時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

カラヴァッジョ、セザンヌ、トゥエインを結ぶもの(3)

2012年05月22日 | 午後のティールーム

 



Mark Twain (Samuel Langhorne Clemens、1835-1910)




セザンヌの目指したもの

 セザンスにとつて、前回紹介した作品『カードプレヤー』シリーズは、なにかの寓意を込めるためあるいはいかさま師などにだまされる男を愚弄や嘲笑の種とすることを目指して描いたのではない。これは、作品をひと目見ればすぐに伝わってくる。描かれたプレーヤーは、どの作品をとってもひたすら自分のカードに没頭している。たまたま見物している男や子供にも、カードを盗み見して共謀者に伝えようなどの悪意の気配はまったくない。いくら眺めていても、カラヴァッジョやラ・トゥールのような寓意やドラマ的要因は伝わってこない。描かれている人物は、セザンヌが得意とした果物のように、ほとんど静物に近い存在だ。

 それではセザンヌはなにを目指して、この一連の作品の制作に当たったのだろうか。19世紀から20世紀初頭にかけて生きたこの偉大な画家は、当然17世紀のカラヴァッジョやラ・トゥールの作品についても知っていたはずである。カードゲームを主題に取り上げた根底には、フランス絵画の底流にあるカードプレーヤーにまつわるさまざまな思いがあったのかもしれない。さもなければ、セザンヌが晩年、このカードゲーム・シリーズのために多大な時間と労力を注いだ理由を推定することはかなり難しい。

 ひとつ考えられることは、カラヴァッジョやラ・トゥールの作品あるいは彼らが生きていた時代では、カードゲームは(幸運・不運を含めて)「運」あるいは「偶然」luck or chance が勝負を決めるゲームだと思われてきた。もちろん、プレーヤーが持つ多少のスキルが働いているとの認識もあったろう。セザンヌの時代でも多くの人はそう思っていたかもしれない。運や偶然が勝負を定めるとなると、それをなんらかの人為的手段で自分に有利な方向に引き寄せられないかという考えが生まれる。そのひとつが、いかさま師のとったような手口である。さもなければ、いかさま師は商売?ができない。

カードゲームの本質は「スキル」
 他方、セザンヌの作品に登場するプレーヤーは、静物画の林檎のように静止しているが、彼らの頭脳は最大限に回転している。言い換えると、彼らは自分が蓄積したスキルこそが、勝負を分ける要因と考えている。セザンヌは、カードプレーという場を支配する究極の要因はプレーヤーのスキルあると考え、その真髄を最も的確に描き出すため、多くの努力を傾注したのではないか。さまざまなモデルが試みられているが、画家はゲームの本質を求めて探索していたのだろう。その本質を最もよく表現する人物配置や色彩を試みたのではないか。

 実は、カードゲームが「運」と「スキル」のいずれによって基本的に動かされているかという問題について、その後大変興味深い考えが展開した。そのきっかけを作ったのは、アメリカ文学の巨人マーク・トウェインだった。

大きな変革者マーク・トゥエイン
 
マーク・トウェインは、自他共に認めるポーカー愛好者であった。他方、彼は世の中で、こうしたカードゲームのルールを正しく知る人があまりに少ないことを嘆いていた。


 マーク・トゥエインは1870年、「科学対運」Science vs Luckという興味深いエッセイを書いている。大変ウイットとユーモアに富んだ話だ。そのなかで次のような例を取り上げている。ケンタッキー州で、12人ほどの学生が金を賭けてポーカーをして逮捕され、裁判沙汰になった。その当時、多くの州がポーカーのような「チャンスのゲーム」game of chanceを厳しく禁止していた。さらに知的レベルの高い学生が多いと考えられたハーバード大学などは、学生の飲酒やけんかは概して見逃したが、金を賭けたカード遊びは禁じていた。誤を犯した学生は、飲酒やけんかよりもはるかに高い罰金を課せられた。

 トウェインのエツセイでは、金を賭けてカードゲームをしていた生徒を弁護する側の弁護士は、ポーカーはチャンスのゲームではなく、スキルのゲームだと論じた。そして、被告は、原告側から説得的な反論がなければ罪せられるべきでないとした。この弁護士は、法廷に多数の傍聴者を集め、双方の論戦を傍聴する機会を与えた。

 ちなみに検事は、すべてポーカーにルイするカードゲームは、運やチャンスが支配的なゲームとみていた。他方、弁護側の証人はスキルのゲームであるとの考えに加担した。、そして、ポーカーがチャンスのゲームと明解に証明されるまでは、被告は処罰されるべきではないと論じた。判事はどちらとも答が出せず、判定に窮した。

 そこで、被告の弁護士に打開策を求めたところ、弁護士は6名ずつ選んだ陪審員に実際に金を賭けたゲームをしてもらい、ポーカーが運か科学のいづれによって支配されているかを決めさせたらどうかとの提案をした。判事はその提案に賛成し、彼らに夜間もプレーができるようローソクとカードの束をわたした。そして、「チヤンス」がポーカーの勝敗を決めていると信じるプレーヤーはその旨宣誓し、別の6人のカードゲームに経験豊富なポーカープレヤー(陪審員)は、「科学」を信じてプレーするとの宣誓を行なった。

さて、成り行きは
 多くの傍聴人、観衆が待つ傍ら、世を徹してプレーが行われた。明け方近く、陪審員の長が現れ、評決を読み上げた。その内容はつぎのようなものであった:

 われわれ陪審員は、「原告ケンタッキー州対被告ジョン・ウイーラー他」の裁判をめぐるカードゲームに関わる本質的問題点を注意深く検討した。そしていくつかの進んだ理論のメリットをテストした。その結果、陪審員は一致してゲームは明らかにチャンスのゲームではなく、科学のゲームであると決定するにいたった。評決を支持する論証として、ゲームはチャンスと考えた人たちはすべて敗退し、科学が支配していると考えた人たちは利得を得た。(中略)かくして、カード・ゲームはチャンスのゲームではなく、科学のゲームであると考える。

 ここで結論として指摘したいのは、ポーカーのようなゲームは、確率法則を最善(勝つため)の決定のために使う科学(知識とスキル)のゲームであるということである。もちろん、ゲームには偶然や運が働くこともある。しかし、本質的に強いプレーヤーと弱いプレーヤーを分けるものは科学だという考えである。ちなみに、当時行われていたゲームは、今日行われているポーカーに近いゲームであった。

 セザンヌのカード・プレーヤーたちがプレーに熱中しているのは、彼らの経験に基づき、ひたすら確率法則に基づいた戦術を考えているからといえるだろう。カードゲームをめぐるカラヴァッジョ、セザンヌ、そしてトゥエインを結ぶ話は、実はこれだけにとどまらない。さまざまなことに応用、展開してゆく。たとえば、ノーベル賞のような大きな賞を受賞するのも、科学者として単なる確率的な幸運ではない。あることに留意すると、受賞の確率が高まるなど、なかなか興味深い結果が期待されるという。残念ながら、今回はこれで御終い




References
Mark Twain. "Science vs Luck" The Complete Short Stories of Mark Twain, 1870

Joseph L Goldstein. "The card players of Caravvagio, Cézanne and Mark Twain: tips for getting lucky in high-stakes research. NATURE MEDECINE, volume 17, number 10, October 2011, pp.1201-1205.

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