『孔雀翎地真珠珊瑚雲龍文刺繍袍』(清時代、乾隆年間)部分
見残していた『特別展北京故宮博物院200選』のために、東京国立博物館へ出かける。見残していたというのは、前回あまりにも混んでいて見たい作品がよく見られなかったということにすぎない。このところ、こうしたことが時々ある。全部の展示を同じ密度ではとても見られなくなった。体力の限界もある。今回の特別展の呼び物のひとつ、『清明上河図巻』の展示は1月24日で終了した。展示中はあまりの混雑ぶりに、鑑賞するというよりは人々の背中越しに覗いたといった方が適当であった。
今回の目的は、「書」の部分をよく見たいということにあった。書の展示は、最近は主要部分をディスプレイで拡大する工夫がなされていたりするが、それでもやはり実物を見たい。そうなると、最前列に並んで、ケースの中を覗き込まねばならない。空いている時は自分の興味ある部分に陣取って、ゆっくりみられるのだが、混んでいる場合はかなり苦痛である。
友人が学芸員をしていた博物館などでは、空いている時間を教えてくれた場合もあったが、今はIT上で混雑の程度を知らせてくれる博物館も出てきた。最大の呼び物、『清明上河図巻』の展示が終了しているので、館外で並ぶなどのこともなかったが、入口付近はかなり混雑していた。今回の展示は、会場間を逆行もできることを知らせていたので、多少は混雑が緩和されていたようだ。
北京、台北の国立故宮博物院も何度か出かけたが、いつもゆっくりと鑑賞できて満足感も大きかった。観客が多いといっても、日本とは比較にならない。今回も見たい展示だけを適宜見ようと思って出かけたのだが、半日通して見終わってみると、人混みで疲労困憊の状況だった。日本の展覧会はどうしてこんなに混んでいるのだろう。展示に関心があるいうよりは、マスコミなどに動員されて来ている人もいるようだ。実際、最初の段階から見る意欲がないのか、椅子に座り込んでいる方もかなり見かける。
北京と台北の両故宮博物院の優劣に関する論評は、よく知られているが、北京の故宮博物院もさすがに素晴らしい文物を所蔵している。たとえば、黄庭堅『草書諸上座帖巻』(北宋時代)。主文の部分は縦横無隅に得意の狂草で、あたかも模様のように書きめぐり、その後に行楷書で自跋を記した才の豊かさには目を見張る。あるいは、趙孟頫『楷書帝師胆巴碑巻』(元の時代)の、印刷活字のごとき文字が行間も見事に整然と書かれた作品には、書家の集中力の高さにひたすら感嘆してしまう。
今回、少し息抜きに興味を持って見たもののひとつに、『孔雀翎地真珠珊瑚雲龍文刺繍袍』(清時代、乾隆年間)があった。この袍(上衣)は、清朝の皇帝がお祝い事などの行事の際に着用した吉服で、正面を向いた五爪の龍(正龍)が胸の部分に大きく刺繍され、「龍袍(ろんぱお)」とも呼ばれている。袍につけられた名称が示すように、孔雀の羽を身にまとう皇帝として、最高権力の象徴でもあったようだ。よく見ると、九尾の龍が定まった場所に刺繍されている。現代的には怪奇な印象も受けるデザインだが、当時の次元に立ち戻るならば、重厚で精緻きわまりない文物である*。
折しも、中国の習近平国家副主席が訪米中である。あえていえば、現代中華帝国の次期皇帝の訪米である。ある中国人の友人が、中国人は誰でも(時の運に恵まれれば)皇帝になれると思っているという話をしてくれた。いわば「チャイニーズ・ドリーム」である。これは「アメリカン・ドリーム」にきわめて近いものだ。だから、中国人は内心、できればアメリカ人になりたいと思っているのだという。確かに中国の有名大学の卒業生が最も留学したい国は、だんとつでアメリカだ。
IT時代の今と比較すれば、昔の皇帝は自分の考えを、人々に伝える手段に乏しかった。そのために、皇帝は故宮のような壮大な建築物や華麗な衣装を手段にして、自らの威厳や夢を伝達したのだ。こうしてみると、この一枚の衣を見ていても、時代の力のようなものが伝わってくる。
* 詳細は、同上博物館展示ブログ 「研究員おすすめの見どころ」by 小山弓弦葉(工芸室) at 2012年02月06日、ご参照ください。