時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

​苦難の時代:対比モデルとしてのルーベンス (1)

2022年05月09日 | 絵のある部屋


ペーテル・パウル・ルーベンス《聖家族と聖フランチェスコ、聖アンナ、幼い洗礼者聖ヨハネ》1630年代初頭/中頃、油彩・カンヴァス、176.5x209.6cm, メトロポリタン美術館、ニューヨーク 出展番号18

現在『メトロポリタン美術館展』に展示されているルーベンス(オランダ語:リュベンス)の作品である。制作年代は1630年代初期から40年代中頃と推定されているこの作品は、聖家族、聖アンナが幼い洗礼者聖ヨハネを伴う聖母子、そして聖フランチェスコの幻視など、いくつかの伝統的主題をひとつの画面に描いているため、物語性は排除されている。しかし、画面からは穏やかな印象が伝わってくる。ルーベンスは、制作後も継ぎ足しや加筆をかなり行ったようだ。ルーベンスの作品の中では、決して中心的な位置を占めるものではないが、好感が持てる作品である。

メトロポリタン美術館 The METは、かつては足繁く通った時もあったが、この作品に出会った記憶はなかった。そういえば、1200点を越えるとも言われるルーベンスの作品だが、METが所蔵する作品は少ないようだ。ニューヨークとオランダとのつながりから見ても不思議な感じがする。日本の国立西洋美術館でも10点余を所蔵しているはずなのだが。



対比モデルとして:ラ・トゥールとルーベンス
ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593-1652)の探索を行う過程で、陰に陽にブログ筆者の脳裏に去来していたのは、ぺーテル・パウル・ルーベンス(Peter Paul Rubens: 1577-1640)であった。
ほぼ同時代の画家でありながら、画家としての出自、私的生活、制作活動などあらゆる点で、ロレーヌの画家ラ・トゥールとは、両極に近い対照を見せている。ルーベンスの作品数の多さからみても、ほぼ同時代人のラ・トゥールはこの画家の作品にはかなり馴染みがあるはずだった。しかし、その影響は余り感じられない。両者の作品制作に当たっての思想は極めて異なっている。

たまたま、ブログ筆者の友人が若い頃に住んでいた家がルーベンスの生地であったジーゲンであったことが、ルーベンスに関心を持つようになった端緒のひとつであった。自宅に泊めてもらい、ドイツ人の家庭の有り様も体験した。1960年代のことである。

ルーベンスの画家としての生涯、画風は簡単には尽くせないが、バロック期のフランドルの偉大な画家であり、外交官でもあった。作品のジャンルは、歴史画、神話画、祭壇画、肖像画、風景画など、極めて多岐にわたった。現存する作品から判断する限り、宗教画、世俗画など限られたジャンルの作品しか残っていないラ・トゥールとは対極に位置するかのようだ。さらには、ラ・トゥールが果たし得なかった版画、出版の分野にまで広範に手をのばしている。17世紀ヨーロッパ、バロック時代に屹立する有名画家のひとりである。「バロックの天才」と言っても過言ではない。他方、ほぼ同時代人のラ・トゥールは、しばしばバロックの流れに安易に位置付けられるが、その作風は明らかにゴシックの流れにあったと考えられる。

恵まれた画業生活
洗礼記録以外、誕生から画家としての修業過程もほとんど不明なままのラ・トゥールと比較すると、ルーベンスはアントウエルペンでの人文主義教育、聖ルカ・ギルドへの入会を始めとして、充実した画業修業を過した。1598年に修業を終え、21歳で親方画家として芸術家ギルドの一員の資格を認められている。画業習得の過程すら全く不明なラ・トゥールと違って、ルーベンスはあらゆる点で恵まれた環境にあった。ルーベンスの生涯についての記録は、この時代の画家としては例外とも言えるほど豊富に存在し、今日まで継承されている。

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N.B.

《スペイン戦争, The Spanish Fury》ダニエル・ファン・ハイル(Daniel van Heil, 1604-62)
アントウエルペン(アントワープ)の市街が戦火に包まれる光景は、現下のロシアによるウクライナ侵攻の有り様と図らずも重なって見える。

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N.B.
80年戦争(Tachtigjarige Oorlog)は、 1568年から 1648年にかけて( 1609年から 1621年までの12年間の休戦を挟む) ネーデルラント諸州が スペインに対して起こした反乱である。これをきっかけに後の オランダが誕生したため、オランダ独立戦争と呼ばれることもある 。この反乱の結果として、 ネーデルラント17州 の北部7州は ネーデルラント連邦共和国として独立することになった。北部7州は、1581年にスペイン国王 フェリペ2世の統治権を否認し、 1648年の ヴェストファーレン条約によって独立を承認された。
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アントウエルペンへの侵攻と占拠は80年戦争の間に起こり、その後この都市の衰退をもたらしたとされる。しかし、ルーベンスが過した当時、アントウエルペンは、戦火の中にあったが、16世紀末から17世紀初めにかけては、ヨーロッパでも有数の芸術的環境を維持していた。

イタリアへの旅と滞在(1600年ー1608年)
ルーベンスは、当時のヨーロッパの若い芸術家たちの憧れの地であったイタリアへの旅をヴェネツィアに始まるきわめて恵まれた形で行った。金銭的には手持ち資金も少なく豊かではなかったが、多くの著名人への紹介状を手に旅を続けることができた。後には憧れのローマも訪れ、イタリア・ルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロなどの作品から多大な影響を受けた。カラヴァッジョの作品にも接している。後に、カラヴァッジョの作品購入の手助けなども行っている。ティツィアーノのから受けた影響も大きい。この時期には、マントヴァ公の金銭的援助も受けることができた。ルーベンスに求められた役割は、公の家族、親戚などの宮廷の美女たちを描くことにあった。画家が得た報酬は故郷に残った母親に送られていた。

ルーベンスの夥しい数の作品を見て気づいたことは、肖像画のジャンルにおける卓越した能力であった。作品の数も多い。多数の著名人の肖像を描くことを通して、天賦の才能は格段に磨き上げられたことだろう。そして、経済的にも豊かになった。

ラ・トゥールの場合を見ると、人物を描くという能力はルーベンスを凌ぐものさえ感じられる。しかし、この画家には肖像画の作品が残っていない。戦火や悪疫が襲うロレーヌの地では、顧客の数も少なかったことは想像に難くない。ラ・トゥールの力量からすれば、肖像画の依頼は多数あったかもしれないのだが、滅失、逸失などで今に残る作品がないのかもしれない。環境の違いが画家の生活を大きく左右するものであったことがよく分かる。

さらにルーベンスはマントヴァ公からスペイン王フェリペ3世(1578-1621)への特使としてスペイン王を訪れ、外交官としてのスタートを果たしてもいる。フェリペ2世の収集したラファエロとティツィアーノの膨大な作品にも接していた。1604年にはイタリアへ戻り、各地を転々としながら制作活動を続けることができた。ルーベンスは念願叶ってローマに滞在したが、当時の人口は11万人くらいで、ヴェネツィアよりも少なかった。しかし、画家にとってはギリシャ、ローマの膨大な遺産を学ぶと共に、当時活躍していた同時代の芸術家たちの活動を学ぶには宝庫のような場所であった。ローマが持っていた吸引力の大きさには改めて驚かされる。


続く

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苦難の時代:しばし目を休める

2022年04月12日 | 絵のある部屋

ジャン・アントワーヌ・ヴァトー《メズタン》1718-20頃 メトロポリタン美術館、ニューヨーク
Jean-Antoine Watteau (French, Valenciennes 1684-1721 Nogent-sur-Marne)
Mezzetin
ca. 1718-20, oil on canvas, 55.2 x 43.2 cm, The Metropolitan Museum of Art, New York, Munsey Fund, 1934(34.138)



コロナ禍、ウクライナ戦争など憂鬱な日が続く。快晴の日、遅まきながら国立新美術館の「メトロポリタン美術館展」へ出かける。混んでいたら、2回に分けて鑑賞することにしようと思っていたが、適切に入館者が管理されていた。午後2時の予約で入館したが、ほどよい入館者数ではないかと思われた。人気の作品の前でも人の列が重なり合うことは少なく、単眼鏡に頼ることもなく、細部もほぼ十分楽しむことができた。

メトロポリタン美術館(略称:Met)はブログ筆者にとって、ほとんど半世紀前、最初に出会った世界的な大美術館であったから、当時の印象も感動も格別であった。滞米中はニューヨークへ出かけるたびに訪れていた。館内の展示の配置まで覚えていた。最近は訪米の機会が少なくなっていたので、今回日本に来るのはどんな作品か楽しみであった。

絵画作品だけの展示であったから、この世界的美術館の全容をイメージするには十分ではないが、「西洋絵画の500年」という展示のテーマを有期の展覧会でカヴァーするにはほぼ十分であると思われた。

入館してすぐに幾つかの懐かしい作品が目についた。ラ・トゥール《女占い師》は、今回の特別展のPRポスターに採用され、注目度は急速に上昇したようだが、半世紀前から注目していたブログ筆者にとっては、遅過ぎたという感じは否めない。



出展作品についての感想は多々あるが、今回は日本ではあまり注目されていないが、Metが誇るひとつの作品を取り上げてみよう。

アントワーヌ・ヴァトーの作品《メズタン》は著名な作品だが、その内容を正しく理解するにはある程度の基礎知識が必要になる。今回の展覧会カタログその他から要旨を簡単に記しておこう。

メズタンとは、1718ー20年頃に描かれたこの作品に描かれた舞台衣装を着た音楽家の名前ではなく、18世紀に流行した演劇のキャラクターの一つである。それはパリやその郊外で縁日の市にしつらえられた非公式の劇場で盛んに上演され、あらゆる階層の人たちが楽しんだイタリアの即興喜劇、コメディア・デラルテに登場したキャラクターであった。

メズタンは、おどけ者の使用人が従者で、ギターを奏で、むくわれない恋を、虚しく追い求める。そのため、ヴァトーはメズタンの背後の庭園にこちらに背を向けた女性の彫刻を描いている。ベレー帽、ひだ襟、縦縞の上着に膝丈の半ズボンという彼の服装はメズタンの衣装に特有なデザインだが、通常ストライプは赤と白であったため、この作品での色使いは変則的なものになっている。

イタリアの即興喜劇コメディア・デラルテのコミックキャラクターであるメズタンは、パリの舞台で定評のあるパフォーマーであったが、ワトーの生涯における絵画の革新的な主題だった。メズタンは、ワトーが愛する草に覆われた庭園にいる。彼の衣装は通常、縞模様のジャケットと乗馬用ズボン、フロッピーの帽子、ラフ(ひだ襟)、そして短いマントで構成されている。彼の性格は、彼女を彼に背を向ける遠くの女性像によって示されるように、時に邪魔で、嫌われたり、しかし愛情深いものだった。ヴァトーの繊細なタッチは、特に人物の手や衣服に見られるが、この絵では非常によく保存されている。1767年の競売時の目録には、保存状態が良く、人物がルーベンスのような色調で描かれていると記されている。当時の記録では卵形ovalの額装であったようだが、今日残る作品にはその跡は残っていない。

初めてこの絵を見ると、優雅な構図と繊細な色調が印象に残るかもしれないが、最も魅力的な点は粗い筆致で描かれた顔と骨張った大きな手にある。この点はメトロポリタン美術館が収蔵する素描(下掲)との比較で確認されている。上掲絵画作品のモデルと考えられ、この画家については珍しくモデルについての観察力と性格描写の迫真性が際立っている。画家としての修業が確実に生きていることを示すものでもある。この画家はひとりの時間を大切にし、自分の作品を売ることには関心がなく、不安定な生活を送り、自身が制作した膨大な数の準備素描以外には、所有物はほとんど何もなかったと言われる(『メトロポリタン美術館展カタログ』p.146)

上掲の作品は、幸いなことに経年劣化も後年の修復による損傷もほとんどなく、色彩豊かで多彩な色調にはルーベンスの影響が感じられる。

静かな庭園の片隅で一人楽器を奏でるメズタンの姿は、多くの華やかな展示作品の中では見過ごしかねないが、しばらく立ち止まって静かに考えるにふさわしい価値ある作品だ。




アントワーヌ・ヴァトー《男性の頭部》1718年頃、ニューヨーク、メトロポリタン美術館


References:
カタログ『メトロポリタン美術館展 西洋絵画の500年』European Masterpieces from TheMetropolitan Museum of Art, New York, 国立新美術館 2022年2月9日ー5月30日

Watteau, Music, and Theater: The Metropolitan Museum of Art, Distributed by Yale University Press, New Heaven,  2009 (now out of print).
下掲の本書は、ルイXIVの在位の時代に展開した絵画と音楽(視覚芸術)、舞台劇(舞台芸術)を結ぶ豊潤な文化に焦点を当てた作品である。ロココを代表する画家Jean-Antoine Watteau(1684-1721)と18世紀初期のフランス画家の音楽と劇場をめぐる華やかな活動に焦点が当てられている。若い画家ヴァトーが活気に満ちたパリに到着した後、勃興した音楽と演劇の魅力的な発展のありさまが本書の主題となっている。ヴァトーや他の18世紀の芸術家たちの魅力的な素描や版画、陶磁器や楽器も含まれていて興味深い。150ページに満たない小冊だが、この画家の世界を知るには欠かせない多くの材料が含まれている。
本書によると、上掲の作品は当初画家の友人で熱心な支援者であった裕福な織物商ジャン・ド・ジュリエンヌJean de Jullienneが30年以上所有していたが、その後ロシアの女帝エカチェリーナの所有になった。その後画商の手を経て、1934年にメトロポリタンの所蔵するところになったようだ。












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日本につながっていた​サージェント《カーネーション、ユリ、ユリ、バラ》

2022年02月01日 | 絵のある部屋


このブログではるか以前に取り上げたことのある記事が、10年以上の年月の経過の後に、新聞、TVなどのメディアに取り上げられることが続き、少しばかり驚くことが続いている。

1月30日付けの『日本経済新聞』にアメリカ人画家ジョン・シンガー・サージェント(1856~1925)の《
カーネーション、ユリ、ユリ、バラ》(1885〜86年、油彩、カンヴァス、174x153.7cm、テート・ブリテン蔵)が大きく掲載されていた。日曜に掲載される「美の粋」シリーズの対象としてである。「19世紀園芸の東西交流(1) 植物のハンター、世界をめぐる」と題した第一回に取り上げられている。画中に描かれている植物、とりわけユリに関するストーリーが作品紹介と併せ語られていて興味深い。

サージェントはアメリカ印象派として知られるが、肖像画のエクスパートであった。生涯に3000点近い作品を残したとされている。上掲の作品はごひいきで実物を何度も見ているのだが、筆者の経験では、この絵の前で多数の人が立ち止まっている光景は見たことがなかった。

しかし、今回の新聞記事によると、10年ほど前からこの絵の展示場所を学芸員に訪ねる日本人来館者が増えたとのことだ。日本の「テート・ギャラリー」展に展示されたこともあって、日本人の認識度が上がったのかもしれない。《カーネーション、リリー、リリー、ローズ》はサージェントにとって初めて公立の美術館から購入された作品となり、その後もテート・コレクションの一部として、 テート・ブリテンで展示されている。イギリス印象派の代表的作品と言える。

サージェントは、筆者が好む画家のひとりでもあり、このブログでも何度か取り上げているが、今回取り上げられている作品のコピーは筆者の仕事場にも表装されて置かれている。東洋的で幻想的な雰囲気が漂う作品であり、柔らかで穏やかな色彩は、眺めていて飽きることがない。来歴ではロイヤル・アカデミーの会長がこの作品を高く評価し、テート・ギャラリーがぜひ購入するよう強く働きかけたようだ。当時のイギリス画壇の主流には、美の移り変わる瞬間を描いた作品を評価する風潮があった。サージェントのこの作品はその流れに沿ったものでもあった。

ヤマユリは、ブログ筆者も球根を購入し、庭のひと隅に植えたことがあるが、コロナ禍もあって手入れが悪く植えたままになっている。ヤマユリと野生のユリを交配して、豪華な花を咲かせる園芸品種、オリエンタル・ハイブリッドのカサブランカは、例年大輪の花を咲かせ、楽しませてくれる。

描かれているヤマユリは、はるばる遠く日本の地から送られた球根が、花開いた成果であるようだ。画面に漂う東洋的な雰囲気は、こうした国際貿易の流れがイギリスの地で花開いたものといえる。江戸時代後期、長崎の出島に滞在したドイツの医師・植物学者のシーボルトは2度にわたり、600種類以上の植物を欧州に向けて送った。しかし、そのリストにはヤマユリの名は見当たらなかった。当時の植物輸送の技術で熱帯を通過する過酷な船旅で生きたままの繊細な植物を輸送するのは多くの困難が伴ったようだ。

日本の植物、とりわけ花の球根が貿易の対象として盛んになったのは明治の開国以後であり、プラントハンターと呼ばれる人々が活躍したことによるところが大きいといわれている。ヤマユリの美しさに目をつけ、英国に輸入を図ったのは英国の園芸業者「ヴィーチ商会」のようだ。さらにお雇い外国人のルイス・ボーマーが横浜に設立した「ボーマー商会」もユリ根の輸出で大成功を収めた。輸送途中の湿度管理のために水で練った赤土の泥団子でユリ根を包んで、船に乗せるなど輸送中の管理を含め、多大な努力を払ったようだ。そして英国にヤマユリの球根が届いたのは1862年であったらしい(下掲の新聞記事参照)。

サージェントの作品は1885年の夏にコツワルドのブロードウエイにあるファーナムハウスのイギリス式庭園で制作されたが、完成は86年夏までかかったようだ。その訳は、サージェントは瞬時の光の変化を大切にし、日暮れのわずかな時間を選んで、その雰囲気を描くことに格別の努力を注入したらしい。

この作品については、当時のイギリス画壇には、フランス的だとの批判もあったようだが、画面に漂うイギリス的な雰囲気を評価する人々も多く、結局現在のテート・ブリテンに所蔵されることになった。画面で一際目立つこのユリの花は大変象徴的な意味を含んだ花と考えられてきた。謙遜、傾倒、純粋、無垢などを含意としている。

2人の幼い子供の姿は、夕闇迫る時間、幻想的な雰囲気に溶け込み、見る人の心を落ち着かせる不思議な効果をあげている。

Reference
窪田直子
美の粋「19世紀園芸の東西交流(1) 植物ハンター、世界をめぐる」日本経済新聞2022年1月30日

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生涯で一度の機会: ファン・アイクの真髄に迫る

2021年05月23日 | 絵のある部屋


《ヤン・ファン・アイクの胸像》
Attributed to Willem van den Broecke (Paludanus), Portrait Bust of Jan van Eyck, 1545-54, Mas, Antwerp

新型コロナウイルスの世界的感染拡大が始まってすでに1年余りとなるが、収束の気配はない。この間、世界中でさまざまな催し事、展覧会などが延期や中止となった。期待していた大型美術展などで中止になったものもあり、大変残念な思いがした。その中には、ベルギーのヘント(ゲント)で開催されたファン・エイクの特別展もあった。会期途中で中止閉幕となってしまった。この展示では、この稀有な画家の現存作品およそ20点のうちの半数近くが見られるはずだった。イギリスで友人のメモリアル・サービスへの招待など行事もあったので、暫くぶりに長旅をしようかとも思ったが、全てコロナ禍で中止になってしまった。これだけの数のファン・エイクの作品が同時に展示されることはまずなく、大変残念な気がしている。

Van Eyck: An Optical Illusion, 1 February-30 April, Museum of Fine Arts Ghent
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N.B.
ヤン・ファン・エイク(Jan van Eyck, 1335年頃ー1441年)は 初期フランドルのフランドル人画家であり、15世紀北ヨーロッパで巨匠といえる最も重要な画家の一人である。西洋美術史上においても疑いなく画期的な芸術家である。
画家の出自、画業修業についてはほとんど分からない。主にブルッヘで活動、1425年ごろからブルゴーニュ公フィリップ3世に認められ、寵愛されて宮廷画家、外交官として仕えた。15世紀初期のフレミッシュ美術の巨匠である。
ファン・アイクの特別展は、主催者がその内容において 「一生に一度の経験」’a once-in-a-lifetime experience’とまで誇示していただけに、コロナ禍のため会期途中で中止となったのは惜しまれる。特別展カタログではないが、この画期的な展示に合わせて作成された極めて充実した学術図録を手元にon-lineの紹介と併せて疑似体験を試みたが、改めてこの画家が残した偉大な成果に圧倒された。
図録も印刷技術の目覚ましい進歩により、展覧会場ではなかなか確認できない細部が見事に再現されていて素晴らしい。興味深い分析と併せて長時間見ていても飽きることがない。


Van Eyck: An Optical Illusion,Thames & Hudson, 2021, pp.503
On-line:
MFA Ghent’s online tour at 6pm GMT on 8 April
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「ヘントの大祭壇」
今回の特別展の主要な見所は、次のような作品にあった:
『ヘントの祭壇画』または『神秘の子羊』『神秘の子羊の礼拝』といわれる複雑な構成の多翼祭壇画。兄 ヒューベルトとの共同作業としてのヘントの聖バヴォ大聖堂 の祭壇画として知られている。1432年の完成以後、その華麗で精彩な仕上がりで、世界的な名作として500年以上の時を超えて、今日まで継承されてきた。このたび修復作業を経て、大聖堂の新しい場所に設置された。この祭壇画は12枚のパネルから構成され、主題の「神秘の子羊の礼拝」が中央下段に位置している。

《神秘の子羊礼拝》開扉時下段中央

外側パネル(表扉)にも注目すべき点が多々あり、開扉時に下壇中央に描かれている《神秘の子羊の礼拝》が主になっている。

《神秘の子羊礼拝》表扉
Jan (c 1390-1441) and Hubert van Eyck (c 1366/1370-1426) The Adoration of the Mystic Lamb, 1432, Outer panels of the closed altarpiece, Oil on panel, Saint Bavo’s Cathedral, Ghent

8点の外扉パネルは、聖バヴォ大聖堂以外で長らく展示されてきた。1830-1918年の間は、パリのナポレオン美術館、1830-1918年にはベルリンで展示された。第二次大戦後修復作業が行われ、特に2012年に大規模な修復がなされた。この祭壇画が今日まで過ごした数奇な運命の変遷は、それだけで十分一冊の本になる。

視覚の革命 Optical Illusion
この画家の作品は、細部と光の表現力がすごい。精密で絶妙な細部描写と輝く色彩美は、図版で見る限りでも観るものを捉えて飽きさせない。順次展示された作品毎に展開される驚くばかりの写実性と絶妙な色彩の変化は、「初期フレミッシュ」の作風がいかなるものであるかを改めて実感させる。



細部についてもこの精彩さと美しさ。
Q. これはどこの部分でしょう? 答は最下段

画家の制作能力
これもよく知られている下掲の《ある男の肖像》Portrait of a Manと《神秘の子羊の礼拝》The Adoration of the Mystic Lambは同じ制作年次が記されている。この二つの大きく異なる規模の作品を同じ場所で展示する意義は、画家とその天才性についての理解を前進させると考えられている。Portrait of a Manも最近広範囲にわたり修復された。下掲のPortrait of a Man (Leal Souvenir) (1432) National Gallery , Londonのコレクションも、1857年にGalleryによって取得されて以来初めて貸し出しが行われた。

《ある男の肖像》(最近の修復前に撮影)
photographed before the recent restoration: Jan van Eyck, Portrait of a Man (Leal souvenir or Tymotheos), 1432. Oil on panel, 33.3 x 18.9cm. The National Gallery, London

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N.B.
『ティモテオスの肖像』(英: Timotheus)は、オーク板に油彩で描かれた板絵で、『レアル・スーヴェニール』あるいは単に『男性の肖像』と呼ばれることも多い。描かれている男性が誰なのかは伝わっていない。『ティモテオスの肖像』は1857年にロンドンのナショナル・ギャラリーが購入し、以後ナショナル・ギャラリーに常設展示されている。現在の研究家たちは、下段に碑銘のように刻まれた法律文書のような文体から、描かれている男性はフィリップ3世の法律顧問官だったのではないかとする見方もある。
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ヤン・ファン・エイクはこの時代に、モデルは異なるが、似たような肖像画をかなり残している。ご存知の方も多いだろう。


《青いシャプロン(飾り布)を被ったある男の肖像》
Jan van Eyck, Portrait of a Man with a Blue Chaperon, c.1428-1430, 22 x 17cm, Muzeul National Brukenthai, Sibiu (Romania)



ヤン・ファン・エイク《赤いターバンの男
Jan van Eyck, Portrait of a Man (Self Portrait?), 25.5 × 19cm, 1433.  National Gallery London

「初期フレミシュ」“Flemish Primitive” の精彩
ファン・アイクは油彩に革命を起こしたといわれる。初期オランダ美術の代表的存在であり、唯一無二の画家であった。ヨーロッパ中からの注文が殺到していた。

この画家は、自らの才能に絶大な自信も抱いており、それを誇示していた。他の同時代画家と違って、アイクは通常作品にサインし、日付を記した。時には、‘As well as I can’ (フレミッシュからの翻訳)という個人的モットーも記入している。自らの画家としての技量について大きな自負を抱いていたのだろう。

作品:


《泉のそばのマドンナ》
Jan van Wyck(Maaseik?, c 1390-1441) The Madonna at the Fountain, Oil on panel 19 x 12cm Royal Museum of Fine Arts, Antwerp


《受胎告知》
The Annunciation, c.1434-1436, Oil on panel , transferred onto canvas 92.7 x 36.7 cm, National Gallery of Art Washington, Andrew W. Mellon Collection

★Answer: 《神秘の子羊礼拝》表扉最上段













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大画家・名画パズル(3)

2021年05月18日 | 絵のある部屋


これまでのパズルはいかがでしたか。メトロポリタン美術館の学芸員の間でのゲームから生まれただけに、多数の凝ったパズルが作られています。基本的には、学芸員がそれぞれ持ち寄った絵画の断片から原画、画家、作品の含意などを推定する仕組みです。書籍では一般向けのものが選ばれていますが、学芸員でも考えこむものも含まれています。対象は西洋美術史の範囲ですが、ルネサンスから現代絵画まで、メトロポリタン美術館の学芸員ならば当然知っていると思われる有名作品が選ばれています。作品は全てよく知られた作品なのですが、部分的な断片を提示されると、学芸員といえども翻弄されるかもしれません。


それでは、もうひとつ次のパズルはいかがでしょう。判断の頼りになるのは、それぞれの断片と短いコメントだけです。ふたつの相互に関連するQuiz (設問)を提示しておきます。

Quiz 1 この絵は誰によって描かれた作品の断片でしょう?


断片1

ヒント:
最初にこの作品が公開された時には、El Claudro de Familia (family painting) 《家族の絵》と画題がつけられていた。一世紀以上経過した後には、絵を観る人たちの心情は普通の人たち(commoners)に傾いていた。そのため王家の家族に仕えた側近の人たちの名誉のために画題が Las Meninas 《女官たち》に変更された。

Q. この作品を描いた画家は?

答は下掲図



Diego Rodriguez de Silva y Velazquez 1559-1660
Las Meninas (The Handmaidens) 1656
Oil on canvas, 109 x125 in (276 x 318 cm)
Prado, Madrid, Spain
ディエゴ・ベラスケス《ラス・メニーナス》(女官たち)

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N.B.
《ラス・メニーナス》は1656年、スペインの黄金の世紀を主導した画家ディエゴ・ベラスケスの傑作で、西洋美術史における重要な作品。画題は当時のスペイン王室、フェリペ4世の宮廷内の風景を描いたものだが、思考の深さ、作品構成など多くの点でその後の画家、美術史家などに多大な影響を与えた。
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Quiz 2 この絵は誰によって描かれた作品の断片でしょう?

ヒント:
この姉は他の3人の姉妹から離れ、影の中に隠れている。しかし、40年後、彼女たち4人は父親の思い出のために、自分たちが描かれたこの肖像画をボストンの美術館に寄贈した。絵画の一部であるこの大きな花瓶も一緒に寄贈された。




John Singer Sargent, 1856-1925, American
The Daughters of Edward Darley Boit, 1882
Oil on canvas, 87 3/8 x 87 5/8 in (221.93 x 221.57cm)
Museum of Fine Arts, Boston
ジョン・シンガー・サージェント 《エドワード・D. ボイトの娘たち》

ジョン・シンガー・サージェントは、イタリア生まれのアメリカ人画家。ローマ、パリ、ロンドンなどで過ごす。アメリカ印象主義の画家ともいわれるが、パリではクロード・モネ(1840-1926)などの印象派の画家たちと交流があった。1984年には、パリのサロンに出展した『マダムXの肖像』という肖像画(メトロポリタン美術館蔵)によってスキャンダルに巻き込まれた。人妻を描いた作品として官能的に過ぎ、品格に欠けるとされた(今日の評価では、取り立てて問題ではないとされる)。こうした紆余曲折はあったが、サージェントは肖像画家としての地位を確立した。晩年は水彩風景画を主として制作。

サージェントは、ディエゴ・ベラスケスなどからの影響を受けたことで知られる。実際、1879年サージェントがプラドを訪れた折、画家はベラスケスの《ラス・メニーナス》の詳細な模写を行い、それをパリのアトリエへ持ち帰っている。

この作品は友人ボイトの4人の娘を、ボイト家のパリのアパートで描いたといわれる。集団肖像画といえる範疇に入るが、4人の娘たちのキャンバス上の配置に大きな配慮がなされている。

この作品が初めて公開展示された時には、ヘンリー・ジェームズなどの当時の批評家たちが、ベラスケスの影響を受けていると指摘している。2010年にはボストン美術館がこの作品をプラド美術館に貸し出し、ベラスケスの《ラス・メニーナス》と並べて展示した。

4人の子供たちは同じピナフォー(子供用エプロン)姿で描かれている。4歳のジュリアが床上に、8歳のマリア・ルイーズが左側に立ち、12歳のジェーンが背後に立ち、14歳フローレンスが陰に入りながらも描かれている。それぞれの子供たちの性格が微妙に描かれているといわれる。成長過程にあるそれぞれの自律性がうかがわれる。例えば、背後に描かれた年長の二人の姿や表情には先が分からない未来に対する不安や成熟の程度がうかがわれるとされる。ちなみに、後年この4人の娘たちのいづれもが結婚することなく、年長の2人は情緒不安定に悩まされたといわれる。

1919年、4人の姉妹はこの絵を父の思い出のために、ボストン美術館へ寄贈した。

ちなみに作品画面の後方に置かれた大きな花瓶(有田焼と思われる)は、ジャポニズムの影響と考えられる。これも作品とともに美術館へ寄贈された。

このブログでは、この画家の別の作品も紹介しています。
カーネーション、リリー、リリー、ローズ》1885-1887年、テート・ギャラリー、ロンドン さらに、サージェントのアメリカ印象派としての位置づけについても記している。


このQuiz、いかがでしたか。2問目のサージェントは少し難しかったかもしれません。幸いブログ筆者はご贔屓の画家であったので、正解できましたが。


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大画家・名画パズル (2)

2021年05月12日 | 絵のある部屋
 

今回のパズルは少し難易度が上がる。
これは誰が描いた、いかなる作品の一部でしょうか。

ヒント:
⭐️この作品を観る人は、誰かが背後から近づいているような感じを受けることがある。

⭐️この時代の画家にとって、自分の署名を作品に残すことは習慣ではなかった。しかし、この天才画家は自分の作品のいくつかには署名を残したばかりでなく、/Als ich kan (as I can)/ と付け加えたこともあった。この句に込められた謙遜さは、興味深い。というのもこの画家は西欧文化における偉大な画家のひとりだから。

もうお分かりですね。


このブログを読んでくださっている方は、この画家の作品をご存知のはずである。そう、《
アルノルフィーニ夫妻像として知られるヤン・ファン・エイクの名作の中にこの鏡は描き込まれている。画面の中にもうひとつの画面を描きこむという発想の斬新さに感嘆する。そして、その精緻な仕事ぶりに圧倒される。



Jan van Eyck (active 1422; died 1441)
Portrait of Giovanni(?) Arnolfini and his Wife (Portret van Giovanni Arnolfini en zijn vrouw: The Arnolfini Portrait)
1434, oil paintings on 3 oak panels, 82.2×60.0cm
The National Gallery, London

《アルノルフィーニ夫妻像》

もう一度、見てみよう。凸面鏡の枠に刻まれた小さな円型の飾りはイエス・キリストの受難を表現している。凸面鏡は結婚の誓いを見届ける神の目のようでもある。同時に曇りない鏡は聖母マリアの処女懐胎と純潔の象徴でもある。

鏡の中で戸口に立つ二人の人物のひとりは、画家自身と考えられる。

もし、この作品が婚姻証明であると考える後世の学者の説に従うならば、二人の人物はこの結婚を法的に正当なものとするために招かれた立ち会い人であろう。

扉の近くに立つ二人の男のうち、赤い服の男性がファン・エイク自身と考えられている。
さらに、鏡の上に「ヤン・ファン・エイクここにありき。1434年 (Johannes de eyck fuit hic. 1434)」 と日付入りの署名がある。この署名は木製の額縁にだまし絵風に彫刻されているかのように書かれている。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
N.B.
この構想と似通っているベラスケスが、絵画制作中の自らの姿を描き入れた《ラス・メニーナス》とは異なり、ファン・エイクは絵を描いている姿では描写されていない。ちなみに、ベラスケスはファン・エイクのこの絵を見たのではないかと推測されている。ベラスケスは国王夫妻が制作の場を訪れている光景が鏡に映されている。



Diego Rodriguez de Silva y Velazquez(1559-!660)
Las Meninas (The Handmaidens), 1656
Oil on canvas, 109 x 125 in (276 x 318 cm)
Prado, Madrid, Spain
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

この作品、「アルノルフィーニ夫妻像」として知られているが、近年調査が進むにつれて、さまざまな謎が生まれてきた。その一部は、これまでのブログで記事としたが、ここでは立ち入らず「アルノルフィーニ夫妻像」としておこう。


ヤン・ファン・エイク『アルノルフィーニ夫妻像』1434年、ナショナル・ギャラリー、ロンドン
2020年2月〜4月にかけてゲントで開催されたこの画家の特別展では、Optical Revolution と題してこの画家の知られざる側面に光を当てている。これまで公開の美術館の展示では充分見ることができなかった部分が、印刷技術の進歩もあって、驚くほど鮮明に写しだされている。
この画家の他の作品も素晴らしく、図録もきわめて綿密に仕上げられており、よく見かける展覧会用の平板なものではない。読んでいて多くのことを教えられる。学術的にも水準が高い。ひとつだけ難を挙げるとすれば、図録が年々大部で重量感のある出版物になっていることぐらいだろうか。


Van Eyck: An Optical Revolution, catalogue cover
Museum voor Schone Kunsten, Ghent
1February - 30 April 2020


続く
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大画家・名作パズル(1)

2021年05月10日 | 絵のある部屋



MASTER PIECES 
コロナ禍で社会的な閉塞感が強まる中で、多くの時間を室内で過ごす人が増えている。そうした人たちにとって、格好の気晴らしの材料となるかもしれない一冊の本を紹介したい。

Thomas Hoving, Master Pieces: The Curator’s Game, W.W. Norton, New York, N.Y., 2006


美術館学芸員のパズルゲーム
この本、作られた背景が興味深い。ニューヨークのメトロポリタン美術館のさまざまな絵画部門の学芸員が毎週1回、特別に長く設定されたコーヒー・ブレークの時に、それぞれが多数の絵画の部分(断片)の写真を持ち寄り、それがどの作品の部分であるかを当てるゲームである。勝者はその週のコーヒー代がタダになる決まりのようだ。

学芸員は仕事柄、作品の細部にわたり、仔細に調べ検討するのが日常になっている。少なくとも自分の専門領域の作品については、精密に調査研究し熟知していると自負している。ゲームに提出される断片は2枚(容易な部分と難しい部分)であり、提示されるのは有名作品ばかりでなく、それほど有名でない絵画作品もある。対象とする時代は13世紀から現代にわたり、専門の学芸員でもかなり頭を使うようだ。本書はこれまでゲームに使われた素材の中から、一般的な57点を選んでパズル・ゲームブックの形としたものだ。

この本を使ってのゲームの楽しみ方は、色々考えられているが、普段使わない脳細胞の部分を活性化させてくれ、美術の愛好家、専門家といえどもかなり手こずる難題もある。初心者から専門家まで、それぞれに新しい視点や知識を得ることができるユニークな試みである。これを手がかりに皆さんもそれぞれ標本を持ち合い、ティータイムを楽しむこともできるでしょう。

ひとつの例を紹介してみよう。
本書の表紙に空けられた下掲の3つの窓の絵は、誰のなんという作品の一部だろうか。
 


答は:





Sandro Botticelli (Firenze 1445 -1510)
《La Primavera 春》
1482 circa, Tempera on wood, 126 x 82in (314 x 203cm)
Uffizi, FLORENCE
サンドロ・ボッティチェッリ
春(ラ・プリマベーラ)(La Primavera)1482年頃

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
N,B,
サンドロ・ボッティチェリほど視覚的に甘美な作品を描いた画家はいないといわれる。15世紀後半の初期ルネサンスで最も業績を残したフィレンツェ派を代表する画家。明確な輪郭線と、繊細でありながら古典を感じさせる優美で洗練された線描手法を用いて、牧歌的で大らかな人文主義的傾向の強い作品を手がけた。当時、フィレンツェの絶対的な権力者であったメディチ家から高い信用を得る。

この画家は1444年フローレンスに生まれ、生涯をその地で過ごした。フィリッポ・リッピとアンドレア・ヴェロッキオに師事したが、彼の作品はより彫刻的で直線的といわれる。

1470年、フィレンツエの商業裁判所に作品名「剛毅」を描き好評を得たのがきっかけとなりメディチ家と生涯に渡りつながりを結ぶこととなる。以後、上層階級の市民を次々にパトロンとし画壇の寵児となる。1481年にはローマに呼ばれシスティーナ礼拝堂の壁画制作に携わる。同年代には《ラ・プリマベーラ》や《ビーナスの誕生》など神話を題材にした名作を制作した。

しかし、1490年ごろからメディチ家や富豪の腐敗政治に批判が集まるようになりボッティチェリのパトロンたちの没落が始まると作品の制作依頼もなくなり、そのうえフランス軍のイタリア侵攻などフィレンツェの黄金時代は急速に衰退した。

晩年のボッティチェリは人気が急落し、暮らしが極端に貧しくなり画業をやめるにいたり、孤独のうちに死去。

本作に描かれる主題は、≪ヴィーナスの王国≫と推測されているが、その幾多の画家が描いてきた三美神の描写は、ルネサンス期の絵画作品の中でも特に優れており、卓越した表現や図像展開からルネサンスを代表する三美神として広く認知されている。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

もうひとつのパズル断片を紹介しよう。これは誰の作品の一部でしょう。これが分かれば、かなりの風景画通といえるでしょう。
ヒント:この風格ある建物は風景画家の作品に描かれており、画家は印象派が生まれる以前にイーゼルを野外に持ち出し、細部の仕上げは屋内で行っていた。




答は:


John Constable, 1776-1837, English
Wivenhoe Park, Essex, 1816
Oil on canvas, 23.5 x 19.5 in (56.1 x 101.2 cm)
National Gallery of Art, Washington D.C.

この作品の依頼者はこのパークの所有者であり、画家の父親の親しい友人であったフランシス・スレーター・レボウで、コンスタブルの最初の重要なパトロンとなった。コンスタブルは1812年にレボウ夫妻の当時7歳の娘の肖像画を描いている。邸宅は、遥か遠くの森の中。

いかがですか。今回紹介したのは平易な部類。美術マニアを自認する方でもかなり手こする問題もありますよ。
続く


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歴史の軸を遡る(8):ウール・タウンの栄光の日々

2021年05月02日 | 絵のある部屋

ホーリー・トリニティ教会のステンドグラス

ラヴェナムなど、画家コンスタブルが活動していた「コンスタブル・カウントリー」、イースト・アングリアのことを書き出すと、すっかり喪失してしまったと思っていた記憶の数々が、断片的ではあるが脳裏によみがえる。かつてこの地を訪れた時に記したノートもあるのだが、今見るとしばしば文字列間の脈絡がつかなくなっている。記憶の糸をたどり、多少なりと記しておきたいことがある。「コンスタブルの世界」は作品や図録を見た程度では表面的にしか理解できないからだ。

ちなみにブログ筆者がかなりまとまった形でコンスタブルの作品を観たのは、1991年に開催されたテートでの企画展だった。Tate Gallery Constable Exhibition, 1991
以前に掲載した作品 Dedham Vale (National Gallery of Scotland, Edinburgh)も出展されていた。


コンスタブルが家業の製粉業を継ぐことなく、画家への道へ進む志を捨てきれずにいた頃、一時期だが「ウール・タウン」 “wool towns”の一翼を占め、繁栄していたラヴェナムの寄宿学校に在学し、悶々としていた時期があったことは以前に記した。人生の先行きが決まらないでいた少年は、いじめも経験したようだ。

ウール・タウンとは中世以来、毛織布工業で知られたイギリス、サフォークおよび北部エセックスの町や村々につけられた名称である。今回記すロング・メルフォード(通称:メルフォード)もその中できわめて繁栄し、一時はヨーロッパ指折りの美しい町とまでいわれていた。

ロング・メルフォードの位置
イギリス東南部イースト・アングリアの地図
ロンドン、ケンブリッジ、コルチェスターなどから行くのが便利


ロング・メルフォードの繁栄
当初この地に住み着いたのは、100年戦争によって住む所を追われたオランダやフランドル地方からの繊維織物業の職人であった。それまではこの地の主たる産業は、ほとんど原料としての羊毛の輸出だった。

フランス王位の継承とフランドル地方の領有をめぐって14世紀から15世紀にかけてイギリス・フランス間で断続的に行われた戦争

しかし、その後貿易の内容はデザイン性や加工度が高い毛織物製品が主たるものとなっていった。ギルドが結成され、多くの富がこのサフォーク地域に集積していった。最盛期15世紀半ばには30ほどの織物工場があった。その繁栄を伝える象徴は、今に残る壮大で優美な教会建築である。なかでもロング・メルフォード Long Melford, Suffolkのホーリー・トリニティ教会は今に残るイングランドの教会で最も壮大で美しいものとされている。イーストアングリアで最も富裕な教会、俗に「ウール・チャーチ」と言われる毛織物貿易で富を形成した商工業者たちの寄進によるものである。



Holy Trinity Church, Long Melford


ラヴェナムなどの町が15世紀に入ると、急速に衰退の道をたどったのに反して、ロング・メルフォードの町は、時代の動きを先取りして、その後も長く繁栄を続けた。この町の起源は古く、およそ8300BCまで遡るといわれる。17世紀には黒死病や戦乱の時期が続いたが、その後18世紀末には繁栄を取り戻し、時代の流れを反映したチューダー、ジョージアン、ヴィクトリアンなど様々な様式の家並みが継承されている。当初からこのように街並みを設計したのではなく、異なった時代の建築物が時代とともに生まれ、展開し、美しい街並みを形成しており、大変興味深い。

ロング・メルフォードのハイ・ストリートの街並みは、中心部はローマ人が構築しており、その後古代遺跡そして中世以来の建物の面影を今日に伝えている。ヨーク、ウインチェスター、ハルなどでも同様である。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
N.B.
メルフォードの繁栄にはthe Cloptons of Kentwell, the Cordells of Melford Hall, and the Martynth of Melford Place という3大豪商の存在が大きく寄与している。ホーリー・トリニティ教会には彼らが残した中世英国美術の数々が宝庫のように継承されている。彼らとその子孫たちが残した寄進の跡は、メルフォードの町のあちこちに残っている。
この教会は17世紀の偶像破壊運動などにも耐えて生き残った中世以来の美しいステンドグラスで知られる。’Alice in Wonderlands’ glass として知られる部分は、『不思議の国のアリス』の作者ルイス・カロルのためにジョン・テニエル が描いた挿絵に影響を与えたと伝えられ、観光客の見所のひとつになっている。



3匹のうさぎ(Trinity)のステンドグラス
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骨董市としても繁栄
イギリスで最も美しい町のひとつと言われるロング・メルフォードだが、さまざまな店、画廊、カフェ、レストランなどが散財する小さな町だが、レトロな雰囲気が漂う骨董家具の町としても広く知られている。

ここでは毎月一回最後の土日に骨董市 antiques and vintage fair が開催される。出展されるのは通常考えられる骨董品、宝石、陶磁器、古い衣服、レコード盤、軍装品、書籍や郵便切手など多岐にわたる。

ケンブリッジに滞在している間に、数回訪れたことがあった。半ば見物であったが、自宅を改修中であったので、2、3お目当ての品物も頭にあった。この町は、イギリス中から骨董屋が仕入れに来るといわれ、購入された家具はロンドンなどで補修され、新骨董品としてきわめて高い価格で売りに出されるようだ。骨董店に展示されている品は、近隣の町村などから集められた家具などが中心だが、かなりガラクタに近い品もあった。それらの中で特に関心のあったのは、最近再び話題となっている『おじいさんの時計』Grandfather’s Clock として知られる大きな柱時計だった。

この大きな時計は、骨董市などではかなり見かけたのだが、購入対象として見てみると、いくつかの難点があることが分かった。実際にかなりの大きさであること、故障を含めメンテナンスが難しいことなど、手入れの行き届いた良質のものは極めて高価なことだ。故障した場合に修理ができる店は、イギリスでも少ないことが分かり、あきらめることになった。

結局、イギリスにいる間に購入したのは、壁にかける姿見の鏡、仕事場の机などであった。鏡はまずまず本来の役割を果たしているが、仕事場の机は断捨離作業の物置き場になってしまっている。筆者の生きている間に、本来の目的で使われる可能性は少なくなった。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
N.B.
Grandfather’s Clock 『おじいさんの時計』
作詞・作曲:Henry Clay Work
レリース:1876年
My grandfather’s clock was too large for the shelf,
So it stood ninety years on the floor.
It was taller by half than the old man himself,
Though it weighed not a penny weight more.
It was bought on the morn of the day that he was born,
And was always his treasure and pride.
But it stopped short, never to go again
When the old man died.
CHORUS:
以下略
Quoted from Wikipeia
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コンスタブルの空と雲

2021年04月16日 | 絵のある部屋


Mark Evans, Constable’s Skies: Paintings and Sketches by John Constable, Victoria and Albert Museum/Thames & Hudson, 2018、cover


ジョン・コンスタブルの作品を見ていると、風景画の定義について改めて考えさせられる。この画家については、これまで、かなりの数の作品を見てきたつもりだが、コンスタブルの研究者でもなく、到底全ての作品や遺稿に接したわけではない。

一般に「風景」というと、空は背景で、中心を構成するのはその下に広がる山や森、野原、田園、町など地表に広がる部分と考えがちである。イギリス風景画に大きな影響を与えたティティアン(c.1485-1576)、サルヴァトール・ローザ(1615-1673)、クロード・ロラン (ca1600 - 1682)、ジョシュア・レイノルズ(1723 – 1792) の作品などを見ていると、その思いは格段に強まる。例えば、ロランの作品を見る限り、地上の光景には多大な努力が注がれているが、空の光景は概して平穏で背景の役割に徹しており、コンスタブルの雲のような多様さと動態は感じられない。

他方、コンスタブルの作品の中には空だけを描いたものもかなりある。画面で地表の占める部分の比率が10%程度の場合も極めて多い。コンスタブルの風景画と空の描写は分かちがたい。空がない風景画はないのだ。空が全体の9割近い作品もある、しばしば空だけという作品も多く、こうなると風景画というより、「気象画」「空絵」とでも呼ぶべき新たな範疇を設定した方が良いのではと思うほどだ。

コンスタブルの空の変化、気象に関する研究意欲と関心はきわめて並大抵ではないことは良く知られている。後世、それについての研究書、論文の数も数多く刊行されている。今回はその中から、筆者が最近興味を惹かれた一冊を題材にコンスタブルの世界を紹介してみたい。ここで紹介する作品は、著者の所属の関係もあって、Victoria and Albert Museum 所蔵のものが多いことをあらかじめ注意しておきたい。


Mark Evans, Constable’s Skies: Paintings and Sketches by John Constable, Victoria and Albert Museum/Thames & Hudson, 2018

ジョン・コンスタブルはイギリスの天候、気象についての偉大な画家の一人である。彼の空の描写はこの画家の風景画における必須の構成要素となっている。例えば有名なThe Hay Wain/ and /Salisbury Cathedral from the Meadowsに始まってHampstead Heathについての多数の雲の研究は、絶えず変化する空を前提にした上で展開する地上の世界につながっている。



空の研究に専念した背景
コンスタブルの作品研究の権威Mark Evansの上掲の著書Constable’s Skiesは、画家の生涯を通してイギリスの気象の描写とその魅力、陶酔とを結びつける。コンスタブルは気象日誌をつけ、記録は絶えることなく続けられ、その変化に魅せられてきた。

コンスタブルのこうした考えは、当初は製粉業者の息子(次男)としての環境から生まれ、職業知識として必要不可欠なものだった。天候状態の変化は、農業地帯における風車などの運用に重要な意味を持っていた。経験的にコンスタブルはすでに若い頃から雲の変化について該博な知識を持っていたと思われる。

空はその性質において光の源であり、全てを支配している」 とコンスタブルは述べているが、彼にとっての雲は、17世紀画家のラトゥールにとっての焔のような存在だったのかもしれない。雲なくして作品は成立しないのだ。


コンスタブルは、1821年に友人のジョン・フィッシャーJohn Fisher, Bishop of Salisburyに宛てた手紙で、空を構図の不可欠な部分と考えない風景画家は、制作にとって極めて重要な要素を活用していないことになると述べている。空が作品の基調でもなく、作品構図の標準あるいは情緒の主要な根源ともなっていない風景画家は、風景画にとって最も重要な要素のひとつを十分活用していないことになるとも記している。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜
N.B.
コンスタブルが制作に際しての関心と考察は、当時の気象学の発展からも大きな影響を受けたと思われる。
1923年には気象学の月刊誌が創刊され、気象学の父といわれる科学者Luke Howard(1772-1864) 及び自然科学者 Thomas Forrester(1772-1860)が中心となり、気象学の発展を目指す人々に向けて開かれていた。会費は当時の通貨で年間2ギニー(1971年以降は1ギニー10.5ポンド)の前払いであった。コンスタブルは熱心な読者であった。

1821-1822年には、コンスタブルは自らの考えを実践する上で、’skying’ campaign に乗り出し、毎日変化する雲のある空 ’cloudy sky ’ のスケッチを行い、その時の時間や気象条件を詳細に記している。油彩でのスケッチは1850年まで続け、その後は水彩に切り替えている。

印象派の時代には、コンスタブルのスケッチは、’faithful and briliant’ とされ、1937年画家の没後100年祭 CENTENARY には「抽象画とシュールリアリズムの先駆け」との賛辞も寄せられた。

さらに、コンスタブルは自分の作品に価格付けをし、展示に際しての作品評価の資料としていたともいわれる(Evans p.10)。

オランダ画家からの影響
さらに、コンスタブルは当時の気象学の研究から大きな影響を受けたばかりでなく、17世紀のオランダ画家の作品からも影響を受けたと考えられる。

なかでも17世紀の著名なオランダ画家 Jacob van Ruisdael (1628/9-1682: ヤーコプ・ファン・ロイスダール、最近ではラウスダールと呼ばれることも多い) の作品からも影響を受けたようだ。コンスタブルは1836年6月9日の講演でこの点に言及している。

コンスタブルは、1936年のHampsteadでの講演で自分の観察結果を話す予定だったようだ。ライスデールの模写がほぼ完成に近づいた時、コンスタブルは作品を長年の同僚でもあった友人のジョン・ダンスローン John Dunthrone に見せていた。彼はコンスタブルの試みに深い理解を示していたようだ。しかし、数日後ダンスローンは突如急死してしまった。コンスタブルにとって大きな悲しみであった。

しかし、コンスタブルは、1837年の夜、予期せぬ死を迎えた。



JOHN CONSTABLE. /A WINTER LANDSCAPE WITH FIGURES ON A PATH, A FOOTBRIDGE AND WINDMILLS BEYOND (AFTER JACOB VAN RUISDAEL. 1832.
ジョン・コンスタブル『路上の人、歩道橋及び後方の水車がある冬の光景:』(Jacob van Ruisdaelの作品に倣って。1832)

コンスタブルは友人の死を深く嘆き、ライスデールの作品に倣っての上記作品の制作にさらに傾注することになった。彼はこの作品の背後に、次のように記している:
“Copied from the Original Picture/ by Ruisdael in the possession of Sir Robtt Peel, Btt by me / John Constable RA / at Hampstead Sep. 1832 / P.S. color (…) Dog added (…) only (…) Size of the Original (…) and Showed this Picture to Dear John Dunthrone Octr 30 1832 (…) this was the last time I (…) Poor J Dunthorne died on Friday (all Saints) the 2d of November. 1832-at 4 o clock in the afternoon Aged 34 years.”
(Evans, p.11 あえて、原文のまま)

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

この光景は時の経過に関連している。冬は過ぎ春が来る。そして死者はそこで新生する。コンスタブルにとって、ライスデールの作品に倣ったとはいえ、この光景は1832年秋の深い心の悲しみを写す格好の題材だったのだろう。
 
本書はジョン・コンスタブルの作品、とりわけ空の雲の観察と描写に大きなエネルギーを注いだ画家の作品と生涯を知るに、きわめて適切で心温まる一冊である。

(以下:本書所収のコンスタブル作品から)





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隠れた才能を掘り起こす:コンスタブルを世に出した人々

2021年04月09日 | 絵のある部屋



横顔は
John Constable, Selfportrait 1806, pencil on paper,
Tate Gallery London

コロナ禍の下、多くの美術展や音楽会が中止になる中で、「コンスタブル展」(東京駅三菱1号館美術館)が開催されたのは、薄暗い闇の中に灯火が見えるようで大変うれしい思いがする。

この画家コンスタブル (1776-1837)については、このブログでも何度か記事に取り上げたことがあるが、西洋美術史に輝く巨匠のひとりであるだけに興味深い点が多々ある。在英中に画家の故郷を訪れたこともあり、好きな画家の一人である。

 コンスタブルについては、イギリスの国民的画家であるだけ、非常に多くの研究書が刊行されている。筆者もコンスタブル研究者ではないが、かなりの数を手にしてきた。その中で、第一にお勧めするのは画家コンスタブルの手紙に基本的に基づいた下記の伝記である。筆者はかつて在英中に英文原著を読んだことがあるが、今回は本棚にあった翻訳書で読んでみた。

C.R. レズリー著/ジョナサン・メイン編『コンスタブルの手紙:英国自然主義画家への追憶』(斉藤泰三訳) 彩流社, 1989年
 Memoirs of the Life of John Constable: Composed Chiefly of His Letters (Landmarks in Art History) by  Charles Robert Leslie, Text has been edited and the illustrations chosen and annotated by Jonathan Mayne,  Phaidon Press, 1951

通常の伝記と異なり、コンスタブルが知人・友人たと交わした書簡を基礎に、画家の生い立ちから国民的画家への人格形成の過程が見事に描かれている。読み物としても、大変読みやすくお勧めの一冊と言える。

 秘められた才能を見出したのは誰か
とりわけ筆者が関心を抱いたのは、この画家の才能を誰が見出したかというテーマである。ジョン・コンスタブルは、かつては東イングランド小村の粉挽き屋の息子であった。 それがどうして英国美術史に燦然と輝く大画家にまでになりえたのか。長らく教育・研究の世界に身を置いたことも影響してか、若い人たちの才能の発掘にはかなりの関心を抱いてきた。本ブログの柱の一つ、ジョルジュ・ト・ラ・トゥールについても同じことを記したこともある。

例えてみれば、磨けば光るダイヤモンド原石であることに最初に気づき、画家になることを勧めたのは誰であったかというテーマなのだが、簡単に記しておきたい。ある若者がいかに優れた才能を秘めていても、それに気づき、激励、支援をして世に送り出すにはかなり偶然や運も作用する。多くの場合、芸術的蓄積があっても、行方定まらない若者に秘められた才能を発掘する教養人や時代を見通せる才人、そして資金の支援ができるパトロンの存在が必要だ。

本書は19世紀初期のイギリス自然主義画家ジョン・コンスタブルの生涯と作品を、家族や友達からとの間に交信された手紙を通して語ったものである。

 今でこそ、西洋絵画史を飾る巨匠としての評価は揺るぎないが、コンスタブルの生涯は決して順風満帆なものではなかった。出自は地方の富裕な製粉業者の次男であったが、家業の後継者となるべきことを強制され、画家の道へ進むには多くの難題が立ちはだかった。

晩成の画家
52歳になってようやくロイヤル・アカデミーの正会員に推されたが、ほとんど同じ年齢のジョン;ターナーと比べても大きく立ち遅れた。イギリスではあまり作品も売れず、むしろフランスで人気があり、バルビゾン派に大きな影響を与えた。

イングランド東部サフォークのイースト・ベルゴルに生まれ育ったコンスタブルは、生涯を通してこの地の自然を風景画として描き続けた。

 幼い頃からの父親の反対、周囲の無理解、ラヴェナムの寄宿学校などでの教師のいじめなど画家への修業に踏み出すまでに多くの障壁があった。コンスタブル自身の悩み、煩悶、絶望感なども高まっていた。 

 裕福な製粉業者としての父親は自分の仕事を継がせたいと思っていたが、それが叶わないならば聖職者の道を歩ませたいと思っていた。画家は不安定でどうなるかわからない職業だった。17世紀ロレーヌの小さな町のパン屋の次男として生まれたジョルジュ・ド・ラ・トゥールのことが思い浮かぶ。現代においても、芸術家の道を歩むことには大きなリスクが立ちはだかることが多い。

ジョン・コンスタブルは、しばらくは家業の手伝いをし「ハンサムな粉挽き屋」と呼ばれていた。自画像を見ても、その点がうかがわれる。粉挽き屋にとって毎日の天候がどう変わるか、大きな関心事だった。仕事を通して身につけた気象変化に関する経験は後の画家としての人生に大きく役立ったことだろう。

John Constable by Daniel Gardner, 1796


家族の理解を取りつけるまで
父親は次第にジョンを後継ぎにすることは難しいと感じるようになったようだ。しかし、なかなか思い切れなかった。他方、母親は最後まで息子の味方であった。ジョンのために、ジョージ・ボーモント卿 に紹介する労をとってくれた。卿は、当時デダムに住んでいた母上のボーモント老夫人に会うためにしばしばこの地を訪れていた。そして、ジョンの模写した版画などを見て、画才があると見抜いていた。そして所蔵していた水彩画家ガーティンの作品などを見せ、荘重さと迫真性のある作品だから研究するように勧めたようだ。

クロード・ロランの作品に接する
さらにジョンはボーモント老夫人の邸宅で、ロレーヌ出身で風景画家の大家となったクロード・ロランの『ハガールと天使』Hagal and the angelという作品を見せてもらった。このことをコンスタブルは後年、自分の生涯における画期的な出来事として回想している。さらに、著名な画家とは言えないが、ミドルセックスの親戚の家で職業画家ジョン・トーマス・スミスにも紹介された。

ウエスト氏の励まし
コンスタブルの描いたフラットフォード製粉所の風景画がアカデミー展で落選した時、ロイヤル・アカデミー館長ウエスト氏は「君はまだ若いのだ。落胆してはいけない。きっと再び君の名前を耳にすることになるだろう。君はこの絵を描く前に、その自然をとても愛したに違いない。」(レズリー, p47)と激励している。実際にその通りになった。
            
コンスタブルの父親も、ジョンの画家への強い志望に一時は頑なであった心を緩め始めていた。人気があり、作品が売れる肖像画家になってくれるならばと思うようになる。製粉業の後継は三男に委ねようと思い始めていた。

ロイヤル・アカデミーの付属絵画学校でコンスタブルは、Gainsborough, Claude Lorrain, Peter Paul  Rubens, Annibale Carracci, Jacob van Ruisdael などのオールドマスターズの作品の模写などで習作を重ねた。さらに詩文や古典もかなり読んだようだ。

1803年頃までにコンスタブルは、風景画家として身を立てる決意を固め、英国内を旅行するなどして、制作を続けた。かくしてコンスタブルは風景画家として自立してゆくが、生活の糧を得るため、肖像画や農家の家々の描写にも手を染め、かなりの数の作品を残した。

マリア・ビックネルとの愛
1809年には多くの反対に抗して、幼な馴染みのマリア・ビックネル嬢 Maria Elizabeth Bicknell との愛を深め、周囲の家柄の違いなどの反対にもかかわらず、40歳でようやく結婚にこぎつけた。イースト・ベルゴートの教区司祭は、コンスタブルは家柄から見て不釣り合いだと考えていた。


Maria Bicknell, painted by Constable in 1816
Tate Britain

ジョンの母はまたしても息子の大変良き理解者だった。二人の在り方を暖かく見守った。マリアの父チャールス・ビックネルは、マリアが弁護士としての名家の後継者でなくなることに難色を示していた。それでも、愛の力で難関を越えたジョンとマリアはその後も愛情に溢れた生活を送ったとみられる。その現れは1816年にコンスタブルが描いた婦人像は、肖像画としても極めて美しい秀作である。マリアの父とジョンとの折り合いの悪さなども、結婚後はまもなく解消し、ビックネル氏はジョンを大変好きになっていった。

しかし、コンスタブルの生活は依然として苦労が続いた。義父ビックネル氏は、二人の結婚に乗り気でなかったが、2万ポンドに近い遺産を残してくれた。これは貧しい画家にとって大きな支えとなった。コンスタブルがロイヤルアカデミーの正会員に推される前に、1928年マリアは世を去っている。ジョンはさぞかし残念な思いだったろう。

さらに1832年には生涯の友であったフィッシャー副司教とダンゾーン・ジュニアを相次いで失った。この時期はコンスタブルにとって、息子ともども病に伏すなど多事多難であった。そして、コンスタブルは1837年の突然の死を迎えた。死因は不明であった。

没後に高まる評価
総じてコンスタブルの生涯は、存命中は必ずしもターナーのように華やかで恵まれたものではなかった。作品の評価も十分高いとはいえなかった。むしろその仕事、評価は画家の没後急速に高まっていった。

本書はジョン・コンスタブルというイギリス風景画の巨匠の生涯を単なる画家の形成を記した伝記という域にとどまらず、一人の人間の苦衷と努力の過程が丁寧に描かれ、きわめて優れた著作に仕上がっている。巻末に付された資料と丁寧な翻訳は、読むことを楽しくしてくれる。コロナ禍の中、静かに人生を考えるにお勧めの一冊である。


Flatford Mill c.1816, oil on canvas, Tate Britain
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歴史の軸を遡る(5):揺れ動くクロムウエル像

2021年03月06日 | 絵のある部屋

国会議事堂前のオリヴァー・クロムウエル銅像

ある時代に一世を風靡し、偉大な人物とされた個人の銅像などが、時代が変わったり立場の違いから評価が変わり、引き落とされたり、落書きをされるという事件がまた増えているようだ。最新のNEWSWEEK誌に掲載された論評によると、英国南部ブリストルでは、奴隷貿易商エドワード・コルストンの像が川に投げ込まれ、ロンドンではチャーチル元首相の像に「人種差別主義者」の落書きがされた。オックスフォード大学では、帝国主義者のセシル・ローズの像をオーリエル・カレッジから撤去すべきとの声が上がっているとのこと。当事者は急遽報告書を発表したり、検討委員会を発足させている。

同誌のコラムニスト、コリン・ジョイスは、複雑な歴史上の人物を単純な悪党に仕立て上げることはばかげたことで、一方的な議論になりかねないと指摘している。


コリン・ジョイス「偉人像攻撃の耐えられない単純さ」NOT A SIMPLE BLACK-AND-WHITE ISSUE, NEWSWEEK 2021.3.9

クロムウエルの銅像は
彼が挙げるひとつの例は、オリバー・クロムウエルの像だ。ロンドンの国会議事堂前に鎧姿で剣と聖書を持った銅像が立っている。実は最近トピックスに取り上げているケンブリッジや東イングランドにはクロムウエルの像や史跡が多い。ここはピューリタニズムの発祥の地なのだ。

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N.B.
オリヴァー・クロムウエル(Oliver Cromwell: 1599~1658)
イギリスの軍人・政治家。清教徒。イングランド共和国初代護国卿。清教徒革命で議会軍を率いて王軍を破る。1649年チャールズ1世をスコットランドに追い、共和制をしき、アイルランドに出征。スコットランド軍を破ってイギリス諸島を平定。51年航海法を発令し、53年護国卿に推されて独裁権を発揮した。
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実はこのクロムウエル、アイルランドにルーツを持つイギリス人の多くも同じだろうが、1649年アイルランドで残虐さで悪名高い鎮圧部隊を率いた。市民は虐殺され、土地は没収されて、多数派のカトリック教徒に差別的な刑罰法が制定された。戦争を機に飢餓と疫病が起こり、多くの死者が出た。

そのため、クロムウエルのアイルランド鎮圧を「ジェノサイド(集団虐殺)」と呼ぶ人もいれば、「戦争犯罪人」とする人もいる。こうした事実に基づいて、彼は正当な理由でアイルランド人から憎まれている。

アイルランド人の目から見れば、大災厄の「ジャガイモ飢饉」で大量死が発生したのは大部分がイギリスの統治下にあってのことだとされる。アイルランドの人口は1845~51年の6年間で約4分の1に減った。推計100万人が餓死し、100万人が移住を余儀なくされた。

ジョイスはいう。こうした人物の像を引き倒せということではない。複雑な歴史上の人物を単純な悪党に仕立て上げるほとことほど、ばかげたほど一方的な議論になるという。


確かにクロムウエルの死後の評価は、類い稀な優れた指導者か強力な権勢を誇示した独裁者か、歴史的評価は分かれている。クロムウエルに関する研究は多いが、今日でも政治的立場によってその評価はかなり振幅がある。

大聖堂の町イーリーとクロムウエル・ハウス
前回まで記してきたイングランド東部やケンブリッジで、ブログ筆者が好んで訪れたのは、ケンブリッジから車で20~30分で行ける大聖堂の町イーリー Ely だ。ケンブリッジ滞在中、日本からの友人などを案内したりで、かなりの回数出かけた。

イーリーまでの道も季節ごとに大変美しい。春にはラヴェンダー畑の中を行く。途中はウイッケン・フェンといわれる沼沢地に沿った道である。中世初めの頃はこのあたりは浅い海だったとのことで、定湿地であり、その中の道を進むと、前方の小高い丘のようなところに際立って立派な大聖堂が現れる。世界で「中世の七大驚異」”SEVEN WONDERS OF THE MIDDLE AGES”のひとつに挙げられる。「フェンに浮かぶ船」と言われるように、時には霧の中から尖塔が浮かび出て幻想的な経験をすることもあった。この辺り、フェンと呼ばれる広大な湿地帯が展開していて、霧が立ち込めやすい。

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N.B. ウイッケン・フェンとイーリー大聖堂
ウィッケン・フェン Wicken Fenはケンブリッジシャーのウィッケンの西にある254.5ヘクタールの科学的興味を惹く地帯である。また、国立自然保護区でもある。これは、国際的に重要なラムサール湿地としての国際指定、および生息地指令に基づくフェンランド特別保護区の一部として保護されている。
このフェンの中にあたかも浮かぶ島のように建てられているのが、イーリー大聖堂だ。イーリー大聖堂は、正式には聖三分割教会の大聖堂教会で、イギリスのケンブリッジシャー州イーリーにある英国国教会の大聖堂である。 大聖堂の起源は、西暦672年の聖エテルドレダ修道院教会にさかのぼる。現在の建物は1083年近くに建造され、1109年に大聖堂の地位を与えられた。宗教改革までは、聖エテルドレダ教会と聖ペテロ教会だった。



ウイッケン・フェンの風景 YK

実はイーリーにはオリヴァー・クロムウエルが革命前に住んでいた家がそのまま残されており、博物館と観光案内所になっている。内部はクロムウエルが住んでいた当時を忠実に再現しており、ピューリタニズムの質実剛健な生活を知ることができ、大変興味深い。
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オリヴァー・クロムウエル ハウス
クロムウエルと家族は、1636年から1647年にかけてイーリーに住んだ。その間は政治的にも宗教的にも混乱の時期であった。1649年にチャールス1世の処刑が決まり、一つの転機となった。クロムウエルが護国卿となることで大きな権力を振るった。クロムウエルが住んだこの家は室内も開放されていて、当時の生活を偲ぶさまざまな工夫が凝らされている。



クロムウエル ハウス


ケンブリッジシャアには、イーリー以外にもクロムウエルやピューリタンに関わる遺跡が多い。しかし、今回はこのくらいにしておこう。



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歴史の軸を溯る(4):「コンスタブルの国・故郷」へ

2021年02月28日 | 絵のある部屋



ジョン・コンスタブル(1776~1837)はイギリス美術界では、今でこそジョセフ・マロード・ウイリアム・ターナー(1775~1851)と並ぶ国民的巨匠の地位を確保しているが、その生涯は順風満帆というわけではなかった。

コンスタブルが生まれた1776年はターナーの1年後だったが、名誉あるロイヤルアカデミーの正会員として入会を認められたのは、1829年、52歳とかなり遅かった。これに対し、ターナーは1802年、26歳の時だった。二人ともにロイヤルアカデミーの附属美術家養成課程に在学したことも同じであった。しかし、コンスタブルの画家としての評価は生前のこの事実にも象徴されるように、決して恵まれて華やかなものではなかった。

コンスタブルはしばしばターナーと比較されてきた。ターナーは画題も極めて広く、水彩から油彩、伝統的な風景画から抽象画に近いものまで、常に斬新で革新的な試みを続けた。

これに対して、コンスタブルの画風は保守的であり、画題も古典的、平穏な郷土の自然、風景を緻密に描いた。画家の好んで対象としたは、’Constable Country’として知られる郷土近傍の自然描写にかなり限定されていた。この場合の’ country’ とは、この地の風景を描かせたらコンスタブルに比肩する者はいないという、画家と土地・地域が切り離せない領地 domain あるいは王国のようになっているという意味である。そこは画家が生まれ育ち、生涯こよなく愛した田園が広がる故郷でもあった。画家の生前の活動範囲と合わせて、今日ではおおよその輪郭・線引きがなされている。

コンスタブルの風景画で特筆すべき点のひとつは、日常の絶えざる風景、気象の観察に基づく濃密な自然描写であり、時代を追ってイギリス人の間に根強い愛好家を生んでいた。この地域に少し住んで旅してみると、コンスタブルの描いた空のようだと思ったこともしばしばだった。

ターナーとコンスタブル
ターナーがロンドン、コヴェントガーデンの理髪師の家に生まれ、都会っ子であったのに対して、コンスタブルは豊かな自然と田園風景が広がるイングランド東部サフォークの裕福な製粉業者の家の生まれだった。そして地域の風景に制作の対象をほぼ限定していた。出自の違いは、二人の画家の制作環境、対象に強く影響していた。

ターナーと比較して、コンスタブルの作品には見る人を瞠目させるような動的な要素は少ない。平穏そのものとも言える風景が濃密に描かれている。コンスタブルの作品はイングランドよりもフランスで高い評価を得て、作品の多くはフランスで人気があった。バルビゾン派に影響を与えた画家でもあった。その後、コンスタブルの作品はイギリス人の間でも急速に人気が高まり、ゲインズバラ、ターナーと比肩する風景画家としての地位を得るまでになった。

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N.B.
生い立ち
画家コンスタブルはイングランド、サフォーク、イースト・バーゴートの豊かな穀物商人で製粉業者ゴールディング・コンスタブルと妻アン(ワッツ)の間に、次男として生まれた。ゴールディングは最初は 同地のフラットフォード、その後エセックスのデダムのミルを所有、経営していた。小麦粉、穀物などをロンドンに運ぶために小さな船 The Telegraphも所有していた。夫妻には三人の息子と三人の娘がいた。ジョンは4番目の子供だった。

長男は知的障害があったようで家業の後継者にはならなかった。そのため次男のジョン・コンスタブルが継承すると期待されていたが、本人はそのつもりはなかったようだ。ジョンは短い期間ラヴェナム Lavenhamの寄宿学校に在学したが、家業を継ぐことには乗り気でなく、その後デダム Dedhamの学校へ移って歩いて通学した。卒業後、しばらく穀物の商売に関わったが、1799年、コンスタブルは父親を説得し、画家になることを承諾させた。ロイヤルアカデミーの附属学校へ見習生として入学、オールドマスターの技法などを学んだ。画家がこの時期に学んだ大家の中にはクロード・ロランなどに並び、かつて本ブログにも記したゲインズバラも含まれていた。製粉場の経営は、いつの間にか弟エイブラハムが引き継ぐようになっていた。

ジョン・コンスタブルの父親は家業の後継者と考えていたジョンが画業を志すことについては、あまり良しとしなかったが、次第に考えを改め、ジョンが40歳近くになるまでは金銭的支えなどもしていたようだ。むしろ、母親の方がジョンの隠れた才能を認めていたといわれる。さらに、生家の近くの素人画家がジョンの画業への志を支えたようだが、ごたぶんにもれずジョンの父親とは良い関係ではなかったようだ。父親とジョンの意思決定にかなり強い影響を与えたのは、ジョンが19歳の時出会ったサー・ジョージ・ボーモン Sir George Beaumontというアマチュアの美術家であり、富裕な美術収集家であったともいわれている。さらに、ジョンはその後に出会った画家などから絵画制作の手ほどきを受けたようだ。こうした経緯の後に、1799年父親はそれまでの頑なさをやや緩め、ジョンがロイヤルアカデミーに入学するに必要な資金援助をすることにしたらしい。他方、ジョンはアカデミーが歴史画や肖像画を重視し、そのための指導に重点を置くことに意気喪失したようだ。そして風景画の制作のために郷里に戻った。

このように、未だ幼い少年、若者の隠れた才能を見出すに何が契機となったかという問題は、このブログで取り上げているラ・トゥールの場合と比較しても興味深いものがある。

今回は、コンスタブルが作品制作の主たる対象としたいわゆる’Constable Country’の中で、画家として自立する前に過ごした地について、ブログ筆者が感じた限りで記しておく。画家の生涯では中心的部分では必ずしもないが、幼い時期の体験は後に大きな動機となることもある。一般に'Constable Country' と呼ばれるこの地域は SuffolkとEssexの境界地域、東のWalton-on-the-Nazeと西のCastle Hedinghamに挟まれる領域である。

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中世以来の珠玉のような土地:ラヴェナム
ここに紹介するラヴェナム Lavenham は、15ー16世紀半ばまで、ウールの生産、織布で繁栄した町である。画家はこのローカルな寄宿舎学校で、短いが画家を志す心が満たされない時期を過ごした。いじめにも会ったようだ。人生の行方定まらず、鬱々と過ごした日々もあったのだろう。

繊維業に関心を抱いていた筆者は、在英中に数度この地を訪れたことがあった。近くにあるロングメルフォードと並び、ウールの織布加工で繁栄した町である。ラヴェナムは、美しい木造の家々が今に残り、大変興味深い。街並みを彩る家々の中には、年月の経過とともに歪んだり傾いたものもかなりあるが、地震国でないイングランドでは幸いそのままに保存されてきた。16世紀ラヴェナムのウール産業は、オランダの難民がコルチェスターで始めた、より安価でファッショナブルな企業に立ち遅れ衰退したが、財政困難で古い建物を新しくする余裕が生まれなかったことが、今日に残る趣きある街並みを残しているといわれる。


Lavenham Wool Hall, built in 1464


傾き歪んだ家々

St Peter and St Paul's Church

スワン・ホテルといわれる今に残るホテルも美しく、当時の面影を伝えている。ギルドホール、15世紀の教会 St. Peter and St. Paul, Lavenhamはサフォークで最も素晴らしいとされ、「イーストアングリアの宝石」ともいわれる。イングランド有数の規模でもある。

コンスタブルがラヴェナムを去り、ロイヤルアカデミーでの修業など、いくつかの体験を経て本格的に画業に専念してから制作した作品のひとつに、デダム・ヴェール Dedham Valeと題した作品がある。デダムはエセックスとサフォークの境界に近い自然の風景の美しい場所である。画家の家から遠くなく、頻繁に足を運んでいたようだ。

26年後の制作では
1802年、コンスタブルが26歳の時、今日、画家の主要な作品のひとつと考えられるDedham Vale と題した最初の大作を描いている(Victoria and Albert Museum, London所蔵)。それから26年後の1828年、画家は同じ場所に戻り、The Vale of Dedham(National Gallery of Scotland, Edinburgh所蔵)と題したほとんど同じ構図の作品(下掲)を制作した。

大変興味深いのは、この作品にはジプシーの母親が焚き火の傍らで子供をあやしている光景が小さく書き込まれていることにある (どこであるか、お分かりですか)。そこは、ジプシーがキャンプするに適した場所ではあった。画家が以前の作品とは異なるジプシーの姿を描き込んだことについては、画家は何も書き残していない。1820年代はサフォークは農業不況で社会不安も醸成されていた。画家はそれについて何らかの思いを抱いたのだろうか。それとも、ほとんど緑色の画面に一点赤色を加筆することで画面の活性化を意図したのだろうか。ちなみに本ブログではジプシー(ロマ)については、かなり多くの記事を掲載している。
            ーーーーーーーーーー

コンスタブルの生涯並びに作品の対象として著名になった今日では、’Constable Country’ を歩いたり、自転車、ボートなどで尋ね、画家が選び抜いたと思われる場所を発見することも可能になっている。世界的なコロナ禍で人々の移動が制限され、展覧会も大きく減少している今、「コンスタブル展」は、イングランドの静かな風景を居ながらに楽しむ得難い機会でもある。



John Constable, The Vale of Dedham, National Gallery of Scotland, Edinburgh
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​歴史の軸を遡る(3):「コンスタブルの国・故郷」へ

2021年02月23日 | 絵のある部屋

ウインダー Winderは前回取り上げた歴史旅行の本で、17世紀のフランス(正確にはロレーヌ公国)の有名画家として、ラ・トゥールについて記すとともに、ロレーヌ生まれながらイタリアで画家としての人生を終えた風景画家 クロード・ジェリ(ロラン) Claude Gellée ( Lorrain, ca.1600~1682)も取り上げている。

S
imon Winder, LOTHARINGIA: A Personal History of France, Germany and the Countries In Between, 2019, p.257


ロレーヌ生まれだが・・・・・
クロード・ジュリ(ロラン)は、生まれは現代のフランス、ロレーヌ、ラ・トゥールが工房を持ったリュネヴィルの南西に位置するシャマーニュの町に生まれた。貧困な家庭環境だったが画業修業のためイタリアを訪れてから、画業生活のほとんどをローマなどイタリアで過ごし、終世故郷に帰ることはなかった。しかし、画家がロレーヌを愛していたこともあって、ロレーヌのクロード・ロラン ’Le Lorrain’として知られていた。

ヴィンダーは17世紀フランス画壇の3大巨匠とされるラ・トゥール、プッサン、クロード・ロランの中で、プッサン(ノルマンディ生まれ)、ロラン(ロレーヌ生まれ)の二人は一応フランス(文化圏)生まれではあるが、画家としての活動はほとんどイタリアであったという点で、直ちにフランスの巨匠と考えるのは一寸おかしいとしている。この点はブログ筆者も以前に指摘したことだが、フランス美術界とすれば、フランスの栄光誇示という点ではフランス人画家として考えたいのだろう。

風景画好きなイギリス人



クロード・ロラン『シルビアの雄鹿を撃ったアスカニウスのいる風景』Landscape with Ascanius shooting the Stag of Sylvia、油彩、カンヴァス
アシュモリアン美術館、オックスフォード大学

その点はともかく、ウインダーはオックスフォード大学のアシュモリアン美術館所蔵のクロード・ロランの歴史風景画の作品『シルビアの雄鹿を撃ったアスカニウスのいる風景』Landscape with Ascanius shooting the Stag of Sylvia をめぐり、夫妻の間で評価が別れた逸話を記している。ロランは神話を主題とした風景画家で名声を確立した画家だが、風景画のジャンルは長年低い位置づけに甘んじてきた。そのため、評価がかなり別れることがある。ブログ筆者は、風景画は比較的好きだが、特にイギリス人、男性が好む人が多いという印象を持っていた。イギリス滞在時、ロイヤルアカデミーでの風景画の展覧会で、見ている人のほとんど全てが男性という場面に出会ったこともあった。

この作品、アシュモリアン美術館で見た時、クロード・ロランの影響を受けたと言われる古典的風景画の作品として大変美しいと思ったが、イギリス人の好きな多くの風景画の中に含めると埋没しかねないとも感じた。

コンスタブル展
他方、コロナ禍の下、各地の美術展などが次々と中止されてきた中で、東京の三菱一号館美術館で本年2月20日から『
テート美術館所蔵 コンスタブル展』が開催されることになった。コンスタブル (あるいはカンスタブル) John Constable (1776~1837)は、ブログ筆者にとってはかなり懐かしい思いがする画家である。このブログでも「ンスタブルの世界」「牧歌は聞こえない:イギリス労働」など何度か記したことがある。



ジョン・コンスタブル『ベルゴート・ハウス』
John Constable, East Bergholt House, c.1809,
Turner Collection: John Constable: Nature And Nostalgia
Oil paint on canvas
Presented by Miss Isabel Constable 1887 

筆者はかつてケンブリッジ大学に滞在中に、暇ができると自ら車を運転して何度もコンスタブルが描いたイーストアングリア、さらに北東部イングランドといわれる地域を訪れたことがあった。西はケンブリッジから東は提携校 University of Essexのあるコルチェスターをカヴァー、北はキングス・リンからノーリッジをカヴァーする地域で、風景ばかりでなく、ピューリタン運動などイギリス史の上でも、重要な地域である。

 コンスタブルはクロード・ロランのことを「世界が今まで目にした最も完璧な風景画家」だと述べ、クロードの風景では「全てが美しく-全てが愛らしく-全てが心地よく安らかで心が温まる」と絶賛している。クロード・ロランの他、コンスタブルが影響を受けたと思われる画家としては、 トーマス・ゲインズバラ, ピーター ・ポウル・ルーベンス,アンニバレ・カラッチ、ジェイコブ・ライスデイルなどが挙げられることが多い。

さらに、コンスタブルはターナーと全く同時代の画家であり、ジャンルも重なる部分が多かった。二人の画風の特色、ライヴァル関係は美術史的にも極めて興味深い。

コンスタブルはサフォーク州イーストバーゴルドの裕福な製粉業者の家庭に生まれたが、生家は19世紀中頃に取り壊された。ただ生家の前面部分(上掲作品左上の館)だけは画家の作品 East Bergholt Houseから知ることができる。

コンスタブルの作品制作の対象となった地域は East Bergholt, Dedham Vale, など、彼の家の近隣地域が多く、今では「コンスタブルの国・故郷」“Constable Country”として知られている。この点については、次回にしよう。





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失った時間を取り戻す:コロナ禍のもたらしたもの

2020年10月22日 | 絵のある部屋

これまで折に触れて取り上げてきたジャン・シメオン・シャルダンの作品は、筆者にとってはラ・トゥールほどの強い吸引力は持ってはいない。ラ・トゥールの作品に深く入り込むうちに、いつの間にか次の世代に入るこの画家の世界にも惹かれていった。

シャルダンの作品は、とりわけ風俗画と言われるジャンルの絵画に漂う穏やかだが、どこかに感じられる規律や厳格さに救われるものを感じていた。風俗画といわれるジャンルにともすれば感じられる放埒さ、弛緩、退廃のような雰囲気が漂っていない。なにか凛とした印象を与える画風である。

《洗濯女》との対画として描かれたとみられる本作《水を汲む女》は、当時の炊事場における日々の家事のひと駒である。中心に描かれているのは、薄暗い場所で、白いボンネットをかぶった女性が大きな銅製の給水器から瓶に水を入れるために腰をかがめている姿である。当時のパリでは、近隣の共同井戸などからこの給水器に運ばれた水がこのような形で家事に使われていた。



《給水器から水を汲む女》1733-39年頃39.7 x 31.8cm, 油彩・キャンバス、トレド美術館(アメリカ)


前回に記した女性のボンネットとブラウスの白さが際立っている。顔は、ボンネットによって隠されていて見えない。壁にはいずれ調理の材料となる肉が吊り下げられている。水を使っているので室温が低いのだろう。やや奥には、 別の召使と子供が戸口の側に描かれている。女性の足元は石畳のようであり、仕事の場所としても恵まれているとはいえない。冬などはかなり冷えて厳しかっただろう。

他方、描かれている対象の違いはあっても、差し込んでいる光の取り扱いなどを見ると、17世紀の北方絵画から多大な影響を受けていることは明らかに分かる。

光が十分には差し込まない炊事場の一角は、シャルダンが住んでいたパリの住居だったのだろう。フェルメールのような明るい光が差し込む上質な部屋を描いたものではない。しかし、そこに差し込む光の効果、それが生み出す明暗は見事に描かれている。

シャルダンの作品、とりわけ風俗画と言われるジャンルの絵画に漂う穏やかだが、どこかに感じられる規律や厳格さに救われるものを感じていた。

しかし、フェルメールに感じられるようなある種の張りつめた硬さのようなものは感じられない。シャルダンのよく知られた《食前の祈り》も18世紀前半のフランスの家庭での日常的光景を描いたものだが、見る人に穏やかな安らぎと家庭におけるしつけの原点のようなものを感じさせる。かつてはヨーロッパの多くの家庭で、grace といわれる食前・食後の祈りが行われていた。筆者も友人の家などで何度か経験したことがあった。



食前の祈り Saying Grace,Woman drawing water at the cistern ,
1740年頃49.5×39.5cm, 油彩・キャンバス, ルーヴル美術館(パリ)


「忘却」の裏側に残っていた記憶
このブログ、17世紀の絵画との出会いとその後をたどるメモのようなことから書き始めてからいつの間にか10数年、5700日を越えた。その間、今日まで取り上げてきたトピックスも多様化し、サイトを訪れてくれた出版社の編集者からは、テーマを整理するとかなりの数のエッセイや本が出来ますねといわれるまでにはなった。

しかし、ブログなるものを始めて以来、本にしようとの意図はほとんどなかった。むしろ、本には書き難いような行間の話や、人生の色々な段階で体験したり、考えたことの断片をアドホックな形でひとまずメモにしてみようとの思いの方が上回っていた。「忘却」という言葉の裏側に消されることなく残っていた切れ端を引き出すことで、記憶細胞から消却されてしまったと思った時間のある部分を復活させるような楽しみが増えてきた。この試みは想像した以上に楽しいものとなった。

記憶の糸を繰る
手始めに記し始めた17世紀の画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールにしても、書き留めておきたいことは、いまだかなりあるのだが、筆者の人生の時間も限られてきたこともあり、最近ではメモしておきたい他のトピックスも増えてきた。それだけに最近ブログを訪れてくださる方は、どういう意図や脈絡でこれらの記事が書かれているか、とらえがたく当惑されている方も多いだろう。

筆者の記憶においては、こうした一見脈絡がつけがたいような記事の集積は、これまでの人生において形成された人生観や世界像の部品や潤滑油のようなものになっている。書き記すことで、糸を繰るように埋もれていた記憶が掘り起こされる。

ブログを支える柱の一本となっているジョルジュ・ド・ラ・トゥールを取り上げた時、最初は多くの知人・友人からほとんど知らない、作品も見たこともないという感想を聞いた。配偶者がフランス人である友人から、どうしてそんなことを知っているのと言われ、逆に当惑したこともあった。西洋文化の輸入で始まった日本では受け入れに伴うバイアス、研究者の偏在などもあって、同じ17世紀ヨーロッパ美術でも、たとえばフェルメールなどに過大な評価、そして関心が偏重していると筆者などは感じていた。同様なことを友人のオランダ人の美術研究者から指摘されたこともあった。文化の受容の仕方に時々違和感を覚えることもあった。しかし、ラ・トゥールについてみると、2005年には国立西洋美術館で特別展が開催されたこともあり、日本におけるこの画家の認知度はかなり上がった。

ちなみに筆者はこれまで美術史を専攻したわけではない。なんとか専門といえるのは「経済学」という美術とは遠く離れ、きわめて縁遠い領域で多くの時間を過ごしてきた。その傍ら国内外で仕事をする途上で、専門領域での研究の傍ら、美術史の講座を受講したり、友人の美術家や文学研究者などから話を聞いて、いつの間にか頭脳の片隅に考えたことがかなり集積していた。一時期職場を共にしたフランスやドイツ文学の碩学のお話に瞠目したこともあった。とりわけ、それぞれの時代に、さまざまな場で「働く人たち」や「仕事の光景」を描いた画家の作品には、格別関心を掻き立てられてきた。

コロナ禍に世界が大きく揺れ動く時にあって、これまでのせわしない人生で奪われてしまっていた時間のある部分を取り戻すことができるのは、生きていることの喜びを感じさせてくれる。この世界的な感染症という災厄がもたらした思いがけない時間の恵みをもう少し楽しんでみたい。



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一枚の絵に世界を見る:シャルダンの《洗濯女》The Laundress ~2~

2020年10月13日 | 絵のある部屋



時代を知る貴重な作品
シャルダンの作品は静物画を含めて、風俗画、装飾画などのジャンルに分かれるが、風俗画には18世紀当時のフランス、多くはパリ、セーヌ左岸における日常生活にみられる仕事の情景を穏やかな雰囲気をもって描いた作品があり、歴史の各段階における「仕事(労働)の記録」に格別の関心を抱いてきた筆者にとっては、無視できない得難い画家のひとりである。写真のような媒体が未だなかった時代にあって、通常はほとんど描かれることのない時代の仕事のありさまを推測するに、絵画は大変貴重な情景を今日に伝えてくれる。

この作品に限ったことではないが、シャルダンの作品はきわめて細部にいたるまで手を抜く?ことなく、描きこまれている。女性が仕事の道具としている樽は、その板材、タガにいたるまで、細密に描かれている。この作品では視認しがたいが、画家の署名は洗い桶が置かれた台に記されている(エルミタージュ美術館所蔵の同一テーマの作品は画面左上)。

シャルダンの両親、そして最初の妻の両親も共に豊かではなく、加えて銀行のスキャンダルに巻き込まれ、財産を失ったと伝えられる。そのため画家は両親のためにもかなり努力をして働かねばならなかった。フォンテーヌブロー宮殿の修復作業などに参加するとともに、1730年頃から静物画の制作に傾斜している。

1733年頃から風俗画の制作が増え始めた。その大半は食卓の情景やカード遊びに興じる子供などを描いてきた。こうした努力が実って1752年以降、国王の年金を給付されている。1757年にはルーヴル宮殿にはアトリエ兼住居を授かっている。歴史画を描くことがかなわなかった風俗画家としては異例の名誉であった。穏やかな雰囲気が画面から漂ってくるシャルダンの作品には、国内外の王侯貴族に人気があった。要望に応えるため、シャルダンはしばしば同一テーマで複数の作品を残している。

白が持つ重み
これらの点を念頭において、改めてこの作品を見直すと、色彩的にも重要な意味を持つのは、白色であることに気づく。白は「清潔さ」と「折り目(秩序)」を表し、薄暗い洗濯場で支配的な重みを持っている。洗濯女として描かれた若い女性のボンネット、エプロンは薄暗い洗濯場の中で、改めて見る人の目を惹きつける。この時代、汚れのない白という色が意味した内容は、今日の想像を超えて深いものがある。単に「清潔」という次元を超えて社会的階層、富を象徴し、貴族とブルジョアの色でもあった。当時の人びとは着ている衣類とその清潔さで、いかなる階層に属するかを瞬時に判断しえた。



今日と異なって、生活の使用に耐える水は住居に近い所にある井戸か、パリの場合、セーヌ川へ行くしかなかった。水を運搬するのもメイドの仕事であった。セーヌの水はすでに黄灰色に汚れていた。当時のフランスでは、「大掃除」grand wash といわれる年2回くらい家の清掃をする慣行があったが、パリのような大都市ではほとんど行われなくなっていた。

一般の家庭には十分な物干し場もなかった。18世紀前半にはパリではセーヌ河畔に洗濯女といわれる人たちが2000人近く働いていた。洗濯は特別な仕事であった。そこへ仕事を頼む家庭もあったが、洗濯物の盗難、逸失、損傷なども多く、不満は絶えなかった。仕上がりも決して満足の得られるものではなく、礼儀や清潔を重んじる人々には耐え難いものだった。

富裕な人々、社会階層で輝くような白い衣服が必要な人々は、なんとオランダへ洗濯を依頼した人たちもいた。とりわけハーレム Haarlemは、仕上がりの白さの点でも抜きん出た水準を達成できる技術を誇り、国内外でよく知られていた。洗濯の技術と使用する水の清らかさだけが必要な条件ではなかった。輝く日光の下での漂白などの技術がそれを支えていた。さらに水準の高い仕上がりを求める場合は、奴隷が存在したグアデループやマルチニークなどの島々まで送られた。

変化した洗濯の光景
その後、洗濯の世界は大きく変化した。固形石鹸の普及がひとつの転機をもたらした。それ以前は自宅の暖炉か灰を売る業者から木灰を入手していた。石鹸は木灰よりも手にやさしく、すすぎの回数も少なくてすんだ。中でも最古のものはSavon de Marseilleで、今日でも使用されている。



18世紀に入ると、洗濯の仕方も変化した。家庭でも時々の大洗濯をするよりも、シャルダンの絵のように、週単位、隔週ごとに小規模な洗濯をするという風習が一般化していった。この作品では中心に位置する女性が、洗濯の手順や作業を仕切り、後方で後ろ向きに描かれた若い女性に衣類の干し方などを指示していたのだろう。総じて、これらの女性の労働条件はきわめて厳しいものであり、劣悪な労働に甘んじ、僅かな賃金を得て、汚く不健康な生活環境で過ごしていた。しかし、彼女たちの労働なしには、この時代の都市の生活は機能しなかった。


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N.B.
シャルダンは薄暗い、汚れた環境で働いていた女性たちの姿を穏やかな雰囲気の内に描いている。作品画面の右側で洗濯物を干している若い女性は後ろ向きに描かれている。画家にとって作品の主人公ではない、脇役の人物を後ろ向きあるいは遠くに描く技法は、《市場から帰って》など、シャルダンの他の作品にも使われている。
この技法は19世紀末デンマークの画家ヴィルヘルム・ハマスホイが、画面に唯一人登場する女性をすべて背後から描いていることを想起させ興味深いものがある。

最近、美術館などの日本語表記が変わったようだ(ハンマースホイ→ハマスホイ)。
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水についての意識
一般市民の水についての考え方も興味深い。当時のフランスでは医師の考えでも人間の皮膚は多孔であり、ウイルス、細菌などを通過させるという考えが強かった。そのため、日常生活では顔と手だけを水できれいに洗えばそれでよいという。見える所だけを洗い、汗を布で吸い取り、発汗を防ぐという考えだ。友人でパスツール研究所にいたことがある日本人医師は、今でも根底にはこうした意識があるようだと話してくれた。

18世紀になとると、フランスでも個人的な衛生観念を深めるという考えが芽生えた。水で対処するだけでなく、下着自体を取り替える。きれいな衣服は汗を減らし、発汗や匂いを減らすことで皮膚を清潔に保つという考えを受け入れるようになっていた。ベッドやテーブル用の布がどれだけ積んであるかが、主婦の誇りであったともいわれる。労働者階級でも下着の重要性が認識されてきたが、それでも年間を通して、保有枚数が2枚程度だったとの記述に出会う。しかし、18 世紀に入るととこうした状況は絶えることなく着実に改善されていった。

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N.B.
興味深いイギリス人とフランス人との違い?
ここでこの時代におけるイギリス人とフランス人についての興味深い観察がある。フランスへのイギリス人旅行者は、フランス人は概して、きわめてきれいな衣服を身に着けていることに驚かされたが、他方あまりきれいとはいえないアパートメントに住んでいるとの記述が見いだされる。他方、イギリス人は衣服は汚れていて、およそきれいとはいえないが、家やアパートは概して掃除が行き届き、バスタブが設置されていた。この点、フランスは概して他のヨーロッパ大陸の諸国とほぼおなじのようだ。

最近では長い袋に入れてくれることが多いバケットだが、しばらく前まではそのまま買い物袋に突っ込んだり、手が触れる所だけを紙で包んで持ち歩く人々の姿をよく見かけた。日本人からすれば、ほとんどの人が驚く光景だが、フランスよりも高温多湿な国に生まれ育ったわれわれの生活感覚とは異なるのかもしれない。
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変化した衣服事情
1759年頃のある資料では、未婚の男子貴族はシャツ5枚、カフ(袖口カバー)、ハンカチーフ3枚、ソックス、ストッキングス2枚を毎週洗濯屋へ出していた。シャツはほとんど毎日変えていたが、スボン下は見えないからとの理由で月1回だったとの滑稽な話も伝わっていた。結婚後は変わり、毎日代えていた。

17世紀半ば、ジャン・ジャック・ルソーはシャルダンと同じ職人の息子として育ったが、未だ哲学者としての名声もなく、外交官の秘書として働いていた。その頃、42枚のシャツを盗まれたとして話題となったことがあった。外交官という職業柄、清潔な衣類を身につけることが要求された結果だろう。

ここで注目されるのは女性が頭を覆っているボンネットといわれる帽子のような被り物である。主として白色系の柔らかな素材で出来ており、刺繍がほどこされたものが多い。形状もさまざまで当時の女性ならば、少なくも10枚以上は持っていたようだ。髪の汚れや乱れを隠し、容貌を美しくみせる効果も期待できた。素材はモスリン(フランス語: mousseline、英語: muslin)といわれる木綿や羊毛などの梳毛糸を平織りにした薄地の織物が普通だった。 

全体に18世紀に入ると、家庭の保有する衣類の数は着実に増加している。

薄暗い仕事場で遊ぶ子供
シャルダンの作品では、床に座った子供がシャボン玉を吹いて遊んでいるが、これも新しいタイプの遊びであり、子供といっても誰もが同じように遊べたわけではなかった。母親の仕事場の傍らで遊ぶ子供にとって、シャボン玉遊びは他の子供たちは容易に手にすることのない遊びに、周囲のことなどにおかまいなく夢中だったのかもしれない。実際石鹸はシャルダンの時代でも高価だった。シャボン玉で遊んでいる子も夢中になる理由があったのだろう。



しかし、子供はつぎの当たったジャケットを着て、ぼろぼろなズボンを履いている。ジャケットは立てばおそらく膝まである大人のものだ。そうした衣服も貧困による単なる節約のためではなく、しばしば父親が着ていた衣類を捨てることなくとっておいた「お下がり」であることが多かった。

残念なことに、シャルダンは1751年で風俗画のジャンルをやめ、静物画に専念するようになった。この画家は作品数が少なく、今日に継承されているのは油彩画200点程度であり、60年を越える画業生活を考えると、年間3-4点に相当する。歴史画と異なり、作品は小品が多く、描かれた対象も少なかった。画家は自分が満足するまで目前の作品に多くの時間をかけていたと思われる。

シャルダンの静物画は富裕な収集家、貴族、王などが購入することが多く、一般のファンは銅版画を買い求めた。実際、シャルダンの作品には熱心な愛好者がいたことが知られている。画面に描かれた対象は、《赤エイ》、《死んだうさぎ》、《いちご》など、限られているのだが、画家が注いた熱意に惹かれたのだろう。

この作品《洗濯女》The Laundressは、当初Chevalier de la Roqueが所蔵していたが、所蔵者の死後、1745年に売却され、スエーデン王の跡継ぎのアドルフ・フリードリッヒの妻ルイズ・ウルリケ Louise Ulrike が入手した。彼女はフレデリック大王の妹にあたりワトー Watteau を好んだ王と同様にフランス、ロココの油彩画を好んだ。彼女はシャルダンの作品を少なくも7点は購入したといわれる。

シャルダンのこうした風俗画が、富裕な生活を過ごしていたとみられる彼女ルイズの心にいかに響いたのかは、残念ながら明らかではない。しかし、現代人の目でみても、18世紀フランス社会の底辺で日々働いていた女性たちの姿が、穏やかな光の下で描かれている作品は、コロナ禍の下で予期しなかった日々を迫られている現代の我々にとって、しばし過ぎ去った遠い時代へ思いを馳せるよすがとなるだろう。


Reference
Rosenberg Pierre (ed.) Chardin, exh.cat., Grand Palais, Oaris/Dusseldorf/London/New York, 
1999-2000
& others


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