アメリカという国を知るにつれて、いくつか驚いたことがあった。それは最高裁判事について国民が大変よく知っていることだった。どの判事がいかなる思想傾向を抱き、どんな判決をしてきたかということについて、多くの国民がかなりよく知っている。それは、日本人が最高裁判事について抱くものとは大きく異なっている。
7月13日、オバマ米大統領が最高裁判事に指名したソニア・ソトマイヨール氏Sonia Sotomayorの指名承認公聴会の実況中継を見た。第一日は、与えられたほぼ七分間に、判事が自分の経歴、法曹としての考えなどを述べ、その後に続く審問の枠組みを提示する。
どこかに欠陥はないかと、あれこれ詮索し意地の悪い質問をする議員の前で、自分の生い立ち、判事としての考えを正々堂々と述べる姿は感動的だ。小学校3年までしか行けなかった親たちのこと、自分は努力してプリンストン大学からイェール大学法科大学院を卒業し、判事になったこと、弟もがんばって医学部へ入学したことなどを淡々と語る。
より具体的にはソトマイヨール氏は、検察官、企業訴訟当事者、連邦地方裁判所判事を勤め、10年前に連邦控訴裁判所第2巡回区・NY(NY,コネティカット、バーモント管轄)に加わったことを述べ、判事としての地裁、高裁などでの実績、そしてオバマ大統領の指名を受けて最高裁判事への道が開かれつつあることを冷静に説明する。自分の歩んできた道は戦いのようだが、そこに希望を見出していると述べる。そして、判事としての自分の使命は憲法の擁護にあると語る。
公聴会二日目、ソトマイヨール氏は、「経験豊かな賢い中南米系女性」が白人男性より優れた結論を出すことを望む、と語った2001年の発言について真意の説明を求められた。この発言はヒスパニック系を中心とする法学部学生に向けた演説の一部だった。上院議員、とりわけ共和党員は、これまでのソトマイヨール氏の片言隻句をとらえては、人種的偏見があるのではないかと詰め寄る。しかし、彼女はまったく動ぜず、淡々と回答する。
ソトマイヨール氏は自分の発言がこれほど注目されたことはないと述べ、「適切な裁きを下すうえで、人種や民族、性別が有利にはたらくとは信じていない」と明言する。女性初の最高裁判事に就任したサンドラ・デイ・オコナー氏の「賢く公正な判事になる能力を、男性も女性も同等に有している」とほぼ同じ見解を表明しようとしたものの、表現が不適切だったことを認めた。司法哲学について聞かれても、法律への忠誠が自分の志すところであるとして、政治活動的な判事ではないと答える。
最高裁判事としての人間性、法曹としての基本姿勢をさまざまにテストされる。どこかに判事としての欠陥はないだろうかと、猜疑心と策略が潜んだ意地の悪い質問が次々と発せられる。しかし、そうした挑発的な質問にも平静さを失わず答えるこの女性は、実に立派であった。テレビを見ている国民にも、物事に動じない冷静な判事であり、公平な審理ができる人物であることが伝わってくるようだ。上院公聴会という舞台設定ながら、そこには国民との交流・対話があることを感じさせる。
その感動的な情景を見ながら、やはり日本のことを考えてしまう。この国では最高裁判事は、いつの間にか、どこからか任命され、決まってしまう。任命に際して、国民の前での法曹としての見識の開陳など一切ないのだ。固定した枠内で退職者などが出れば、ただそれを埋めるだけである。ほとんど天下りの場と化しているといってもよい。
建前の上では、最高裁判所の裁判官は、識見の高い、法律の素養のある年齢40年以上の者の中から任命することとされ、最高裁判所裁判官は、下級裁判所の判事、弁護士、大学教授、行政官・外交官から「バランスよく就任するよう配慮される」とされており、前任者と同じ出身母体から指名されることが多い。
そこには国民との対話などまったくなく、存在する距離感は絶望的に大きい。国民裁判員制度がスタートしたが、制度が国民の心の中にしっかり根を下ろすには、最高裁判事の任命の実態ひとつを見ても、あまりに深い溝があることを感じないわけにはゆかない。
これは最高裁に限らず、この国のかたちを再考しなければならない重要な証拠のひとつだと思いました。
コメント有り難うございます。
ご指摘のように、政治の惨状、魂の入っていない制度、メディアに翻弄される国民感情など、この国のかたちは心配ですね。これ以上、先をみたくないと思うほど。
仮に日本に公聴会の指名承認プロセスを入れたとしても、それだけではとてもという思いがしています。