『学校へ行く意味・休む意味 ~不登校ってなんだろう?』(滝川一廣 日本図書センター)
先月中頃に野中信行先生のブログで紹介のあった本である。
自分にとっては「学び直し」の一冊となった。
「不登校」を題に掲げてはいるが、実はこの本は学校教育そのものをトータルに論じているといってもよい。
2章から8章までの教育・学校にかかわる歴史的な経緯は、自分もかつてどこかの講義をうけたものに違いないだろうが、すっかり削げ落ちてしまっている知識もあったりして、新鮮な気持ちで読み入ることができた。
今、私たちが直面している問題の必然性が、ひしひしと伝わってくるし、マニュアル的な打開策が示されているわけではないけれど、その向き合い方に教えられることは多い。
この著の中で後半繰り返し使われる「学校の聖性」。
現在勤務している者は「聖性」などと誰も口にはしないだろうが、それに支えられている意識が実は私達の内部にまだあって、日常会話の中にもそれを感じることがある。
教員と保護者に何かしらの軋轢があった場合、常にどこかにその意識が顔をのぞかせる気がする。
それは、失われつつある聖性や権威を感じつつも、その現実にきちんと向き合えていない証拠であろう。
だから決着はいつも表層で留まっている。
生活のなかで子どもがであうさまざまな事情が、どんなに小さなありふれた事情であれ、学校へ向かう足をたやすくひっぱるほど、子どもたちにとって「学校へ行く意味」が不確かになっている
著者の指摘するこの現実は重い。
そして、学校の「外側の社会のあり方」に問題があることは確かだが、そこを動かすことが私達の仕事ではない。
関わらなければいけない日常はあるにしても、やはり根本は次のことへの視線を揺るぎなく持ち、子どもが「学校へ行く意味」を強くすることでしかない。
知識とはともにするもの、分かちあうものという共同感覚を、体感的に根づかせてくれるのが学校の教室なのです。
さて、この著は題名どおりに「不登校」について、私自身の歩み(というほどのものではないが)を振り返させられる内容でもあった。後日、考えてみたい。
先月中頃に野中信行先生のブログで紹介のあった本である。
自分にとっては「学び直し」の一冊となった。
「不登校」を題に掲げてはいるが、実はこの本は学校教育そのものをトータルに論じているといってもよい。
2章から8章までの教育・学校にかかわる歴史的な経緯は、自分もかつてどこかの講義をうけたものに違いないだろうが、すっかり削げ落ちてしまっている知識もあったりして、新鮮な気持ちで読み入ることができた。
今、私たちが直面している問題の必然性が、ひしひしと伝わってくるし、マニュアル的な打開策が示されているわけではないけれど、その向き合い方に教えられることは多い。
この著の中で後半繰り返し使われる「学校の聖性」。
現在勤務している者は「聖性」などと誰も口にはしないだろうが、それに支えられている意識が実は私達の内部にまだあって、日常会話の中にもそれを感じることがある。
教員と保護者に何かしらの軋轢があった場合、常にどこかにその意識が顔をのぞかせる気がする。
それは、失われつつある聖性や権威を感じつつも、その現実にきちんと向き合えていない証拠であろう。
だから決着はいつも表層で留まっている。
生活のなかで子どもがであうさまざまな事情が、どんなに小さなありふれた事情であれ、学校へ向かう足をたやすくひっぱるほど、子どもたちにとって「学校へ行く意味」が不確かになっている
著者の指摘するこの現実は重い。
そして、学校の「外側の社会のあり方」に問題があることは確かだが、そこを動かすことが私達の仕事ではない。
関わらなければいけない日常はあるにしても、やはり根本は次のことへの視線を揺るぎなく持ち、子どもが「学校へ行く意味」を強くすることでしかない。
知識とはともにするもの、分かちあうものという共同感覚を、体感的に根づかせてくれるのが学校の教室なのです。
さて、この著は題名どおりに「不登校」について、私自身の歩み(というほどのものではないが)を振り返させられる内容でもあった。後日、考えてみたい。