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駅から駅へと口走る

2013年10月04日 | 雑記帳
 『駅 STATION』という映画があった。高倉健主演、倉本聡脚本、降旗康男監督という強力ラインナップの北海道コテコテ?の作品だ。観た記憶はありわずかな断片も覚えてはいるが、「駅」の使われ方には全くピンとくる所がない。STATIONの英語表記に訳があるだろう。場所とか位置とかという広義の意味か。


 竹内まりやの名曲『駅』は、単純に言うと昔の恋人を駅で見かけたという話だが、これには「駅」が人々の行きかう場所、さらに起点、中継点、終点といった比喩がイメージされると思う。また移りゆく存在としては人間に対比されて、そこにいつもある動かないものの象徴とも読みとれる。「駅」は深い言葉だ。


 高校2年生までは電車通学だった。交通上の通過点であるしそれ以上に人が集まる役割を持つから、いろいろな感情が渦巻く場であったと思う。地方の鉄道が徐々に姿を消していくのはやむを得ない。しかしそういう場の消失によって失われていくものをどう移行させるのか。「道の駅」では荷が重くないか。



 さて「道の駅」は行政主導で始められ,なかなか的を射たネーミングだと思う。ただ便乗表現が目に余る。「町の駅」や「街の駅」はわかる。「花の駅」これも公園ぽいので許せる。「山の駅」や「川の駅」も想像はできる。しかし先日見かけた「石の駅」…えっ,ただの石材店である。「墓の駅」でないだけましか。


 あるかもしれない「菓子の駅」「酒の駅」「米の駅」…「駅」という語には,ここで降りるんだよ,寄っててね,という連想が働くので,つけやすいのだろう。専門店のイメージには良く合う。そのうちに「心の駅」とか「喜びの駅」とか宗教じみたものも出てくるか。欲しいのは「俺の駅」なんだ,と突然終着駅。