South Is. Alps
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Coromandel
Coromandel, NZ
Square Kauri
Square Kauri, NZ
Lake Griffin
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『文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの』 (上)(下)

ジャレド・ダイアモンド、2005、『文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの』 (上)(下)、草思社

昨年8月にオーストラリアに仕事に行っていたとき、現地の友人たちが薦めていたのが原作の「Collapse」。移動中の空港の書店でもベストセラーのコーナーに並べられていた。すぐ翻訳が出ると思ったが、移動中や夜長の読書によいかと思い購入した。はじめの2章ほどを読んだころに帰国し、そのまま打っちゃっていたら、案の定12月には翻訳が出た。原典で注や索引も入れて575ページにもなる大部なのである(訳書は二分冊で、上巻437ページ下巻433ページである)が、原典出版と同じ年に翻訳がでると言うのは著者のダイアモンドならではのことだろうか。じつは、発売されてまもなく、購入したのだけれど、ようやく連休中に読むことができた。フッー!

オーストラリアの友人が薦めていたのはオーストラリアが重要な章になっているのがその理由のひとつで、現代オーストラリアの環境問題および資源の搾取が、現代文明社会における典型的な問題であり、本書の焦点の章でもあるからだ。この章のタイトルは、原典では「"Mining" Australia」で、訳書でも「マイニング」とカタカナで振られる「採掘」と「搾取」の文字が使い分けられている。この章の焦点は、再生不可能な「採掘」と言う事業、つまりは、地下資源は長時間かけて蓄積された地球科学的時間の成果を一瞬のうちに人間的時間において消却する行為であるのに対して、再生可能な資源を「搾取」する事業、つまりは、植物は一年で生育し、たとえ、数年の搾取を経たとしても復元の時間を置くことで再生の機会を与えることができるような事業に対して、過剰な搾取を継続することによって復元不可能な状況にしてしまうこと、こうした事柄が、この章の主要トピックである。
どちらも、ありがちなはなしではあるが、オーストラリアの鉱業と農業がまさにこの両者に当たるわけである。ただ、オーストラリアに関する章の最後には、民間の試みがイギリス的な環境幻想(つまりは本国の環境が新大陸において再現できると言ったもの)から脱却の道であると述べられて、本書第四部の解決編に向けられているのだが。

人間の行動は合理的であろうか。それぞれの地域が生き延びるためにその時点における最適判断を下すのなら、それなりの結果が出るかもしれないが、むしろ、感情の赴くまま、集団心理の赴くまま行動するのだとしたら、また、カリスマへの追従もその場しのぎのものなら、果たして地球全体の危機、いや、眼下の危機に対応できるのだろうか。地球全体の危機ではなく。もし合理的判断が可能なら、その時点での情報を集めて少なくともその時点における最適判断が下せるはずである。

しかし、著者は「這い進む常態」あるいは「風景健忘症」という言葉を提示する。つまりは、人間が認識できる時間経過は、徐々に景観が変化することではその大幅な危機は認識し得ないと言うのである。ここに、再び、「時間」とは何かを考えなければならない事態に陥る。つまり、時間は可逆的でもあり不可逆的でもある。その条件は厳しく、環境の変化は、両者を採りうるのだが、個人の生きる時間は短く、また、一個の社会の政策意図の継続は、さほど長く続くとも思えない。だとするとどのような事態が起こるのか。

たとえば、ゴルフ場の建設が一箇所ではなく数多くなされることによって、周辺環境が破壊されることになろうとするとき、開発する側人間は、合理的判断として、環境破壊につながるといって、これ以上の建設をやめることができるだろうか。おそらく、できない。このような思考が働く「自分が建設をやめようとも、ほかのだれかが建設をするかもしれない。とすれば、自分がやめてもやめなくとも状況に変わりはない。もし、そうならば自分が、開発して利益を得る・・・」まさに、コモンズの悲劇が生起する。所詮、そんなものなのではないか。

ダイアモンドは自らを「慎重な楽観主義者」と言う。「今ある危機」は小惑星が衝突すると言った今まで経験のない危機ではなく、これまでも経験した人類の危機であり、その意思さえあれば問題を解決することは可能だ。しかも、新しい技術を必要とするのではなく政治的な意思ひとつで事足りると言うのだ。また、企業には環境を保全することこそが利潤追求につながり、個人には日々の生活のなかに環境を意識させることができれば、おのずと環境保全はなされようと言う。果たしてそんなことが可能であろうか。

かれのいい方を借りるならば、わたしは「慎重な悲観主義者」かもしれない。わたしは、一人ひとりのの環境に対する行動やあるいは環境保護運動について、また、環境保全技術についてや一部の企業活動について、これらに対しては一定の評価を贈るものである。しかし、問題は、政治ではないか。著者の言う「トップダウン」、上位の政府が行う判断が果たして環境における危機を理解をした上で判断したかどうか、彼が挙げた事例からはわからないようにおもえる。徳川幕府の林政を事例に挙げているのだが、はたして、そうか。結果論だったのではないか。
実は、政治的な判断が合理的であったと言う経験は、ダイアモンドが言うほどははっきりしないのではないかと思う。むしろ、逆で、過去の経験にひきづられて適切なタイミングにおける判断が遅れたというのが歴史が語るところではないのだろうか。

著者が利用した文章そのもので、結末をまったく逆にもって行くことも可能なのではないか。それこそ、最大の危機とも言えるのではないだろうか。

文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの (上)

草思社

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文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの (下)

草思社

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Collapse: How Societies Choose to Fail or Succeed

Penguin USA (P)

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2006-05-07 21:50:31 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


セロリとイカの炒め物、グリーンアスパラとホタテ貝柱の炒め物

セロリとイカの炒め物(セロリを斜め薄切り、刺身用のイカの薄切り。イカを塩コショウ市片栗粉をまぶせておく。中華なべでゴマ油を熱しにんにくとショウガ、赤唐辛子小口切りを炒め香りだしをして、セロリを入れる。塩コショウ、紹興酒を入れて炒める)
グリーンアスパラとホタテ貝柱の炒め物(グリーンアスパラガスを削ぎ切り、ホタテ貝柱を四分、塩コショウして片栗粉をまぶしておく。中華なべでゴマ油を熱しにんにくとショウガ、赤唐辛子小口切りを炒め香りだしをして、アスパラを入れる。塩コショウ、紹興酒を入れて炒める)

2006-05-07 19:29:31 | 夕食・自宅 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


豚しゃぶ

豚しゃぶ(昆布だし。キクラゲを戻しておく。鍋の材料としては、豚三枚肉薄切り、豚ロース肉薄切り、水菜、豆腐、そして、キクラゲ。ゴマだれに一味唐辛子を入れて)

2006-05-06 21:08:59 | 夕食・自宅 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『重耳』(上)(中)(下)

宮城谷昌光、1996、『重耳』(上)(中)(下)、講談社文庫

中国春秋時代の五覇のひとつ、晋の文公・重耳の生涯を描いたのが本書。春秋戦国の時代は漢字による記録や歴史書の記述スタイルが確定しようとする最初期の時代を描く。春秋の時代は、現代中国の萌芽期とも言える時代でもないか。殷周の神聖王権の時代、都市国家の時代から、人間のカリスマを前提とする覇王、領域国家への時代、また、青銅器から鉄器へ、思想的にも諸子百家が生まれる最初期であった。その意味で、生産様式から政治倫理、生活倫理、さらには、戦術戦略など後の中国史の萌芽の時代であったと言えるだろう。
著者の宮城谷の作品はこれまで読んだことはない。実を言うと著者にはあまり関心がなかった。読後もこれから読み続ける気持ちもあまりない。しかし、関心を持ちつつ読んだのは、覇王である晋の文公となる重耳、放浪の公子の19年を支え続けた直臣や陪臣たち。人間的な魅力だけではなく、彼に付き従えば政治経済的にも報われるという確信を持ちうる人物。それは、どんなものであったのか。
中国4000年とは言うものの、文書に残るものとしては、現時点では春秋の時代が現代中国にもつながるさまざまな要件の誕生した時代であったと言うことができるだろう。その意味でも、その時期を踏まえて新しい時代の覇王というカリスマについて描いていると言う点で興味深かった。流浪の生活の中でも淡々とすごす重耳、それを盛り上げようとする家臣たち。また、さまざまな行動倫理が形作られる。そうした時代、一人の英雄ではなく家臣や人民によっていだかれる「信」がカリスマを生み出したようである。

重耳〈上〉

講談社

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重耳〈中〉

講談社

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重耳〈下〉

講談社

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2006-05-05 23:54:23 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


池下「浅野屋」

午後、東山公園の星が丘門から入って東公園山門にぬけ、本山まで歩いた。星が丘門から入ってすぐのところでも、携帯電話の電波がとどかないし、森深い感じがあり、なかなかのもの。動物園の方ではなく、植物園の方から入る方がお薦め。といいつつ、動物園の方ではキンシコウの生態観察を楽しんだ。東山公園は結構奥深いのだ。
夕食は、例によって池下「浅野屋」。昨夜は大変だったそうだが、連休半ばは、来客パターンの予想がつかないとか。また、浅野屋の奥さんのお薦めは、植物園を巻くように作られている一万歩コースとか。
イタリア製生ハム、ホワイトアスパラガスと野菜の温製サラダ、おろしトンカツ、若鶏から揚げ。

2006-05-05 19:16:18 | 夕食・外食 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


栄ラシック・「胡同文華」

栄ラシック8Fの「胡同文華」で夕食。
カジキマグロのカルパッチョ、水菜と干絲のサラダ、北京ダック、羊と葱のフェンネルシード炒め、四川風黒担々麺、白きくらげと果物のコンポート、杏仁豆腐。

http://www.kiwa-group.co.jp/restaurant/o100270.html

2006-05-04 21:07:15 | 夕食・外食 | コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )


『グーグル』、『ザ・サーチ』、『ウェブ進化論』

佐々木俊尚、2006、『グーグル:既存のビジネスを破壊する』、文春文庫
ジョン・バッテル、2005、『ザ・サーチ:グーグルが世界を変えた』、日経BP社
梅田望夫、2006、『ウェブ進化論:本当の大変化はこれから始まる』、ちくま新書

昨年後半ごろから、ネット上でかまびすしく議論されていた「Web2.0」や「こちら側」と「あちら側」、「ロングテール」といったキーワードが気になっていて、この三冊を一度に俎上に上げてみようと思った。じつは、別のブログでは『ウェブ進化論』は買わないし読まないと書いているのだが、『グーグル』を読んでみて、気が変わった。頓珍漢なことになるかもしれないが、ともかくも、はじめることにしようか。

わたしは、グーグルを愛用している。Google search だけでなく、gmailを使っているし、desktop、Adsense、maps、local、reader、calendar、Earth、Picasa、Writelyなどなど、グーグルが買収したものも含めて、相当なグーグル・フェチであることを自認している。英語モードにしていると新しい試みがどんどん出されてくることがあって、楽しい。しかし、同時に怖いと思うことがいくつもある。

もっとも、ぞっとしたのは、gmailで、メールをあけるとメールの文面の中に書かれている言葉をキーワードとして広告が現れ始めたときだ。だからといって、使うのをやめたわけではなく、むしろ逆かもしれない。むしろ面白がっていると言う感じかもしれない。出てきた広告のリンクを手繰ったこともある。じかし、実のところこれは検閲マシンとして機能しうるわけである。gmailを通過するメールはすべて、グーグル様の検閲を通っていることと同義であり、グーグル様がマシンではなく恣意的な人間がかかわるとしたら、いや、マシンであってもすでにグーグル様のスクリーンを作成したエンジニア(共同創始者のペイジとブリン)の思想が入っているわけであるから、すでに検閲されていると言ってもよかろう。

つぎに怖いと思ったのが、desktopである。私は、オフィスではMacintoshを使用し、モバイルでWindowsを使っている。MacOSX Tigerで実装されているspotlightは重宝している。作成した文書が多くなってくるとフォルダにうまく収めて分類したつもりでも、だんだん錯綜してきて見失うこともなくはない。そうしたときにspotlightはまさに、手元に明かりをともしてくれる便利な道具である。Google DesktopはそのWindows版であると言うのが最初の理解だった。ところが、設定によってはdesktopの情報をネットを通じて共有することができるのである。とたんに不安になった。
desktopをとりあえず信頼するとしても、Winnyではないが、ウィルスが介在した場合、一挙にデータが流出し、そのことにまったく気がつかないと言ったことにもなりかねない。もちろん、spotlightについても例外ではないのだが、なぜdesktopの方に疑念を持ったかと言うと、グーグルのそれは基本的にはネットの検索技術そのものをスタンドアローン化したものではないかと思い当たったからで、ネットとの壁が極端に薄いのである。これが怖い。

グーグルのサービスにZeitGaistがある。どのようなキーワードが検索されたのか時期別国別の統計である。ネーミングがにくいのだが、グーグル様はなんでもお見通しで、時々の「時代精神」を垣間見せてくれる。これは、キーワードを集計しただけだというが、きめ細かにしていくことによって強烈なマーケッティングマシンになるはずである。
関連して、わたしはAdSenseやアマゾンのアフィリエートに登録しているが、もちろん、稼ぎが出るわけではない。アクセス数を上げるような特別の努力をしていないから、ランダムに近いクリックはアクセス数に単純に比例するはずである。もしクリック数を稼ごうと思うと、まずは、ページアクセス数を向上させることである。このためにはキーワードを工夫することが必要であろう。私のそれは、はんぶんあそびだから、真剣ではないのだけれど、「ロングテール」に存在するカスタマーをねらうネットビジネスからすると、グーグル様の裁量はスモールネットビジネスの生殺与奪権を持っている。

三冊の本はそれぞれ著者のカラーが出ていると思う。単純化しすぎるかもしれないが、それぞれのバッグラウンドを見ておこう。
1961年生まれの佐々木は早稲田の政経を出て新聞社の事件記者をへて、退社後IT関係の取材を続けている。彼の立場はグーグル礼賛ではなく、どちらかとアンチ・ユートピアの視点からグーグルを見ているようにみえる。そして、具体的な事例はとても興味深く、足で稼ぐ事件記者の本領発揮といったところである。
著書における記述内容から推察すると、1950年代後半生まれのバッテルは文化人類学を学び、文化としての情報科学技術、そして、検索と言う視点をもって本書を書いた。かつて、コンピュータ関係のWired誌の創刊等にかかわり、現在は客員としてカリフォルニア大学バークレー校のジャーナリズムを教えている。バッテルは検索技術の展開に焦点を当ててグーグルを取り上げ、グーグル礼賛でもなく批判でもなくニュートラルにグーグルの展開を検索技術の現代的意味について分析している。
1961年生まれの梅田は慶応や東大の情報科学の出身でIT関係のコンサルタントや企業のアドバイザーを勤める。ブロガーとしても、ブログ・ジャーナリズムをリードする。先の二人とは違い一転、楽観的なウェブ観である。情報科学技術やそれにかかわる人間に対する基本的な信頼感に基づいている。本書の中で、梅田一流の世代観を書いているのだが、自らをMSのゲイツと同世代と位置づけ「こちら側」世代、ゲイツと18年違いのペイジとブリンを「あちら側」世代、今の中学生をさらに次の世代と位置づけ、非常に楽観的な単系「進化論」(本書のタイトルからしてそうである)で情報科学技術の展開を捕らえようとする。

2006年、すでにジョージ・オーウェルの「1984年」は20年以上も前になってしまったのだが、オーウェルの著書で書かれた監視社会はグーグルの誕生でかなりリアリティが出てきたのではないだろうか。
この作品では、人々は「ビッグ・ブラザー」に常に監視されていて、自由はない。この作品はスターリニズムを意識しつつ、アンチ・ユートピアとしての未来社会を描いたもので、人々は常に双方向テレビによって監視されている。グーグル様をビッグ・ブラザーと当てはめることは容易と言うか、ちょっと安易過ぎる気もするが、オーウェルの記した1984年以降に暮らしてているわれわれとしては、安閑としてはおれないのではないか。

また、映画「ミッション・インポッシブル」では、虹彩をつかってID識別をし、個別の広告やセキュリティ確認、所在確認が行われる。この映画を見たときも、寒気がした。生体識別の技術的背景はすでに整っているのである。あとは、こうした個別の技術をオンラインにしてサーチエンジンに接続することである。

若いころ(わたしは、1951年生まれ)文系と理系を含めて参加するいわば「異業種混合」研究会に参加していたことがある(1980年代後半)。その研究会は、それぞれの研究実践を領域外の人たちにわかってもらうように発表するという趣向で行われていた。そして、参加者が京都の宿で二泊三日の合宿をして語り明かすというものだった。最初の年か二年目から参加し、数年続けたと思う。
この研究会で学んだことは、理系の人たちの仕事の面白さを知る喜びに共感すると同時に「それって、やり続けていいの」としか言いようのない奇妙な不安である。もともとこの「異業種研究会」の趣向の意図は理系の方から持ち出されたもので、彼らが感じる「研究の進め方について、これでいいのか、文系からもう少し学べないか」といった研究倫理についての危機感から始まっていたと記憶している。
たとえば、ディスカッションの中で遺伝子操作にかかわる研究倫理に話が及んだときに、生化学の研究者は、こういう言い方をした。「研究を進めるにつれ恐ろしく思うことがある。しかし、それはラボを離れて、家に帰って子供を見たときのことで、翌日、ラボのドアを開けたとたんに、自分が発見しなければ、きっと誰かが発見すると考え、それだったら自分が見つけ出すのだと、かえって研究を進めるドライブになる」と言うのである。

梅田はグーグルが「ベスト・アンド・ブライテスト」の技術集団としてヤフーと比較しているが、技術的楽観主義だけでは統治の道具に使われること必定である。実際にグーグル様は中国では見事に検閲マシンとしての役割を請け負ってしまった。
また、ブログ・ジャーナリズムについても、楽観できない。普及率が格段に上がっているとはいえ、ごく一部がアクセスするメディアであるネットにおける意見集約や衆論は偏っていないと言う保障はない。
同時代的に展開するネットワーク社会についてどのような視点を取るのか、改めて読み取っていく必要があるのではないだろうか。しかし、監視社会のパンドラの箱はすでに開いていて、いまさらと言えばいまさらだが、技術者の楽観主義も怖い。

battellemedia.com:http://battellemedia.com/thesearch/
ジョージ・オーウェル「1984年」:Wikipedeia

My Life Between Silicon Valley and Japan:「グーグルをどう語るか」を巡って:http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20060422/p1
たけくまメモ:【文春】Google(暗黒?)特集:http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_638f.html

グーグル:既存のビジネスを破壊する

文春文庫

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ザ・サーチ グーグルが世界を変えた

日経BP社

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ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる

筑摩書房

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1984年

早川書房

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2006-05-04 13:22:18 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


ヴィエナーシュニッツェル

ヴィエナーシュニッツェル(まあ、ビフカツです。赤身の多いステーキ肉を使う。包丁の背でたたいて伸ばす。塩コショウ、ミックスハーブを振りかけておく。生パン粉、溶き全卵をからめ、サラダオイルで揚げる。クレソンをのせ、食べるときにレモンを絞りかけて)
サラダ菜とトマトのサラダ
昨夜家人のドギー、Pizza Eastのクアトロ・フロマッジョを暖めなおしたもの

2006-05-03 20:45:17 | 夕食・自宅 | コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )


NHK「偉大なる旅人・鄭和」

中国明代の航海者・鄭和を描くNHKの番組、「偉大なる旅人・鄭和」(2月1日にBSで放映していたらしい)。鄭和は開放中国のニュー・アイデンティティであると言う。2005年がどうも鄭和生誕600年であったようだ。
コロンブス以前に世界周航したとも言う鄭和艦隊やその旗艦の「宝船」についてこのブログや別に書いているブログでも何度か触れている。

NHK特番:http://www3.nhk.or.jp/omoban/main0503.html#20060503002

「鄭和 偉大なる旅人」 陳凱歌(チェン・カイコー):http://d.hatena.ne.jp/tougyou/20060125

チャイナネット:鄭和の宝船の大きさはコロンブス旗艦の約百倍:http://www.china.org.cn/japanese/182401.htm
チャイナネット:南京市の「宝船廠遺跡公園」:http://www.china.cn/japanese/183279.htm
伝承文明 走向世界 和平発展:http://www.frelax.com/sc/review/html/7/CCWM147347c1.html

Sig's Diary:1421年あるいは1418年:http://d.hatena.ne.jp/maning/20060117/1137477523
Sig's Diary:宝船:http://d.hatena.ne.jp/maning/20060104/1136818325

2006-05-03 20:17:24 | Weblog | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『臆病者のための株入門』

橘玲、2006、『臆病者のための株入門』、文春新書

株を買った経験はない。くわえて、いまひとつ株式投資について理解が及ばないところがある。しかし、阪急HDによる阪神電鉄の買収や村上ファンドによる取締役更迭提案といった株式がらみのニュースには興味がある。ま、それやこれやの好奇心がこの本を読ませたと言うことである。
著者の薦める「トーシロ投資法」は、「トレーディング」「個別株長期投資」「インデックス投資」の組み合わせ提案である。組み合わせの割合を個人の性向、つまりは、資産の大きさ、年齢、ギャンブル性向かどうか、そのほかの好み、あるいは人生観も含むかも、これらにあわせて三種の投資法を按分してはどうかと言うのが結論である。本書ではこれら三つの投資法についての利得や歴史、理論などを要約して解説していて、よく理解できた。とりわけ興味深かったのは、ノーベル経済学賞受賞の金融経済学者の学説の紹介からインデックス投資(国内のみならず世界市場インデックスもふくむ)の仕組みを開設した部分であった。ちなみに、現在著者は投資をしていないそうで、また、彼の投資方法はお薦めの「トーシロ投資法」ではなかったようである。
著者によると「先物・オプションは人類が発明した最高のギャンブル」だそうだ。あわせて金融リテラシー(儲け話に簡単に引っかからない知識や金融の仕組みについての概念的理解)の薦めを肝に銘じておこうか。

ついでながら、昨年末、Excelにデータを入れながら読んだ金融市場を予測すると言う「ブラック-ショールズ理論」を理解しようと読んだ二冊の本をあわせて、紹介しておこう。
私の金融に関する理解?、そんなに時間をかけてまで金融市場に首を突っ込む時間的余裕も、資金的余裕もありません。

臆病者のための株入門

文藝春秋

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Excelで学ぶ金融市場予測の科学 ブラック-ショールズ理論完全制覇

講談社

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Excelで学ぶ金融市場予測の科学―市場を動かす中心金融定理とは何か

講談社

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2006-05-03 16:05:21 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


名駅「バル・エスパーニャ」

日曜日に星が丘テラスでばったり出会った若夫婦と約束して来たのが名駅の「バル・エスパーニャ」。まえから、話には聞いていて、一度来ようと思っていた。二人も以前に来たがあいにく定休日だったことがあったそうだ。主人によると、イタリア料理の次はスペイン料理とか。名古屋ではイタリアンがかなり増えてきているが、スパニッシュはまだまだ少ない。数少ないところをまず行こうと言うことになったのだが・・・。
この店は、スペイン風のタパス料理とパエリヤなどを出し、スペイン産ワインを品揃えしている。たこの酢漬け、さばの酢漬け、マッシュルームを焼いたもの、イカ墨煮込み、マグロのトマト煮込み、生ハムなどを肴にリオハの赤ワインを二本あけた。味はそれなりだけれど、飛び切りではない。また、ギャルソンが4-5人もいるけれど、気が利かず、よく間違えて料理を運ぶ、そして、料理がなかなか出てこないし、ワインもどこかの酒屋まで買いに行くほどの時間もかかる、というわけであまりお勧めではない。

10時過ぎまでわいわいとしゃべりあかし、タクシーではしごしたのが、広小路葵の交差点を南西に少し入ったところにあるワインバーの「La Fete」(フレンチの「壺中天」の2Fにある姉妹店)に行った。ワインのショット売りがメインのようで(もちろんボトル売りもあるだろうが)、一杯千円ぐらいで結構お得。どんな感じのワインが飲みたいかソムリエにつげると、何本か出してきて説明をしてくれる。チーズもなかなかおいしかった。

スペイン居酒屋 BAR ESPAÑA バル・エスパーニャ
名古屋市中村区名駅3-9-18 シバタビルB1F TEL:052-582-6488 

壺中天:http://www.ganet.gr.jp/shop_frame.asp?shop_id=001150
壺中天&La Fete
名古屋市中区新栄1-6-28
052-259-2708

夜中過ぎに帰宅したので、これを書いたのは日曜の昼。でも、記録としては、日付を戻しておくことにする。

2006-05-02 23:55:39 | 夕食・パーティなど | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


豚しょうが焼き

豚しょうが焼き(オリーブオイルをしき、豚肉を焼く。にらともやしを加えていためる。用意した、ショウガすりおろし、濃い口しょうゆ、日本酒、唐辛子粉をあわせたものを加えて、水分を飛ばしてしあげる)
アサリと青海苔の味噌汁(アサリを水からにて、貝の口が開きかけたところで火を止めて八丁味噌と白味噌を加える。生青海苔を入れる)

2006-05-01 21:36:27 | 夕食・自宅 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


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