時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

再会:アフガニスタンの輝き

2016年01月24日 | 絵のある部屋

 

 


 「長い旅路でしたね! お疲れさまでした」と言いたい美術展に出会うことになった。
『黄金のアフガニスタン」と題する特別展(九州国立博物館開館10周年記念特別展、2月14日まで)である

実は、ほとんど10年近く遡る2006年6月から07年4月まで、パリのギメ東洋美術館で開催された同一テーマの特別展について、このブログに記したことがあった。その当時、学芸員の人から聞いた話では、2-3年のうちに日本へも巡回しますよとの答だった。ギメの特別展での印象があまりに素晴らしかったので、ぜひもう一度見たいと思っていた。しかし、いつになっても日本へ巡回してくる気配がなかった。その後、分かったのは大変な人気で、多くの国々を巡回し、このたびやっと日本で特別展開催の運びとなったようだ。

9.11の同時多発テロの後、アフガニスタンが戦火に巻き込まれて以来、カブール(Kabul 現地の発音はカーブルに近い)の国立美術館に所蔵されていた貴重な所蔵品の9割近くは、焼失、散逸、窃盗などで失われたといわれていた。その中で同館館員の献身的な努力で、宮殿・中央銀行の地下室深くに密かに移転されていた秘宝があった。それらは25年の間、人の目に触れずにいたが、上述のパリの企画展で初めて公開された。2001年にイスラーム主義タリバンが偶像破壊の名目で2000点を越すといわれた文化財を破壊したことを考えると、こうした展示品が生き残り、目の前にすることができるのは奇跡としかいいようがない。いいかえると、戦争は多くの人命を奪うばかりか、人類が営々と築きあげてきた文明の成果(文化財)を抹消してしまう許しがたい行為なのだ。

博物館員たちの懸命な努力で地下室に隠匿されていたアフガンの名品は、再び人の目に触れられるまでになった。文字通り、東西文明の交差点にあった、この国に残っていた秘蔵品の精髄とも言うべき品々だ。数はないが、見る者の目を奪う素晴らしさだ。ギメ東洋美術館で公開された時の人々の驚嘆を思い起こす。決して多くはないが、息をのむような華麗で優雅な出土品の数々に、声を失い、魅了された。出展された品々は、西暦前2000年から西暦5世紀くらいまでの選り抜かれた名品である。

今回、九州国立博物館での展示品は、カタログで見るかぎり、ギメ展の出品と一部重なるが、同じではないようだ。特記すべきは、アフガニスタンから海外に流出し、日本が保管し、展覧会後にアフガニスタンに返還される作品が出品されることだ。また、特別出品として平山郁夫画伯の紙本彩色も2点展示される。

かつて、東西文明が交差し繁栄をきわめた土地アフガニスタン、その栄華の一端を偲ぶことができ、文字通り目を奪われる展示である。




 東京国立博物館(4月12日ー6月19日)へ巡回

References

Afganistan: Hidden Treasures from the National Museum, Kabul, edited by Fredrik Hiebert and Pierre Cambon. Washington: National Gallery of Art, 2008

Afghanistan les trésors retrouvés: Collections du musée national d'Afghanistan
Musée des arts asiatiques Guimet, 6 décembre 2006 - 30 avril 2007



追記(2016年1月20日 「ドラゴン人物文ペンダント」『朝日新聞』 九州展紹介
この記事のペンダントは、本ブログのどこかに掲載されています。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画『ナショナル・ギャラリー』を見て

2015年06月03日 | 絵のある部屋

 

Claude (Claude Lorrain, 1604/5?-1682), A Seaport, 1644
クロード(クロード・ロラン) 海港風景 


 映画『ナショナル・ギャラリー:英国の至宝』National Gallery(制作2014年)を見る。昨年末ころからメディアの話題となっていたので、いずれ見てみたいと思ってはいた。映画の主題は、ロンドン、ナショナル・ギャラリーそのものだ。ナショナルの名が冠せられているだけに、国家的威信もかけた多くの名画が集まっている世界的な美術館だ。

 個人的にも訪れた回数は、1960年代末から今日までかなりの回数になり、人生の中では断片とは言い難い重みを感じる。とりわけ、在外研究などでイギリスにいた頃は、ロンドンに出る機会があれば、しばしば足を運ぶ場所であった。もっともイギリスには若いころからのお気に入りの美術館が他にあって、訪問回数はそちらの方がかなり多い。

 この映画、触れ込みによれば巨匠フレデリック・ワイズマン監督が、実に30年の構想を基に制作されたとのこと。2014年ヴェネティア国際映画祭栄誉金獅子賞を受賞している。巨匠には勲章が必要なのだろう。かなりの水準の作品と期待して見に行った。実際には、期待が大きすぎたのかもしれないが、やや拍子抜けした。1824年創立で、すでに190年の歴史を誇る重厚な建物に多くの名画を収め、連日世界中から多数の訪問者を受け入れる、この輝かしい大美術館の表ばかりでなく舞台裏も隠すことなく映し出してみせるというスタンスが、この映画の売り物とされていた。

 確かに、この美術館に限らず、ひとりの観客として、展示されている作品だけを見て帰る人たち(実際にはほとんどがこの範疇に入るのだが)にとっては、ナショナル・ギャラリーというひとつの巨大な美術館の内実を少なくも映像の上では、かなり包括的に見せてくれるので、興味深い作品であることは間違いない。この一度や二度訪れたのでは、とても全体をイメージすることなどできない巨大な美術館を、なんとなく分かったような気にさせてくれる効果はある。ロイヤル・バレーまで登場させてくれる。今後のキャリアとして大きな美術館の学芸員などを志望する若い世代にとっては、新入館員教育プログラムのような役割をしてくれるかもしれない。

 他方、すでに厳しい批評もあるようだ。「腐ったトマト」というのは最も酷な批評だろう。3時間近い映画であるにもかかわらず、あまり強い印象を与えない。カメラがこの巨大な美術館の表面を一点にとどまることなく、足早になめているような感じがする。多少美術史や美術館経営などを見聞きしている管理人などにとっては、3時間で見られる良く編集された美術館ガイドのような感じもした。う少し焦点を絞り込んだら、きっとはるかに面白い作品に仕上がったのではないかという贅沢な思いもある。たとえば、ある画家の作品の修復作業の過程がどれだけ長い時間をかけて行われているのか、表には出ることのない地味な作業がいかに深い熟練を要するかをみせてほしい。実際、上映後の周囲の人々の会話が耳に入った。テンポが早すぎてよく分からなかった、期待ほどではなかったという声が聞こえてきた。

 とはいっても、次々と移り変わる画面を見ていると、色々考えさせられることも多い。突然、長い回廊のはるか向こうに、フィリップ・ド・シャンパーニュの『リシュリュー枢機卿』の立像が見えて、この作品はここに掲げられていたのか(同一主題の作品は複数ある)ということなどを改めて思い知らされる。何度も見たような気がする作品だが、脳細胞に残っているのは、どこの作品であったかと画面を見ながら考えるうちに、次々と映像は移り変わってしまう。同様に、ヤン・ファン・エイクの『アルノルフィーニ夫妻像』(1434)、カラヴァッジョ『トカゲに噛まれた少年』(1594)、プッサンの『パンの勝利』(1635--36)、クロード・ロランの『海港』 (1644)など、画面は観客に考える余裕を与えず、移り変わる。監督はいったいいかなる基準で作品を整理しているのだろう。美術史の記憶テストのような感じもする。

 

 この映画で興味深いのは、もしかすると、映し出される名作よりも、人間の多様さかもしれない。美術館を訪れる人たちの表情や行動だ。たとえば、欧米の美術館では子供のころから先生に引率され、作品の前の床に座り込んで興味深くみている子供や絵にはまったく興味なくせわしなくあたりを動きまわっている子の姿をよく見てきた。美術館にはありとあらゆる老若男女が訪れる。そうした人たちがいかなる作品あるいは作品のどこに興味を感じてみているのか、この映画は流れが早すぎて、そうした関心にはまったく答えてくれない。

 この映画を見るよりは、実際に美術館で作品に接した方がはるかに有益という厳しい批評も少なくない。それでも、この世界的美術館に行ったことのある人、ない人を含め、入場券代の価値は感じるのではないか。これも厳しい批評かなあ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖イレーヌに介抱される聖セバスティアヌス:イタリア、オランダ、ロレーヌの空気を感じ取る

2015年05月25日 | 絵のある部屋



グエルチーノ『聖イレーヌに介抱される聖セバスティアヌス』
油彩・カンヴァス、179 x 255cm、1619、ボローニャ国立絵画館蔵


  イタリアン・バロックの画家の一人『グエルチーノ展 よみがえるバロックの画家』(国立西洋美術館、5月30日まで)に『聖イレネに介抱される聖セバスティアヌス』が展示されている(展示番号17)。日本ではあまり知名度が高くはないがイタリアン・バロックの名手のひとりである。この作品、以前にボローニアで国際会議があった折に見た記憶が甦ってきた。

  グエルチーノは「やぶにらみ」という意味で、こどもの時の事故により「斜視」となった彼の身体的特徴からつけられたあだ名であり、本名はジョヴァンニ・フランチェスコ・バルビエーリ( Giovanni Francesco Barbieri, 1591ー1666)である。大変興味深いことは、この画家はイタリア、エミリア(ボローニア近くのチェント)で生まれ、その後の人生をローマ、ボローニヤで過ごした。

 その生い立ちで注目されるひとつの点は、徒弟修業をする機会がなく、ほとんど自らの努力で油彩画の技法を習得したことにある。とりたてて親方の下で修業したわけではないが、北方イタリアの画家たち、とりわけボローニャの画家ルドヴィコ・カラッチとヴェネツィアの画家たちから多くを吸収し、大胆な構図、力強いブラッシュワーク、強い色彩などの特徴をもった作品を制作した。作品を制作する時間が大変早かったことでも知られている。発想したら、一気に描き上げるタイプの画家だったようだ。この特徴は、今回の展示からも感じられる。作品数も多く、パトロンもかなりいたが、そのひとり枢機卿アレッサンドロ・ルドヴィッシが教皇XV世となったため、ローマへ招聘された。


 当時のヨーロッパにおける文化の中心にいるかぎり、外国へ出かける必要もなかったのだろう。興味深いことは、このブログの柱である17世紀ロレーヌの画家ジョルジュ・ド・ラトゥール(1593-1652)、そして、ラトゥールが影響を受けた画家のひとりと推定される北方オランダの画家ヘンドリック・テルブルッヘン(1588?-1629)とほぼ同時代人であることだ。ラトゥールはイタリアでの修業を希望しながらも、恐らくその生涯においてイタリアで本格的に画業を追求する機会はなかったと思われる。他方、テルブルッヘンはオランダ・ユトレヒトの生まれだが、ローマで修業する機会を得て、その後、故郷ユトレヒトへ戻り、イタリアでの修業成果を作品として結実させた。3人の中では唯1人イタリアとオランダ(ユトレヒト)という二つの風土を経験している。ラ・トゥールのイタリア修業説は今でもかなり根強いのだが、管理人は否定的だ。もし、ラトゥールがイタリア修業を果たしていたら、その成果にいかなる影響が生まれただろうか。

そこで、ひとつの問題が提示できる。画家が修業した各地の風土が、この同一のテーマに対して、いかなある影響を与えているだろうか。この3人の画家はいずれも同じ主題で作品を制作している。ラトゥールとテルブルッヘンの作品については、すでにこのブログでもとりあげた。

 グエルチーノの作品について見てみよう。横長の作品でみると、説明を受けるまでもなく、主題が聖イレーヌに介抱される聖セバスティアヌスであることは直ちに分かる。この主題は、非常に人気があり、他の画家もそれぞれに描いている。

 グエルチーノの作品では、傷を負った聖セバスティアヌスの身体から矢を抜き、治療に当たっているのは男性の医師のように見える。聖イレヌは画面左側からその様子を覗き込んでいる。手にはおそらく水が入っていると思われるボウルと布ぎれのようなものを持っている。右側には聖セバスティアヌスの友人と思われる青年が横たわった友を支えながら、心配げに見つめている。かなり明暗のはっきりしたイタリアの風土を思わせる色彩感覚だ。背後には石柱や青い空、雲なども描かれている。

 改めて同じ主題を描いた3点の作品を見ると、イタリア、オランダ、ロレーヌの風の違いが画面から明らかに伝わってくるようだ。さて、皆さんの印象は?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明治ニッポンの美を見に行く:「ダブルインパクト」 ボストン美術館・東京藝術大学 

2015年05月16日 | 絵のある部屋

 


画面クリック拡大
小林永濯『菅原道真天拝山祈祷の図』
1860-90年頃、綿布墨画着彩 一幅
181.1 x 98.2cm
ボストン美術館



 閉展間近かとなった『ダブル・インパクト:明治ニッポンの美』展に出かける。ボストン美術館・東京藝術大学の所蔵する明治ニッポンの美術・工芸の名品の同時展示である。このところ、内外で見てみたい美術展が多く、かなり忙しい。東京藝術大学美術館のある上野公園・根津権現地域は数多くの由緒ある社寺、名所旧跡が多く、目的地に到着するまでに寄り道をしたい誘惑にかられる。今回はできるかぎり一直線に藝大美術館に向かった。

 藝大美術館は深い緑に覆われていた。前回訪れた時は明るい新緑だったが、時間の過ぎる速さに驚かされる。同じ所がまるで違ってみえる。キャンパスは美術学部と音楽学部が道を隔てて対している。美術学部の門付近には昔懐かしい教員の出講名札(小さな木板に墨で名前が書かれている)が残されていたりで、気持ちのなごむ場所だ。学生食堂、カフェテリア・レストランをのぞいたりして、展示室に入る。

 展示品は適度な数だが、その内容、とりわけ質の高さに驚かされる。特に、明治期に日本からアメリカへ流出した美術工芸品は、初めて見てどうしてこうした作品が流出してしまったのだろうといまさらながら考えさせられる。アメリカのメトロポリタン美術館、ナショナル・ギャラリーなどの基礎ともなった作品にも、同様なことがあった。フランス画家の秀作が流出してしまい、責任を問われたフランス政府が答弁に困惑したこともあった。今改めて、ボストン側から出展された作品を見ると、それが日本にないという残念な思いとともに、作品の保存状態の良さに安心する。

 開国から明治にかけての時代、西欧などの先進国に追いつこうと、日本には清新なエネルギーが溢れていたようだった。1867(慶応3)年、開成所画学局のメンバーのほぼ全員が、パリで開催された万国博覧会に油彩画を出品している。フランス人を初めとする西洋の目の肥えた鑑賞者の水準には到底及ばない水準であったが、その物怖じしないチャレンジの意気込みは今では到底考えられないものだ。



高橋由一
花魁(美人)
1872(明治5年)
重要文化財
東京藝術大学

 

 パリ万国博から5年、1872(明治5)年、高橋由一は、当時次第に廃れ行く花魁という存在を記録に留めたいとの依頼で、稲本楼の花魁「小稲」を描いた。上掲の作品だ。高橋由一は、1861(文久元)年,来日したイギリス生まれの「イラストレイティッド・ロンドン・ニュース」の特派員・報道画家として来日したチャールズ・ワーグマンから油彩画・水彩画の技術を学んだ。

 洋画を専門としたわけではなかったワーグマンだが、西洋の画法を学びたいと訪れた多くに日本人に、惜しみなく持てるものを伝授した。彼に画法を学んだ画家たちのその後の活躍を考えると、その功績はきわめて大きい。

 さて、高橋由一のその後の日本の風土でこなれた作品と比較して、この作品は、油彩の技法で描かれてはいるが、ひと目見て日本画でもなく油彩画でもない生硬さを感じる一方で、画家が取得した技法を最大限駆使してみようとの意志が伝わってくる。やや異様な感じさえ与えるこの作品は、日本が過ごした過去へのオマージュのようだ。

 その後、画家高橋由一がいかに西洋の油彩技術を日本の風土を描くに際して駆使したかは、今回出品はされていなかったが、後年の名作『鮭』(東京藝術大学蔵、重要文化財)などに明瞭に表れている。ちなみに高橋由一の手になる『鮭』は、この他に2点余りあるようだ。


  

黒田清輝
『婦人像』(厨房)
東京藝術大学 

 明治ニッポンのエネルギーはとてつもなく大きかった。「和魂洋才」のスローガンの下に、日本で画法を学ぶことに充たさされなかった多くの日本人画家が、ヨーロッパへ渡った。上掲の作品、最初見た時はフランス人の作品かと思ったほどだった。近代洋画の父とされる黒田清輝の作品である。1890年パリ郊外グレー村に住み着いた黒田清輝は、ビヨー家の離れ家を借り、暮らした。同家の娘マリアをモデルに描いた作品とされる。和やかな色彩をもって、静かな光景が描き出されている。西洋油彩画の技法でモデルもフランス人ではあるが、当時フランス人画家の描いた雰囲気とは異なった、和洋折衷的ともいわれる外光派として、日本の洋画教育に大きな役割を果たした。

 最近では美術家や美術品の国境を越えての移動についても、migration (移動、移転)という表現が使われるようになったいるが、この展覧会は日本が開国(1854年)してから日露戦争(1904年)にかけて、大きなエネルギーを発散させていた時代の美術・工芸界の一端を、ボストン美術館、東京藝術大学という2大拠点が所蔵する作品を移転することをもって、構成したものだった。

 幕末・明治における日本の清新なエネルギーをもらって、満ち足りた気分で、昔の面影をそこここに留める根津、不忍界隈を楽しみながら帰路についた。

 



 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

謎を秘めた美女:この人は誰

2014年01月28日 | 絵のある部屋

 

  • ペトルス・クリストゥス(1410/20ー1475・76)
    『若い女の肖像』
    1470年頃
    ベルリン絵画館
    Petrus Christus
    Portrait of a Lady
    About 1470, Oil on oak, 28 x 21cm
    Provenanve: Solly collection, London, Staatliche Museen
    Preussischer Kulturbesitz, Gemäldegalerie, Berlin, 1821


      絵画には「肖像画」というジャンルがあるように、古来実に多くの人間の顔が描かれてきた。写真が発明されるまでは、肖像画は写真の代わりを果たしてきた部分もある。

      人間ならほとんど当然のことだが、今日でもひと目見てきわめて強く印象に残る顔と、すぐに忘れてしまう顔があることは、写真も絵画もあまり変わりはない。一目惚れというように一度見たら、直ぐに好きになってしまう場合もあるが、好き嫌いを問わず、一度見たら忘れないほど強い印象を残す顔もある。

     ラ・トゥールの『いかさま師』に描かれた女性(いかさまの場を取り仕切る女性、彼女の召使い)あるいは『占い師』に描かれている女性たち(卵形の不思議な目をした人物、ひどく醜く描かれた占い師)などは、恐らく好き嫌いという次元を超えて、網膜に焼き付いてしまうタイプではないか。これらの人物は、画家の想像の産物という見方もあるようだが、モデルを最大限重視した画家の性格からも、当時画家の周辺にこれらの人物のモデルがいたと考える方が自然である。

     印象に残るタイプは、描かれた肖像あるいは見る側の性別でも多分差異が生まれるだろう。しかし、見る側の性別によって、肖像画の好き嫌いに有意な差異が生まれるかを実験した成果を管理人は残念ながら見たことはない。小さな標本でテストしたことはあるのだが、標本数が小さく統計的検証に耐えない。

    ペトルス・クリストゥスの名作
     
    今回、取り上げた作品は、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールから、さらに時代を遡る15世紀中期にブルッヘで活動したペトルス・クリストゥス(Petrus Christus, 1410/1420-1475/1476)という初期フランドル派に分類されるオランダの画家である。画家の後期の作品で、フランドル絵画の傑作の一枚といわれている。

     上掲の作品は現在ベルリンの国立絵画館が所蔵するが、来歴には謎めいた部分があり、1821年に王室コレクションを経てベルリン絵画館に移るまでは、ロンドンのSally Collectionに隠れるように含まれていた。

     何度か訪れたベルリン絵画館で、対面したことがある筆者には長年にわたるおなじみの作品である。多くの場合、ほとんど観客のいない部屋で見たので、名画の多いベルリンでもながらく印象に残る一枚として脳裏に刻まれてきた。小品なので、知らない人は見逃しかねない。ある時など、どういうわけか、数室にわたり展示室に誰も観客がいなかったこともあった。巡回に当たっていた学芸員が、見どころまで丁寧に説明してくれた。この時はルーカス・クラナッハの作品まで、説明してくれた。日本ではほとんど起こりえないことだった。

     1994年にニューヨークのメトロポリタン美術館で、PETRUS CHRISTUS: Renaissance Master of Bruges と題して、特別展が開催された。管理人はながらく専門とは全く関係ない趣味の領域で、17世紀美術の源流にかかわることに興味を抱いてきた。その流れで、この画家には不思議に惹かれるものがあった。その内容はとても短くブログには書き切れないため、今回は省略するが、このクリストゥスの『若い女性の肖像』も、最初に対面した後、今日にいたるまで、ながらく残像が消えずにいる作品だ。有名な作品なので、日本でもご存知の方は多いと思う。

    謎を秘めた美女
     全体の雰囲気が非常に謎めいている。一見して古典的で貴族の子女と思われる面立ちを見せているが、その表情はかなり硬く、無表情というに近い。陶器の人形のような硬質さも感じる。初めて自分の容貌を画家に描かせるという緊張からか、少なからず人間離れしたような印象も受ける。緊張の極みなのかもしれない。当然、あの『モナリザ』のようなゆとりはまったく感じられず、かすかな笑みも浮かべていない。なんとなく不機嫌な表情との評もある。

     彼女はいったい、なにを考えているのだろうか。年齢も10歳代か20歳代か、判然としない。来歴にも謎がある。身につけている衣装、装身具などがフランスに由来するらしいことは指摘されてきた。しかし、彼女がだれであるかについては、イングランドの貴族タルボット卿 第二代シュルーズベリー伯(Lord Talbot, second earl of Shrewsbury, d.1453) の2人の娘のひとりなど諸説があるようだが、いまだに確定されていない。しかし、彼女が当時の高貴な家に関係しているとは、ほぼ間違いない。

     一時期、この作品がイタリアのフィレンツェ・メディチ家の1292年の美術品目録に記されていた ”Pietro Cresti da Brggia”ではないかとの推定もあるが、これも確証はない。ペトルス・クリストゥスがどこで、いかなる修業をしたかは明らかではないが、急速に有名になり、ヤン・ファン・アイクの死後、代表的画家の地位を占めていた。およそ30点近い作品が今日まで、継承されている。

     作品は木材のoak (カシ、ナラの類)の板を貼り合わせたものに描かれている。背景を見ると、木製の壁あるいは衝立のようなもので、画面中央部が二分されていて、特別の空間であることを思わせる。肖像を描くために、こうした場を設定したのだろう。

     こうして一人の若い女性は、自らにまつわる謎を明かすことなく、5世紀近い年月を超えて、われわれの目前に不思議な容貌のままに生きている。

 

所蔵美術館のブックマークから 

 

Reference
PETRUS CHRISTUS: Renaissance Master of Bruges, The Metropolitan Museum of Art,New York

 

 

追悼 ピート・シーガー氏逝去 2014年1月27日(94歳)
  1月18日の記事にサイモン&ガーファンクル、そしてジョン・バエズ、ボブ・ディランなどのことを記したばかりだった。ピート・シーガー氏が亡くなるとは、「花はどこへ行った」、「We shall over come」などがいたるところで聞こえていた時代に20代を過ごした筆者には、ことのほか思い出深い。謹んでご冥福を祈りたい。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

回想のエル・グレコ

2013年02月09日 | 絵のある部屋

 




エル・グレコ『聖アンナのいる聖家族』油彩、カンヴァス 127x106cm、トレード、タベーラ施療院
El Greco, The Holy Family with Saint Anne
ca. 1590-95
oil on canvas, 127x106cm
Fundacion Casa Ducal de Medinaceli
Hospital de Tavera, Toledo, Spain


 

 小春日和のある日、ふと思い立って、『エル・グレコ』展(東京都立美術館)に出かける。きっかけになったのは、仕事部屋の片隅に置かれたこの小さな絵だった。かつてスペインを旅した折に、なんとなく買い求めたものだ。考えてみると、40年近く私の背中を見ていたことになる。聖母マリアの視線は気になっていた。心中、彼女はなにを考えていたのだろうか。幼子イエスへの思いを、画家は考え抜いて描いたはずだ。この作品がエル・グレコの手になることに、ほとんど疑いの余地はない。

  しかし、同時に出展されていた『白貂の毛皮をまとう貴婦人』(下掲)
の制作者は本当にエル・グレコだろうか。管理人は、前から疑問を持っていたが、最近では、異議が差し挟まれているようだ。改めて、実際の作品を見ても、エル・グレコの他の作品とあまりに違いすぎる。しかし、グレコでないにしても地中海沿岸の画家のようだ。こちらは、今の社会でもどこかにいるかもしれないリアリスティックな美人である。

 厳しい経済停滞に苦しむ昨今のスペインだが、あの抜けるような青空と爽やかな空気は、変わることなくあるに違いない。白貂の毛皮をまとう貴婦人は見つからないにしても。

A Lady in a Fur Wrap
1577-80
Oil on canvas, 62 x 59 cm
Kelvingrove Art Gallery and Museum, Glasgow


  このところ、
人々の背中越しに作品を見るような展覧会が多かったので、混み具合は気になっていた。ところが、拍子抜けしたくらいの人数で、楽に鑑賞することができた。日本でのエル・グレコの知名度が低いからだろうか。

 作品はこれまで人生のどこかで見たようなおなじみのものが多かったが、初めて見た作品も少なくなかった。なにしろ、この画家はギリシャ(クレタ島の都カンディア)からイタリア(ヴェネツィア、ローマ)そしてスペイン(トレード)へと遍歴の人生を送った上に、作品の数がきわめて多い。ご多分にもれず、真贋論争も激しい。エル・グレコの73年にわたる生涯も、この画家らしい、波乱に富んだものであった。とりわけ、38年間にわたったトレードの画業生活は、きわめて興味深い。名声に支えられ、華やかな生活を過ごしたが、晩年は多額の負債も抱えて内情は楽ではなかったようだ。作品の評価・報酬をめぐる係争も多かった。今この時代に、その実態を見直してみることはきわめて興味深い。

 トレードのビリューナ公爵の邸宅内に設けられた一大工房の実態も、大規模な美術作品制作のあり方として、深く探索してみたいテーマだ。労働の研究者のひとりとして、次々と興味をかき立てられた。美術史家が、もう少しがんばって探求してくれないだろうかと無理な注文も思い浮かぶ。

 今回の展示には、以前にとりあげたことのある作品、『蝋燭の火を吹く少年』(ナポリ、カポティモンテ美術館蔵)と同一主題で制作された、もう一点が出品されていた。ほぼ同じ時期の作品である。ナポリの方がわずかに古いらしい。比較してみると、カポティモンテ所蔵の作品より、陰影も深く厳しい。タッチも粗い。画家はさまざまな効果を試したのだろう。個人的にはカポティモンティ版の方が好みではある。



『燃え木で蝋燭を灯す少年』

Boy Blowing a Firebrand, ca.1571-72, oil on canvas, 60x49cm, Colomer Collection

 この作品、1928年以来、ニューヨークのペイソン家のコレクションにあり、2007年のオークションを経て、現所有者の所蔵となった。以前に記したように、これもヨーロッパ大陸から新大陸アメリカへ渡った作品であった。

 エル・グレコのほとんどの作品は、宗教画や肖像画が多く、少し見慣れてくると、すぐに分かるほどの特異な画風である。宗教画でも陰鬱なところがなく、ギリシャ、イタリア、スペインという地中海の風が感じられる。鑑賞には古い教会、修道院などの雰囲気が欲しいところだが、さわやかな印象で美術館を出た。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黄金時代のフランス美術(10)

2013年01月31日 | 絵のある部屋




ピエール・ミニャール『キリストとサマリアの女』
Pierre Mignard (1612 Troyes; Paris 1695), Christ and the Woman of Samaria, Canvas, 122 x 160cm
Signed in capital letters and dated, lower left: P. MIGNARD, OINXIT//PARISIIS. 1681 North Carolina Museum of Art, Raleigh

 

 旧大陸ヨーロッパからアメリカに所有者が移った17世紀フランス絵画の数や種類の正確な実態は、今日でも必ずしも分からないことが少なくない。公的美術館ばかりでなく、公開されていない個人の所蔵になるものも多く、所在も不明なものがかなり多いといわれている。これからも興味深い事実の発見が続くだろう。

 ひとつの時代の終わり
 
フランスの黄金時代を形成したルイXIII世の死(1643年)後、太陽王ルイXIV世が1661年に親政の座に就くまでの期間、これまで見てきた主要なフランス画家たちの多くが世を去り、世代交代が進んだ。こうした主要な画家の没年を記すと、ブランシャール(1638)、ヴーエ(1649)、アントワーヌ・ル・ナン(1648)、ルイ・ル・ナン(1648)、フランソワ・ペリエ(1650)、ラ・トゥール(1652)、ラ・スュール(1653)、ラ・イール(1656)、ステラ(1657)などである。

 これに対して、プッサン、クロード、ドリュエなどの画家は、イタリアで、さらに長い画業生活を続けた。彼らの作品はヨーロッパのみならず、新大陸でも需要があったが、次第に両大陸を包含する国際的な絵画市場の形成の中で取引されるようになっていった。時には国家的に重要文化財クラスの名作が流出し、大きな政治的論争の的となったこともある。

ル・ブランとミニャール
 
1662年に制作されたシャンパーニュのEx-Votoあたりが、一七世紀前半の終わりを象徴づける作品かもしれない(ロザンベール)。王室画家の世界でも、新しい若い画家の台頭があった。とりわけ、このアメリカへ移転したフランス絵画作品展との関連では、シャルル・ル・ブラン Charles Le Brun (1619-1690)およびピエール・ミニャール Pierre Mignard (1612-1695)の二人が注目される。この二人は激しいライヴァル関係にあった。ル・ブランは最初フーケ、次に若いルイ14世がパトロンであった。単に絵画の分野にとどまらず、ヴェルサイユ宮殿のガラスの大歩廊の豪華な内装なども手がけた。さらに、宮殿のタペストリー、ゴブラン織り、家具、金などを惜しみなく使った器物なども製作した。広範な装飾美術家ともいうべき存在だった。

  この王室首席美術家の座を争ったのはピエール・ミニャールだった。とりわけ、ル・ブランの死後、1690-95年の5年間は大変生産的だった。1690年にはルイXIV世付きの首席画家に任ぜられ、アカデミーの理事にもなった。ミニャールはヴーエの下で修業した後、1636-57年はローマに住んだ。そして1657年にルイXIV世に呼び戻された。ル・ブランのように、モデルはカラッチ、ドメニキーノ、プッサンなどの流れを受け継いでいた。しかし、制作された絵画の画風もイタリアよりも、分かりやすく,優雅で、甘美なものとなった。

  ル・ブラン、ミニャールの双方ともに、王室の美術装飾責任者をもって自ら任じていたようだ。そして、ヴェルサイユなどの王宮を次々と作り替えていった。この二人が世を去るまでに、フランスは政治的にも文化的にもヨーロッパの大勢力になっていった。パリ、ヴェルサイユがその中心となったことは言うまでもない。ローマの美術上の優位は、数世紀を経て初めてチャレンジを受けるようになった。

  ミニャールの生涯についての話は、かなり歪曲されて伝えられてきたようだ。フランス美術史上,最大の不公正のひとつとまで言われている。プッサンとヴーエの確執の話のように、闇に包まれ十分解明されていない点が多いようだ。王室画家の世界は、そのイメージとは裏腹に、世俗的名誉や欲望への争いが絶えなかった。記録文書などが残りにくく、多分に憶測などが支配していた。

  この画家は1635年ころからイタリアへ行き、20年近く滞在したようだが、その詳細は明らかでない。しかし、作品は急速に著名になり、1657年にフランスへ帰国した。そして、王室画家としてル・ブランのライヴァルになった。しかし、この画家の作品はあらかた滅失し、今日残る作品が少ない。

  上掲の作品にしても、プッサンの作品などと比較して、わかりやすい。作品は1681年にマドモワゼル・ド・ギーズ Mlle de Guise(1615-1688)が、300ピストール(フランスのルイ金貨)の報酬で注文し、制作された。しかし、彼女は100ピストールしか支払わなかったといわれる。しかし、死後の遺産目録には残された作品の中では最高額の2000ルーブルと評価されていた。もっとも、ロザンベールによれば、元来3000ルーブルくらいのコストがかかったものであったはずだとされる。その後、作品はマドモワゼル・ド・ギ-ズから、近い親戚の者に贈られた(作品が一般の人々に知られなかった理由のようだ)。マドモワゼル・ド・ギーズは、この作品のコピーも所有していたようで、遺産目録では20リーヴルと評価されていた。このコピーは1688年におよそ105リーヴルで売り立てられた。

 上掲の作品『キリストとサマリアの女』は、少なくも1763年まではイングランドにあり、1952年にクリスティの競売で、アメリカ・ノースカロライナ、ラレーの美術館が取得することになった。

  キリストと女性は日没の光の中にあり、女性の黄色のガウン、キリストの赤のローブとマントのブルーの対比が鮮やかで美しい。作品としては大変美しく描かれている。しかし、批評家によれば、確かに美しい作品ではあるが、色合いや衣服の襞などの微妙さが不足しているとも指摘されている。一見派手でひと目を惹くが、深み、陰影がない。

  この作品については、ルイXIV世がご執心だったようだが、ギゼーは王には贈らなかったようだ。そのため、王は1690年、自分のためにもう一枚制作させた。このオリジナルのレプリカ(1691日付)がルーヴルに残る作品らしい。ラレー版とルーヴル版は同じ主題ながら、微妙なニュアンスの差があるらしい。

 いずれにせよ、これらの作品は、イタリアの画家たちがしばしば描いた主題のヴァリアントのようだ。ラレーの作品は現代人の目からすると、面白みが少ないようだ。しかし、17世紀当時の人々には、コピーでも所有したいというある種の魅力があったようだ。作品の理解には、時代の空気、風土などへの一層の接近が必要なことを示す例でもある。

18世紀への道
 
これまで取り上げたジャンルは、神話や宗教画が多かったが、アメリカへ渡ったフランス美術のカテゴリーとしては、風景画、肖像画や静物画などもかなりの数に上っている。それぞれ興味深い問題を内蔵しているのだが、予定を越えて、ブログ記事としては大変長くなってしまったので、ひとまずこの辺で一区切りして、別の機会に待ちたい。

 

 アメリカに渡った17世紀フランス美術の続編として、ルイXV世紀の時代の作品についての特別展も行われた。この展覧会も開催地が大変懐かしい場所であることもあって興味深いが、適当な時に紹介してみたいこともある。

 

 

The Age of Louis XV in Ottawa, Toledo and Owego in 1975-7

Source: France in the Golden age, exhibition catalogue

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黄金時代のフランス美術(9)

2013年01月26日 | 絵のある部屋

パリ・スクールの誕生

 前回とりあげたアントワーヌ・ル・ナンの作品『若い音楽師』、多少なりと、この画家についてご存じの方は、驚かれたかもしれない。実は、ブログ管理人の私も最初この作品に接した時は、半信半疑だった。ヨーロッパに残る作品を見ていたかぎり、ル・ナンの作品と聞くと、直ちに目に浮かんだのは、農民や職人をリアリスティックに描いた作品だったからである。『農民の家族』や『鍛冶屋』のように、時間が止まったように立ち尽くす人たちのイメージが強く頭の中に残っていた。

 『黄金時代のフランス美術』展を見て、改めてこの時代のフランス画家たちを頭に浮かべると、従来の画家へのイメージ、そして時代への理解がかなり大きく変わった。この特別展のカタログの執筆責任者だったロザンベールの説明を読みながら、さまざまなことを思った。実際、これらのアメリカへ渡った作品群を初めて目にしたフランス人のかなり多くの人が、仰天したようだ。自分たちに見る目がなかったのかと。そして、なぜこれほどの作品を流出させてしまったのかとの複雑な思いが生まれたようだ(この問題のいくつかの様相については、いずれ記してみたい)。

 特別展カタログで 「最初のパリ・スクール」 The First School of Paris と題する項目で取り上げられたのは、13点、すべて17世紀のパリで制作されたものであった。制作されたのは1636年から1654年の20年に満たない期間だ。それらの作品は、さまざまな経緯で海を渡り、アメリカへ移転した。制作した画家たちは誰もイタリアへ行ったことはなかった。イタリアへ行くことが画家として身を立てるに欠かせない条件とされていた時代であったにもかかわらず。

 このグループでの最年長者はフィリップ・ド・シャンパーニュ Philippe de Dhampaigne で、1602年生まれだった。最年少はユスタッシュ・ラ・シュール Eustacche La Sueur だった。ラ・イール La Hyreは二人の中間だった。年少の二人はそれぞれ、1655年、1656年に世を去った。そして、最も年長だったシャンパーニュは長生きして1674年まで生きた。

 これらの ”パリっ子”画家たちは、彼らの画題がなんであろうと、ある特徴を共有していた。たとえば、impasto と呼ばれた絵の具の厚塗りをせず、polished finish といわれる画法を採用した。彼らの画風はネオ・クラシズムといえるかもしれない。

 アメリカが買い求めたこれらの作品は、アメリカ人の好みに合ったものであり、同時になんらかの理由で、フランス人あるいはヨーロッパが手放した作品であった。そして、長い時間が経過した後、彼らが最初の「パリ・スクール」ともいわれるエポックを作った人々であることを、フランス人に知らしめることになった。フランスの美術愛好者たちは、複雑な思いでこれらの作品を見たのだった。以下には、管理人の好みで、最初の『パリ・スクール』の画家たちの作品から3点ほど選んでみた。いづれもヨーロッパに残る同じ画家の作品と比較しても、群を抜いて素晴らしい作品である。これらのそれぞれについて、記したいことは山ほどあるが、ここにはとても書いていられない。なにかの折を待つことにしたい。

シャンパーニュ『モーゼと十戒』 拡大はクリックしてください。
Philippe de Champaigne, Moses and the Ten Commandments, 99 x 74.5 cm.
Milwaukee Art Museum Collection, Gift of Mr.and Mrs. Myron Laskin

Eustache La Sueur, The Annunciation, 156 x 125.5cm, The Toledo Museum of Art, Gift of Edward Drummond Libbey

Laurence de La Hyre, Allegory of Music, 94 x 136.5 cm. The Metropolitan Museum of Art, New York, Charles B. Curtis Fund.

続く

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黄金時代のフランス美術(8)

2013年01月23日 | 絵のある部屋

 

アントワーヌ・ル・ナン『若い楽師たち』
Antoine Le Nain, The Young Musicians, 27.5 xx 34.5cm, Los Angeles County Museum of Art,
annonymous gift 


 早朝、BBCのニュースを見ていたら、ごひいきの美術館 Royal Academy of Artsで開催されている『マネ』展の紹介をしていた。あの『シャボン玉を吹く少年』も映し出された。今の日本の国レベルでの政策論議でほとんど聞こえてこないのは、文化政策の視点ではないかと思う。経済力では日本よりはるかに下位にあっても、一貫して自国の文化に誇りを持ち、振興する政策を持った国は尊敬される。かつて訪仏した池田首相が、ドゴール首相から「トランジスタの商人」と揶揄されたこともあったが、今の若い人からは「トランジスタってなに?」と聞かれるかもしれない。

 閑話休題。17世紀フランス絵画の世界は、長い間二人の画家で、代表されてきた感があった。ニコラ・プッサンとクロード・ロランである。しかし、以前に記したように、二人ともほとんどローマで制作活動をしていたので、真の意味でフランスの画家なのかという指摘もされてきた。管理人自身もこの時期のフランス絵画に関心を抱き始めてからずっと疑問に思ってきた。フランス人美術史家のイタリア・コンプレックスかと思ったこともある。近年、ようやく軌道が修正されてきたようだ。

 その過程で少しずつ生まれてきたのは、フランスの風土に根ざした固有のいわば「フランス・スクール」は存在しなかったのかという議論だった。ラ・トゥールは、正確にはロレーヌ公国の画家だった。しかし、フランス王室付きの画家でもあったのだから、フランス・スクールの一角を占めてもよいだろう。次に注目されたのは、ル・ナン兄弟の位置づけである。ル・ナン兄弟もラ・トゥールと同様に「再発見」された画家であり、イタリアなど他国の影響から相対的に独立で、フランスの風土で育った純粋フランス的な画家ともいうべき人たちだった。

 ル・ナン兄弟の場合、ラ・トゥールと同様に「現実の画家たち」のカテゴリーに含まれる。1978-1979には、グラン・パレでジャック・テュイリエの企画で素晴らしい特別展が開催された。ル・ナン兄弟は、アントワーヌ、ルイ、マテューの3兄弟である。

 1982年の『黄金時代のフランス美術』特別展では、アメリカにあるル・ナン兄弟の作品の中で6点が選ばれ、展示された。この時点では真作の帰属が未確定の作品を含めて、11点がアメリカに存在する作品 inventory とされていた。ル・ナン兄弟の作品には、兄弟の個別の名前が記されていないものもあり、作品の帰属確定には大きな問題がつきまとってきた。

 出展されたのは音楽師、農民、子供たちの日常の生活光景を描いた作品だった。兄弟の作品の中には、神話や宗教的主題での素晴らしい作品もあるが、彼らの制作活動の世界は,農民、職人などの日常生活を描くことだった。宗教画や歴史画にやや飽きてきた19-20世紀の人々は、ル・ナン兄弟のリアリズムに新鮮さを感じたのだろう。その存在と作品は急速に見直されるようになる。

 ル・ナン兄弟の作品に描かれた人々は、一瞬時が止まったかのように、画面の中で静止している。多くの作品に使われている緑がかったセピア色も不思議な印象を与える。時にはメランコリックで、微かな悲哀感も漂う作品もある。その底流には、ヴァランタン、ラ・トゥール、そして歴史画などではかすかにプッサンなどの画風に通じるものも感じられる。一時期、長兄ルイはイタリアへ行ったことがあるのではとの議論もあったが、今ではその事実はなかったとされている。管理人はとりわけ、ルイの手になったと思われる作品を好んで見てきた。もうひとつ、兄弟がしばしば描いた仕事の世界については、個別にブログを立ち上げて整理したいと思うほどなのだが、もうその時間はないだろう。

 さて、上に掲げた『若い楽師たち』と題された作品、ル・ナン兄弟の農民や職人たちを描いた作品などを見慣れていると、一瞬これもル・ナン?の作品と思われるかもしれない。大変色彩が鮮やかで美しい作品である。もっとも、修復の際に洗いすぎた?との説もあるのだが。左側の二人の若者が楽器を演奏し、三人目の若者が楽譜を持って歌っている。左側の若者の足下には、犬が顔を出している。机の上に置かれた品々の描き方には、フレミッシュの影響が感じられる。

 一時はル・ナン兄弟の中で、誰の作品か帰属が不明であったが、今では長兄アントワーヌの手になるものとほぼ理解されているようだ(もっとも、J-P キュザンのようにマテューの作とする見方もある)。この作品は木板の上に描かれているが、もう一枚ローマのGalleria Nazionale が所蔵するカンヴァスに描かれたヴァージョンがある。しかし、今日ではこのロサンジェルスにある作品が真作で、カンヴァス版はコピーとされている。

 このロサンジェルス版は、1958年現在の美術館が取得するものになったが、来歴を見ると匿名の寄贈者によるものらしい。しかし、一時はロスチャイルド家の所蔵品でもあったようだ。この作品がロサンジェルスに渡るまでには、多数のコレクター、画商などの手を経由している。人間同様に、絵画作品が安住の地?に落ち着くまでには、しばしば波瀾万丈の旅があるようだ。


 手元にある Illustrated Catalogue of Pictures by the Brothers Le Nain, London, 1910 (copy)によると、1910年の時点では Lent by Lord Aldenham と記載されている。

 

続く

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黄金時代のフランス美術(7)

2013年01月20日 | 絵のある部屋

 

フィリップ・ド・シャンパーニュ 『悔悛するマグダラのマリア』
Philippe Champaigne de (1602 Brussels, Paris 1674), The Penitent Magdalen, Canvas, 115.5 x 87 cm, Museum of Fine  Arts, Houston, Museum Purchase, Arnold Endowment Fund.



 アメリカへ移った17世紀フランス美術作品の内容を見ていると、改めてヨーロッパに残っている作品だけを見ていたのでは、この時代に活躍した画家たちの実像は十分に掌握できないことが分かる。これまで予想していなかった所に、画家の力作が所蔵されていたりするからだ。さまざまな理由で、世界に散在することになった画家たちの作品を見ていると、時に目が洗われるような気がしてくる。次第に欠けていた球体が少しずつ埋められて、丸みを取り戻してくるような思いもする。

 あるエポックを画した画家の影響力がいかなるものであったか、それがいかなる経路を通して、浸透・拡大していったかというメカニズムについては、従来の美術史的手法では十分対応できないことを痛感する。この問題については、経済学の分野で開発されてきた技術進歩の普及(diffusion)に関する理論と研究はかなり有力な分析手段になりうると考えている。あるイノヴェーターによって、生み出された革新の種(シード)が、いかなるプロセスを経て、社会に受け入れられ、拡大・浸透して行くのか。美術経済学という領域も生まれているようだが、まだ揺籃期だ。近年、カラヴァッジズムの国際的拡散のプロセスなどについては、かなり見るべき成果が集積されているように思えるが、未解決の問題が多数残されている。


 ここで、この大テーマについて、議論することはとても不可能だが、断片的な課題ならば扱うことができるかもしれない。今回取り上げるのはそのひとつといえる。

 1590ー1600年の間にフランスに生まれた画家で、ある時期、ローマに滞在した者はすべて深くカラヴァッジョの影響を受けたといわれてきた。しかし、カラヴァッジョの作品に接しながらも、結果としてほとんど影響を受けることなく、独自の道を選択した画家たちも多い。その仕組みを解明することは、美術史家が取り組むべき重要課題のひとつではないかと思う。

 17世紀初めのヨーロッパにおいて、主導的な文化の集積が生まれ、多くの文人、芸術家などを集めた都市は、パリとローマに集中していた。その他にも独自の光彩を放っていた都市はもちろんあるが、この二都市を凌ぐ都市はなかった。そして、美術に限ってみると、パリは長らくローマの後塵を拝していた。ルイ13世、宰相リシュリューなどは、あらゆる手段を尽くして、パリにローマに匹敵する繁栄と文化の花を咲かせようとしていた。

 しかし、少しスコープを拡大してみると、当時から現在のフランスの各地に小さな花は開花していた。ロザンベールが挙げている例は、トゥルーズ、ルーアン、エクサン・プロヴァンス、ナンシーなどの都市の文化である。しかし、さまざまな理由、とりわけ宗教改革のもたらした激しい精神的変革と破壊に耐えかねて、ロレーヌ、プロヴァンスなどから、イタリアへ活動の地を移した画家たちの数はかなり多かったようだ。

 1982年の『黄金時代のフランス』展で、取り上げられているこの時代の中心的画家の中で、ラ・トゥールはその制作活動のほとんどを動乱の地ロレーヌで行った。他方、対照的にクロード・ロランはロレーヌで生まれながら、すべての制作をローマで行っていた。そして、カラヴァッジョの影響力がまだかなり残っていたローマにいながらも、まったく影響を受けずに、独自の風景画の世界に沈潜していた。銅版画家のジャック・カロはナンシーで生まれ、憧れのローマで修業したにもかかわらず、カラヴァッジョの影響という点では、かなり限定的だ。

 フランス王ルイ13世、リシュリュー枢機卿のお気に入りであったフィリップ・ド・シャンパーニュの場合をみてみよう。この画家は今のベルギーの首都ブラッセルで生まれ、画業の修得をした後、終生パリで生涯を送った。あのニコラ・プッサンがイタリアへ旅立った1621年、パリへやってきたのだ。一度もローマへ行くことはなかったが、プッサン同様、カラヴァッジョの影響はいささかも感じられない。シャンパーニュは生涯ひとつのスタイル、強いて言えば「フレミッシュ」の伝統をどこかに保ちながら過ごした画家と言われている。

 シャンパーニュの所にもカラヴァジズムの風は届いていたはずである。しかし、この画家はほとんどその影響を受けずに画業生活を送った。上に掲げた作品にしても、フレミッシュの色は感じられても、カラヴァッジョの影響は見いだせない。あのラ・トゥールのマグダラのマリア・シリーズとも大きく異なる。

 シャンパーニュはマグダラのマリアを2点残したといわれる。そのひとつはアメリカのヒューストンに、もう1点はレンヌの美術館に所蔵されたものだといわれる。来歴については、かなり複雑でさまざまな推理が行われてきた。かなりのミステリーが語られている。

 それらの”雑音”を排除して、この作品をみると、肖像画の名手といわれたこの画家の特徴は明らかに感じられる。悔悛するマグダラのマリアの目には涙が光り、いずこともなく射し込む冷たいが、霊性に充ちた光が画面を覆っている。ラ・トゥールのマグダラ・シリーズと比較すると、画家の出自、社会的背景、修業のあり方などの違いを深く考えさせる。

続く


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黄金時代のフランス美術(6)

2013年01月14日 | 絵のある部屋



Jacque Stella、The Liberality of Titus
178 x 147.5 cm. Fogg Art Museum, Harvard University, Cambridge, Mass.
イメージ拡大は画面をクリックしてください。

 毎度、古いお話で恐縮です。フランス人で1590-1600年頃の生まれで、ローマに憧れ、彼の地に滞在していた画家たちは、カラヴァッジョの影響を深く受けていたようです。しかし、日本ではこの画家が知られるようになったのは、比較的新しく、2001年、東京で「カラヴァッジョ」展が東京都庭園美術館で開催された時は、閉幕近くでも楽に入館できて、カラヴァッジョって誰?といった雰囲気さえありました。隔世の感があります。

 しかし、16世紀末から17世紀初めにイタリアへ行ったフランス人画家でも、カラヴァッジョの画風にほとんど影響されなかった画家たちもいました。17世紀当時、イタリアに滞在していたフランス人画家の中に、あのジャック・ステラ Jacques Stella (1596 Lyons-Paris 1657)もいました。当初はフィレンツエの画家の影響を受けていたようですが、次第にプッサンの画風に惹かれるようになります。プッサンをリシュリューやルイ13世に推薦したひとりでしょう。

 このステラがリシュリュー枢機卿のシャトーのキャビネットに描いた『ティトウスの寛大さ』 The Liberality of Titus なる作品も、アメリカに流出し、現在、ハーヴァード大学のフォッグ美術館が所蔵しています。ティトゥス(40?-81、ローマ皇帝)の時代には、イエレサレムの寺院破壊、ヴェスピアス噴火、ポンペイの壊滅など、破滅的な出来事があった時代でしたが、ティトウスはそうした中でも寛大さを失わなかったといわれ、その情景を描いたものと言われます。

 ステラはリシュリュー枢機卿のごひいきの画家のひとりで、ステラにこの作品の制作を依頼したのは驚くことではありません。リシュリュー卿のシャトーのこの部屋は、ほかにもプッサンの『ネプチューンの勝利』 The Triumph of Neptune, Canvas, 144.5 x 147 cm, Philadelphia Museum of Artも掲げられていたようです。さぞかし、華やかで枢機卿お気に入りの部屋だったのでしょう。

Jacques Stella, 1634
Oil on canvas, 114,5 x 146,6 cm
Philadelphia Museum of Art, Philadelphia

 この作品もリシュリュー枢機卿のために描かれたことは疑いありません。恐らく3枚の『バカナルス』 Bacchanls よりも前に制作されたものと思われます。リシュリュー好みの大変華麗な作品ですが、かなりペダンティックな要素が多く、さまざまな解釈がなされているようです。

 こうしてみると、17世紀イタリア、フランス美術には、かなりの多様性がみられたことが推察できます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黄金時代のフランス美術(5)

2013年01月11日 | 絵のある部屋





Q.この絵は誰がなにを描いたものでしょう。答えは後ほど文末で。

 

 ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの話をしていた時であった。関連してニコラ・プッサンという画家を知っていますかと教養課程段階の学生さんに聞いてみたことがあった。しかし、誰も名前すら知らないことに驚いた。ラ・トゥールについて、日本では知名度がきわめて低いことは、かなり以前から分かっていたが、フランスでさらに大きな評価を受けている国民的画家ともいえるプッサンの知名度がそれに劣らずきわめて低いことに驚かされた。日本の画家でもなく、別にこうした画家を知らないからといって、それ自体日常生活に何の影響もないのだが。一抹の寂しい思いが脳裏をかすめた。
 
 ニコラ・プッサン(1594-1665)は、ラ・トゥール(1593-1652)と同世代の17世紀の画家であり、当時のイタリア、フランスでは、ラ・トゥールをはるかにしのぐ人気を得ていた。ルイ13世、リシュリュー枢機卿が三顧の礼を尽くして、ローマからパリへ招いたほどの大画家である。

 プッサンはフランス生まれでありながら、殆ど不明な修業時代を除けば、画家としての職業生活の大部分はイタリア、ローマで過ごし、フランス国王の招きでルーヴル宮に王室首席画家として滞在した1640-42年の一時を除き、フランスへ戻ることもなかった。プッサンについては、その経歴からフランスの画家として評価すべきかとの疑問も提示されているが、生まれはフランスで、30歳近くまではフランスにいたことなどを考えると、フランスの美術界としてはこの大画家を自国の画家と考えたいようだ。

 フランスの美術品の評価、とりわけその市場価値や所蔵状況は、ヨーロッパの画商を通し、すでに19世紀からさほど大きな時間的落差をおくことなく、新大陸アメリカに伝わっていた。こうした画商は停滞しているヨーロッパ美術市場よりも、次々と富豪が生まれ、活気を呈していた新大陸アメリカの美術品市場の動向に大きな関心を抱いていた。アメリカの富豪や収集家たちは、フランス絵画については、当初印象派などの比較的新しい時期の画家の作品に興味を示すことが多かったが、次第に17世紀の画家たちの作品収集への関心も高まっていた。

 ジョルジュ・ド・ラ・トゥールもニコラ・プッサンも富豪、愛好家たちの対象になっており、ラ・トゥールについてみると、1973年にはアメリカの美術館は少なくとも6点の作品を保有していたと推定されるが、ここで話題としている1982年の『黄金時代のフランス美術』展の時には、その数は11点にまで増えていた。1938年以前にはアメリカにはラ・トゥールの作品は1点もなかったとみられる。

 ラ・トゥールに比較して、作品数がはるかに多かったプッサンの場合、かなり多くの作品がアメリカへ移っていた。正確な数は不明だが、1982年の特別展では少なくも30点を越える真作が展示された。他の画家の作品についても当てはまることだが、プッサンについては、画題自体が古代ギリシャ・ローマ神話、聖書などにかかわる審美的、哲学的な作品が多く、画題、含意、来歴、真贋などについて、多くの論争もあり、きわめて困難な問題が介在していた。(ちなみに、プッサンもラ・トゥールも、画題や制作年についてほとんど、なにも記していない。)

 しかし、美術史家、美術鑑定家などの努力で、上述の『黄金時代のフランス美術』展でもそれぞれの画家についてアメリカの公共美術館、個人の収集家などが所蔵する優れた作品が選び出され、ヨーロッパにある作品と併せて、プッサンの作品様式の変遷、精神的な旅路を理解することができるようになった。グローバル化が進む現代世界では、ひとりの画家の作品世界を理解するにも、きわめて多くの情報、知見が必要になっていることを示している。国際的な美術品市場の形成の過程は、それ自体、きわめて興味深いテーマでもある。





 さて、冒頭の問の答は・・・・・。

Nicolas Poussin, The Holy Family, 98 x 129.5 cm. Fogg Art Museum, Harvard University, Cambridge, Massachusetts. 
ニコラ・プッサン『聖家族』

続く

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黄金時代のフランス美術(4)

2012年12月22日 | 絵のある部屋

 

ニコラ・トゥルニエ 『リュートが弾かれる晩餐』
Nicholas Tournier (1590-1639), Banquet Scene with Lute Player, 120.5 x 165.5 cm, The St. Louis Art Museum

 アメリカに移った17世紀フランス絵画の詳細を明らかにすることは、想像以上に大変なプロジェクトだ。広大なアメリカのどこにいかなる作品が所蔵されているかを探索し、確認することは、プロジェクトを構想、企画し、実施する人ばかりでなく、作品の所有者にも多大な負担を強いることになる。各地に所蔵されている有名、無名の画家の作品を見つけ出し、来歴その他を確認し、整理する。17世紀という時代や画壇についての深い知識も必要になる。美術史家や学芸員の力量が問われる。当然、多くの議論も生まれる。だが、この時代やそこに生きた画家の全容を知るには、欠かせない作業であることは間違いない。

 ちょうど30年前の1982年、アメリカ、フランス両国で開催された特別展は、その主要部分を掌握しようとした最初のプロジェクトだった。しかし、実際にはアメリカに多い個人蔵の作品にまつわる問題、作品来歴の確認ができていない作品など難題は多く、実際にアメリカにどれだけ持ち込まれたかがすべて解明しきれたわけではない。それでも、この領域・主題に関心を抱く人々にとっては、きわめて貴重な資料だ。

 膨大な作業を背景にした上で、アメリカでは多くの作品の中から、選び出された124点の作品が展示されたが、パリ、グラン・パレの展示は、当然アメリカでの展示内容とは異なるものだった。アメリカからフランスへお里帰りして展示された作品もあったが、すべてではなかった。パリでは、スタイル(カラヴァッジズム、パリジャン、アティシズム)、地方(プロヴァンス、ロレーヌ)などの区分で特別なパネルも設置された。

カラヴァッジョの影響
 17世紀、ほぼ100年間に生み出された作品を、整理することは至難なことだが、口火を切ったのは、やはりカラヴァッジョの影響だった。カタログの構成もカラヴァッジョに影響を受けたフランス画家の作品から出発している。

 イタリアで
1609年にアンニバーレ カラッチが、1610年にカラヴァッジョが世を去ると、ローマは以前よりもヨーロッパ絵画世界の中心となった。この時期のフランスは経済的困難と政治的騒動の最中にあったとされた。しかし、その実態の評価は、かなり過大に誇張されていたところもあった。風評なども重なった結果として、フランスでは1590年から1600年生まれの世代の画家や建築家のかなり多数が、修業や遍歴のためにローマを目指した。そして、ほとんど例外なくできるならばローマに住むことを望んだ。

   ローマでは若い美術家たちは、一様にラファエルとミケランジェロを学んだ。しかし、それ以上に彼らが新しさを感じて時代のモデルと考えたのは、カラッチとカラヴァッジョだった。この時期、とりわけ最初にローマへ来た画家たちが衝撃を得たのは、カラヴァッジョだった。ルネッサンス期の師匠たちの画風とはまったく異なり、しばしば残酷に、聖人たちの姿を描き、人間の生活をリアルに描いていたことに驚愕し、新たな魅力を感じた。カラヴァッジョは、長い間遠く離れていた聖書の世界を人間化し、普通の人間の尊厳を描いてみせたのだ。

 カラヴァジョには、イタリア、フランスなど、ほとんどの画家が影響を受けたが、ここで話題としているフランスとの関係では、ヴーエ、ヴァランタン、ヴィニョン、トゥルニエなどが挙げられている。しかし、一部の力量ある優れた画家だけがこのアプローチを把握し、彼らの構想に採用することができた。いずれにせよ、1610-1620年頃にローマに住んだフランスの画家たちで、カラヴァッジョという希代な天才画家の魅力に逆らえるものはいなかった。

カラヴァジェスキに流れる「フランス的」なもの 
 議論があるところだが、カラヴァジェスキの国際的な流れの中に、イタリアのカラヴァジェスキとは異なる「フランス的」なものがあることをローザンベールは指摘している
。それらは、抑制、悲嘆、悲しさ、エレガンスへの愛などである。それは継承され、たとえば、ヴァランタンのメランコリックなイメージは、後にル・ナン兄弟の作品に再現される。

 上掲の作品はフランス生まれの画家トゥルニエによるとされるが、この画家は1619-26年頃、ローマへ行っている。ヴァランタン・ド・ブーローニュに師事したのではないかと推定されている。実際、一時この作品はヴァランタンの作品と考えられていた。マンフレディにも近い画風だが、カラヴァッジョのような激しさやドラマ性はほとんど感じられない。

  フランス・カラヴァジェスキの流れに位置する画家で、最も著名なのはヴァランタンだが、フランスへ戻ることなく、ローマで死去した。他の画家たちは、画業を修業するとフランスへ戻った。ヴーエとヴィニョンはパリで成功した。パリはカラヴァジェスクの流れに大きな影響を受けなかった唯一の所だった。

 上記のトゥルニエの作品を見ていると、そこにカラヴァッジョの激しさはない。むしろ落ち着いたヴァランタンの影響、そしてラ・トゥールの『いかさま師』などの構図にもつながる脈流のようなものが感じられる。時代を支配する画風がいかなる経路を経て、伝達・継承されるかというテーマは、きわめて興味深い。

新年に続く

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黄金時代のフランス美術(3)

2012年12月21日 | 絵のある部屋

 





ラ・イール,ローラン 『舞台の一幕』  
La HYRE, Laurent de (1616 Paris-1656 Paris)Cyrus Announcing to Araspas that Panthea Has Obtained His Pardon
1631-34

Oil on canvas, 142 x 102 cm
Art Institute, Chicago Institute of Art

 
 

 「17世紀フランス美術の研究だったら、アメリカにも行かねば!」というと、友人のフランス文学・美術の研究者は一瞬いぶかしげな表情をした。アマチュアの私がなにを言い出したのかという反応だった。アメリカなんて! フランスに行けばすべて分かると思っている専門家?を一寸からかったまでだが、かなり本気の話でもある。

 このブログを読んでくださっている方は、その意味がおわかりでしょう。グローバル化が進んだ最近では、有名画家の貴重な作品でも、空を飛んで別の国の展覧会に出展されること多くなり、日本にいてもかなりの作品は真作を見ることができるようになった。それでも方針として作品の館外貸し出しをしない美術館、個人収集家などもあり、現地の美術館などを歴訪しないと、作品が見られないという事情は依然として存在する。たとえば、40点余りしか真作が存在しないジョルジュ・ド・ラ・トゥールの場合、3分の1を越える作品はアメリカにある。しかもそのいくつかは、館外貸し出しが行われていない。どうしても見たければ、アメリカに行かねばならない。実際に、管理人がラ・トゥールの作品に最初に出会ったのは、アメリカ、メトロポリタン美術館であった。事情はフェルメールなどについても同様だ。

 この点を認識し、アメリカにあるフランス絵画の実態を確認したいと考えたピエール・ローザンベール氏(前ルーヴル美術館長)の構想は、さすがだった。同氏が1982年『黄金時代のフランス』展を企画するに際して、挙げている理由は次の通りだ。

 第一は、アメリカに移った17世紀フランス美術の傑作あるいはそれほどでない作品でも、フランス国内にないがために、ともすれば当該画家の作品であることが忘れ去られてしまう。アメリカにある、そうした可能性がある作品を見出し、確認する。

 第二に、17世紀フランスが初めてヨーロッパに最初の政治・経済大国として台頭した時代におけるフランスの美術作品を客観的な視点から見つけ出し、多くの人の目の前に提供する。
 
 第三に、アメリカの美術館が保有する17世紀フランス絵画の所在を確認する、いわば棚卸しという美術愛好家にとって夢のような仕事を実施することである。

 こうした考えに立って、実際に作品の探索、確認をするとなると、いくつか難問が発生する。そのひとつは、時間軸という枠組み設定が必要になる。どこから、どこまでの画家と作品を視野に入れるかという問題だ。これについて、1982年の展覧会では、出発点は1620-30年代のローマでスタートしたカラヴァジェスクなフランス人画家の作品とすることが設定された。

 前回ブログに『黄金時代のフランス』のカタログ目次を掲載しておいたが、ピエール・ローザンベール氏は17世紀フランス絵画の時代を、フランスのカラヴァジェスクな画家たちの作品からスタートしている。ラ・トゥール、プッサンの項がそれに続いている。

 最初に、カラヴァッジョの影響を受けた世代で、フランスで活動していた画家たちの作品が紹介されている。カラヴァッジョの影響をどれだけ受けているかは、画家それぞれに異なるが、前回のヴァランタンの場合は、きわめて忠実な追随者に近い。そのほか、トゥルニエ、サラチェーニ、ガイ・フランソワ、ニコラ・レニエ、シモン・ヴーエなど、フランス人にはかなりお馴染みの画家〔日本では少しもお馴染みではないですね)が取り上げられている。

 この時代のひとつの特徴は、演劇、文学などとの関連で,制作した画家が多いことである。17世紀のひとつの例として、フランスでの演劇の興隆は、絵画にも多大な影響を及ぼした。たとえば、上に掲げたラ・イールの作品は当時著名であった劇作家トリスタン・レルミット Francois Tristan L'Hermite(1601-1655) の悲劇『パンセア』Pantheaの一場面を描いたものである。 ラ・イールは文学、演劇を絵画につなぐことに熱心であったようだ。この作品でもオリエンタルな雰囲気で、華やかな色彩の衣装の人物を登場させている。カラヴァッジェスキに特有のキアロスクーロ〔明暗法)のイメージは浮かんでこない。リアリティよりもイマジネーションに頼る一種の詩的逃避ともいえるが、こうした創造的な試みは、カラヴァッジョの影響を超えて、新たな時代へ繫がって行く。フランスの動向は直ちにロレーヌなどにも届いていた。
(続く)

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黄金時代のフランス美術(2)

2012年12月15日 | 絵のある部屋

 

 

ヴァランタン・ド・ブーローニュ『占い師』部分
Valentin, The Fortune Teller, 142.5 x 238.5cm.
The Toledo Museum of Art, Gift of Edward Drummond Library, detail
拡大は画面をクリックしてください。

  本作はカラヴァッジョをしのぐのではと思わせる迫力だ。この作品ではラ・トゥールの同テーマの作品とは反対に、女占い師がカモにされている。占い師〔左側)が占いをしている間にジプシーの子供〔左下〕、後ろの男などが、金目のものをねらっている。写真と見まがうばかりのリアルさです。全体図は下の通り。




 

 年末、軽率にも壮大なブログ・テーマを選んでしまい、後悔しきり。それでも、このテーマはかねてから大きな関心を持っていたことも事実で、輪郭の輪郭ぐらいはメモしておきたい。

 フランス史で「黄金時代」Golden Age といえば、17世紀ブルボン王朝の絶対専制王政の時代といってよいだろう。前回から記しているアメリカに渡ったフランス絵画の実態を明らかにした美術展には、アメリカ、フランス両国にとってさまざまな思いがこもっていた。

当初は薄かった17世紀絵画への関心
 アメリカの収集家たちがフランス美術に関心を抱き始めたのは、概して18世紀末からであった。それまではオランダ、イタリア、イギリスなどの美術品に人気は集中していた。しかし、時代と共に関心の対象は移り変わる。ベンジャミン・フランクリンとトーマス・ジェファーソンはパリを訪れ,当時のフランス絵画の素晴らしさに魅了された。そしてほぼ100年後には、ニューヨーク、ボストン、シカゴなどの収集家たちが、競ってフランス印象派のパトロンになったり、サロン時代の絵画を買い求めた。

 一般に、アメリカの収集家は1700年以降のフランス絵画を好んだ。簡単にいえば、分かりやすかったのだろう。結果として、17世紀フランス絵画の収集は比較的手薄であった。たとえば、著名なフリック・コレクションを例に挙げると、1935年に初めて市民に公開された当時、17世紀絵画は1点もなかった。

 
やっと1948年になって、われらがジョルジュ・ド・ラ・トゥール(笑)の作品(その後コピーと鑑定された)を取得、続いて1960年にクロード・ロランの作品が購入された。言い換えると、ヘンリー・フリックは、ビュッヒャー、フラゴナール、パーテルなどの重要な18世紀絵画の収集に力を注いでいた。

 メトロポリタン美術館にもモルガンなどの富豪たちは、一枚も重要な17世紀
絵画を寄贈(遺贈)することはなかった。17世紀絵画は19世紀後半になってやっと、あのライツマン夫妻の所蔵していた作品が遺贈されることで脚光を浴びるようになった。状況はシカゴの美術館、The Art Institute of Chicago などでも同様だった。

遅れてやってきた17世紀への関心 
 驚いたことに、アメリカ人が17世紀フランス絵画に関心を抱くようになったのは、20世紀後半になってからのことだった。管理人も運良くその流れの初めに乗れたようだ。今回話題としている1982年の『黄金時代のフランス~アメリカのコレクションにある17世紀フランス絵画』展では、当時ルーヴルの絵画部門の責任者だったピエール・ローザンベール氏(現ルーヴル美術館名誉総裁・館長)が主導して、アメリカの50を超える主要美術館、個人の収集家たちの所蔵作品を精力的に見て歩き、124点を展覧会のために選び出した。このうち、1960年時点でアメリカにあった作品は、68点だけだった。もちろん、例外的にわずかな数の作品がこの時点以前にアメリカにあったようだ。

 さて、このモニュメンタルな美術展は、1982年1月、パリ(グラン・パレ)に始まり、続いてアメリカに渡り、ニューヨーク(メトロポリタン美術館)、続いてシカゴ(The Art Institute)で開催され、大評判となった。


 今年2012年から遡ること30年前のことであった。今、当時のカタログを眺めているが、素晴らしい出来である。編集はロザンベール氏だが、カラーとモノクロの写真を含めて、実に綿密な仕上がりになっている。有名画家でも、あっと思うような作品に出会い、驚くことも多い。



 
今回は、カタログの目次を紹介しておこう。このブログを今まで読んでくださった皆さんには、17世紀フランス絵画をより深く理解するキーワードを与えてくれるかもしれない。

 

 

拡大は画面をクリックしてください

 この目次から推察できるように、1982年当時アメリカにあった17世紀フランス絵画の棚卸しのような感じがする重厚なカタログだ。ローザンベールを初めとする関係者が傾注した努力の程度が偲ばれる。

 見どころは、まずMarc Fumaroli による展望論文だ。恐らく印刷コストの点で、収録図版にはカラー版が少ないのが残念だが、内容は素晴らしい。いづれ部分的にでも紹介することにしたい。

 本カタログの圧巻は、なんといっても、ピエール・ローザンベールによる17世紀フランス絵画の解題である。1982年、今からちょうど30年前に書かれたものだが、迫力のある内容である。このテーマに関心を持つ人々には必読の論文だ。そして、同氏によるカタログおよびアメリカにおける収蔵の状況が説明されている。このあとの30年間に作品には多少の出入りはあるが、この間の時間の経過を感じさせない新鮮さがある。

 ともすれば、フランスだけに視野が限定され、グローバルな視点に欠ける日本の研究者あるいはフランス美術に関心を持つ人々に、アメリカにあるフランス絵画という忘れがちな領域をしっかりと示してくれる。このカタログを見ていると、海外に流れた日本の美術品の全容はいったいどうなっているのだろうかと思わざるをえない。

続く

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする