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詩は教えられるか,と。

2013年11月08日 | 教育ノート
 詩論を展開しようというわけではない。作詩の指導を頼まれ、授業をしてみて感ずるのは、当然のことながら「詩情」は教えられるものではないということだ。シートにある「詩を書こう」という文字を見て、下学年の子が「詩って何ですか」と問いかけるのは当たり前。ゆえに提示できるのは「詩形」が主になる。


 身近なことでの「おやっ」という驚きや発見、そういう心の動きに詩の種はあるだろうから、そんな活動を例えば生活科や他の教科などでやっておくことが下地になると言えるだろう。具体的には、やはり集材からやっていくのが自然だ。担任時代を振り返っても、日記の中から見つけてくるのがきわめて自然だ。


 今回は単発の一斉指導で何ができるか。結局は「詩形」(の一部)を教えながら「詩情」の可能性を持つ題材にアプローチしてみることか。頭に浮かんだのは「お気に入り」「自分の名前」「にらめっこ」「スプーン」だった。日常的な事柄を改めて見つめるパターンと、具体的な働きかけをもとに書くパターンか。


 「お気に入り」について書くことは説明文でよくある。ただ「詩はいかに対象を誉められるか」という師の教えがあり、その意味で取りつきやすいと考えた。従って多様な視点を持って誉められればいい…が、低学年では難しかった。「自分の名前」も同様で、言葉の重層性に気づく段階についての見通しが甘かった。


 「にらめっこ」と「スプーン(で顔を見る)」は、動きがあったこともあり、楽しく終えられた。繰り返す言葉を一緒に考えたりしながら、ふだんはじっくり見ることのない姿を時間をかけて見つめ、言葉に表していく。強制?された活動とはいえ、笑いや驚きの声を織り交ぜながら書き込んでいくのもなかなかいい。



 さて、詩は教えられるものか。問いのたて方が大袈裟で大雑把なことはわかっている。おそらくこう問われれば、多くの人はNOだろう。その後になぜならと続け、どう答えるか。その返答に妥当性はあるのか。予想すれば難しい。それならYESと応えて、ただし詩の○○と○○と○○ね、と続ける方が愉快である。