すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

努力の型に固執しない

2015年04月10日 | 雑記帳
 中学の入学式で「1.01の365乗」という話を聞いた。
 これはどこかで見かけたことがある。

 要は普通を1と考え、1%の努力を1年続けたとき、それから0.99を出して1%サボったときの比較を数量として表すことだ。

 まあ中学生であれば、その数値を提示し、そのまま電卓で計算して納得させることができるだろうが、小学生相手ではそうはいかない。

 これはきちんと順序を踏んでいかないと、驚きと納得に持っていくことはできない。
 ということで、話を聞きながら組み立てた指導案(笑)をメモしておく。

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・「1×1」はいくつですか?
・では「1×1×1」は?
・では1を10回かけると?100回かけると?365回かけたらどうでしょうか?
・そうです。1は何回かけても1ですね。
・1より少しだけ大きい1.01はどうでしょうか。
・1.01×1.01を計算してみましょう。(電卓でもいい)1.0201ですね。
・1.01×1.01×1.01ではどうでしょうか。1.030301です。
・あまり大きくならないようですが、365回かけたらどうでしょうか。予想してみましょう。
・では、電卓で計算してみます。37.7834343です。38近くになるのです。
・自分がふだんやっていることを1と考えたとき、それより0.01つまり1%多く努力することを続けたとき、一年間続ければ、38倍ぐらい大きくなるというのです。

・では1%さぼったとき、つまり0.99のときはどうでしょうか。
・0.99×0.99は0.9801です。三回かけても0.970299です。あまり小さくはならないように見えますが、365回ではどうでしょう。
・1よりほんの少し小さい0.99を365回かけると、なんと0.0255179645になります。つまり、0.03というとっても小さな数になってしまいます。
・1%のサボリが毎日続くと、はじめ100あった力は3ぐらいまでに減るということなのです。
・続けることの意味を考えてみましょう。

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 と、まあこんな感じだろうか。

 さて、家に帰ってネットで調べてみると、この話題は結構面白い。

 楽天の三木谷社長の書いた文章にあったものが拡がったようだ。
 もちろん、こうした考え方に与しない、または少し穿った見方をする人も多く、これも妙に納得してしまった。

 曰く
 「なぜ、掛けるのだ、足せ!」
 「人生と計算機は違う」
 「教えるべきはこんな理屈でなく、目の前の仕事を楽しむことだ」…

 1%の努力を続けることの価値は大いに認めたい。
 基本はそこにある気がする。

 しかしまた、そこに固執しない発想やそれを強制しない発想も今求められている一つであると感じた。

今日も砂粒を巻き散らし

2015年04月09日 | 雑記帳
 ブログの編集画面に、開設から○○日という欄があり、先日その数字が3650になっていることに気づいた。えっ、もしかして10年と思ったが、うるう年があることを考えれば、あと2,3日ということ。なんだか少し嬉しくなった。バックナンバーをさかのぼってみると、2005年の4月9日にスタートしていた。


 実はその数年前から始めたもう一つの雑記ブログが既にあったので、こちらは少し堅い内容を考え、ホームページで載せていた「キニナルキ」形式で気に留めた文章を紹介し、寸感を残すパターンとした。片方は当時の流行もあり、アクセスが結構な数だったがやりきれなくなり、統一してこちらに居を移したわけだ。


 結局、方向性も明確に定まらぬままに続けてきたのだなあと思う。毎度「広告の裏にでも書いておけ!」みたいな内容になっているのは自覚している。それでも細々と続けてきたのは、どうしてかと自問する。学級通信が書けない反動?のようなことだろうか。学校報書きのキャリアは既に20年近いが、やはり違う。


 正直、何度か止めようと思った。わずかな時間ではあるが、それよりだったらもう少し生産的な活動を…とまともなことも考えた。しかし、止めないで書いているうちに、なかなかいい事を書けたと自賛したり、考えがまとまってきたと実感したり…そんなことがあったのも確かだ。その下地として多くの駄文がある。


 これは学級通信を発行し続けたときに明らかに似ている。毎日書くことによる書き慣れ、その内容は自ずと学級や子どもが主で(ここがずれかけてる自分は反省し)、書きながら思考を深められるし、また課題も浮かんでくる。書くと決めたことでネタ探しの目も習慣づけられる。それを利用してのひたすら地盤づくりだ。


 一昨年夏からは日刊を継続している。結構忙しないが、毎日砂粒を巻くからこそ、中にキラリとした粒を見かけられるかもしれない。体力勝負か。ただそれができるのは声なき声(笑)で訪問してくれる方々のおかげだ。喩えれば地方都市のうらぶれた飲み屋街の一角にある寂びたバーのごとく、貴方をお待ちしています。

バカじゃないという誉め言葉

2015年04月08日 | 雑記帳
 先週末はおそらく多くの学校で歓迎会が行われたはずだ。
 私達の職場も5名の転入があり、地元の寿司屋で小宴が開かれた。
 止せばいいのに(笑)終わった後に同僚と居酒屋に立ち寄った。
 
 カウンターしか空いていなかったので、そこに腰をおろしたら、隣席の若者が「先生!」と声をかけてきた。
 「R太です、覚えていますか」と名乗った顔には見覚えがあった。
 「おううっ、A(苗字)R太」と返答したら、嬉しそうに笑顔を返してくれた。

 もう23歳だという。
 初めて教頭になって赴任した学校の一年生だった。
 思い出はいろいろあるが、なかに強烈な忘れられない出来事がある。
 たしか、何かに短い文章を書いたはずだったと思い、古いデータを探してみる。
 あった、あった。


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 「あんた、バカじゃない」
                           
 入学して間もない、かわいい一年生の女の子がそう言い放った。

 とぼけてみせる授業展開なので覚悟はしていたが、あまりにダイレクトなその言葉に一瞬たじろいでしまう。
 しかしすぐ笑顔にもどし、ひらがなのカードを手にして授業を続けた。

 リラックスしている子供たちとは対照的に、教室の後ろに立つやや緊張気味のお母さん方。先ほどの言葉に苦笑いをしている。
 言葉を放った子供のお母さんは、顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。

 一年生との学習は本当におもしろい。
 学級担任時代に一番楽しかったのはやはり一年担任、半分宇宙人のようなその言動からは、毎日発見がいっぱいだったから…。
 そういう醍醐味はもう担任でないと味わえないなあ、教頭職になって本当によかったのかなあ、やっぱりバカなのかなあ…いやそんなこと思っている暇はない。
 次は、算数のドットカードを出してと…。


 新任教頭で赴任した4月、最初の全校PTA。
 授業参観の始まる10分前に、一年担任が家族の急病のために呼び出された。
 「心配するな。」と言ったものの、授業展開はその場で考えるしかない。

 まさに、無我夢中の45分間。
 私が出会った最初の危機管理とでも言えばいいだろうか。

 私を「バカ」と呼んでくれた女の子は、この春、ひたむきな目をした最上級生となる。

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 大変な状況のなかでも、結構前向きで楽しそうな自分が思い出される。
 それに比べて今は…よそう、繰り言は。

やはり、強烈、圧巻であった

2015年04月07日 | 読書
 【2015読了】34冊目 ★★★★★
 S2『斎藤喜博を追って』(向山洋一  昌平社)


 新採用者研修の帰りだった。初夏だった気がする。
 この初版本を秋田駅前の書店で購入し、電車に乗り込んだ。

 向かいに座った同期採用の才女(高校の同級生でもあった)から、「斎藤喜博って読んだことなくてねえ…」と声をかけられたのを覚えている。
 確かに、自分の入った大学はかの斎藤喜博が教授となったところだったし、いくらかのシンパシ―もあったので、その名前を手がかりにこの本をとったことは確かだ。

 しかし、その出逢いは予想を超えて強烈だった。
 こんなに時が経ってもそのことを忘れないという意味では、自分にとってエポック・メーキングな一冊であったことは間違いない。


 再読シリーズは、本文を引用しない形でと思ったが、どうしても書きつけておきたいのは、この部分だ。
 教育技術の法則化運動が広がりを見せるなかで批判めいた言辞は数々あったが、向山洋一が一つの尊敬できる対象として自分の中に在りつづけたのは、たぶんこの一文が意味した重さゆえだと感じる。

 (とび箱を)「全員とばせられる」というのは、誰でもできることなのである。しかしそれを人前で言えるまでには、やはり、A・Bの方法でもできない子どもをどうしたかという、一つ一つの仕事の積み重ねが必要なのである。(P14)

 その「仕事の積み重ね」は、今読んでも圧巻である。

 (この本を形容するのは不遜と思いつつ、あえて言い切りたい)

 教師という仕事を志す者が、その範囲や深度を考えるため、また自己をその場に重ねられるかを判断するために読み浸りたい一冊。

 ◇教育活動は、子どもの事実で語るべきことであり、それは教師の個人的活動で終わらせてはいけないことである。
 ◇空しいと思われるような行為を続けることによってしか、価値ある実践はできない。
 ◇教育の構造を把握するためには、自ら学問や文化に対して希求していく姿勢が不可欠だ。
 (たとえば、私たちは「賞を与えて子どもを励ます教育方法」が日本でいつ定められたかを知っているのか)

ったくもお、のスタートから

2015年04月06日 | 雑記帳
 まったく、こんなスタートは初めてのような気がする。…いや、何度もあったのに忘れているのかもしれない。そもそも土曜日の電話連絡をすることに手間取ったのも、連絡網を学校に置き忘れてしまったのが原因で、年度冒頭から不始末ばかりである。本格始動の月曜だから、気を引き締めてと思いつつ、完全なドジの連続をし、周囲の失笑をかっている。


 まず、始業式の準備をしようとPCを開き、先週金曜に完成させた学校報の原稿を見ると、なんと職員紹介の学年表記間違いを発見。もうすでに印刷は終わり、配布箱に入っている状態なのである。該当学年だけは新版に替えてもらい、後は訂正で乗り切ることとする。こんな不確かなスタートでいいのかなと思いつつ、職員紹介を間違えないように確認する。


 そこまでやって置きながら、始業式挨拶の冒頭で行った紹介では、抜かしてしまう失態をした。その辺りまでは許せる?範囲だが、再び紹介もれがあり、そのことを終わってからもしばらく気がつかないという体たらくである。職員室に戻って気がつき謝ったが、何か意図があってだと思いましたと慰められる始末。やさしく温かい職員に初めから救われている。


 対外的な会開催の日程連絡では、不慮への対応でバタバタしている。混乱に振り回されているのか、期日設定で既に大事な会が入っているにも関わらずOKを出してみたり、まったく自己管理ができていない。ドウナルノカ、オレ…「年度途中で早期退職するか」とぼやきながら「まずは明日の入学式を抜かしや間違いなくやります」と宣言して、初日を終わる。


 と、まあ散々な幕開けだった。しかし時間はもとには戻せない。「反省しない。」(by樋渡啓祐)の精神でやるしかないだろう。始業式の話は「努力の壺」。ある児童作文をもとに組み立てた流れで、2回目である。今回も子どもたちはいい眼差しで聴いてくれた。今年の「壺」の大きさはどのくらいだろうか。努力という水を毎日少しずつ注ぎ込み、あふれる日を待とう。

4/4生きて居ること

2015年04月05日 | 雑記帳
 前日は転入職員を連れての挨拶回りだったが、雨が降り、また時折風も強くて大変だった。朝、目覚めてから空具合はと障子を開けてみると、見事な快晴である。今日は身内の地鎮祭があり、お天気を願っていたので本当に嬉しい。9時過ぎより業者が準備を進め、神官さん、巫女さんまでやってきて祭事が始まる。


 私はビデオ係として撮影を進める。少し客観的な目で見つめると、なかなか興味深いものである。そもそも「地鎮」という意味が面白い。土地を鎮めるとは、土地の神が怒らないようにと、人間の占有の許しを請うものだろう。そういう真摯な気持ちを持って工事を始め、無事を願う。人とはかくも信心深い存在である。


 滞りなく祭事が済み一休みしていたら、昼前に教委より電話がある。町の要職にある方が急逝なされたとのこと、顔見知りだったので、「えっ」という声しか出なかった。来週の会の予定変更を決めて、関係者に連絡する。突然だったので、みんな一様に驚きの声を上げる。詳細はわからないが、無常感がわきでる。


 夕刻、気晴らしも兼ねて散髪に出かける。なじみの理容店では既に情報は伝わっており、少し話をする。今年になって知り合いが亡くなることが多いことから、桂米朝絡みで落語の話となる。そう言えば今年はまだ生落語を聞いていない。しかし今月、来月と予定があり楽しみだ。心震わせる場に多く立ち合いたい。


 その後も「4月4日はオカマの日らしい」という与太話や、知り合いの進学の顛末、そして孫たちに料理を教えている話を聞きながら、そして喋りながら、ここに生きて居る有難さを想う。帰りに店の孫たちが作ったというコロッケを数個いただく。帰宅後、夕食の時に口に入れたら、ほわっと甘く、幸せの味がした。

衆流に溺れない

2015年04月04日 | 雑記帳
 【衆流截断】(しゅうりゅうせつだん)
 【截断衆流】(せつだんしゅる)

 この世の妄想や気を散らす邪魔な考えを完全に断ち切ること。
 「衆流」は様々なものの流れという意味から、雑念や煩悩のたとえ。
 「衆流を截断す」とも読む。
(四字熟語辞典オンライン)


 はたして人は、何ごとにもとらわれず生きていくことができるのだろうか。何ごとにもとらわれない境地とはいかなるものか、平々凡々として暮らす我が身にはわからない。しかし、たぶん何か一つのことに没頭する時間はそれにいくらか近い感覚ではないだろうか。とすれば、まずはそうした時間を大事にしたい。


 最近、いや正直に言えば昔からそうなのだが、どうも一つのことに打ち込むことができない。何かをしていても常に周囲のことが気になったり、別のことに気を奪われたりすることが日常的だ。どうやら仕事はこなしているが、この性格を本気で心配したりすることも時々ある。…待てよ、一度居直ったことがあった。


 あれはもう十年以上前だ。私より一つ上のある同僚の姿を見ていて、チャランポランのようにふるまっていながら、実に的確な言動をすることに驚いていた。ふとこの人には「集中力」とは真逆の能力があるのではないか、と思いついた。それをなんと名づけたのか失念したが、その思いつきは今でも自分に残っている。


 修行僧のような、武士のような考え方だけが「衆流截断」とは言えないかもしれない。様々な雑念、妄想の海の中にあっても、自分の姿や位置取りを見失わなければ、多少身動きがとれない状態にあっても精神は伸びやかさを失わない。いつでもそこから放たれる準備をしていることになる。溺れないことが肝心なのだ。

レジェンドの体・技・心

2015年04月03日 | 雑記帳
 レジェンドという形容は流行語のように使われているが、スキージャンプの葛西、そしてもう一人中日ドラゴンズの山本昌であれば、誰しも納得するだろう。その山本昌の記事がある雑誌に載っており、読むにつれてなるほどと重みを感ずる内容だった。山本は現役生活を続けるコツを「体・技・心」の順で語っていた。


 「体」が一番なのは、スポーツ選手にとっては言うまでもないことだろう。これは一般人の仕事においても変わりない。次に来る「技」の視点が特別で面白い。投球術ではなくこう語っている「『ここは少し手を抜いてもいいな』と緩めたり、逆に『この練習だけは強めにやらなければ』とネジを巻いたりする判断力


 単純に言えば「けがをしない技術」ということ。この部分を掘り下げていくと、自分の体調と練習内容を重ね合わせていく、自己管理ということになろうか。年季が積み重なり、他者からの言葉が少なくなる。そういう時にこそ受け身にならず、自発的な考え方によってコントロールしていくという「技」の極致である。


 最後の「心」がシンプルだけれども深い。「前向きでいられる理由を一言でいえば、仕事の中に楽しみを見つけようとしているからでしょうね」。この発想は各分野のプロフェッショナルに共通する考えだと思う。他から与えられた些細な作業だとしても、そこに小さな楽しみを見つける姿勢は多くの人が語っていた。

百冊再読事始

2015年04月02日 | 読書
 今年度は教育書を百冊「再読」しようと思い立った。

 教師になって数年目のとき、かの法則化運動が立ち上がり、そこからかなりの量を読んできたつもりだ。
 担任を外れてしばらく経ってからは、年間百冊を目標に読書の幅を広げていった。これももう18年目になる。

 またネットマガジンに書評とは言えない代物だったが、2年間連載させていただいたこともある。かなりじっくりと向き合った時期だ。
 しかしこの頃は、記録をみると明らかに教育書離れが進んでおり、なんとなく職業意識と絡まって気になっていた。

 そこで、最後のこの年に大きなふりかえりとなるが、読了しまだ書棚に置いてある本の中から区切り良く百冊ピックアップし、今の視点で自分なりに読み解きたい。(この百冊を選ぶ作業も、そんなに時間はかけなかったが面白かった)

 柄にもなく、慣れない小説などに手を伸ばすのを少し控え、原点に戻って?記録をしていこうと思う。
 端的に言い切ってみることを試みる。
 どういう一冊か。そして自分で消化できた、もしくは新しく得た学びを3点に絞って記していくこととする。

 スタートの一冊は、昨日の年度初めの話に使った堀さんの好著だ。


 【2015読了】33冊目 ★★★★
 S1 『教師力ピラミッド』(堀 裕嗣  明治図書2013)

 教師としての仕事のこれからを、鋭い時代認識をもとに提起した一冊だ。

 ◇教師力とは「モラル・人間的素養」「指導力」「事務力」「先見性・創造性」を階層的に組み立てた総体である。
 ◇教師は、自己のキャラクターを把握して仕事や実践に努め、力量形成をはかっていく。
 ◇チーム力が必須の時代、俯瞰的な視点を持って役割を果たそう。

試食用小説

2015年04月01日 | 読書
 【2015読了】32冊目 ★
 『ショート・トリップ』(森 絵都  集英社文庫)

 これは、短編ということでなく掌編というのだろう。
 一編がわずか3ページ、あとがきで知ったことだが、「毎日中学生新聞」への連載からのピックアップ48編である。

 結局物足りないのは長さのせいなのかもしれない。もっと書き込んでほしいことが書かれていないような、はっきりせずに終わる、シュールなコントのような趣もある。
 もちろん、登場するものや人には象徴性があり、教訓めいたことを残しているふうもあるのだが、どうにも馴染めないままだった。

 あとがきで作者は告白していることに、思わず頷いた。

 一年間にわたる連載中は、とうとう最後まで一通も読者からの手紙が届かず、たいへん孤独でした

 この真偽のほどはともかく、なんとなくその反応は理解できるような気がする。

 著名な作家、しかも短編の名手と言われる作者に失礼ながら、自分ならこうするのに、と思いついたことを書いてみよう。

 「うまい、好きだ」と感じた、その作品の書き出しはこうだ。

 無職の人であり、試食の人であり、試食が主食の人でもあった丹崎城二郎。昨年十一月に他界した彼のことを、私はある使命感をもってここに書き留めておきたいと思う。

 「試食の人」という作品の、流れるような、そしてドラマを予感させられる文章である。

 ところが、「試食に次ぐ試食の連続」を描いたところまでは良かったが、バッシングめいたことにあい、晩年衰弱した彼が息を引き取ったのは明太子を口にしたとき、そしてその店の主人が「私」なのだ。
それだったら、その最後のシーンは劇的であってもそうでなくとも、詳らかにする必要があるのだ。
 
 力なく喉をくぐらせた後、す、と息を引き取った。最後の言葉は「あまり辛くない」だった。

 という見事な?エンディングがあるのだから、そこに至るまでの、店に入ってくる様子、見まわし、目をつけ、近づく足取り、目の方向、手の動かし具合、さらには対象となる明太子の具体的な描写、トッピング…
 なにもかも描かれていない。どうして店主が「使命感」を持ったのかも、伝わってこない。

 全然、足りない。
 まるで一口分しかないような作品ではないか。

 そうかあ、それをねらっているのか。

 この作品集自体が、試食用なのかもしれない。あれこれ試している…こんな結論づけしかできない。まさに試食用小説。