「べにはこべ」? この名を聞いて、あっと思われた方はどれだけおられるだろうか。最近なにげなく開いた出版目録で、バロネス・オルツィ(村岡花子訳)『べにはこべ』(河出文庫)の書名を見て、大変懐かしく思った。早速入手し、読み始めたところ、やはり他のことは目に入らなくなった。面白さに引き込まれ、その日のうちに読んでしまった。この文庫版「あとがき」に、訳者の村岡花子氏がやはり一晩で読了されたと記されているが、少年時代に母親の書棚にあった本書を読み、その後も二度、三度と読んだ記憶がよみがえってきた。どちらかといえば、男性向けの冒険、スリル1杯の作品だが、ラヴ・ロマンスも巧みに折込まれ,読者層は少年から大人までかなり幅広いと思われる。
知る人少ないこの花の名前
数人の若い世代に、「べに(紅)はこべ」(英:Scarlet Pimpernel,仏:Le Mouron Rouge)を知っていますかと尋ねたが、残念ながら、だれも知らなかった。中には「はこべ」は知っていますがという人もあったが、今の時代、「はこべ」がいかなるものであるかを知る人も少ないのだ。ちなみに「はこべ」繁縷はナデシコ科の越年草で、春の七草のひとつだ。例のごとく、多少のいたずら心も働いて、フランス語の先生に本書のタイトルをご存知か尋ねてみたが、オルッイが東欧系の名であることはすぐに分かったが、本書のことはご存じなかった。日本を含め、27カ国ともいわれる多数の国で出版されたのだが、フランス人には心の底に残るなにかがあるかもしれない。しかし、フランス語版も刊行され、かなりの人気を集めた。
さて、イギリス人の秘密グループの名前は、この可憐な野の花「べにはこべ」からとられており、オルッイが細部にも心を配っていることが知られる。
謎のグループ「べにはこべ」
話の舞台は、1792年、フランス革命のまっただ中のフランスとドーヴァー海峡を介在して対するイギリスだ。国内の革命に加えて、オーストリアとの戦争状態にもあったフランスでは、貴族や聖職者で、オーストリアに密通しているとの嫌疑だけで、毎日多くの人たちが捕らえられ、ギロチン(断頭台)へ送られていた。その中で義侠心に駆られたのか、捕らえられた貴族たちを救い出し、イギリスへ亡命させる「べにはこべ」の名で知られた謎の一団がいた。かれらはいったい何者なのか。
大変良く考えられたプロットで読者をあきさせない。グローバル化が進み、両国を結ぶ列車まである今日でもフランス人とイギリス人の間には、微妙な対立感、競争心が残っているようだ。原題 The Scarlet Pimpernel は、1905年、小説の刊行よりも舞台での上演が早かったようだが、世界的なベストセラーとなった。イギリスでの上演回数だけでも2000回を越えたとされ、記録的な興行成績を残した。後先になった出版は大成功を収め、フランス、イタリア、ドイツ、スペイン、日本など16以上の言語に翻訳された。日本でも村岡訳意外に数人の訳者による刊行がなされ、アメリカ、イギリスでの映画化、TVドラマ、ミュージカル化、2008年、2010年には宝塚歌劇団による上演もなされたようだ。 管理人はTVドラマを見たような記憶はあるが、ひたすら強く印象に残るのは、波瀾万丈の最初の小説『べにはこべ』だ。村岡花子訳であったことはほぼ間違いないのだが(朝のドラマ化で一躍有名になった村岡花子だが、『赤毛のアン』は私にはあまり面白くなかった)。
著者バロネス・エンマ・オルッイ(1685ー1947)は,ハンガリー生まれだが、両親が農民戦争を怖れてブダペスト、ブラッセル、パリ、と転々とし、最終的にロンドンに落ち着いた。その間に蓄えた知識で本書を書き上げたのだが、作家としての才能があったことは、そのよく考えられたプロットからも伝わってくる。この『べにはこべ』は、その後シリーズとして書き続けられ、1940年に刊行された『マダム・ギロチン』まで続いた。管理人は大成功を収めた最初の作品しか読んだことはない。『べにはこべ』は、簡単にいえば、歴史小説風のメロドラマなのだが、ずっと以前からお互いに対抗心が強いイギリス人とフランス人の双方を巧みに登場させ、オルッイの好みである貴族の優越性とイギリスの帝国主義的底流を織り交ぜて描いている。フランスの貴族を救出するという筋立てで、フランス人の貴族意識も充足するというバランスがとられている。
フランス語版 Le Mouron Rouge 表紙
記憶の糸がほぐれて
明らかにチャールズ・ディケンズの『二都物語』が意識されており、弱きを救うという点で、後年のゾロやバットマン などへの影響も考え得る展開だ。それとともに、私は時代は革命前に遡るが、17世紀のフランス宗教戦争のほぼ終結となった1628年のラ・ロシェル攻囲戦を思い出していた。ロシェルに本拠を置いた改革派信徒ユグノーを降伏に追い込み、イギリスからユグノーの援軍に来ていたバッキンガム公を追い返した。戦争の埠頭に立つリシュリュー枢機卿の赤い戦闘服が記憶に甦る。
日本でも恐らく現在60歳代以上の方々なら、読まれていなくとも書名は記憶に残っているかもしれない。当時の表現でいえば、血も沸き肉躍り、ドーヴァー(英仏)海峡を越えたロマンスも色を添えた一大話題作であった。その後、複数の翻訳も刊行され、映画、宝塚歌劇団による上演まであったことを考えると、相当多数の方が、『べにはこべ』には、なんらかの親しみや記憶をとどめておられるはずと推測するのだが、その後周囲の反響をみると、多少心許なくなった。