すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

古希の教え子が読む弔辞

2013年11月22日 | 雑記帳
 先日,お世話になった方の葬儀に参列した。
 闘病の末にお亡くなりになったが,やすらかな最後だったと聞き,少しは安堵した。

 葬儀での弔辞に心が揺れた。
 確か定年前にお辞めになったはずだが,教え子たちとの交流は長く続いていたようだ。
 読み上げた教え子代表のご婦人は,来年古希を迎えるという。
 その同級生たちが後ろの席に控えていた。

 運動が苦手で運動会が嫌だった子に,「嫌でも,できるだけ頑張るように」と励ましたという。
 そして「運動が駄目だったら,他のことで一等になれ」と声をかけたという。
 このシンプルさは,今の学校でも変わらない教えだとは思うが,受け止める心の温度の落差は,誰しもが感ずることだろう。

 「先生の言葉を人生の糧として」と書かれた電文も読み上げられた。
 こんなふうに思ってくれる人が一人でも存在するということは,まさに生の証しそのものではないか。
 教職という仕事の素晴らしさ,可能性を想わずにはいられない。

 自分もその端くれながら,そんな言葉を心に保ってくれている子などいるものだろうか。
 同級会などに招かれ,嬉しい言葉をもらう時もあるにはあるが,その濃密さについては自分自身がよく知っている。

 いや,こういう言い方はむしろ不遜だ。
 善きにしろ悪しきにしろ,教職にある者の言葉の重みに対する自覚が足りない。
 私達の現場がそういう空間である事実そのものは,時代が変わろうと揺らぐものではないだろう。

 良き教師はきっと,自らの葬儀においても人に何かを教えてくれる存在である。
 ぼんやりそんなことを思う。
 合掌。