すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

大寒の日の落とし物

2018年01月21日 | 雑記帳

(20180120 大寒の日、よく晴れて)

 昨日は大寒。確かに気温はかなり下がっているが、何より雪が降らないのが嬉しい。ただそうは言ってもその分12月に降ったことは確かだし、明日からはまた寒波襲来ということだ。「なんだか春みたい」と思えた数日があったことでも幸いと考えよう。経験上ここからが一番難儀な時期に入ることだし、いい骨休めだ。


 この時期の思い出は本当に多いが「歩く、進むのにも難儀」な日のことは鮮明に記憶にある。一つは初任地での1月31日、徒歩3分で着く教員住宅に15分以上かかった時がある。学校に泊まった職員もいた。もう一つは同じ学校で教頭時代の2月3日。子供たちを交流学習で他校へ引率した時の猛吹雪。目に浮かぶ。


 荒れていると言えば大相撲。昨年の今頃はなんと稀勢の里が千秋楽前日に初優勝を決め、楽日で白鵬を破った。翌場所の劇的な展開に繋がるのだが、素人の私でさえ心配したことが現実になるようで、残念至極。相撲界は土俵の外での騒ぎを払拭するようないい取組を見せるしかない。新しい風で吹き飛ばしてほしい。


 さて大寒は暦上の一つの峠と言ってよい。それにふさわしいドジを踏んでしまった。モノ失くしの探し物は、家族にとっては御馴染みである。今回はなんとスマホ。気温が下がった好天の日をねらって、早朝に写真を撮る時がたまにある。今回も小一時間ほど近場のポイントに出かけてみた。その時に落としたらしい。


 最初は車の中と高を括っていた(財布等よくある)。ところが、自宅電話からかけてみたら「電源の届かない所か…」のアナウンス。ええーっ!と仕方なく今朝の進路をたどっていき、発見できた。道路脇の堅雪の上で、秘かに仮死状態で眠っていた。そう言えばあの時滑って転んだ…と大寒にふさわしいテンマツだった。

ジブン、ジカンを取り戻す

2018年01月20日 | 読書

(20180120  朝ぼらけ②~北沢道路より)

2018読了6
 『言葉が鍛えられる場所』(平川克美 大和書房)

 今年、何冊か読もうと決めた人の著書。書名にある「言葉が鍛えられる」とはどういうことか。言葉とはつまり「自分の言葉」「自分が使う言葉」だろう。鍛えられるとは「強い」というイメージだけではない。したたか、しなやか、そして細やかである場合もあるのではないか。場所は特定の空間を指すわけではない。


 このエッセイ集の題材の多くは「言葉」であり、現代詩が多く取り上げられる。若い時に詩に没頭していた著者が、職に就いてから遠ざかり、今また再読しながら、その意義や意味を考え直している。つまり、自分の言葉が鍛えられるためには「詩」が必要だ、と言っている。それは「鍛えられた言葉」だからである。


 「鍛えられた言葉は、いつも、見えるもの、存在、充足、正確さというものの背後に、見えないもの、不在、欠落、遅れを導き入れる」…この一節は重い。ありていに言えば、自信満々に語る人の言葉の軽さを物語っている。誰とは言わないが、ふだんマスメディアで目にする有名人、政治家などが思い浮かんでくる。


 「自分を相対化できているか」という観点で、この国のリーダーたち(いや身近な人にも当てはまる)を見てみれば信用に値するかどうかが決まってくる。貴重な示唆を得た。さて、今までおぼろげながら感じていたことを見事に言い切られた一節がもう一つある。「時代が個人の生活を追い越していくような光景」。


 物理的?には、生活時間の堆積が時代を作る。しかし私たちは今、自分たちの時間が、時代に急かされるような、進歩という名で現実が脅迫されるような感覚を味わうことがある。その正体は言うまでもなく経済効率だろう。まずそこに気づき、時間を自分に取り戻すために、「詩」を読むことは案外いい方法だと思う。

今年も大事なキニナルキ

2018年01月19日 | 読書

(20180119 朝ぼらけ~七曲峠より)

Volume93
 「『機械(ロボット、コンピューター、AI)が、できることは、どんどん機械にまかせたらいい。人間は、機械にできない創造的なことをやるべきだ』という考えには無理があると思うんです。そんなに見え見えのクリエイティブなことなんてない。」

 今年の元旦の「今日のダーリン」(ほぼ日)にあった糸井重里のことば。
 今の世の中、機械とのつきあい方について考えておかないと、どうしても流されていくような気がする。

 先日書いたAIとの「代替可能確率」にもつながることだ。
 しかし、あれは確率の問題であって、そんなもの個々の姿勢によってあっと言う間にひっくり返ってしまうものではないか。
 クリエイティブな、直感的な、そうしたことであれば機械化できないってことは、もはやあり得ない。
 そのことをまず自覚したうえで…

 つきあい方の原則を決めるとすると、糸井の次の言に集約されるのではないかな。

 「機械にできることのなかから、人間がやりたいこと、人間が好きなことを、返却してもらって、それをたのしくやっていく。(略)『それ、わたしがやりたい』ということは、機械にやらせておくのは、もったいない。」

 こんな楽しいことを機械なんかに渡してたまるか、ということ。
 それがいくつかあったら幸せなことだよね。

「ダラグスルナ」と言われたこと

2018年01月18日 | 雑記帳

(201801-- 納豆汁の美味しい時期)

 先日ある雑誌で「堕落」という語を見かけた時、遠い昔によく亡き祖母や母から「ダラグスルナ」「アヤ―、ダラグダゴド」と食事時など日常的に言われたことを思い出した。堕落という語の意味「落ちる。身をもちくずす。落ちぶれる」とは少しニュアンスが違う。しいて挙げれば「品行が悪くなり」に該当するのか。


 あるだろうかと半信半疑で『秋田のことば』を開いてみた。「だらぐ(ん)」が見出し語として載っていた。自分が叱られていた「だらしない。不潔だ」とその通りの意味が記されている。【用例】にある「えのなか だらぐだ(家の中が汚い。)」は、確かに片づけていない部屋をそんなふうに称されたように思い出す。


 そもそも仏語にあり、「仏道を修行する清浄な心を失って、俗世の人のような俗悪な考えに染まること」とされている。そう考えると、日常の所作、態度をたしなめる語として「ダラグスルナ」と使うとは、昔の人々とはなんと精神性に満ちていたことか。だらしない、不潔な行為を人間性が落ちることと結びつけた。


 読みかけている平川克美の本の一節につながる気がする。おそらく団塊の世代以降の日本人は、計画や目標を大事にするように言われ続け、育ってきた。しかしもっと上の、祖母や母の世代は「計画性とか、目標とかいった言葉よりは、もっと控えめで、具体的な生活態度を戒める言葉に囲まれて育った」と言えそうだ。


 さて、最近「堕落」と言えば「品性が卑しい」のニュアンスが大きいと思う。単に「落ちぶれた」では経済的意味合いが強いが、もっと心的な劣悪状況を指す傾向にある。「政治(家)の堕落」とは頻出する字句だ。ただ考えようでは、堕落だとまだ救いがある。「向上」の可能性が残っている。駄目なのは「腐敗」ですな。

「悩まないで、考えろ」の実際

2018年01月17日 | 読書
 娘が小学校高学年の頃だった。『考える練習をしよう』(晶文社)という本を読むように奨めたことがある。もう書棚にはないがロングセラーなので出版社にページがあった。その目次を見ただけでも今さらながら「考えること」の多様さに気づく。改めて「考えること」自体を意識する時間は、とても貴重だと感じた。



2018読了5
 『考える日々Ⅱ』(池田晶子 毎日新聞社)


 この一冊も相変わらずの筆致で綴られている。著者はいわゆる「哲学エッセイ」という形容で世に出てきた?人だが、「エッセイ」という語の意味に触れている章があった。モンテーニュの「エセー」がそのもとであり、字義は「試み」もしくは「試論」だという。「そこには実際の見聞は必ずしも必要でなく」と言い切る。


 「エッセイを書くためには、思考と言葉があれば足りるわけで(略)思考は自分自身の中に、いくらでも新しい『ネタ』を発見してゆける」と堂々としたものだ。日本では「身辺雑記」の意味合いが強く、どうしても体験や時事など見聞きした「ネタ」が必須とも言えるが、彼女の場合の優先順位は低い。とは言うが。


 この一冊で一番面白く読めたのは、所用で出かけた北海道で釧路湿原に立ち寄った時のこと。終点駅で、帰りの便と滞在時間のことで悩んでいる著者に、車掌が「悩まないで、考えなくちゃ!」といった件は微笑ましい。「悩まないで、考えろ」は著者にとっての常套句、前日の講演でも人々を前に言い放った言葉だった。


 助言された著者は決断しハイキングに向かう。エピソードの面白さは、「悩む」と「考える」の混同をせぬように自ら口にしても思うに任せない現実の展開ゆえに、格別に感じる。だからこそ著者の使う「考える」つまり「精神がその本質において自身を洞察する」が強く響くのだ。本質とは、生の感覚に正直なことだ。

「予祝」を日常的に

2018年01月16日 | 雑記帳
 数年前に一度撮っているが、改めて本地区の「みかんまき」という小正月行事をビデオに収めたいと思っていた。しかしなっなんと、雨降りである。この状況では無理と断念した。1月15日に雨とは…。12月の降雪、年明けの風雪、先週の冷え込みと、なんと目まぐるしく変わる天候だ。雪が降り続くより落ち着かない。


 仕方なくニュースを見ていたら、県内の小正月行事「雪中田植え」が紹介されていた。これは様々な場所である。農業それも稲作を中心にしてきた本県のような地域にとっては、やはり大事な行事と言えよう。その後には「嫁つつき」という心温まる慣わし。新婚家庭の子孫繁栄である。こちらこそ今にふさわしい。


 小正月行事についてニュースキャスターが説明を入れたことがよかった。「予祝」というキーワードを提示した。広辞苑によると「「あらかじめ祝うこと。前祝い」とある。正確には「予祝行事」。農産物などの豊穣を祈ってあらかじめ模擬実演すると書いてある。歴史大事典によると「予祝儀礼」となり、多彩な内容がある。


 日常的な言葉ではないが、予祝の考え方はある程度刷り込まれている。例えば盆踊りは豊作祈願、それは前祝いの意味で踊り喜ぶこと。花見さえ桜の満開を豊作に見立てて喜ぶという説もある。これは「成功・実現をイメージする」ことと言えないか。その意味でもっと「予祝を日常的に」と提案したい。今日も飲もう(笑)


(20180112 「ひっぱりうどん」。幸せをひっぱる)

代替されない構え

2018年01月15日 | 雑記帳
 犬は苦手だがアイボは興味あるなあ…と思いつつ、ふと気になったのが表記のこと。以前はたしかAIBOだったはず。最近はaiboとしている。理由はあると思うが、今だと最初にAIとつくと、エーアイと言ってしまいがちなことは確かだ。AIの文字を目にしない日はない。いったいどこまで…とある記事を思い出した。



 「AIに代替されない職種10」というコラムがあった。と言っても印象や雑感ではなく、野村総研、オックスフォード大学などの研究成果をもとにした報告である。601の職業から算出したとある。AIによる「代替可能性」が66%を超えた職業についている就業人口は現在49%と出ている。では可能性が低い職業とは…。


 提示されたなかでは「代替可能確率0.20%」がバーテンダー、次が0.36%で医師、0.40%でプロデューサーとなっている。当然詳しい調査検討データはあるのだが、誌面にざっくり示されているのは、「座り作業」「他者との関わり」「影響度・責任」という代替を阻む3つの指標の評価である。信頼関係の重要度が大きい。


 そして確率で4番目に低いのが「教師」、0.75%である。その欄のコメントには次のような文言がある。「知識を教えるだけでなく、児童・生徒それぞれの心情やモチベーション管理、それぞれの適性に合った進路のナビゲーション能力が求められる」。ビジネス誌らしい語が並ぶ。しかし言われてみればもっともなことだ。


 小中学校の多くは今日から三学期。慌ただしい日々がまた始まる。その中で、教師が「ナビケーション能力」を発揮するのは別に進路と限ったことではない。授業そのものに内包される。一人一人に位置を知らせ、速度を示し、方向を指す…緻密さだけならAIが勝るだろうが、生の心身で感性を揺さぶることは出来ない。

最適化が肝心とは言うけれど

2018年01月14日 | 読書
 池田晶子モードにハマりつつ、振り幅を大きくして「真逆」的な人を読んでみようと思い立った。ぽっと浮かんだのがホリエモンこと堀江貴文。服役を終えてからもう10年ぐらい経つだろうか。登場したときのインパクトは忘れられないし、当時は池田にとっても格好の標的?だったように思う。存在としては面白い。


(201801-- 冬に負けないぞぉーっ!とポーズしてる感じ)

2018読了4
 『本音で生きる』(堀江貴文  SB新書)

 こんな一節がある…「日々の習慣として『考えること』を繰り返すこと」。えっ、これでは池田女史の言うことと変わらないではないか…もちろん、そんなことはない。著者が大事にする「考えること」の中身が問題だ。それは、何かの解決策、アイデア、つまりビジネスのことであり、端的に言えば金儲けのことである。


 ホリエモンなる愛称は、当然体型のことばかりではなく「ドラえもん」のように「夢を叶える」存在として付けられたのだと思う。その夢の価値はともかく、成功したい、金持ちになりたい人たちにとっては、彼の書く生活術はいいお手本にはなるだろう。典型は「すべてを最適化せよ」という章。とにかく無駄を省く。


 得意なこと以外は外注、移動はタクシー、ランニングはルームランナーで仕事からフィットネスまで徹底している。今すぐ同じように出来る環境の人は少ないだろうが、仮に著者にそう問えば「思ったらすぐ目指せ、行動しろ」と声が返ってくる。そこには「長期ビジョンは無駄」と言い切る一種の清々しさがある。


 書名にある「本音」が個の中でどう構築されるか、という点に興味ある自分のような者にとっても、思考法としてユニークだと感じたのは「バーディをとりたいのなら、強めに打たないとダメだ」という一節。外してもそれは失敗でなく、ラインの見当がつけられるために有効だ。とにかく経験を積みたい派には向く。

犬に耳あり、人に…

2018年01月13日 | 雑記帳


 正月の新聞を片付けていたら、その時目に留まらなかった記事を思わず読み込んでしまった。その一つが「漢字」。地元紙では「さきがけこども新聞」として毎週1回紙面が設けられているが、新年3日に1枚(4面)という形式で出ていた。その4面目に干支である「」と「」が取り上げられ、特集されていた。


 『字解』などをもとにしてあり、なかなか充実した内容だった。犬がそもそも神に捧げる「いけにえ」であり、その姿をもとにして象形文字が出来上がった。しかし「」を部分に持つ字が、戦後の漢字改革で「」に変えられ意味がつかみ難くなった字が多い。「器」「戻」「臭」「突」などで、その点も触れられている。


 「いけにえ」を漢字転換すると「生贄」が出てくるが、辞書には「犠牲」という字もある。そして『字解』などには「犬牲」としても載っている。それだけ人間との関係が近い動物だと改めて思う。人間が狩猟のために飼い始めた最初の動物であり、つきあいの古さとともに、人への貢献度が一番高いと言えそうだ。


 その経緯から「犬」が「けものへん」(狐、猪など)のもとになったのかもしれない。象形文字であり右上の「」は「」だと紙面に載っている。間違いないだろう。翻って「大」が人の姿を表すことを考えると、拙い警句が浮かぶ。曰く「犬に耳あり、人に耳なし」。犬はよく聞くが、人はそれほど聞かないものだ。

彼女はいつもトホホと思う

2018年01月12日 | 読書

(20180112 いやあ寒い朝でした。凍みつく外灯)

2018読了3
 『人間自身 考えることに終わりなく』(池田晶子  新潮社)


 5冊ほど並んでいる単行本から再読の手始めに選んだ。亡くなる前年から死の直前までに、週刊誌や月刊誌へ連載された文章が中心だ。今から12年近く前、取り上げられている世相や事件等は「青少年犯罪」「北朝鮮」「天皇の発言」「政治家の失言」等々がある。結局、いつであっても彼女の発言は本質しか見ていない。


 例えば北朝鮮問題。「かの国の言動をもって、正気ではない、常軌を逸していると非難するこの国の我々は、非難できるだけの正当な資格があるのだろうか」と問いかけ、我が国が「正気」と名のる資格を得たのかと畳かける。思想上の問題ではなく、あらゆる国家が、国家であることで「すでに必ず狂気」と断言する。


 ただ「国家という狂気」ではなく、存在するのは一人一人の人間の狂気。「集団という観念でしかない存在に、自分が帰属していると思い込む。ここに狂気のモトが発生する。国への侮辱は、自分への侮辱である。かくして狂気は増大してゆく。この構造は、いつの時代も、どこの国でも、やっぱり大して変わっていない


 歴史認識が貧弱でもこの言には頷かざるを得ない。また「技術は技術として存在したと同時に、必ずその利用を意味している」と核についても言及する。さらに、今「机上にあるボタン」に目をつければこの言葉が響く。「やっていいことと悪いことのけじめは、外になんぞない。倫理は内在的なものでしかあり得ない


 では、いったい私たちはどうすればいいか。…他者に対して具体的な答えを求める者ばかりだ。彼女はいつも「トホホ」と思う。その答はいつの場合も本の中に言い尽くされている。つまり「本当に必要なことを、誰も知らない」「自分が知らないものを生きるのが人生である」ゆえに「知らないからこそ、考えるのだ