時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

謎の3人組?:私たちは誰

2017年06月28日 | 絵のある部屋

画題と画家は後出
クリックで拡大 

 なんとなくいわくありげな若者が3人並んで描かれ、右隅には男の子らしい子供が描かれている。しかし、作品自体は描きかけで、未完成な段階にあるようだ。この絵を最初見たとき、筆者は一瞬デュマの「3銃士?」と思いかけたが、もしかすると、ル・ナン兄弟の「集団肖像画」では?と思い直した。その直感はかなり当たっているかもしれないと思う議論に間もなく出会うことになる。

これまでの人生で、筆者は専門としてきた産業経済・労働領域との関連で、一貫して広く「働くこと」(work) の意義とイメージを、新たな観点から探索してみたいという思いを持ち続けてきた。それは歴史上で振り返ると、17世紀のフランスのパン屋や鍛冶や画家の工房などでの画家の熟練の養成のあり方であり、農民や職人たちの働く姿であり、産業革命期から連綿として続く女性や児童労働の姿の再確認であった。さらにそれらは現代社会で緊迫した局面を作り出している移民、外国人労働者たちの諸相へも繋がる課題である。グローバル化に伴う労働の本質的変化の展望でもある。

筆者が長らく探索を続けている17世紀の画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールとほぼ同時代人の画家で、ラ・トゥール同様に大きな関心を抱いてきた画家にル・ナン兄弟がある。「農民の家族」など地味な画題が多い。当時の仕事の世界を思い浮かべるに格好な材料を提供してくれる。しかし、兄弟は実際には宗教画も世俗画も描いていた。ル・ナン兄弟の作品に関わる最大の問題は、ある特定の作品が3人の兄弟✳︎の誰の手になるものかを確認することが極めて困難なことだった。

✳︎アントワーヌAntoine(一六〇〇頃―四八)、ルイLouis(一六〇〇―四八)の双子の兄弟とマティユーMathieu(一六〇七頃―七七)の三人兄弟である 


最近、刊行された本格的な研究書によると、この作品はル・ナン兄弟 Le Nain brothers、Louis, Antoine, Mathieu の肖像画(未完成)であるようだ。1936年にナショナル・ギャラリーの所蔵に決まった当時は、ル・ナン兄弟に倣った無名画家の作品とも考えられたようだ。

近年の専門家の鑑定によると、3つの理由が挙げられている。第一は、描かれた人物が兄弟としてのお互いに類似するかなり顕著な特徴を持っていることである。最も顕著な点は3人の鼻と眼である。第二は、お互いに2−3歳の差を保ち、兄弟としての相応のバランスを保っている。第三は、真ん中に位置する男が見る者へ視線を返している点である。言い換えると、当時オランダで流行した3人の集団肖像画の体裁で、兄弟を描いた中心人物と推定される。となると、その画家はマティユーMathieuということになる。しかし、ストーリーは、複雑化する要因を内在していた。ナショナル・ギャラリーが作品を取得した当時は、作品は未熟で公開には適さないと考えられた。しかし、管内で洗浄などの作業を行なっていると、右側に当初は分からなかった子供の姿が発見されるなどの事実発見があった。画家が当初のアイディアを捨てて、別の発想へ移行した場合、新しいキャンヴァスではなく、現在の画面を塗りつぶして使うことはしばしばあったことが分かっている。この子供と3人の男たちは無関係なのだろうか。実は画面右側下部の未完成部分などを考えると、謎は十分解明されていない。制作年代は使用されている顔料についての研究から1630-40年代と推定されている。

作品は未完成ではあるが、ほぼ完成している3人の男の描写、画家が構想したプロット(真ん中の男が最年少のマティユーとは断定できないように工夫されている可能性もある)などを含めて、今日では優れた肖像画と考えられている。一見単純に見えて、謎はまだ解かれていない。


 C. D. DICKERSON III AND ESTHER BELL, THE BOROTHERS LE NAIN: PAINTERS OF SEVENTEENTH-CENTURY FRANCE, New Haven and London:Yale University Press, 2016. KIMBELL ART MUSEUM, FORT WORTH, TEXAS, FINE ARTS MUSEUMS OF SAN FRANCISCO.

作品

Le Nain brothers, Three Men and a Boy, National Gallery, London 

 

 

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カラヴァッジョを超えたか?:ヴァランタン・ド・ブーローニュの世界

2017年06月04日 | 絵のある部屋

Valentin de Boulogne
Saint Jean-Baptiste
toile, 178 x 133
Sainte-Jean-de-Maurience, cathedrale Saint-Jean

 ヴァランタン・ド・ブーローニュ
「洗礼者聖ヨハネ」

 カラヴァッジョの名は知っていても、ヴァランタン・ド・ブーローニュの名を知らない人は多い。昨年秋から今年にかけて、ニューヨークのメトロポリタン美術館で、この画家としてはほとんど初めて、まとまった形で企画展が開催された。そのタイトルは、"Valentin de Boulogne: Beyond Caravgio" 「ヴァランタン・ド・ブーローニュ:カラヴァッジョを超えて」であった。

画家はカラヴァジョとほぼ同時代人として、ローマでで活動してきた。17世紀当時のヨーロッパの画家たちの間ではひとつの流行であったが、ヴァランタンもフランス人として生まれ育った後、ローマの光に引き寄せられ、この文化都市を目指した。そして、その後も帰国することなくローマで生涯を終えた。プッサン、クロード・ロランなども同様であった。

ヴァランタンは当時のローマで話題となっていたカラヴァッジョの作風に惹かれ、後年カラヴァジェスキと呼ばれることになった特徴を駆使して、宗教画、風俗画、肖像画などのジャンルで作品の制作を行った。ヴァランタンはキアロスクーロなどの特徴を自ら消化し、リアリスティックな作品を多数残した。

このブログでも紹介した「合奏」Concert (c.1622-25)は、ヴァランタンの特徴が遺憾なく発揮された作品の一つである。

Valantinn de Boulogne
Concert au bas relief antique
toile 172x214cm
Paris, musee du Louvre

ヴァランタン・ド・ブーローニュ
「古代の浮き彫りのある合奏」

 

ヴァランタンはカラヴァッジョを超えたのだろうか。ヴァランタンの企画展を開催することは、メトロポリタンの西洋絵画部門の責任者キース・クリスティアンセン Keith Christiansen の長年の夢であったことが本人によって語られている。メトロポリタン美術館展は、ヴァティカンの祭壇画からルーヴルが所蔵する作品まで、多岐にわたる展示となった。さすがメトロポリタンと思った企画展だった。

画家の実力
 画家の評価は時代によって浮沈がある。バロックの時代に関心がなければ、カラヴァッジョの追随者のひとりとみられるだけかもしれない。他方、カラヴァッジョのような一見して見る人を驚愕させるような劇場性や鮮烈な迫真力はなくとも、落ち着いた色調で穏やかに宗教画や人生の明暗を描いている作品に惹かれる現代人もいるかもしれない。企画展にはカラヴァッジョの作品は出展されなかったが、観客はカラヴァッジョという17世紀初頭のイタリアを疾風の如く走り抜けた破天荒なひとりの画家が、当時の美術界に与えた衝撃の一端を、ヴァランタンという画家の作品を見ることで感じ取ることができる。『カラヴァッジョを超えて』という企画展タイトルは、集客力のことを考えてつけたものだろう。

この画家が過ごした生涯や制作活動もあまり判然としていないようだ。カラヴァッジョの画風の追随者という点では確かにそうだが、画家自身の生活も放埒で享楽的であったともいわれる。41歳の若さで飲酒後、溺死と伝えられているが詳細は分からない。

それでも、国際カラバジェスキ運動などの研究成果もあって、かなり解明された点もある。画家についての情報が蓄積された現在の方が、ヴァランタンという画家をより客観的に評価をすることができるかのもしれない。

先が見えない人々の顔
 カラヴァジェスキとしての特徴を明らかに発揮しながらも、そこにはカラヴァッジョのような劇的、鮮烈で、残酷なほどの激しさはない。代わって、薄暗い闇の中に沈み込み、行方定まらず、思いつめたような表情の人々が描かれた作品もある。

この時代のローマは、表側の華やかさの裏側に、犯罪、欺瞞、死というような暗く、陰鬱な闇の世界が広がっていた。この点、ユトレヒト・カラヴァジェスキの作品のような道徳的次元まで昇華したような作品は、制作できない環境だったといえるかもしれない。例えば、カラヴァッジョもヴァランタンも「洗礼者聖ヨハネ」を描いているが、描かれた若者の表情や肢体には、一見若々しく見えても、鬱屈、疲労の空気が伝わってくる。

ヴァランタンには「カードゲーム」のような、この時代の画家たちが競い合ったテーマの作品もあるが、作品としては素朴さを残している。しかし、これらの作品を見ていると、画家としての力量の違いにもかかわらず、この時代を支配した空気のようなものが自ずと伝わってくる。

 
ヴァランタン・ド・ブーローニュ
「カードプレヤー」
 

晩年、ヴァランタンは聖ペテロ大寺院の祭壇画という大きな仕事を依頼されていたが、競争相手として対比されたのは、当時人気上昇中のプッサンだった。ヴァランタンはカラヴァッジョの単なる追随者としか見られなかったようだ。

ヴァランタンは、カラヴァッジョを超えることはできなかったというべきだろう。しかし、ヴァランタンには、この世の中の虚栄、鬱積、言い知れぬ不安などが感じられる静かな情景を描いた作品も多い。カラヴァッジョの作品にしばしばみられる、残酷、悲惨、驚愕するような場面に食傷気味の人には、ヴァランタンの作品はかなり温和なものに見えるだろう。「合奏」はそうした特徴が十分に発揮された秀作といえる。

同じ主題を描きながらも、それぞれに工夫を凝らし、微妙に異なった情景を描き出したこの時代の画家たちの作品の世界に入り込むことで、しばし現実を離れ、遠い時代の世界に身を置く疑似体験を楽しむことは、至福のひと時である。

 

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かラヴァジェスキの真髄:もうひとりのカラヴァッジョ

2017年05月27日 | 絵のある部屋

Cecco del Caravaggio, The Resurection, detail

前回掲示「復活」の部分
画面クリックで拡大 

 

  前回紹介したセッコ・カラヴァッジョの「復活」 resurrectionについてもう少し記しておこう。繰り返しになるが、名前は似ていても、あの17世紀ヨーロッパ画壇に一大旋風を巻き起こしたカラヴァッジオ、本名ミケランジェロ・メリージ Caravaggio, Michelamgelo Merisi da とは別の画家だ。しかし、両者は短い期間だが、師弟のような間柄にあった可能性もある。

セッコ・デル・カラヴァッジョについては、カラヴァッジョ(メリシ・ダ)のことをかなり知っている美術史家でも、気づくことが少ない画家である。二人の間にどの関係があったのか、ほとんど不明である。しかし、ある時期、多分1606年頃、二人は共にローマを離れ、ナポリへ行き、セッコはその後再びローマへ戻ったと推定されている。しかし、その画家としての生涯はほとんど何も明らかにされていない。

今に残る「復活」の大作、縦3メートルを上回るその大きさ、縦型の極めて斬新な構図、綿密に考えられたデザイン、細部まで克明に描かれたリアリズム、一見して圧倒的な迫力である。カラヴァジェスキの面目躍如だ。キリスト教徒であろうと否と、カラヴァッッジョを好きであろうとなかろうと、この作品が与える衝撃は大きい。一目見て、優れた力量の持ち主であることが伝わってくる。

画家としての人生も作品も、あらゆる点で破格、凶暴、狂乱、情熱など、激動の人生を駆け抜け、芸術家でもあったが犯罪者でもあったカラヴァッジョ(メリシ・ダ)だが、その追随者であるカラヴァジェスキは、総じてそれぞれ画家としてその軌道から大きく逸脱する人生を送ることはなかった。しかし、彼(女)らの画業がそれぞれいかなるものであったかは、必ずしも判然としない画家も多い。国際カラヴァジェスキ運動の研究成果などが、これまで知られなかった多くの新事実を明らかにしたが、多くは依然として歴史の闇の中に埋もれている。

セッコ・デル・カラヴァッジョにしても、作品は数点が確認されているが、その画家人生については、ほとんど不明のままである。名前も同じカラヴァッジョだが、二人の家族的あるいは地縁的関係なども不明である。

今日まで継承されている作品の中では、前回紹介した「復活」Resurrection だけが突出した注目作品だ。この作品、一見しただけでその劇場的とも言える迫力に息を呑む。描かれた人物の配置の妙、細部に及ぶ精密な配慮、リアリズムは、カラヴァジェスキの面目躍如だ。カラヴァッジョの画風についての好き嫌いは別として、17世紀美術の傑作に入ると思う。

「復活」の全体
クリックで拡大 

この作品、「キリストの復活」というキリスト教史上の重要な事跡が題材だ。「マタイによる福音書28」(新共同訳)に記された次の下りに基づいている:

 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がしに、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを探しているのだろうか、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なされたのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。・・・・・」(「マタイによる福音書28-10)。

この作品に描かれた人物は、総計8人、画面上部に復活したキリストが墓と思われる中から立ち上がり、左手にはバナーを持っている。そして、羽根のある天使。純白の羽根と衣装が見る人の視線を集める。天使の顔は通常よく描かれる可愛い幼子あるいは若い娘ではない。凛々しい、男性とも女性とも言えない強い意思を秘めた顔立ちで、左指で天を指している。そして、恐れおののく兵士だろうか、5人の男がそれぞれに描かれている(内、一人は注意しないと分からない)。そして画面最下段には、隊長だろうか。他の兵隊たちよリも立派な甲冑の胴着を身につけた男が眠っているのか、気を失っているのか不明なままに横たわっている。

上体部分を覆う甲冑、白い革製の着衣、靴にいたるまで克明に描かれている。そして右下に置かれたランタンは、カラヴァッジョ(メリシ)の「キリストの捕縛」を思わせる。カラバッジョ自身、この主題で製作したと伝えられているが、今は滅失して見ることができない。

この作品には、極めて興味ふかい点が多々あるのだが、ブログとしては深入りすぎる。改めて、この「ほとんど知られていない傑作」(Fried, 2016,pp.109-133)を見てみると、カラヴァッジョ(メリシ・ダ)のような鮮烈、熱情のおもむくままに描かれた作品と比較して、十分な検討の上に制作された、画題にふさわしい傑作である。

 

 

After Caravaggio, by Michael Fried, New Heaven and London: Yale University Press, 2016

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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After Caravaggio or Beyond:忘れられた画家

2017年05月22日 | 絵のある部屋

 

セスコ・デル・カラバッジョ「復活」1619-20、
油彩、カンヴァス、339 x 199.5 cm,
シカゴ美術館 

Francesco Boneri (or Buoneri), known as Cecco del Caravaggio, The Resurection, 1619-20. Oil on canvas, 339x 199.5cm. Art institute of Chicago, Charles H. nd Mary F.S. Worcester Collection, I934.390.

 

 昨年2016年から今年にかけて、リアリスティックで衝撃的な画風で知られる17世紀イタリアの画家カラヴァッジョ及びその画風の追随者(カラヴァジェスキ)をテーマとした企画展がアメリカ、イギリスなどで、いくつか開催された。これまで、これらの国々では、カラヴァッジョあるいはカラヴァジェスキの作品の国内での所蔵が比較的少ないこともあって、イタリアあるいはオランダなどと比較して、その受け取り方にこれまで多少温度差を感じるところがあった。

この点にはついては日本の事情と類似するところもある。カラヴァッジョを含め、同じジャンルの画家たちの真作を体系化した形で鑑賞・評価し、その全体像を理解することは、他国美術館との共催での大規模巡回企画展などが開催されないかぎり、ある限界があった。作品の移動なども困難が多い。カラヴァッジョの名前は、日本でもかなり知られるようになったが、印象派の画家たちなどと比較して、その浸透度は未だかなり低い。

 こうした点を念頭においた上で、近時点で、アメリカ(ニューヨーク)、イギリス(ロンドン、ダブリン、エディンバラ)、フランス(パリ)などで開催された巡回企画展に合わせて刊行されたカタログ、研究書などを見ると、そのタイトル、内容に微妙な差異があることを感じる。前回に続き、筆者の手元にある幾つかの下記関連出版物のタイトル、開催地のなどを見て見よう。

Beyond Caravaggio:
an exhibition at the National Gallery, London, October 12, 2016-January 15, 2017; the National Gallery of Ireland, Dublin, February 11-May 14, 2017; and the Scottish National Gallery, Edingburgh, June 17-September 24, 2017
Catalog of the exhibition by Letizia Treves and others, London: National Gallery 

Valentin de Boulogne: Beyond Caravaggio
an exhbition at the Metropolitan Museum of Art, New York City, October 7, 2016-January 22, 2017; and the Musee du Louvre, Paris, Februey 20 - May 22, 2017

After Caravaggio, by Michael Fried, New Heaven and London: Yale University Press, 2016

Beyond and After
これらの刊行物を見て感じたことは、Beyond あるいは After という一つの前置詞に、微妙な意味が含められていることだった。一般に、beyond あるいは after には、時間との関連では「[時間]・・・・の後に」という意味があるが、どちらかといえば after が使われるようだ。

Beyond には、単にあるものを時間軸の上で経過しただけでなく、そのものを超えた向こう側にあるという含意が込められている。それに対して、After の場合は、「あるものの後に」という意味に加えて、そのものに倣って、あるいは(忠実に)沿って、という意味が付帯しているようだ。

再評価される画家たち
こうしたことを念頭に置いて、ロンドンのナショナル・ギャラリーの Beyond Caravaggioを読んで見ると、カラヴァッジョのイギリスにおけるこれまでの受容の回顧、評価の妥当性、逸失した機会の指摘などに続いて、ブオネリ、グラマティtカ、マンフレディ、セロディーネ、バグリオーネ、バルトロメオ・マンフレディ、オラジオ・ジェンティレスキ、ガリ、ボルジアーニ、サラセーニ、レニ、ゲリエーリ、アルティミシア、ジェンティレスキ、マネッティ、カラシオーロ、リミナルディ、リベラ、カラブレーゼ、バビュレン、レグニエ、ブーローニュ、トルニエ、ホントホルスト、ストム、ヴリエット、コスター、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールにいたるカラヴァジェスキと見なされる画家の作品が紹介されている。カラヴァジェスキの画家をかなり見てきた筆者にも、あまりなじみのない画家も含まれている。これらは、「国際カラヴァッジョ運動」International Caravaggio Movement として知られるカラヴァッジョとカラヴァジェスキの活動と成果にかかわる国際的な研究の産物である。

ヴァランタン・ド・ブーローニュのように、別途類似のタイトルで企画展が開催されてもいる。この場合は、カラヴァジェスティとしての評価が早くから確立されている画家である。カラヴァッジョが生存、活動していた時代の後に、その作品などを通してカラヴァッジョの作風を継承してきた画家たち、カラヴァジェスキというグループに誰が含まれるかについては、後世の美術史家などによって見解が異なり、完全に一致しているわけではない。当該画家の置かれた環境、作品の特徴、美術史家、鑑定者、画商などの評価など、様々な要因で区分がなされるが、異論も少なくない。

ほとんど忘れられていたカラヴァジェスキ画家
さらに、時には今までほとんど忘れられていた画家や作品が再発見されて脚光を浴びることもある。その代表例がここに紹介するフランセスコ・ボネリ(あるいはブオネリ)、通称セッコ・デル・カラヴァッジョの名で知られる画家のほとんど唯一真作とされている作品である(上掲)。

After Caravaggio by Michael Fried, 2016 では、さらに限定されたトピックスで「ほとんど知られざる傑作:セッコ・デル・カラヴァッジョのキリストの復活」、画家のほとんど唯一確認されている作品である。来歴を見て見ると、1619年当時トスカナからローマへの外交官として赴任していたPiero Guicciardiniの注文でフローレンスにあった家族の教会 Santa. Felicitaのために制作されたが、1620年完成したものの依頼者の好みに合わず、まもなく別人の手に渡り、転々として、こんにちはシカゴの美術館に展示されている。この画家については、ほとんど何も分かっていないが、1606年にカラヴァッジョとともにローマへ移り、ナポリへ行った後、しばらくそこに住んだのではないかと推測されている。その後、ローマへ戻ったのではないかと思われるが、記録は何も残っていない。この名前の付された画家の作品は他にもあり、筆者もオックスフォードのアシュモリアン美術館で「フルート奏者」なる作品を見たことはあるが、この画家と同一人物であるとは気づかなかった。

「キリストの復活」を描いたこの作品、なんとも壮大な構想を背景とした大作であることに加えて、極めてダイナミックに描かれている。素晴らしい劇場性を備えている。しかも極めてリアリスティックである。カラヴァッジョに近い画家であったことが伝わってくる。いずれ、改めて細部を検討してみたい。

続く

 

 

 


 



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今に生きるカラヴァッジョ

2017年04月29日 | 絵のある部屋

 

 


カラヴァッジョ、ラ・トゥール、・・・。「誰、それ?」と日本では言われていた頃から、ほとんど半世紀近く馴染んできた画家である。今ではこの国でもかなり知られるようになった。とりわけ今世紀になってカラヴァッジョ、本名ミケランジェロ・メリージ(Michelangelo Merisi da Caravaggio, 1571-1610) への人気は世界的にひとつのブームを生み出したが、その熱は未だ衰えていない。

 昨年2016年秋、ロンドンのナショナル・ギャラリー、そして昨秋から今年にかけてはニューヨークのメトロポリタン美術館という大美術館が、カラヴァッジョとその追随者(カラヴァジェスキ)について、一連の展覧会を開催した。

 今回はロンドン、ナショナル・ギャラリーの企画展に焦点を当ててみよう。"Beyond Caravaggio" 「カラヴァッジョを超えて」と題した展覧会であった。その後、展覧会はロンドンからダブリン、エディンバラへと巡回した*2上掲のカタログの表紙は、下に掲げるカラヴァッジョの作品の一枚(部分)である。しかし、カラヴァッジョの研究者を別にすれば、この作品がカラヴァッジョの手になるものか、何をテーマとしたものか、わかりにくいかもしれない。

カラヴァッジョ「キリストの捕縛」、1602

The Taking of Christ, 1602
oil on canvas, 133.5x169.5cm
On indefinite loan to the National Gallery of Ireland
from the Jesuit Community, Leeson St, Dublin
who acknowledge the kind generosity of the late Dr Marie Lee-Wilson, I.,I4702 

 この作品、実は発見されたのが1991年、アイルランドの旧家が保存、継承していたものがである。18世紀にはほとんどローマのマッティ宮殿のどこかに掲げられていて、外の人たちの目につくことはなかったらしい。19世紀初めにスコットランドの愛好者(W.H.Nisbet)の手へ移り、1921年ころまでそこにあったとされている。その後アイルランドの歯科医Marie Lea-Wilsonの所有となり、所有者の没後、1930年頃に寄贈先のダブリンのイエズス会からアイルランド国立美術館へ恒久的に貸し出されている。マッティ家が売却した当時から、作者はホントホルストと誤解されていたようだ。

 そして、仔細に見れば、まがいもなくカラヴァッジョの作品ということで専門家の見方は今ではほぼ一致している。1602年、当時ローマのパトロンであったマッティ家 のために画家が制作したと考えられている。翌年、画家に代金が支払われている。この主題、構図でカラヴァッジョが制作していたことは、残存するコピーなどからほぼ確認されていた。折良く、マッティ家資料庫の調査が並行して進められていたことも幸いした。さらに、カラヴァッジョがこの作品の制作に際して、構図などのヒントを得たのは、1509年頃に制作されたアルブレヒト・デューラーの同じ主題の銅版画と推定されている。

 ナショナル・ギャラリーのバロック油彩画担当の学芸員レティシア・トレヴィス Letizia Treves によると、カラヴァッジョの作品については、油彩画などの収集熱が高かった19世紀中頃、ヴィクトリア時代のイギリスでもあまり関心が寄せられなかった。彼らは明るく穏やかなイタリアの空と風の下で描かれた作品の方を好んだようだ。

 そして、当時はかなり単純に光と闇、鮮烈で迫真的な描写などがカラヴァッジョの特徴と考えられていたらしい。結果として画商やコレクターなどがカラヴァッジョと鑑定、取得した作品でも、カラヴァッジョ風ではあるが、ほとんどは別の画家の作品だった。ちなみに、カラヴァッジョが自らの署名を残したのは、「洗礼者ヨハネの斬首」(1608年、サン・ジョヴァンニ大聖堂)のみとされている。

 さて、世界に冠たる美術館ナショナル・ギャラリーといえども、今日の状況ではカラヴァッジョの作品だけの企画展を開催することはきわめて難しい。そのため、今回の企画展も多くのカラヴァジェスキ(カラヴァッジョの追随者)の作品で体裁を整えている。その最後には、しばしば安易な推論でカラヴァジェスキとされているジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品も2点出展されている。


最後にクイズをひとつ。下に掲げた図(ある作品の部分)の画家と作品は? 
答えは最後に。


References

*1
Valentin de Boulogne: Beyond Caravaggio
an exhbition at the Metropolitan Museum of Art, New York City, October 7, 2016-January 22, 2017; and the Musee du Louvre, Paris, Februey 20 - May 22, 2017

 

*2
Beyond Caravaggio:
an exhibition at the National Gallery, London, Octobe ofr 12, 2016-January 15, 2017; the National Gallery of Ireland, Dublin, February 11-May 14, 2017; and the Scottish National Gallery, Edingburgh, June 17-September 24, 2017
Catalog of the exhibition by Letizia Treves and others

London: National Gallery 


Quiz の答

ジョルジュ・ド・ラ・トゥール「ダイス・プレーヤー」

Georges de La Tour(1593-1652) and studio
Dice Players, about 1650-1, oil on canvas, 92.5x130.5cm
Signed (or inscribed) on the table lower left Georges de La Tour Inve et Pinx
Preston Park Museum & Grounds, Stockton-on-Tees, SBCO200/76 

⭐️ちなみに、この作品はイギリス国内で所蔵されているラ・トゥールの真作(あるいは息子エティエンヌとの共同によると考えられる作品)3点のうちの1点。画家晩年の作品とされるが、その筆使いや描き方はそれまでの作品とかなり異なっていて、真作とするには異論もある。本ブログでも何度かとりあげているが、たとえば次の記事を参照ください
ラ・トゥール フリーク向けのもう一つのクイズ:残りの2点は何でしょうか。

 

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ルターはドイツ人をどれだけ変えたか

2017年01月16日 | 絵のある部屋

  

マルティン・ルターの妻、カタリナ・フォン・ボラの肖像

Portrait of Katharina von Bora, wife of Dr.Martin Luther
24 x 38 cm, oil, wood
Location: Uffizi Gallery, Florence, Italy

 

激動の年であった2016年の出来事を省みながら、考えたことがいくつかあった。そのひとつは、16世紀の宗教改革の影響が、現代のドイツ(連邦共和国)の国民性にどれだけ継承されているのだろうかという問題だ。筆者の手に余るテーマであり、ブログ記事にもなじまないが、念頭に浮かんだことだけをメモとして記しておく。

宗教改革500年の年
 発端は、今年2017年が、マルティン・ルター(Mrtin Luther, 1483-1546, ルーテル)宗教改革500年記念の年として、ドイツ連邦共和国を中心に多数の行事が行われることに気づいたことにある。1517年の著名な「95か条の論題」がウイッテンベルグの教会の扉に掲示された出来事がその出発点とされる。ドイツ国内だけでも1,000以上の行事が国内各所で予定されているようだ。現在のドイツ連邦共和国では、キリスト教信者の比率は、国民の人口比でおよそプロテスタント30%、カトリック30%くらいで両者はほぼバランスしているようだ。しかし、国民性から受ける感じとしては前者の方がかなり優位のように感じられる。ドイツの場合、プロテスタントといっても、圧倒的にルター派だ。”Deutschland, Lutherland” (Christine Eichel)と言われることからもほぼ確かなことといえるだろう。

 宗教の世俗化がきわめて進んだ日本では、国民の宗教が何であるかを議論すること自体が、きわめて難しい。新年の初詣などに驚くほど多数の人々が押し寄せる傍らで、葬儀などの面では寺社、教会などに頼らない終末のあり方が議論され、実際に進行している。宗教が風化したと考えるべきだろうか。他方で、未見だが遠藤周作の『沈黙』が映画化され、静かな話題を生んでいる。書籍では読んでいるが、映画は未見である。日本人が初めてキリスト教に出会った時代の衝撃が追体験できるのだろうか⭐️。

 このところ、ブログの話題としてきた16-17世紀の画家や文人たち、たとえばヒエロニムス、デューラー、クラーナハ、エラスムス、トーマス・モアなどにとって、いかなる神を信じるかという問題は、人生のあり方、生死までを左右する重大問題であった。その後、宗教と人間のあり方の関係は、しばしば国家を介在しつつ、多岐にわたる展開をたどった。プロテスタントについても、ルター派は、カルヴァン、ツウィングリなどの厳格なスイス的流れとはかなり異なり、トーマス・モアが命を賭けたようなイギリス国教会などとも違って、それぞれに特異な点がある。

音楽好きな国民
 プロテスタントの流れにあって、カルヴァン、ツゥイングリなどは、音楽は官能的な風潮を喚起するとのことで消極的であったが、ルターは音楽に積極的な意義を見出していたようだ。今日、全国的にも330を越える公的なオーケストラが存在することからも、その流れが継承されていることがうかがわれる。書籍などの出版文化も世界の上位を占め「本好き」bookish な国民性が継承されているかにみえる。

 さらにルターは、ヴィジュアルな芸術には積極性を示さなかったと言われるが、自らの肖像画の頒布などに必ずしも消極的ではなかったようだ。実際、クラーナハなどの画家たちと親しく交流していた面もあった。

節度を保った衣装
 ルターの配偶者となったカタリナの肖像画などを見ると、派手ではないが当時の市民社会の中層を代表するような、聖職者の妻としての控え目ながら一定の贅沢さを楽しみ、人前で誇示してもみたいという現れが感じられる。髪は美しく整えられ、毛皮の襟のついたジャケットは、当時としてもかなり高価であったろう。修道士であったルターと結婚する前は、彼女は修道女であった。26歳の時、修道院を抜け出し、41歳の修道士ルターと結婚した。この画像はルーカス・クラーナハと彼の工房で制作されたものと思われるが、正確には不明である。落ち着いた容貌や衣装から1517年より前に制作されたものと推定されている。

 こうした流れはいまや世界的な政治家となったアンゲラ・メルケル首相の独特の衣装にも継承されているようだ。父親が教会牧師であり、東ドイツ出身であることの影響は、当初いわれてみれば感じられたが、今では自ら選択した一定のパターンの中で、色彩その他を変えることで、その独自な存在を確保しているようにみえる。より華美でファッショナブルな衣装を選択することは十分可能であるにも関わらず、政界デビュー当時からほぼ同じスタイルを維持している。まさにそれがメルケルであり、今では違和感を覚えることはない。一見してメルケル首相がそこにいることが分かる。隣国フランスのファッションとはおよそ次元が異なった選択基準である。

新たな宗教改革は生まれるか
 ドイツ連邦共和国の直面する課題は、イギリスがEUを離れる状況下で、格段に困難さを増している。就任式を間近に控えた トランプ大統領がその毒舌をメルケル首相にも向け、寛容な難民・移民受け入れ策を批判しているが、対面する時が楽しみ?なほど、二人の間には距離がありそうだ。

 このたびの難民受け入れの拡大で、ドイツ連邦共和国におけるイスラム信者の数については正確な統計は得られないが、300万人くらいではないかとの推定を見た。「EUはドイツだ」とは、トランプ氏の暴言だが、ドイツが難民・移民として受け入れたイスラム教徒との関係は、難しい時期を生むだろう。2000年にはドイツ・イスラム会議が開催されたが、その後新たな動きはない。しばらくはすでに頻発している騒動や右傾化を起こしながら、悲惨で難しい時が続くのだろう。今はキリスト教とイスラム教が並立しうる最後の時期であり、新たな宗教改革戦争の前章かもしれない。人類にこれ以上の悲劇を招かないためにも、グローバルな宗教間対話はなぜ推進されないのかと思う。


🌟『沈黙 サイレンス』マーティン・スコティッシュ監督、1月21日、全国封切り


References 

Max Wever, DIE PROTESTANTISCHE ETHIK UND DER GEIST DES KAPITALISMUS (大塚久雄訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫

Neil MacCregor, Germany: Memories of a Nation, Prnguin Random House, UK, (2014) 2016

Charlemagne: Nailed it, The Economist January 7th 2017

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メランコリックな時代に

2017年01月08日 | 絵のある部屋

 

国立西洋美術館の『ルーカス・クラーナハ展』も終幕が近い。この画家の作品は必ずしも好みという訳ではないが、アルブレヒト・デューラーやマルティン・ルターとの関係などもあって、画家の辿った人生経歴や同時代の人的な交流にかかわる興味はかなり強く今日まで続いてきた。

 先行き不安で明るい話題が少ない中で、ゆったりと新年を迎えるという気分が薄れてきたこの頃だが、いつものように床に積み重なり、崩れている重い画集や紙の束を少し整理する。実際には一つの雑然が別の雑然に変わるだけなのだが(笑)。断捨離は簡単ではない。心の底に残っていた記憶や思い出まで捨ててしまう感じがするためだ。16-17世紀のドイツ画家たちの画集なども目にすると、再び懐かしさがかき立てられる。

 ルーカス・クラーナハというと、なんとなくコルマールを連想する。小さいが美しい町だ。かつて須賀敦子さんの未発表のエッセイとの関連で記したこともある。町にある美術館 UNTERLINDEN MUSEUM も中世、ルネサンスから印象派、現代美術まで一通り揃っている。

 その中でも最も有名な作品といえば、通称マティアス・グリューネヴァルト(Mathias Grunewald, c.1470/1475-1528)の手になる『イーゼンハイム祭壇画』だろう。この時代、政治環境もあって地味な感じがするドイツの絵画史上、最も優れた作品の一つと位置付けられる。この画家の生きた時代はドイツ・ルネサンスの巨匠アルブレヒト・デューラーとほとんど同時代なのだが、作風からすればルネサンスというよりはゴシックという位置づけが適切だろう。作品を見ればすぐにわかる。

祭壇画の宝庫:アイゼンハイム祭壇画
 
この時代、祭壇画の黄金期であった。コールマールの美術館でもいくつか重要な祭壇画を見ることができるが、その中の白眉はイーゼンハイム祭壇画 The Isenheim altar piece の名で知られる作品である。制作年次は、c.1512-16年頃と推定されている。一見して傑作であることはわかるが、キリストの磔刑の描写がリアルすぎて、たじろいてしまう。現在はコルマールのウンターリンデン美術館の所蔵になっているが、元来コールマールの南方20kmほどのイーゼンハイムの聖アントニウス会修道院付属の施療院の礼拝堂に置かれてあった。施療を求める病んだ人々を慰める目的もあって、キリストの肉体も美化されることなく、凄烈、過酷に描かれている。施療を受ける患者が自らの苦難をキリストのそれと重ね合わせ耐え忍ぶ意味もあって、キリストの肉体も苛酷で生々しく描かれている。いつも見ていたいと思う作品ではない。

時代のメランコリア:デューラーとクラーナハ
  コールマールの美術館ではデューラーとクラーナハの『メランコリア』を比べてみることができる。巨匠デューラーの作品『メランコリア』(銅版画)は、極めてよく知られているが、メランコリア(憂鬱)は16世紀ドイツ画壇の主流のテーマだ。デューラーの作品は哲学的、象徴的な複雑さで、メランコリックな状態にある天才の心的風景を描いたと考えられている。それとともに当時の人文学的雰囲気を濃密に伝えている。この作品についてはすでに多くのことが書かれているので、そちらに詳細は任せよう。

 他方、クラーナハは、1528-1533年の間にこの主題で4部作を製作している。銅版画と油彩画(板材)の違いはあるが、与える印象もかなり異なる。右側の翼を背にした女性、犬など同じものがアトリビュートとして描かれているが、後景には黒雲に乗った悪魔や異形な姿が描かれ、その前に並ぶ子供(キューピッド)の姿にも暗示を与えるようだ。迫り来る時代の不安のようなものも感じる。デューラーの作品世界とはかなり異なった印象をうける。クラーナハの作品からは、何か不穏な空気が迫ってくる。メランコリーは基本的に 'acedia' と呼ばれる精神の弛緩した病的状態であり、精神的な前進が停滞し、鬱屈した状態を意味するとされてきた。しかし、画家の受け取り方はそれぞれかなり異なるように思われる。

 

 

Albrecht Durer(1471-1528) Melencolia 1
1514, engraving on copper
23.5 x 18cm,, purchase, 1986

 

Luccas Cranach the elder (1472-1553) Melancholy
1532, Oil on panel, 76.5x56cm Purchase 1983

 こうして並べてみると、同じ主題でありながら印象はかなり異なる。クラーナハの作品はデューラーよりも20年近く後に製作されたようだが、何がその違いをもたらしたのだろうか。現代人から見ればデューラーの作品は銅版、単色であることもあって陰鬱感は根底から伝わってくるが、クラーナハの作品はその含意を感じ取るにはかなり苦労する。翼を背負った女性の表情もメランコリックなものを感じさせない。精神的に弛緩した鬱状態というよりは、なにかこの時代に忍び寄る暗鬱な脅威のようなものを筆者は感じる。世界の近未来になにか不穏な、出口のない環境を感じる現代は、まさにメランコリアそのものである。 

 

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ルーカス・クラーナハとマルティン・ルター

2016年11月21日 | 絵のある部屋

 

晩秋の一日、予定していた『クラーナハ:500年後の誘惑』(国立西洋美術館)に出かける。クラーナハ(Cranach, Lucs the Elder, 1472-1553))は、とりたてて好みではないが、以前に記したメッケネムやデューラー、そしてとりわけルターなどの関連で気になる点もいくつかあって、機会があれば作品を見るようにしてきた。

  最初にこの画家の作品に改めて惹かれるようになったのは、東西ドイツ統合前の国立ベルリン絵画館だった。それまでは、作品は各地で見ていても、なんとなく好みに合わない感じで、深く考えることはしていなかった。作品の裏に隠れた画家の人生や時代環境についての知識も、十分ではなかった。

 ベルリンでは開館して間もなく入館したためか、あまりに空いているのに感動していると、展示室の管理をしている館員が、手持ち無沙汰なのか、遠来の客に多少のサービスをと思ったのか、先方から話しかけ、近くの展示品の案内をしてくれた。次の部屋にクラーナハがあるよと知らせてもくれた。名作だから見逃すなよ、という含意があったのかもしれない。

『ルクレティア』との出会い
 記憶が正しければ、その展示作品のひとつは『ルクレティア』という女性の裸体像だった。この時代、画家がこれほど大胆なイメージを描いたということ自体かなりの驚きだったが、クラーナハ(父)は、この画題で何枚も制作したらしい。アルプス以北では最初のことのようだ。宗教戒律が厳しいという地域と思っていたが、画家の制作当時もかなり話題となったようだ。この画家の作品、とりわけ裸体を描いた作品が与える第一印象は、人体の裸像であっても、なんとなく冷たい、どことなくアンバランスな独特な感じを与えることだ。マルティン・ルターの肖像画も見たはずだが、あまり強い印象を残さなかった。

 今回の展示作品にも、同じ画題の作品『ルクレティア』があったが、ウイーン造形技術アカデミー所蔵だった。少し気になって、今回の東京展カタログを調べてみたが、ベルリン国立美術館関係からは借り出されていないようだ。この画家はきわめて多数の作品を制作したらしい。息子も画家であったから、その数、2000点を超える ともいわれる。銅版画を多数制作したことも、画家の作品販路の拡大、知名度を高めることにつながった。

 本展の注目作品のひとつ『ホロフェルネスの首を持つユディト』のように、ホロフェルネスの首を左手で押さえ、右手に剣を掲げたユディトは、肖像画のスタイルで描かれているが、少なからずグロテスクな感じもして、怖いところがある。カラヴァッジョの作品のいくつかに見るリアリスティックなグロテスクさとはやや異なるが、あまり長く見ていたくはない。この時代の人々にとっては、戦乱の巷などで残酷な光景はさほど違和感がなかったのかもしれない。『洗礼者聖ヨハネの首を持つサロメ』、『ルクレティアの自害』(銅版画)も同様なアイディアで描かれている。特に前者はストーリーの次元で考えている場合はまだしも、美女が持つ大皿の上に置かれた生首の絵は、美的観点からも良い印象ではない。ちなみに、中世の伝統を引き継ぐならば、ユディトは「美徳」を現し「快楽」という悪徳を克服するものとみなされてきた。

ルーカス・クラーナハ(父)
「ホロフェルネスの首を持つユディト」部分
1525/30年頃油彩、板(菩提樹材)
87x56cm
ウイーン美術史美術館 

  展示を見ていて興味深かったことのひとつに、売れ筋作品のイメージ・パターンが工房には多数類型化されていて、注文主の要望などに応じ、描き分けられていたとのことだった。作品主題が『ルクレティア』、『ヴィーナス』といっても、微妙に異なる作品が存在することになる。こうした型紙に相当するものは、ロレーヌの画家の工房などでも使用されていたことが知られている。売れ筋の人気作品はこうした型紙の使用で、工房の職人や徒弟などの手であらかた整えられ、最後に親方が筆を加えるということもあったようだ。

現代から見るマルティン・ルター
 クラーナハに興味を抱いた他の点は、以前にも記したがマルティン・ルターとの親交であった。時代の精神面を支配した宗教に改革の狼煙を上げ、時代を大きく転換させた人物と美術の世界において創造性とその成果の浸透に力を尽くした画家との交流は家族の段階に及んでいた。

1517年に、神学者であったルターが教会の優位性と無謬性に異議を唱えたことをきっかけに、各地で農民戦争が勃発し、1555年に、プロテスタンティズムは正式に認知されることとなった。ザクセン選帝侯領の宮廷画家クラーナハは、本作品以前に別のルターの肖像画を描いたほか、多くの聖書挿絵や布教版画を作成し、ルターのイメージとともにプロテスタントの画像を広めた。大規模な自分の工房で、絵画と版画を繰り返し複製させたことが知られている。この大規模工房の仕組みについても、書きたいことはあるが、今はその余裕がない。作品の出来映え、精粗が大きいことなどが気になっている。

 ルターについては、時系列的には最初に下掲の修道士姿のルターの銅版画が継承されている。

 

ルーカス・クラーナハ(父)
『アウグスティヌス会修道士としてのマルティン・ルター』 
1520年、エングレーヴィング(第3ステージ)
144x97cm
アムステルダム国立美術館 

 油彩画についても、画家はいくつかの作品を残している。誇張した表現ではあるが、クラーナハ(子)は、1000枚を超えるルターの肖像画(多くは銅版画と思われる)を制作し、この宗教改革者のイメージを世に広めることにつとめたといわれる。

 

 

ルーカス・クラーナハ(父)の工房
《マルティン・ルターの肖像》
1533年頃 油彩、板
ベルリン国立絵画館

  油彩で描かれたルターの肖像は、無地の背景に、3/4斜め正面のマルティン・ルターを、黒髪と黒いマントをまとった学者として描いている。緑色無地の背景と黒色のマントの中に、硬い表情のルターの顔だけが浮かび上がっている。ヨーロッパ世界を揺るがすほどの時代の改革を担った先駆者の姿を、今日こうした形で追憶することができるのは貴重なことだ。ルターの容貌は、かなり独特であるために、修道士姿でなくとも直ぐに判別できる。

 ちなみにマルティン・ルターは1525年6月13日、カタリナ・フォン・ボラと結婚した。当時も聖職者の婚姻は公には認められず、ルターは聖アウグスティヌス会を追われた。その後、二人は元修道士と元修道女という立場で、クラーナハの工房で肖像画を描かせた。残念ながら、妻を描いた部分は滅失してしまったようだが、その後1529年頃に描かれた肖像画は残っている。夫妻ともに質実な容貌で独特のベレー帽を被ったルターと中流市民的な裏地に毛皮のついた上着の妻が描かれている。いずれの作品も画法の精緻さという点では洗練されているとはいえないが、写真のなかった時代、きわめて貴重な記録史料となっている。

 

ルーカス・クラーナハ(父)
『マルティン・ルターとカタリナ・フォン・ボラ』 
1529年
油彩、板
36.5x23cm, 37x23cm
ウフィツィ美術館 




Von Martin Warnke, Lucas Cranach; Luther (邦訳マルティン・ヴァルンケ『クラーナハ;ルター』岡部由紀子訳、三元社、2006年)

『クラーナハ展; 500年後の誘惑 LUCAS CRANACH THE ELDER』 国立西洋美術館、2016年10月15日ー2017年1月15日

 

 

 

 

 

 

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ヒエロニムス・没後500年(5):作品の裏側

2016年10月26日 | 絵のある部屋

 

ヒエロニムス・ボス没後500年記念特別展カタログ表紙
マドリード・プラド美術館、2016年
『快楽の園』3連祭壇画左側、部分

これは何でしょう?


500年経っても解けない謎
 ヒエロニムス・ボスの没後500年に当たる今年2016年、記念事業のひとつとして刊行された「作品篇」(カタログレゾネ)と「技術篇」の2冊の研究成果は、圧倒的な迫力がある。ページ数は双方で1,000ページをはるかに越え、重量でも2冊併せて9kg近い。もう少し経済的な印刷・装丁が可能ではないかと思うが、記念事業主催者側としては、立派なものを後世に残したいのだろう。

 さらにブラバントとプラドで開催されたカタログまで見ていると、それぞれが面白く、今年の夏はかなりの時間、これらを眺めて暑さを忘れた。まるで長編ミステリー小説を読んでいるようで、ついのめり込んでしまう。両者には対抗意識が働いているようで、微妙に面白い。十分消化したとは到底言い難いが、これまで抱いていたこの画家と作品についてのイメージが、一変したような思いがしている。すべての作品を見たわけではないが、すでに1970年代から旅の途上などで、マドリード、リスボン、ベルリン、ヴェネツイア、ウイーン、ロッテルダムなどで、かなりカヴァーしていた。真作といわれるおよそ20点の70%近くは、直接目にする機会があった。とりわけ、ロッテルダムの大学に短期滞在していた折、新たな興味が湧き、多少本格的に調べたことがあった。

ボスは筆者にとって、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールやレンブラントほど、贔屓の画家ではない。しかし、その奇想天外、奇々怪々で、想像力をかきたてる作品には、最初見た時から圧倒された。とにかく変幻自在、想像を絶する発想と構成に魅了された。その印象はかなり知識が増えた今でも変わらない。ボスの影響を受けたピーター・ブリューゲル(兄)の作品に接するまでは、他の画家とはまったく断絶した別の世界に生きているような斬新で想像を超える発想に驚かされた。当然、その奇想に溢れた作品の裏側を知りたくなる。

 ヒエロニムス・ボス(c.1450-1516)の本名はJheronimus van Aken であることから、祖先の祖先はドイツ、アーヘンであることが推定されるが、画家はJheronimus Boschと作品にサインを残しており、活動の本拠地が's-Hertogenbosch(フレミッシュ)であったことなどから、今日ではフレミッシュの画家ボスとして知られている。ちなみに、レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)はフローレンスで活動していた同時代人である。多分、ダヴィンチもボスの作品について聞き知っていたのではないか。思い当たる点もある。

ボスはその生涯においてすでに大変著名な画家であったが、時代の制約もあって、その詳細は分からないことが多い。1318年に設立された「聖母マリア兄弟会」という信徒の会で誓約兄弟という中心メンバーになっていたことなどから、世俗の人でありながら、指導的な知識人でもあったことがうかがわれる。

ボスの没年1516年から500年が過ぎた今日まで、世界中で出版されたこの破格な大画家と作品に関する書籍は、数にして千をはるかに越えたと推定されている。このたびの記念事業に関連して刊行された書籍もかなりあるようだ。このブログでは上記の研究書やカタログに併せて、その後読んだ本の記憶を少しだけ再現したにすぎないが、この画家について抱いていた既成観念は、かなり塗り替えられた気がした。

「地獄」は描けても「天国」は?
 そのひとつ、この画家は「天国」、「地獄」や「悪魔」を描くにきわめて長けていた。画家ボスが生きていた時代、15世紀の終わりも近く、世界の終末が来ると伝えられてきた。人々は、ボスの絵画を見て来たるべき「最後の審判」とその後に待ち受ける天国と地獄のありさまを想像し、天国へゆけることをひたすら祈った。

 ボスはとりわけ恐怖に満ちた迫真力ある地獄の仮想描写に長けていた。そのこともあって、当時は‘悪魔絵描き’devil maker の名で知られていたらしい。地上には、戦争、天災、飢饉などがもたらした残酷、恐怖で満ちた光景がいたるところに展開していた。といっても、現代世界における戦争の殺戮の方が、はるかに残酷・悲惨と思うのだが。いずれにせよ、ボスにとって世紀末に目にするかもしれない恐怖の世界を描く材料には事欠かなかった。"Bosch"という名前は、多かれ少なかれ、地獄を描いたジャンルHellekenとほとんど同じ意味で使われてきた。

 ひとつの例をあげてみる。聖アントニウスがさまざまな悪魔や化け物に誘惑されながらも、信仰の深化に努める光景を描いた『聖アントニウスの誘惑』は、当時からきわめて人気のあった画題であった。興味深い事実が見いだされている。ボスの『聖アントニウスの誘惑』の3連祭壇画は、16世紀に30点以上が制作されたと推定されている。いくらがんばっても、生涯にとても一人では描ききれない数の地獄絵Hellがボスの作品として出回っていた。ボスの追随者、模倣者が多数出現し、ボスの署名まで真似て制作していたことは明らかだった。

ボスの真作とみられる3連祭壇画を見ると、人々に「地獄」の恐怖を呼び起こす凄絶な光景と比較して、「天国」の光景はどこか迫力に欠ける。工夫を凝らして大変美しく描かれてはいるが、「地獄」の迫真力にどこか及ばない。現世に「地獄」の凄絶さを思わす光景を見ることはあっても、「天国」がいかなる所かを思わせる光景はほとんどなかったのだからだろうか。

 

ボス・ヒエロニムス『聖アントニウスの誘惑』3連祭壇画、部分
村落の火災

 

 ボスの作品を見て気づく別の点は、ボスの他の画家から隔絶したような想像力、奇想天外な発想だ。ありとあらゆる実物、あるいは仮想の生物?、化け物のたぐいが画面一杯に登場している。その発想の源、手がかりはなにであったのだろうか。興味がかきたてられる。よく見ると、一見するとぎょっとするような化け物にもなんとなく滑稽さ、奇矯さが漂っている。愛すべき化け物といえるかもしれない。しかも、この画家の作品を見て驚くことは、およそ見たこともない化け物や存在するはずのない生き物?が画面の片隅に描かれていても、一切手抜きがなく、細部にわたってしっかり描き込まれていることである。そして、それはさらに新たな興味をかき立てる。見たこともない化け物や生き物?なのだが、しばしばユーモラスな印象を与える。かくして、ボスは「地獄の画家」とともに「笑い・滑稽な画家」として知られるまでになった。正統の宗教画作品を別にすると、「怪物図鑑」を見ているような気にもなる。不思議な画家である。

ヒエロニムス・ボス『聖アントニウスの誘惑』部分

 

ヒエロニムス・ボス『地上の楽園』、3連祭壇画
右側パネル部分 
右側の男は誰? 


作品制作の裏側
 この画家はその生涯において、きわめて多くの作品を制作したと推定されている、しかし、今日ほぼ真作とされ、実在する作品は20点ほどである。そのうち、7-8点(一部は欠損、滅失)は3連祭壇画であり、しかも最重要な作品はスペイン、マドリードのプラド美術館が所蔵している。画家の活動したブラバント Brabant には作品は一点も残っていない。

 伝承その他でボスが制作したと伝えられる作品、たとえば1521年にMarcantonio Michielが言及した、「ヨナが鯨に飲み込まれる」場面(「大きな魚が小さな魚を飲み込む」)を描いた作品やマドリードの重要な収集家ディエゴ・デ・ゲバラ(1450-1520)が所蔵していたと思われていた祭礼を描いた作品なども発見されていない。とりわけカンヴァスに描かれた油彩画はすべて滅失している。その多くはアントワープの美術館が所蔵していたと思われる。

 さらに現存するボスの作品は、画家ひとりの手で制作されたとは考えられない。ボスの作品のその奇想さ、多様さなどで、一人の画家がすべてにわたって制作したとは考えにくいものが多い。そこで浮かび上がるのが、画家の工房の存在である。ボスが工房を持ち、多くの優れた職人、徒弟などを雇っていたことはほぼ判明している。ボスは親方として、彼らを指導、指示しながら制作活動を行っていたのだろう。こうした工房の仕組みは、技能伝習の装置として大変興味深いが、詳細は別の機会にしたい。

活躍した?多数の贋作者と宮廷のパトロン
 さらにすでに名声が高かったボスの踏襲者や贋作者が多数存在し、活動していた。ボスの作品に贋作、模作が多いことは、収集家のフェリペ・デ・ゲヴァラなどは1560年くらいには事実として知っていたようだ。これらの模作や贋作作品は、しばしば画家の署名も真作のそれを模して記されている。さらに作品に箔をつける(?)ために、ストーブの煤などで真作らしくする裏技なども加えられていた。ボスの没後500年記念プロジェクトとして行われた研究では、さまざまな分析技術を駆使して、作品の真贋、制作技法、年代などの推定が行われ、興味深い事実を明らかにしている。たとえば、ボスの作品のほとんどは樫の木などの木板の上に油彩で描かれているが、今回の科学的調査で木材の年輪まで判明している。しかし、不思議なことに真作と鑑別された作品制作時期よりも、使われている木材の年代の方が若いということもある。

ボスの数少ない作品を所蔵し、今日に継承するに重要な役割を果たしたのは、パトロンの存在と庇護だった。とりわけ、前回に記したフィリップ美公といわれたフィリップ1世(1478-1506)が、ボスの作品を好み、注文を出していた。ボスの生まれたブラバンド公国は1494年からフィリップ美公が統治していた。スヘルトーヘンボスにも滞在し、『最後の審判』の制作を依頼している。


フェリペII世肖像

Anthonis Mor, Philip II, c.1549-50
oil on oak panel, 107.5x83.3cm, Bilbao,
Museo del Bellas Artes, inv. 92/253


 ナッサウ国ヘンドリック3世(1483-1538)はフィリップ美公のスヘルトーヘンボス滞在時に随行していた貴族だった。当時のネーデルラントの最高権力者だった。1499年、伯爵である伯父の跡継ぎとしてネーデルラントに移り、その後現地の司令官として重きをなしていた。彼の結婚に際して制作された作品が、ボスの最高傑作といわれる『快楽の園』である。

そして、もうひとりの重要なパトロン、ディエゴ・デ・ゲバラ(1450-1520)はスペインの貴族だが生涯の大半をネーデルラントで過ごした。ゲバラはナッサウ伯とともに、ボスもメンバーであった聖母マリア兄弟会に属していた。美術品収集家として知られ、ボスの作品を6点(内4点は行方不明)所蔵していた。スペイン王フェリペ2世(フィリップ美公の孫)はゲバラの孫から作品を買い取っている。そして、フェリペ2世はボスの作品の収集・所蔵家として、後のプラド美術館、エル・エスコリアル修道院のコレクションを貴重な継承遺産として今日に伝えた。



ディエゴ・デ・ゲバラ(?)肖像
Michel Sittow, Diego de Guevara(?)
c.1515-18, oil on panel, 33.6x23.7cm
Washington, D.C.;National Gallery of Art
Andrew W. Mellon Collection 

 ボス・ヒエロニムスの代表作は、ほとんどこのプラド美術館に集中している感がある。とりわけ『快楽の園』、『干し草車』、『東方三博士の礼拝』などの3連祭壇画の名作を保有しているのは、この画家の研究にとっても大きな強みだろう。スペイン宮廷の貴族たちが、いかなる点に惹かれてボスの作品を収集してきたのか。彼らの美術観も興味深い。ゴヤ、ベラスケス、スルバラン、グレコなどの名作と並んで、別世界を創りあげたようなボスの作品が加わり、さらに最近ではジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品も意欲的に集められているようだ。スペイン経済の停滞の中で、プラドは燦然と輝いている。


さらに、スペインはマドリード郊外に『十字架を担うキリスト』(エル・エスコリアル修道院)、『荒野の洗礼者聖ヨハネ』(ラザロ・ガルディアーノ美術館)を所蔵する強みがある。加えて、隣国のリスボンには多数の模作、贋作を生んだ人気の『聖アントニウスの誘惑』(国立古美術館)があり、ボスの愛好者にとっては忘れがたい地である。

References

Hieronymus Bosch, Painter and Draughtsman: Catalogue Reisonne
by the Bosch Research and Conservation Projet
Brussels: Mercatorfonds, 607 pp.

----------------.Technical Studies
by the Bosch and Conservation Project
Brussels: Mercatorfonds, 463 pp. 

Hieronymus Bosch: Visions of Genius, an exhibition at Noordbrabants Museum, 's-Hertogenbosch, the Netherlands, February 13-May 8, 2016
Catalogue of the exhibition by Marthijs Ilsink and Jos Koldeweij
Brussels: Mercatorfonds, 191 pp.

Bosch: The Fifth Centenary Exhibition
an exhibition at the Museo Nacional del Prado, Madrid, May 31-September 11, 2016
Catalogue of the exhibition edited by Pilar silva Maroto
Madrid: Museo Nacional del Prado, 397 pp.



続く 

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16世紀銅版画家の世界:メッケネムの作品と活動

2016年09月25日 | 絵のある部屋

 

『メッケネムとドイツ初期銅版画』ポスター
国立西洋美術館 

 

 雨続きの合間を縫って、閉幕寸前の国立西洋美術館に駆けつけた。かねて見たいと思っていた『メッケネムとドイツ初期銅版画という企画展(7月9日ー9月19日:上掲ポスター)である。あまり一般受けしない、どちらかといえば地味な企画展ではある。

 銅版画であるから一部の展示品を除きモノトーンで、しかも作品の多くは大変小さい。視力の弱くなった筆者にはかなりきつい展示でもある。作品の正面からガラスに額をつけるようにしないと、見えないような小さな作品も多い。海外の同様な企画展を見た経験からすると、観客の視点から展示方法にも一工夫ほしいといつも思う。いつものようにルーペ(拡大鏡)眼鏡を携行した。このブログ記事のフォントもいつの間にか大きくなりました(笑)。

 メッケネムという銅版画家の作品はこれまでに見たことはあったが、企画展というまとまった展示ではなかった。しかし、いくつかの理由からもう少し作品をまとめてみてみたいという思いがどこかにあった。知りたい理由の最大のものは、この画家の技能の習得の場所と方法にあった。

 イスラエル・ファン・メッケネム(Israhel van Meckenem: c.1445-1503)は、15世紀後半から16世紀初めにかけて、ライン河下流の地域で活動したドイツの銅版画家だ。当時、人気の銅版画家にはショーンガウアー(c.1430 or 1450-1491)やデューラー(1471-1528)、H.ホルバイン(父:c.1465ー1524)などが知られていたが、メッケネムはこれらの作家の作品を大量にコピーする一方、自分でも新たな発想による作品を制作したり、大量に作品を制作販売するなどの戦略構想を持っていた。現存する作品数は500-600点余りといわれる。このブログで取り上げたジャック・ベランジェやカロが油彩画ではなく銅版画家になったのは、多分に作品の販路を拡大したいとのねらいがあったと思われる。実際、ベランジェの場合、油彩画はほとんど現存していないが、銅版画はかなりの数が継承されて今日見ることができる。

 メッケネムに関心を寄せたひとつの理由として、この初期の銅版画家がどこで修業したかということにあった。カタログに掲載された文献によると、ライン河上流ストラスブールにあった「E.S.の版画家」と言われる工房まで遍歴修業の旅をし、1460年代半ば頃までそこで修業したようだ。10代半ばから数年を工房で技能の習得に過ごしたのではないか。20歳代初めに親方職人の資格を得て、故郷ボッホルトに戻り、裕福な家の娘イダと結婚している(下掲図)。

 同時代の銅版画家デューラーの活動地はニュルンベルグ、ショーンガウアーの活動地はコルマール、ホルバインはアウグスブルグをそれぞれ活動拠点としていたらしい。ライン河領域には幅広く銅版画家の活動領域が展開し、画家たちはそれぞれのライヴァルの活動を熟知していたようだ。熟練、作風の伝播という観点からも、大変興味深い。ライン河流域に銅版画技法が生まれたのは1430年代とされるので、これらの画家たちはいわば黎明期に多大な貢献をしたことになる。



メッケネムはオランダに近い、ドイツ北西部の町ボッホルトを主たる活動地とした。
Source:国立西洋美術館企画展カタログ (2016), p.186 
クリックで拡大

  メッケネムの作品を見ようと思い立ったのは、直接的にはほとんど同時代のネーデルラントの画家ヒエロニムス・ボス(c.1450-1516)没後500年の壮大な研究プロジェクト報告である2冊の重量級カタログを見ている間に、この奇想な作品を生みだした大画家が残したかなりの数の素描に興味を惹かれたことによる。時代を飛び抜けたような奇怪で奇想天外とも思われる生物などを、画家がいかに発想し、具体化したのか、多少わかった感じがした。

 メッケネムはその修業の過程で金細工師に弟子入りしたり、銅版画家と兼ねていたことも興味深い点である。時代は下るが、本ブログでも取り上げているジャック・カロ(1592-1635)などもロレーヌ公の宮廷に仕えていた親の反対にも関わらず、銅版画家を志したが、親に多少妥協したのか、最初は画家の工房ではなくナンシーの著名金細工師の下で修業している。金銀細工はこの時代までの伝統技法であったが、新たに生まれた銅版画の技法が金細工の技法から影響を受けて発達したことがよく分かり、大変興味深い。金銀細工師と銅版画家は前後する隣接の職業であり、金銀細工に必要とされた精緻な作品、伝統技法などが銅版画に受け継がれる過程は、技術伝達の例として学ぶことが多い。

 今回展示された作品の中には、世俗画の範疇に入るが、カードゲームをする男女を描いた作品が含まれていて、これも興味深いものだった。カードゲーム自体はかなり以前から普及していたと思われるが、家庭内における風景として版画に描かれた作品は珍しい。今回の企画展にもいくつか出展されていたが、これはその中の一枚。下記の作品、男女のどちらがゲームに勝ったのでしょう?

イスラエル・ファン・メッケネム(c.1445-1503)
『カードゲームをするカップル』
ミュンヘン州立版画素描館 

 

イスラエル・ファン・メッケネム(c.1445-1503)
『イスラエル・ファン・メッケネムと妻イダの肖像

c.1490-1500, 大英博物館蔵

銅版画の歴史では現存する最も初期の作品とされている。裕福そうな身なりで描かれた妻と金細工師、銅版画家として社会的成功を収めた夫の容貌が印象的である。


図版出所
『聖なるもの、俗なるもの:メッケネムとドイツ初期版画』展カタログ
国立西洋美術館
 


 

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ヒエロニムス・ボス没後500年(4):現世は楽園だろうか

2016年08月29日 | 絵のある部屋

 

Garden of Earthly Delights, centre panel,
220x195cm
Museo del Prado, Madrid 

ヒエロニムス・ボス『快楽の園』
センター・パネル(両翼扉は省略) 
画面クリックで拡大

 

 ヒエロニムス・ボスは、かなり好き嫌いが多い画家に入るようだ。女性の中には気持ちが悪いといわれた方もおられた。比較的、絵画が好きな友人でプラド美術館まで行ったのだが「あれは苦手」でよく見なかったといわれた方もいる(もったいない!)。その代表的な作品は、どうもボスの最高傑作の1枚『快楽の園』のようだ。プラドへ行ってもボスの前は素通りという。

 確かに最初プラドでこの作品に対面したときは、かなり驚いた。エル・グレコのような静謐で心が洗われるような絵を見なれていると、ボスの絵には驚愕させられる。作品によっては、胸の中がざわめくような衝撃を受けるものもある。今回の没後500年記念のカタログ・レゾネは、この画家の最高傑作と思われる『快楽の園』を、"BIZARRE IMAGES" 「奇妙な絵」と形容している。一見、これが宗教画と思うほど、雑然、
奇怪、猥雑、倒錯といった形容詞が次々と浮かぶ。構図もあっと驚くが、細部にわたりよく見ると、奇々怪々な裸体の男女、動物、生物、実在するか分からないような奇妙な想像上の怪物、建物のようなもので、画面が埋め尽くされている。ここは「失楽園」なのか。しかし、今改めて見直してみると、なにか中世のディズニーランドのようなイメージもしないでもない。

余談だが、今回の「ヒエロニムス・ボス没後500年:記念プロジェクト」の一環として造られたカタログ・レゾネ、技術編ともに重量級の重さであることは前回記したが、文字のフォントもきわめて小さく、provenance 来歴など、視力の弱くなった筆者にはルーペなしにはとても読めない。またタイプ・ミスをしないようにと、床に腹ばいになって読む始末だ。

 ボスはこの奇怪な作品をなんのために制作したのか。改めてカタログなどを繰ってみる。ハプスブルグ家に仕えたネーデルラントの貴族ナッソー・ブレダ伯ヘンドリック3世(1483-1538下掲)の婚礼を契機に制作されたという説明に出会う。一瞬なるほど、婚礼のお祝いなら明るいテーマかとも思う。しかし、実際は三連式の祭壇画(ここでは両翼は省略)と上掲のセンター・パネルと併せてみると、かなり厳しい教訓を含んだ作品だ。その制作を支えた基底には、この時代までに西欧社会に深く根を下ろしたキリスト教(カトリック)思想の蓄積があるとはいえ、画家としての独創性、構想力、そしてこの時代としては突出した、時に奇々怪々、あふれんばかりの知識と表現力の豊かさに驚かされる。

現存するボスの真作のうち、7点はこの三連式祭壇画方式で制作されている。当時のネーデルラントでは一般的な様式だった。

 左右の扉を閉めた状態では前回も掲載した、下掲のような円形の世界に光が射し込んでいるような不思議な光景があり、左上隅に神の姿が描かれている。そして、
扉を開くと、左側には「楽園(エデンの園)」、中央に 「想像の楽園(快楽の園)」、右側に「地獄」のそれぞれが描かれている。

 原罪を背負った人間が楽園から追放され、現世界で放埒で不道徳な生活(「快楽の園」earthly delights)を過ごしていると、次に待ち受ける世界は想像を超える怖ろしい地獄という一連の教訓で貫かれていると見てよいのか。中心パネルに描かれた光景は、想像上のこの世の悦楽(earthly delights)なのだが。宗教改革が目前に迫る時代に描かれた作品であり、諸国間の戦争、教会、世俗のそれぞれの世界の堕落は、世界の終末が近いことをさまざまに思わせるものだった。世の中には世紀末感が色濃く漂い、不安感が漂っていた。時代の先の見えない不安と恐怖は、今の時代につながる。500年前、画家は制作に際してなにを思っていたのか。夏の夜を過ごすには重すぎる課題を含む一枚である。


ヒエロニムス・ボス『快楽の園』祭壇画表扉



Jan Gossaert,called MABUSE
Portrait of Hendrik III
Count of Nassau-Breda, c.1516-1517
57.2x45.8cm
Acquired in 1979
Kimbell Art Museum, Fort Worth

ヘンドリックIII世、ナッソー・ブレダ伯爵
 このナッソー・ブレダ伯は大変熱心な絵画収集家で、フィリップI世に仕え、ローマを訪れたこともあった。この肖像画はその当時描かれたようだ。1517年あるイタリア人がブラッセルの侯爵宮殿を訪れた時、多数の絵画の中に、ボスの『快楽の園』 が誇らしげに飾られていたことを記している(Kimbell Art Museum collection catalogue)。なお、この肖像画を制作したマビュースは、イタリアの肖像画スタイルを初めてネーデルラントへ移植した画家のひとりといわれる。それにしても、キンベルは選択眼が良いと以前から思ってきた。

 ナッソー・ブレダ伯が仕えたフィリップ(フェリペ)I世(1478-1506: 通称フィリップ美男公、Philip I of Castile, Philip The Handsome, or the Fair)は、美形であったこともあり、こうした通称で知られたが、女性関係も多かったようだ。ネーデルラントを統括し、画家ボスの活動拠点ス・ヘルトーヘンボスにも1504年から翌年まで滞在したことがある。その時、彼はボスに『最後の審判』(ウイーン美術アカデミー付属美術館蔵)の制作を依頼している。この王は1506年、ブルゴスで生水にあたり、突然死去したと伝えられる。『最後の審判』という画題で依頼したのは、なにか心にかかることがあったのだろうか。世界の終末をどこかで思ったのだろうか。この作品も画家の死後500年を経過した今、決して進歩しているとは思えない世界を前に、なにかと考えさせる問題を含んでいる。

ファン・デ・フランデス画『フェリペ一世(カスティーリャ王』
ウイーン美術史美術館蔵
from Wikipedia 


 


 

 

 


 

 

 

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ヒエロニムス・ボス没後500年(3):楽園の裏側?

2016年08月23日 | 絵のある部屋

 

The main character, Simon, explains to David, the small boy he has taken under his wing: “After death there is always another life… We human beings are fortunate in their respect.” The Schooldays of Jesus. By J.M. Coetzee

シモンは自分が面倒を見ている男の子デイヴィッドに説明していった。「死んだ後には必ず次の生がある。・・・我々人間はその点で幸せなのだよ。」J.M.クートシー 『イエスの学校時代』(仮訳)

 

 

 

 いったいこれはなにでしょうか。おわかりの方はきっと人生の表も裏も知り尽くしておられるかも。

プラドに作品が多いのは
 前回のボス・ヒエロニムスの作品に立ち戻ってみる。ボスの作品は今日まで継承された数が少ない上に、祭壇画などの特別な形態をとったものが多く、日本で親しくその作品に接する機会は少ない。最近出会った作品では、「プラド美術館展」(三菱一号館美術館)に出展された「愚者の石をとる」(プラド美術館)だろうか。しかし、この作品は、この画家の代表作とは言いがたい。やはりプラド美術館やリスボン国立美術館などが所蔵する作品が代表作だろう。なにしろ、15-16世紀ネーデルラントの最高権力者フィリップ一世(フィリップ美公と呼ばれた:1478-1506)、ナッサウ伯ヘンドリック三世(1483-1538)、貴族ディエゴ・デ・ゲバラ(c1450ー1520)などの王侯・貴族たちが、金に糸目をつけず集めた作品を、後にスペイン王フェリペ二世(フィリップ美公の孫)がすべて買い取り、プラドやエル・エスコリアル修道院が今日所蔵するところとなった。真贋の点などで一部の作品には議論は続いているが、ほぼ25点の作品中で10点はマドリッドのプラド美術館が所蔵している。今回のボス没後500年記念のプロジェクトも、プラドの協力なしではほとんど成立しえなかった。かつて、プラドを見て少し余分の人生をもらったような気分がした。その後、抜けるような青い空と海の見える道を壮大な修道院のあるエル・エスコリアルまで車を飛ばした時代が夢のようだ。

 当初、ボスの作品に接した時は、同時代の画家たちと比較して、別世界にいるような奇々怪々な生物?が描かれた作品には、なんとなくなじみがたいものを感じた。しかし、この違和感はその後急速に消滅していった。そして見れば見るほど、この画家の天賦の才能、それも100年にひとり現れるか否かと思うような傑出した才能に圧倒されるようになった。生前、ボスの作品はフィリップ一世を初めとして王侯、貴族、宮廷人、熱心な収集家などの間で引く手あまたであり、実際にもかなりの数の作品が制作されたようだ。しかし、ボスの死後の宗教改革による偶像破壊活動などもあって、多くの作品が滅失した。

 ボスの作品、生涯については、筆者がこれまでかなり立ち入ってきたジョルジュド・ラ・トゥールなどのロレーヌやユトレヒトの画家たちとはきわめて異なった魅力を感じるが、あまり深く立ち入る時間はない。しかし、改めて「快楽の園」、「乾草車」、「聖アントニウスの誘惑」のようなきわめて著名で研究も進んだ大作ではない作品も見た結果、これまで気づかなかった新たな魅力も感じた。

『次の世のヴィジョン』再見
 前回記した四枚の作品、『次の世のヴィジョン』もその中に入る。改めてカタログを読んでみる。思いがけなかったことのひとつは、これらの作品がいかなる制作意図で生みだされ、その構成が実際にどうであったかという点についても、今日でも不明な部分が残されていることだった。たとえば、この四枚が画家
の『最後の審判』を中央に配した祭壇画の両翼であるという説や『(1)地上の楽園、(2)祝福された者の天上楽園への上昇、(3)地獄、(4)呪われた者の墜落』の4場面で構成される二連祭壇画という解釈も有力なようだ。筆者はボスの専門家ではないので、かつて見た作品の記憶を頼りに、カタログを読み直し、一時暑さを忘れていた。

 今まで知ることのなかった構図の配置や作品の解釈については、なるほどと思う点も多いが、今回の記念プロジェクトが明らかにした制作に関わる研究・技術的側面もきわめて興味深い。ラ・トゥールの場合もそうであるが、近年作品に関するさまざまな科学的研究が進み、不明であった制作年次、使用された顔料、下地、制作意図などが明らかにされるようになった。

 1521年からCardinal Grimani グリマニ枢機卿の所有となっていたとされる、この四枚の作品はボスの熟年期の最高傑作のひとつと考えられる。この当時は、キャンヴァスの使用がまだ普及していなかったため、オーク材(ブナ科ナラ属、大木となる)などが多数使用されていた。伐採された木材の年輪推定から40-90年を経過した大木が支持材であることが推定される。伐採後、板材の乾燥と安定化のためにおよそ20年が加えられる。支持材にもかなりの年数の熟成が必要なのだ。

ということで、ご推察の通り、上掲の四枚は、前回記した作品『次の世のヴィジョン』の裏側である。順序は次の通り:

左側上、下              右側上、下

祝福された者の楽園への上昇       呪われた者の墜落
エデンの園(地上の楽園)          地獄への川

 

 参考までに『エデンの園』の裏側を拡大してみよう。5世紀もの時の流れの過程で表面は傷だらけになっていることが分かる。


 この今日まで継承されてきた扉型の祭壇画は、これまでの歴史の過程で破壊されており、本来の姿は実はわからない。残存しているのはパネル(87x40cm)だが、上下が厳しく切断されている。そのため、たとえば「地上の楽園」earthly paradise原画の半分くらいしか絵として残っていない。このことはオリジナルのパネルはきわめて細長いものであったと推定できる。言い換えると、地上の楽園(エデンの園)から見上げる天上の楽園(天国の門)は、はるか上方に位置していたとおもわれる。グリマニ枢機卿の所有の時にすでにいまのような状態になっていたのかもしれない。これらの点に画家がいかなる考えを持っていたのか、わからない。この時代、作品を画家から入手した者が、オリジナルの作品を、自分の好みで切断するなどの行為が行われるのは珍しいことではなかった。

  ちなみに、ボスの代表作のひとつ『快楽の園』(プラド美術館蔵)の外面扉の部分を掲載してみよう。所有者が大切にしていたという理由もあるかもしれないが、外面もきわめて美しい。


 

Garden of Earthly Delights, exterior
c.1470 or later, oil on panel, 220 x 195cm

Museo del Prado, Madrid

 16世紀初め、1505-1515年ころに制作されたと推定されているボスの「次の世のヴィジョン」だが、作品の解釈については、ボスの他の作品を検討する過程でほぼ立証されている。宗教改革運動前の教会の考えと一致していると思われる。天国Paradiseと地獄は最後の審判と並んでいた。世俗の生活 earthy lifeの後に来るとされる世界の予告である。地球上の楽園に対比される世界は、いずれ二つに分かれ、神の光が射す真の天国への入口であり、対する地獄の業火が映し出す罪人が抱く後悔と自ら犯した罪への深い精神性を考えさせる暗く、怖ろしい次元が想像されていた。 

 ボスが世を去った1516年の翌年になるが、1517年、ルターはローマ教会に抗議してヴィッテンベルク市の教会の扉に95ヶ条の論題を掲げた。これが、一般に宗教改革の始まりとされる。ルターは当初、教皇と袂を分かつつもりではなかったといわれ、たとえばボスが描いた現世と天上の楽園(天国)との関係などについても、ルターもおそらく大きな違和感を抱いてはいなかったのではないかと推定される。

見えない天国
 ボスの作品は、当時教会などの教えを通して、人々が心の中にイメージしていた内容を具象化して描いたと考えられ、ルターなどが見たとしても、違和感はなかったろう。当時の人々が漠然と心の内に抱いていた「地上の楽園」から祝福された者だけが許される「天上の楽園」への上昇、他方呪われた者が「最後の審判」によって罪深き者として断罪され、地国へと墜落させられ、悪魔から永遠の苦痛を強いられる地獄の様相が描かれている。罪を犯した者が落ちてゆき、終わることのない過酷な日々の次元に組み込まれることへの悔恨と恐怖感が、恐ろしい地獄の業火が陰惨に燃える中で、人々の心の中に定着してゆくことを教会側は期待していたのだろう。ボスの作品にある円筒形のドーム(隧道)のような『天国の門』(入口)は、灰白色で描かれ、その先にあると思われる「天国」の情景がいかなるものであるか、まったく分からない。画家の生地ス・ヘルトーヘンボスに残る運河の隧道のようだとの揶揄もあるくらい、希有な天才ボスの目をもってしても、見えない所なのだ。

  

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ヒエロニムス・ボス没後500年(2):究極のタイムトラヴェラー?

2016年08月16日 | 絵のある部屋

 

さて、何キロあるでしょう?
Hieronymus Bosch, Painter and Draughtsman: Catalogue Raisonne

by the Bosch Research and Conservation Project
Brussels: Mercatorfonds, 607pp., 2016.

重量級カタログ? 

 なんとなくけだるい感じがする猛暑の日の昼下がり。前回も記したが、展覧会のカタログ・レゾネを眺める。このところ比較的良く見ているのは、画家没後500年を記念し、世界的に話題を集めているヒエロニムス・ボス(c.1450-1516)の特別展カタログだ。このカタログ、並大抵のものではない。ボスの作品の研究・保存プロジェクト (The Bosch Research and Conservation Project) がその成果を、作品篇 Catalogue Raisonne と技術研究篇 Technical Studies の2冊に分けて刊行したものだが、作品篇は607ページ、技術研究篇は463ページの大作である。驚くことのひとつは、その装丁、とりわけカタログ(正確には研究書)の重さである。

 前回ブログで、カタログ・レゾネの多く、とりわけ海外の展覧会の場合は、とても片手に持って読めるような代物ではないものが多くなってきたと記したが、試しにこのカタログ(研究書:作品篇)を手元の体重計?で計ってみたら、なんと4.5kgもある。別に重いことがよいカタログの条件ではないのだが、今回のように美術館などが作品の所蔵を誇示したいような場合には、しばしば現作品に忠実な高級印刷を目指し、必要以上に豪華な装丁となってしまうのだろう。美麗で堅牢な箱入りできわめて立派なカタログだが、表紙も硬い厚紙で、両手で持っているだけでも一苦労する。足に落としたら今度は確実に病院行きだ。やはり床に置いて、気楽に眺めるのが安全だ。

どこかでつながる伝承の流れ
 前回記したように、ボスの作品は若い頃見た時は、その奇怪で異様な画風などに違和感を覚え、しばらく遠ざかっていたが、50歳代くらいから急速に魅惑され、深く関心を抱くようになった。とはいっても、ジョルジュ・ド・ラトゥールやホントホルストのような17世紀後の画家への関心とは動機や目的が
かなり異なったものだ。両者にはほぼ1世紀の年代差があり、作風も大きく異なる。しかし、前回取り上げた『手品師(奇術師)』のようにネーデルランド、ユトレヒトの画家たちとの細く通じる流れを感じる。

 ボスの家系は画家が多く、父アントニス・ファン・アーケン Antonisu van Aken、兄のホーセン Goossen および3人の叔父が画家であった。ボスは生涯のほとんどを現在のベルギーに近いス・ヘルトーヘンボス(デン・ボス)で生まれ、この地で過ごした。今年、その没後500年を記念する展覧会が各地で開催されているが、とりわけ、この地とスペインのプラド美術館が大規模な特別展を企画した。生前はスペインのフェリペ2世を始め、各地に熱心な愛好家がいたようだが、作品のほとんどは16世紀の宗教改革の偶像破壊のあおりを受けて、滅失してしまい、現存する作品は30点あまりと数少ない(油彩画の他にペン画が数点ある)。事情は異なるが、ラ・トゥールやフェルメールと同様に、今日に継承されている作品数が少ない。ボスの作品には前回取り上げた世俗画のようなものもあるが、多くはその後のシュルレアリズムを思わせる怪異で幻想的な画風が特徴となっている。同時期の他の初期フランドル派とは一線を画している。この時代によくこれだけ、奇怪で、グロテスクで、不可思議だが、全体として不思議な美しさを秘めた作品を創造しえたのか、やはり天才としか考えられない。

謎多いボスの人生と作品
 パトロンには各国の枢機卿、貴族、宮廷人、大商人、などが多数いたようだ。それにもかかわらず、
この画家の生涯については、意外に不明な点が多い。作品の多くが滅失したのが惜しい。ボスの作品は人気が高く、贋作、模作なども多く、その来歴 provenanceはまるで小説のように興味深い。

 ボスの同時代人で有名画家としてはレオナルド・ダ・ヴィンチが思い浮かぶ。両者ともに人体を描くについても、必ずしも美しい対象とはみなかった。とりわけボスの作品には聖書に基づく寓話がひとつの発想の源と思われるが、どこから思いついたのたのだろうと思うような奇怪で不可思議な動物?、魚、鳥、そして人間がいたるところに描かれている。とにかくその不思議でこの世とは思えない情景には息をのむような感がある。作品を制作するに際しての画家の想像力の豊かさ、広い世界への知識欲にはひたすら驚かされる。この画家について深入りすると、もうひとつ人生が必要に思えるほどだ。

ヒエロニムスの代表作で一般によく知られているのは次のごとき作品だろうか:

『快楽の園』(1480-1500年頃)プラド美術館蔵
『干草車』(1490-1500年頃)プラド美術館蔵

『聖アントニウスの誘惑』リスボン国立古美術館蔵
『いかさま師』(1475-80年頃)サンジェルマン=レー市立美術館
『放蕩息子(1480年-90年頃)ホイマンス・ヴァン・ブクニンゲン美術館蔵』

『当方三博士の礼拝』(1510年頃)、プラド美術館蔵
『最後の審判』(1510年以降、ウイーン美術アカデミー付属美術館蔵

 これらの作品の中でも最も知られているのは『快楽の園』だろう。続いては『干し草車』、『聖アントニウスの誘惑』、『東方三博士の礼拝』などだろうか。真作の確定が難しい画家のようだが、今では研究が進み、たとえば、絵画の支持体として使われているオク材の伐採時期から乾燥年数まで推定が進み、制作年次の推定が行われている。

 ボスの生地であるデン・ボス(正式名称はスヘルトゲンボス)には、聖ヤン聖堂、ヒエロニムス・ボス・アートセンターなど、偉大な画家の業績を記念する場所はあるが、画家自身の作品はこの町になにも残らなかった。しかし、郷土の大画家を賞賛・記念するために、町は画家の没後500年の今年、ノルドブラバント美術館が中心となって、町を挙げての大イベントを立ち上げた。画家の出生地に一点も作品がないのにという批判はあたらない。確かにこの画家の作品は生地に残らなかったが、多くの伝承や教会などが残っている。日本の例を見れば明らかだが、日本人の好きなフェルメールにしても、日本の美術館は一枚も所有していないのだ。それでも、これまでに何度フェルメール展が開催されたろう。

デン・ボスの場合も、ラ・トゥールのヴィック・シュル・セイユの場合も、小さいながらも画家を記念する美術館も出来て、郷土の天才を称える人たちの努力によって、こうした貴重な遺産は継承されてゆく。これまで謎であった工房の仕組みもかなり明らかになった。彼らの手助けもあってボスの膨大で細微にわたった作品も完成することができたことが次第に明らかになってきた。

 最後に、暑さを忘れる作品をご紹介しておこう。『次の世のヴィジョン』 the Visions of the Hereafter と題する作品である


From left to right:
Hieronymus Boash   
The Garden of Eden, The Assent of the Blessed,  c.1505-15 、The Fall of the Dammed and The River to Hell      oil on oak panel, both 88.8 x 39.6cm(left two panels): 88.5 x 39.8cm and 88.8 x 39.9cm(right two panels
Venice, Museo di Palazzo Grimani, 184 

ヒエロニムス・ボス『次の世のヴィジョン』 
(パネル:左から右へ)
『エデンの園』、『祝福されて天国へ』、『堕落者の落下』、『地獄の川』

 作品は四枚のパネル(板材)に描かれ、大別して「天国への道」と「地獄への道」に2分される。これらの作品は元来は画家の晩年の作とみられる『最後の日』と『最後の審判』に付帯していたものが、後年切り離されて継承されたのではないかとみられている。簡単に説明を付け加えるならば、天国と地獄の世界自体の光景はそれぞれ描かれてはいない(ただし、地獄の一部とみられる言葉を失う光景は描かれている)。描かれているのは、エデンの園から祝福されて天国へ導かれる少数の人たちと、底知れる地獄の暗闇へと落ちる人々(右から2枚目)の明暗分かれる姿である。左上の天国へ通じるであろう道は、白色系の不思議な明るさで隧道のような光景が描かれ、天使が導いている。しかし、その先は描かれていない。天国の本当の光景は知り得ない(下掲図、原画の部分)。 

 ヒエロニムス・ボス
『祝福されて天国へ上る人たち』   


他方、地獄への転落は、まさに底知れぬ暗黒が待ち受ける光景だ。右側の岩山のような上には怖ろしげな火が、底には地獄の業火が燃えているのだろう。不気味な明るさが伝わってくる。左側の枯れ木には鳥とも動物ともつかぬものが枝に止まり、右側の岩山にも猛禽のような鳥が描かれている。そして、地獄ではその救われることのない怖ろしい光景の一端が描かれている(四枚パネル右1枚目下段)。

  これらの作品を見ていると、
この時代の人々が、いつとはなく心の内に思い描いていた来たるべき世の有様が思い浮かんでくる。多くの人々は「煉獄」という苦難に満ちた長い道を歩んで、このいずれかの分かれ道にたどり着くと考えられたようだ。

 現代社会は、不安に充ち、先が見えがたい。 画家ヒエロニムス・ボスの死後、17世紀は「危機の時代」として知られる苦難に満ちた時代になった。そして、画家没後500年を経過した今、現代人にとって、来たるべき時代はどう見えているだろうか。



ヒエロニムス・ボス
『地獄への川』 


 

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カラヴァッジョ展偶感(2); 『女占い師』再考

2016年04月11日 | 絵のある部屋

 

カラヴァッジョ 『女占い師』 
クリックで拡大

Michelangelo Merisi da Caravaggio
The Fortune Teller
1597. oil on canvas, 115x150cm
Rome: Musei Capitolini

 NHKが4月8日、ゴールデンアワーともいえる時間に、カラヴァッジョの生涯と作品を取り上げていた。「日曜美術館」よりも力がはいっていた感じさえした。案内役にイタリア、そして美術史に詳しいヤマザキマリさんを起用したのがよかった。他方、国立西洋美術館で開催中の「カラバッジョ展」を側面から支援するプログラムのような印象も受けた。実際、そうなのだろう。これまで国内外で開催された「カラバッジョ展」のいくつかあるいは個別に作品を見る機会があったが、どうも日本での知名度や関心はいまひとつだ。観客やメディアの反応がかなり違っていた。しかし、今回は「日伊国交樹立150周年記念」という形容詞がついている。関係者の心の内が伝わってくる。NHK番組で少しでもこの名実共に希有な美術界の風雲児ともいうべき画家についての理解、そして美術館への観客が増えればと思う。

前回は2001年、東京都の庭園美術館での開催だったが、今回は会場も格上げ?されて国立西洋美術館である。この間、世界的にもカラヴァッジョの評価は大きく上昇した。しかし、桜の開花真っ盛りで雑踏の上野公園界隈だが「カラヴァッジョ展」は、他の展覧会とあまり変わらない程度の入場者であった。会期が長いことを考えても、拍子抜けした。

  色々な理由が考えられる。第一はカラバッジョという画家の知名度がこの国では決して高くないことにある。以前から感じていたが、日本の美術史教育に問題がありそうだ。西欧美術についてみると、印象派以降に力を入れすぎて、それ以前の時代の美術とのバランスがきわめて悪いと思っていた。印象派以前の画家の作品は、往々にして基礎知識が必要となる。宗教画にしても、キリスト教の歴史を知らないと画題だけでは真髄は分からない。

  筆者は元来、美術とはまったく縁の無い分野を専攻してきたので、系統的な美術史教育を受けたことはほとんどなかった。人生の過程で、たまたま友人となったアメリカ、イギリス、オーストリア、フランス、そして日本などの美術史家、画商やコレクターとの雑談と美術館めぐりなどを通して、自然と身についたにすぎない。しかし、幸いカラヴァッジョについては、ラ・トゥールなどの鑑賞を通して、かなり長い年月のおつきあいだ。

 今回の「カラヴァッジョ展」の全体的印象は、画家の展示作品数が少なかったこと、個人的にはこれまでなんども見ている作品がやや多すぎて満足感がいまひとつであった。ラ・トゥールやフェルメールと比較すれば、帰属(アトリビュート)作品を含めれば、貸し出し(借り出し)余裕度はずっと大きいはずなのだが。

 しかし、さすがにカラヴァッジョと思わせる作品もあって、考えさせられることは色々とあった。そのひとつは、展示の最初にあったったカラヴァッジョの「占い師」である。すでに何度も見ている作品だ。この主題はカラヴァッジョやラ・トゥール「いかさま師」として取り上げられているカードゲームと同じ世俗画のジャンルに含まれる。最近、スポーツ選手のギャンブルとの関わり合いがジャーナリズムに頻繁に登場しているが、カードゲームは絵画の上でも、しばしばある種の”いかがわしさ”と切り離せない。

 さて、カラヴァッジョの「占い師」は、2点継承されているが、今回はカピトリーノ宮殿所蔵の作品が展示されていた(このブログでもかなりの回数、記してきた)。ルーヴル所蔵の作品の方がやや後年に制作されたと推定され、より洗練されている感がある。ルーヴルの作品の方が画面が明るく、ロマ(ジプシー)の女性、だまされる若い男(貴族の子弟?)もそれらしく描かれていて、細部の装飾的部分などもより洗練されている。全体に、ルーヴル版の方がファンは多いようだが、読者はどちらだろうか。いずれにせよ、今回の『カラヴァッジョ展』でも、最初に展示されているので、注目度は高いようだ。

 この作品(カピトリーノ宮殿蔵)は、カラヴァッジョの天賦の才にいち早く目をつけ、パトロンとなったデル・モンテ枢機卿の一室に「いかさま師」と共に架けられていたといわれる。16世紀当時のローマでは、画家は習作のモデルには古代の彫刻などを対象にすることが慣行のようになっていたが、カラヴァッジョは身辺にいる人物をそのままモデルにして描いたといわれる。この「占い師」のモデルも街路を歩いていたジプシーを自分の作業場に連れてきて描いたといわれている。ラ・トゥールの場合も同様だ。

  ジプシーの女性が占い師として手相を見るふりをして、その間に指輪などの装身具を盗み取る構図は、15ー16世紀の北方絵画に見られるが、注目すべきはジプシーの女占い師の特徴ある衣装だ。生地の厚い外衣(ローブ)を、着ていて、片一方の腕の脇の下から反対側の肩の上で結んでいるという特徴のある衣装だ。当時のジプシーはイタリアではその名の由来が示すように、エジプトの出身と考えられていた。ジプシーは5ー6世紀頃からヨーロッパのほぼ全域を、動物の曲芸、占い、手工芸、音楽、(時には盗み?)などを生活の手段としてカラヴァンを組み、遍歴していた。カラヴァッジョはリアリズムに徹した市井の画家であったことは、こうした点からも如実にうかがわれる。

  さらに興味ふかいことは、一見世俗の光景を描いたかに見えるこの一枚に、画家はひとつの教訓を含めていることだ。一言でいえば、なんだろう。「美しい花には棘がある」?



 


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「カラヴァッジョ展」偶感

2016年03月11日 | 絵のある部屋

 

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジに帰属
『子羊の世話をする洗礼者聖ヨハネ』油彩/カンヴァス
78x122cm 
個人蔵 

 

 「カラヴァッジョ展」が国立西洋美術館で開催されている(6月12日まで)。16世紀から17世紀にかけて、ヨーロッパ画壇に大きな影響力を持ったミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(Caravaggio, Michelangelo Merisi da: 1571-1610、通称カラヴァッジョ)だが、その名と作品が世界中に広く知られるようになったのは、それほど昔のことではない。芸術家や作品評価に浮沈はつきものだ。画家の活躍していた時代、そして17世紀に入っても、「この町(ローマ)第一の画家」" egregius in urbe pictor" と言われ、高く評価されていたが、18世紀に入ると、ほとんど忘れられかけていた。

 17世紀フランスを代表する画家ニコラ・プッサン(Poussin, Nicolas, 1594-1665:この画家はフランス生まれだが、ほとんどローマで活動していた)は、カラヴァッジョ没後、半世紀近く後に「(カラヴァッジョは)絵画を破壊するために生まれてきた」と評していたらしい。こうした評価には、カラヴァッジョが創りだしたすさまじいばかりのリアリズムと斬新さ、そして画家の犯罪に彩られた破天荒な人生などが複雑に影響していると思われる。プッサン自身は、カラヴァッジョの画風に大きな影響を受けなかったようだ。しかし、カラヴァッジョが当時の画壇にもたらした変化は文字通り革新的ともいえるもので、イタリアのみならず、フランス、オランダなどにカラヴァジェスティと呼ばれる一連の追随者による新たな画壇の流れを築いた。

 印象派以降の画家にファンが多い日本では、今でもカラヴァッジョの名前と作品を知らない人も多い。カラヴァッジョ、誰?という反応を得ることもいまだ多い。それでも世界的にカラヴァッジョへの関心は20世紀から21世紀にかけて再び高まった。2000年は画家の没後400年であったこともあり、世界中できわめて多数の企画展、出版物が生まれた。その数はおびただしく、よほどの専門家でもないかぎり、フォローするのが大変である。出版物に限っても、ラファエル、ティティアン、レオナルド・ダ・ヴィンチなどよりも多く、カラヴァッジョを上回るのは、同じ名を共にするミケランジェロ (Michelangelo Buonarroti:1475-1564)くらいといわれるほどだ。

 カラヴァッジョの影響を受けていると言われる17世紀の画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールに魅せられた私は、ほとんど半世紀近く、機会があるごとに、ラ・トゥールの作品を追いかけてきた。その過程でカラヴァッジョにも、かなりの関心を抱いてきた。両者の比較を通して、いつの間にか双方の画家に共通するものと異なるものを自然に知ることができたように感じている。自分の専門は貧困や失業を対象とする"陰鬱な"経済学だが、偶然に出会ったラ・トゥールという画家の作品を知ることを通して、しばしば疲れた心身を癒し、人生の大きな支えのひとつとしてきた。

 日本でカラヴァッジョの企画展が開催されたのは、それほど遠いことではない。2001年9ー12月に東京都の庭園美術館で展示が行われた時は、カラヴァッジョという画家や作品を知る人も未だ少なく、ゆっくりと鑑賞できた。当時は画家の新作8点と帰属する作品1点が展示された。(この画家の作品数は60点あまりである)。しかし、比較的初期の作品や小品が多く、この画家らしい動的なリアリズムと迫真性に溢れた作品が少なく、充足感はいまひとつだった。画家の39歳という長いとはいえない人生で、この画家が創りだしたスタイルも、時間の経過とともにかなり変わっている。その広がりをカヴァーするには、11点という出展数は少なすぎた。しかも個人的体験からすれば、前回と同じ作品も含まれていて、残念な思いもした。しかし、カラヴァッジョの作品はさまざまな事情で国際的に出展、貸与などで移動できるものはそれほど多くないことは理解できる。

  主催者側によると、今回の目玉は最近真作と認められ、この画家の企画展においては世界初公開という「法悦のマグダラのマリア」(油彩・カンヴァス、1606年、個人蔵)が展示されていることなのだろう。この主題の作品、2005年にロンドンのThe National Gallery で開催された 企画展『カラヴァッジョ:晩年』 Caravaggio: The Final Years の時点では、ブログ最下段に示したように、色彩とデザインが少し異なる2点の作品が「古いコピー」old  copies として展示されていた。今回、真作と認定され出品された作品は、画家が凄絶な人生最後の旅の遺品3点の中に含まれていたと伝えられるが、真偽のほどは不明である。(この作品については、今回の企画展カタログなどを参照されたい)。

  今回の企画展では、カラヴァッジョの影響を受けた画家たち(カラヴァジェスティ)の作品も併せて展示され、なんとか企画展としての形が整ったと考えられる。カラヴァッジョの作品は、宗教画にととまらず、静物画などもあり、一点一点が、それぞれに見応えがある。しかし、中心となる宗教画の多くは、あまりにリアルで時に目を背けたくなるような凄絶な描写もあり、見た後でかなり疲れる。今回はそうした作品はほとんど含まれていないが、「砂漠の洗礼者聖ヨハネ」にしても、色彩鮮やかで官能的ですらある。この点、同じ画題でも、ラ・トゥールの聖ヨハネは対極的とも見えるほど簡素な、しかし複雑な色合いの中に深く落ち着いている。

  ラ・トゥールを含むカラヴァジェスティの作品も展示されていた。筆者にとっては、このカラヴァジェスティの作品の方に興味深いものがあった。カラヴァッジョそしてその追随者の作品展示双方が、出展数が少なく、選択の点でややバランスに欠けていたのは残念な気がした。ちなみに、ラ・トゥールの作品は2点、「聖トマス」(国立西洋美術館所蔵)、「煙草に火をつける若者」(東京富士美術館蔵)という日本が保有する数少ない貴重な作品が展示されている。筆者にとっては何度も出会っている旧知の作品だが、ラ・トゥールの作品の中では、地味な画題であり、この二つの美術館が所蔵する経緯なども、一般には知る人が少ない。。後者については、工房作などの評価もあるが、17世紀中頃のロレーヌの風俗などを知る上でも興味深い。日本にも世界レベルの素晴らしい作品が、あまり知られることなく所蔵されていることを知らせる機会でもある。

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ
『法悦のマグダラのマリア』 個人蔵

 

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョに基づく模作

構図は同じだが、細部は微妙に異なっていて、その差異をめぐる背景など興味深い。


上掲図(上段)
Anonymous, first quarter of the 17th century
25a. Saint Mary Magdalene in Ecstacy
oil on canvas, 109 x 93cm
Bordeaux, Musee des Beauz-Arts, inv. 1986-1-2

上掲図(下段)
Wybrandt de Geest
(15992-c.1661)
oil on canvas, 110 x 87cm
inscribed on a cartouche painted in trompe l'oeil
imitando Michaelem /Angelum Carrava.../
MMediolon./Wymbrandus de Geest/ Friesus/a 1620
Barcelona, Private collection 

Reference:
Caravaggio: The Final Years
London, The Nationa Gallery
23 February-22 May 2005 

今回、出展された真作とされる作品の所在はカタログには
下記のごとく掲載されている(2016/04/09 追記)



Michelangelo Merisi da Caravaggio
(Milan, 1571-Porto Ercole, 1610) 
Mary Magdalene in Fantasy
1606
Oil on canfas
107.5 x 98.0cm
Private Collection 

 

コメント (2)
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