Autographe de Georges de La Tour, Archives départmentales de Moselle. Ces lignes, datés de 1618.
ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの署名がある自筆文書(署名の見事さに注目)
下層貴族の生き方
『危機の時代』といわれた17世紀におけるロレーヌの生活は、貴族といえども決して平穏・安泰なものではなかった。比較的平穏な日々が続いたのは、1620年代くらいまでであった。予告もなく、突如襲ってくる外国軍や、悪疫、飢饉などによって、生活は大きく乱され,破壊された。人口の大部分を占めた農民,平民はしばしば生命・財産を脅かされる状況に陥った。彼らは、ただひたすら逃げ惑うばかりであった。
こうした状況にいたれば、貴族や教会などの特権階級もさほど変わることはなく苦難の渦中に投げ込まれる。彼らとしても戦火や悪疫を避けて、どこか遠隔の地に避難するくらいであった。しかし、平穏な時には領地拡大、蓄財に最大限努めた。とりわけ、下層貴族はほぼ共通して、その封建的特権を活用し、生き残りを図っていた。そのための方途は、ひとつには前回記したように、拝領した領地を分割、売買し、遊休地などを貸借して、有効活用を行うことであった。時には穀物、種子の買い上げ、備蓄などの手段もとられた。他方、上層の旧貴族たちは、概して先祖伝来の広大な領地、城砦・塔などを備えた荘園を保有しており、下層貴族ほどあくせくと利殖・蓄財に勉めなくてもすんだ。彼らは森林、鉱山などの自然資源も保有していた。
結婚政策:もうひとつの処世術
領地などの封建的特権を最大限活用する傍ら、下層貴族たちが行ったことは、その地位の維持、次世代への継承だった。たとえば、ジャック・マウエは、この時代に多用された結婚政策に意図的に力を注いだ。自らとほぼ同等の家系と息子や娘たちの婚姻関係を設定し、家系・子孫の繁栄を図る政策だった。この方法は下層貴族のみならず、上層の貴族や公爵などの間でも見られた。たとえば、歴代ロレーヌ公は小国の君主として、婚姻政策には多大な努力を傾注し、ヨーロッパ全域にわたり、そのネットワークを広げていた。
たびたび例示しているマウエ家は幸運にも恵まれ、ジャック・マウエと妻の間には少なくも7人の子供、言い換えると4人の息子と3人の娘が生まれた。息子の2人は未婚のまま死亡したか、その後の消息は記録が無く不明である。1人残った息子は領主となった。息子の1人、マルク・マウエは、父親同様ロレーヌ公国の軍隊経歴を選び、最初のフランス軍侵入の際シャルル4世の軍務官をつとめた。ジャック・マウエが貴族となって30年ほど過ぎた時であった。娘たちも社会階層としてほぼ同等の家に嫁いだ。
しかし、こうした形での世渡りがいつもうまく行くとは限らない。当時は出生率も高く、数人から10人の子女がいる家庭は普通であったが、死亡率も高く、成人として生きながらえる人数も少なかった。マウエ家の場合は、当主のジャックが1599年に貴族になって以来、貴族の地位を一族の間に継承したいという思いに支えられた処世術がうまく機能した例である。
j
画家をあきらめ、貴族になったエティエンヌ
ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの場合、ジョルジュが貴族階級に上方移動し、著名な画家としても成功をとげた後に、次男エティエンヌが父親ジョルジュとともに一時期、工房を営んでいたと思われる。しかし、エティエンヌには画家として父親の画業を継承するほどの資質も積極性にも欠けていたようだ。1652年、父親ジョルジュとその妻ディアヌの死後は、ひたすら貴族としての道を目指した。1656年ヴイツクでジャン・マリアン・ロワダを工房で5年間修業させる契約を結んではいるので、この時点までは画業を続けようとの考えもあったのだろう。
エティエンヌは1669年にメリルの領地がロレーヌ公によって、メニル・ラ・トゥール封地に昇格され、1670年にはシャルルⅣ世から爵位、城 La tourが描かれた紋章を授かった。エティエンヌの妻アンヌ・カトリーヌ・フリオは、1684年にリュネヴィルで急死したが、同年7月にメッスの貴族階級出身の女性アンヌ・グレー・ド・マルメディと結婚している。そして、1692年エティエンヌ自身も死亡した。その後、ラ・トゥール家の家系がたどった道筋を、マウエ家のようにかなり正確に追求できる史料は発見されていない。画家であり貴族という社会的栄達をとげたジョルジュ・ド・ラ・トゥールの家系は、エティエンヌを最後にほぼ途絶えたとみられる。(続く)。