時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

虚々実々:富豪と画商

2008年04月11日 | 絵のある部屋

The Allegory of the Faith
1671-74
Oil on canvas, 114,3 x 88,9 cm
Metropolitan Museum of Art, New York
    


 20世紀初頭、アメリカの富豪の財力には、改めて驚かされるものがある。いまや世界の美術館の羨望の的であるフェルメールの作品にしても、メトロポリタン美術館はこれまでついに自力では一点も購入できなかった。云ってみれば、富豪たちが代わって買ってくれたのだ。フェルメール・ファンが多い日本だが、かつてバブルに沸き立ち、ミリオネアが続出したにもかかわらず、国内には所蔵品は一点もない。企画展のたびに海外から借りてきて観客を集めている。貸し出す側にとっては、たぶん大きな収益源なのだろう。  

 アルトマンの画期的な遺贈に続いて、1920年代から1930年代にかけて、さらに多くのオランダ絵画の名作が、メトロポリタン美術館のコレクションに加わった。その中でも特記すべきは、アルトマン百貨店 B. Altman, Co.の経営者であったアルトマンの甥にあたり、共同経営者として、そしてアルトマン没後は後継者として経営の任にあったマイケル・フリードサム Michael Friedsam (1585-1931)の遺贈だった。   

 1931年にフリードザムも亡くなると、オランダ絵画の名作を含む150点近い作品がメトロポリタンへ遺贈された。オランダ、フレミッシュ絵画に加えて、イタリアの貴重な絵画も含まれており、当時の価格で10,000,000ドルと評価された巨額な遺贈だった。オランダ絵画の中には、ルイスデールの「穀物畑」、ファン・デル・ネールの「本を読む女性」、レンブラントの「ベローナ」Bellona などの逸品も含まれていた。 とにかく、この時代の富豪の力は驚くべきものだった。その蓄財の秘密は、これまた大変興味深いテーマなのだが、ここでは立ち入ることを控えて、絵画の世界へ注目する。

大富豪が興味を示さなかったフェルメール  
 さて、このフリードザム遺贈には、メトロポリタン美術館にとっては、4枚目となるフェルメールの作品「カトリック信仰の寓意」 Allegory of the Catholic Faith も含まれていた。この作品は来歴 provenance を辿ると、最初1699年にアムステルダムで売りに出された後、いくつか所有者が転々とした後、オランダ美術の最初の専門家として知られるブレディウス Abraham Bredius が、1899年ベルリンの画商から購入した。購入価格はおよそ700ギルダーくらいと推定されている。当時は、フェルメールではない別の画家(Eglon van der Neer)の作品とも思われていた。

 ブレディウスは、当時ハーグのマウリスハイツ美術館の館長で、オランダ絵画の著名なコレクターでもあった。彼は作品を見るなり、フェルメールの手になったものと直感したらしい。しかし、ブレディウスは、この作品は好みでなかったらしく、「大きいが大変不器用なフェルメール」‘a large yet very awkward Vermeer.’ と評していた。   

 この絵はフェルメールの作品の中では数少ない宗教的テーマを扱ったものだが、他の作品ほど含意が見る者に伝わってこない。カトリック信徒である個人のパトロンあるいは小さな「隠れ」教会などが依頼したのものと推定されている(ちなみに、フェルメールはカルヴァン派であったが、結婚などを機にカトリックに改宗したのではないかとの議論がある)。フェルメールの現存する作品の中では、数少ない宗教的寓意を扱ったものだが、あまり人気を集めてこなかった。 確かに、美しく描かれてはいるが、訴えるものが少ない。画面には多くのものが描きこまれているが、散漫な感じがする。しかし、フェルメールの宗教的背景を推論するには大変興味深い作品として印象に残った。
  
 作品の解釈は専門家に任せるとして、印象としては富裕な「隠れ」カトリック教徒の家で、祭壇画風に飾られていたのではないかという気がする。プロテスタントの国オランダでは、十分ありうることではないか。そのために、依頼主の要請もあってやや過剰に、さまざまな寓意を籠めたものが描きこまれているような気がする。

モルガンはなぜ買わなかったか  
  さて、1911年12月ブレディウスは、この作品を鉄鋼業で財をなした富豪コレクターの J.P. モルガンに見せた。この頃までに、フェルメールの作品はアメリカでも人気が高まり、記録的な価格がつけられるようになっていた。モルガンは決断の早い人物といわれていたが、この作品には関心を示さなかった。モルガンは自分の好みに合わない作品は、世間でいかに人気があっても手を出さなかったようだ。ブレディウスが、「信仰の寓意」 について、いかなる評価をしていたのか、正確なところは分からない。しかし、フェルメールの作品であることを交渉材料に、どこかの富豪か画商に売りたかったのだろう。   

 この年は数少ないフェルメール作品が動いた年で、1月、フィラデルフィアのコレクター、ワイドナー P. A. B. Widenerは、フェルメールの「天秤を持つ女」 (現在National Gallery of Art, Washington, D.C. 所蔵)に115,000ドルの価格をつけ、相応する4点の作品と交換した。 同年、これも著名なコレクター、ヘンリー・フリック(フリック・コレクションの創設者) は、彼の2枚目のフェルメールとして、「士官と笑う女」 (Frick Collection, New York所蔵)に225,000ドルを支払った。   

 ブレディウスが1899年に入手した「寓意」の価格は、大変安く、700ドイツマルク以下だったといわれる。モルガンに売りそこなったブレディウスは、結局パリの画商に手放してしまう。そして、ほぼ30年後の1928年、マイケル・フリードザムは、300,000ドルというかなりの額を支払って入手した。 この作品も、フリードサムの死後、メトロポリタンに遺贈されたことは前回に記した。

絵画コレクションは富豪の条件?   
 この時代、アメリカには数多くの富豪が生まれていたが、その多くが絵画の収集を行っていた。それが純粋な美術への愛好によるものか、有り余る資産の保有形態のひとつとしてなのかは、即断はできない。しかし、美術品収集は、この時代の富豪たちの多くが行っていた時代のファッションだった。アンドリュー・メロンやヘンリー・C・フリックのように、自ら大西洋を渡って状況視察や買い付けを行っていた者もいた。ニューアムステルダムといわれたニューヨークでは、オランダ絵画の収集欲は大変高まっていた。その中でも、レンブラント、フェルメール、ルイスデール、ハルズなどの巨匠の作品は、所有しているだけでもコレクションの価値がランクアップすると考えられ、驚くべき高額で取引されていた。しかし、舞台裏では悲喜こもごもなエピソードもあった。その一つを記しておこう。

画商デュヴィーンの掌の上?    
 株式ブローカー、ジュレス・バチェJules Bache (1861-1944) も著名な画商ジョセフ・デュヴィーンを介して、コレクションを築いていた。この画商は、当時の美術品取引の多くの場面にその名が出てくる著名人物である。以前に記したように、ヨーロッパと新大陸を股にかけて、大きな事業を展開していた。旧大陸の没落貴族と新大陸の新興富豪が、彼の重要な顧客だった。アメリカの富豪で、デュヴィーンを介して美術品を購入しなかったのはないくらいだった。デュヴィーンの片腕として働いたベルナール・ベレンソン Bernard Berenson は、時には怪しげで、後に疑問符がつくようなお墨付きまで添えて、作品を売りまくった。画商と顧客としての富豪の関係は、虚々実々、騙し合いのようなところがあった。富豪も画商なしには、作品の在り処や真贋を確定することはできなかったし、画商は高く買ってくれる顧客としての富豪は、おろそかにはできない存在であった。   

 デュヴィーンは、ヨーロッパ美術市場の細部にまで通暁した辣腕の画商とも言わていた。かなり強引な取引もしたようだ。他方、作品や位置づけについては、他の画商より抜きん出た情報を持っていた。そのため、多くのコレクターがこの画商に依存していた。このデュヴィーンという画商は、毀誉褒貶の多かった人物であり、オランダ系ユダヤ人が出自のイギリス移民だった。同じく美術品のディーラーだった父親の後を継いで、美術品取引の世界に入るが、それまでの画商のイメージとは大きく異なる路線を歩いたようだ。これも、大変面白い部分であり、いずれなにかの折に立ち入ってみたい。   

 他方、バチェはまったく自分の所有欲や満足感のために絵画を収集し、それを公開することなど考えていなかったようだ。しかし、デュヴィーンの美術作品についての目利き、評価については、絶大な信頼を置いていた。その後、画商デュヴィーンの巧みな説得が功を奏して、次第に考えを変えていった。デュヴィーンは時代の流れを読み、美術品の私有から公有、公開への道を示唆していた。画商として、かなり開けた考えも持っていたようだ。   

 バチェの死後、5年が経過した1949年、遺言に基づき、メトロポリタンは、彼のコレクションから60点以上のヨーロッパの古い巨匠の作品の寄贈を受けた。その中には、数点のオランダ絵画の名品も含まれていた。

高くついた授業料?    
 バチェのメトロポリタンへの寄贈の中には、2点の“レンブラント”と言われた作品、そして ”フェルメール”では、といわれた作品も含まれていた。レンブラントと言われた作品については、学者や鑑定家などのお墨付きもつけられていたようだが、後年、真作ではなく、同時代の画家の作品とされた。生前、バチェはかなりの高額をもってこれらの作品を入手したのだが、その後2点ともに真作ではない、あるいは明らかな贋作であったことが判明している。富豪もかなり高い「授業料」を支払ったようだ。   

 バチェはことのほかフェルメールがお気に入りで、この画家の作品を取得できれば、自分のコレクション自体が一段とレベルアップすると思っていたらしい。 1928年という年は、画商デュヴィーンにとって大きな商談が成立した年といわれているが、顧客であったバチェも、待望の“フェルメール”を入手できたと思った年だった。しかし、それはまもなくぬか喜びに終わることになる。   

 画商デュヴィーンは、アメリカの富豪たちに作品を売りつける反面で、かなりのフィランスロピックな寄付もした。イギリスの多くの美術館に美術品を寄付したり、美術館や画廊の補修や拡大のための助成もしている。こうした貢献が認められて、1919年にはナイトの称号を授与され、1933年にはバロンになっている。   

 バチェが、ウイルダーシュタインという画商から134,800 ドルという高額を支払って入手した「本を読む若い女」A Young Woman Reading という作品があった。これについても著名な学者、鑑定家の積極的評価がつけられていた。しかし、その後の鑑定で、バチェが取得した1928年の少し前に作られた現代の贋作であることが判明した。当時のアメリカ美術市場での過熱した「フェルメール病」につけこんだものと推測されている。   

 大変興味深いことは、これら問題の贋作は、公開されることはないが、メトロポリタン美術館の倉庫に保管されているらしい。巨匠の名前だけを追った富豪たちの美術熱も、危うい部分を含んでいることを如実に示している。ともすれば、資金力に物言わせた買い漁りといわれてきたアメリカの富豪コレクターの美術趣味も、時にはこうした手痛い経験をしながらも1940年代には、ヨーロッパと十分に肩を並べる水準に達したといわれるまでになった。   

 第2次大戦後になると、アメリカの美術館のコレクションの充実も地に着いたものとなり、メトロポリタンにとどまらず、公私多数の美術館が生まれ、バランスの取れたコレクションが生まれるようになった。遺贈・寄贈は美術界での大きな流れとなるとともに、美術館自体の基金も個人の寄付金などによる支援体制が充実・拡大し、安定した運営が行われるようになった。富豪やその身近にいる人々以外、見ることができなかった名作の数々は大邸宅を出て、市民が集う美術館へ滔々と大河のように流れ出した。

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