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階層の指標化づくりに目をこらす

2013年11月12日 | 読書
 もう少し『内田樹による内田樹』(内田樹  140B)を。

 レヴィナスについて語られた部分も結構面白く読めたが,やはり『街場の…』シリーズや『日本辺境論』の部分は,刺激的な文章にあふれていた。
 例えばこの文章だ。

 カントの「ルーティンの固執」は「驚く能力」の開発のためのレッスンだったのではないか

 脳の活性化のためふだんとは違うことをやってみよう!などという言い方は巷にあふれている本や雑誌によく書かれていて、素直で単純な私などはすぐ鵜呑みにしてしまう。
 しかし、実はそんな発想は薄っぺらで浅いだけだろっと宣言されたような気分だ。

 カントのような偉人との比較ではない。
 つまり、毎日の集中と継続は何のためにあるのかという目的論なのである。
 自分のようにそこに正対できない者は、いろいろな言い方に振り回されて、何にも驚くことができないでいる。


 また、自然科学と人文・社会科学の比較から、ポパーという学者の科学性の定義を紹介し次のように書いていることは、大いに納得できた。

 科学性を醸成するのは「地域性の自覚」と「共同作業への備え」ということに尽くされる

 これは教育という仕事に携わる私達もよくよく考えるべきことではないか。
 教育の目的に向かって、どのように進んでいくかと考えたとき、この二つの要素こそ決定的なのではないか。

 それなのに、今直面している現実は疑問を持たざるを得ない。
 休日の朝の報道番組は教育特集であった。どこぞの市長は「保護者のニーズを」と盛んに口にしているが、その行く先はどこに結びついているのか。

 地域差、階層差の中で子どもたちの意欲格差が進んでいると言われるなかで、教育が政治の道具のように使われている気がしてならない。
 結果的に、グローバル化へ向っての階層の指標化づくりを進めていると言っても過言ではない。


 著者が『下流志向』に関わって書いた次の表現は、いろいろと取り込まれていく教育内容、例えば英語やキャリアや道徳などと関わっている。
 その全体像と個別の実施を注意深く見ることで、せめてその進行にささやかに抗いたい。

 「社会的流動性」という新しい指標による差別が固定化した社会