時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

終わりの始まり: EU難民問題の行方(13)

2016年01月06日 | 終わりの始まり:EU難民問題の行方

ロレーヌ、リュネヴィル城郭地図(17世紀)


劣化する文明の兆候

 2016年の新年は、世界規模での大きな波乱で始まった。中国経済の減速、中東の大国イランとサウジ・アラビアの突如の国交断絶、さらに1月6日には北朝鮮が水爆の実験を実施したと発表。こうした動きを反映して、世界各地の株式市場は年初から株価下落、総崩れとなった。不安に満ちた年明けである。

EUの難民は文字通り「問題」のレベルへと深刻度を深め、昨年はほとんど沈静化への対応を提示できないままに、新年へ持ち越された。難民以外にも、昨年は世界的に多くの問題が生まれた(DER SPIEGEL chronik 2015の巻頭論説は、2015年を回顧し「新しい不安」 Die neue Angstと題して、歴史に特記される年としている)。

シリア難民、そしてこのたびのイラン・サウジアラビアの国交断絶に象徴される問題の根源となった宗教(派)間の争いは、しばしば激烈な様相を見せ、平静化には長い時間を要する。シリア内戦の行方が見えない状況で、今回の中東の両大国の衝突によて、中東情勢はさらに混迷し、新たな火薬庫が生まれるような危機感がある。世界各地で報じられる異常気象などの問題を含めて、21世紀は「危機の時代」というべき特徴が、すでに多方面で露呈している。

この「終わりの始まり」と題するシリーズは、当面EUにおける難民・移民問題を対象としているが、実はかなり広い問題領域を想定している。人類そしてそこに生まれた文明が「進歩」(progress) していると手放しにいえる時代は、すでに過去のものとなった。今世紀に入っても自然科学の一部を別にすれば、さまざまな「文明の劣化」、「歴史の退行現象」ともいうべき事態が多数発生している。難民問題へのEU諸国の対応を見ても、そのことは歴然としている。

現在EUに起きている以上の問題が、突如として日本や周辺諸国に起こる可能性も十分考えられる。しかし、この国の受け取り方には、報道のあり方を含めて、しばしばあたかも「対岸の火事」であるかのように、問題を離れて見ているような、あるさめた感じを受ける。これまで長年、かなり多くの移民・難民の調査、その映像記録などを目にしてきたが、今回のEUにおける難民問題のドキュメンタリーな記録にしても、BBCや他のヨーロッパ諸国の作品は、概して現場に密着した迫真力がある。それに比して、このたびの問題についての日本の報道は、切迫感、臨場感がない。番組自体が他国のメディアの力を借りて、隙間を埋めているようにも見える。ひとたび、こうした事態が日本に起きれば、いかなる問題が生まれ、対応をどうすべきか。真剣に考えるべき問題であると思う。年初でもあり、これまでの記事との重複を覚悟の上で、状況を整理してみよう。

戦争が惹起した難民昨年、2015年にヨーロッパを目指し中東やアフリカ諸国などから移動した移民・難民の数はおよそ100万人、そのなかで地中海をトルコやアフリカからボートなどで渡った数は約972千人、陸路をたどった数は34千人に達したと推定されている。そして特に海上では3,771人が地中海で命を落とした(UNHCR, IOM)。すでに20世紀末くらいから地中海は「移民・難民の海」と化してきた。ILOなどの場で、議論はされたが、実効性のある対応はながらくイタリア、ギリシャなど当事者となった国まかせであり、EUが本格的に関与するようになったのは比較的最近のことである。

問われる政治家の責任
 今回のEUへの難民の大規模な流入は、ある時期からメルケル首相の人道主義的発言で急速に加速化した要素がある。しかし、パリ同時多発テロによって、難民に紛れてテロリストが、入り込む危険が明らかとなった。現在は有効なてが打てぬままに泥沼化し、膠着状態になっている。

EUの主導的な政治家となったドイツのメルケル首相の立場、そして評価も急激に変化した。早い段階で、難民の受け入れに天井はないと明言していたメルケル首相だが、その人道主義的発言は、EU加盟国、そして足下の国内から沸き上がった強い反対に、短時日に取り下げざるをえなくなった。たとえば、チェッコ共和国の首相ボフスラフ・ソボトカは、メルケル首相が寛容な受け入れ方針を掲げたことが、中東、アフリカからヨーロッパへの不法移民・難民に期待感を抱かせ、大移動を誘い、拡大させたと批判した。これまでの経緯を見る限りでは、経験豊かなメルケル首相にしては、事態を楽観視していたとの評価も下せるだろう。

確かに、シリアなどからの難民が到達目標とする国はドイツが圧倒的に多い。推進力を失いつつあるEUをなんとか支えてきたドイツとしては、歴史的背景もあって、際だって突出することなく、しかし実質的にEUを主導し、支えてきた。受け入れを渋る加盟国を説得し、多数の難民・移民を率先受け入れてきた。

人道的観点から独自の寛容さを示してきた加盟国にも限界が見えてきた。これまで国民ひとり当たりの外国人受け入れでは、EUでも突出していたスウエーデン、デンマークも、新年早々1月4日に、移民の流入を抑制するため国境管理の導入に踏み切った。オーレスン・リンクといわれる両国間に横たわるエーレスンド海峡を結ぶ、鉄道道路併用橋と併用海底トンネルの通行を制限することになった。

刻々と変化する状況の下、難民は少しでも可能性があると見られる地を目指す。ドイツまで行けば、しばし祖国の戦火を忘れ、子供の教育を含め、安住することができるのではとの不確かな情報の下に、2000km近い旅をしている。その流れは、ドイツといえども入国管理を厳しくし、受け入れの許容度が不透明となった現在も進行中である

 国境が復活するEU域内
 シリア内戦などで戦場と貸した祖国を離れた難民は、EUの予想をはるかに上回り、しかも受け入れなどの準備などが整わない前に目的とする地へ到達してしまった。政治・経済上も不安定なバルカン・東欧諸国は、突如として押し寄せ、入国を求める難民の流れに対応できず、国境管理を強化し、急造の有刺鉄線、バリケードなどで実質的な国境封鎖に踏み切った。

事態の変化はドイツでも急速に進んだ。絶え間なく押し寄せ、言葉もよく通じない難民に対応することになった地域住民の反対も高まった。移民・難民問題の難しさのひとつは、地域的な偏在であり、住民の負担も平均化しないことにある。(南バヴァリアのヴァッサーシュタインでは、旧臘クリスマス・イヴに、2つの難民を収容したホステルで放火と思われる火災が発生、12人が被災、負傷した 。犯人はたたちに逮捕された。2015年だけでもドイツ国内の難民収容施設へのいやがらせや放火事件は200回を越えた。2015年12月24日 BBC)。

メルケル首相も、自らの与党である中道右派政党CDUの内部からの批判に答えて、12月中旬にはドイツは「はっきり分かるくらい難民を減らす」と言わざるをえなかった。政治家としての現実認識の弱さを突かれ、メルケル首相の国民の評価も急速に低下した。わずか3ヶ月ほどの間での激変である。それでも「政治はタフな仕事」、「難民危機はヨーロッパにとっての’歴史的危機‘」と彼女は感想を語っている。

退行するEUの理念
 ヒト、モノ、カネ、サービスの国境を越えての自由な移動は、EUの掲げてきた共同体としての理想であった。しかし、この国境なきヨーロッパ実現の理想は、難民(移民)、テロリズムを抑止する目的のために、断絶を余儀なくされている。国境管理の強化という形で、かつての国境が復活し、EUの理念は大きく後退しつつある。

近年、ユーロの破綻がEUを破滅させるといわれてきたが、今回の難民・移民問題の方がEUを分裂させ、歴史のスケールを逆行させる危険性をはらむことが明らかになった。EUはシェンゲン協定(EU域内のヒトの移動のフリーゾーン、1974年には域内で国境を越えた人は170万人)、ダブリン協定(難民は最初に到着した国で難民として庇護申請する)の一時的な停止との考えをとっているが、域内各国は自らの国や地域の利益を最重視する方向に移りつつあり、短時日にEUの理想を目指す、以前の状態に戻るとは考えがたい。EUは地域住民や国民の利益擁護を前面に出した国々によって、国境の復活を図り、各国が17世紀の城砦都市のごとく、国境を復活させ、分断化の道を歩む可能性が高い。

EUの基本的理念の柱が大きく揺らぎ、後退することで、苦難を強いられるのは、行き場を失うことになる難民である。国境という壁で遮られる域内諸国で、彼らは戦火が収まらない祖国へ戻る術もなく、域内をさまよい歩くロマ(ジプシー)人のごとき漂泊の民となる。


下記のいずれもNHK BS1で放映
'A long Jourey' (2015, 制作 BBC)

'The Crossing’ (2015, 制作 
Norway)




text copyright(a) Yasuo Kuwahara 2016

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終わりの始まり(12):EU難民問題の行方

2015年12月19日 | 終わりの始まり:EU難民問題の行方

 

  「今年の人」として、Time などの表紙を飾っているアンゲラ・メルケル首相だが、彼女の存在を際立たせた最大の問題、EUの難民受け入れはきわめて難しい局面を迎えている。EUの加盟国の多くが、難民受け入れを拒み、次々と国境審査の強化などで制限的動きを強めてきた。そのなかにあって、ドイツ連邦共和国は、メルケル首相の人道主義的な観点から、寛大な対応を掲げ、受け入れ数に上限を示すことなく、今日までEUの中心国として指導力を発揮してきた。今年2015年にドイツが受け入れた移民、難民は100万人を越えた。これだけでも特記に値する。

激流のごとき現実
 しかし現実の変化はきわめて早い。事実の推移を客観的に見る必要がある。EU加盟の28カ国が分担して、2年間に、計16万人の難民受け入れ枠を設定、それぞれが割り当て枠分を引き受けるとのプランが9月にEUから示された。しかし、12月17日の段階で受け入れ決定数はわずか232人にすぎない。人口比率では移民・難民の受け入れ率が高く、その人道主義が世界で好感をもって迎えられていたスエーデンも、ついにこれ以上の難民受け入れは不可能であることを表明した。

トルコにシリアなどの難民200万人を収容するためのセンター設置案も頓挫している。トルコの政治状況が一挙に不安定化したためである。その原因は、11月トルコ軍によるロシア軍機の撃墜事件であった。両国間の関係は急速に悪化、12月17日、ロシアのプーチン大統領は、政府レヴェルでトルコのエルドアン大統領とは交渉しないと明言、公式の外交交渉は途絶している。領空侵犯問題の真相は不明だが、エルドアン大統領としては、EUとの交渉を有利に展開している矢先、思いがけない事件で、自らの足下を危うくしてしまったと思っているのではないか。

変化に対応出来ないEU諸国
 全般に、現実の変化に対策が著しく立ち後れている。年末迫る12月17-18日にブリュッセルでEU首脳会議が開催されたが、これまで約束した対策を加速して実行することを強調するにとどまった。移民をめぐる危機が深刻化した9月以来、6回にわたり会議を持ちながら、実効ある対応がほとんどなされていないことに現在のEUの抱える欠陥が露呈している。

国際的には多大な賛辞をもって迎えられたメルケル首相だが、パリの同時多発テロに伴う状況の急転に伴い、ドイツ国内でも批判が強まるようになってきた。連立与党内部でも彼女の危機管理の在り方に強い反対がたかまってきた。彼女はラジオ・ステーションARDなどで、将来を危惧する国民の関心をも考慮して、ドイツにやってくる難民の数を大幅に削減する必要に迫られていると発言するまでになった。残念ながら、メルケル首相のグローバルな観点からの勇気ある受け入れは、EUそして連邦共和国の現在の環境ではそのまま受け入れがたいようだ。

 ドイツ連邦共和国の今年の難民受け入れ数は34万人近くになると推定されている。これでも、加盟国中で最大の受け入れ数ではある。しかし、メルケルの人道主義は、ドイツに災厄をもたらすばかりとの批判まで現れた。ドイツが連邦共和国という体制であることも、各州への割り当ての拒否、地域住民の難民・移民反対などの動きが生まれている。

根付かない多文化主義
 ドイツばかりではない。オランダになど移民1500人を収容する受け入れセンターを設置することにも反対が強まり、暗礁に乗り上げている。反対のほとんどは、センターが設置される地域住民の間から生まれている。「多文化主義」の花が開花するのは特別な土壌が要求され、きわめて厳しい現実があることを知らされる。

EU首脳会議で注目されているのは、以前にも記した「欧州国境・沿岸警備隊」の創設であり、加盟国の国境管理に不備がある場合に、当該国の同意がなくともEUが介入し、対外国境の警備・維持に当たるという考えだ。しかし、これも国境管理という当該国の主権に抵触する部分があり、東欧諸国などが異議を唱えている。新年2017年1月から半年間、EUの議長国は輪番制でオランダが務める。その間になんとか実効性あるEU域外管理の仕組みの導入にこぎつけねばというのが、EUならびに主要国の本音だろう。

 さらに事態を混迷させているのが、英国のEU離脱問題だ。すでにその是非を問う国民投票の実施を公約しているキャメロン首相は、英国がEUに残留する条件として4つの改革を提示している。そのひとつが、近年増加しているEU域内からの英国への移民について、入国から4年間は社会保障給付を行わないという厳しい条件である。

英国はユーロに立脚せず、すでにEUから片足を抜いているような立ち位置にある。さらに人の流れの自由化を拒否することになれば、英国抜きのEUの地盤沈下は避けがたい。新年の前半、EUは英国の去就をめぐり、世界の注目を集めることになるだろう。

極東の島国、日本は,世界の難民の流れの圏外にあるかのごとく、傍観者のごとき立場だが、その壁が崩れる日は迫っている。EUの苦難に充ちた経験はその時、反面教師となりうるだろうか。ある時代を画した体制の終わりが始まっていることは確実だが、次の次元の「始まり」に人類は期待を抱けるだろうか。緊張感をもって新しい年を迎えたい。



 

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終わりの始まり(11):EU難民問題の行方

2015年12月12日 | 終わりの始まり:EU難民問題の行方

 

 

Angela Dorothea Merkel, chancellor


  アンゲラ・メルケル首相が雑誌 TIME の「
今年の人」(Time's Person of the Year)に選ばれた。きわめて妥当な選出だろう。女性としては、1986年以来とのことである。The Economist も表紙にとりあげたことは以前に記した。最近は、しっかりとした信念を持って世界をリードする政治家が少なくなった。世界的に政治家の知的資質が顕著に低下している。メルケル首相の10年間は、一見地味ではあるが、きわめて堅実であった。ドイツ連邦共和国の置かれた位置を正しく理解しての政治対応であったといえる。

彼女はしばしば逆流に抗して、自ら正しいと考えた方針を選択してきた。とりわけ、ヨーロッパを揺るがせたギリシャの国家的な負債危機に際しての断固とした決意、そして、EUに大挙押し寄せた難民の激流に対して、人道主義的見地から寛容な受け入れ姿勢を維持したことが評価された。今年に入ってのロシアのプーチン大統領によるウクライナの(密かな)奪取の動きにも、西側の主導者として対峙してきた。EUの盟主となったドイツだが、メルケル首相の果たした役割は大きかった。メルケル首相の政治思想あるいは哲学がいかなる背景の下に形成されてきたか、筆者は一通りのことしか知らない。いずれさまざまな評価が飛び交うことだろう。

政治家の人生は激動する。今年の9月までは順風に支えられていたかに見えた彼女の政治生活だったが、パリの同時多発テロ以降、激しい逆風にさらされている。ドイツの今年の移民・難民受け入れ数は100万人を越えると推定され、国内からも批判の嵐にさらされている。

難民対策に日夜を忘れていたであろう時に、パリの同時多発テロが発生したことは不運ではあったが、その中でもメルケル首相は、EUに残された選択肢を慎重に選んできた。少なくとも政治的には正しい選択をしてきたと考えられる。トルコをEUの東の域外における緩衝地帯として保持することで、今後のEUへの大量難民の流入をひとまず抑止することができそうだ。地政学的にも、トルコはシリアと国境を接し、それも反政府、クルド、IS(イスラミック・ステート)地域と接している。EUがトルコという緩衝地帯を持つことは、この点でもきわめて大きい。EUは、シリア出身者以外は即時退去を求めることになることになる。現代社会では次の瞬間になにが起きるか分からない。緩衝帯があるとないとでは大きな違いを生む。

 
不安定化したトルコ
 パリの同時多発テロ事件ほど大規模にメディアでは報道されなかったが、トルコ軍によるロシア機撃墜事件で、ロシアとトルコの関係は急速に悪化した。プーチン、エルドアン大統領それぞれが、力で相手を威圧するタイプの政治家なので、こうした事態では双方が激突する。ロシアが先に発動したトルコ製品の禁輸、人的交流の停止などの措置は、当分の間続けられるだろう。簡単に取り下げるわけにはゆくまい。ロシア側もそうした対応が自国にもたらす不利益は予期してのことだ。ひとたび発動したからには、対立は短期には解消しない。

トルコはほとんどの国民が、トルコはヨーロッパ人から成り、西側に属すると思っている。その支柱と頼むのは、EUとNATO(北大西洋条約機構)である。トルコはアメリカが主導する有志連合に加わっており、シリアを本拠とするISISを攻撃している。ロシアは内戦が続くシリアの和平を探る協議で、アサド政権存続を主張しており、この事件をロシア側に有利に使いたいと考えている。トルコはシリアについては、反政府勢力を支持し、アサド大統領の即時退任を求めてきた。他方、経済面ではロシアが輸出する天然ガスの約5分の1をトルコが引き受けている。ロシア側は、一時エルドアン大統領の一族がISISから石油を買っていると揺さぶりをかけたが、エルドアン大統領はそうしたことは政治的生命をかけてありえないと応じ、駆け引きは微妙だ。

EU域外・域内国境の破綻・脆弱化 
しかし、ロシア、トルコ共に今後軍事的領域まで踏み込む可能性は低いと思われる。両国が戦火を交えるようなことになると、中東、東欧は破滅的状況となり、世界は収拾がつかない新たな危機に陥る。とはいっても新たな火薬庫の可能性が生まれたことは否定できない。EUの東の最前線は、一段と不安定になった。しかし、EU移民問題で最重点課題である対域外国境線を堅固にするという方向は、かろうじて維持される。EUはこれもで活動していたFRONTEXという沿岸での対移民・難民対策の機関と併せて、2000人の人員を投入し、問題があればどこへでも出動する統一的な沿岸防備機構の設置に動き出すようだ。これも従来、イタリア、ギリシャなど特定の国にかかっていた負荷を軽減し、同一基準で移民・難民に対応するという意義を持つ。


他方、EU域内のシェンゲン協定地域の人的交流の自由を維持することは、しばらく棚上げになってしまった。中・東欧諸国などのエゴイズムと国力不足で、難民受け入れ能力がなく、分断状態となっている。12月15日に開催予定のEUヨーロッパ委員会では、こうした点の再確認も行われるだろう。シェンゲン協定は1985年に調印され、加盟国間の国境という障壁を除去してゆく上で、重要な役割を負ってきた。今回の出来事で、協定は歪曲され、破綻状態にある。EU域内の人の移動の自由を確保するという意味で、早急な復元が求められるが、その道はきわめて多難となった。

EUを構成する中心的国、ドイツ、フランス、イギリス、イタリアなどで移民・難民の受け入れに反対する勢力が急速に伸長してきた。フランスの国民戦線はその象徴的存在だ。こうした国々では、移民・難民への風当たりは一段と強まる。政治的対立も深刻化する。冬を目前にして、国境で閉め出され、行き場のない難民の状況は、今後もさまざまに問題となろう。現在の状況は、たとえてみればEUの外壁は穴だらけで崩れそうであり、ひとたび域内に入り込むと、その国の事情で城門(国境)の開け方に統一性がない。今回の難民への対応でも、ハンガリー、ポーランド、スエーデンなど、いくつかの国が、EUレヴェルでの協議を前に、独自に国境管理や受け入れ対応を変化させている。さらに城内は、利害が錯綜して全体が保守的になっている。かつてのEUの目指した理想は、薄れて感じられなくなっている。

アメリカ大統領選候補の選出過程でのイスラームをめぐるポピュリズム的議論の影響もあって、EUの難民・移民問題はイスラームという宗教にかかわるきわめて複雑で困難な次元へと移行する。これは、さらに一段と対応の難しい問題を提示する。


続く 




 

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終わりの始まり(10):EU難民問題の行方

2015年12月01日 | 終わりの始まり:EU難民問題の行方

 

 

  11月13日金曜日、パリで起きたIS(イスラミック・ステート)による凄惨な同時多発テロ、そしてその実行犯を追いつめて、郊外サン・ドニでおきた惨劇は、射殺された犯人の数を別にすれば、フランス近世の宗教・政治史に残る聖バルテルミーの虐殺(Massacre de la Saint-Barthélemy、1572年8月24日)を思わせる凄まじさだった。サン・ドニでは犯人の立てこもる狭い空間に5000発の銃弾が注ぎ込まれたという。宗教が関わる争いは、しばしば想像を絶するものとなる。

この一連の惨劇に先立って、ヨーロッパに流れ込んだシリアなどからの難民の流れは、急速に行き場所を失いつつあった。国内事情から受け入れができないとする国あるいはEUから割り当てられる難民の受け入れなどに反対して受け入れを拒否する国などが目立ってきた。難民の受け入れ国が急速に少なくなっている過程で、パリの同時多発テロは発生した。その衝撃はすさまじく、また予想もしなかった問題を引き起こした。まず、事実を客観的に見る必要がある。その流れを追ってみたい。その先にEUそして世界が直面するであろう近未来の輪郭が見えてくる。

強まるメルケル首相への圧力
難民とテロリストを同じ次元で考えてはならないことは、いうまでもないことだ。しかし、現実には、過激派組織ISのメンバーなどが難民に紛れて入り込むことを恐れた国々は、次々と難民の受け入れ停止あるいは国境管理を強化するなどの手段で、国境を事実上閉鎖してしまった。

EUの難民受け入れに主導的役割を果たしてきたメルケル首相への風当たりは国内外できわめて厳しくなっている。しかし、テロが起きたからといって、メルケル首相だけにその後の責任を負わせてはならない。EU諸国はこの問題について共同責任があり、加盟国は力を合わせて対応すべきなのだ。加盟国が増えたEUには、エゴイスティックな主張も目立ってきた。

難民受け入れに上限はないとして人道的観点から寛容な姿勢を崩さなかったメルケル首相だが、隣国フランスにおける一連の惨劇には、口に出さずとも大きな衝撃を感じたことだろう。感情を表に出さないことでも知られる首相だが、公的な面でも次第に寡黙になっている。シリアのIS支配地域への空爆要請についても、側面支援に徹し、慎重な対応を維持している。

難民問題については、前回記した通り、トルコのあり方が当面きわめて重要になっている。トルコはEUの東の域外にあり、すでに200万人を越えるシリア、アフガニスタンなどの難民などを受け入れている。この国が政治的にも安定し、EU域外におけるいわば緩衝地帯として、当面シリアなどの難民のEU側への流出抑止の役割をしてくれることを、メルケル首相そしてEUは期待してきた。とりわけドイツはこれまでトルコ移民の最大の受け入れ国として、政治面でも深い関わりを持つ。

トルコは国政選挙も終わり、形の上では与党が過半数を制し、安定を取り戻したかに見えた。しかし、エルドアン大統領にとって予想外の出来事が、トルコを激震地に変え、EUのみならず、その他の世界にとっても難しい国にしてしまった。

東部戦線異状あり
10月24日、トルコ陸軍が、ロシアのスホイ24爆撃機を自国の領空侵犯を理由に撃墜するという事件が起きた。ロシアのプーチン大統領はこれに激怒し、トルコのエルドアン大統領との関係は一挙に険悪なものに変化してしまった。10月にはエジプト発のロシア航空機がISを名乗るものの手で撃墜されたばかりだ。New York Timesなどのメディアが伝えるところでは、ロシア機はシリアのISの制圧のため、シリア国内を飛行中であった。他方、トルコ側によると、ロシア機には領空侵犯の警告を10回したが応じないため撃墜したという。その空域とは距離にしてわずか2マイルほどシリア側に指のように突出した微妙な地域である。撃墜されたロシア機はシリア国内に墜落した。ロシア、トルコが示している当該機の航路は異なっている。 状況からしてロシアとしても当然言い分があろう。真相が明らかにされない段階で、プーチン大統領は、トルコに対する一連の経済措置を発表し、両国間の人と貿易の流れを厳しく制限する動きに出た。(11月28日時点)。ロシアはトルコが明確に撃墜の謝罪をするまで、これらの措置を継続する方針と伝えられる。エルドアン大統領は、この不幸な事件が起きなければよかったのだがと、述べたといわれるが、両者ともに力を誇示したい性格で、譲歩は容易ではない。シリアのアサド政権への考えも一致していない(両者の仲介ができる人といえば、ロシア語が話せ、両国の事情に通じたあの人かもしれない)。

EUの東側最前線は一気に緊張感が強まった。撃墜事件ばかりでなく、トルコは人口の1割近くを占めるといわれる自国のないクルド人との間で、民族間対立が激化し、国内の社会情勢も不安定化している。トルコは長い間、東と西の間にあって安定的な緩衝地帯の役割を果たしてきた。しかし、世俗化してはいるがトルコを含めて中東は、そこに住む人々の思いとは裏腹に荒涼とした風土に変化している。自国の政治体制の弱点を自力回復できない弱みに、外国がつけ込み、覇権争いの場と化している。テロリストも凶暴化する。ISのようなしたたかな過激派組織が空爆で壊滅するとは到底考えがたい。実際、さらなるテロ攻撃が予告されている。

他方、この間、急務となっている難民問題については、トルコは現在国内に滞留している難民、さらにEU諸国に受け入れられずに戻ってくる難民を受け入れる反面、国内に居留するシリアなどの難民のため、30億ユーロ(約3900億円)の財政支援をEUから受けることになった。さらに、トルコが期待するEU加盟計画の交渉再開、自国民のEUへのヴィザなし旅行の迅速化などの成果を得て、EUとの交渉力を回復した面もある。

閉ざされる国境の先に見えるもの
近未来を見通す水晶珠は曇っていて、見えがたい。しかし、あえて目をこらすと、見えてくるものもある。グローバリゼーションとは裏腹に、国境はしたたかに復活し、障壁となっている。テロリズムが雑草のごとく自国内(移民先の国)
生き残るように、国境に象徴される制度もひとたび形成されると、容易には元に戻らない。概観だけを試みれば、次のようだ。

ひとつは20世紀のアメリカのように、一国で世界の覇権を掌中にするような国は無くなっている。アメリカの国力は明らかに劣化しており、次期大統領選の候補者の資質にも露呈している。アメリカ自体がいまだに包括的移民政策が実現しえないでいる。メキシコとの国境はさらに障壁が高まる可能性が高い。

EUは「バルカン化」が強まり、分裂の可能性も高まった。進行途上の加盟国の国境管理の強化は、「シェンゲン協定」を事実上破綻させ、域内での人の移動の自由を目指すEUの理想から逆行している。再びあるべき道に戻るとしても、長い道のりとなろう。そして、その結果はユンケルEU委員長が危惧するように、ユーロの地位低下、消滅につながりかねない。イギリスのように、EU離脱が近づいている国もあり、共同体としてのEUを結びつける靱帯は切れかけている。

世界のその他の地域の状況はさらに厳しいといえよう。アジア、南米、アフリカなどの諸国も、従来の大国との靱帯が脆くなっている点が目立ち、その再編は容易ではない。

数十万の移民・難民が雪空の下を落ち着き場所を求めてさまよう光景は、17世紀のジプシー(ロマ)のキャラヴァンのそれと重なってくる。(10月には20万人を越える
人たちが寒風の中、トルコを経由して海を渡り、EU側のギリシャの島々などに避難し、さらに行き先を求めている)。21世紀は最初に世界史上、「危機の時代」と認識された、17世紀に似た危うさがいたるところに潜む「危機の時代」となりつつある。 



続く 

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終わりの始まり:EU難民問題の行方(9)

2015年11月20日 | 終わりの始まり:EU難民問題の行方

 


短かった夏の盛り
 夏はどうしてこれほどはやく過ぎてしまったのか。できることなら時計の針を止めたい。ドイツのアンゲラ・メルケル首相の心中を推し量る。世界は激流に翻弄されている。主要国の首脳は傍目にも忙しくなっているようだ。前回とりあげたメルケル首相の表情にも疲労の影がうかがえる。
ハノーヴァーでのドイツ・オランダ代表のサッカー親善試合は中止になり、首相が緩やかな時を楽しむ機会も奪われた。中止についての説明が不十分だとの批判も相次いだ。息つく暇を与えない変化である。

首相の座について10年目を迎えるメルケル首相は、先進主要国首脳としては抜群の長さである。しかし、難民問題の激変に、国際政治の舞台での発言も目に見えて少なくなった。国際世論を刺激しないようにとの配慮か、発言を意識的に抑えているかにみえる。難民問題がクローズアップされた9月の段階では、風は首相にとって追い風であった。しかし、いまや激しい逆風にさらされている。

今年の夏、シリアなどの難民への対応が世界的課題となった時、メルケル首相の言動は自信に満ちていた。EUに大挙押し寄せる難民に、人道主義的寛容さをもってドイツが主軸となりEU諸国で分担して受け入れるという強い信念の表明は、世界的にも歓迎されたように見えた。この考えは、戦後のドイツが醸成してきたwillkommenskultur (訪れる人に好意的・歓迎的な風土・文化)として知られてき概念と重なるものもある。今年の9月の段階で、メルケル首相はその旗手として象徴的存在に見えた。どこかロシアのプーチン首相と重なるところがあると批評されたメルケル首相には、東独時代からの冷徹な計算もあったのだろうか。

あのシリア難民の幼い子供が、波打ち際に顔を伏せて溺死していた一枚の写真が、多くの人の感情を揺り動かした。EUの難民政策に人道主義ともいうべき一条の光が射し込んだかに見えた瞬間だった。しかし、夏の日は短かった。

舞台は暗転する
途切れなく続く難民・移民の流れに、国境を閉じる国が相次いだ。これまでドイツと並んで多数の難民、移民を受け入れてきたスエーデンも、これ以上の難民受け入れはできないと表明する。EUが割り当てた移民受け入れ枠を承諾した国は、ほとんどなくなった。
フランスを経由してイギリスを目指す道も閉ざされている。

そして、決定的事件が起きる。11月13日金曜日、パリに無差別な殺戮を行う同時テロが発生した。多くの犠牲者が生まれた。判明したかぎりでは、9.11同時多発テロ以降、流行語となった homegrown terrorism (国内で生まれ育ったテロリズム)であった。首謀者はシリア、ベルギー、フランスなどを、チェックされることなく往復していたらしい。

そして、18日のサンドニでのテロリストとフランス警察との間で、互いに容赦ない殺戮へとつながった。5000発の弾丸が使われたと聞いて、言葉を失う。メディアによると、ISは19日にも、モンマルトルでのテロも計画していたといわれる。フランスは国家非常事態を3ヶ月間に延長した。首謀者も射殺されたテロリストの中に含まれていたと発表されたが、逃亡中の実行犯もいるとされ、緊張度は異様なまでに高まっている。

ロシア航空機の墜落もISの引き起こしたものであることが判明した。ニューヨーク、ワシントンでの新たなテロ活動の可能性も明らかにされた。アメリカも急遽、入国審査の強化に動き出した。オバマ大統領が目指す「包括的移民政策」も、前途が厳しくなっている。日本も標的のひとつであることが報じられている。対岸の火事どころではない。ISが世界を敵にした狂気の集団であることが明らかになった以上、標的とされている国の国民は潜在的恐怖に対する心構えが求められている。

ドイツも変わるが......
フランスのオランド大統領に次いで、当面、最も厳しい立場におかれているのが、メルケル首相であることは改めて言うまでもない。急速に高まったメルケル批判に、ドイツのとりうる選択肢も少なくなった。考え得るのは他のEU諸国あるいは世界の主要国と同様な方向への静かな転換ではないか。それをいかに行うかは、政治家としての評価につながる。逆風が吹き始めた時から、ドイツは実務レヴェルで難民の入国審査を厳しく実施し、大多数は入国を認めない政策に移行している。

難民とテロリズムを重ねることは、いうまでもなく誤りであり、それ自体危険である。しかし、難民の流れにテロリストが身を潜める可能性はかなり高いことも、すでに明らかになっている。EUの各国が国境管理を厳しくするに伴い、行き場を失った難民の鬱積した不満や怒りは、どこに向かうか。シリア難民のおよそ3人に1人は、正規のパスポートを所持しないといわれる。庇護申請者の審査に格段の時間とコストがかかることは避けがたい。

短かったとはいえ、難民受け入れに寛容であったメルケル首相の立場は、他のEU諸国とは異なるものがある。戦後のドイツには移民・難民に開かれた国であることを提示し、実現することをもって、ヨーロッパ、世界での存在意義を確立することを目指してきた。その方向をいかに守り抜くか。注目したい。

「城砦国家」化する世界
不安が支配する不条理な時代がどれだけ続くかは、誰も語ることはできない。しかし、かなり明らかなことは、世界が「城砦の時代」に逆戻りしていることではないか。各国が国境管理をきびしくすることで、国境という城壁は急速に強化され、高くなっている。EU加盟国が「バルカン化」することは避けがたい。ヒトの域内移動は著しく制限されることになる。それがEUの理想にどれだけ反することになるか。一段と見えがたくなった近未来を見通す努力は続けねばならない。ヒトの移動についてみるかぎり、世界は「城砦国家」ともいうべき高い障壁と狭い城門から出入りする17世紀的状況に逆行するかのようだ。

References

REUITERS Nov.15, 2015
US House GOP Refugee Bill

続く 

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終わりの始まり(8):EU難民問題の行方

2015年11月14日 | 終わりの始まり:EU難民問題の行方

 



  ドイツ連邦共和国のアンゲラ・メルケル首相は、今どんな思いでいるのだろうか。EUに押し寄せる難民の状況は、メディアに頼れば目前の光景のように映る。疲れ切って異国の道をただひたすら歩く人々の長い列。ほとんどの人たちは、さしたる持ち物もない。子供を連れている人もいる。母国を離れる時にはあったかもしれないわずかな金銭や貴金属、装身具なども、旅の途上で悪質なトラフィッカーなどに奪い取られていることも多い。そして、終わりの見えない旅の途上で、彼らが頼りとするヨーロッパの国々は、次々と国境を閉ざしている。不確かな情報を頼りに、彼らを受け入れてくれると期待するドイツやスエーデンを目指して歩き続ける。その行く手は急速に暗さを増している。これが21世紀の現実なのだ。このブログがひとつのテーマとしてきた17世紀ヨーロッパの光景が重なって見えてくる。

折しも、11月10日、ドイツ連邦共和国のヘルムート・シュミット元首相が逝去された。同氏を追悼して、フランスのオランド大統領は、シュミット氏を「偉大なる欧州人」と、その功績を称えた。ヨーロッパの文化の深さを感じさせた偉大な政治家であった。

シュミット氏の逝去より少し前に発行されたThe Economist (November 7th-13th 2015)が、アンゲラ・メルケル首相を表紙に掲げ、「かけがえのないヨーロッパ人」 "The indispensable European" と評していることを思い起こした。メルケル首相はいまやヨーロッパの運命を大きく左右する政治家となった。EUの多くの国が、政治、経済などの面で、分裂、不安定化し(「バルカン化」)、ヨーロッパ全体を構想するキャパシティを失っている中で、メルケル首相の率いるドイツのみがその力を保持し、影響力を拡大してきた。

見方によっては「ヨーロッパのドイツ、ドイツのヨーロッパ」となっている。これまでのドイツは、そうした評価がなされることをできるかぎり回避してきた。しかし、このたびの難民問題で、各国は自国の問題で精一杯で、今回のようなEU全域にわたる問題は、メルケル首相の力量とそれを支えているドイツ連邦共和国の基盤に期待する以外になくなっている。

2015年11月13日、金曜日
フランスのオランド大統領も、足下がおぼつかなく、独自の方向を示すことはできない。今はメルケル首相との形だけの二人三脚?で、なんとか体面を保っている。このブログを書いている時に、パリでの同時テロが勃発、フランスは国家非常事態宣言の下で、国境も封鎖されることになった。

このようなテロ活動の根源も、移民問題とどこかでつながっている可能性はある。メディアにはISの犯行との推測も流れているが、今それを確かめることはできない。ただ、フランスがこうした事態を迎え、事態の掌握と対策に手間取る間、EUを支える重責は、一段とメルケル首相の両肩にかかることになった。ドイツ国内でも、難民受け入れについては、反対の動きが急速に高まっている。そのことは、当然メルケル首相にも伝わっていることであり、ドイツ連邦共和国も国境管理を厳しくし、難民の受け入れも9月頃の状況とは様変わりしている。メルケル首相自身、事態がこれほどまで拡大、悪化するとは想定していなかったのではないか。

難民・移民問題は、その原因や結果について、経済学などの力を借りて論理的な推論は出来ても、現実にはきわめて対応が難しい政治課題だ。図らずもこれまでのメルケル首相の政治経歴を思い起こしていた。

メルケル首相の行動からみえてくるもの
2000年4月に彼女がCDU党首に就任する前から、ドイツの友人たちからアンゲラ・メルケル女史のことはかなりつぶさに聞かされ、また関心も抱いてきた。最初の党首就任当時は、大変地味な印象であった。「コールのお嬢さん」 Kohls Mädchen と呼ばれていたことも思い出した(その後は「鉄のお嬢さん」 Eisernes 。Mädchen に変わったようだ)。そのコール元首相とも、一時は対立していた。当時も今もほとんど変わらない簡素なデザインの服装で、きわめて地味な印象を与えてきた。

政治の舞台に登場した当初から、アンゲラ・メルケル首相の言動からは、亡くなったサッチャー首相や、オバマ後の大統領を目指すクリントン女史のような派手さや言動の振幅はあまり感じられない。東ドイツ出身でプロテスタント教会の牧師夫妻の家庭に生まれ、物理学の学位を持つ背景も、その後の行動様式に影響を与えたのだろうか。

政治の世界に登場した頃から今日までの政治活動を見ていると、きわめて強靱な精神の持ち主であることが分かってきた。時には保守系でありながら、驚くほどラディカルなネオリベラルな方針を維持し、ひとたび舵を切ると、かなり頑強にその維持に徹してきた面も感じられる。それでも、党勢不利などの政治的潮目における転換は、きわめて迅速であった。今回の難民問題は、事態を読み違えた感がある。しかし、事態の理解と政策の力点については確かなものであると感じられる。他の加盟国の反対も承知の上で、トルコを政策上の最大拠点に考えている。これはトルコの外交上の立場を強めることになるが、EUにとっても残された数少ない選択だろう。トルコ国内でほとんど充満状態にあるシリアなどからの難民が、トルコから一挙に流出することになれば、EU諸国の混乱はさらに加速することになる。折からG20サミットも、トルコで開催されることになっており、テロ問題も難民問題と併せて議論の俎上にのぼることは間違いなくなった。

難民・移民はそれが「問題」となる前の段階で、対処しなければならない。シリア難民のようにシリアが自らの力では事態を収拾、沈静化することができないほどになってしまうと、国民が難民、移民として国外流出することになり、国際的に問題化する。さらに、現在進行中の事態のように、ISを含めた外国勢力の争奪の場となってしまうと、もはや手遅れとなる。 シリアの内戦が終結し、海外に難民・移民として逃れた国民が母国へ戻ってくるまでには、長い年月を要することになる。

流浪の民と化す難民とEU
今回のパリの同時テロも、テロリストへの厳戒の下で起きたといわれる。国外から入り込むテロリストを未然に防止するため、国境管理は一段と強化されることは間違いない。難民への寛容な対応を説いてきたメルケル首相は、いかなる対応をみせることになるか。国境管理の強化などの対策は抜け目なく手が打たれていることだろう。次第に行き場を失うシリアなどからの難民がいかなることになるか。シリアやエトルリアの戦火が終息する見通しはまだ見えていない。混迷が深まる中で、メルケル首相は文字通りヨーロッパにとって「かけがえのない人」となった。その采配にヨーロッパはさらに依存を深めることになる。


続く

 



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終わりの始まり(7):EU移民問題の行方

2015年11月06日 | 終わりの始まり:EU難民問題の行方


10年一昔



日本人に理解しがたかった乱闘騒ぎ

  ハロウインのなにか虚しい渋谷駅前での大騒ぎに先だって、同じ東京、渋谷(渋谷区神宮前)でほとんど関心を集めることなく終わった、もうひとつの騒動について少し記したい。


先月10月25日の東京、渋谷のトルコ大使館前での大乱闘について、11月1日ようやくその全容が明らかになってきた。メディアが伝えるところによると、当日は4回にわたり、日本に在住するトルコ人とクルド人の間で乱闘があったようだ。彼らが集まったのは、トルコ本国での総選挙にかかわる在外投票が動機だった。集まった者の数はおよそ600人と伝えられているが、その正確な数字はもとより明らかではない。大多数がトルコ人であることは判明している。

在日のトルコ人、クルド人の間にはそれぞれコミュニティができており、かなり以前から同国人の間では投票への参加 を促す勧誘と、ネット上などではトルコ人、クルド人の間で激烈な論戦も行われていたことが明らかにされた。乱闘の現場も一部放映されたが、かなりすさまじい殴り合いだった。警官2人を含む10人近くが負傷するほどの激しいものだった。クルド人ひとりは鼻の骨を折る重症と伝えられている。


双方とも、参加者は小型のバスなどを動員して、大使館にやってきたらしい。警備に当たる警察などには当然事前の情報があったと思われるが、外国人が多くなった東京で、雑踏にまぎれてしまえば、トルコ人とクルド人とを見分けることなどとてもできない。一時はかなり緊迫した激しいい対決状況だったようだ。

トルコ人とクルド人との間にある対立の背景などを知る日本人はきわめて少ない。この突如として起きた乱闘に対してどう対処すべきか、まったくお手上げ、ただ傍観していただけであった。こうした状況は本国トルコでも近年頻発している。今回の選挙後も、クルド人が多い南東部ディヤルバクルでは、選挙結果に抗議するクルド系政党HDP支持者らと警官隊が衝突した。

過半数は事態を悪化させる?
11月2日(日本時間)には、前日11月1日にトルコで行われた総選挙の結果が日本でも報道された。結果は各国のメディアも伝える通りだが、一院制、定数550議席のうち、与党であった公正発展党(AKP)が317議席を獲得し、選挙結果は以前の258議席より59議席増加し、過半数を取り戻した。前回6月の総選挙で、2002年の政権発足時以来初めて過半数を割ったAKPが、窮余の策としてとった選挙だった。ヨーロッパの有力メディアの中には、トルコ国民はAKPには投票するなとあからさまに論じたものもあったほどだ。そのため、今回の選挙結果を想定とは異なったと感じたヨーロッパの人たちは多かったようだ。

他方、クルド系の人民民主主義党は前回の80議席から59議席へ、大幅に議席を失った。世俗派の共和人民党(CHP)は131から134議席とほぼ議席を維持した。残りは極右の民族主義社会行動党(MHP)で79から40議席へと減少した。

この数字だけを見ると、与党が目指した通り、過半数を獲得し、表向きは安定政権の基盤が確立されたかに見える。メディアはトルコの有権者は「自由」より「安定」を選択したと述べている。この場合、「自由」は、議論は活発だが、騒乱の多い、不安な社会情勢を暗示している。しかし、「安定」の象徴として国民が考えた議席数は問題を解決しないようだ。

「少数派」が今後を定める
特に、トルコの将来を左右するのは、少数派をいかに処遇するかにかかっているとみられる。なかでも、人口の約18%を占める少数民族クルド系住民にいかに対するかが死命を制する。現政権のエルドアン大統領は、今夏クルド系の非合法武装組織「クルディスタン労働者党」(PKK)の拠点への空爆を再開し、PKKも報復攻撃を繰り返してきた。2013年から模索されてきた和平交渉も破綻している。今回の選挙前にも、過激テロの爆発事件がメディアでも生々しく報道された。

トルコのダウトオール首相は10月26日、シリアのクルド系軍事組織「人民防衛隊」(YKG)を初めて越境攻撃したことを明らかにした。この意味はきわめて大きい。難民を受け入れる段階から進んで、トルコがシリアへ積極介入したのだ。トルコはYPGをPKKから軍事支援を受けるテロ組織とみなしている。他方、トルコの同盟国である米国は、シリア北部の過激派組織「イスラム国」IS 掃討作戦で、地上部隊の役割をYPGに委ねている。当事者でないと、きわめて判別しがたい難しい問題だ。選挙で失地回復したAKP政権が、国内のクルド系勢力への攻撃を強めるなどの動きに出れば、当然アメリカとの関係は緊張を強め、難しい事態となることは必至だ。

折しも、ロシアの航空機がシナイ半島で爆発、墜落するという事故が発生した。関係筋の中には、これには「イスラム国」ISが関与したとの推測が生まれ、ISの関連組織が犯行声明を出しているともいわれている。フライト・レコーダーは回収されたようだが、破損しているらしい。真相の確認は、かなり難しいと思われる。乗客の大半がロシア人であることもあって、ロシアとISの関係は一段と厳しくなることが推定しうる。今日の段階では、ロシアは慎重な対応を見せている。

トルコはおおかたの日本人が考える以上に、重要な役割を背負った国である。一般にヨーロッパというと、東はギリシャまでと考えられている。ボスポラス海峡を境に、トルコは宗教の点でもイスラムの国であり、文化の点でも東西を分かつ重みのある地域に位置している。そのトルコはEUの安眠問題の渦中で、大きな注目を集めている。

ヨーロッパが直面している難民・移民の大奔流の中で、200万人以上のシリア難民を国内に抱え込んでいるのがトルコであり、その今後のありようは、ヨーロッパの将来を大きく定める。そのトルコはかねてからEU加盟を望んできた。この小さなブログを開店したころ、トルコのEU加盟問題について、記したことがあった。その時、トルコの加盟は早くとも9年先とされていた。すでに10年近い年月が経過した。10年一昔である。分裂、崩壊の危機をはらんで大きな転機にあるヨーロッパ、そして破壊と発展が同時に進む中東イスラム社会の最前線に位置するトルコ。歴史の舞台は大きく転換しようとしている。


References

”Heightening the contradictions” The Economist October 17th 2015

”Sultan at bay" The Economist October 31st

”Voting to the sound of explosinons" The Economist October 31st 2015


続く


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終わりの始まり(6):EU難民問題の行方

2015年10月29日 | 終わりの始まり:EU難民問題の行方


メルケル首相の心境は
 舞台は急速に暗転する。EUにどれだけ難民が押し寄せようと、メルケル首相はドイツが引き受けるといわんばかりの寛容さを見せていた。ノーベル平和賞は彼女に与えるべきだったというコメントがメディアに載った。わすか数週間前のことだ。しかし、今、映像で見る彼女の表情は心なしか暗い。

EUの命運を背負ったような形で、メルケル首相は激務の中をアンカラへ飛んだ。しかし、トルコ側から期待した答えは得られなかったようだ。トルコは、この突如として降って湧いたような難民・移民問題を、これまでトルコ国民のEUへの自由な渡航、そしてトルコのEU加盟を実現するための梃子として、逆手に使った。トルコのEUへの交渉力は、思わぬ事で急速に強まった。トルコは11月1日に国政の再選挙が予定されており、この時期の訪問は、与党を利するのではないかといわれた微妙な時の旅だった(東京渋谷,トルコ大使館前での乱闘騒ぎも関連している)。イスタンブールからベルリンへの帰途は、恐らくメルケル首相にとって飛行時間以上に疲労の重なる旅であったのではないか。(筆者もかつてパリからほとんど同じ航路を往復したことがあるが、空路でもかなり長い旅路なのだ。アメリカ大陸ほどではないが、ヨーロッパの横断もかなり時間を要する)。陸路をシリアなどから徒歩でヨーロッパへ向かう人たちの旅路は、さぞ大変なものだろう。

ヨーロッパのバルカン化
 EUの基盤が揺らいでいることは、今回の難民問題の発生以前から、さまざまに取りざたされてきた。しかし、その原因となるのが難民・移民の急増によると想定した識者は少なかった。EU域内の人の自由な移動は、EU結成当時からの大きな理想であり、シェンゲン協定に代表される対応はそれなりに進捗していた。このたびの難民・移民の奔流を制御することに加盟国が合意できなければ、EUはその基盤において破綻することを意味する。かつての国境という城壁で囲まれた国民国家時代への逆戻りとなる。

すでに、その兆候は現れている。10月16日、ハンガリーはスロベニア国境を閉鎖する動きに出た。ドイツやスカンディナヴィア諸国への旅路の行く手を閉された難民の流れは、 小国スロベニアを経由することを余儀なくされた。小国を席巻するような難民の大集団が対応する間もなく、押し寄せたのだ。スロベニアの首相ミロ・セラールは「今日解決を見いだせなければ、そして今日できることをしなければ、EUの終わりだ」という切迫した思いをブラッセルでの会議の際、中央・東欧諸国の指導者たちに訴えたという。10月17日の後、62,000人を越える難民がスロベニアに入国してきた。すでに前日も14,000人近くがこの国を通過しつつあった。

シリア難民などの主要移動経路。この後、ハンガリーは国境を封鎖している(Source:

BBC)


ヨーロッパにはすでに冬が目前に迫っている。荒廃した祖国を離れ、ほとんどなにも持たずに長い旅路を歩いてきた難民の間には、疲労が重なり、病人などが急増している。シリアからは、最大規模の難民が移動してきた。ロシアの介入で混迷の度を深めたシリアの内戦はすでに5年近くを経過し、国土は荒廃しきっている。アフガニスタン、パキスタンの場合は、同様に内戦に巻き込まれてはいても、難民認定の条件となるまでにはいたっていない。しかし、今後の展開次第で、アフガニスタン、エリトリア、コソボなどから移民・難民が増える可能性はある。


EU委員会は9月25日急遽、オーストリア、ブルガリア、クロアティア、マケドニア、ドイツ、ギリシャ、ハンガリー、ルーマニア、セルビア、そしてスロベニアの首脳をブラッセルに招集し、EUとして共通のアプローチを検討することを求めた。IOM(国際移住機構)によると、今年はすでに68万人を越える移民・難民が中東、アフリカ、アジアからヨーロッパへ押し寄せていた。会議では難民などの一時的な避難収容先として約10万人分の施設をギリシャなどに設置することで合意した。EUの執行機関欧州委員会のユンケル委員長は「すべての参加国が(隣国に負担を押しつけるような)一方的な決定を避けることを約束した」と強調した。しかし、ハンガリー、スロベニア、チェコ、ポーランド、ルーマニアなどは、EUからの難民割り当てに反対あるいは異を唱えている。

「傍観者」?とは
こうした状況で国境閉鎖に踏み切ったハンガリーのヴィクトル・オルバン首相は、勝手な言動で依然からEUの厄介者とされてきたが、国境閉鎖を終えたからには、ハンガリーはこの問題には「傍観者」であり、他国へのアドヴァイスもないとまでいいきったようだ。 確かに人口当たりの庇護申請者の比率でいえば、ハンガリーはドイツ連邦共和国に次ぐ。難民たちは急遽、南バルカン・ルートといわれる経路を選ばざるをえなくなった。当然、その余波を受ける国が出てくる。バルカン半島は小国が多く、入り乱れて複雑な情勢を作っている。国境の壁に行く手を遮られた難民は、少しでも国境が開いている地域へと殺到する。移民・難民問題の研究成果が明らかにした行動様式のひとつだ。

ドイツに隣接するオーストリアなども、国民の反対が強まり、国境管理を強化する方向へ転じた。すでに,スイス、ポーランドなども国民や政党の右傾化による反対で,国境の壁が高まることは必至だ。フランス、イギリスはこれ以上受け入れないことを明言している。とりわけ、イギリスは今後5年間に2万人のシリア難民を受け入れるが,それ以上はいかなる割り当てプランも断ることがはっきりしている。

ドイツ連邦共和国でも、バヴァリア、バーデン・ヴュルテンベルク、ノース・ライン・ウエストファーリアなど、庇護申請者が増えている地域では、住民の反対も高まってきた。さすがの連邦共和国も急遽国境管理を強化することになる。9月25日日曜日から国境管理が復活した。オーストリアとバヴァリアを結ぶ鉄道は、今年およそ45万人の難民・移民を輸送してきたが、ベルリン時間で午後5時で輸送を停止した。EU市民と合法の入国書類を保持する人だけが連邦共和国への入国を認められている。しかし、当然のことながら、これらはあくまで一時的緊急措置であるとされている。

UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)は、EUに対して各国の国境管理が統一されず、バラバラにならないよう要請している。ドイツの方針はその点で、ある程度各国に対するガイドラインの役割を果たすだろう。しかし、現実は中欧・東欧諸国の行動のように、すでに各国の事情でEUとしての統一性を失っている。 

存在感を増したトルコは
 ドイツ連邦共和国だけで、難民の奔流を引き受けることは到底できない。メルケル首相が強調するようにEU加盟国がそれぞれに協力し合って、受け入れる以外にない。それ以上に、EUがその地域共同体としての姿を維持するには、どうしてもシリアに近接する域外国であるトルコに大きな負担を負ってもらうしかない。しかし、トルコ国内にはすでに200万人を越えるシリア難民が庇護申請者として入り込んでいる。レバノンには107万人、ヨルダンには63万人がいる(UNHCRの2015年9月時点推定)。いわば難民の貯水池のような状態で、これらの国々がシリア難民を受け入れている。こうしたダムの堰きが切れたような事態になれば、ヨーロッパは難民で溢れかえる。

なんとかEUの東部戦線の堡塁を強化し、これ以上の難民の流入を防がねばならないというメルケル首相の思いは当然ともいえる。しかし、新たな状況でトルコの地政学的重みは急速に増した。トルコは強気でEUに対するだろう。今後のEUとトルコの政治交渉は目が離せない。トルコに近いバルカン諸国は国力がなく、堡塁の役を果たせない。まもなく成立すると思われるトルコの新政権とEU、とりわけドイツとの政治外交交渉は、ギリシャ問題を横において、EUの命運を定めることになりそうだ。


続く 

 


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終わりの始まり(5):EU難民問題の行方

2015年10月18日 | 終わりの始まり:EU難民問題の行方

 

EU and Turkey
Source, Wilipedia Commos, EU and Turkey, png 


メルケル首相は事態を読み違えたのでは
 1ヶ月という時間が、これほどの違いを生み出すものか。このことをメルケル首相ほど身にしみて感じている人はいないのではないか。9月3日の夜、メルケル首相は、シリアなどからの難民の流入に抵抗し国境封鎖の動きに出たハンガリーを迂回し、オーストリアを経由してドイツに受け入れる決断を下して、その人道的対応はEU諸国ばかりでなく、世界に大きな感銘を与えた。ノーベル平和賞はこの時点では、彼女が最もふさわしいのではないかと思わせた。

難民受け入れには上限はないという使命感に裏付けられたメルケル首相の言葉は、多くの人々の心を打った。他方、ガウク大統領の「どこが上限かはまだ見えていないが、受け入れる人数には限度がある」という言葉は、より政治的なものであった。変化は驚くべきものだった。ドイツに流入した難民は、9月だけで実に20万人を越える数になっていた。8月に行われた今年の受け入れ想定数は45万人から80万人に引き上げられていた。このことはメルケル首相の耳には当然届いていただろう。さらにこの数は150万人近くに達するかもしれないとの推測も報じられた。ミュンヘン市の人口に相当する数である。
 
奔流のごとき難民に苦慮する地域
ドイツなどにやってくる難民の流れはとどまるところがない。隣国オーストリアを通過する難民の数は、1日1000人から1万人になるといわれる。日本人にはなかなか実感が湧かない光景である。さらに法的に認められた難民は、受け入れ国に落ち着いた後、母国から家族を呼び寄せる権利も保証されている。こうした状況でありながら、ドイツは難民受け入れに多くの努力をしてきた。しかし、予想をはるかに上回る増加は、想定外の問題を生み出した。たとえば、難民の集中が著しい大都市では深刻な住宅問題が起きている。廃校になった校舎の利用などが進められてきた。たとえば、ハンブルグ市は難民の住居のために、空室になっているオフイス・ビルを充当することなどで対応してきた。ベルリンやブレーメンなどでも事態は同様のようだ。

しかし、多数の難民が押し寄せた地域では、住民の間に当惑の動きが高まり、ドレスデンなどでは、外国人排斥を掲げる極右運動Pegidaが支持を増やしている。先日の集会には9000人が参加したといわれる。ベルリン市長選での候補のひとりが傷をおう事件が最近あったが、被害者はメルケル首相の難民政策を支持しており、加害者はそれに反対していたと報道されている。

EUにやってくる難民の20%あまりを受け入れているドイツでは、次第に食料、医療、住宅、医療などの費用を誰が負担するのかという問題が、浮上してきた冬が近づき、慣れない異国の環境で健康を損なう難民も増えてきた。医師の治療が必要な人も増えている。地域の医師はこれまでは人道的観点から誠意をもって難民の治療に当たってきたが、増え続ける費用を誰がまかなうのかという問題が深刻化してきた。窮迫してきた状況で支出予算の切り詰めが焦眉の急務となっている。難民に与えられる給付額もこれまでは約月143ユーロ($160)だが、現金給付でなく食料、医療などの切符に切り替えられているようだ。難民による犯罪の増加なども問題となってきた。警察官も増員された。


東部戦線異常あり
予想を大きく上回った難民の増加に、EU側は難民の発生源に近いトルコなどへの対応の重点を移さざるをえなくなっている。EUが加盟国を東へ一途に拡大してきたために、かつては存在した中東地域との間の緩衝地帯が急速に消滅してしまった。その結果、このたびのシリア難民のように、あっという間に難民がEUの中心へ大量流入するという状況が生まれるようになった。

EUは加盟国の数が増大した結果、かなり発展段階の異なる国がEUの中に存在するようになった。すでにハンガリーはセルビアとの国境封鎖を行い、10月に入ると、クロアチアとの国境を閉鎖すると発表した。国境管理をの自由通過を禁止し、事実上の国境封鎖を発表した。ドイツなどを目指す難民はオーストリアを経由するなど、迂回を余儀なくされている。そしてEUは難民発生源のシリアの内戦の早期沈静化、トルコ国内の難民の支援へと対応を変えてきた。とりわけ、EUと中東のいわば緩衝地域差ともいうべきトルコのへの依存度が高まってきた。トルコにEUへの難民流入の抑制の役割を期待する方向へ急速にシフトが見られるようになった。トルコにはすでに200万人を越える難民が滞留している。10月15日のEU首脳会議では、トルコにシリア難民などの流入抑制に協力を依頼するとともに、トルコがEUに求める支援強化に応じる行動計画での合意をアピールした。しかし、トルコもしたたかであり、どうなるかまだわからない。トルコ自体、これ以上難民を収容できるか疑問であり、EUへの難民流出はさらに増えるという観測も有力だ。

EUとトルコの関係もこれまで決して良好ではなかった。トルコのエルドアン大統領の強権政治には賛同しない国も多い。加えて、ウクライナ情勢の変化の過程でトルコがロシアに接近したことで、EUとの関係は冷えている。トルコがEUに望むことは、トルコ国民へのヴィザ発給の迅速化、そしてトルコのEU加盟の早期化だ。ながらく棚ざらし状態だった。

難民問題で大きく変わるEUとトルコの交渉力
EU難民問題の発生を機に事態は急展開した。トルコでシリア難民・移民の流れなんとかを食い止めないとEUは奔流のごときその衝撃をまともに受けることになる。難民問題は対応いかんではEUを分裂させ、崩壊させる力を持っている。加盟国内でも増加する一方の難民に、国民の不安が強まっている。ドイツ国内でも、同様だ。

こうした事態にメルケル首相など、EU首脳部の考えも大転換を迫られつつある。これまでトルコに対して厳しかったEUだが、いまやトルコはEUの命運を定めるほどに地政学的立場を強めた。トルコに対するEUの交渉姿勢は急速に軟化している。

EUの行動計画では、トルコに対し)追加の資金援助、2)EU域内への旅行ビザ免除の早期導入、3)EU加盟交渉の早期再開などを約束する。トルコは1)EUの援助で国内に難民受け入れ施設を新設、2)難民の就労容認、3)国境管理をや不法移民の本国などへの送還の強化などを盛り込だ。

しかし、EU
加盟交渉などについては、直裁な表現ではなく、不透明さが残っている。ドイツとトルコの間の移民問題は長い歴史を持つ。メルケル首相は急遽アンカラに飛び、イスタンブールでエルドワン大統領、ダウトオール首相と会見し、トルコから移民のEUへの流出を抑止するため、国内にある収容施設の拡充などに多額の資金援助を約束するなどの提案をしたようだ。他方、トルコ側はEUのヴィザ発給の迅速化、トルコのEU加盟の見通しの明確化などの懸案を強く求めたようだ。トルコ側は、この機会を国の立場を有利にするために最大限使うだろう。しかし、ドイツ国内には難民対策としての追加の資金供与などは、選挙前のエルドワン大統領を利することになるなどの反対あり、メルケル首相の立場も難しい。

メルケル首相自身10日前は、トルコのEU加盟に反対していた。しかし、いまやトルコはEUの近未来を左右しかねない切り札を手にしている。EU加盟国ばかりでなく、
スイスなどでも移民受け入れへの反対が強まっている。メルケル首相の手腕をもってしても、この難民問題は早期解決の目途はつかないだろう。EUは域外に対する城壁を高くする(国境管理の強化)など、EU設立の理想から大きく後退をよぎなくされることは必至だ。高見の見物のような日本だが、北朝鮮、中国など近隣諸国へのリスク対応を誤れば、手痛い傷を負うことになりかねない。日本の近未来、多数の難民が押し寄せる、あるいは日本人自身が難民化する可能性もなしとはいえない。移民・難民問題への対応は、その国の命運を左右しかねないことに気づく時である。





References

Merkel at her limit, The Economist October 10th 2015

Merkel backs multibillion-euro refugee package for Tuurkeey, October 16th 2015

Merkkell at heer limit,,,The  Ecconoomist,,Octoberr 10th 20155

Beesst  ssereed coold,,  The Econnomist,, Octooberr   10th  22015

BDF heute October 10, 2015 



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終わりの始まり(4):EU難民問題の行方

2015年10月10日 | 終わりの始まり:EU難民問題の行方


 

 EUの移民・難民にかかわる次の記事を書き始めている時に、TVニュースが、10月10日、トルコの首都アンカラの中央駅近くで大きな爆発があり、多数の死傷者が出たことを報じていた。訪日の旅から戻ったばかりのエルドアン大統領は、国内の民族的対立をあおるテロリストの行為であるとして、強く非難した。

不思議な因縁だが、前回の記事で、多くのシリア難民が、トルコからドイツなどへ、苦難の旅を続けていることを書いた。実はトルコは、このEU難民問題において、戦略的ともいうべききわめて重要な意味を持つ。

ヨーロッパを目指す二つの道
 今日、ヨーロッパへやってくる移民・難民のたどる経路は様々だが、大別するとリビアなどアフリカ北部から老朽化した船などに溢れるばかりに乗り込んで、イタリアなどを目指す道と、シリアやアフガニスタンの難民のように、トルコの海岸から船で最も近いギリシャの島に渡り、バルカン半島を抜け、マケドニア、セルビア、ハンガリー、オーストリアなどを経由して、ドイツやイギリスを目指す道がある。

前者の道を経由する移民・難民のボートが転覆したりして、多数の犠牲者を生み、しかもイタリアなどの特定の国に多大な負担をもたらしてきたことは、これまでブログでも何度か記した。これに対して、バルカン半島を経由する道は陸路が多いが、ヨーロッパの中心部にたどり着くまでには、多数の国々を通らなければなく、これも多くの複雑な問題があった。

シリアからドイツへ
 最近この経路をたどってドイツに入国したあるシリア難民の記事を目にした✴1。このシリア人バセルは24歳。ギリシャの海岸から小さな舟でトルコへ入り、バルカン半島を抜けて、オーストリアを経由してドイツに入国し、今は南東部バイエルン地方の静かな町フライウンクの難民施設に落ち着いている。ドイツの大都市の難民施設はすでに満員で、地方の町でもこうした受け入れ施設が必要になっている。難民施設の運営には、専門職員の数が足りなく、ヴォランティアの手助けが欠かせない。

今年8月31日の記者会見で、ドイツのメルケル首相は、同国への難民申請が2015年には、最大で80万人に達するかもしれないと述べた。しかし、その後の変化をみると、実際にはこの数を大幅に上回る模様だ。メルケル首相もかなり衝撃を受けた様子で、EU加盟国が公平に受け入れる必要があると強調し、それができなければ、EU域内の自由な人の移動を認めている「シェンゲン協定」の見直しも必要になると述べている。「シェンゲン協定」の再検討次第では、ひとたび廃止した国境管理が復活することにもなり、EU域内の人の自由な移動を目指したEUの理想が大きく後退することになる。難民の受け入れ能力がないとして国境管理を強めたり、事実上閉鎖するような国が多数出てくれば、EUにとっては事実上の分裂ともいうべき事態になりかねない。その可能性は決して低くない。

EUの死命を制する東部国境フロンティア
 シリア難民などの数がとめどなく増加し、ヨーロッパの中心部へと移動している事態にどう対処するか。最も重要な政策はいうまでもなく、難民の発生する源を断つことにある。しかし、シリアの現実は、ロシアとアメリカの2大国が、国内のアサド政権と反体制派にそれぞれ加担し、あたかも2大国の戦争ゲームのような状況を呈している。ロシア、アメリカ双方がイスラム過激派(IS)の制圧を旗印にしてはいるが、戦況は錯綜して、アメリカの誤爆問題のような悲劇を生んでいる。

イスラム過激派を制圧して、シリア国内に平静を取り戻すことを目指すことは共通していても。ロシアとアメリカの思惑は対立し、国内政治の安定を取り戻すには長い時間を要するとみられる。そうなると、EUにとっては、とめどなくやってくる難民をいかに抑止し、EUを中心に各国が真の難民だけを、平等に受け入れることを考えねばならない。きわめて難しい課題である。たとえば、本来は、難民が最初の到着する国が責任をもって難民申請の処理に対応することになっているが、現実は十分ではないとの不満がドイツなどに広がっている。

あたかも奔流のように流入してくる難民・移民の動きに対応するため、ドイツ、フランス、イギリスは、ヨーロッパにおける難民、移民の最初の到着国になることが多いイタリアとトルコにEU主導による大規模な難民センターを年内に設置するよう求めている。

トルコなどにEUの主導で難民審査センターを設置し、真の難民か、難民にまぎれてEU諸国に入国しようとする者かを短期間に判別し、不法移民は本国送還するというのが、その狙いのようだ。しかし、前回のガウク大統領の感想のように、資金を注ぎ込んで、そうした難民センターなどを設置しても、必ずしもうまく機能しないことも分かってきたようだ。

難民を生み出す根源の地域が、ロシアとアメリカの対立の場と化していて、幸い戦火が途絶えた後でも荒廃した母国へは戻れない、あるいは戻りたくない人たちが急増している。さらに、近年の内戦や紛争はほとんどが民族的問題が介在している。たとえば、今回のテロリストによる爆発事件に先立つ今年7月、トルコでは政府軍がクルド人武装組織に対して大規模な軍事作戦を展開して、各地でテロや衝突事件が頻発していた。

国境が分断した民族
 クルド人問題*2に明らかなように、彼らは第一次世界大戦後に引かれた国境によって、トルコ、シリア、イラク、イラン、アルメニアなどの国に分断された民族であり、トルコや他の居住地政府からの分離独立を目指して長年武力闘争を続けてきた。

多くの日本人にとっては、移民・難民の問題は、関心度がかなり低い部類に入るのではないか。「外国人労働者」という限定されたイメージは、1980年代からかなり浸透したが、日本への定住・永住を前提とした移民・難民の受け入れという問題は、国民的レベルで議論されることはほとんどない。そして、この問題の背景にはしばしば民族・人種問題が存在することも、あまり注目されない。EUの難民問題も記事の量は増えたが、多くは「対岸の火事」に近い受け取り方である。現在進行しているシリア難民あるいはクルド人などへの対応いかんが、ヨーロッパの基盤を大きく揺るがし、歴史の歯車を逆転させるような動きにつながりかねない危険を秘めていることまで考える人は少ない。

難民・移民問題は、わかりやすいようにみえて、実際はきわめて複雑で奥深い。このたびのEUの難民問題を考えているうちに、少し前に読んだことのある一冊の本(概略は下に掲載)のことを思い出した。バルカン半島などの地理的、政治的状況を十分理解していなかったこともあって、地図を傍らに置いて読んだ。イスラム教徒といっても、多くの宗派があり、その差異を理解することはかなり難しい。ましてや、イスラムあるいはキリスト教徒の側から、異なった神を信じる人たちのことを理解するには多大な時間と努力を要することが分かる。ヨーロッパの将来はイスラムとの共存なしには想定できない。

Behzad Yaghmaian, EMBRACING THE INFIDEL, Stories of Muslim Migrants on the Journey West, New York, Delacorte Press, 2004. 『異教徒を抱きしめて:モスリム移民の西欧への旅路」

やや時代をさかのぼるが、イラン系アメリカ人の著者が、イスタンブールからパリ、ロンドン、そしてニューヨークにいたるまで、イスラム移民としての波瀾万丈の旅を綴った希有なドキュメンタリーである。



✴1 "The kindest and the angriest, Germany", Newsweek, 26 September 2015.

✴2
1923年 ローザンヌ条約でクルド人の民族国家構想は否定され、居住地域はトルコ共和国および当時の英仏委任統治下にあったイラク、シリアに分断された。分断された状態では各国ごとの国民統合の過程で少数派になるが、民族そのものはイラクの総人口を上回った規模になる。クルド人問題の根本といえる。

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終わりの始まり(3):EU難民問題の行方

2015年10月04日 | 終わりの始まり:EU難民問題の行方

 


 今回の国連総会は、世界が次第に多くの面で、復元不可能な荒廃する局面へと移行していることを思わせる問題を提起したようだ。国連は持続可能な世界の構想を提示しているが、現実は違った方向に進んで行きそうだ。その象徴的問題は、いうまでもなくシリア難民に代表される難民問題である。国連総会の開催中に事態は急速に深刻化した。

EUなどに脱出したシリア難民はその数およそ400万人ともいわれるが、国内にとどまる難民は800万人に達しているとも推定されている(戦争前の人口は国連によると約2050万人)。世界で難民が生まれる原因はさまざまだが、近年の問題は、大量難民の発生である。原因はシリア、アフガニスタンなどにみられる内戦の激化に端を発する場合が多くなった。国内の対立勢力に事態を抑止、沈静化する能力が欠如してくると、国外の勢力がすかさず入り込む。

崩壊する国家と大国の責任
シリアの場合も、アメリカ、ロシアなどの大国が介入し、覇権を争う修羅場と化した。大変不幸なことは、シリア国民にはもはや自らの力で自国の戦火を鎮圧、復元する力がないことだ。国連はまったく無力に近く、きわめて憂慮すべき事態に陥っている。こうした当事者能力が欠如した状況では、軍事力の強大さが支配してしまうことが多い。

ウクライナに続き、強力な軍事力をもって領土を拡大しようと企てるプーチンのロシアは、過激派組織ISの制圧を理由に、アサド政権を支援し、ISの支配領域を空爆などで叩くと主張。他方、アメリカのオバマ大統領は国内の反政府勢力を支援し、アサド政権とISの双方を叩くことが必要だと主張してきた。地政学的状況から有利な立場に立つプーチンはアメリカを圧倒している。先日の両首脳会談でもロシアのプーチン首相はウクライナ紛争に続き、強弁をもって押し通し、対するオバマ大統領はかつて見せたことのないほどの苦渋の表情であった。シリア、アフガニスタンなどでの大国の戦争介入をめぐって、「プーチンの厚かましさ、オバマのうろたえ」と評する記事もある('Putin dares, Obama dithers'The Economist October 3rd 2015)。

なにより不幸なことは、精確さを究めたと豪語する大国の近代兵器が、絶えず誤爆を引き起こし、多数の市民や支援に当たる医療関係者などが犠牲になることだ。見るに堪えない無残な光景だ。あの世界の涙を誘ったアラン・クルディの幼い遺体がトルコの海岸に流れ着いた写真を見て、多くの人々がこれまでとは違った衝撃を受けた。これをただ傍観しているのは、政治家以前に人間性を問われる。閉ざされていた難民・移民への扉は、わずかながら開かれた。しかし、難民を生みだす発生源では、悲惨な光景が日夜続いている。こうした映像に人々は慣れてしまったのだろうか。

難民問題の「包括的解決条件」とは
近年、あまり例を見ない大量難民の実態について、これまで巧みな外交手腕でEUの難題を抑えこんできたドイツのアンゲラ・メルケル首相も、今回は事態の展開を読み違えたかもしれない。
ドイツは、過去70年間、その過去を償うために多くのことをなしてきた。今回も普通のドイツ人が政治家に代わってシリア難民を歓迎する主導の役割を果している。すでに過去70年間、EUにやってくる難民の40%を受け入れている。今年は約80万人が庇護申請をすると考えられている。9月7日には、難民を受け入れてくれるドイツ人にメルケル首相は感謝の言葉を送っている。しかし、その後急増したドイツへの難民流入はメルケル首相の想定外だった。折しも今年は東西ドイツ統一25周年、首相を含めてドイツ国民の心情は複雑だろう。

こうした中で、メルケル首相は「加盟国間に障壁を張り巡らすことは解決ではない」と述べる一方、「包括的解決の条件はまだ整っていない」とも発言している。彼女のイメージする「包括的解決の条件」とはいかなる状況なのだろうか。

時間との競争
ヨーロッパに難民危機をもたらしているのは、EUの意志決定よりはるかに早く難民が移動してくることだ。トルコから南ドイツまではおよそ10日間で到着するといわれる。メルケル首相はトルコが事態緩和のひとつの拠点とみているようだ。資金をここに投入し、難民の収容施設、雇用機会などを生みだそうと考えているのだろう。しかし、トルコから戻ったばかりのトゥスクEU大統領(Donald Tusk, the president of the European council)は、「資金は大きな問題ではない。事態はわれわれが予想したほどたやすくない」と述べている。

 EUの難民問題は、時間との勝負でもある。加盟国の政治家たちがそれぞれに自己主張を続けている間に、難民・移民は大挙して東から西へと移動している。あふれ出た流浪の民はどこへ向かうか。人道上の寛容さをもって、EU加盟国の信頼をつなぎ止めてきたメルケルのドイツも、このままではいられない。次の手をどこに打つか。残された時間は少ない。




References
”Germany ! Germany ! The Economist 12th 2015

“EU refugee summit in disarray as Tusk warns‘greatest tide yet to come’The Guardian September 24, 2015

 A new spectacle for the masses. The Economist October 3rd 2015

アジアの主要国は総じてEUの難民問題には関心度が低い。ロシアを別にすると、日本、中国、韓国、シンガポールはシリア難民受け入れに積極的発言をしていない。日本のように、資金は出しても、難民は厳しく制限して受け入れないという政策はいつまで続くだろうか。EUのトゥスク大統領の「資金は大きな問題ではない」との言葉の意味を良く考える必要がある。

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終わりの始まり(2):EU難民問題の行方

2015年09月23日 | 終わりの始まり:EU難民問題の行方

 

 

 

  果てしなく続く線路を着の身着のまま歩く人たち、誰かが動けば一瞬にして転覆しそうなボートに救命具もつけずに満載された人たち。まだ幼い子供の姿もある。


世界の人々の目がシリアや北アフリカからの移民の実態に目を奪われて いた時、日本は安全保障法案をめぐる国会の動きに、騒然とした日々を送っていた。日本の政府・与党関係者は、EUのことなど考えていられなかったのだろう。菅義偉官房長官は9月11日午後の記者会見で、難民の受け入れについて「現時点において欧州連合(EU)から要請はない」と明らかにした。その上で「国際社会と連携しながら、わが国ができることはしっかりやっていきたい」との見解を示した[東京 11日 ロイター]*。 恐らく、他の時であっても日本はほぼ同じ見解表示であったに違いない。日本は難民に厳しい国という評価が定着している。

真に評価される国際協力とは、どこから要請がなくとも、こうした事態に自発的に支援の手を延べることではないか。対応の迅速性がその国の評価を定める。ヨーロッパで問題が深刻化するや、アメリカ、オーストラリアなどは、直ちに一定数のシリア難民受け入れを表明した。アメリカは難民受け入れ数を今の約7万人から2017会計年度(16年10月から17年9月)に10万人にまで拡大すると発表した。シリアからは最低1万人は受け入れる準備があるとしている。

 エクソダス(大脱出):その行く先は
このたびのヨーロッパでの難民問題のように、人の移動は実際に発生するときわめて対応が難しい。国際化に伴って、ヒト、モノ、カネの移動が拡大した。ヒトの移動はモノ、カネにはない難しさがある。移動する人自らが意志決定して行動する。そのため、モノ、カネとは異なった思いもかけない動きが生まれる。

 最近のヨーロッパ大陸に起きている難民の移動をEXODUS (旧約聖書「出エジプト記」にあるイスラエル人のエジプト脱出)にたとえる報道もある(The Economist September 12th-18th) 2015。激しい内戦の場と化したシリアに見切りをつけ、祖国を出て行く彼らに安住の地は告げられているのだろうか。

彼らの行く先は
The Economist, cover 


難民・移民問題が「外国人労働者」という形で注目を集めるようになった1980年代以降、日本人の考え方には大きな変化はないが、実態は大きく変化した。外国人労働者はもはや珍しい存在ではなくなった。過去40年近くにわたり、問題を観察してきたが、この分野で日本が世界で主導的あるいは積極的に動いたことはほとんどなかった。むしろ、世界から批判されるような制度を存続させてきた。

ヒト、モノ、カネの自由化の動きで、ヒトの移動が最も難しい問題を秘めている。現在進行している難民問題のように、突如としてEUなどの存立基盤を脅かしかねない動きが起きる。ヨーロッパ諸国のように、長い移民・難民にかかわる歴史を持っている国々でも、対応に苦慮する事態が突如として起きる。幸い,日本は経済成長にほぼ見合った人口増加などがあったことで、深刻な事態を経験することなく、今日までやってこられた。しかし、その基盤がいつまでも安定ではありえないことは、いうまでもない。

想像したくもない光景だが、中国大陸や北朝鮮などに万一政治的・経済的破綻が生じ、多数の難民が流出するような事態が、将来起きないとは誰も保証できない。実際、1949年、中国での共産党との内戦に敗れ、台湾に中華民国中央政府が移転した時、正確な数字は今もって不明のようだが、1945年から1950年前後までにおよそ100―250万人の人々(軍人・軍属、国民党・政府関係者、難民など)が台湾に流入したと推定されている。流入前の当時の台湾の人口は約600万人だった。戦後、中国と台湾が外交上の緊張関係にあった当時、台湾では、こうした事態が発生した場合の対応が真剣に議論されたことがあった。

EUのヒロイン、メルケル首相の今後
EUが難民問題への対応に騒然とし始めた頃、ドイツのメルケル首相は率先して矢継ぎ早に自国への受け入れに動き、フランス、イギリスなどの説得に奔走してきた。EUはシリア、イラクなどからの難民計16万人を、今後2年間で受け入れるよう各国別に割り当てる案を加盟国に示した。これに対して、ポーランド、チェコ、スロヴァキア、バルト3国など中・東欧諸国は、割り当ての義務づけに強く反対した。英国、デンマーク、アイルランドはEUの移民政策の適用除外国になっていた。

ギリシャ問題など山積するEUの難問に果敢に挑戦するメルケル首相には、今回の対応では率先して動き、「人道主義のヒロイン」との讃辞が寄せられていた。ハンガリーから、オーストリアを経由してドイツへ到着する難民満載の列車を、市民が花束や食料を持って出迎える光景は、難民にとっては、やっと「安住の地」へたどり着けたという安堵感を生みだした。大規模な仮設テントと水、食料,衣服などが余るほど準備されていた。

ドイツだけでは解決できない!
ドイツが人道的で寛容な国というイメージは格段に高まった。しかし、ドイツがいくら寛容であっても、受け入れには限度がある。冬が近づけば、仮設テントの生活は続けられず、より恒久的な難民用アパートなどへの収用体制が求められる。難民申請を受理してから、審査には最低でも半年を要するといわれる。ドイツは想定を越えて急増する難民・移民に対応することが不可能になった。

今回はドイツといえども、受け入れにも限度があると感じたのだろう。メルケル首相は事態の急変に、厳しい姿勢に転換、オーストリアとの国境管理を再開すると声明、オーストリア、スロヴァキア、オランダなども独自に国境管理の強化に転換するとした。これらの措置は、加盟国間の自由な人の移動を認めるシェンゲン協定に違反するものではなく、一時的な暫定措置としているが、国境を以前のように自由な域内移動を認める方向で再開する目途はない。

メルケル首相はEU加盟国への協力を求め、EUは9月22日、緊急の内相理事会を開催、シリアなどからの難民のうち、すでに受け入れが決まっている4万人を除く計12万人を加盟国に人口や経済力の基づいて割り当てる案でいちおう合意に達した。

他方、EU内部では難民受け入れに強硬な態度をとる国もあり、たとえば、EUの東側でシリア難民などの最初の入国あるいは経由地になるハンガリーは、事態の急変とともにセルビアとの国境に有刺鉄線を張り巡らし、催涙ガスまで使用して難民の入国を拒んだ。ハンガリー政府は、さらに障壁をルーマニアとの国境にまで設置するとして周辺諸国からも反発を生んでいる。

EUの命運を定める難民・移民政策
難民の数にしておよそ16万人の規模までは、なんとか対応できるかもしれない。しかし、ポーランドのように国内世論が割り当ての受け入れに反対する動きなどがあり、予断を許さない。フランス、ドイツなど受け入れ数が多い国では、地域経済などへの影響もあり、反対が強まるかもしれない。

ITネットワークの発達などで、情報伝達が迅速になったことで、移民、難民など当事者の行動もかなり変化はしている。しかし、ひとたびドイツへ向かうことを決めた難民には、簡単に目的の国を変更する余裕はない。ドイツが当初ほど寛容な難民受け入れが難しくなっているということはすでに伝わっているだろう。しかし、彼らは少しでも入口が開いていると考えるドイツへ向けて歩き、入国を果たし、庇護申請をしようとする。ちなみにEUでは難民は、最初に到着した国で認定手続きを行うことになっている(ダブリン・ルール)。

後戻りするヨーロッパ?
2015年のEUの難民申請数は前年の3倍を越える200万人に達するとみられている。審査を難しくする要因のひとつは、難民と経済的移民の区別が実際上、きわめて困難なことにある。仮に祖国を追われた難民といえども、受け入れたからにはできるかぎり早く自立してもらわねばならない。ハンガリー、ポーランド、スロヴァキア、チェコなどの東欧・中欧諸国は自国民の雇用機会が難民によって奪われると危惧している。実際にはこうした国々は、人口減少が大きく、国内には看護・介護、建設あるいはIT分野で深刻な人手不足が生じている。しかし、仕事の機会についての情報はなかなか正確に当事者に伝わらない。

ヒトの移動の自由化は、モノ、カネの自由化以上にEUの最重要な理念である。しかし、このたびの難民流入で、再び強固な国境で分断されることになれば、EUが理想としてきた構図は事実上崩壊することになる。強靱な思考と迅速な行動で、これまで幾度もの危機を救ってきたメルケル首相だが、いかなる心境なのだろうか。


 

 

 9月15日法務省は今後5年間にわたる難民認定制度の運用方針を含む「第5次出入国管理基本計画」を公表した。紛争避難者の在留を認める内容だが、シリア難民などの受け入れを念頭に置いているわけではない。今後の受け入れ数は未知数のままである。(『朝日新聞』2015年9月15日夕刊。

Reference

"EXODUS"  The Economist September 12th-18tj 2015

 経済開発協力機構(OECD)は9月22日、ヨーロッパでの難民申請は最大で100万件に達するとの見通しを示した。(OECD. Migration Outlook, 2015)

Informateion

9月22日の臨時内相・法相理事会でほぼ内定した12万人の難民分担内訳:
振り分け先が決まった分: 66,000
ドイツ           17,036人
フランス          12,962
スペイン          8,113
ポーランド         5,082

反対した中東欧諸国への割り振り
ルーマニア        2,475
チェコ            1,591
ハンガリー         1,294
スロヴァキア         802 

残る54,000人は1年後に改めて割り当てる

 

★「すべてが終わるまでは、終わりではない」(It ain't over til it's over ヨギ・ベラの言葉と伝えられる。)
アメリカ野球史上に大きな足跡を残した捕手でニューヨーク・ヤンキースなどの監督もつとめたヨギ・ベラ Lawrence Peter "Berra" Lawrence さんが9月22日、90歳で亡くなったことを知った。ご自宅はニュー・ジャージー州モントクレアにあり、ご近所に住んでいた友人の縁で偶然にお会いした。現役を引退し、ヤンキーズの監督に就任された年であったと思う。今のように日本人選手の数は少なく、覚えているのはサンフランシスコ・ジャイアンツで活躍されていた村上雅則投手くらいだった。心からご冥福をお祈りしたい。
 

追記(2015/10/04)
The Economist October 3rd-9th 2015 が上記の言葉をタイトルとして、追悼録を掲載している。、 

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終わりの始まり(1):EU難民問題の行方

2015年09月10日 | 終わりの始まり:EU難民問題の行方

 

ハンガリーの鉄道線路にしがみつき、警官による強制送還を逃れようとする人たち
Source: Financial Times, September 4th 2015





 前回に紹介したマンガ(劇画)として描かれた17世紀の画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの話は、フィクション(虚構)ではあるが、かなりの程度、確認された史実に即している。その一部分だけ種明かしをすると、物語は戦争、悪疫、天災、飢饉などが次々と襲ってきた17世紀「危機の時代」を、画家とその家族がいかに生き延びるかという話が描かれている。画家が生まれ育ったロレーヌは、この時代、30年戦争などの戦場となり、画家を含む住民たちは、そのたびに少しでも安全な場所へと避難を迫られた。マンガにも画家の一家が逃げ惑う光景が出てくる。言い換えると、この時代、ロレーヌの民は君主も含めて、現代の難民のような状況に追い込まれることが稀ではなかった。

実際、ロレーヌ公自身が亡命している。町が軍隊の侵攻で襲われ、略奪、暴行、火災などで脅かされることは、しばしば起きた。それらの光景はこのブログでもたびたび記したジャック・カロの『戦争の惨禍』に描かれている。住民の多くを占める農民などは逃げる場所さえなかった。少しでも安全な地へ避難するには、それなりの資金や伝手が必要だった。今日の移民、難民が多額の金をブローカーにとられながらも、少しでも安全な地へ逃れたいと思うのと同じである。ラ・トゥール一のように、裕福な家族は馬車を雇ったりして、公国の公都ナンシーの隠れ家などへなんとか避難した。しかし、その道は今日と異なり、山道といってよい難路であり、追いはぎ、強盗などが頻繁に出没した。ブログにもその光景を描いた資料(時代小説)を紹介したこともある。この時代のロレーヌの状況は現在のシリアや北アフリカとあまり変わらないともいえる。ラ・トゥールが護身用にピストルを自宅に所有していたことは記録に残っている。画家の自宅に徴税吏が来た時の光景がほうふつとする。

写真の力が訴えるもの
一枚の写真が閉塞した問題状況を切り開く力となることは、これまでの歴史の過程でも時々あった。東や南から押し寄せる難民に門戸を閉ざしていたEU諸国が、大きな衝撃を受けた写真が、メディアで話題になっている。

シリア難民の父親(家族で唯一の生存者)が、溺死して波打ち際に横たわっている光景、そして
幼い息子の遺体を抱いて、トルコの海岸に立ちつくしている写真は多くのメディアのトップに掲げられた。さらに、9月4日のEU諸国の新聞やTVは、ハンガリーの小さな鉄道駅Bicskeで幼児を抱き抱えた妻と夫が鉄道線路に横たわり、それを引き離して送還しようとする警官に抵抗する迫真力を持った写真(上掲)が掲載されたり、TV報道された。


これまで増え続ける難民に、頑なな対応を維持していたEU諸国も衝撃を受けたのだろう。人道的視点から態度を軟化し、難民受け入れ人数を増やす方向に動き出した。EU本部は、今週、難民受け入れ数をわずか2ヶ月の間に4倍に増やすことで各国との協議を始める予定だ。ドイツとフランスはなんとか協調できるようだ。そして、受け入れに抵抗していたイギリスも仕方なく方向を修正する。しかし、受け入れる数はドイツが際立って大きく、他は依然として付き合い程度という感がある。他の東欧諸国は国力もなく、最近までは移民の送り出し国だった。引き受ける態度を示していない。

今年、移民、難民の最前線、ギリシャ諸島からブダペストへの移動者数は、35万人に達した。彼らは生存のために、少しでも可能性の高い地域を求めてさらに移動する。IT技術の発達で、彼らは自分たちがいかなる状況に置かれており、どこへ行けば受け入れられるかを探索している。地中海をブローカーのボロ船で渡ることが危険であることが分かってくると、陸路を選択する難民、移民が増加する。まさに、グローバル・マイグレーションの本格化である。

鍵を握るドイツ
難民・移民の目指す先として、格段に突出しているのは、受け入れに寛容とみられるドイツである。すでに多くの難民がミュンヘンなどドイツ南部へ到着し、市民から歓迎される光景が報道された。 このドイツの寛容さを支えているのが、人道主義的観点から難民受け入れに対応するメルケル首相の指導力だ。そのメルケル首相でさえ、9月5日の週末は「息を呑むようだった」と述べたほどだった。

The Economist 誌(September 5th,-11th, 2015)は「勇敢なメルケル」Merkel the bold と強く賞賛している。すでに彼女の評伝は多数刊行されているが、際立つのはその目立たないが、果敢な決断力だ。ドイツは過去の歴史のこともあり、EUでは突出した経済力を擁しながらも、メルケル首相はできうるかぎり、他国との協調を図り、目立たないように行動しているといわれる。かの「鉄の女サッチャー首相」と比較しても、堅実で地味に、しかし、驚くほど巧みに行動してきた。東ドイツでの忍耐を強いられた日々の経験が生きているのだろうか。首相就任以来の彼女の服装は、もうおなじみのものとなった。 

メルケル首相はシェンゲン協定(パスポート・フリー・ゾーン)諸国も庇護申請者の受け入れをしないと破綻するとしている。しかし、ハンガリーなど、中・東欧には受け入れ反対の国が多い。確かに8月だけでもハンガリーには5万人が流入している。難民は最初に庇護申請をした国に留まるべきだとするダブリンIIIルールは機能しなくなっている。

厳しい試練
過去数年間、ヨーロッパはシリアや北アフリカの問題をほとんど真正面からとらえることを避けてきた。
シリアの破綻はアメリカがイラクに侵入した結果だと考えてきた。リビヤはカダフィを追い出したことで終わったと思っていたかもしれない。

ヨーロッパの主要国は、緊縮財政、不況、そして決して解決できないユーロ危機に頭を悩ませてきた。シリアのアサドの暴政あるいはISの犠牲者である難民についても、周辺的問題としてきた。しかし、いまやその周辺問題がE、Uの基盤、結束を揺るがし、分裂させかねないところにまでなっている。

近年、EU は中心的結束力を失い、空洞化している。唯一安定し、実質的基盤を維持しているドイツは、EUの崩れそうな土台を懸命に支える役割を負わされている。ベルリンは今年80万人近い庇護申請者を事務処理しなければならないかもしれない。フランス、イギリスなどの加盟国が及び腰であったことが、ドイツの負担を大きくした。

さらに、ハンガリーの首相ヴィクター・オルバンが175kmのレーザーワイヤーの壁を国境に張り巡らそうとしていることだ。さらにスロヴァキア政府はイスラムでない難民だけを受け入れ審査の対象にするとしている。旧共産圏の国々が誤った路線をとりつつある。自国がEU加盟を果たせば、後はシャットアウトするというのも、拙速な感じがする。新しい移民・難民システムの再構築の中で、考えてほしい。

元来、同じような発展段階、体制にない国々をEUの傘下に入れることは、いずれ自らの存立を脅かすことは、ほぼ予測されたことだ。難民、移民はいまやEUの域内外から基軸国を目指し押し寄せてくる。しかし、状況をグローバルな視点で見渡すと、EUだけでこの問題を解決することは、ほとんど不可能だ。すでに、オーストリラリアやスエーデン、、そしてアメリカが一定数の受け入れを表明している。厳しい人口減少に直面している日本は、相変わらず沈黙しているだけだ。いくら国際協力を標榜しても、苦難の時に手を差しのべてくれない国には信頼は生まれない。

EUの領域に限っても、加盟国の協調なしには、もはや解決の道はない。必要とされるのは、グローバルな視点に立って、EU全域に適用しうるよく考えられたシステムを再構築することだ。メルケル首相はまた働かねばならないだろう。そのためにも、移行措置となる最初の割り当てだけは、各国は受け入れるべきだろう。時間の浪費は事態の悪化をもたらし、解決を不可能にし、域内諸国の分裂を深めるばかりだ。それ以上に火急の急務は、難民の流れ出るシリアの内戦の停止など、火元の消火活動だ。燃えさかる火災を放置したままで、難民問題の解決は考えられない。




References

Financial Times September 4th 2015
The Wall Street Journal, September 8th 2015 


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