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通り直しのできぬ道にいる我ら

2013年11月10日 | 読書
 『内田樹による内田樹』(内田樹  140B)

 自作自註の本ということである。
 取り上げられた書籍は11冊。6冊は読んでいる。
 しかし、読んでいない本を扱った章を、わからないまま読み進めても、しっくりと入ってくる文章があるから不思議だ。

 きっと、まえがきに記されているこのことがすべてを表わしているのではないかと思う。
 そして、この考えは今の自分にとって、本当に重く感じている。

 人間がほんとうに言いたいことは「書かれたこと」じゃなくて「書き方」に出ると思っている

 愚にもつかない事柄だけれど、これだけ毎日この場所で続けていれば、自分の「書き方」はある程度わかる。
 そして、文体とか癖以上に、自分にとっては続けるということが「書き方」の大きな要素ではないかと思っている。
 取り上げる題材や挙げる場を含めて、それが「書き方」と言えるのではないか。

 だから「ほんとうに言いたいこと」をずばりと言え、と問い詰められれば口ごもってしまうが、なんとなくだらだらと続けているその姿まるごとなのかなあ(かなり気障ですが)と考えてしまう。


 さて、自註本といいながらこの書も刺激的な知見に溢れていた。

 他者を自分のひとつの「変容態」だと考えること。

 我が家の家訓(笑)の一つに「人(他者)は変わらない」ということがある。
 だから自分が変わるしかないという前向きとも諦めともとれる結論に落ち着くわけだが、著者のこの言葉に触れると、そんなやりとりしていることはとても奥深いものに思えてくる。

 他者を変わらない存在と見ている要点の中に自分を見出しているのではないか。
 例えば,批判したり毛嫌いしたりしている部分は自分にも認められることではないか。

 そういう内面的な部分はもちろん,幼児から老人までの姿そのものが「過去の私」であり「未来の私」であるという認識と言えるだろう。
 こういう共同幻想がなくなりつつあることも確かであろう。

 最近あまり言われなくなったが、こんな言葉を覚えている。

 「子供叱るな来た道だもの 年寄り笑うな行く道だもの」

 検索してみたら,この言葉に続きがあることを知った。

 「来た道行く道二人旅 これから通る今日の道 通り直しのできぬ道」

 思わず合掌したくなる。

 自分の「通り直しのできぬ道」はどこへ向かっているのか。
 誰かの甘い言葉に騙されて、とんでもない場所へ連れていかれようとしているのではないか。

 そんな警告の書とも言える本である。