ジョルジュ・ド・ラ・トゥール『女占い師』
パリ、ルーヴル美術館
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これまで真作と思って見ていた絵画作品が、実は別人の手になるものであったとわかったら、皆さんはどんな気持ちになるでしょう。たとえば日本人に大変人気のあるフェルメールの『女主人と召使い』 Mistress and Maid (New York, Frick, Collection), 『若い女性の肖像』 Portrait of a Young Woman, (New York Metropolitan Museum of Art, など長らく画家ヨハンネス・フェルメールの作品とされてきたものが、実はフェルメールの娘、マリアの作品ではないかとの研究*1があります。筆者もその可能性ありと思っていました。この点に限らず、近年新たな発見や仮説が提示されていて、さまざまに興味を呼び起こされ、脳細胞が活性化する気がします。蛇足ながら、日本で多数刊行されている「フェルメール本」?は、大方はブーム便乗目当てのため、通俗的で退屈です。
画家の名声と作品
フェルメールに限ったことではありませんが、これまで真作といわれていた作品が、別の画家の作品と判明した時、あなたならどう思いますか。
誰の作品であろうと、画家の名前など気にかけない。画家の名前よりは作品の内容・水準次第。失望して印象が薄くなる。がっかりして、以後まったく関心を失うなど・・・・・・・。反応は人さまざまでしょう。絵画市場での作品の市価は恐らく低落するかもしれませんが。
実はこうした問題は、多数の画家の作品にありうる話です。今日はこのブログの主題のひとつ、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールに関わる同様なお話をひとつ。
ラ・トゥール研究の成果
ラ・トゥール研究の専門家のひとり、Anne Reinbold によると、2005年東京で開催された『ラ・トゥール展』のカタログに掲載されている30点近い作品は、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールに制作者が帰属(attribution)するものと考えてよいと記されています。言い換えると、当該画家が制作過程のすべてに関わっており、他人の手が入っていないという意味で、真作の評価が定まった作品といえましょう。
しかし、Reinboldによると、さらに100点近く、関連して検討すべき対象があるとのことです。それらの中には、レプリカ(真作の完全に近い複製)、コピー(模写・模作)、破損したキャンバスの一部分、画家の死後、多くのアーカイブ、あるいはさまざまな文書で論及されている作品(現在は所在が不明)などが、該当します。たとえば、レプリカといっても、当該画家本人がなんらかの目的で制作した作品、弟子などが大半を制作し、一部だけ本人が手を入れた作品、画家の工房の制作になるもので、当該画家はほとんど制作に関わっていない作品、当該画家あるいはその工房以外の人物が、多くは後年になって制作したものなど、さまざまな可能性が考えられます。
意外に難しい署名の鑑定
この問題に関連して、大変興味深い研究課題は、当該画家あるいは誰かが作品キャンバスに記した署名に関するものです。キャンバス上に残された署名といえば、これはその署名をした画家の手になる作品(真作?)と思いがちです。しかし、署名といっても、古文書に残る手書きの筆跡もあれば、上掲の作品の署名のように、カリグラフィーのような文字もあります。
後年になって、ラ・トゥールの名前と判定できる署名が残る作品あるいは手書き文書に残る署名には、いくつかの特徴があることが分かってきました。ちなみに、Reinboldを始めとする海外のラ・トゥール研究者は、17世紀の埃だらけの古文書記録に残る読みにくい署名の綴りを判読したり、キャンバスの片隅に隠れ、画面の老朽化や度々の修復などで隠れて判読しにくくなった署名を見つけ出し、他の署名と比較するなど、地道な試みを続け、その努力ぶりには感服します。その努力は着実に成果を生んでいるように思われます。
娘は画家になった?
ラ・トゥールの署名問題については、とてもブログには書き切れないほどの研究蓄積があり、書き切れません。そこで、ここでは、ラ・トゥールの家族に画業の後継者がいたかもしれないという新たな発見について、書いて見ます。
美術史家の地道な考証努力の中で、ナンシーの公証人のコレクション・リストに、1851年時点で「夕暮れの海の風景」として記録されている、クロード・ドゥ・メニル・ラ・トゥール Claude du Mesnil-la-Tourという画家に帰属する作品があることが判明しました(Thuillier, 1997, Reinbold 2012)。実は、この名前あるいは De Menil-La Tour という名前は、ラ・トゥール研究の各所で記録に登場します。しかし、その正体は分からず、Georges de La Tourの誤記だという美術史家もいます。
エティエンヌ以外の家族が画業を?
ラ・トゥールについて多少なりと関心をお持ちの方は、画家であるジョルジュが1652年に59歳で死去した後は、息子のエティエンヌが後を継承し、その後しばらく画業を続けたが、自ら父親のような画家としての才能がないと思ったか、貴族、そして最終的にはロレーヌ公から領主に任じられて、画家の道を放棄したということをご存じでしょう。
実はジョルジュも画家としての徒弟修業を、どこの親方の下で行ったかが明らかでないように、エティエンヌも修業の過程が分かりません。父親ジョルジュから教えられたという可能性は高いのですが、天才画家の親の水準を超えることは至難ですね。今日に残るエティエンヌが書いた文書の筆跡、内容などから、しっかりとした教養を備えていたと推定されていますが、真相は謎のままです。父親の下ではなくて、どこかの親方に徒弟入りをした可能性もありますが、これも記録がありません。
忘れられていた娘たち
他方、ラ・トゥール夫妻にはエティエンヌ(次男)のほかにこれまで研究者もあまり関心を寄せなかったクロードとカトリーヌという娘がいました。ラ・トゥール夫妻には生涯10人の子供がいたと推定されていますが、1648年時点(ジョルジュ・ド・ラ・トゥール55歳当時)で、生存していたのは、エティエンヌ、クロード、クリスティアーヌの3人だけでした。
ジョルジュが死去した1649年当時にはクロードは30歳くらい、カトリーヌはそれより少し若かったと推定されています。貴族志向で、父親のような画才には恵まれず、画家にはなりたくなかったエティエンヌの陰で、娘クロード(あるいはカトリーヌも)が工房で頑固な?父親を支え、仕事を手伝いながら、画家の基礎を習得し、自らも作品を制作していたという可能性はかなり高いと思われます。レンブラント、フェルメール、ラ・トゥールなど、17世紀巨匠の工房で、画家を支えていたたち娘たちの存在を考え直すと、新しい次元が見えてきそうです。
クロードの作品であると確認された作品はまだ発見されていません。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品として、風景画、肖像画、静物画などは、確認されていません。他方、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールに帰属される作品は、今日でも時々発見されています。次に出てくるものはなにでしょうか。
*1 Benjamin Binstock, Vermeer's Family Secrets; Genius Discovery, and the Unknown Apprentice, New York and London; Routledge, 2009
*2 Anne Reinbold, "Firme e attribuzione: la questione della bottega"
GEORGES DE LA TOUR A MILANO, L'Adorazione dei pastori San Giuseppe falegname, Milano: SKIRA, 2012