下りながら、横断歩道を渡りながら、自転車に乗りながら、あるいは道路の片隅で立ち止まって自分の世界にのめり込んでいる。他の歩行者と衝突して言い合いになった光景も目にした。今日、あるお寺と墓地の前を通った折、双方に日本語と英語で「「ポケモン」 pokemon の探索のために、当該敷地内に入らないでください」との掲示が出ていた。これで今日のIT社会が目指している方向への違和感は、ひとつの頂点に達した。

多発する極限事象
 他方、近年メディアで報道される世界の出来事の多くが、異様、殺伐、荒廃といった表現があてはまるほど、常軌を逸している。ちなみに「常規」とは「普通に行われる道・やり方。常道」(広辞苑第六版)とある。

 いくつかの例をあげてみよう。世紀が代わる頃からか、異常気象、飢饉、干ばつ、地震などの地球規模での天災が目立つようになった。続いて増えてきたのが、さまざまなテロリズム、とりわけ自爆テロ、銃犯罪などの異常な人災ともいうべき出来事である。さらに最近では、国内外で多くの衝動的殺傷、時代遅れともみえるクーデターまで起きている。シリアなどで激しい戦争状態が続き、飢餓に苦しむ人々が増加している映像が世界各地に配信されている一方で、莫大な資金を投下してオリンピックに人々が熱狂している。歴史的継承の産物とはいえ、解決できない不安を一時忘れるための催しのようにも見える。

  世界に大きな衝撃を与えたBREXIT、アメリカの大統領選の低劣な議論、中国の露骨な覇権主義など、文明の劣化、衰退を思わせる現象は世界中を覆い尽くしている。これらを見るかぎり人類が進化しているとは思えない。

 身の回りでは、地球温暖化、大気汚染などの変化が明らかに進んでいることを否応なしに感じさせられる。子供の頃は東京のような大都市でも珍しくなかったトンボや蝉、あるいはツバメの類も、目にしなくなって長い年数が経過した。戦後しばらく、日本の子供たち、そして親たちも夏休みの宿題に野山を走り回っていた。今の子供たちは昆虫採集などイメージできないのではと思う。

生態系の異常な変化
 しばらく前、日光の戦場ヶ原を訪れた時に、鹿が増殖し、立木の皮を剥いで食べてしまうとのことで、害獣ネットなる防護網を張る仕事が大変と聞かされた。かつては、自然の美しさを楽しみに歩いた所だ。折しも送られてきた第33回「日本の自然」写真コンテスト(朝日新聞社・全日本写真連盟・森林文化協会主催、ソニーマーケティング株式会社協賛)の優秀作品「夜明けの入浜」は、広島県宮島付近で日の出に映し出された樹木と鹿3頭を題材とした「日本の原風景」といわれるそれ自体はきわめて美しい写真だ。

 問題は日本だけではなさそうでもある。ニューハンプシャー州の小さな町に住む友人から、ヒグマが日中も出没し、家庭のゴミを入れる大きな缶をひっくり返している画像が送られてきた。ここでは、10数年前から人手不足もあって郵便配達もできなくなり、地域の人たちの寄付を募って、廃局となった場所に共同の郵便ポストを設置しようとの運動が立ち上がっているとのこと。

タイムマシーンを駆って、後世の人たちが現在の世界を展望したら、何が見えるだろう。テロ鎮圧のため武装した兵士の姿をTV画像で見たとき一瞬愕然とした。全身を金属で覆い、まるで中世の騎士の甲冑のようだ。『帰ってきたヒトラー』がベストセラーになる時代だ。歴史はどこか逆流しているかにみえる。

歴史家の視点
 暑さしのぎに、2年ほど前に亡くなった偉大な歴史家ル=ゴフ(1924-2014)の遺作ともいうべき作品を手にした。「時代区分」という概念にかかわる議論だ。少し長いが発端の部分を引用してみよう。

「過去を組織するために人はさまざまな言葉を用い、「年代」と言ったり、「期 époque」と言ったり、「周期 cycle」と言ったりしてきた。しかし、もっとも適当なのは、「時代 période」という言葉であろう。periodeは、循環する道を意味するギリシャ語のperiodos から来ている。この言葉は、14世紀から18世紀のあいだに、「期間」や「年代」の意味をもつようになる。20世紀には、ここから時代区分 périodisation が派生した」(邦訳、p.12)。

ル=ゴフはさらに続けて、「「時代」と「世紀」はしばしば結びつけられるが、「世紀」という言葉が、厳密には「00」のつく年(の翌年)からはじまる「百年で区切られた時代」という意味であらわれるのは、16世紀のことにすぎない」(13-14頁)という。「歴史家にとって、18世紀は1715年[ルイ14世逝去の年]にはじまる」(14頁)。確かに、あのローマの1600年が特別の意味を持ったのは、ジュビリー年であったことによるのだ。

アナール派第3世代の旗手として知られるル=ゴフは、紀元2世紀もしくは3世紀から産業革命前までの時の流れを、「長い中世」として見る史観で知られてもいる。「中世」という表現は、17世紀の終わりまでは普及しなかったようだとされる。そして、フランス、イタリア、イングランドでは、16世紀とりわけ17世紀には、むしろ「封建制」という言い方がなされていた。イングランドでは、教養人たちがこの時代をしだいに「闇の時代」 dark ages という表現で指すようになった(33頁)と述べている。

 ル=ゴフの歴史観からすれば、中世は「闇の時代」とはほど遠い。闇は光があってはじめてその存在が成立する。アナール派の学術的成果は、きわめて多く、到底ここに記せるたぐいではない。ここでは、その一端を記すだけである。

この著作で、ル=ゴフの提示する「適切な歴史区分とはなにか」というテーマは多くのことを考えさせる。そのひとつを挙げてみたい。人間と同様に、世界も老いて行くのだろうか。ル=ゴフは、終わりへの歩みという強迫観念は中世を通して執拗に存在したが、ほとんどつねに「復活」という考えかたによって退けられてきたという。「復活」は、現代の歴史家は「再生」と考えている(170-171頁)。

 われわれが生きている現代の世界には、終末観に似た先の見えない不安感がいつの間にか広く漂っている。それと対比しうるように、ゆるやかではあったが、はっきりとした進化が12世紀から15世紀にはあった(171頁)。1492年の新大陸発見のように、新たな世界への外延的拡大と期待が生まれた。知的活動においても多くのフロンティアが開けていた。

時代はどこへ向かうか
 しかし、今の世界からはいつの間にか、そうした広がりや明るい展望は消え失せている。「成長の限界」が提起されてからかなりの時間が経過した。一時は大きな期待が寄せられたグローバル化にも、さまざまな障害が立ちはだかっている。ル=ゴフの考えは、必ずしも未来への道を明示するものではないが、そのことを考える多くの手がかりは与えてくれる。結論も特に鋭利な部分は少なく、穏当な域にとどまっている。しかし、体裁は小著でありながら、各部分に小さな宝石のような輝きを感じ取ることができる。ほぼ同時代を生きたひとりの偉大な歴史家の生涯を記念するにふさわしい充実した作品だ。

 酷暑の列島、脳細胞もオーバーヒートしそうだ。読む人次第だが、ル=ゴフの遺作は、読後に一時の爽やかさを感じることができるかもしれない。




Jacques LE GOFF, FAUT-IL VRAIMENT DÉCOUPER L'HISTOIRE EN TRANCHES?  Éditions du Seuil, 2014. (
ジャック・ル=ゴフ(菅沼潤訳)『時代区分は本当に必要か?』 藤原書店、2016年)。

 

 

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トルコ・クーデター:どこかで見た風景?

2016年07月17日 | 午後のティールーム

 

 早朝、TVをつけると、トルコのクーデター失敗の映像が飛び込んできた。はるか昔に訪れたことのあるイスタンブールの橋の上に、戦車と投降する兵士の姿が映っていた。説明を聞かなくても、映像だけでクーデターと思ったかもしれない。死者194人(内市民47人)という衝撃的数字を知るまでは、どこかで見たような光景に思えた。déjà vu (既視感)なのだろう。

 映像を見ている間に、ある話を思い出した。ジプシー(今はロマ人と呼ばれることが多い)の間に伝わる「人生占い」である。"Bleigiessen", lead-pouring と呼ばれている。少量の鉛を鉄製のポットに入れ、加熱して溶融させ、それを冷たい水の上に落とす。すると、鉛は突然冷却されて、独特の形態をもって固形化する。その形状を見て、占い師は依頼者など、人の運命、行く末などを占い、告げるという。東洋でも茶葉占いといって、茶湯の中に残った葉の開き具合、形状などで、人生占いなどをする風習もあるようだ。

 性格テストでよく使われることで有名なロールシャッハ検査 Rorschach test のことを思い出される方もおられるだろう。被験者に下掲のようなインクの染みのようにもみえる左右対称な図を見せて、何を想像するか述べてもらい、その表現を分析することで、被験者の思考過程や障害を推定する。1921年にスイスの精神科医ヘルマン・ロールシャッハによって考案されて、今日でもほとんどそのまま使われている。紙の上にインクを落とし、二つ折りにし、左右対称な図として提示される。

 人間は、かつて見たものがイメージとして心の中に蓄積されていると思われている。それがある日、壁に残る汚れ、雲の形状、インクの染みなどを見ると、それが媒介して、かつて見たイメージがよみがえるらしい。美術史家のエルンスト・ゴンブリッジ Ernst Gombrich (1909-2001)が、名著 Art and Illusion (『美術と幻影』、岩崎美術社、1979年)で同様なことを記している。これは個人差があり、そうしたイメージをどれだけ脳内に蓄積しているかで定まるらしい。

  ゴンブリッジのことを考えていると、ふと若いころに読んだゲシュタルト(ゲシタルト)心理学 Gestalt Psychology のことを思い出した。この学派には ユダヤ系の学者が多く、20世紀初頭にドイツで発祥した当時は、ナチスが台頭した時代で、同学派の中心的な学者はほとんどアメリカに亡命した。今日でも英語ではなく、ゲシタルトというドイツ語が使われていることに、その歴史的文脈が感じられる。日本では、ゲシュタルト心理学と通常呼ばれることが多いが、どういうわけか、発祥の地ドイツ(ベルリン、フランクフルトなど)と日本で、大きな発展をとげた。アメリカではあまり大きな流れにはならなかったようだ。しかし、友人の話などを思い起こしてみると、この学派が心理学や関連学問の発展に与えた影響は、一般に考えられている以上に大きいようだ。

 ゲシュタルト学派は、基本的に知覚は単に対象となる物事に由来する個別的な感覚刺激によって形成されるのではなく、個別的刺激には還元できない全体的枠組み、構成によって規定されると考える。たとえば、果物を鉛筆などで描いた絵を見て、点や線の集合ではなく 「リンゴ」と認知するのは、ゲシュタルト(形態)と呼ばれる全体的枠組みとして、描かれた対象を人間が判断するためである。このブログにも登場するカナダ人の親しい友人(ユダヤ系ロシア移民の子孫)が
、これもロシア・リガ生まれのユダヤ人で哲学者、思想家であったアイザイア・バーリン Isaiah Berlin (1909-1997)の研究者であったことも、なにか不思議な因縁を思わせる。この分野は、ユダヤ系の研究者の存在感が大きい。

 それにしても、戦車と兵士が銃を捨て、両手を後ろ手に組んで歩いている映像を見ただけで、ほとんど瞬時にクーデターと直感したのは、脳内でどういう現象が起きた結果なのか、わがことながら正確には分からない。これまでの人生で数は少ないが、トルコ人の友人もできた。皆、穏やかで親切な人たちだった。今回のクーデターで亡くなった多くの人々に哀悼の意を表したい。

 

 



 

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