時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

画家が見た17世紀ヨーロッパ階層社会(5):ジャック・カロの世界

2013年04月13日 | ジャック・カロの世界

 ロレーヌへ戻ったジャック・カロの生活は豊かなものとなり、仕事場を兼ねた小さなタウンハウスをナンシーの中心、カリエール広場に求め、カウントリー・ホームも持つまでになった。もちろん、最初は親との関係修復も意図してか、一室とクロセットしかない小さな家を借りて住むことから始めている。1630年代には名声も高まり、仕事も増えて職業的に完全に独立した。宮廷人になれと圧力をかけていた父親とも、なんとか和解したようだ。しかし、カロ自身は自らが貴族として宮廷人の世界に入ることには、魅力を感じていなかったようだ。

 


ジャック・カロ
メディチ家コシモII世、トスカーナ大公の肖像

Portrait de Cosmo II
1621
Etching with engraving
205 x 127mm
National Gallery of Art, Washington,
R.L. Baumfield Collection.

拡大は画面をクリック

 カロの持つ天才的技量を評価し、さまざまな援助を与えてくれたのは、イタリア滞在中の庇護者であったトスカーナ大公であった。大公の死去がなかったならば、カロはずっとフィレンツェで画業生活を続けていたかもしれない。しかし、それがかなわなくなった時、カロは生まれ故郷ロレーヌの地へ戻る決意をした。結果として、ロレーヌ生まれの多くの美術家たちのたどった道ではあった。

パトロンの肖像
 トスカーナ大公にはカロは特別の恩恵を感じていたのだろう。大公の生涯の事績を称える銅販画作品にその一端がしのばれる。肖像画作成は宮廷画家の重要な仕事であったが、カロはその一生において、肖像画はほとんど制作していない。それだけに、これは自らの才能を見いだしてくれた大公への思いがこめられた希有な作品といえる。カロがフィレンツエを離れる最後の年に制作されたものと考えられる。

 肖像はやや右向きのポーズで、貴人の着用するプレスのきいた襟飾りが目立つ。肩からは飾り帯が斜めにかけられている。肖像には良く考えられた卵形の装飾が描き込まれている。六個の球形が盾の上に描かれたメディチ家の有名な紋章 coat of arms は、その下を飾っている。

 頭上に描かれた二つの羽根を広げた鋭い眼光の恐ろしい容貌の鳥のような怪物は、一種のガーゴイル(魔除け)の意味を持っている。これと同様な怪物はカロの別の作品 L'Évantail (The Fan)にも描かれている。これらはイタリア美術に継承されていたマネリズムの跡だろう。
肖像の下部に描かれているのはよく知られたメディチ家の紋章である。この作品はこれより以前に制作されたコシモII世の兄、フランセスコの肖像画よりもはるかに立体的で、さまざまな工夫がこめられ、画家のこの君主への思いが伝わってくる。

プリンセスの生活
 貴族の男性については、別途記すことにして、「プリンセスと貧民」の一方であるプリンセスは、いかなる扮装をしていたのだろうか。そのいくつかを見てみよう。

ジャック・カロ
二人の上流女性
Deux Dames de condition debut 

 この作品がいつ制作されたかについては、正確な時は判明しない。おそらくカロがイタリアからナンシーへ戻った直後くらいに制作されたものではないかと考えられる。二人とも、貴族階級に属する婦人だろう。両手を腰に当てるポースは、当時男性の画家に対してとる典型的なポーズであったようだ。独特の三角形の衣装である。他方、後ろ向きの婦人は、衣装の後ろ側がどうなっているかを示しているのだろう。

 背景には当時の町の一部とみられる小さな家々と人の姿が描かれている。左側には二人の軍人らしい男性と、教会の通りが描かれている。画家がなにを意図してこうした構成にしたのかは、解明されていない。次の図を含め、画家がなにかを意図して描いた似違いない背景には、さまざまな謎が含まれている。こちらを向いている女性も、現代でも見かけるような顔だちで興味深い。

 いずれにせよ、描かれた女性の髪型から足下まで、当時の先端のファッションを描こうとカロは考えたのだろう。V字形のスカートが印象的であり、後ろ向きの女性も恐らく同じような衣装をつけているのだろう。こちらは髪型はさらに華やかで、扇子がほどよいバランスをとっている。





ジャック・カロ
マフ(当時流行した手袋代わりの円筒状の編み物)に
手を入れた女性)
de profi ayant les mains dans son manchon
145 x 92mm
Albert A Feldman Collection

 

ジャック・カロ
マスクをつけた婦人
La Dame au masuque
Albert A. Feldman Collection

 ここに掲げた女性を描いた作品は、男女それぞれ6人づつを描いた”les bourgeois noble” 「ブルジョア貴族」と題された作品集から選んだものである。これらの作品がいつ制作されたものについては、これも正確には明らかではないが、カロがフランスからナンシーへ戻った直後くらいではないかと推定される。というのは、作品に使用された画紙にフランスの透かし watermark が入っており、エッチングの銅版は、ナンシーのロレーヌ歴史博物館に所蔵されているためである。

 こうした作品からさまざまなことが推定され、興味深いのだが、細かい詮索は興味のある読者にお任せするとして、『マフに手を入れた女性』は、寒気の厳しいナンシーで、外出した女性がこうした円筒上の手袋のようなもので、寒気を避けていた様子が分かり、興味深い。なお、こうしたマフは、ハンドバッグ代わりにも使われたようだ。カロはなにもコメントを伏していないが、容姿や衣装などから貴族のお嬢様というところだろうか。
 下段のマスクを付けた女性は、これも興味深いが、当時のイタリア、フランス、ロレーヌなどでは、身分を知られることを避けるために、外出時などにこうしたマスクを着用することは珍しいことではなかったらしい。『三銃士』の世界には、度々登場する。さしづめ、現代の色の濃いサングラスのようなものだろうか。いかなる背景を持つ女性か、薔薇の花一輪を手にして、多少怪しげなところが興味深い。当時のイタリアやロレーヌでは、仮面劇が盛んであったこともあり、こうした情景はさほど、異例なものではなかったようだ。いずれにせよ、こうした出で立ちの女性たちが4世紀ほど前、歩いていたということは、さまざまな想像をかき立てる。小説が架けそうなほどに、さまざまなことが思い浮かぶ。

続く

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画家が見た17世紀ヨーロッパ階層社会(4):ジャック・カロの世界

2013年04月08日 | ジャック・カロの世界

 


ジャック・カロ『メディチ家フェルディナントI世の結婚』
Jack Callot. Le Mariage de Ferdinand I de Medici
214x297mm
Saint Louis Art Museum

クリックすると拡大

 17世紀フランス、イタリアなどでは、社会を構成する人々のおよそ4分の3は、農民であった。旧体制のフランスの社会階級は3身分といわれるが、その区分や実態はかなり複雑であった。ピラミッド型の社会階層で、頂点に王、領主などが君臨し、聖職者が最上位を占めた。第2身分は、彼らを支える法服、帯剣貴族だった。第3身分のうちで司法・財務官僚、弁護士、文筆家、金融業者、公証人、商人などがブルジョワジーといわれていた。農民や手工業者はそこに含まれなかった。フランス革命の端緒となった全国3部会でも彼らは除外されていた

 しかも、こうしたピラミッドの底辺部には、文字通り限界的(マージナル)な存在に追いやられた貧民(paupers)が作り出されていた。イタリアからナンシーへ戻ったジャック・カロの作品には、この階層の最上部と最底辺にいた人々が多く登場する。農民と思われる人々の姿はあまり登場しない。カロにとっては、あまりに多い、普通の人々であり、制作の対象として興味を惹かなかったのだろうか。他方、ル・ナン兄弟のように、農民を多く描いた画家もいる。

 この社会構成の構図をもう少し掘り下げてみよう。ピラミッドの頂点にいた貴族 nobility とはいかなる人たちなのか。実はその実態はきわめて複雑多岐にわたっていた。

貴族といわれる人々
 
 
貴族といわれるためには、なにが必要なのか。あまり深く議論されたことはなかったようだ。その中で、ひとつのよく知られた議論として伝えられたのは、1528年、イタリアの文学者バルダサーレ・カスティリオーネという人物が書いた『宮廷人の書』 という作品であった。それによると、次のような要旨のようだ。二人の虚構の人物が登場する。ひとりはルドヴィコ・ダ・カノッサ伯爵、もうひとりはガスパール・パラヴィシーノという領主だ。伯爵は必要要件として生まれの良さ noble birth を主張し、領主の方は出生の問題より徳 virtueの高さを強調する。また、貴族は主君の権力が私人に刻印した力ともいわれてきた。この論争自体は大変興味深いのだが、とてもブログには収まらないので、省略して先を急ぐ。

 以前、ブログにロレーヌの下層貴族の生き方について、記したことがあるが、17世紀頃から貴族の地位は、さまざまな経路で獲得されていた。たとえば、貴族としての出自、貴族との結婚、支配者からの授与・叙任、貴族の権利の買収・取引、さらには名称、家名などに始まって貴族の地位や生活スタイルを模倣し、他から貴族とみられるようにつとめるなど、さまざまな方法があったようだ。

 そして、ひとたび貴族と認められると、法律や財務上の特典、租税公課からの控除、家柄を示す紋章、盾の保持・掲示、武器の携行、狩猟が認められるなど、多くの特権が与えられた。こうした貴族的特権を享受できるかぎり、それを望まなかったり、拒否する人はまずいない。

 このブログで、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールがパン屋の次男から画家を志し、その過程で貴族の娘と結婚し、居住地を変わる際に、ロレーヌ公に書き送った貴族的特権の請願書なども、子細に読むときわめて興味深い。ラ・トゥールがその後の職業生活で、いかなる時にその結果を金科玉条として活用したかもよく知られている。それでは、いかなる要件をクリアすれば、貴族となりえたのだろうか。

 


ジャック・カロ『軍隊の編成』(部分)

Jack Callot. L'Enrolement des troups 
193 x 292 mm
Albert A. Feldmann Collection

 

貴族階級の分化 
 近世初期のヨーロッパ、貴族は当初領地で生きなければならないとされた。言い換えると、荘園manorからの十分の一税 tithe が主たる収入の源だった。しかし、貴族階級の内部にも分化が進んだ。上流貴族と中・下級貴族あるいは法服貴族と帯剣貴族などの差が生まれ、拡大した。地位の継承、タイトルの独占、大規模な土地の保有、着用する衣装、話し方など、さまざまな違いが生まれた。金融や商工業活動で利益を挙げ、土地を保有しない貴族もいた。

 銅版画家となった
ジャック・カロの家系については、以前に記したことがある。 カロの家系は2代続けての貴族層に属していた。貴族を生まれながらに継承してきたわけではないが、ロレーヌ公への奉仕、結婚の縁などで、幸運にも貴族の地位を与えられ、それを懸命に維持していた。

 カロはこうして下級貴族の家に生まれた。祖父のクロードン・カロはナンシーに近い村に生まれ、クロード・フリコートと結婚した。フリコートの家族は同じ村の出身で、ロレーヌ公シャルルVII世(1403-1461) から貴族の称号を授与されていた。クロードン・カロと妻はナンシーに住み、1562年までにロレーヌ公親衛隊の弓術隊の一員になった。そして、その後の軍役の経験と公への奉仕のおかげで、クロード・カロは1584年、ロレーヌ公から貴族に叙任された。そして宮廷に対する長く忠実な奉仕に応えるものとして、武具の紋章 coat of arms を授与された。祖父はカロの家族の社会的地位を大きく上昇させたことになる。その後、生涯を通して、この貴族的栄誉・特権を維持し、家族も繁栄した。さらに、家業としてナンシーで古く続く旅籠屋を経営し、不動産取引でも成功した。

  ジャック・カロの父ジャンはこうした祖父からの地位を継承し、宮廷では王室儀典掛として仕えた。ジャンの長男ジャンIIは、父親の後を継いで、武器・紋章官になっていた。



ジャック・カロ『リヴォルノ港城砦工事を監督する大公』

Jack Callot, Le Grand Duc fait fortifire le port de Livourne
214 x 305 mm
Saint Louis Art Museum

進路をめぐる親子の対立
 
ジャック・カロの父親ジャンとしては、息子が祖父や自分と同じようにロレーヌ公に仕える名誉ある職業や聖職者として司祭などの道を選ぶことを強く期待していたようだ。それに反して、画家の道へ進もうとした息子との間には、かなり対立した時期があったらしい。

 結果として、ジャック・カロは望んでいたイタリアでの修行を終えて、立派な銅版画家として独立、ナンシーへ戻ってきた。父親たちとも妥協が生まれたようだ。

 ジャック・カロがイタリアにいて修行中、23歳の時、トスカニーのメディチ家フェルディナンドI世大公(1549-1609)の生涯と業績を描く重要な仕事を依頼された。大公の息子であったコシモII世がカロの才能に着目し、この大仕事を委嘱したのだった。カロは図版を制作するに3年間を費やし、次の1年間をすべて作品300部の印刷に当てた。

 作品アルバムには、大公とロレーヌのクリスティン妃との結婚という重要な出来事、トルコ軍など外敵との戦いのための軍事的活動、フィレンツェの都市としての整備など、さまざまな情景が描かれている。なかでも、大公とクリスティン妃の結婚式の光景は、大変優雅に描かれている。トスカニーとロレーヌの結びつきを象徴する慶事であり、ロレーヌ出身で、イタリアにいるカロにとっても大きな名誉だったと思われる。

 大公はその治世の間に、港湾都市リヴォルノの城郭強化を大きな仕事とした。全景に大公が椅子に座り、工事の説明を受けている様子が描かれている。目前ではおそらく工事のミニアチュアが準備されており、遠景には石工たちが働いている。

 さらに、大公の軍事的指導力の発揮の場面もある。兵士が軍に登録し、金を支給される場面であり、後方には多数の兵士たちが列をなしている。当時の戦争は、戦時にこうして多くの傭兵を動員する形で行われていた。

 こうした作品を見ると、社会の最上層部、支配者としてのプリンス、プリンセスの世界が垣間見えてくる。同時に銅版画家としてのカロの技量の高さが直接的に伝わってくる。その仕事の精密さをみると、同時代人ガリレオ・ガリレイの拡大鏡の助けなしには、とても達成できないだろうと思う。いうまでもなく、依頼者はその出来映えに十分満足したことだろう。

続く

 

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画家が見た17世紀ヨーロッパ階層社会(3):ジャック・カロの世界

2013年04月06日 | ジャック・カロの世界

ジャック・カロ 『サンティッシマ・アヌンシアータ広場の市場』
Jacques Callot. Le Marché de la place de l'annonciade à Florence
クリックして拡大

 

 

  生まれ故郷のロレーヌへ戻ったジャック・カロの銅版画技術はいちだんと冴えをみせたが、彼が描き出す対象も大きく変化を見せるようになる。とりわけ興味深いのは、カロの目で見たイタリアそしてロレーヌを始めとするヨーロッパ各地の人々の生活状況である。フィレンツェやナンシーの宮廷生活に見る貴族や宮廷人の姿、そしてその対極にいるとも思われるさまざまな人々の日々の生活をつぶさに描いて伝えている。

繁栄の底には

 一枚の象徴的な作品を見てみよう。これは、カロがいまだフィレンツェにいた頃に制作したものと思われる。一人のかなり年老いた男が、眼下に広がる広場の光景を眺めている。背景に広がる見るからに壮大で華麗な宮殿、そして広場の中心の立派な銅像。華やかなフィレンツェ文化の一齣とみるかもしれない。

 しかし、それを眺めている左手の男は、容貌もなんとなくみすぼらしい。身体を支えるのに杖が必要なようだ。そして左手で差し出されている帽子、どうやら日々の生活に困窮し、他人からの施しで生きているようだ。

 そして、彼が見下ろしている広場は、一見多くの人々が集まり、繁栄を象徴しているかにみえる。しかし、よく見ると、なにやら哀れな光景が広がっているようだ。近くには自分の足では歩けなくなった人たちが車輪がついた箱に座り、他人に引っ張ってもらったり、二本の棒で漕ぐようにして移動している。買い物に来た女性から喜捨を受けている。広場を見下ろしている男と同じように、杖をつき、帽子を差し出し、物乞いをしている男もいる。

 左手の方では地面になにか物を置いて、売り買いをしているのだろうか。ジプシーたちの馬車のようなものも見える。銅像の周りには、旅人などが説明を読んだり、聞いたりしているようだ。

 これが、ヨーロッパにその文化と繁栄が伝えられていた17世紀フィレンツェの実態なのだ。統計などほとんど存在しない時代であり、繁栄の陰に押しやられ、貧窮した日々を過ごす人々の数は、計り知れないものだった。

続く

 

追悼
BBC放送が、マーガレット・サッチャー元首相の逝去を報じていた。一つの時代が明らかに終わったことを感じる。あの独特な話し方は、ロンドン・チェアリング・クロス街やサンダーランドでの思い出とともに、忘れがたくどこかに残っている。

 

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画家が見た17世紀ヨーロッパの階層社会(2):ジャック・カロの世界

2013年04月03日 | ジャック・カロの世界

 

 Jacques Callot. L'Homme au ventre tombant et au chapeau tres elevé (下掲図と同じ)

Jacques Callot. Varie Figure Gobbi
c.1622
A set of twenty-one etchings with engraving
References. L.279 and 407-26, M.747-67, Ch. 171-94
Albert A. Feldmann Collection

右上から右、左下から右下へ:

Frontispice(表紙扉)
L'Homme au ventre tombant et au chapeau tres elevé
(大きな帽子を被った太鼓腹の男)
L'Homme nasque aux jambes torses(仮面をつけて足を曲げている男)
Le Joueur de vielle (ハーディ・ガーディ・プレイヤー)


クリックすると拡大

 17世紀、近世初期といわれる時代におけるヨーロッパの社会で、人々がどんな状態におかれていたか、貧富の有様はどうか。その実態を全体として見渡せる人々は少なかった。ジャック・カロのような画家で諸国を旅することができた人は、数少なかった。かりに旅をしても旅行者としてみた諸国の実態を、画家のように多くの人々の目に見える手段で、伝えることができる人はさらに限られていた。

イタリア行きを果たしたカロ
  ロレーヌ生まれのジャック・カロは、念願のイタリア行きを果たし、自ら望んだ地で、活発な制作活動を続けた。とりわけ、1611年、ローマからフィレンツェに移った後は、魚が水を得たように次々と作品を制作した。コシモII世の庇護の下にウフイッイ宮殿内に工房をもらったカロは、新しいアイディアに溢れていた。カロがメディチ宮廷に寄与した貢献は大変大きなものであった。

 カロはエッチングの技法についても、17世紀当時のエッチャーの多く、たとえばレンブラントとは大きく離れていた。線の表現においても、従来よりははるかに多彩化した技法を縦横に駆使することができた。そのエッチング技法はビュラン彫りと判別しがたいほど精緻なものだった。こうした技法は、フィレンツェにおける建築家、舞台芸術家であり、版画家であり、カロの師であったジュリオ・パリージによるところが多いだろう。カロはそこでメディチ家の伝統的宮廷祝祭のさまざまな断面を版画という形で継承したと考えられる。

 しかし、時は移り、1621年、庇護者のコシモII世が死去する。后は工房を維持することを好まず、閉鎖の憂き目にあう。仕事の場を失ったカロは不本意ながら生まれ故郷ナンシーへ戻った。ナンシーで、カロはイタリアで蓄積した能力を大きく開花させた。帰国してまもなく、イタリアで蓄積・構想していた仕事を次々と実現に移した。そのひとつがここに紹介する『ゴビのシリーズ』である。

ゴビのシリーズ:イタリアからロレーヌへの架け橋
 イタリアにいた当時、カロはゴビGobbiと呼ばれる矮小化された奇妙な人々のイメージ(合計21点)を構想し、制作の途上にあった。カロはその仕事をナンシーへ持ち込み、プリントまで完成させた。ひとつひとつを見て行くとなんとも妙な感じである。グロテスクと評された作品もある。エターナル・ファンタジーのアニメ・キャラクターに似たようなイメージでもある。

カロの制作したVarie Figure Gobbi(『ゴビさまざま』のシリーズを見てゆくと、なんとも不思議なイメージが描かれている。Gobbiとはイタリア語で「せむし男」(ノートルダムのセムシ男と同じ)、猫背の男の意味である。さらに小人の意味もある。現代の人にとっては、社会でハンディキャップを負った人々を歪めて描いたような気もするかもしれない。

 しかし、当時のイタリア社会においては、受け取り方はまったく違っていた。現代人にとっては、きわめて異様にみえるこの時代のカロが生み出した人物の群像は、当時はむしろ斬新な試みだった。ここに描かれた奇妙な人物は、必ずしも現実のハンディキャップを負った人を戯画化したのではなく、画家の豊かな想像の結果であった。たとえば描かれている右上の人物は、カロ自身のカリカチュアであり、ポートレートであるとしている。むしろ、現実のみにくさや異様さを戯画化することで、さまざまに社会の片隅に追いやられていた人々への偏見を侮蔑を正常な軌道に戻そうとしたのかもしれない。この時代、医療や生活水準の点から、治療を受けることが出来ず、社会の限界的分野で苛酷、貧窮した生活をしていた人々は数知れなかった。

  ヨーロッパの宮殿には、こうした身体上のハンディキャップを背負った人々が、雇われ、働いていた。あのベラスケスの『ラス・メニーナス』(女官たち)にも、登場していますね。彼(女)らは宮廷内での道化役、子供たちの遊び相手などとして雇われていたようだ。だが、そこには必ずしも、彼らが惨めな、気の毒な人々という意識だけが支配していたわけではない。こうした社会の限界的な人々がかなり多く、宮廷などで異様な役割を負って生きていた人たちも少なくなかったという事情もあったようだ。カロは、現実、仮想の双方において、こうした奇怪で、ファンタジックな人物を描くことで、現実の醜さや悲惨さを多少なりと埋めたいと思ったのかもしれない。描かれた人物や動物、怪物の多くは、まったく架空の存在である。しばしば怪奇な人物や動物が登場してくる。

 いずれにしても、自らを含めて豊かな発想で、ファンタジックなイメージを描き出した。1400枚くらいといわれる膨大な版画、そしてほぼ同じくらいともいわれるスケッチなどの画集を眺めていると、カロという非凡な天才が思い描いた近世ヨーロッパの多様なイメージが浮かんでくる。

 このシリーズはこうしてカロにとっては、イタリアからロレーヌへ帰国した際のひとつの架け橋のような作品となった。このブログでも記したことがあるが、カロが生まれ育ったロレーヌ公国、その中心となっていたナンシーの宮廷生活の大きな特徴は、この国が当時のヨーロッパでも際だった祭典国家であったことにある。歴代ロレーヌ公は、ことあるごとに、さまざまな祭典、祭儀を催し、華やかな行事を実行してきた。そのたびに外国から多数の貴賓、宮廷人などが招かれた。小国の生きる道のひとつでもあった。カロがイタリアから持ち帰った時に奇怪な、ファンタジックなイメージは、こうした行事などの折には、重要な発想源となった。

 こうしたイタリア的なやや奇矯な、ファンタジアが、ロレーヌの厳しい現実に戻った画家カロの作品態度にいかなる変化を迫るか。事実、画家の制作態度は、ロレーヌの現実を前にして、大きく変わってくる。この画家の社会観、世界観がどう変わってくるか。

続く


N.B.
 4月4日のBS1でリチャード3世の遺骨の埋葬場所をめぐるニュースを報じていました。発見されたレスター市と王が生前希望していた(?)とされるヨーク市が、議会まで動員して争っているようです。目的は新たな観光スポットの争奪戦でしょう。死んだ王もなかなか安住の地を見つけられない!

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画家が見た17世紀のヨーロッパ階層社会(1); ジャック・カロの世界

2013年03月30日 | ジャック・カロの世界

ジャック・カロの肖像
Lucas Vorsterman, after sir Anthony van Dyck,
Portrait of Jacques Callot

 

 さまざまなメディアが発達した現代では、世界の貧富の格差、実態などについては、努力次第でかなりのことまで知ることができる。統計のみならず、実態調査を映像で確認することも可能だ。 

 他方、ラ・トゥールやフェルメールが生きた17世紀、ヨーロッパの人々の生活実態、格差はいったいどんな状況であったのだろうか。そして、どのようにイメージされていたのだろうか。写真やTV、インターネットなどがなかった時代でもあり、旅行するのも容易ではなく、同時代の人々がその貧富や階層化の実態を知り、概略を理解することは困難をきわめた。現代人の観点からすれば、今日まで継承されているさまざまな記録遺産(公文書を含むさまざまな文書、絵画、衣食住にかかわる遺産など)の類から、当時を想像するしかない。タイム・マシンがないかぎり、時空を超えて、17世紀のヨーロッパへ飛ぶことはできないからだ。

 この情報伝達のメディアとして、当時から大きな役割を果たしていたのは、画家が精密に描いた作品であった。いわば現代の記録写真に相当する。とりわけ、印刷という技術が使用できる場合には、一枚の作品を多数印刷して、流布させるという方法が大きな影響力を持ちうる。

 17世紀になると、版画、とりわけ銅版画の技術が大きく進歩した。もちろん、一枚の油彩画が見る人に与える影響力という点では、版画は迫力において劣るかもしれない。しかし、一定の情報を多くの人々に伝えるという点では、版画は格別の力を持っている。実際、管理人がとりわけ好んで見てきたジャック・カロの作品は彼の生涯を通して、ヨーロッパ中で評判になり、人気があった。17世紀イタリアおよびフランスの著名な美術評論家フロレンティン・フィリッポ・バルディヌッチとアンドレ・フェリビアンの二人が、カロの画家としての力量を高く評価もしていた。

ラ・トゥールと同時代・同郷
 このブログにもたびたび登場させているジャック・カロJacques Callot(1592-1635)という版画家について、再び考えたい。日本ではあまり知られていないが、欧米諸国では近年再び関心が高まっている。あのジョルジュ・ド・ラ・トゥールと同じロレーヌ出身、生年も一年違い(ラ・トゥールは1年後)である。発見された史料によると、二人が出会った可能性はかなり高い。ラ・トゥールの生地ヴィック・シュル・セイユとナンシーは目と鼻の先の距離である。カロはナンシーとフィレンツェに長らく住んだ。ラ・トゥール、カロ、共にこの時代を知るには欠かすことのできない画家だ。

 カロは、ラ・トゥールが夢見たが、行けなかったかもしれないイタリアに強く憧れ、ナンシーを離れ、ローマやフィレンツェで画業生活も送った。その後、故郷ナンシーへ戻った。バロックの1600年代、ナンシーはエッチングの中心地であった。ジャック・ベランジュ、ジャック・カロ、アブラアム・ボスなどがよく知られている。

 カロの生涯は、43年という決して長いものではなかったが、その間実に1400枚近い銅版画を精力的に制作した。レンブラントやゴヤなどの巨匠も、大きな影響を受けた。カロはヨーロッパの各地を旅し、選んだ題材もきわめて幅広く、宮廷生活、祝祭劇、パレード、そして当時のヨーロッパをかき乱した悲惨な戦争の実態、軍隊や戦闘の状況、さらには社会の底辺に生きるさまざまな貧困者たちの姿など、驚くほど多方面にわたった。描かれた対象の中には、道化師やさまざまな奇怪な装いの人物?も登場する。

 17世紀、ヨーロッパ社会の成員の3分の2近くが農民であった。領主たちや宮廷に出入りする貴族たちと対極に位置していたさまざまな貧民層の姿は、カロに優雅さと憐憫を同時に持たせたのかもしれない。しかし、カロが若いころから父親のように貴族の道を選ばなかったことは、社会の底辺に生きる人々への同情、愛があったように思われる。シリーズ『戦争の悲惨』も、時代のあらゆる場面を描いて残したいというこの画家の思いが感じられる。画家の力をもってしても、いかんともしがたい悲惨、残虐な現実。その実態を克明に描いて、世の中に知らせたいという考えが働いていたのかもしれない。現代社会の最大の病弊のひとつである階級の断絶、限界化 marginalization は、すでにこの時代に歴然と進行していた。その一端はアウトサイダー化した人々の存在という意味ですでにブログに記したこともある。

二つの階級

 ジャック・カロ『二人の女性のプロフィール』
Deux femmes de profil, Caprice, 1617
Etching 57 x 77cm
Saint Louis Art Museum

 

才能溢れた画家
 カロの銅版画家としての優れた技量は、銅版画史上に大きな革新と遺産を残し、ほとんどそのままに今日まで継承されてきている。現代の版画は素材も色彩もさまざまで、油彩、水彩などの技法にひけをとらない。しかし、カロの時代は濃淡のある黒色が中心であった。カロの作品の規模も大小、多岐にわたるが、『ブレダの占領』 The Siege of Breda などは高さも1m以上ある大きな作品である。しかし、克明に彫り込まれ、細部は拡大鏡が必要なほどだ。もしかすると、同時代のイタリア人天文学者ガリレオ・ガリレイが制作したレンズのことを知っていたのかもしれない。

 近年、カロの作品への関心は世界的に高まっている。ラ・トゥールなどと違って、生涯の記録がかなり残っており、これまで不明であった部分もかなり判明してきた。カロの残した膨大な作品群を通して、17世紀ヨーロッパの新たなイメージを作り上げることが可能になってきている。今回は、当時の社会階層を思い浮かべることができる一連の作品を取り上げた最新の企画展『プリンセスと貧民たち』 Princes & Paupers に展示された作品を中心に、17世紀ヨーロッパへの旅を試みてみたい。

  以前にも多少記したが、今回はこのたぐい稀な銅版画家の生い立ちについて、今日判明している最新の資料にも依拠して、その輪郭を追ってみよう。

貴族になりたくなかったカロ
 ナンシーでカロの生まれた家は、ロレーヌ公シャルルIII世の時代に祖父が貴族に列せられ、父は宮廷式部官(紋章官) court herald の職に就いていた。親たちは当然カロを自分たちの地位と生活を最上のものと考え、息子のカロにもその道を強いた。

 ナンシーは祝典、祭儀の盛んな都市であり、カロは父親とともに、1606年ロレーヌ公の息子アンリII世とマルゲリータ・ゴンザーガの結婚式、その2年後のシャルルIII世の盛大な葬儀も見ていたに違いない。こうした途上で、宮廷画家クロード・アンリエに出会い、息子のイズラエルとは生涯の友となった。イズラエルは後年ナンシーでカロの作品の発行者となる。

 他方、カロは頑迷な父親との妥協として、1607年ナンシーの金細工・彫刻師のクロック Demenge Crocqの工房へ4年年期の徒弟入りする。クロックはロレーヌ公の装飾、貨幣のデザインなどを行っていた。そして1608-11年のある年、念願のローマへと旅発った。 

 17世紀最初の10年はローマは芸術の都であり、古代、ルネサンス美術を学ぶ所だった。銅版画技術のエングレーヴィングは当初北方、
とりわけアントワープが印刷業の中心として繁栄していた。続いて、技術の流れはイタリア・ローマへと向かった。エッチング技術は17世紀初め、イタリアで開花した。

 こうした中で、カロは銅版画親方のフィリップ・トマソンの工房へ入った。その後、テンペスタ Antonia Tempesta の工房へ移った。フィレンツェで最新の技法を修得したテンペスタはこの若い絵師に、大きな影響を与えたようだ。テンペスタはバロック・ローマとアントワープの架け橋のような役割を果たしていた。ローマで最初の銅版画師 peinter-graveur といわれるまでになったテンペスタは手広くエッチングの可能性を拡大し、斬新な作品を送り出した。生涯で何千といわれる作品を制作したテンペスタは、ローマにしっかりと根付いた印刷工房を運営していた。

 テンペスタはイズラエル・アンリエとクロード・ドゥルエというふたりの優れた画家を雇っていた。カロはこのテンペスタ工房でエッチングの技法を修得したようだ。その後、1611年、カロはテンペスタと共に働くため、フィレンツェへ移った。メディチ家の保護の下、文化の花が開き、驚くべき数の美術家たちがヨーロッパ中から集まっていた。

  そして、カロの時代も始まる。(続く)

 

 長く書き過ぎました。そろそろ終わりにしなくては(笑)。



Princes and Paupers: The Art of Jacques Callot
The Museum of Fine Arts, Houston
January 31-May 5, 2013

 いうまでもなく、この企画展タイトルは、アメリカが生んだ大作家マーク・トウェインの著名な作品The Prince and the Pauper 『プリンスと乞食』(1881)を思い起こさせる。 

 

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