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皿はブタの棺桶という正しさ

2013年11月13日 | 読書
 『「正しい」とは何か?』(武田邦彦  小学館)


 「正」という名前は以前結構ポピュラーだった。新任のときに受け持った児童にもいた。
 今でも「正」が入っている名前は珍しくないだろう。それだけ日本人には愛着のある字だと思う。
 それはその意味のシンプルさも一つの理由だ。

 ただ「正しさ」の意味はずいぶんと拡散されてきて、こんな言い方も目立つようになった。自分もしているかもしれないな。

 「正しさは人の数だけあるんだよ」

 確かにそれは真理かもしれない。
 そして大変ものわかりのいいような言辞にも聞こえる。
 しかし、一つ深く考えれば、その一言は何を根拠にしているか。その言い方で何かが解決できるのか。
 そんな観点で問えば、言っている人間の底が透けて見えるかもしれない。


 武田教授が示す「正しさ」の解釈は実に論理的である。

 まず、正しさには「利己的な正しさ」と「利他的な正しさ」がある。

 利己的な正しさとは自己中心的であり、ヨーロッパの学問に基づく詭弁から発している。
 利他的な正しさには四つの基準がある。
 神(宗教)、偉人(道徳)、相手(倫理)、法律である。

 日本社会の特徴として「空気的事実を元にした、間違った正しさ」や「慣性力などの物理的法則に基づく正しさ」がある。
 これらに加えて「専門家」や「科学者」による正しさもあると言う。

 さらには上司と部下、監督と選手の間にある正しさは「仮の正しさ」と分類されている。


 これらを頭に入れながら、現在の世相や仕事上の問題を考えると、また納得できるものがある。

 利己的正しさは、例えば「商売の正義・売り手の正しさ」に結びついている。
 それらは「自らが有利になる正義」が必要で「社会としての整合性」をとるために正当化する論理の中で育てられてきた。
 ぞろぞろ出てきた偽装問題のことを思わずにはいられない。

 学校の中の教師と子どもの関係、また職員間の関係も「仮の正しさ」つまり「役割の重視」で成り立っているという視点も新鮮だ。
 それは、今少し崩れかかっている教師や親や学校、地域社会等の真っ当な役割とは何かを見直す大きな力になるような気がする。
 別の「空気的事実」に惑わされている現実も見えてくる。


 発想の転換ということで、一番興味深いエピソードが「おわりに」に載っていた。
 多摩美術大学でデザインの講座「ものの見方」を講義している武田教授が、学生に出した課題「ブタの生姜焼き定食の皿のデザイン」のアドバイスが面白い。

 「食べられるブタの身になってデザインしてください。皿は、いわばブタの棺桶なんです。」

 ちょっと頬の緩む表現ではあるが、正しさにとって一番大事なこと「心で動く」ことの本質的な例なのだと感じた。