《戦艦テメレール》の場合も、周到な準備に基づいて描かれた作品だが、現代人にとっては当時の戦艦あるいは海戦のイメージを思い浮かべることは容易ではない。そこでこの作品が生まれた背景について前回に追加して記しておこう。
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N.B.
ネルソン提督のイギリス地中海艦隊の実態
ターナーは三本のマストと三層のデッキのある船を描いているが、いかなる構造なのか細部は分からない。そこで、現在最古の軍艦としてポーツマスに保存されているかつての英国海軍の旗艦Victoryの写真を掲げておこう。ネルソン提督が乗船した旗艦であり、テメレール(戦列艦)はその第2列に配置された。ヴィクトリーを見ると歴然とするが帆船としての3本のマストが目立つ。船体は硬いオーク(ブナ科)材で作られ3層から成っていた。
戦時の乗組員は合計でおよそ750人で、同規模の商船よりはるかに多い。船内の生活条件は厳しく、寝床はベッドではなくハンモックだった。支給された食物も新鮮ではなかった。監獄にいるような状況だった。報酬は契約期間が終了する時に賃金が支払われた。そのため、不満が鬱積し反乱がしばしば発生したが、決まって残酷な対応を受けた。
テメレールの場合、反乱は1801年12月アイルランド沖で起きた。この船はイングランドを離れ、すでに9年近くが経過していた。船員たちは故郷へ帰りたがったが、海軍本部は無情にも西インド諸島への航海を命じた。耐えきれなくなった船員の間で反乱が起きた。14人のリーダーが捕らえられ絞首刑に処せられた。反乱参加者は国王陛下の艦船で騒乱を起こしたとのかどで船員から永久追放となった。
「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」
海戦に際して、ネルソン提督が戦艦ヴィクトリー艦上に掲げた信号旗
トラファルガーの海戦は、1805年英国艦隊がスペイン・フランスの連合艦隊を破り、ナポレオンのイギリス侵攻の意図をくじいたことで知られている。1805年10月26日はイギリス艦隊にとって海戦史上に残る栄光の日となった。ネルソン提督 (Horatio Nelson, 1958-1805)は、旗艦Victoryに乗船、26隻の船舶でスペイン南西海岸、大西洋に面するジブラルタル岬の沖合でスペイン・フランス艦隊に大勝した。当時の海戦は遠く離れて砲火を浴びせる形ばかりではなく、しばしば相手に接近し、銃砲火を相手に浴びせたり、相手艦船に乗り移り戦うという形も多かった。戦いは「ネルソン・タッチ」として知られる接近戦で、スペイン・フランス連合艦隊の半分以上を撃沈・拿捕、イギリス艦隊は喪失艦なしという見事な勝利だった。ネルソン提督は過去の海戦で右目、右足を失っていたが、この戦いで被弾し、イギリスの勝利を見届けて息を引き取った。最後に残した言葉は「神に感謝する。わたしは義務を果たした」だったと伝えられている。戦艦ヴィクトリーはその後保存の道が開かれたが、海戦に参加した他の艦船はテレメールを含めて相次いで後方での再活用、解体、廃船への道をたどった。悲しいことに、解体して価値のあったのはオーク材と銅の継ぎ手くらいだったと伝えられている。
蒸気が櫂(かい)に取って代わる:エネルギー革命
この戦いのひとつの特徴はそれまでの帆船・櫂主体の艦船から蒸気船へと移行する転機であった。テメレールが解体されスクラップになった年は、ブリストルからニューヨークへの汽船が初めて就航した年であった。
このことはエネルギーの主力が風や人力から次の主力の石炭へと移行したことを意味している。ターナーの作品で真っ黒な煙突から煙を上げて、帆船の戦艦を牽引するタグボートは、産業革命のシンボルといえる。タグボートの黒い煙突は、このブログで取り上げてきたL.S.ラウリーの作品に描かれた大煙突とも重なる。タグボートの煙突から立ち上る黒煙は、プロレタリアートの台頭を暗示するかにみえる。背後に見える美しい船体と重なり、進歩がもたらす悲劇を象徴するかのようだ。新しいものが容赦なく古さに取って代わった時代である。
J. M. William Turner (1775-1851) The Fighting Temeraire tugged to her Last Berth to be broken up, oil on canvas,91x122cm,1838,1839, National Gallery, London
イギリスを代表する国民的画家ターナーについて記しだすと、とめどなくなりそうだ。それだけこの画家は多彩な画風の持ち主であり、若くして名声を手中にしていたが、美を追求するに絶えず研鑽、努力を惜しまなかった。天賦の才に恵まれたとはいえ、この画家の作品制作に当たっての準備と努力の傾注は並々ならぬものがあったようだ。
前回記した《平和ー海での水葬》にしても、ターナーが若い頃に「風景画」の理想として深く傾倒していたフランス出身の画家クロード・ロランやオランダ画家のことが思い浮かぶ*。当時の画壇におけるジャンルとして「風景画」は「歴史画」よりも低い評価ではあったが、ターナーは意に介さず綿密な検討と思索の上に制作に当たった。《平和ー海での水葬》を見ていると、直ちに思い浮かぶ作品がある。この作品、1838年に制作され、1839年アカデミーに展示されるや、たちまちイギリスの”最重要な絵画”との評価に輝き、2005年に行われたBBCの一般国民投票でも最上位にランクされた。
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N.B.
この画家の「海景画」と呼ばれるジャンルでの研鑽が思い浮かぶ。ターナーはヤーコブ・ファン・ライスデールやアルベルト・カイブなどのオランダの風景画家、サルヴァトール・ローザ、ズッカレッリ、カナレットなどのイタリアの風景画家も、深く研究している。特にオランダ画家については、ロイヤル・アカデミー初代院長レノルズの考えに従ったといわれている。
風景画を得意としたターナーは、精力的に大家の作品を研究していたが、17世紀にローマで活動していたフランス出身の画家クロード・ロランに深く傾倒した。クロードは自分の生まれたフランスよりもイギリスにおいて大きな影響力を持っていた。クロードの風景画はイギリスにおいて熱狂的な支持者を獲得していた。
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この作品、20年近く続いたナポレオン戦争で活躍したイギリスの戦艦テメレール号がその任務を終えて、解体のため最後の停泊地へ向けてタグボートで曳航されてゆく光景をテムズ川の日没を背景に描いたものである。テメレールは、ネルソン提督の旗艦ヴィクトリーの戦列で2番艦として位置づけられ、大きな戦果を上げた。1836年まで戦線後方で使用されていたが、解体のため1838年に売却され、解体ドックへ向かう途上だった。
イギリス国民が誇りとしてきた栄光の象徴的存在がその役割を果たし、力尽き、最後を迎えつつあるという場面が描かれている。この作品に接した人々はイギリス帝国が築いた栄光にかつての日々を偲びつつ、今その時代が終わりつつあることを深く感じたことだろう。
海洋国家の誇り
イギリス国民にとって海軍の存在は特別な意味を持っている。イギリスは産業革命の発祥の地であり、その繁栄を背景に世界と貿易や人の交流でつながっているという思いがこの国を支えてきた。海洋国家として輝いた時代である。その活動を支えていたのが、英国海軍だった。
筆者がかつて過ごしたケンブリッジでの隣家は、退役した海軍の将校夫妻が住んでいた。大変親切で色々お世話になったが、家屋、庭、自動車の整備など、購入したならばその後のメンテナンス、修理はほとんど自分で行うことなど、日頃の努力とそれを支える強い自立心に感銘した。10年以上が過ぎた自動車のエンジンも、ほとんど新品のように見えた。海軍の規律のようなものが、日々の生活を支えているようだった。
ターナーがこの作品を制作した当時は、画家は64歳、画業の真髄を達成し、円熟の域に達した感があった最高の時期だった。描かれる対象となった戦艦は、トラファルガー沖での海戦での英雄的な働きで国民によく知られた存在だった。ターナーは、廃船になる前、自ら最終解体地も訪れている。さらに作業場をテムズ川のほとりに設け、川や行き交う船の有様を観察していたようだ。
この時にいたる過程を簡単に見てみよう*。1805年、ネルソン提督率いるイギリス艦隊は、フランス・スペイン連合艦隊をトラファルガー沖に撃滅したが、提督みずからも戦死した。大英帝国の栄誉とその終幕ともいうべき出来事だった。
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N.B.
この戦艦テメレールには歴史があり、元来フランスの軍艦名Charles le l’emeraire だったが、1759年ラゴスの海戦でイギリス海軍によって捕獲された。イギリス海軍は大規模な補修を行い、1798年 HMS Teneraire (ネプチューン級戦列艦)として進水式が行われた。船体の長さはおよそ185 ft(約56m), キールから上甲板までは51ft(約16m)あり、3本マストで帆走、大小98の砲身を装備していた。
1805 年10月21日、「テメレール」は26隻の艦船とともにネルソン提督率いる艦隊の旗艦Victoryに続く戦艦として栄光の日を迎えた。ナショナル・ヒロインとして祝賀を受けた。その後トラファルガー沖での海戦でスペイン・フランス連合艦隊を破り、ナポレオンのイギリス侵攻を防いだ。記録によると、戦闘は4時間半に及び、「テメレール」も47人の船員の命を失い、76人が負傷した。この海戦で提督ネルソンも戦死した。船体の損傷も甚だしく航行不能となった。
作品の制作と解釈
この作品の構図は極めて異例だ。最も重要な主役である古い戦艦は画面の左側に寄せられて描かれている。青い空と立ち上る霧に隠れている。3本マストの軍艦の船体は、煙突から高く黒煙を吹き上げる汚れたタグボートの背後に隠れるように描かれている。よく見ると壮麗な船容だが、別の世界に存在するかのようだ。さらに後方には任務を終え同様の運命をたどる船が続いている。
戦艦とは反対の右側にはまさに沈もうとしている夕日が描かれている。大英帝国海軍の歴史の一幕を見るようだ。画面全体に見事な光の描写が見られ、詩的でファンタジックなイメージである。
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N.B.
画家はこの作品を制作するに際して、かなりの下準備を行ったことが判明している。
ターナーがこの戦艦が曳航されるのを見たのは、1838年9月5日正午頃といわれている。画家はわざわざ Rotherhitheの解体工事現場まで足を運び、さらにスケッチなどをしたようだ。油彩の画面は画家が最初に目撃した時の天候とは異なるようだ。画家は最もふさわしい状況を描いたのだろう。また、実際にはテメレールは2隻のタグボートで曳行されたようだが、画家は1隻にしている。画家は事実を踏まえた上で、美術作品としての観点からさまざまな創意工夫をこらしている。
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この作品に限ったことではないが、ターナーはしばしば作品のタイトルにこだわり、長い画題を好む傾向があったといわれる。アカデミー展図録にはトマス・キャンベル(1777~1844)の詩をベースに「戦いにも、吹く風にも立ち向かってきた旗も/もはやその姿をとどめず」の説明を付けた。作品に接した人々はその意味を理解し、作品を併せて鑑賞した。当時の知的観客の美術の楽しみ方だった。
Egerton Hudy, Turner, Fighting Temeraire, London, 1995
Tate Accepted by the nation as part of the Turner Bequest 1856
exhibited 1842
J.M.W. ターナー 《平和ー海での水葬》
「あの松を見給え、幹が真直で、上が傘のように開いてターナーの画にありそうだね」と赤シャツが野田にいうと、野田は「全くターナーですね。どうもあの曲り具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ」と心得顔である。ターナーとは何の事だか知らないが、聞かないでも困らない事だから黙っていた。――『坊っちゃん』(1906年)
比較的最近では、筆者の知るかぎりでは、下記の企画展*が晩年の画家の作品を展示した。会場のテート・ブリテンはターナーが国に遺贈したほぼ全作品と関連資料を所蔵している。いわばターナーの殿堂である。画家の作品数は極めて多い
筆者にとって、画家の作品で印象に残るものがいくつかある。そのひとつが、ここに掲げた《平和ー水葬》(Peace - Burial at Sea) と題した画家晩年の名作である。長年、仕事場の壁にポスターを掛けていた。そして昨年急逝したイギリス人の友人WBも同じようにしていたことをふとしたことで知った。本年4月にケンブリッジで追悼の会が開催されるはずであった。
画面中央へ配されているのは汽船(帆布も併用する蒸気船?)と思われる。そこには立ち上る黒煙と共に深い影が落ち、帆先の部分まで黒色で支配されている。そして汽船を分断するかのように一本の光の筋が縦に入れられ、観る者の視線を強く惹きつける。さらに画面上部にはやや白濁した色の空が広がり、また画面下部では汽船を反射し黒ずむ水面が描き込まれている。しかし、画題がなにであるかは、説明がないと分かり難い。一見したかぎりでは、なにを描いたかすぐには分からない不思議な作品である。
もともと本作品は、八角形の画面で展示・公開されていた。色彩について最も注目すべき点は、晩年期のターナーの特徴とされる黒色の使用にあるとされる。本作の対画として展示されたナポレオンの晩年を描いた《戦争-流刑者とあお貝》に用いられている燃えるような赤色や黄色の色彩と対照的に、この作品では青色を始めとした黒色など、寒色系が主色として使用されている。この色彩使用は画家も読んでいたヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの『色彩論』に記される「青色・青緑色・紫色は落ち着き無く、過敏で不安な色彩」の具現的描写であると考えられている。また当時としては「不自然な暗さ」と批判も大きかった汽船部分に用いられている黒色は、画家の死に対する不安を象徴していると推定されている。
この作品の対画となる『 戦争-流刑者とあお貝』(別の機会に取り上げたい)と共に1842年のロイヤル・アカデミーで発表された本作は、ターナーのかつてのライヴァルであり、数少ない良き友人のひとりでもあった画家サー・デイヴィッド・ウィルキーが、1841年に汽船オリエンタル号の船旅での途中に起こった海上事故で没し、ジブラルタル沖合へ水葬されたことに対する追悼の含意が込められた作品である。同じくウィルキーの友人であった画家仲間のジョージ・ジョーンズが船上の情景を素描し、その素描に基づいてターナーが本作を仕上げたことが伝えられている。
Jan van Eyck (active 1422; died 1441)
Portrait of Giovanni(?) Arnolfini and his Wife (Portret van Giovanni Arnolfini en zijn vrouw: The Arnolfini Portrait)
1434, oil paintings on 3 oak panels, 82.2×60.0cm
The National Gallery, London
ヤン・ファン・エイク『アルノルフィーニ夫妻像』1434年、ナショナル・ギャラリー、ロンドン
今回で最後となる大学入試センター試験の問題を見ていると、世界史Bの第1問にファン=エイク兄弟(ファン=兄弟)の弟ヤン制作の『アルノルフィーニ夫妻の像』が掲げられていた。この絵についての短い説明を読んで、正しいもの(選択肢)ひとつを選ぶ4択問題になっている。この絵の制作された時代と同時代に世界史上で起きていた出来事について該当する選択肢ひとつを選ぶというものだ。例えば、①ギベリン(皇帝党、皇帝派)とゲルフ(教皇党、教皇派)とが争った。②マッツイーニが、両シチリア王国を占領した。③、④・・・・・などからひとつを選択する。
率直にいって、この問題ならばこの絵をわざわざ持ち出す必要もないと思われた。絵と設問があまりうまく噛み合っていない印象を受けた。無理に作った印象を受ける。この絵を取り上げるならば、もっと絵の時代背景、描かれた作品の人物などに踏み込んで別の内容の問題を作れば良かったと思われた。現在の高校世界史の授業でどれだけ、この絵画作品について説明がなされているのか明らかではない。西洋美術史では極めて著名な作品ではあるが、世界史の授業ではどれだけその内容が伝えられているだろうか。
謎のいくつか
しかし、今回はその点に立ち入ることはしない。ここでの関心は、ブログ筆者が知る限りで、この多くの謎を含んだ作品のいくつかの興味深い点に触れることにある。
日本では『アルノルフィーニ夫妻像』として知られるこの絵は、初期フランドル派の画家ヤン・ファン・エイクが1434年に描いた作品とされている。
描かれたのはブルッヘ(現ベルギー)在住のイタリア・ルッカ出身の商人でバンカーでもあったジョヴァンニ・アルノルフィーニと、同じルッカの商家出身のジョヴァンナ・チェナミが婚姻の誓いを立てているところを記念して描いたと言われている。ブルッヘにあった夫妻の邸宅内部を背景として描いた作品とされる。中流階級の家の室内、調度などが貴族的雰囲気の下で描かれているという不思議な印象を与える。
15世紀には、結婚は司祭など聖職者のいる教会で挙げなくても証人が二人いればどこでも成立した。婚姻の秘蹟は夫と妻の問題であり、公式に披露するには翌日教会で聖体拝領を受けることで、時には証人すら必要なかった。それから一世紀以上経って、トレント公会議で聖職者と証人の立ち合いが婚姻の儀式に必要になった。このアルノルフィーニ夫妻の場合は、背景にある鏡面に二人の証人が写っている。彼らは多額の金銭、財産が関わる婚姻証明書の社会的な公式化のためにも必要な存在だった。
このプロセスはこの結婚が「左手の結婚」’”left-handed “ marriage と言われたものであったことで欠かせないものだったかもしれない。この絵では男性が通常の右手ではなく左手を女性の手に差し伸べている。この形式は両者の出自、階層が平等ではない場合に見られた。ここでは女性の出自が男性より低かったようだ。結婚に際して女性はそれまでの家族に関わる全ての継承権を放棄するとともに、万一寡婦になった場合、十分な財政的手段を保証されることを意味していた。morganatica として知られる新郎から新婦への贈り物を意味する行為から由来する。
描かれた富裕な商人でバンカーでもあった新郎の複雑なようで表情のない顔、商家出身の新婦の若々しい容貌にも注目される。夫妻の身に付けている衣装の類いは、当時の流行を反映しているが、取り立てて上流、貴族階級などの反映ではないようだ。
いずれにせよ、この作品は夫妻から結婚あるいは婚約記念の図として、制作依頼があり、画家がその持てる才能、知識を最大限に発揮して描いた傑作とされる。厳粛な雰囲気に満たされた2人の全身像肖像画として記念碑的な作品であり、ヨーロッパの宝といわれるファン・エイクの代表作である。
ロンドンのナショナル・ギャラリー (The National Gallery, London )で、ブログ筆者が初めてこの作品を見た時、多少の予備知識はあったが、実際の作品に接して、画面の細部に渡って込められた画家の絶妙な配慮に魅了された。
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N.B.
美術史家の貢献
この絶妙な作品の解釈については、多くの美術史家の功績があった。中でも、美術史家のエルヴィン・パノフスキー(1892-1968)は、この絵の制作年(1434)のちょうど500年後に当たる1934年に美術史専門誌『The Burlington Magazine』に、図像解釈学に基づいて、この絵を結婚記念の図と読み解いた論文を発表し、これが定説となったようだ。手を取り合う男女は結婚のしぐさ、ベッドは子孫繁栄、シャンデリアに灯された1本のろうそくは結婚のシンボルなど描きこまれた全てのモチーフに意味がある。図像学の知識に関するテスト問題のようだ。しかし、その解釈については、かなりの異論も提示されてきた。
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重要な鏡の役割
この作品で特に重要な意味を持つ鏡にも注目してみたい。こうしたガラスの鏡は当時は中流階級でも持っていなかったといわれる。多くの人たちはよく磨き込まれた金属面を鏡として使用していたらしい。この鏡面(凸面鏡)には流麗な書体で「Johannes de eyck fuit hic/1434(ヤン・ファン・エイクここにありき。1434年)」とラテン語の記載がある。本作品以外にファン・エイクが絵の中に署名した作品はない。画面中央のシャンデリアと鏡の間に重みを持って署名されているということは特記すべきことだろう。今日に至るその後の時代においてもにおいても、署名は通常、作品の片隅に小さく付されていることが多いからだ。このことは、画家の署名は単に作品の制作者ということにとどまらず、夫妻の結婚の証人であったということを示す重要な証左ではないか。
作品の舞台:貴族階級を支えた商人たち
当時のブルッヘは、北ヨーロッパの交易の一大中心地であった。ロシア、スカンディナビアからは木材、皮が、ジェノア、ヴェニスからは絹、カーペット、香料が、スペイン、ポルトガルからはレモン、いちじく、オレンジなどが持ち込まれた。交易の対象となった品数の多様さなどで、富裕な土地としてヨーロッパに知られ、その後数十年最強の政治的な中心でもあった。とりわけ、フレミッシュの繊維産業は繁栄をきわめ、豪華で貴族的な環境が生まれていた。
そうした社会的環境の下で、ファン・エイクのこの作品は、聖から俗への移行に止まらず、貴族的からブルジョア的な主題への移行を示している。画家はブルゴーニュ公の宮廷付き画家であったが、画家が世俗の世界を描くことを許容していた。その背景には勃興する産業に関わる商人たちの活動が、貴族層にとっても財政的リスクを軽減するとともに積極的な繁栄の支えとなっていることを感じていたからだろう。
爽秋の一日、上野公園に行く。かねて予定していたが、せわしない日々にとりまぎれ、果たせなかった『ハプスブルグ展』を見る。芸術の秋だけあって、この時期、見たい展覧会が目白押しだ。
まず、国立西洋美術館に行く。『ハプスブルグ展』といっても、オーストリア・ハプスブルグ家に重点が置かれている。本展が日本・オーストリア友好150周年記念行事として企画されたことによる。600年にわたるハプスブルグ帝国の栄華の流れを短時間で辿れるのは、ウイーン美術史美術館が継承しているコレクションから選ばれた展示品が、スポットライトのように散りばめられて、この歴史上の一大名家の歴史を語ってくれるからだろう。
展示品には国立西洋美術館が所蔵するルーカス・クラーナハ、アルブレヒト・デューラーの版画、バルトロメオ・マンフレディ(1582-1622)の《キリスト捕縛》なども含まれている。
訪れた人たちの大方の関心は、第一にディエゴ・ベラスケス(1599-1660)の手になる《青いドレスの王女マルガリータ・テレサ、1651-1673》(1659年、油彩・カンヴァス、ウイーン美術史美術館)に集まっていた。ブログ筆者の脳裏には白いドレスのイメージがあったが、今回はこの作品が貸し出されたようだ。さらにベラスケスの娘婿マーソの手になる《緑のドレスの王女マルガリータ・テレサ》(ブダペスト国立西洋美術館)も並列して展示されている。肖像画としては甲乙付け難い出色の出来栄えだ。
ベラスケスの作品としては、《スペイン国王フェリペ4世 1605-1665の肖像》(1631/32年 油彩/カンヴァス ウイーン美術史美術館)および《スペイン王妃イサベルの肖像 1602-1644》(ウイーン美術史美術館)が出展されており、親戚関係にあるウイーンとマドリードのハプスブルグ両王室の結びつきが分かる。これもなかなか美しい肖像画だ。
そして、マリールイーズによる《フランス王妃マリー・アントワネット 1755-1793の肖像》(1778年、油彩/カンヴァス ウイーン美術史美術館)の前にも大きな人だかりができていた。これも肖像画としては、見事な傑作といえるだろう。王妃はなかなか満足のゆく肖像画家に出会えずにいたが、マリールイーズに出会うことによって、ようやく願いがかなったといわれる。さもありなんと思う出来栄えだ。かつてナンシーで宿泊したホテルが、マリーアントワネットがお輿入れした際に宿泊した場所と知って、歴史をさかのぼった思いがしたことがあった。
レンブラント・ハルメンス・ゾーン・ファン・レイン(1609-1669)の《使徒パウロ》(1636年 油彩/カンヴァス、ウイーン美術史美術館)
これらの華やかな肖像画に隠れて、あまり観客の目をひかないが、この作品、レンブラントの最も活動的であり、名声が確立されていた頃に制作され、見るからに円熟した技法が駆使された作品だ。その巧みさは展示作品の中でも頭抜けている。
この展覧会、オーストリア美術史美術館の全面協力で成立した感がある。かつて友人を訪ねたりで何度か訪れたが、また行ってみたくなる。図録も手堅くまとめられ、ハプスブルグ家の600年の歴史を知るには良い手引きとなっている。
レオナルド・ダビンチ(1412~1519)没後500年ということもあって、この大天才画家に関わる番組、展覧会、出版物などが多数目につく。ダビンチの幻の肖像画と言われる「ルカーニアの肖像画」の鑑定作業のTV番組*を見る。ダビンチという美術史上に燦然と輝く一大巨匠の作品の鑑定だけに、様々な先端科学技術が駆使されている。今や美術史の研究において、年代測定、作品の真贋、工房作品の判別、後世の修復における加筆など、多くの点で、X線、赤外線反射撮影法、顔料や指紋の分析などの科学技術の協力が必要になっている。放映された画面を見ていると、さまざまなことが思い浮かぶ。ナポリの黄色、赤色のチョーク、スフマートなど、このブログで、17世紀のジョルジュ・ド・ラ・トゥールの画家人生を追っている間に出会ったいくつかのことに思い当たった。この画家も謎の多い画家ではある。
ナポリの黄色
さて、そのひとつ「ナポリの黄色」は、絵具の色名である。14~17世紀に使われていた。ダビンチ も使ったようだ。17世紀、ロレーヌの画家ラ・トゥールの作品ではどこに使われていたか、かつて記したことがあるが、ご記憶だろうか。
組成は アンチモン酸鉛の化合物ph3(SbO)2 で,アンチモン・イエローとも呼ばれる。本来はベスビアス火山の土から採取された黄色の土性顔料で,中世からジリアーノの名で地塗りなどに用いられていた。今ではほとんど使われていないが、当時の色相に似せて,今日では カドミウム・イエロー,イエロー・オーカー,ベネチアン・レッド,ジンク・ホワイトなどの顔料を配合してつくる。絵具としてNaples Yellow (例:Holbein 230)として市販されてもいる。
工房の役割
今日では、様々な手段で自分の制作に必要な絵具、顔料などの画材についての情報も得ることができる。誰か画家の弟子として入門し、知識や技能を習得せずとも、自分の努力で制作をすることも可能だ。しかし、ルネサンス期から17世紀までは、いかに才能があろうとも、親方の工房に徒弟として弟子入りし、画材、画法の習得をしなければならなかった。フレスコ画や油彩画など、作品の制作に関わる知識や技能を習得するには、独力では得られる知識が限られていた。
この時代の有名画家でも、若い頃の修業歴が不明で、どこの工房で修業したかわからない場合もある。地方の小さな村や町からフィレンツェやローマのような都市に出てきた画家志望の14-5歳の若者にとっては、かなりのリスクでもあった。彼らの間の競争も激しく、脱落する者も多かった。フィレンツェの裏町で暴力、放蕩、犯罪などの世界へ転落し、身を持ち崩す若者も多かった。時代も下り、場所もローマではあったが、破天荒な生涯を送ったカラバッジョは、表と裏の二つの世界を生きた稀有な画家だった。工房に入るにあたっては、多くの場合、親がついてきて親方と徒弟費用の交渉などをしたようだ。
フランスなどの工房では、徒弟の数はせいぜい数人、大体1人が普通だった。他方、フィレンツエの工房では、しばしば10人から20人という数の徒弟がいた。それだけ仕事の量も多かった。大きな教会、聖堂、修道院など、天井画、壁画、祭壇などを受注した工房は、親方の指示に従って、多数の職人が動員されて働いていた。徒弟は受け入れてくれる工房の親方に多額の費用を支払い、ほとんどは住み込み徒弟として、工房か親方の家に住み込み、身の回りの世話もしながら、工房で仕事を手伝い、画家としての知識や技法を体得する仕組みだった。工房入りを許されると、徒弟、そして見習い奉公人として働くことになるが、ほとんど教育の体系らしきものはなく、兄弟子や親方の仕事から見様見真似で技能を盗み取ることで体得する仕組みだった。後世のOJT(On-the-Job Training)である。工房での徒弟修業が終わると、遍歴職人として他の工房へ移ったり、独立して親方を目指す者もいた。
ダビンチの工房入り
1466年頃、14歳のダビンチは、フィレンツェで、最も優れた工房bottegaのひとつであった画家で、彫刻家でもあった ヴェロッキオの工房に入門した。レオナルドはこの工房 で、理論面、技術面ともに目覚しい才能を見せた。弟子レオナルドの技量があまりに優れていたために、師匠ヴェロッキオは二度と絵画を描くことはなかったといわれる。ダヴィンチは3年間、この工房において徒弟修業をしたとされる。その後も工房との関係は合計で10年近く続いたようだ。
イタリアやフランスでは、この工房での徒弟修業にはミケランジェロやジョットのような天才でも最低3年、長いと10~15年を要した。しかも、徒弟修業をしたからといって、画家になれる保証はなかった。大工や石工と異なり、持って生まれた才能がものを言う職業であった。多分に才能と運が行方を左右する職業であるだけに、息子が画業を志すと親が強く反対する例が多かった。親たちは、画家はリスクが多いと、聖職者、銀行員、トレーダー、商人などより安定的な職業を勧めたという。ダビンチ でさえ、親との葛藤があったといわれる。時代は下るが、ジャック・カロやラ・トゥールのことを思い出す。願い叶って、徒弟となっても、工房における徒弟や職人たちとの軋轢、横暴な親方などに耐えられず、脱落する徒弟も多かった。
時代は下るが、17世紀、ラ・トゥールの例をみると、生涯で5人の徒弟を受け入れたが、なんとか画家になったことが確認できるのは1人にとどまった。ロレーヌの画家志望の若者が、こぞってイタリアでの修業を望んだのは、フィレンツエやローマでは工房の数が多く、選択の余地が多かったことも背景にあった。
ヴェロッキオの工房で製作される絵画のほとんどは、弟子や工房の雇われ画家による作品だった。一部の作品については、ダヴィンチが担当した部分が確認されているようだ。 例えば『キリストの洗礼』(ウフィツィ美術館、フィレンツェ)は、ヴェロッキオとレオナルドが協同して描いたとされている。ダヴィンチは20歳になる1472年までに、ギルド 「聖ルカ組合」からマスター(親方)の資格を得ている。レオナルドが所属していた聖ルカ組合は、芸術だけでなく医学も対象とした ギルドだった。ダビンチが人体の細部にわたる精密なスケッチを残しているのも、こうした背景によるのだろう。ダヴィンチはその後自分の工房を持ち、独立後もヴェロッキオと協同する関係を保っていたらしい。
レオナルドの才能は、絵画、彫刻にとどまらず、建築、工学、化学、冶金学など、およそ1人の人間がこれだけの領域をカバーできるのかと思うほど広範にわたり、ルネサンス期の天才とはかくも偉大なのかということを痛感する。
当時は美術学校など公的な技能養成制度が無かったため、工房という熟練の取得、養成の仕組みは画家のみならず、多くの職業において重要な役割を果たした。今日、多くの国で学校や公的技能養成制度が硬直的で、変化の激しい現実に対応できず、再考を迫られている。そのため、小規模ながら時代の変化に柔軟に対応できる新たな観点からの工房の役割が注目されている。
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モナリザを描き、建築や解剖学も極め,詩人、思想家でもあった“万能の天才”ダビンチが亡くなって500年。ある収集家の自宅に保管されていた「ルカ―ニアの絵」は、世界の美術界の注目を集め、美術史家や科学者らによる分析がフィレンツェをはじめ欧州各地で行われた。顔料から年代を特定し、残された指紋を解析。最新の3D技術で、巨匠ダビンチの素顔を初めて3次元で復元するという試みだ。
TVでは『糸巻きの聖母』(スコットランド国立美術館蔵)、『プラドのモナ・リザ (プラド美術館蔵)など、ダビンチの作品ではないかといわれてきた絵画の鑑定作業が報じられていた。
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[ダビンチ 幻の肖像画]
NHK-BS1 BS1スペシャル原題:LEONARDO: THE MYSTERY OF THE LOST PORTRAIT制作: ZED & SYDONIA / ARTE FRANCE / NHK(フランス 2018年)11月11日放送
[ダビンチ・ミステリー(1)] 2019年11月10日放送
一見、眼を背けたくなるような恐ろしい光景だ。二人の女性が、大きな男の首を切り落とそうとしている。とりわけ右側の女性は左手でしっかりと男の頭を押さえ、右手に握り締めた劔で、まさに男の首を切り落とす瞬間である。もう一人の女性は召使いなのだろうか、両手で男の首をしっかりと抑え込んでいる。
描いた画家は?
17世紀美術に詳しい方は、描いた画家はカラヴァッジョではないかと思われるかもしれない。当たらずとも遠からずである。宗教画とは思えないほどのリアリスティックで残酷な描写に、その点を想起されるのだろう。実はカラヴァッジョも同じ主題で制作しているのだが、リアルで残酷な描写という点ではカラヴァッジョを凌ぐほどだ。
種あかしをしよう。描いたのは、17世紀バロックのイタリア人女性画家アルテミシア・ジェンティレスキであり、カラヴァッジョの画風を継承したイタリアン・カラヴァジェスキのひとりである。
未亡人ユディットが、彼女に邪な思いを抱き、執拗に言いよるアッシリアの将軍ホロフェルネスが眠っている間に、召使いの手を借りて、敵将の首を落とすという場面である。ホロフェルネスはユディットの町ベテュリアを焼き滅ぼそうとしていた。旧約聖書にはない話だが、外典からとった主題である。
画題は:
beheding of Holofernes by Judith
Altemisia Gentileschi
oil on canvas, 100 x 162.5cm, ca.1620
Galleria degli Uffizi, Florence
アルテミジア・ジェンティレスキ《ホロフェルネスの首を斬るユディト》1611-12, 100 x 162.5cm, ウフィツィ美術館、フィレンツェ
17世紀の西洋美術は、日本ではあまり知られていないことが多い。宗教画が多く、主題についての知識がないと、理解が難しいことも影響しているのだろう。しかし、その作品が描かれた背景、画家などに知るほどに、現代画では得難い時代の深み、画家の人柄、過ごした人生のさまざまなど、多くを知ることができ、しばしば離れ難くなる。ブログ筆者もその一人だ。
折しも、英誌The Economist 美術欄*が、この作品と画家の過ごした人生のことを取り上げていた。最近はこの画家を主人公とした映画、劇、小説などが制作され、およそ400年近い時空を超えて、現代の出来事に共鳴するのではないかと、多くの関心を集めた。
父も娘も画家だった
アルテミジア・ジェンティレスキ(1593-1652/3)はローマに生まれた。父親オラジオ・ジェンティレスキ(1565-1639)も画家であった。二人ともいく人かの画家の影響を受けつつ、カラヴァッジョの影響を受けたカラヴァジェスキとして今日にもその名が残る。実際には、バロック風の穏やかな作品が多い。
この《ホロフェルネスの首を斬るユディト》のテーマでは、カラヴァッジョも同じ主題で制作しているが、この作品の方がはるかに迫真力がある。バロックおよびルネサンス期に好まれて描かれた主題である。ルーカス・クラーナッハ兄、ルーベンス、ティントレット、レンブラントなども描いている。この主題は女性の力と情熱を示す話として、映画、小説などでさまざまに使われることが多い。制作後、400年近くを経た今日、現代の課題に共鳴する主題として選ばれるのだろう。
当時の女性画家の多くは肖像画、静物画を描くことが多かった。それに対し、ジェンティレスキは男子と同じジャンルで競うつもりだった。そのために時にはあえて殺伐、残酷な主題にも挑戦した。彼女は女性として最初にフローレンスの画家ギルド Accademia delle Arti del Disegno の会員に認められていた。さらに巧みな交渉者でもあり、ミケランジェロの功績を称えるフレスコ画の制作に携わった協力者の5倍の報酬を受けていた。妊娠中でありながら進んで天井画の部分も制作していた。一時は父親
オラジオの作品とされてきたものも見直され、彼女の真作として今日まで残るものはおよそ60点と数十通の書簡がある。
フェミニズムとの強い関連
しかし、彼女の性格を最も如実に示すものは、1612年におけるローマでの裁判所審問記録である。審問内容は彼女が19歳の時、彼女がアゴスチノ・タッシ Agostino Tassi にレイプされたことを供述したものである。タッシ は,彼女の父親(画家)の手伝いをしていたが、娘の才能開花のために遠近画法を教えようと雇った男だった。
この事件はローマで審問にかけられたが、当時の審問は女性にとっては今では想像を絶する屈辱的で拷問のような形で実施されたようだ。それでも彼女は、なされたことは、みんな事実ですと主張し続けた。他方、タッシは起こった事実を否定するように「私は彼女を愛している」と繰り返したらしい。判決ではタッシは無罪と思われたが、短期間ローマから追放された。詳細不明だが、この裁判記録の最後のページは逸失しているようだ。他方、父親オラジオは法王に娘の受けた心身の苦痛に補償を請願していた。当時レイプは女性の権利の蹂躙、侵害ではなく、いわば財産の損傷とされ、その補償が求められていた。この事件は、アルテメシアを現代に共鳴するフェミニストの強力な主唱者として位置づけることになった。
アルテメシアは、しばしば英雄的な女性をカラヴァッジョ風の情熱的で、時に鮮烈な作品として描いた。2018年、ジェンティレスキの《アレクサンドリアの聖キャサリンにおける肖像画》を、昨年ロンドン・ナショナル・ギャラリーが取得した。これによって、同館が保有する2,300点の内、女性による21番目の作品となった。同館の学芸員 Ms. Treves は、ジェンティレスキの位置づけはタッシの暴行の犠牲者というプリズムだけを通して見るべきではないとした。最近の#MeToo時代と言われる状況でもジェンティレスキは、依然として大望を抱いた女性が自分の受けた性的横暴を克服して、今日の地位を築いたという評価になっている。その後、さまざまに論議がなされたが、今日では彼女の人生は性と権力、苦痛と復讐の寓話になっている。それでも今日、彼女は偉大な芸術家でありフェミニストのヒロインになった。
この出来事をめぐって、その後多くの映画、演劇、などが制作された。しかし、およそ400年前の女性に関わる逸話は、今日のフェミニストの考えとは、似て非なるものだとの指摘もある。さらに検討すべき課題でもある。
彼女はその後結婚し、ナポリへ移り、自らの工房を持ち、父親の住むロンドンへ旅したりし、著名な女性画家として生涯を送った。
References
*’This soul of a woman’, The Economist March 16th−22nd 2019
ORAZIO AND ARTEMISIA GENTILESCHI, Keith Christiansen and Judith W.Mann
exhibition catalogue “Orazio and Artemisia Gentileschi: Father and Daughter Painters in Baroque Italy,” held at the Museo del Palazzo di Venezia, Rome, October 15, 2001-January 6, 2002: The Metropolitan Museum of Art, New York, February 14-May 14, 2002, The Saint Lousi Art Museum, June 15-September 15, 2002.
上記カタログ・カヴァー
ヘンドリック・テル・ブルッヘン《イレーヌに介抱される聖セバスティアヌス》
Hendrick ter Brugghen, St. Sebastian Tended by Irene, 1625
Canvas, 149 x 119.4cm
Allen Memorial Art Museum, Oberlin College, Oberlin, Ohio
R.T. Muller, Jr. Fund1953 inv.53.256
このブックレットのカヴァーに使われたタイトルとイメージを見て、何を目指した企画であるかを想起される方があれば、素晴らしい。使われている作品は、この小ブログにも何度か記したことがあるオランダ、ユトレヒト出身の画家ヘンドリック・テル・ブルッヘン(Hendrick ter Brugghen)の名品《イレーヌに介抱される聖セバスティアヌス》である。なぜ、この作品がオランダではなく、アメリカにあることの意味を考えるだけで、脳細胞はかなり活発化してくる。
近年、17世紀、オランダ、ユトレヒトに生まれ、ローマでカラヴァッジョなどの作品を対象とした修業・遍歴の年を過ごし、ふたたび故郷ユトレヒトへ戻った画家たち(ユトレヒト・カラヴァジェスティ)への関心が急速に高まった。およそ20年前、1997年から1998年にかけて、アメリカ、サンフランシスコ、ボルティモア、そしてイギリス、ロンドンで、これらの画家たちの作品と生涯に関する大規模な巡回展が開催された。
この表紙に使われている作者と作品は誰でしょう(答えは文末に*)。
ブログ筆者が以前から注目してきた画家、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールもユトレヒトなど北方の都市を訪れたか、あるいはほぼ同世代の画家として、故郷に戻ってきたいわゆるカラヴァジェスティの作品・活動をどこかで見聞することを通して、カラバッジョの画風に接したのではないかという仮説にも関わっている。
里がえりしたユトレヒトの画家たち
昨年暮れから今年3月にかけて、そのユトレヒトの中央美術館で初めて、17世紀30年くらいまでの間に、ローマから帰ってきオランダ・カラヴァジェスティの展覧会が開催されている。今まで実現しなかったのが不思議なくらいだ。17世紀画壇に革新をもたらしたカラヴァッジョに代表される1600-1630年代のローマの光が、オランダ・ユトレヒト出身のカラヴァジェスティによって故郷ユトレヒトへもたらされるというテーマである。この特別展についても、いずれ記してみたい。
ローマでカラヴァッジョを見たオランダ画家たち
17世紀当時のローマは、世界の中心、永遠の都と言われていた。ヨーロッパ各地から多くの画家や画家志望者が押し寄せていた。そこに生まれたひとつの噂はカラヴァッジョというひとりの画家が、画壇に革命をもたらしているというものだった。新しいリアリズムでこれまで見たこともない劇的で迫真的な画風によって、大仰な身振りの人物たちが光の中に描かれている。時には目を背けるほど残酷なシーンもある。ローマへやってきた画家たちは皆それらの作品を自分の目で見たがった。その中にはユトレヒトからやってきたバブレン Dirck van Baburen, テル・ブルッヘン Hendrick ter Brugghen, ファン・ホントホルスト Gerard van Honthorst.の3人もいた。
ヨーロッパでカラヴァッジズムが盛期を迎えていた1600-1630年頃には、ローマにはおよそ2700人近い美術家がいたと推定されているが、実に572人は外国人であった。その中にラ・トゥールの名が見当たらないことも、ブログ筆者が推定してきたこと、すなわち、この画家は別の理由も含めてローマに行くことなく、北方カラヴァジェスティの影響を受けて制作をしていたのではないかとの仮説を側面で支持するかもしれない。
結実したユトレヒトでの企画展
3人のユトレヒト出身の画家は、ローマで修業を終えた後、それぞれ前後して故郷に戻り、制作活動を続けた。そして、ユトレヒト・カラヴァジェスティともいわれる独自の作風を生み出した。今回のユトレヒト展での呼び物は、彼らの作品に加えて、ヴァチカン絵画館が所蔵するカラヴァッジョ(1571-1610)の作品を初めてユトレヒトの中央博物館の企画展のために貸し出したことである。《キリストの埋葬》はヴァチカン博物館所蔵のカラヴァッジョ作品で最も貴重なもののひとつであり、ユトレヒトでも開催日から4週間限定で展示された。かなり特別の配慮といえるだろう。出展作品70点のうち、60点はヴァチカン博物館を含むルーヴル(パリ)、ウフィツィ(フローレンス),、ロンドン国立美術館、ワシントン国立美術館、著名な教会などを含む所蔵者からの貸し出しであった。
ユトレヒト中央博物館
かつて修道院であった建物を改造し、2016年にリニューアルされ、オープン。
このユトレヒトの企画展はユトレヒト・カラヴァジェスティと並んで、ヨーロッパで同様に影響を受けたイタリア、フレミシュ、フランス、スパインなどの画家たち、バルトロメオ・マンフレディ、セッソ・ダ・カラヴァッジョ、ジョバンニ・ガリ、ジョバンニ・セロディネ、オラツィオ・ベルギアーニ、ジュセッペ・デ・リベラ、ニコラ・レグニエ、ニコラ・トゥルニエ、シモン・ヴーエ、ヴァレンタン・ド・ブーローニュなどの作品を含んでいる。
こうした企画展は、国際カラヴァッジョ・ムーヴメントというカラヴァッジョという革新的な異才とその影響を研究する国際的な活動の中から生まれた成果の一つだ。オランダの画家というとフェルメールしか語らない日本人が多いのはなぜと、オランダの友人は尋ねる。そこから離れ、レンブランドを含む17世紀オランダの画家たちの世界に浸ることは、とても楽しく時間を忘れる。作品との対面・対話を繰り返しながら、眺めていると、時は尽きない。今日まで生きていて良かったとの思いが深まってくる。
*ゲラルド・ファン・ホントホルスト
《聖ペテロの否認》部分
Gerard van Honthorst(1592-1650)
Denial of Saint Petro, ca.1620-25
oil on canvas, 110.5 x 144.8cm
The Minneapolis Institut of Arts, The Putnam Dana McMilan Fund.
Details
Le Nain, L’enfant Jesus blond méditant devant une croix, 1642-43
(c) Courtesy of Rouillacs, The Art News Paper
ル・ナン兄弟《十字架を前に祈る幼きイエス》1642-43
長い白衣をまとった幼い子供が胸に手をあてて祈っている。頭上には光輪が描かれている。キリスト教についての知識があれば、ほぼ直ちに幼いイエスではないかと分かる。足下には大きな十字架が横たえられており、近くには小さな十字架も見える。あたりは薄暗く不穏な気配が漂っている。幼いイエスは自らの将来に待ち受ける運命を予知しているのだろうか、何事かを瞑想している。重く陰鬱な感じが観る人に伝わってくる。
この作品、フランスの70歳近い女性の家に所蔵されており、最近17世紀のオールド・マスター、ル・ナン兄弟の手になるものと判明した。1950年代に祖母から贈られたとのこと。この女性自身も晩年に差しかかり、資産の一部を処分しようとして作品を鑑定に出した。鑑定者は直ちにル・ナン兄弟の作品と推定し、確認のためルーヴル美術館所蔵の作品などとも、比較考察したという。その結果、ル・ナン兄弟の作品として本年6月、ニューヨークのクリスティで競売にかけられた。落札者などの詳細は不明だが、落札価格は300万ユーロから500万ユーロと推定されている。作品は現在、修復作業中であり、いずれ公開されるようだ。
《十字架を前に祈る幼きイエス》と題され、ル・ナン兄弟の手になるものと推定されている。胸に手を当て何事かを瞑想するイエスの前には、恐らくその後のキリスト磔刑の最終決定をした古代ユダヤの総督ピラトが使ったと思われる酒杯と手を洗ったタオルが置かれている。
ル・ナン兄弟 、日本では農民の家族などを描いた一部の風俗画ジャンルを別にすると、あまり知られていない。17世紀フランス、パリで活躍した3人兄弟の画家である。同時代のジョルジュ・ド・ラ・トゥールと並び、ブログ筆者ごひいきの画家たちである。ラ・トゥール同様、長らく忘れ去られていた”リアリズム”の画家のグループに入る。近年、新たな作品発見もあり、研究も進んでいる*。
筆者は、農民、鍛冶屋など、働く者たちを描いた世俗画で知られるル・ナン兄弟について、ラ・トゥールと同じ時期に格別な関心を抱き、機会があれば、できうる限り作品を見てきた。気づいてみると、半世紀近い長い付き合いとなった。
ルナン兄弟はパリに工房を構え、しばしば共同で制作活動に当たっていたようだ。そのため、署名もLe Nain として姓だけを記した作品がほとんどで、兄弟の誰が主として制作したのかは不明なことが多い。
この作品、概略を見ただけでは詳細な論及はできないが、一見してラ・トゥールの《大工聖ヨセフ》を類推させる。しかし、作品についての思索の深さ、洗練の程度においては、ラ・トゥールに一日の長がある。ラ・トゥールはが画題に必要最小限なものしか描かなかったが、ル・ナン兄弟の作品はより細部に立ち入って制作している。ル・ナン兄弟が工房を置いたパリとラ・トゥールの主たる活動地域であったロレーヌは近接していることもあり、お互いにその存在、活動は熟知していたと思われる。
* C. D. DICKERSON III AND ESTHER BELL, THE BOROTHERS LE NAIN: PAINTERS OF SEVENTEENTH-CENTURY FRANCE, New Haven and London:Yale University Press, 2016. KIMBELL ART MUSEUM, FORT WORTH, TEXAS, FINE ARTS MUSEUMS OF SAN FRANCISCO.
近年、「マンガ」という文字をいたるところで目にするようになった。どちらかといえば、子供の頃だが、筆者も長らく親しんできたジャンルなので、取り立てて違和感はない。しかし、しばらく前から大書店などに設置されている「マンガ」コーナーの棚を探索することはない。ただ、長らく見慣れていた「漫画」をなぜ「マンガ」というカタカナ表示にしなければならないのかということには、多少疑問を感じたことはあった。しかし、その源にまで立ち入って調べたこともなかった。多分、それまでの「漫画」は漢字で、若い世代には覚えにくいので、「マンガ」という安易な表現が流行し始めたのだろうと思った程度であった。このほかにも、「アニメ」,「コミック」、「劇画」など、類似してはいるが微妙に異なる用語、とりわけカタカナが増えた。
しかし、ふとしたことで、辞書を繰ってみた。それによると「漫画」は、①単純・軽妙な手法で描かれた、滑稽と誇張を主とする絵、②特に、社会批評・風刺を主眼とした戯画、ポンチ絵、③絵を連ね、多くはセリフを添えて表現した物語、コミック。」(『広辞苑』第6版)などの説明がある。しかし、「マンガ」というカタカナの見出しはない。世の中で使われているからといって、長い歴史を持つ辞書に採用される訳ではないとことは、これまで『広辞苑』を含めて、いくつかの辞書編纂に関わったこともあるので、理解はできる。掲載用語の選定にはバランスのとれた微妙な社会感覚が必要とされる。流行語に近いものほど、短期間に忘却、使用されなくなってしまう。甚だしい場合には、辞書の企画から出版時までの間に忘れられてしまう言葉も稀ではない。
北斎の「漫画」
ブログのつながりで、今月27日閉幕したばかりの『北斎漫画の世界』(信州小布施「北斎館」開催)を訪れ、チラシを読んでいる時に、なるほどと考えさせられた記事に出会った。それによると「北斎漫画」の「漫画」の概念は、いわゆる現代のコミックや劇画とは根本的に異なっている。
江戸時代に「漫画」といえば「漫然と描くもの」、つまり筆のおもむくままに描いたものという意味だった。『北斎漫画』は、結果として、絵を学ぶ人々のために描かれた絵手本とういう"教科書"のような存在だった。当時の版木という印刷技術を使った印刷物を経由して北斎の弟子や関心を抱く画家たちが、絵の勉強をする手本だった。その一部はヨーロッパなどへの輸出品の充填材や包み紙として使われ、オランダを中心にフランスなど、ヨーロッパの各地へ広がり、それらに興味を見出した人々の関心を引き出した。まさにジャポニズムの源流となっていた。
北斎はその生涯に93回転居したといわれる「転居魔」であったことで知られている。生まれは現在の東京墨田区深川付近であることも分かっている。その波乱の多い生涯で、天保15年(1844年)、85歳の時に信州小布施の豪商で門人であった高井鴻山の招きで東町祭り屋台天井絵の『龍図』と『鳳凰図』の制作を依頼され、同地に赴いた。その翌年も上町祭り屋台図を描くために、再び小布施を訪れている。今日のように新幹線や長野電鉄などの交通手段がなく、ほとんど徒歩、せいぜい騎馬で往復していた時代であり、高齢であったにみ関わらず、その強靭な制作意欲にはひたすら感嘆する。
豪商:高井鴻山邸宅の一部。北斎が一時期滞在。
「栗と花と北斎の町」
今では「栗と花と北斎の町」として知られる小布施の環境は素晴らしかった。これまで、長野、湯田中、志賀高原など、付近の観光地や温泉地には度々出かけていたのだが、小布施には近年行ったことはなかった。久しぶりに訪れたこの小さな町は素晴らしく変身していた。「栗と花と北斎の町」をテーマに、小布施の町全体が一つの目的に向かって、それぞれ独自の努力をしており、それは見事な成果として実っていた。筆者は長らく地域の産業と雇用の創出の問題に関わってきたが、小布施のケースは見事な成功例と思われる。細部では、問題もあることは十分推定できるが、全体としては優れた創意が発揮されていた。外国人の訪問者も多数見かけた。今後の日本の課題でもある地域再生の素晴らしいモデルの例と言える。
美しい信濃の山々に囲まれた町には、豪商高井鴻山の素晴らしい屋敷内に設けられた北斎の工房や、当時の豪商、豪農の生活をしのばせる屋敷が、整備されて保存されている。北斎が描いた大作品が残る岩松院などの天井画も保存されており、人口約1万人の市ながら、国内のみならず海外からも集客できる吸引力を持つ、日本の美しさを継承する魅力的な観光地に生まれ変わっている。これからこの美しい町がいかに変化しているか、楽しみである。
紅葉の美しい岩松院付近の展望
北斎 『菊』
Reference
浦上 満『北斎漫画入門』文春新書、2017年10月
本書は筆者の浦上氏が家業の古美術商を経営する傍ら、『北斎漫画』の世界一のコレクターとして、その真価を世界に普及することに尽力してきたこれまでを記した魅力ある小著である。北斎漫画の全容、世界的な評価を知るにはきわめて優れた入門書である。こうした地道でややマニアックな努力が集積して、今日の「北斎ブーム」が生まれたと言える。今年、国立西洋美術館で開催された企画展カタログと併せて読むと、北斎という画家の偉大さを実感することができる。
ピエール・ボナール
洗濯屋の少女
c.1895-96
このキュートな作品の発想の根源は何に求められるのだろうか。
その源が北斎のスケッチ集ともいうべき「一筆画譜」にあるということを
知って しばらく考え込んでしまった。
葛飾北斎
「一筆画譜」
1823年
いつの頃か、「芸術の秋」といわれる表現を見かけるようになった。語源や初出年次の推測は様々にあるようだが、秋風が吹き始める頃から、美術館などの展覧会も格別に力おが入ったものが多くなる。今秋も京都ほどの雑踏ではないが、東京、とりわけ美術館の多い上野公園界隈はかなり賑やかだ。、今の時点では、注目を集めているのは終幕近い国立博物館の「運慶」展と国立西洋美術館の「北斎とジャポニズム:HOKUSAIが西洋に与えた衝撃」展だろうか。とりわけ前者は、週日でも館外行列ができていた。
「北斎とジャポニズム」展もかねて見たいと思っていたので、混み具合を見計らって出かけた。インターネットで国立西洋美術館は世界文化遺産になってから、館内、庭園などもかなり整備され、人々で賑わっている。特別展ばかりで混み具合を見て出かけるのだが、同じ行動をする人たちも多く、到着して見ると予想外に混んでいることもある。これは人間行動の予測が大変難しいことの表れだ。予測する本人が結果を予測して行動するので、結果は予測と異なるものとなりがちだ。それはともあれ、常設展も人気が高まっているようだ。
葛飾北斎(1760-1849)はかなり前から関心があり、作品を見る機会があればできるだけ見てきたが、90歳近くまで制作活動した多作の人なので作品の全容とその影響を体系化してみたことはあまりなかった。今回の展覧会はその点で、大変よく企画され、多くの知見を得ることができた。カタログもさすがに充実しており、極めて見応えのある出来栄えだ。見ていると、関心は深まるばかりで読み出すと他のことを忘れてしまう。
今回は、北斎の作品とその影響を受けた海外作品の双方が展示されているので、当然展示作品数が多く、混んでいる時はかなりの忍耐がいる。今回のテーマのように、北斎の画風、作品が世界で受容され、ジャポニズムという大きな潮流を形成する道筋を具体的に展示する企てとなると、出展作品数も多くなり、一通り見るだけでもかなりの時間がかかる。影響を受けた西洋作品の展示数だけでも220点近い。展示によっては、前の室へ戻って見直したりする。今回も半日以上を費やしたが、もっとゆっくり見たかった。しかし、入館者も多いので、人混みの中、体力もかなり消耗する。
展示は「1章 北斎の浸透」に始まり、「6章 波と冨士」に終わる計6室の構成だが、いつもの例のように入り口の第1室が大変混んでいて渋滞していた。北斎の作品がジャポニズムの源流の一つとして世界に影響を及ぼしてきたことは、一通り知ってはいたが、今回の特別展を見て、さらに認識を新たにした。著名な「富嶽三十六景」などの作品に止まらず、「一筆画譜」、「北斎漫画」なども、広く渉猟されていることは、時代を考えると驚くべきことだ。こうした小品の集成は、海外の画家たちにとっては、新しい発想を得る貴重なアイディア・ブックだったのだろう。
とりわけ興味かったのは、当時としては極めて長年にわたり、画業に情熱を燃やした画家の晩年が中心だが、作品、思想、人間関係、社会状況にまでにわたって広範な研究成果が生まれていることである。日本に限ったことではないが、西洋美術の場合でも、よほど著名な画家でない限り、生涯の一部分しか判明しない場合が多い。北斎の場合、日本国内のみならず、ヨーロッパ、アメリカ、中国においてまで影響を受けた人々がいることに改めて驚かされる。
筆者がのめり込んできたロレーヌの世界にも、北斎の風は吹いていた。
エミール・ガレ
花器:蓮r
1900年 以後 以下、画像クリックで拡大
フランシス・ジュールダン
白い猫
1904年以前
葛飾北斎
「一筆画譜」にヒント
ただし、右上に「狐火」と記されていることに注意。
References: 国立西洋館展カタログ
Leonardo da Vinci レオナルド・ダ・ヴィンチ
<少女の頭部/岩窟の聖母のための習作>1483-1485年頃 トリノ王立美術館
ミケランジェロ・ブオナローティ
<レダと白鳥のための習作>1530年頃 フィレンツッェ、カーサ・ブオナローティ
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ひさしぶりに青空の見える一日、東京駅前の三菱一号館美術館へ出かけた。『レオナルド x ミケランジェロ』展がお目当てだ。この美術館、立地が素晴らしいので訪れる頻度は非常に高い。特に、最近は周囲の樹木と建物の関係などが次第に馴染んで充実し、落ち着いた街並みになっている。しかし、元来美術館として設計・建築された建物ではないので、その限界を感じることもしばしばある。館内は品格のある調度など雰囲気は良いのだが、展示の仕方、照明などにもう一工夫あったらと思うこともある。例えば、今回の見ものは二人の巨匠の素描(デッサン)なのだが、作品保存の目的もあってか、薄暗く作品鑑賞に難を感じることがある。経年変化して黄ばんだ紙に薄く描かれた素描は、こちらも老化した視力では、細部などはかなり見にくい。
この美術館、展示室の関係で大作は展示が困難なところがある。この程度の規模の美術館には企画が極めて重要であり、それがうまくゆけば、かなり質の高い展覧会を開催できる。今回、あまり面白くなかったという批評をいくつか聞いたが、色々な理由が考えられる。見る側の関心がどこにあるか、どれだけの蓄積があるか、視点がどこにあるか、などでこうした展示の評価はかなり異なるだろう。
レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)とミケランジェロ・ブオナローティ(1475-1564)は、改めて記すことのない美術史上の天才・巨人だが、レオナルドの方がミケランジェロよりも23歳年上である。しかし、二人は文字通り同時代人であった。お互いに相手の力量を十分に熟知し、時に同じ対象をめぐっての競作、考えの違いによる対立など、人間としての個性、感性などの違いも、今日まで生々しく伝えられていて大変興味深い。
二人ともに天賦の才能と芸術環境に恵まれての生涯を過ごしたが、当時の画家、彫刻家などの常としてパトロンをや制作環境を求めて、各地を遍歴しているので、両者が同じ地でともに制作活動を過ごしたのは、1501年から1506年にかけてのフィレンツエでの短い時期であった。
両者の制作活動における作品の規模、数などを考えると、その全面的な対比などは到底できない。今回の展示の特徴は、芸術家の制作活動の根源とも言える素描(ディゼーニョ、デッサン)を主軸として、油彩画、彫刻、手稿などが展示されている。
今回展示されている作品の多くは、以前にトリノの王立図書館その他の展示で見たことがあった。16-17世紀当時、素描、デッサンは画業、彫刻などの制作活動の出発点とされ、画家や彫刻家は徒弟を志す段階から懸命に力を注いだ。ほとんどは画業の一環としての習作の意味が大きかったと思われるが、デッサンそのものが最終作品の意味を持った場合もかなりあったと思われる。
しかし、17世紀頃から少しこの風潮に変化が現れた。画家の間には直接、カンヴァスなどに素描する傾向が強まってきた。修復の際にX線を使用して下地や画材などを調査した時に画家が最初に抱いた構想のデッサンの跡などが発見されることもある。しかし、デッサン自体に接する機会はかなり減少してきた。それだけに、この二人の巨匠のデッサンを対比して見られることは極めて興味深い。
この巨匠の作品の評価などとてもできないが、よく見ていると、両者の対象への制作態度、思想には大きな違いがあることが感じられる。見て考える。そこに美術館に足を運び、鑑賞する楽しみもある。
この画面全体を圧倒するような女性は誰でしょうか。17世紀美術に多少なりと立ち入った人は、その神に祈るような姿態、頭蓋骨などのアトリビュートなどから直ちに分かるでしょう。しかし、画家を特定することはかなり難しい。
描いた画家は、今日ではル・ナン兄弟とりわけ3男のマティユーと推定されています。すでにパリに工房があったので、その支援もあったかもしれません。しかし、この作品は、これまでル・ナン兄弟の作品を取り上げた企画展などにはほとんど出展されたことがありませんでした。その意味で、今回のキンベル美術館、サンフランシスコ美術館の巡回展に本作品が出展されたことは、大きな注目を集めました。ル・ナン兄弟の代表的な作品とされてきた『農民の家族』のような独特な沈んだようなやや単調に感じられる色彩で描かれた作品に慣れた人々には別人の作品のように見えるかもしれません。しかし、制作した画家はかなりの力量の持ち主であり、傑作であることは間違いありません。
この画面を女性がほぼ一人占めしたような、斬新な構図と姿態は、動的で衝撃的な印象を与えます。主題の関係もあって、色彩も暗色系に抑えられているが、作品が高いレヴェルの質を維持していることは、直ちに伝わってきます。最近、他にもル・ナン兄弟の手になると考えられる作品が発見され、それらとの比較研究も進み、本作がル・ナン兄弟の作品であることは、今日ほぼ確定しています。それにもかかわらず、この作品がル・ナン兄弟の多数の作品の中では、やや異色の位置にあることが、暗黙裡にも認められていることが注目点といえる。その点は、ル・ナン兄弟の現存する作品全体を展望してみないと、分からないかもしれない。
カタログ・レゾネを読みながら、驚いたこともあった(p.144)。ル・ナン兄弟がそれぞれどこで徒弟あるいは画業の修業をしたかは、未だに判然としないが、この作品、一時は、ユトレヒト・カラヴァジェスキの影響を受けた作品と考えられてきた。
しかし、最近では17世紀フランスの大家、そしてあのロレーヌの画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品からインスピレーションを得たのではないかとの説が有力になっている。改めて、ラ・トゥールの作品群と対比して見る。マグダラのマリアを描いたジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品は数多いが、概してきわめて静的であり、闇に沈んだような中で悔悛し、ひたすら神に祈る女性のイメージが伝わってくる。全体像が描かれていても、一本のろうそくの光に映し出される女性の容貌もしばしば確認できない。
他方、このル・ナン作では、女性の容貌はほぼ前面からはっきりと描き出されている。彼女の精神的あるいは信仰の状態が、いかなる次元にあるか、定かではない。しかし、ラ・トゥールのような段階的区分をしてみれば、おそらく世俗の官能の世界に身を置いていた次元から、悔悛と信仰の過程へと移りゆく変化の姿が想定されているのではないかと思われる。作品右側に上から釣り下げられた燭台が小さな光を発しているが、全体を映し出す光の源がなんであるかはわからない。女性の足元の木材は、十字架の一部のようだ。
この作品が制作されたのは、1930年とされる。ラ・トゥールがルイ13世の求めに応じてパリに旅したのは、1929年であった。両者の間になんらかの直接的関係があったかは今の時点では不明である。しかし、当時すでに著名な画家として知られていたラ・トゥールのことを、ル・ナン兄弟、あるいはパリの工房が知らなかったとは考えられない。今後の研究が進むにつれて、さらに興味深い事実が見いだされるかもしれない。
上掲作品:
ル・ナン『悔悛するマグダラのマリア』
Le Nain, The Penitent Magdalene
ca.1640
143 x 121cm
Private collection, Courtesy of Galerie Canesso, Paris
「農民の家族」
The Peasant Family
ca. 1642
oil on canvas
113x159cm
Musee xu Louvre, Paris
17世紀、フランス。様々な仕事で働いている人たちを描いた作品を見ていると、描かれた人たちがじっとこちらを見つめているような一連の作品が印象に残った。もっとも、作品の中には、全く無関心、迷惑のように、横を向いたり、後ろを向いた人も描かれている。描かれることが嫌いな人でも、画家は家族の一員として描いておきたいと思ったのだろうか。これまでも記したことのあるル・ナン兄弟の筆になるとされる農民や職人たちを描いた作品である。いずれも大変生真面目な雰囲気で、描かれている。使われている色彩も地味で、なんとなくセピア色の世界に迷い込んだ感じがする。農民や職人を描いた作品は、3人の兄弟の中で長兄に当たるルイが、最も得意としたと考えられる。しかし、こうした主題での作品を依頼したのは誰なのか、ほとんど不明のままである。パリに移住する前に制作した可能性も十分にある。
この時代の画家にしばしば見られることだが、作品に署名や画題が記されていないことがある。ル・ナン兄弟の場合は、さらに難問がある。以前に記したように、ルーカス、アントワーヌ、マティユー Louis, Antoine, Mathieu の3兄弟の誰が描いたか、あるいは共同で制作したかが今となっては判別し難い。いわゆる作品の帰属 attributonの判定が難しい問題が、美術史家やコレクターを悩ましてきた。
その後、作品についての研究が進み、作品の特性、モデルなどから、兄弟間の作品の微妙な差異が次第に推定できるようになった。2016年のキンベル、サンフランシスコ美術館巡回展のカタログ・レゾネ★ではかなり新しい事実が発見されている。半世紀近く各地で見てきた作品でも、少しでも新たな事実が付け加えられているのを見ることは楽しい。
例えば、今回は展示物全てをルイ、アントワーヌ、マティユーの3兄弟のいずれに近いかを分類する試みも行われている(pp..96-97)。それによると、農民や職人を描いた作品は長兄ルイが主として制作したと考えられる。おそらく小さな田舎の町 Laon からパリへ出てきた当時は、故郷の田園的光景が彼らにとって最も身近な画題だったのだろう。もしかすると、故郷にいる間に制作していたのかもしれない。次兄アントワーヌは「カードプレイヤー」、近年発見された「聖ペテロの否認」など3人から数人を対象に描いた集団肖像画に近い作品が特徴のようだ。比較的数は少ない。しかし、他の兄弟と共同で制作したことは十分に考えられる。今日、最も作品数が多数残されているのはマティユーであり、主題も宗教画への傾斜が認められる。こうした区分は今日でもある程度可能とはいえ、個別の作品の水準では謎が残る。
「3人の若い音楽家」
ca.1460-1645
oil on canvas, 27.3x34.3cm
Los Angeles County Museum
「バッカスとアリアンネ」
ca.1635
oil on canvas
102x152cm
Musee des Beaux-Arts, Orleans, France
ル・ナン兄弟の作品には神話 mythology に関する作品が少ないことが知られている。この「バッカスとアリアンネ」はその数少ない神話を描いた作品であり、現存しないが、ル・ナン兄弟の時代にフォンテンブローに置かれていた石像をモデルにした作品と推定されている。こうしたテーマの作品を制作するには、多くの知識が要求され、兄弟は間違いなく、パリ市内のこうした場所を訪れ、スケッチなどを行なったと思われる。
ルイと比較して、アントワーヌとマティユーは、かなり主題が重なる作品を制作したと推定され、しばしば共作に近い形で制作した作品が多いことも明かになってきた。それでも、この二人の兄弟の作品区分をすることは困難を感じることが多い。結果として、Le Nain という曖昧さを残した表記は今後もかなりの作品に残ることだろう。今回取り上げた作品については、記すことは大変多いのだが、今回はこれで終わり。
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Reference
THE BROTHERS LE NAIN: PAINTERS OF SEVENTEENTH-CENTURY FRANCE, BY C.D.DICKERSON III AND ESTHER BELL, NEW HEAVEN AND LONDON: YALE UNIVERSIRY PRESS, 2016.