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「たまゆら」の自信喪失

2013年11月07日 | 読書
 「たまゆら」という言葉は知ってはいたが、使ったときはないなあ。ちょっとばかり短歌などを作った頃も、そうした語彙を取り入れる素養はなかった。新潮社『波』の連載「俳句と短歌の待ち合わせ」は今月号のお題が「たまゆら」。使いこなせたら格好いいという不純な理由を持ちながら、俳人・歌人の文を読む。


 穂村弘の歌は「百葉箱の闇に張られし一筋の金なる髪を思うたまゆら」。小学校の頃の百葉箱の記憶と、最近調べたことの合致から「フランス女性の金髪」に触発されたイメージだ。そこに「たまゆら」を使う必然性はありやなしや。「瞬間」「束の間」では平凡か、直線的か。語感や意味の幅が違いをもたらすのか。


 一方の堀本裕樹が自作解説の文章に「『たまゆらの命』というが、たまゆらが何を修飾するかで、たまゆらの意味する「一瞬」の振幅も変化する」と書く。ううむ。その説でいえば、穂村の使っているたまゆらは名詞でありながら、自分の感覚を修飾しているようだし、そこに「玉響」の音や「露」のイメージがわく。


 堀本の句は「たまゆらの世やたまゆらのとろろ飯」。発熱、通院、検査待ち、帰宅、食事という一連の流れが込められている。「リフレインでその振幅の差異が表せたか」と解説している。「とろろ飯」という季語が絶妙で、「たまゆら」や「世」との対照性を引き出しているように感じる。耳に残る句となった。



 「たまゆら」を調べ直して面白いのは「日本語大シソーラス」。類語として六つの語が出てくる。「動じ易い」「変わり易い」「続かない」「瞬時」「アンリアル」「薄明かり」これらの結合的な意味を持つと解釈できるだろう。泡沫(うたかた)とも似ているが、美しい儚さとでも言うべきか。使う自信が失せてきた。