J. M. W.ターナー《最後の解体に向けてタグボートに牽引される戦艦テメレール》キャンバス、油彩、1838年 91x122cm、ロンドン、ナショナル・ギャラリー
J. M. William Turner (1775-1851) The Fighting Temeraire tugged to her Last Berth to be broken up, oil on canvas,91x122cm,1838,1839, National Gallery, London
イギリスを代表する国民的画家ターナーについて記しだすと、とめどなくなりそうだ。それだけこの画家は多彩な画風の持ち主であり、若くして名声を手中にしていたが、美を追求するに絶えず研鑽、努力を惜しまなかった。天賦の才に恵まれたとはいえ、この画家の作品制作に当たっての準備と努力の傾注は並々ならぬものがあったようだ。
J. M. William Turner (1775-1851) The Fighting Temeraire tugged to her Last Berth to be broken up, oil on canvas,91x122cm,1838,1839, National Gallery, London
イギリスを代表する国民的画家ターナーについて記しだすと、とめどなくなりそうだ。それだけこの画家は多彩な画風の持ち主であり、若くして名声を手中にしていたが、美を追求するに絶えず研鑽、努力を惜しまなかった。天賦の才に恵まれたとはいえ、この画家の作品制作に当たっての準備と努力の傾注は並々ならぬものがあったようだ。
前回記した《平和ー海での水葬》にしても、ターナーが若い頃に「風景画」の理想として深く傾倒していたフランス出身の画家クロード・ロランやオランダ画家のことが思い浮かぶ*。当時の画壇におけるジャンルとして「風景画」は「歴史画」よりも低い評価ではあったが、ターナーは意に介さず綿密な検討と思索の上に制作に当たった。《平和ー海での水葬》を見ていると、直ちに思い浮かぶ作品がある。この作品、1838年に制作され、1839年アカデミーに展示されるや、たちまちイギリスの”最重要な絵画”との評価に輝き、2005年に行われたBBCの一般国民投票でも最上位にランクされた。
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N.B.
この画家の「海景画」と呼ばれるジャンルでの研鑽が思い浮かぶ。ターナーはヤーコブ・ファン・ライスデールやアルベルト・カイブなどのオランダの風景画家、サルヴァトール・ローザ、ズッカレッリ、カナレットなどのイタリアの風景画家も、深く研究している。特にオランダ画家については、ロイヤル・アカデミー初代院長レノルズの考えに従ったといわれている。
風景画を得意としたターナーは、精力的に大家の作品を研究していたが、17世紀にローマで活動していたフランス出身の画家クロード・ロランに深く傾倒した。クロードは自分の生まれたフランスよりもイギリスにおいて大きな影響力を持っていた。クロードの風景画はイギリスにおいて熱狂的な支持者を獲得していた。
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栄光と衰退の象徴として
この作品、20年近く続いたナポレオン戦争で活躍したイギリスの戦艦テメレール号がその任務を終えて、解体のため最後の停泊地へ向けてタグボートで曳航されてゆく光景をテムズ川の日没を背景に描いたものである。テメレールは、ネルソン提督の旗艦ヴィクトリーの戦列で2番艦として位置づけられ、大きな戦果を上げた。1836年まで戦線後方で使用されていたが、解体のため1838年に売却され、解体ドックへ向かう途上だった。
イギリス国民が誇りとしてきた栄光の象徴的存在がその役割を果たし、力尽き、最後を迎えつつあるという場面が描かれている。この作品に接した人々はイギリス帝国が築いた栄光にかつての日々を偲びつつ、今その時代が終わりつつあることを深く感じたことだろう。
この作品、20年近く続いたナポレオン戦争で活躍したイギリスの戦艦テメレール号がその任務を終えて、解体のため最後の停泊地へ向けてタグボートで曳航されてゆく光景をテムズ川の日没を背景に描いたものである。テメレールは、ネルソン提督の旗艦ヴィクトリーの戦列で2番艦として位置づけられ、大きな戦果を上げた。1836年まで戦線後方で使用されていたが、解体のため1838年に売却され、解体ドックへ向かう途上だった。
イギリス国民が誇りとしてきた栄光の象徴的存在がその役割を果たし、力尽き、最後を迎えつつあるという場面が描かれている。この作品に接した人々はイギリス帝国が築いた栄光にかつての日々を偲びつつ、今その時代が終わりつつあることを深く感じたことだろう。
海洋国家の誇り
イギリス国民にとって海軍の存在は特別な意味を持っている。イギリスは産業革命の発祥の地であり、その繁栄を背景に世界と貿易や人の交流でつながっているという思いがこの国を支えてきた。海洋国家として輝いた時代である。その活動を支えていたのが、英国海軍だった。
筆者がかつて過ごしたケンブリッジでの隣家は、退役した海軍の将校夫妻が住んでいた。大変親切で色々お世話になったが、家屋、庭、自動車の整備など、購入したならばその後のメンテナンス、修理はほとんど自分で行うことなど、日頃の努力とそれを支える強い自立心に感銘した。10年以上が過ぎた自動車のエンジンも、ほとんど新品のように見えた。海軍の規律のようなものが、日々の生活を支えているようだった。
閑話休題
ターナーがこの作品を制作した当時は、画家は64歳、画業の真髄を達成し、円熟の域に達した感があった最高の時期だった。描かれる対象となった戦艦は、トラファルガー沖での海戦での英雄的な働きで国民によく知られた存在だった。ターナーは、廃船になる前、自ら最終解体地も訪れている。さらに作業場をテムズ川のほとりに設け、川や行き交う船の有様を観察していたようだ。
この時にいたる過程を簡単に見てみよう*。1805年、ネルソン提督率いるイギリス艦隊は、フランス・スペイン連合艦隊をトラファルガー沖に撃滅したが、提督みずからも戦死した。大英帝国の栄誉とその終幕ともいうべき出来事だった。
ターナーがこの作品を制作した当時は、画家は64歳、画業の真髄を達成し、円熟の域に達した感があった最高の時期だった。描かれる対象となった戦艦は、トラファルガー沖での海戦での英雄的な働きで国民によく知られた存在だった。ターナーは、廃船になる前、自ら最終解体地も訪れている。さらに作業場をテムズ川のほとりに設け、川や行き交う船の有様を観察していたようだ。
この時にいたる過程を簡単に見てみよう*。1805年、ネルソン提督率いるイギリス艦隊は、フランス・スペイン連合艦隊をトラファルガー沖に撃滅したが、提督みずからも戦死した。大英帝国の栄誉とその終幕ともいうべき出来事だった。
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N.B.
この戦艦テメレールには歴史があり、元来フランスの軍艦名Charles le l’emeraire だったが、1759年ラゴスの海戦でイギリス海軍によって捕獲された。イギリス海軍は大規模な補修を行い、1798年 HMS Teneraire (ネプチューン級戦列艦)として進水式が行われた。船体の長さはおよそ185 ft(約56m), キールから上甲板までは51ft(約16m)あり、3本マストで帆走、大小98の砲身を装備していた。
1805 年10月21日、「テメレール」は26隻の艦船とともにネルソン提督率いる艦隊の旗艦Victoryに続く戦艦として栄光の日を迎えた。ナショナル・ヒロインとして祝賀を受けた。その後トラファルガー沖での海戦でスペイン・フランス連合艦隊を破り、ナポレオンのイギリス侵攻を防いだ。記録によると、戦闘は4時間半に及び、「テメレール」も47人の船員の命を失い、76人が負傷した。この海戦で提督ネルソンも戦死した。船体の損傷も甚だしく航行不能となった。
テメレールは勝利の栄誉は獲得したが、多くの乗組員とともに、自らの航行能力も失い、現地での修理後落札されて解体に向けてテムズ川を曳航された。人々は提督の戦死を悼み半旗を掲げた。かくして英国民は多くの悲しみとともに戦勝を祝賀した。
作品の制作と解釈
この作品の構図は極めて異例だ。最も重要な主役である古い戦艦は画面の左側に寄せられて描かれている。青い空と立ち上る霧に隠れている。3本マストの軍艦の船体は、煙突から高く黒煙を吹き上げる汚れたタグボートの背後に隠れるように描かれている。よく見ると壮麗な船容だが、別の世界に存在するかのようだ。さらに後方には任務を終え同様の運命をたどる船が続いている。
戦艦とは反対の右側にはまさに沈もうとしている夕日が描かれている。大英帝国海軍の歴史の一幕を見るようだ。画面全体に見事な光の描写が見られ、詩的でファンタジックなイメージである。
作品の制作と解釈
この作品の構図は極めて異例だ。最も重要な主役である古い戦艦は画面の左側に寄せられて描かれている。青い空と立ち上る霧に隠れている。3本マストの軍艦の船体は、煙突から高く黒煙を吹き上げる汚れたタグボートの背後に隠れるように描かれている。よく見ると壮麗な船容だが、別の世界に存在するかのようだ。さらに後方には任務を終え同様の運命をたどる船が続いている。
戦艦とは反対の右側にはまさに沈もうとしている夕日が描かれている。大英帝国海軍の歴史の一幕を見るようだ。画面全体に見事な光の描写が見られ、詩的でファンタジックなイメージである。
Turner, details
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N.B.
画家はこの作品を制作するに際して、かなりの下準備を行ったことが判明している。
ターナーがこの戦艦が曳航されるのを見たのは、1838年9月5日正午頃といわれている。画家はわざわざ Rotherhitheの解体工事現場まで足を運び、さらにスケッチなどをしたようだ。油彩の画面は画家が最初に目撃した時の天候とは異なるようだ。画家は最もふさわしい状況を描いたのだろう。また、実際にはテメレールは2隻のタグボートで曳行されたようだが、画家は1隻にしている。画家は事実を踏まえた上で、美術作品としての観点からさまざまな創意工夫をこらしている。
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N.B.
画家はこの作品を制作するに際して、かなりの下準備を行ったことが判明している。
ターナーがこの戦艦が曳航されるのを見たのは、1838年9月5日正午頃といわれている。画家はわざわざ Rotherhitheの解体工事現場まで足を運び、さらにスケッチなどをしたようだ。油彩の画面は画家が最初に目撃した時の天候とは異なるようだ。画家は最もふさわしい状況を描いたのだろう。また、実際にはテメレールは2隻のタグボートで曳行されたようだが、画家は1隻にしている。画家は事実を踏まえた上で、美術作品としての観点からさまざまな創意工夫をこらしている。
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解体が終わって8ヶ月の後、1838年ターナーはロイヤル・アカデミーに作品を出展した。作品を見た人々は、輝かしかった自国の日々に精神の高揚を感じるとともに、大英帝国の衰退の始まりも噛み締めていた。
この作品に限ったことではないが、ターナーはしばしば作品のタイトルにこだわり、長い画題を好む傾向があったといわれる。アカデミー展図録にはトマス・キャンベル(1777~1844)の詩をベースに「戦いにも、吹く風にも立ち向かってきた旗も/もはやその姿をとどめず」の説明を付けた。作品に接した人々はその意味を理解し、作品を併せて鑑賞した。当時の知的観客の美術の楽しみ方だった。
この作品に限ったことではないが、ターナーはしばしば作品のタイトルにこだわり、長い画題を好む傾向があったといわれる。アカデミー展図録にはトマス・キャンベル(1777~1844)の詩をベースに「戦いにも、吹く風にも立ち向かってきた旗も/もはやその姿をとどめず」の説明を付けた。作品に接した人々はその意味を理解し、作品を併せて鑑賞した。当時の知的観客の美術の楽しみ方だった。
この作品については色彩学あるいは資本主義の歴史の点からも、記したいことが多々ある。次回にまわしたい。
Reference
Egerton Hudy, Turner, Fighting Temeraire, London, 1995
Egerton Hudy, Turner, Fighting Temeraire, London, 1995
続く