すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

一泊5万円と保険料の無駄

2014年11月20日 | 雑記帳
 家族で「保険」の話題が出たので、その特集をしていたビジネス誌を買う。「マンガ図解」などと書いていたので自分向きかなと思ったが、やっぱり言葉は難しい。家人には「これからは、だんだんと死亡保障は高くつけなくともいいんだね」と言われた。そうかあ、自分の価値が下がっているのか。当然のことに驚く。


 日本人は保険好きだそうな。なんとなくわかる気がする。自分は多く加入している方ではないが、「万が一」の言葉に弱い。それゆえか「保険加入は、クジや賭けに似ています」という記事はインパクトが強かった。控除率は競馬並みだそうだ。そこでの結論は「特約はつけるな」。恐怖を増幅させるCMなどに負けるな。


 知識を得たけど面白いわけではないな、と保険は後日のことにして他の記事を読む。「数字の学校~仕事力増強3分間トレーニング」が面白い。「複眼力」というのは「75×16」を暗算で答えるときの、分解や統合の操作で鍛えられるという。複数の仕事の同時進行は、分解と統合の繰り返しなんだなと妙に納得した。


 都会で「昭和レトロな喫茶店」が続々と復活中という記事が出た。そういえば、同級会でも思い出話に喫茶店が挙がった。団塊世代から自分たちまでは、この風潮はわかる。資料によると「カフェの数は最盛期の半数以下」だが、積極的な開業もあるという。懐かしさだけではなく、そこに求めるものがあるということ。


 ビジネスキーマンにインタビューする連載は、あの有名な「加賀屋」の社長。旅行好き、温泉好きとしてはいつか泊ってみたい旅館ではある。しかしこのタイトルを見て考える。「なぜ『1泊5万円』を安いと感じるか」…誰の感じ方かは知らないが、その感覚と保険料の無駄を考える記事とのギャップはかなり大きい。

それが高倉健という男,まさに。

2014年11月19日 | 雑記帳
 高倉健死去のニュースを見たときは、さすがにえっと思った。熱烈なファンとは言えないが、この国の多くが敬愛の眼差しを向ける一人だったし、いくつか思い出す映画もある。今回の多くの報道で、中国がそのニュースに長い時間をかけたことは画期的だ。映画『君よ、憤怒の河を渡れ』のヒットだけではあるまい。


 私にとっては、2006年の『単騎、千里を走る』が心に残る。それは映画そのものより、撮影の様子を中心にNHKがドキュメンタリーで追った番組の印象が強い。確かブログに書いたはずだ、と調べたら、以前別ブログで書き散らしたのだった。幸い原稿化していた。2005年11月というから、映画封切の前である。


 それは高倉健が訪れた村の「長卓宴」について書き、脚本変更のシーンを見ながら、こう記した。「映画をつくる中国人スタッフは、制作途中で脚本変更を語り合う中で『日本人なら、必ずその子を捜そうとするはず』と強く主張し始める。それは、高倉健の姿の反映に過ぎない(略)」誠を心の中に宿している人なのだ。


 今月始めたツィッターで得た情報で、いいものを見つけたと思ったのは今度が初めてだ。水道橋博士のサイトに、作家丸山健二が書いた詩?が載っていた。かなり以前に書いたらしいが、それからも対象の彼は一つも揺らいでないことに驚く。そのタイトルは「それが高倉健という男ではないのか」。まさに、まさに。

月曜の折り込み広告みたいだ

2014年11月18日 | 雑記帳
 月曜日の新聞折り込みにパチンコ店が多いのは、日本全国どこでも一緒だろうか。少なくとも地方は似たりよったりかもしれない。それにしても、と思う。昨日は、折り込まれたチラシが5枚。全てパチンコである。他は一切なし。B店、P店、21店、G店、そしてD店。前者4店は「全日本遊戯事業協同組合連合会」


 4店には共通広告と言える次の「CAUTION」が付いている。「パチンコ・パチスロは適度に楽しむ遊びです」そして下部に「のめり込みに注意しましょう」。その日の夜、NHKクローズアップ現代で「ギャンブル依存症」が取り上げられたのは偶然なのか否か。今日本には、530万人を越える依存症の人がいるという。


 およそ20人に1人の割合というのは、結構な数ではないか。他の遊びのない地方ではやはりパチンコが主流だろうし、季節的に外での仕事が終わる今は、やはり店にとって稼ぎ時であり「患者」も増えるか。非難したり責めたりする柄ではないが、満杯の駐車場には、吸い取られていく地方の典型的な印象が漂う。


 ところで、これほど大義なき選挙も初めてではないか。選挙ではよく「信を問う」という言い方があるが、何なのか全く焦点化ができないのは自分だけか。まさか名前に引っ掛けて「信を問う」わけではあるまい。結局のところ、月曜の折り込み広告に踊る「新台入替」という名ばかりの客寄せと、何一つ変わりない。

誰かの言う「チーム〇〇」の危険さ

2014年11月17日 | 雑記帳
 「チーム〇〇」…響きのいい言葉だ。そこには日本人の好きな協力,協調,一体感などがあふれているようだ。これをチームの中の人員が,実感を持って使うのであれば納得はできるが,部外の人が使う場合はどうだろう。もちろん好評価の一つとしての表現はあろう。しかし実はかなり危険な要素も孕んでいないか。


 昔の学校では,よく「共同責任」「連帯責任」などと教師が言って,生徒にペナルティを課したり,解決策を話し合わせたりしたものだ。むろん今もその発想はある。この場合,そう言われて当事者たちが責任を実感するには,一定のプロセスが必要だ。チームの集まりには発端があるし,たどる経過も多様なはずだ。


 青臭い理想論をぶつわけではない。今チームとしてあるにはどんな考えが必要か,立ち止まって少し考えてみよう。現状は,情報化・多様化の中で,一律的な方法のようなもので縛りがちではないか。そうではなく,目的・目標に向かって,基本と応用発展のアプローチがあり,個が互いを認め合う姿勢に支えられる。


 そもそも「〇〇チーム」だけだったのが,「チーム〇〇」という呼び方になったのはいつからだったか。検索しても直接的に触れている記事は見つけられなかったが,もしかしたら「チームバチスタ」なのかな,と思った。「チームジャパン」や「チーム青森」はもっと後だった気がする。「バチスタ」であれば典型的だな。


 当然ながら,自己の役割においてプロフェショナルである,そして他者にアクシデントがあった時のフォローが優れていることだ。個が際立つことが何よりの条件であることは,小説やドラマだからだけではない。とかく「チーム〇〇」を強調したがる人は,成果至上主義に偏り,要素としての個を見ていない気がする。

「耳順う」境地で乗り切れ

2014年11月16日 | 雑記帳
 この一週間はずいぶん忙しく過ごした。感覚として通常の3倍くらいのイメージ。スタートの土日に何かあると心理的な負担感が残る。つまり,自分にキャパシティがないことか。一件を除いて他は予想できたことだったので,いずれも大過なくこなしたが,他人にはどう映ったのか。「耳順う」境地にはまだまだ遠い。


 これは聞き捨てならないなと思うことがあった。ある会で「中・長期的な費用対効果より短期的な費用対効果を」という言を聞いた。教育の場にも費用対効果が持ち出されるのは仕方がないにしろ,それを堂々と口にするとき「短期的」とはいかがなものか。可視的世界に翻弄されていると言っているようなものだろう。


 休日も朝からあるデータ処理を行った。基になるデータがあり,それを本人から提示されたデータと突き合わして修正,書き込みするという作業だが,まずは基データのいい加減さが目につく。紙マニュアルとの整合性もない。また提示データはいずれも不十分。これも「耳順う」境地で乗り切れか…それしかない。


 剣道の試合は今までまともに見たことがなかった。午後から大会の応援に行き,1時間半ほどじっくり見学。剣道の「一本」の難しさは,素人には半端ではない。しかしそれも見入ってみると,動きの感覚は少しずつ掴めてくるような。経験者に聞いたら,「音が大事」とのこと。なるほど,眼だけの判断ではないのか。


 夕刻から数年ぶりに中学の同級会を持つ。といっても地元在住者のみクラスの三分の一出席だ。自虐めいて「老人の一人暮らし」という者,親の介護に忙しい者…やはりこの齢になると寂しい話題が多い。しかし,飾りなく大きな声で笑いあえるのも同級会ならではのこと。耳順う境地は遠いけれど,近づいている。

子どもの心に応える道徳の話

2014年11月15日 | 読書
 「2014読了」123冊目 ★★

 『子どもたちが身を乗り出して聞く 道徳の話』(平 光雄  致知出版社)


 ちょっと意外な出版社からの発刊だなあと思った。
 しかし,さくら社から出た『究極の説得力』がなかなか面白い本だったので,買い求めてみた。

 「自尊」から始まって31項目。それぞれの「価値」に対する著者の考え,そして子どもたちに向けた指導の実際の言葉と,若干の補足で構成されている。
 簡潔で,読みやすく,教育現場で十分有効だと思う。
 実践部分は,字体を変えるとか囲みを使うとか少し工夫があればなあと思ったが,このある意味の平板さ,淡々さが致知出版なのかもしれない,などと余計なことを考えた。

 さて,内容は「説得力」について著書を出すほどの方であるから,間違いない。
 前書きに,数多の失敗を重ねた末の実践であると,こう記している。

 累々たる失敗の歴史の中で,「確かに子どもたちの心に伝わり,残った」と実感できたものだけを集めた。すべて子どもたちを相手にした実践をくぐらせたものばかりである


 具体的ななかみについては触れないが,その手法として「紙芝居」(これは芝居というより,図化,補助絵の使用ということである)と「携帯フレーズ」があることが特徴である。
 理解させ,実践化させていくために,この二つをセットしていく,いかにも現場教師ではならの発想が徹底している。

 特に「携帯フレーズ」,これはいわば警句やスローガン化といってもいいだろう。それは担任教師にとって自分自身を振り返る意味でのいいポイントになるのではないか。

 野口芳宏先生の指導の中でも,そういう発想が目立つと感じている。


 著者はこう書いている。

 「どんな子どもでも成長の欲求を強く持っている」と断言できる。

 ここを読み,野口先生から応えていただいた,「子どもの見方の原則」と全く同じだと頷いた。先週初めに,学校報にそのことを書いたばかりだった。やはりそれは道徳に結びつくのだと,この文章で意を強くした。
 学校報に書いたのは,こんな文章だった。

 (野口先生が発せられた言葉は)「子どもはみんな『よくなろう』と思っている」それに応えるのが道徳と言っていいのかもしれません。

「慕」が心に沁みる

2014年11月14日 | 雑記帳
 12日夜、野口芳宏先生を大曲駅で出迎えた。ホテルへお送りする間にも出版社から電話が入るなど、相変わらずお忙しいご様子である。チェックインを済ませてから小宴をもった。先生との語らいは本当に楽しい。それは言葉に虚飾や見栄がなく、本音や実感で話ができるからだ。そういう時間を過ごすと元気がでる。


 13日午前には、校内の4年生を相手に特別授業をしていただいた。物語「3つのお願い」の冒頭部をどう料理なされるのか。第一段落は、熟語化、抽象語化を中心に、第二段落以降は指示範囲を探す活動を取り入れた内容理解である。話し方を教えながら判断、根拠、説明などの学習用語を取り入れていく形となった。


 参観マニア(笑)の私には予想できる展開だったが、多くの職員にとっては、やはり「ねらい」が何なのか、どうして難しい言葉を出すのか…そうした点が質問に挙がる。「ねらい」について返答なさった先生の言葉が、また痛快だ。「見ていた者がねらいがわからない授業では駄目だ」。これは深い二重性を持つ教えだ。


 午後からは、他校からも参加しての道徳の講演会「これからの道徳の授業づくり」がテーマだが、先生にとっては「これまで」も「これから」も同じ地平であることは明らかだ。聴衆は「教育の目的」から入る正統さを噛みしめたはず。そして成立条件として提示された「信」「敬」「慕」。今回は「慕」が心に沁みた。


 当然ながら、先生を信頼、尊敬しているから学んでいるわけだが、そればかりではない気がする。もしかしたら「慕」かと…。長い期間追い続け、先生について理解も進む中で、その人間味をより心深く感じている。帰りの車中で、知り合いの方の話をしながら「沼澤さん、諸行無常だね」と語られた時はどきっとした。

最も深い考えはどれか,と問う

2014年11月13日 | 読書
 「2014読了」122冊目 ★★★★

 『道徳 授業の教科書』(野口芳宏  さくら社)


 先生を本町の教育講演会にお招きすることが決まったときに買い求めておいたのだが、この体たらくで、直前の今になるまで開かなかった。
 良き習慣が身についていない、と実践力の無さを嘆いてしまう。
 で?この「教科書」を読めば少しは道徳性も高まるだろうかと期待を持って向き合う。
 
 雑誌連載で目にしている文章を再読しながら、姿勢を正さねばという気持ちになる。
 「第一章 道徳教育の根本的考え方」は、小学館の総合教育技術誌の連載がもとになっている。
 野口先生の道徳に対する構えが、ぴしっと筋の通った形で提示されている内容だ。
 つまり「教えることを躊躇うな」ということ。「教育の目的」は一つであり、それは教育の方法が発達段階に応じて相違は見せても揺らぐものではない、という明確な主張に支えられている。

 次の一文はふだん私たちが忘れがちな点でもある。

 生活習慣の乱れも、忘れ物が多いことも、勤労意欲や学習意欲の低下も、「子どもとして」困るのではなく、将来の「よい大人づくり」の視点からこそ憂慮されなければならない問題である。


 私は初任の頃から道徳の授業には不熱心だった。
 というより反感を持っていた。
 可愛がっていただいたM校長が、宴席で私にむかって「ヌマ、一週間に一回ぐらい、一つのことについて話し合ってみる時間があったって、いいべ」と、繰り返し説得?を試みられたことを今でも思い出す。

 ほとんど授業しない自分を、全県大会の研究部委員に選抜したわけが今頃になってわかる。メンバーでは当然最年少だった。
 しかし、申し訳ないことに、私はそこから何も学べなかった。今考えると、ある分かれ目があったのかもしれない。
 しかし、結果的にはそうした当時の自分の行動が、民間の教育運動に目を向けさせ、野口芳宏先生を引きあわせてくれたと言えなくもない。

 と、こんな昔話も詮無いが、つくづく「浅い」生き方をしてきたものだなと思う。
 それゆえ、先生の授業実践のなかの次の発問は、ぐさりと突き刺さる気がする。

 最も深い考えはどれか?


 私たち学校現場の職員は、現状を考えると、その精神を持ち続けることは、指導をするうえでも、授業づくりのうえでも、必須なことではないか。
 むろん、その通りにできないこと山ほどある。しかし、その眼差しは捨て去ってならない気がする。

 第三章に収められた、授業記録と解説がやはり楽しい。4つ全てが実際にお聞きしていることと重なっているが、文章に起こすとまた味わい深かった。

 今日の先生のお話にも期待が膨らむ。

今月号のキニナルキ

2014年11月12日 | 雑記帳
 『本』…オリックス森脇幸司監督の言葉「(強いチームは)総じて“しょうがない”の幅が小さい。弱いチームほど“しょうがない”の幅が大きいような気がします」。一生懸命やっていると口で言うにはたやすいが,その幅を狭めようと具体的に何をしているか応えられることこそ,プロと呼べる条件であることがわかる。



 『図書』…医師徳永進が「はい」と「いいえ」を取り上げ,工藤直子の詩の一節を引用している。「「はい」と「いいえ」のあいだに/100万の虹色の答えがある/それが「こころ」っていうもんさ」。二色でしかない心はつまらない。虹色を楽しみたい気分にもなる。二色を求めがちな社会のあり方に目を向けよう。



 『ちくま』…齋藤美奈子の読書紹介。資本主義というシステムの終焉を予測する図書の紹介をしている。それぞれのキーワードは「ゼロ成長の『定常状態』」「レンタルの思想」「グローバル化の先のローカル化」だ。成熟社会に手が届かずに中間層が破壊されていく我が国の現状。新しいシステムの提案の芽を見つけよう。



 『波』…「黒」というお題で,短歌を発した穂村弘。「水泳の後の授業の黒板の光のなかに溶ける文字たち」。高校時代にひたすら泳ぐだけの水泳授業後の教室風景が浮かんでくる。そして「僕は,今も進行形で,永遠に何かに届かないつつあるみたいだ」と添える。やはりこの感性は自分と同じだ、とどこか痛くなる。

15年ぶり,葉っぱのフレディ

2014年11月11日 | 読書
 校内で読み聞かせの当番があたった。五年生、今の季節…『葉っぱのフレディ』が思い浮かんだ。書棚から出して裏をみると「11.9」と記してある。15年前、この本がずいぶんと注目されたときに、勤務していた学校の4年以上の子を集めて読み聞かせた記憶がある。今改めて読みながらいくつか考えたことがあった。


 「いのちの旅」という副題がテーマに直結していると言っていい。「いつかは死ぬさ。でも“いのち”は永遠に生きているのだよ。」というダニエルの言葉、また終末の一文「大自然の設計図は寸分の狂いもなく”いのち”を変化させつづけているのです。」と重なる。この「いのち」を別の言葉に置き換えると何かを考える。


 辞書をみると「命」には大まかに三つの意味がある。端的に①「生物活動の源泉としての生命力」②「生命力の一定の長さ」③「最も大切なもの」とする。ここから選択すれば、単純には①が妥当といえるだろう。つまり、葉っぱの持つ物質性が土や根を通して木にめぐってつながっていくこと。しかし物足りない。


 肝心なのは「旅」をするということではなく「いのち」の「役割や充実」という点でなければいけない。「生まれてきてよかったのだろうか」というフレディの問いに応えるダニエルの言葉が物語っている。そこに書かれていることは「働き」「遊び」「周りの自然」「自分の役割」…それらの「楽しさ」であり、「幸せ」である。


 「旅」を高い視点で扱えば、生死や血筋に想いを馳せることになろう。しかし、日々の暮らしとイメージした時、私たちは毎日「いのちの旅」を続けているともとれる。そしてそれは本文中の「変化」という二字熟語とぴったり重なる。大きな変化、小さな変化、いずれも怖れない…この絵本はそれを噛みしめさせる。