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桜と絵本と豆乳と

生々しく生き抜く人

2013年11月17日 | 読書
 『悩むことはない』(金子兜太 文春文庫)

 著者の本は以前にも読んでいるはずだ。俳句集ではなかったと思うが,内容は覚えていない。この本は,難解な句とは対照的にシンプルな人生観が淡々と書かれてある。そういうものかもしれない。身がすっきりしているからこそ,心に創造が生まれる。「自分自身が俳句である」と言い切ってきた九十四歳である。


 糞尿や屁,性器の話題などが頻繁に出てくる。当たり前だが奇を衒っているわけではない。「私の場合は,生々しいということがまことに大事な,そう,評価基準と言ってもいい」と書いている。それは句の評価であり,人間の評価であり,社会の評価でもあるという。生々しさを隠そうとする現在の行方を想う。


 「即物」と「対物」という言葉が出てきた。実に興味深い。「物に即する」とはいったいどういうことか。著者は「本当に物に即するには,抱き合わなきゃだめ,離れていたんじゃだめ」と書く。そこに理解,信頼,愛情が生まれる。反して「対物」は,と考えたときには自分の利益ということが頭をもたげてくる。


 対物思想,対物姿勢は役に立つことを求めてきて,それが自然科学の発展に寄与したことは言うまでもない。しかし,その過度な進行が人間を苦しめている。また人間を危機に陥らせているとはいえないか。日本人を含む東洋的な考えには「即物」的な要素がずいぶん多いはずだ。身近なふるまいを見直す原点でもある。


 この著の最後は「汝,糞尿を愛せよ」。実に本質的である。数多の動物の姿を想像するとよい。糸井重里は生き物の排泄行為を見ることをこう書く。「小さいほう、大きいほうをしているところは、無防備で、自然で、なんだか『禅』の無我のようなものさえ思わせてくれます」。著者は毎日「立禅」をしているという。