『文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの』 (上)(下)
ジャレド・ダイアモンド、2005、『文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの』 (上)(下)、草思社
昨年8月にオーストラリアに仕事に行っていたとき、現地の友人たちが薦めていたのが原作の「Collapse」。移動中の空港の書店でもベストセラーのコーナーに並べられていた。すぐ翻訳が出ると思ったが、移動中や夜長の読書によいかと思い購入した。はじめの2章ほどを読んだころに帰国し、そのまま打っちゃっていたら、案の定12月には翻訳が出た。原典で注や索引も入れて575ページにもなる大部なのである(訳書は二分冊で、上巻437ページ下巻433ページである)が、原典出版と同じ年に翻訳がでると言うのは著者のダイアモンドならではのことだろうか。じつは、発売されてまもなく、購入したのだけれど、ようやく連休中に読むことができた。フッー!
オーストラリアの友人が薦めていたのはオーストラリアが重要な章になっているのがその理由のひとつで、現代オーストラリアの環境問題および資源の搾取が、現代文明社会における典型的な問題であり、本書の焦点の章でもあるからだ。この章のタイトルは、原典では「"Mining" Australia」で、訳書でも「マイニング」とカタカナで振られる「採掘」と「搾取」の文字が使い分けられている。この章の焦点は、再生不可能な「採掘」と言う事業、つまりは、地下資源は長時間かけて蓄積された地球科学的時間の成果を一瞬のうちに人間的時間において消却する行為であるのに対して、再生可能な資源を「搾取」する事業、つまりは、植物は一年で生育し、たとえ、数年の搾取を経たとしても復元の時間を置くことで再生の機会を与えることができるような事業に対して、過剰な搾取を継続することによって復元不可能な状況にしてしまうこと、こうした事柄が、この章の主要トピックである。
どちらも、ありがちなはなしではあるが、オーストラリアの鉱業と農業がまさにこの両者に当たるわけである。ただ、オーストラリアに関する章の最後には、民間の試みがイギリス的な環境幻想(つまりは本国の環境が新大陸において再現できると言ったもの)から脱却の道であると述べられて、本書第四部の解決編に向けられているのだが。
人間の行動は合理的であろうか。それぞれの地域が生き延びるためにその時点における最適判断を下すのなら、それなりの結果が出るかもしれないが、むしろ、感情の赴くまま、集団心理の赴くまま行動するのだとしたら、また、カリスマへの追従もその場しのぎのものなら、果たして地球全体の危機、いや、眼下の危機に対応できるのだろうか。地球全体の危機ではなく。もし合理的判断が可能なら、その時点での情報を集めて少なくともその時点における最適判断が下せるはずである。
しかし、著者は「這い進む常態」あるいは「風景健忘症」という言葉を提示する。つまりは、人間が認識できる時間経過は、徐々に景観が変化することではその大幅な危機は認識し得ないと言うのである。ここに、再び、「時間」とは何かを考えなければならない事態に陥る。つまり、時間は可逆的でもあり不可逆的でもある。その条件は厳しく、環境の変化は、両者を採りうるのだが、個人の生きる時間は短く、また、一個の社会の政策意図の継続は、さほど長く続くとも思えない。だとするとどのような事態が起こるのか。
たとえば、ゴルフ場の建設が一箇所ではなく数多くなされることによって、周辺環境が破壊されることになろうとするとき、開発する側人間は、合理的判断として、環境破壊につながるといって、これ以上の建設をやめることができるだろうか。おそらく、できない。このような思考が働く「自分が建設をやめようとも、ほかのだれかが建設をするかもしれない。とすれば、自分がやめてもやめなくとも状況に変わりはない。もし、そうならば自分が、開発して利益を得る・・・」まさに、コモンズの悲劇が生起する。所詮、そんなものなのではないか。
ダイアモンドは自らを「慎重な楽観主義者」と言う。「今ある危機」は小惑星が衝突すると言った今まで経験のない危機ではなく、これまでも経験した人類の危機であり、その意思さえあれば問題を解決することは可能だ。しかも、新しい技術を必要とするのではなく政治的な意思ひとつで事足りると言うのだ。また、企業には環境を保全することこそが利潤追求につながり、個人には日々の生活のなかに環境を意識させることができれば、おのずと環境保全はなされようと言う。果たしてそんなことが可能であろうか。
かれのいい方を借りるならば、わたしは「慎重な悲観主義者」かもしれない。わたしは、一人ひとりのの環境に対する行動やあるいは環境保護運動について、また、環境保全技術についてや一部の企業活動について、これらに対しては一定の評価を贈るものである。しかし、問題は、政治ではないか。著者の言う「トップダウン」、上位の政府が行う判断が果たして環境における危機を理解をした上で判断したかどうか、彼が挙げた事例からはわからないようにおもえる。徳川幕府の林政を事例に挙げているのだが、はたして、そうか。結果論だったのではないか。
実は、政治的な判断が合理的であったと言う経験は、ダイアモンドが言うほどははっきりしないのではないかと思う。むしろ、逆で、過去の経験にひきづられて適切なタイミングにおける判断が遅れたというのが歴史が語るところではないのだろうか。
著者が利用した文章そのもので、結末をまったく逆にもって行くことも可能なのではないか。それこそ、最大の危機とも言えるのではないだろうか。
昨年8月にオーストラリアに仕事に行っていたとき、現地の友人たちが薦めていたのが原作の「Collapse」。移動中の空港の書店でもベストセラーのコーナーに並べられていた。すぐ翻訳が出ると思ったが、移動中や夜長の読書によいかと思い購入した。はじめの2章ほどを読んだころに帰国し、そのまま打っちゃっていたら、案の定12月には翻訳が出た。原典で注や索引も入れて575ページにもなる大部なのである(訳書は二分冊で、上巻437ページ下巻433ページである)が、原典出版と同じ年に翻訳がでると言うのは著者のダイアモンドならではのことだろうか。じつは、発売されてまもなく、購入したのだけれど、ようやく連休中に読むことができた。フッー!
オーストラリアの友人が薦めていたのはオーストラリアが重要な章になっているのがその理由のひとつで、現代オーストラリアの環境問題および資源の搾取が、現代文明社会における典型的な問題であり、本書の焦点の章でもあるからだ。この章のタイトルは、原典では「"Mining" Australia」で、訳書でも「マイニング」とカタカナで振られる「採掘」と「搾取」の文字が使い分けられている。この章の焦点は、再生不可能な「採掘」と言う事業、つまりは、地下資源は長時間かけて蓄積された地球科学的時間の成果を一瞬のうちに人間的時間において消却する行為であるのに対して、再生可能な資源を「搾取」する事業、つまりは、植物は一年で生育し、たとえ、数年の搾取を経たとしても復元の時間を置くことで再生の機会を与えることができるような事業に対して、過剰な搾取を継続することによって復元不可能な状況にしてしまうこと、こうした事柄が、この章の主要トピックである。
どちらも、ありがちなはなしではあるが、オーストラリアの鉱業と農業がまさにこの両者に当たるわけである。ただ、オーストラリアに関する章の最後には、民間の試みがイギリス的な環境幻想(つまりは本国の環境が新大陸において再現できると言ったもの)から脱却の道であると述べられて、本書第四部の解決編に向けられているのだが。
人間の行動は合理的であろうか。それぞれの地域が生き延びるためにその時点における最適判断を下すのなら、それなりの結果が出るかもしれないが、むしろ、感情の赴くまま、集団心理の赴くまま行動するのだとしたら、また、カリスマへの追従もその場しのぎのものなら、果たして地球全体の危機、いや、眼下の危機に対応できるのだろうか。地球全体の危機ではなく。もし合理的判断が可能なら、その時点での情報を集めて少なくともその時点における最適判断が下せるはずである。
しかし、著者は「這い進む常態」あるいは「風景健忘症」という言葉を提示する。つまりは、人間が認識できる時間経過は、徐々に景観が変化することではその大幅な危機は認識し得ないと言うのである。ここに、再び、「時間」とは何かを考えなければならない事態に陥る。つまり、時間は可逆的でもあり不可逆的でもある。その条件は厳しく、環境の変化は、両者を採りうるのだが、個人の生きる時間は短く、また、一個の社会の政策意図の継続は、さほど長く続くとも思えない。だとするとどのような事態が起こるのか。
たとえば、ゴルフ場の建設が一箇所ではなく数多くなされることによって、周辺環境が破壊されることになろうとするとき、開発する側人間は、合理的判断として、環境破壊につながるといって、これ以上の建設をやめることができるだろうか。おそらく、できない。このような思考が働く「自分が建設をやめようとも、ほかのだれかが建設をするかもしれない。とすれば、自分がやめてもやめなくとも状況に変わりはない。もし、そうならば自分が、開発して利益を得る・・・」まさに、コモンズの悲劇が生起する。所詮、そんなものなのではないか。
ダイアモンドは自らを「慎重な楽観主義者」と言う。「今ある危機」は小惑星が衝突すると言った今まで経験のない危機ではなく、これまでも経験した人類の危機であり、その意思さえあれば問題を解決することは可能だ。しかも、新しい技術を必要とするのではなく政治的な意思ひとつで事足りると言うのだ。また、企業には環境を保全することこそが利潤追求につながり、個人には日々の生活のなかに環境を意識させることができれば、おのずと環境保全はなされようと言う。果たしてそんなことが可能であろうか。
かれのいい方を借りるならば、わたしは「慎重な悲観主義者」かもしれない。わたしは、一人ひとりのの環境に対する行動やあるいは環境保護運動について、また、環境保全技術についてや一部の企業活動について、これらに対しては一定の評価を贈るものである。しかし、問題は、政治ではないか。著者の言う「トップダウン」、上位の政府が行う判断が果たして環境における危機を理解をした上で判断したかどうか、彼が挙げた事例からはわからないようにおもえる。徳川幕府の林政を事例に挙げているのだが、はたして、そうか。結果論だったのではないか。
実は、政治的な判断が合理的であったと言う経験は、ダイアモンドが言うほどははっきりしないのではないかと思う。むしろ、逆で、過去の経験にひきづられて適切なタイミングにおける判断が遅れたというのが歴史が語るところではないのだろうか。
著者が利用した文章そのもので、結末をまったく逆にもって行くことも可能なのではないか。それこそ、最大の危機とも言えるのではないだろうか。
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