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言葉はズルくないのだ

2013年10月08日 | 読書
 『ズルい言葉』(酒井順子  ハルキ文庫)

 この本は、文中にある言葉を借りると「言葉が慣用句と化した瞬間」を鮮やかに切り取って見せている。また、その理由を考察しながら日本人の特性について述べている。なかなかの内容である。

 と書いた「なかなか」も取り上げられている。
 結構使っているかもしれない。
 著者には失礼だけれど、「なかなか」は新明解によると「予期していた以上で、軽視しがたい」ということだ。
 従って、この「なかなか」の程度は評する者のレベルによって差が出てくるわけだ。
 私ごときの「なかなか」では程度が知れるか。


 「一定の」という表現にもメスが入れられている。
 そういえば「一定の成果」などという使い方は、教育界でも見られるではないか。
 「十分ではないがそれなりの成果」という意味は、実に使いまわしがいいのかもしれない。
 ところがよく考えてみると、「十分ではない」ということの幅はあまりに広すぎるのではないか。極端にいえば、1から99まで該当している。
 となると、実は何も言っていないことに限りなく近いとも言える。
 なぜ、この表現が政治の場で多いかは考えるまでもないだろう。


 そうだよなあ、と思ったのがスポーツ選手の多用する「次につなげる」。
 競技で勝っても負けても出てくる表現だ。
 競技者としては基本と言えば基本だし、だからこそあえて語る必要はないのかもしれない。
ただ例えば日本代表がかつて持っていた責任感、悲愴感によってネガティブになるよりは、ポジティブに言い切った方がいいということだろう。
 従って、この常套句を使う前の言葉が、一流のアスリートであるかどうかを見極めるポイントであることは、多くの人が知っているとおりである。


 「ママ」という章に、小さい子供が自分のことを「ハルちゃん喉がかわいた」のように名前そのもので呼ぶことも取り上げられている。
 小学生でも低学年では数多く見られる例だ。
 自分への呼称をそのまま使っているのは幼さの証拠だと単純に考え、あまり気にも留めなかったが、著者はこんなふうに述べている。

 日本では最も小さな子供であっても、自分のことを「自分」であるとは考えずに、役割として認識しているということではないかという気がするのです。

 役割とは、つまり家族内での役割ということ。
 愛すべき存在としての子や孫の名前があり、その呼称自体が自分の役割だと感じていれば、それに伴う扱い方によっていろいろな要素が強く刷り込まれていくのかもしれない。
 その要素の中には社会化や集団化と相容れないものは必ず存在する。
 まず、家族内における呼び名から脱することが自立の一歩か。


 当たり前のことだが、決して「言葉」はズルくはない。
 ズルいのは、それを使う人間の方だし、無限に慣用句を作り、そして消し去っていく私たちの関係づくりの気持ちそのものだ。