ロレーヌへ戻ったジャック・カロの生活は豊かなものとなり、仕事場を兼ねた小さなタウンハウスをナンシーの中心、カリエール広場に求め、カウントリー・ホームも持つまでになった。もちろん、最初は親との関係修復も意図してか、一室とクロセットしかない小さな家を借りて住むことから始めている。1630年代には名声も高まり、仕事も増えて職業的に完全に独立した。宮廷人になれと圧力をかけていた父親とも、なんとか和解したようだ。しかし、カロ自身は自らが貴族として宮廷人の世界に入ることには、魅力を感じていなかったようだ。
ジャック・カロ
メディチ家コシモII世、トスカーナ大公の肖像
Portrait de Cosmo II
1621
Etching with engraving
205 x 127mm
National Gallery of Art, Washington,
R.L. Baumfield Collection.
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カロの持つ天才的技量を評価し、さまざまな援助を与えてくれたのは、イタリア滞在中の庇護者であったトスカーナ大公であった。大公の死去がなかったならば、カロはずっとフィレンツェで画業生活を続けていたかもしれない。しかし、それがかなわなくなった時、カロは生まれ故郷ロレーヌの地へ戻る決意をした。結果として、ロレーヌ生まれの多くの美術家たちのたどった道ではあった。
パトロンの肖像
トスカーナ大公にはカロは特別の恩恵を感じていたのだろう。大公の生涯の事績を称える銅販画作品にその一端がしのばれる。肖像画作成は宮廷画家の重要な仕事であったが、カロはその一生において、肖像画はほとんど制作していない。それだけに、これは自らの才能を見いだしてくれた大公への思いがこめられた希有な作品といえる。カロがフィレンツエを離れる最後の年に制作されたものと考えられる。
肖像はやや右向きのポーズで、貴人の着用するプレスのきいた襟飾りが目立つ。肩からは飾り帯が斜めにかけられている。肖像には良く考えられた卵形の装飾が描き込まれている。六個の球形が盾の上に描かれたメディチ家の有名な紋章 coat of arms は、その下を飾っている。
頭上に描かれた二つの羽根を広げた鋭い眼光の恐ろしい容貌の鳥のような怪物は、一種のガーゴイル(魔除け)の意味を持っている。これと同様な怪物はカロの別の作品 L'Évantail (The Fan)にも描かれている。これらはイタリア美術に継承されていたマネリズムの跡だろう。肖像の下部に描かれているのはよく知られたメディチ家の紋章である。この作品はこれより以前に制作されたコシモII世の兄、フランセスコの肖像画よりもはるかに立体的で、さまざまな工夫がこめられ、画家のこの君主への思いが伝わってくる。
プリンセスの生活
貴族の男性については、別途記すことにして、「プリンセスと貧民」の一方であるプリンセスは、いかなる扮装をしていたのだろうか。そのいくつかを見てみよう。
ジャック・カロ
二人の上流女性
Deux Dames de condition debut
この作品がいつ制作されたかについては、正確な時は判明しない。おそらくカロがイタリアからナンシーへ戻った直後くらいに制作されたものではないかと考えられる。二人とも、貴族階級に属する婦人だろう。両手を腰に当てるポースは、当時男性の画家に対してとる典型的なポーズであったようだ。独特の三角形の衣装である。他方、後ろ向きの婦人は、衣装の後ろ側がどうなっているかを示しているのだろう。
背景には当時の町の一部とみられる小さな家々と人の姿が描かれている。左側には二人の軍人らしい男性と、教会の通りが描かれている。画家がなにを意図してこうした構成にしたのかは、解明されていない。次の図を含め、画家がなにかを意図して描いた似違いない背景には、さまざまな謎が含まれている。こちらを向いている女性も、現代でも見かけるような顔だちで興味深い。
いずれにせよ、描かれた女性の髪型から足下まで、当時の先端のファッションを描こうとカロは考えたのだろう。V字形のスカートが印象的であり、後ろ向きの女性も恐らく同じような衣装をつけているのだろう。こちらは髪型はさらに華やかで、扇子がほどよいバランスをとっている。
ジャック・カロ
マフ(当時流行した手袋代わりの円筒状の編み物)に
手を入れた女性)
de profi ayant les mains dans son manchon
145 x 92mm
Albert A Feldman Collection
ジャック・カロ
マスクをつけた婦人
La Dame au masuque
Albert A. Feldman Collection
ここに掲げた女性を描いた作品は、男女それぞれ6人づつを描いた”les bourgeois noble” 「ブルジョア貴族」と題された作品集から選んだものである。これらの作品がいつ制作されたものについては、これも正確には明らかではないが、カロがフランスからナンシーへ戻った直後くらいではないかと推定される。というのは、作品に使用された画紙にフランスの透かし watermark が入っており、エッチングの銅版は、ナンシーのロレーヌ歴史博物館に所蔵されているためである。
こうした作品からさまざまなことが推定され、興味深いのだが、細かい詮索は興味のある読者にお任せするとして、『マフに手を入れた女性』は、寒気の厳しいナンシーで、外出した女性がこうした円筒上の手袋のようなもので、寒気を避けていた様子が分かり、興味深い。なお、こうしたマフは、ハンドバッグ代わりにも使われたようだ。カロはなにもコメントを伏していないが、容姿や衣装などから貴族のお嬢様というところだろうか。 下段のマスクを付けた女性は、これも興味深いが、当時のイタリア、フランス、ロレーヌなどでは、身分を知られることを避けるために、外出時などにこうしたマスクを着用することは珍しいことではなかったらしい。『三銃士』の世界には、度々登場する。さしづめ、現代の色の濃いサングラスのようなものだろうか。いかなる背景を持つ女性か、薔薇の花一輪を手にして、多少怪しげなところが興味深い。当時のイタリアやロレーヌでは、仮面劇が盛んであったこともあり、こうした情景はさほど、異例なものではなかったようだ。いずれにせよ、こうした出で立ちの女性たちが4世紀ほど前、歩いていたということは、さまざまな想像をかき立てる。小説が架けそうなほどに、さまざまなことが思い浮かぶ。
続く