この小さなブログの管理人が、日本の現状を憂い、行く末を考え、そのあり方に頭を痛める必要はないとも思う。自分にその成り行きを見届ける時間は、ほとんど確実に残っていないのだから。しかし、それでも考えてしまう。とりわけ、考えることは人間の愚かさについてである。
一方で、これまでの歴史における人間の英知の素晴らしさに感動しながら、他方で深い絶望に近い思いに沈みこむ。20-21世紀と、ふたつの世紀を生きてきたが、この世界に戦火が絶えた年はあっただろうか。無意味な殺戮は絶えることなく、地球上のいたる所で行われている。
このたびの領土問題の推移を見ながら、これまで30-40年近い年月、折あるごとに語り合ってきた中国、台湾、韓国あるいはアメリカの友人の顔が浮かぶ。年を追って、知人・友人の数も少なくなってきた。幸か不幸か、北方領土に関連するロシア人の友人はできなかった。これはただ機会がなかっただけのことだ。
とりわけ、専門領域の関連で、韓国の友人はかなり多かった。机を並べていた友人もあった。しかし、その多くは今はもう会えない人たちだ。中国の友人たちのことを思い浮かべる。かなり長いつき合いで、不思議と日本人以上になんでも話し合うことができる人たちがいる。体制、国情が違いすぎるので、かえって話しやすいのかもしれない。
体制の違い
日本の社会の事情は、比較的オープンにされているので、彼らも世情にうとい私以上に知っていることがある。しかし、韓国、中国については、時々仰天するようなことを見聞きすることがある。とりわけ中国共産党体制が内在する歪みや弱みには、その一端に接して驚愕したこともあった。たとえば、拠点大学の学長や管理職は、筋金入りの共産党員でなければ、なれないと聞かされた。多くの人たちは、そうした地位に就くだけの立派な識見、学問的業績、人格の持ち主だと思う。しかし、時には驚くほどの傲慢さに、辟易した経験もあった。
彼ら友人たちも、今の状況を苦渋の思いで見ているだろう。皆等しく、1966年に始まった文化大革命で、苛酷な下放の時代も経験している。1989年天安門事件の現実も知り尽くしている。そして、その後の改革・開放路線がもたらした光と影を厳しく噛みしめている。彼らがこれらの体験を自ら語ることはほとんどない。とりわけ公的な場ではまず耳にすることはない。私もあえて聞くことはしない。しかし、彼らがいかなる思いでそれぞれの日々を過ごしたかは、これまで共に語り合った日々の断片的な話からでも、お互いに分かりすぎるほど分かっている。
刷り込まれたイメージ
今日、TVなどの映像から見る限り、反日を掲げて衝動的に暴動に参加する若者たちは、すべて戦争を知らない世代だ。文化大革命すら自ら体験することはなく、それらを切実な感覚を持って感じてはいないだろう。他方、それを複雑な思いで見つめる日本人も、ほとんどは戦争を知らない世代が増えた。言い換えれば、教育などでイメージとして形成された戦争観、対相手国観に基づく行動が主流を占めるようになっている。とりわけ、中国には日中戦争における日本軍の残虐行為を後世に伝える記念館などが各地に作られている。これを目のあたりにして、日本が好きになる中国人はまずいないだろう。反日を醸成する素地はいたるところに残されている。
他方で、改革・開放制作の結果、大きな経済発展をとげ、かつての『経済大国』日本を追い抜いた中国、そして追い抜こうとしている韓国の社会には、さまざまな優越感も生まれている。友人たちの国が豊かになることに羨望感は生まれない。日本が大方は経験済みのことだからかもしれない。しかし、物質的な豊かさは、時にバブル期の日本の社会に見られた一種の傲慢さに通じるものも生み出してしまう。
こうした明暗にもかかわらず、これまで半世紀以上にわたり、東アジアが戦火を回避し、悲惨な体験をせずに今日まで到達できたということは、積極的に評価すべきことだろう。
ゲーム化し、危うい紛争の前線
インターネットの発展もあって、さまざまな情報が世界を乱れ飛ぶ。ITゲームの盛況もあってか、なんとなく危うい戦争ゲームを弄んでいるような側面もある。国境(領海というべきか)を挟んでの挑発的な言葉の応酬や水のかけ合いは、事情を知らない遠くはなれた国の人々からは、馬鹿げていると思えるかもしれない。実際、そうした外国報道もある。しかし、それが突然、戦火の場面に変わりうる危険があることは改めていうまでもない。
今日の外交は情報経路の発達もあって、お互いに手の内をかなり知りえた上での交渉でもあり、これまで国家間のほとんど唯一の交渉の経路であった外交という次元を超えて、国民のさまざまなレヴェルで接触面が増えている。しかし、インターネットの発達で、誤った情報操作や為政者の政治的意図から、数億単位の人々がマインド・コントロールされて動くという恐ろしい側面もある。誤った情報でも、繰り返し注入されていると、いつの間にか真実が分からなくなってしまうことが多いことは、歴史に多数の例がある。
図らずもこのブログの主題でもある17世紀のフランス王国と神聖ローマ帝国に挟まれた小国、ロレーヌ公国がたどった歴史を考えていた。荒唐無稽なことだが、もし日本が中国とアメリカに地続きで挟まれていたら、どんなことになったろう。
政治家の責任はきわめて大きい。日本の国力の衰退は避けがたいとしても、精神的に成熟した文化国家として、世界の国々が一目置いてくれるような大人の国であってほしいと願っている。それこそが、来たるべき時代の「先進国」であるはずだ。