すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

人には見せない表現が一流を作る

2014年11月10日 | 読書
 「2014読了」121冊目 ★★

 『マネる技術』(コロッケ  講談社+α新書)


 この「講談社+α新書」にはテーマ分類があることを初めて気づいた。

 Aこころ Bからだ Cあたま Dゆとり


 コロッケのこの著書は,さあどれでしょう。

 Dかな,それともBかなと思ったら,Cだった。

 「技術」だからそうなのかもしれない。
 しかし,少しふりかえるとこの4つ全てにつながっているような気もする。

 著者は,自分のものまねのキーワードに『延長』という言葉を挙げていて,それはものまね好きな子ども心の延長線上にあるという解釈のようだ。
 しかし,私がここを読み,思いついたことは,多角形の延長線ということだった。

 誰しもが思うように,コロッケの芸は「誇張」「デフォルメ」の世界だろう。
 その出上がり方に,延長線という発想があるのではないかと思った。

 つまり,ある人物を構成する多角形のある一辺を延長していく,その延長線上に何かを見出している。
 それがロボットであったり,牛であったり,別の人物であったりする。
 その発想や思考に,彼独特の才能があり,また努力もある。

 第一章にある「『シャッター式』観察法」は,おそらくその一辺を決める作業である。

 そして第二章で書く「洞察力が比喩力を高める」で,その「訓練」の実際が示されている。人間観察の妙が書かれていて楽しい。


 コロッケが「ものまね」という演芸分野を強く推し進めた先駆者であることは,誰も否定できないだろう。
 どんな世界でも切り開いていく人には一流の考え方が備わっているものだ。

 慎ましやかに書いてはいるが,「人には見せない表現」として,人知れず彼が実行していることを読み,なるほどと感じた。
 その中身は書かないが,その精神はこうだと記している文章を紹介したい。

 続けていくことで,ものごとに対する姿勢や自分の心持ちは変化します。

 
 自分だけが見ている世界でやっていることの重さは,一流の人ほど持ち合わせているような気がする。

意志の力を働かせて上る

2014年11月09日 | 読書
 「2014読了」120冊目 ★★

 『下りのなかで上りを生きる』(鎌田 實  ポプラ新書)


 ちょっと滅入った会議の後に立ち寄った書店で買い求めた。
 この本で使われる「下り」は範囲が広いので、こういう場合、つまり自分の望むような方向になかなか進まない会議などにも当てはまるようだ。

 誰しもうまくいかないときがあり、そのときをどう過ごすかが人間にとっては一つの分かれ目だとは思う。理不尽だと思うことに対して、なにくそと歯向かったり、へへんと背を向けたりする齢ではないが、捨てきれない感情は結構くすぶっている。

 そのときに思い出したい。
 著者が引いた哲学者アランの言葉だ。

 「悲観主義は感情で、楽観主義は意志の力による」


 意志の力を働かせる…それが感情に流されないため、下りのなかで上りを見つけるための第一操作であろう。

 本のなかのエピソードは、著者らしく医療のことや震災、原発問題にわたることが主になっている。
 様々な人を紹介しながら、そこに自分も深く関わって「上り」に舵を向けている。ある意味、この国の代表的なリーダーの一人であると感じた。
 それは、こんなふうに言える精神性を持っているからではないだろうか。

 人間には、生き続けるための物語が必要だ。人間が生きる場には、すべて、アートっぼい物語があるといい。人生が少しおしゃれになる。


 今、「下り」を実感している人は確かに多い。
 マスコミ報道だけでなく、どんな会に出向いても、見通しの暗さだけが話題になり、全体的なトーンを鈍い色で覆っている感じがする。

 先日参加したある大会でも、休憩時に知り合いと「挨拶する人する人が、あんなこと(人口減、高齢化や少子化など)ばかり言って、何になる」と軽口を叩いた。

 そのことについてはわかっている、その中でこんなふうにしませんか、これもできるよ、と言ってみたい。

 こういう時代だからこそ、ニュース等でも話題になった村上春樹のインタビュー(毎日新聞)の後半部分は共感できた。
先行きの悲観視だけで何が生まれるというのか。


 この本で著者が一番に取り上げたことも「楽観力」である。
 政治や経済を握る人たちの言辞に対して注意深く視ることは必要だが、全て悲観的な見方につなげるのではなく、その時点でできる楽観視した展望を持っていないと,つぶれていく一方だ。

「男らしさ」は薄味志向

2014年11月08日 | 雑記帳
 年に数度はその特集に惹かれて買っている雑誌『ブルータス』。今回も、つい手を伸ばしてしまった。深い赤の表紙にバットマン?の顔写真、特集名は「男の定義」である。買わなきゃ男でないでしょ…いや、本物の男はそんなモノを見向きもしないよ…二つの思考のせめぎ合い、実はそのあたりに定義の難しさがある。


 まあ、内容は正直思ったほどの面白さはない。24人にアンケート取材があって、「憧れる3人」を挙げてもらっている。当然ばらつくわけであり、集計結果の1位は3票。高倉健である。映像系の方が多い面もあろうが、頷ける結果だ。結局のところ個人にとって「男」として憧れる姿が、定義と言えるのではないか。


 その結果解説には、「価値観は変化の過渡期にあるのかもしれない」ともっともらしいことを書いているが、とうにわかっていることだろう。それを煮詰めてみればどう言えるのか、を期待したのだが、無理だったか。辞書を引いてみた。広辞苑⑫「力強い・激しいなど、男に期待されるのと同類の特性」の項が気になる。


 明鏡はこうだ。「対になったもののうち、強い、激しい、険しいなどの性質をもつもの」…当然、「女」との対であるが、このイメージはかなり強い特性だ。しかし、ご存じの通り(笑)強さ、激しさは時代とともに、対になっている片方に移っているようで、「男らしさ」が意味を薄くしていることは言うまでもない。


 ボブ・ディランの唄に「I Shall Be Released」という有名な曲がある。日本人の多くが意訳詞でカバーしているが、その先駆けは大塚まさじである。そのタイトルは「男らしいってわかるかい」。どの程度原詩に近いかはわからない。髪を肩まで伸ばした時代(恥)に、ギターを抱えてステージ上で唄った記憶がある。


 その歌詞の一節「♪男らしいってわかるかい ピエロや臆病者のことさ♪」。時代を考えれば、その逆説的な言い回しが反体制の象徴だったか。そしてその頃から急激に「男らしさ」が揺さぶられた予測も成り立つ。揺さぶられずに生き方を貫いたのが、真の「男」だった。と、自分ももっともらしく書いて終わろう。

冬への構えをつくる週

2014年11月07日 | 雑記帳
 週末の立冬。冬の到来はまだ先だと思いたいが、空気に交じる冷たさは一歩一歩近づいていると感じる。連休明けの火曜日は風の強い朝だった。さすがに子どもたちの多くが防寒具を身につけて登校していた。玄関の花壇の片づけはいわば「冬支度」のスタートである。日差しが嬉しく感じるのはこの時期ならである。


 水曜日は国語の授業研があった。この時期、そして5年生と言えばまさに定番と言ってよい「大造じいさんとガン」。読み応えのある文章、豊富な先行実践…授業者の決意と選択が求められる。まとめとして「日記」を書かせる実践は、よくあるが、「大造日記」と呼び捨てるのはいかがなものかという意見に苦笑した。


 昨日に続いていい天気に恵まれた。クラブ活動の一つであるネイチャークラブが「焼き芋づくり」に取り組むという。打ち合わせで「実に、焼き芋日和ですねえ」と言ったら職員から笑いが漏れた。今日は多くの学級が外での観察活動等を取り入れていて嬉しい。焼き芋は炭化してしまったものもあったが美味だった。


 朝、いつものように外で子供たちを待っている時「いい影ができている」と思った。この影の長さも、今の時期ならではのことだ。改めてじっと見ていると、形だけではなく、濃い影、薄い影、そして輪郭がはっきりしているもの、ぼやけているもの…影の世界の多様さも感じる。こちらへアップ。何かが伝わってくる。


 退勤時に中学の同級生に用事があって立ち寄る。店内で立ち話をし帰ろうと思った矢先、開いていた玄関から素早い動きをする飛来物あり。「キャーッ、なんとかしてえ」と言われたので、ここは男らしく(笑)箒を手に追うがなかなか手強い。カーテンに停まった姿を見たらなんとコウモリ。5分間後、勝利を収めた。


  実は3日、文化の日を祝し(笑)満を持してツィッターを始めてみた。といっても登録した程度だが…。前々から考えてはいたし、『知ろうとすること』という本もきっかけとなった。関心のある人物、団体をフォローするだけでも受信情報は増えるが、ずいぶんと膨大な河であるし、溺れないようにして、冬を迎えたい。

微かに漏れ出してくる魅力

2014年11月06日 | 雑記帳
 先週久しぶりに劇場(言い方が古く思えるが)で映画を見た。『蜩ノ記』である。文庫本をこの春に読んでいて,そこでもわからなさについて記したが,映画を見ても,最初はあれっという感じで受け止めざるを得なかった。描き方が淡々としていて,心躍るといった観賞とはかけ離れた,ずっと静かな心持ちで見入った。


 江戸時代の中期,後期は,藤沢作品などでもよく描かれ,その雰囲気と似てはいるが,より落ち着いたつくりに思えた。それは物語を展開する脚色全体がそうだし,台詞はもちろん,一つ一つの所作に強く感じられた。感情を抑えた演技ということだろう。それが迫ってくるには,やはり一定の時間の経過が必要だ。


 余計な言葉がない,余計な仕草がない,余計な音もない…演出するためのカメラワークやバック音楽もきわめて控え目である。こういう手法はもちろん映画で珍しくはないが,その時代,つまり私達にとっては空想でしか描けない世界を,一本筋が通った見方で伝えようということか。時代の美意識といってもいいか。


 主人公役の役所広司は当然ながら,相手役となる若い侍を岡田准一が好演している。「軍師官兵衛」に通ずる点もあり,ますます存在感が際立ってきた。ある雑誌記事で,こんなふうに語っている。「内面には大きな感情の塊がある。僕たち俳優は,そこから微かに漏れ出してくるものを表現する」まさに言い得ている。


 昨日の「念を生きる」に結び付く点があるかもしれない。心に入れる塊が,決意であれ悔恨であれ慕情であれ,それに蓋をする。背景や経過は個々に違うが,それを抱えて生きるのは,真に大事なものを愛おしむということだろう。そう想うと,現代人の多くはあまりに気持ちを溢れ出させていて,自分を軽くしている。

心に決めたことに蓋をして生きる

2014年11月05日 | 読書
 「2014読了」119冊目 ★★

 『一道を行く ~坂村真民の世界』(致知出版社)


 生誕100周年記念として平成21年に発刊されたものだ。
 月刊誌「致知」に、それまで載せられたインタビュー、同志や信奉者による対談、小伝記、そして自選詩集に対して森信三先生が寄せた序文が収録されている。

 何冊か詩や随想などが収められた著を持ってはいるが、真民さんの一生をトータルに追った記録は初めて見たような気がする。当然ここでも家族の深い慈愛が満ちた姿が確かめられた。

 森信三先生の書かれた序には、真民さんの評価が次のように記されている。

 坂村氏が中勘助、山村暮鳥、八木重吉というような、いわゆる「国民詩人」の流れに汲みつつ、しかも本質的には、それらの詩人の何れよりも偉大である


 真民さんが、いわゆる現代詩の詩人たちと一線を画していることは誰の目にも明らかであり、こうした評に接するとき、いったい「詩とは何か」と考えざるを得なくなってくる。

 真民さんの詩を考えるうえで、間違いなくキーワードになることばの一つに「念」があり、そのことを抜きに考えることはできないだろう。収められているインタビューのタイトルも「念に生きる」である。

 真民さんの使う「念」は、ふさわしい意味として「深く望むこと・深く思うこと(広辞苑③)」が挙げられるだろう。
 それを具体的に実践することが「念を生きる」ということである。

 インタビューのなかの言葉から拾ってみる。

 僕はいまも毎日零時零分に起きています。必ず長短針が重なる時に、私の体は目覚める。

 一回も休まないというのが、私の一つの生き方ですね。

 人間は一本の道を見つけて、それに向かって生き、それに向かって死ぬのだ



 「求道者」としか呼びようのない実践。

 それが詩を書き続ける原動力であろうし、対象が明確になっているからこそ、言葉に力が宿り、それが他の詩人たちとの大きな隔たりと思う。
 従って,真民さんの詩の本質は、次の言葉にある。

 僕は詩人になろうと思って詩を書いているんじゃないんです。(略)底辺の世界に住んでいる人たちのために詩を書く。偉くなろうと一つも思わんですよ。


 「今」という字はもともと「蓋」を表していた。

 こうと「心」に決めたことに、きつく蓋をするかのごとく、生き続ける姿を「念」と呼ぶのだろう。

「食育」という不易を想う

2014年11月04日 | 雑記帳
 ある知り合いと一人の男の子について会話した。「あの子を見ていると,昭和の子という感じがするねえ」と,私は単に容貌のことから言葉を発した。そしたら,そうそうと頷き,「あの子は,学校から家へ帰ったら,塩をつけたおにぎりを食べるそうだよ」と驚きの情報をくれる。なんだか,半世紀前の自分みたいだ。


 「スーパーの買い物に一緒に行っても,お菓子を買ってくれではなくて,カボチャなどを見て,あれが食べたい,買ってえ…というそうだ」と,また面白いことを教えてくれる。改めて人はなんと炭水化物を食べなくなっているのか,と,かなり以前から米消費量の落ちている我が家を恥じ入るばかりだ。誰のせいだ。


 いろんな見方はできるが,まずは食べない自分自身だ。しかし「米ほど美味いものはないなあ」と時々叫ぶし,その言葉に嘘はない。そう言いながらの消費量減。もう戻れない食生活習慣にどっぷりつかっていることは否めない。戯れに広言しているのは,「給食質素化プラン~米と味噌汁だけ」。誰も耳を貸さない。


 もちろん法律,歴史,現状…どれを取ってもそんなことが可能とは思わない。そう思うなら勝手に自分だけやれ,と言われそうだが,まあそれも無理。がんじがらめの世の中だ,と小さく嘆くばかりだ。結局,米を食っていないから馬力もないし意気地もない…と単純で身勝手な分析をしてみたりする。解決策なし。


 それにしても,その子はなぜ「昭和」に見えるのか,そしてそれが食生活にも関係がありそうなのは,まんざら偶然でもない気がする。ちょっと小太り,目は丸く見開かれている,自然に関心がある,少々のことに動じない…多少の推測も含めながら,そんなイメージが出来上がっている。「食育」という不易を想う。

人は,歩き方が全てだ

2014年11月03日 | 読書
 「2014読了」117冊目 ★★
 
 『リーダーという生き方』(佐々木常夫  WAVE出版)

 「2014読了」118冊目 ★★★
 『部下を定時に帰す仕事術』(佐々木常夫  WAVE出版)


 2冊とも,講演会の折に買い求めた直筆サイン入り本。しかも定価900円を500円で販売(おつりの手間省きとのこと),そして売り上げは全部寄付するという。それを「志」と呼ばずになんというか。偉い人は違う,と書いてふと「韋」という字が気になった。「なめしがわ」という意味だが,もともとはぐるりと巡って歩くことだそうだ。人は,歩き方が全てだ。


 前著に「『志』を旅せよ」という章がある。どんな意味か予想がつかなかった。読み感得したのは,まず「志」ありき。それがぶれない限り,どんな境遇,どんな条件に置かれても,人は旅をするように,その志に向かって歩けるのだ,ということ。土光敏夫,小倉昌男,栗林忠道…歴史に名を残すエピソードを取り上げながら,見事にリーダー論が展開されていた。


 後著は,講演内容とだいぶ重なっていた。「仕事術」と題されているが,それは小手先の工夫ではない。講演テーマの「ライフ・ワーク・バランス」もそうであったが,結局は「ライフ・ワーク・マネジメント」である。そして「マネジメント」とは何かと言えば,次の言葉に集約される。「タイムマネジメントの本質は『真に重要なものは何か』を探り当てること


 私たちがともすれば陥りそうな発想に警鐘を鳴らす文章がある。「『プアなイノベーション』より『優れたイミテーション』」。新し物好きの自分などは特に心したい。もちろんそれは単なる踏襲や模倣の推奨ではない。新しく命ぜられた務めの最初に約三週間の書庫整理作業を行い,重要度ランキングした著者が,明確に成果を上げている優れた仕事術なのである。

生き残りの小説

2014年11月02日 | 読書
 「2014読了」116冊目 ★★

 『となり町戦争』(三崎亜記  集英社)

 書名と表紙写真に惹かれて求めたものだ。なんとなくエンタメ系と感じたのかもしれない。もっと言えば往年の筒井康隆が書きそうな内容を予想した。出だしには若干そんな兆しもあり,「主任」は大きな鍵を握るはずだ,とか「香西さん」と主人公は結ばれるに違いないなどと,かなりミーハーな予測が勝手に思い浮かんでいた。ところが,どうしてどうして…。

 これは一種のミステリなのか。特定の犯人探しということではなく,「戦争」探しという意味で。「完全な比喩」としての戦争ではなく,日常へ戦争を入れ込む設定はわかりづらいゆえに,考えざるを得なくなっており…。終末の哀しさは複雑だ。その解釈は難しいが,実感が伴わなくとも,今も身の周りに「戦争」があることを認めざるを得ない,そんな読後感だ。


 「2014読了」117冊目 ★★★

 『終末のフール』(伊坂幸太郎  集英社)

 伊坂幸太郎を読み始めた5年前に一度読んでいる。3年後に小惑星が地球に衝突して「終末」を迎える設定は覚えていた。今,読み直してもエンタメ作品として非常に面白い。それと同時に,この連作のタイトルのつけ方が全部「〇〇の□―ル」であることに,漫才コンビ「ハライチ」のいわゆるノリボケのネタ元ではないか…とどうでもいいことが浮かんだ。

 惑星の衝突予告によって混乱した世界が,少し平穏さを取り戻した頃が舞台となっている。混乱で多くの人が死に,希望を失った状況にある。その中で登場する人物たちが何を考え,どう生きようとしているかを描いている。最終章の「深海のポール」にたどり着くまで,薄々と感じてはいたが,「生き残る意味」と言っていいだろうか。いや,それでは言葉が足りない。

 絶望して自虐的な行為により死んだ人,混乱に巻き込まれて亡くなった人,そして消息不明者…主人公たちは皆,それらを背負い生きている。それは生き残った者しかつかめない意味…陳腐ではあるが,また強い表現でもある「必死で生き残る」「みっともなくとも生きる」の具現である。人は,自分しか見えないと,楽になろうとか救われようとかしか考えない。

他者の行為によって生まれるじぶん

2014年11月01日 | 読書
 「2014読了」115冊目 ★★★

 『じぶん・この不思議な存在』(鷲田清一 講談現代新書)


 半分も理解できているだろうかと不安になりながらも,自分は案外こういう哲学的な言い回しが好きなんだなということを自覚した。

 「自分探し」というような言葉が流行って?から,もうずいぶんと時間が経つ。しかしその言葉を使わなくとも,自己の存在理由を求める姿はいつの時代も不変にある。
 若ければもちろん,年老いてもなお,ふっとよぎる存在への疑問のようなものを完全に消し去っている人は多くはないだろう。
 それゆえ,こうした類いの本に手が伸びるというべきか。

 この本の一つの結論,というより方向はこの一節だと思った。

 わたしは「なに」であるかと問うべきなのではなくて,むしろ,わたしは「だれ」か,つまりだれにとっての特定の他者でありえているかというふうに,問うべきなのだと。なにがリアルなシナリオであるかは,他者とのかかわりのなかでしか見えてこない。


 「他者とのかかわり」で言えば,この著を人間ドック診察の合間合間に開いていたのだが,この一節には,思わずニヤリとし,考えさせられてしまった。

 すべてをそつなく敏速にこなす看護婦さんの世話を受けるのと,注射を打ち損なったり,体温をはかるのを忘れたりするドジな看護婦さんの世話を受けるのでは,後者のほうが幸運なこともあるのである。

 乱暴な言い回しかもしれない。
 しかし,その看護婦さんの行為,いわば過ちや不注意に対する自分の不安や怒りなどがあることが「じぶんを他者にとって意味あるもの」にさせるのだと言う。
 意味ある存在としてのじぶんは,他者の行為によってしか生まれてこないと言い方には,はっとさせられた。

 またそれは,見方を変えれば「じぶんの重さ」を払うきっかけにはなるかもしれない。
 例えば,自殺に誘われる思考の多くは,じぶんの重さに耐えきれなくなってしまうのではないか。そう考えると,著者がこの著で繰り返し語っていることは,悩める者のいい処方箋ともいえる。


 「じぶんを複数にすること」と語っていることは,最近,平野啓一郎のいっている「分人主義」と共通している面がある。
 また,ピカソが自分の作品を贋作と判断したエピソードや,冒頭に語られる女子学生のテスト答案に隠された自他関係のパターンなど,興味深い箇所が多くあった。
 96年初版,もう三十数刷になっているのも頷ける,なかなかの新書だった。