すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

秘密に関する大人の結論

2015年02月08日 | 雑記帳
 『図書』(岩波書店)2月号に政治学者の杉田敦という方が,「秘密の秘密」と題して,秘密に関するあれこれを書いている。特定秘密保護法の施行に絡めて,秘密に関する多面的な視点が述べられていて,感心しきりである。例えば「秘密をもてない社会は息苦しい(中略)しかし,秘密が多すぎると社会は死ぬ。


 「秘密には二つある」…内容が知られればそれで終わりになる秘密と,「成功の秘密」のように知ってもどうにもならない秘密があるという見方も納得だ。考えると,秘密という言葉は社会の中で様々な言い換えがされていて,逆にそれらを全部「秘密」で括ってみれば,人間の本性のようなものが見えてくる気がする。


 ところで,あまりに「秘密」という文字が出てくるので,字そのものが気になってきた。どちらも「必」が入っている,どうして「禾篇」なのか,「秘」を使う熟語はきわめて限られているなあ,この熟語のでき方はどういうタイプか,などなど。辞典をひっぱりだしたくなった。何か秘密があるのか,隠されているか。


 いつものように「学研漢和大辞典」と「常用字解」を調べる。相違が多い。まず「必」は,大辞典が「棒切れを伸ばすため、両側からあて木をして締めつけたさまを描いた象形文字。動く余地がなくなる。そうならざるを得ない」に対して,字解は「兵器の矛やまさかりの頭部を柄に装着する部分の形」としている。


 「秘」はもともと「祕」。大辞典では「入口を締めつけて内容がわからないようにした神秘なこと」とある。字解は宗教絡みで「必を供えて神に祀る。必を呪器として用いる儀礼」となる。動作は似ているが解釈が異なるようだ。密も似ていて「入口をしめてかくす」と「呪器に火を加えて祓い清め、安寧を求める儀式」。


 意味深い秘密は探れなかった。しかし改めて「秘密」のイメージは,固く詰まった,締め付けられた,閉ざされたといった形容だと気づく。人間社会には表もあり裏もある。ハレとあればケもある。いわば陰の部分を担うのが秘密だと言えるだろう。従って,秘密は必要だが多くてはいけないというのが大人の結論だ。

愛すべき寝床の友

2015年02月07日 | 雑記帳
 寝床の友はほとんどの場合コミックである。ベッドに入る段階で眠たいモードがかなり高いので,文字だけのものには手が出ない。最近あまり買っていないので,以前からあるものを取り出して読んでいる。先月の中頃から読みだして,全18巻読みきったのが『ビッグウィング』(矢島正雄・作 引野真二・絵)である。


 名作『人間交差点』の原作者矢島正雄が好きで,結構いろいろなコミックを買っている。この『ビッグウィング』もそのつながりで読み始めた。第1巻が2000年4月,最終18巻が2005年11月となっている。そうかあもう10年経っているのかと思った。主人公役は,実写ドラマでは内田有紀だったことを思い出す。


 この『ビックウィング』の特徴の一つに,最終頁を使ってテレビドラマで言えばナレーションのような形で,文章が添えられることにある。例えば18巻第3話は,こんな言葉で締めくくられる。「見える/ものだけに/絶望するな。 生きてきた/時間が/翼となる。」実によく引き締まる。さすが矢島正雄だなと感じる。


 このパターンはいつからだったかな,と第1巻を見直してみた。3話にはあったが4話にはなし。そして5話以降からは全部につけられている。編集者の意向なのか。スタートだった5話の一部分を抜粋する。「人は皆,誰かの為に生きている。/ある時はそれが重荷に,/ある時はそれが生きる喜びに,/だから人間。


 空港の案内業務職員の吉川久美子が主人公だが,パターンは主人公が成長したり変容したりするのではなく,毎回登場する人物が久美子と関わりながら変わっていく様子を描く。人が行き交う場所にはドラマが生じやすいという設定を基にしながら,結局「人を変えるのは人以外にない」というのがテーマに違いない。

2月1週~加速する時間

2015年02月06日 | 雑記帳
 2月1日(日)
 昼過ぎ、ある学級担任より連絡が入る。児童の母親が亡くなったという知らせ。突然のことで驚くばかり。いくつか電話をして明日以降のことを確認。その後、某スポ少の六年送別会。4時間半という長丁場だったが、親や指導者らの抱えきれない熱い思いが伝わってきて、今どきの親世代気質を観察できた時間だった。


 2月2日(月)
 朝から次年度計画絡みの電話が相次ぐ。いくつかの会の期日案を決める。2月になったとたんにこうだ。計画化の早さがもたらす弊害はないのか…。午後から地域のボランティアの方々による読み聞かせ。今回が年度最終である。こうした活動は本当に根づいてきた。4時半より保護者葬儀参列。遺族に声をかける。


 2月3日(火)
 午前中は校長会の会誌編集作業。文章チェックを複数の目で行うが、人によって目のつけどころが違うと実感する。学校にもどって学校報を仕上げる。40号を数えた。その後年休をもらって3年ぶりの歯医者へ。詰め物がとれて沁みる。治療が必要だ。今日は節分、豆まきをした後、恵方巻を無言で食す。笑ってしまう。


 2月4日(水)
 午前、特別支援学級の町内交流を参観する。学校へもどる途中に保育園の子たちが雪遊びをしていた。穏やかな日も射して、思わず少し見入ってしまう。午後から町の校長会。年度最終、盛りだくさんの内容だった。朝に昨日歯医者で仮詰めした一部が取れて、窮屈。電話を入れ遅い時間帯だが急ぎ補修してもらう。


 2月5日(木)
 昨夜からあるスケジュールが狂って悩みの種になり、寝不足である。それでも今日は快晴、そして一年生のスキー教室引率。日が照り眩しいのでサングラスをかけ帽子をかぶったら、ある男児が「ハワイの人みたい」と一言。一年生の笑顔とスキーの頑張りに癒される。夜になって悩み事が解決。人間万事塞翁が馬。


 2月6日(金)
 朝から教委の方と打ち合わせ。工事、学童保育,記念式典等々、また来年度が迫ってくる感じ。全校集会では、2月の鉄板ネタである「人間になれなかった鬼」の話を職員に協力してもらって行う。年度末を締め括るという内容だ。音楽室から「さよなら友よ」の歌声が聞こえてきた日。時間が加速度を増していく。


妄想の翼をもつ人

2015年02月05日 | 読書
 【2015読了】17冊目 ★★★
 『ねにもつタイプ』(岸本佐知子 ちくま文庫)

 かつて、この著者を「稀代の妄想家」と形容したことがある。現在も月刊誌『ちくま』で連載が続いている「ねにもつタイプ」原稿の2006年分までのセレクション本である。月に一度読むのであれば、クスッとくすぐられたりアラマァと呆れたりで済むのだが、一挙にまとめられたこのエッセイ?(というより創作)を読むと、どこか圧倒された気持ちになる。


 「稀代」と評価できるほど、他の妄想家を知っているわけではないが(どだい、妄想家は世の中に何人いるんだ)、なかなかお目にかかれない人だと思う。手軽なところから引用すると、「実体を知らずに字だけ」を見て妄想しているのは…「刺身。全身をめった刺しにされて血まみれの状態。またはその人。多くはすでに死んで冷たい」と、こんな調子の文章が続く。


 文章力は比べるべくもないが、自分が高2の時に教室で回覧ノート!に書きまくっていた発想に少し似ている気がして親近感がわく。それもあり妄想力の一つの正体は「知識のなさ」という仮説がわく。例えば、炭焼き専門家の岸本Q助の著作に「木酢液」という言葉を見つけ、「酸っぱいか」「鳥に塗りつける」と書けるのは、その液体の正体を知らないからだ。


 もちろんそれだけではない。発想力、連想力、構想力というか着想力、回想力、と言ってもいい。そういう「想力」が並外れている。そうでなければ、妄想はただの妄想であって、書籍という形は成さない。「ちょんまげ」が広がったわけに関する妄想は、奇抜なだけでなく鋭い指摘、視点を見せつけられたようで参った。あれは年配者のわがままから始まった。


 著者の職業は翻訳家。「どうやったら翻訳家になれるか」という質問に対して「とりあえず普通に」会社員になることを勧める。そこに自身のユニークな体験をちりばめられるというのだが、そういう体験や周囲の人物をどう観察し、そして内なる「語り草」に仕立てられるかという才能がないとやっぱり無理な気がする。「想像の翼」とかの村岡花子は言っていた。

立春の日のキニナルキ

2015年02月04日 | 雑記帳
 立春。
 ここ数日、文庫本の補充をしていないので、風呂場読書と思って何気なく書棚からとった小冊子。ちょっと刺激してくれる言葉がちらほらありまして…。


 ぼくらは誰もがスティグマを持っている。(永江 朗)

 中山七里著『月光のスティグマ』の書評記事より。
 スティグマの意味は「恥辱や汚名、負の烙印」ということだが、広辞苑の解説がこの言葉を印象づける。
社会における多数者の側が、自分たちとは異なる特徴を持つ個人や集団に押しつける否定的な評価。身体・性別・人種に関わるものなど



 「私は過去と未来を重ねて描こうと思ったのです。それができるのは、詩人と絵描きだけです」(ドリアン助川)

 ドリアンの連載小説「ニューヨーク・サン・ソウル」で、主人公の知り合いである韓国人ジンが語る言葉。
 詩も絵も「今」を描く、書くことによって成り立つ創作だと思うが、その「今」とは「過去」と「未来」の連続でしかありえないことも事実だ。



 美意識が進化するものではないことは、これ一事を見てもわかる(森まゆみ)

 「子規の音」と題して、子規が旅した場所を巡って歩きながら、作品とともにたどる文章。
 この一節は松島の福浦島への渡りについて述べている。
 今見る風景をそのまま受け取ってしまいがちな観光客(自分)は、子規の頃には小舟を仕立てていったことに想いを巡らす心が欲しい。



 未来は選挙なんかで決まらない。皆が、どんなふうにお金を使うかで決まる(木皿泉)

 納得の一言である。
 一つ。自分はどんな未来を作ろうとしてお金を使うのか。
 二つ。その政治家は、貴方にどんなふうにお金を使わせようとしているのか。

「鬼」と「福」は対ではない

2015年02月03日 | 雑記帳
 新品の電子辞書を触っていたら,俳句歳時記も充実していることに気づいた。
 そこから気のおもむくままに…


 節分や灰をならしてしづごころ(久保田万太郎)

 生まれ育った家に囲炉裏があった。灰ならしという道具もあり、退屈まぎれにそれを触っていた記憶がある。当時、長い冬に耐え続けていた家族は節分の日にそんなことをして、春を待っていたのだろうか、と書いてはみたがそれは雪国に合わない。そしておそらくその頃、囲炉裏はコタツに利用されてたように思う。



 節分や海の町には海の鬼(矢野渚男)

 面白い句だ。何を「鬼」に喩えるかは、場所によってずいぶんと違うだろう。この句は漁村をイメージすると嵐などの自然現象が思い浮かぶ。山村であるならば「山の鬼」だが、これも寒風、吹雪といったところか。そこに人間模様を加味すれば、ドラマのような感じになる。「都会の鬼」はまさしくそれになるのか。



 節分の雪が田を飛ぶ山を飛ぶ(雨宮きぬよ)

 疾走感のある句だ。雪国では、風雪のピークを迎える時期でもあるし、イメージは容易い。しかし、「飛ぶ」に込められているのは、早く過ぎ去ってほしいという願いではないか。田から山へという方向性にも意味があるかもしれない。山から田へだと厳しく迫ってくるが、反転すれば、追っていく気持ちが生まれる。



 鬼は見え福は見えざる節分会(江川由紀子)

 自嘲の句か。それとも世相を揶揄しているのか。いずれにしても言いたいことはわかる。問題は、具体的に「鬼」が見えていたとしても追い払うすべがないことではないか。もしくは、見えているようで実は「鬼」に気づかないのではないか。これは「福」にも言えること。従って「鬼」と「福」は対ではない気がする。

一流はそこが上手いんだよ

2015年02月02日 | 読書
 【2015読了】16冊目 ★★★
 『地下街の雨』(宮部みゆき 集英社文庫)

 行きつけの小さな書店の文庫コーナーはかなり限定されたスペースである。少し前まで三人の作家だけがミニコーナー的に取り揃えられていた。それは、佐伯泰英、東野圭吾そして宮部みゆき。ベストセラー作家は数々いるだろうが三人は別格ということか。時代小説が不得手なので佐伯は知らないが、東野、宮部は失敗作がないということなのかもしれない。


 短編集、7つの作品があってそれぞれに面白い。パターンもいろいろあるし、飽きさせずに物語世界へ誘い込む感じがする。ただ少し穿った見方をすれば、作りこんでいるのではないかという気がしないでもない。伏線という言い方をすれば恰好いいのだけれど、人気の作家作品を読んでいると、正体暴きみたいな心持ちになってしまうのは、性格の悪さなのか。


 20年前のこれらの作品を読み、今なら同じ筋は作れないものもあるなあ、と感じた。それは「電話」の存在である。「混線」という小説は電話そのものが重要な役割を果たすので、携帯、スマホの現在ではちょっと難しい。表題作の「地下街の雨」もクライマックス近くのシーンで公衆電話をかける箇所はかなり重要だ。電話が小道具を越えて大きな意味を持つ。


 最後の「さよなら、キリハラさん」という作品には、家族全員の耳が聞こえなくなる場面があり、大変な騒動となるが、今ならメールでやりとりできるし、筆談がわりのことも携帯、スマホで簡単にクリアしてしまう。現代に置き換えるのはなかなか難しいだろう。設定や小道具などは社会状況に左右されることを、今さらながらに感じさせてくれた読書である。


 それは逆に、では変わらないのは何かという問いでもある。これはもうはっきりしている。人間の感情、感情の起伏…この短編集では、怖さやせつなさが強調されているが、振り返って共通点を拾ってみると「固定観念をこわす」というイメージがわいてきた。人が毎日のように繰り返し、陥っていることが崩される印象につながる。一流はそこが上手いんだよ。

夢に値段はあるかしら

2015年02月01日 | 雑記帳
 さすが『Brutus』(マガジンハウス)。

 「夢の値段」という見たこともない特集をした。

 コンセプトは「夢をカタチにして、買えるようにしました。全てオリジナル」。
 「とっておきの『夢』を叶えるショッピングを。」と来たもんだ。


 「ふうせん搭乗券」なる企画から、樹齢1000年のオリーブの木とか、特別料理とか、陶器とか…興味あるものもないものも、へぇーと読んで涎が出そうだ。
 つくづく自由主義経済?の自由さ、多様さを感じる。


 同時に、貧乏&ひねくれ者は窮屈さが強くなって、こんな詩めいた文句が浮かんできました。


 題して「夢見るソネット


 夢に値段はあるかしら
 お金で買えるものかしら
 夢を叶える方法は
 お金を貯めることかしら

 夢に値段はあるかしら
 店に並んでいるかしら
 値段を決めるその人の
 ほんとの夢は何かしら

 夢は買うもの、売れるもの
 すぐに引き換えできるもの
 いくらあっても足りぬもの

 夢は見るもの、つくるもの
 こころのなかで灯るもの
 あらしの夜に消えぬもの