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やせ我慢の人の語り

2013年11月19日 | 読書
 『始末に困る人』(藤原正彦 文春文庫)

 『始末に困る人』の一般的なイメージは良くないだろう。連想すれば「扱いにくい人」「トラブルメーカー」的か。藤原正彦氏が「出でよ、『始末に困る人』」と待ち焦がれるは、この国のリーダー。けして逆説的な話ではない。わずか数年のうちに何度も替わる首相でいいのか、と誰もが持つ思いなのである。


 かの西郷何州がこう言ったと書いてある。「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」。それにしてもこの国は、そういう人の足を引っ張り、潰しにかかるのがとても得意なようだ。これは「宿痾」のようだ。


 宿痾(しゅくあ)は「長い間治らない病気」という意味だ。著者は「民族の宿痾」として、対外的には相手を諌めるより、自らを相手に合わせ波風を起こさない体質に触れている。そして内部では共通理解の名のもとに、出る杭を打つ。抜本的な体質改善には時間を要するが、治療は急務だ。まず自分がメスをもつ気で。


 さて、この文庫にまとめられたエッセイは、東日本大震災をはさんで連載された。非常時に日本を代表する学者、エッセイストが何をどう書いたかは、貴重な資料となるだろう。本人が「動揺」と認めるように、いくぶんその様相はある。しかしその動揺の中で「花見へ出よう」と呼びかけたことに著者の矜持をみる。


 藤原氏の文章の面白みは、例えば奥方への表現によく表れている。自身を品格豊かに描くのと対照的に、皮肉交じりにこきおろす。ただ奥方にも藤原家の内部事情を記した著があり、単純に氏の表現を受け取る読者はいまい。ユーモアと呼んでいい文章、著者自ら墓穴をこう掘った。「ユーモアとはやせ我慢なのだ