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積極的に姑息であれ

2013年10月05日 | 読書
 『お前なんかもう死んでいる』(有吉弘行  双葉文庫)

 いわゆるタレント本である。興味ない分野だが、どこか気になるところがあって買い求めた。数年前からテレビバラエティに出る頻度がずいぶん高い。独特の毒舌は、今までのどのタレントとも違うような気がして、妙に笑いを誘う。猿岩石時代の人気絶頂期、凋落していく時期、そして今。彼の中では一貫している。


 その一貫性は何かと言えば「姑息」だ。大半がいわゆる貧乏自慢といっていい内容だが、現在ある程度の収入があるから振り返って書いているというニュアンスではないのだ。人と金との関係を結構シビアに語っている。貯金を食い潰していく過程における金額の目安とか人とのつきあい方、姑息であることの実録だ。


 本の中には一度しか出てこない、この「姑息」という言葉。妙に気になってきた。「姑」とは「しゅうとめ」の意味が一般的だが、広辞苑には「とりあえず、一時」という意もある。漢和を調べると「そのまま」という意味も載っている。「息」は「呼吸」であるから「生きる」につながる。姑息は「そのまま生きる」だ。


 「一時の間に合わせ・その場のがれ」という以上に、何か卑怯なイメージがついてまわる言葉だ。きっと日本人の好きな前進、計画性、正直等々に比べられて、そういう立場に置かれたのだと思う。しかし言うなれば、現状維持、または被害を最低限にくい止めたい防御…そんな気持ちを今の世の中、誰が非難できる。


 強くあれ、明るくあれの方向は認めるが、必ず存在する陰の部分からは目を離せない。だから、「その場のがれ」と言われてもいい。「一時しのぎ」と非難されてもいい。その姿を自分で意識しつつ「そのまま生きる」ことは悪くはないと思う。もはや生きる知恵というより信念と呼んでもいい。積極的に姑息であれ。