すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

嫌な空気を振り払って

2018年01月11日 | 雑記帳

(20180110 「きりたんぽコールド」出来上がり)

 今年は沖縄那覇の成人式が静かだったそうな。その事がニュースで取り上げられるのは、今までの馬鹿騒ぎの裏返しということだ。それにしても警察のコメントに「校区単位で保護者と対策したことも大きい」とあったのは納得できるがやや可笑しい。保安対策だけで、誰も成人の自制心が養われた結果とは認めない。


 昨年頃から北関東辺りの某市の様子が頻繁に映し出され、目立ちたいだけの輩をTVが取り上げるものだから、余計に増長する雰囲気を感じる。この辺の構図が、某ケンミン番組でよく特集される理由ともつながるか。そのイメージに対して、当の若者たちは追随、寛容、嫌悪…と様々な感情を持っていると思うけれど。


 ともあれ正月、新聞やネットには、若者・新成人に対する叱咤激励、また年頭を期しての発言があふれている。いくつか興味ある方々の文章に目を通してみた。

https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/201801040000169.html?Page=1
 「未来は暗い、知恵がない」倉本聰(日刊スポーツ・インタビュー)

https://www.grad-job.info/shigoto/ijuin-shizuka-suntory-ad/
 「独りで、旅に出なさい」伊集院静(サントリー全面広告)

https://www.nishinippon.co.jp/nnp/teiron/article/384882/
 「『面倒臭い』がない世界」 平野啓一郎(西日本新聞・提言)


 80代、60代、40代其々のトップランナーでありながらアウトロー的な雰囲気も持つ三者の声は、視点は異なる様相である。非日常と日常、人生と生活、突破と模索…もちろん、限定された場の印象であるが、いずれにしても、「一歩の行動」を強く後押しする文章だと思う。嫌な空気を振り払うために、一歩出でよ。

ぜんぶBoysの仕業

2018年01月10日 | 雑記帳

(20180109 牛筋煮込みおでん)

 「BL感」なんだ?と思った。Twitterに「28年前の翔ぶが如くより。BL感漂う斉興役の鹿賀丈史と語りの西田敏行」とあり、写真では想像できない。BLとは「Boys-Love」なのでした。その筋のサイトには「美少年同士の恋愛を書いた女子向けの作品」とのこと。でもその二人じゃいくら若い時でも無理があるでしょ。


 そう言えば「男色の趣味はない」と答えた人のこと。この大相撲のゴタゴタの中でよくもまあと唖然とするしかない。「泥酔」という文字は、日馬富士の一件でも当初使われていたっけ。式守伊之助は秋にNHKプロフェッショナルに登場していた。確かめようとサイトに入ったら、もうすでに部分削除。NHK速いっ!


 そう言えば「プロフェッショナル」は、11月に出演を予定していたスパコン開発者が逮捕されて、放送中止になったことがあった。災難と言うべきか、いや取り上げられるプロたちの仕事とは、常人の計り知れないプレッシャーや苦悩があり、ともすればそれに負けてしまう人がいるのは当然か。全くの詭弁でしたね。


 そう言えば「プレッシャー」に負けたからなのか、あのカヌー競技選手の禁止薬物混入事件は。日本でもそんなことが…と多くの関係者は考えるに違いない。当然同情の余地はなく、罰は受けねばならないが、オリンピックの政治利用、駆け引きだらけの現状を見ると、かの鈴木某が欲しかった栄光とは何なのかと思う。

「心」はもっと深くにある

2018年01月09日 | 読書

(20180108 成人の日に陽は昇った)

2018読了2
 『ダンゴムシに心はあるのか』(森山 徹  PHPサイエンス・ワールド新書)


 ダンゴムシで思い出すのは、二十数年前に母校に勤めていたとき、生活科で取り上げていたこと。文科省指定公開に向けて研究を進めていた頃、題材の一つとして「ダンゴムシランド」と名づけて頑張っていたなあ。きっと子どもたちは、ダンゴムシにも「心」があると思っていたんじゃないか。大人は、というと…。


 通常「大脳」がないダンゴムシのような虫に「心」があると考えるのは、単なる「擬人化」でしょと切り捨てられそうだ。しかし著者にとっては、研究対象のど真ん中。当然、「心とは何か」という定義づけが必須であり、その点に非常に興味が惹かれて読んでみた。実験部分の記述はやや走り読みながら、楽しめた。


 著者の考える「心の働き」とは「状況に応じた行動の発現を支えるために、余計な行動の発現を抑制=潜在させること」である。私たち人間がよく使う、また教育標語としてある「強い心を鍛える」「やさしい心を育む」にも触れている。著者は「心を育む」ことを、端的に「抑制力を育むこと」と言い切る。共感できた。


 物事をやり抜くためには、それを邪魔する様々な刺激に対する行動を抑制する力が必要だ。やさしい心とは、まず自分の行動を抑えねばならない。「鍛える」と「育む」では実際の方法論に違いが出るが、高めたい力は一貫しているだろう。著者は「隠れた活動部位による行動の抑制力の鍛錬」という言い方をしている。


 「内なるわたくし」という表現がある。表には見えない部分を「心」と称することもあるが、それは必ずしも意識できる場合ばかりではない。つまり脳の特定部位の働きだけを示している訳ではない。「予想外の行動」をした自分の不思議さを覚えている人なら、案外理解しやすいかもしれない。虫にも「心」はある。

薄っぺらな伝統を味わうより

2018年01月08日 | 雑記帳

(20180107 今年の初焼きそば~横手風)

 地元ラジオ放送局で「七草粥」の話題が出た。ずっと以前に何度か食べた記憶はあるけれど、そもそも小さい頃から馴染みがないので、いつの間にか見過ごしている習慣だ。まあ括って言えば「行事食」。国でも例えば農林水産省が作る「子どもの食育」サイトの中にページがある。もちろん、その重要性は認めるが…。


 正月のバラエティで「天海祐希&石田ゆり子のスナックあけぼの橋」があった。複数のゲストとの話題の一つが正月料理やお雑煮。青森出身の松山ケンイチが、他の出演者と違って伝統的な食卓ではなかった事がネタにされ、少し嘲笑のニュアンスも感じられた。地域による違いはまだ根強いし、少しひっかかりを覚えた。


 ハレの日にいただく料理の意義は、飽食と言われる世の中にあっても大事にしたいものだ。しかし現状はどうも、売らんがための盛り上がりのような状況になってはいないか。この国の伝統的行事でないクリスマスやハロウィンなども一環にある。食文化が拡がることは悪くはないが、商売の部分だけが肥大している。


 子どもの食育を考える時「家庭」に期待することが徐々に難しくなっている現状は理解できる。だからある意味「行事食」をポイントにし学校給食や食産業が力を入れることは仕方ないだろう。しかし「心に残る味」といった時にイメージできるのは、食事そのものより作る過程、一緒に囲む場とは言えないだろうか。


 味噌汁、卵焼き、カレーライス等ごく一般的な食べ物にある「家庭の味」。家独自の味覚を感じるのはどの世代までか。しかし個人差はあっても我が家の味と言える料理が一つか二つはきっとあるはず。お仕着せの行事食で薄っぺらな伝統を味わうより、マンネリでも我が家の味が染み込む方が価値は高いように思う。

闘将は、星になって

2018年01月07日 | 雑記帳

(冬にも実をつける)

 今さらではあるが、「星野仙一巨人監督」を一度は見てみたかったなあ。それを許さない人が多くいたことから実現はしなかった。しかし本人が、原辰徳前監督や高橋由伸監督を励ましている言葉を読むと、明らかに一つの熱い願望はあったように感じる。世代的に「巨人」の響きが野球の象徴でもあったからだろう。


 「闘将」という形容がこれほど似合う人はめったにいない。我々が目にできるのは画面に映し出された特定のシーンでしかないが、それでも表情や醸し出す雰囲気は独特だった。中日に始まり様々な請われ方をして、あの13年の楽天日本一に結びついたが、あれはプロスポーツ界の紛れもない輝きの一つに数えられる。


 配信されたネットマガジンの中に【追悼】闘将・星野仙一 山際淳司が描いた素顔を見つけた。「メルセデスにて」と題された短編は、稀代のスポーツライターであった山際が、星野の運転する車内で会話したことを鮮やかに切り取った。中日監督として優勝した年、まだ若々しさはあるが本質は全然変わっていない。


 「理想の上司」という形容も一時期された。これは三菱電機の実施データだが7年連続で1位という記録がある。人心掌握に優れているイメージがあり「是々非々を徹底的に」「怖さ7割やさしさ3割でちょうどいい」といったフレーズも有名だ。しかし一番なのはやはりその先頭を走る気力、覚悟に尽きるのではないか。


 優れた指導者の教育論はシンプルだ。星野は、かつて作家重松清のインタビューに応え、心情をこう吐露した。「今の日本の教育は、精神的にも肉体的にも鍛える、我慢させるという時期がほとんどありませんよね。それで、社会人になって初めて『悔しさを我慢しろ』といっても、そら無理ですわ。」…それでも貫いた。

相棒、もしかして

2018年01月06日 | 雑記帳

(201801-- まだ明けきらない通り)

 お正月用?のドラマや映画が目白押しだ。確実に見たいと思うのは限られているが、さすがに『相棒』は見なくちゃいけない。『2018元旦スペシャル』と銘打って、クリスマスイベントの発砲事件から始まった展開はまずまずだが、ちょっと物足りない気がする。どうしてそう感じたか。ふと思い出した記事があった。


 『文藝春秋』の12月号に水谷豊が「『相棒』は毒があるから面白い」と題して文章を寄せていた。8ページにわたる内容で読み応えがあった。水谷は「傷だらけの天使」「男たちの旅路」「「熱中時代」と名ドラマの名キャラクターを確立してきた。しかし、それら以上に強く入り込んでいる杉下右京役のような気もする。


 水谷のドラマに懸ける熱意はたまに語られるが、ここでまとまった考えを披露している。自ら挙げている「大人のドラマ」の要素が興味を惹いた。曰く「①テーマに社会性があること②エンタメ性があること③登場人物が魅力的であること④余計な情をかけないこと⑤物語のところどころに『毒』が撒かれていること


 確かに『相棒』というドラマには、こうした要素が詰まっていることが多い。たまに面白くないなと感じるとき、「脚本」かなあと考える時が多い。それは①から⑤を包括した言い方なので、ずばりと何と何というふうに分析できれば格好いいだろうなあ(笑)。で、今回のスペシャルは①②は合格として、③以降だろうか。


 登場人物は毎度の方々が脇を固めているので、若い三人組が今一つだったろう。売り出し中の若手もいたようだが…。「余計な情」や「毒」ということには、今や「国家中枢等・警察上層部」対「特命係+α」という対決構図が鮮明なので、その内部で少しぐらぐらしても珍しくない…と思ったからか。あれっマンネリ?

考えた果て、感じた果てに

2018年01月05日 | 読書

(20180104 車庫の初雪下ろし、結構ある)

2018読了1
 『残酷人生論』(池田晶子 毎日新聞社)


 パロディ風にこの本の語り口を紹介すれば…「人生論」とは何か。そも人生とは論じられるものか。詳らかに語れば、誰か特定の個を論じたとしても、その人生は、誰かであって貴方ではない。それが有益な何かをもたらすと言うか。信じることで行動を起こすためというかもしれない。否、「信じる」とは何ですか…。


 と、こんな感じで進むわけで、本当に「わかる」にはほど遠いのだが、救われるのは著者が「あとがき」に記した次の文章である。「最初はよくわからなくとも、子供がお経を諳んじるように諳んじているだけでも、あるときふと『わかる』ということも、あるかもしれない」。確かに音読していると頭に入りやすい本だ。


 読み上げてストンと落ちてくる部分が一つでもあればいいと思っている。今回は、この部分がすっと入ってきたので嬉しい。「対話とは、わからないもののわからなさについてわかり合う形式、そのとき、言葉が、不可知の宇宙を開く合鍵となる」。改めて「わからないことがわかっていること」が全ての基礎だと思う。


 「残酷」は何故つけられたか。著者は「考える」重要さを繰り返し強調しつつ、こうも書く。「自分が居て宇宙があるということは、なんと神秘か不思議なことと、普通に感じられてさえいるなら、答えはそこに尽きている」…それは残酷でもなく優しくもない。また残酷でもあり優しくもある…という観点で付けられた。

セゴなまはげ、何処へ

2018年01月04日 | 雑記帳

(20180104 初ラーメン。野菜あんかけ風)

 NHK大河ドラマ絡みで、定期的にやってくるような西郷ブーム。といってもメディア側が作りだしているだけだろうけど…。歴史的事実がどうであっても、日本人はやはり水戸黄門や赤穂浪士、幕末ヒーローが好きなんだよね。ただ西郷隆盛に関しては、普通に持つイメージ(銅像のような)だけではない気がする。


 出版界も便乗本的なものが店頭に並ぶのだろう。新潮社でも『遺訓』という本が刊行されるので、そのPRとしていくつか書評が載っていた。その中で興味を惹いたのが、その題材となっている『西郷南洲遺訓』(岩波文庫)があって、その文庫をかつての大物政治家たちは携帯し、ボロボロになるまで読んでいたことだ。


 村山富市、武村正義、そして佐藤栄作は13冊読み潰したと記されている。主義主張や政治的立場の違いはあれ、このように愛されたのは何故か。おそらくはそこにある「志」の強さ。それは「私を顧みることなく、天下を憂い、正義を貫き…、上が間違えたらそれを糺す」姿勢といったら、あまりに物語的だろうか。


 秋田魁新報紙が元日のコラムで、男鹿のなまはげ面が「西郷隆盛の泰然自若とした風貌をイメージした」という創作者の話を紹介していたのが面白かった。言われてみれば、あの面にはその味わいがあるか…。地元の「ナグ子」に迫るより「ワリィ子はイネガア」と永田町界隈で一発かましてほしいと思うのは私だけ?

今年の選書の心積もり

2018年01月03日 | 雑記帳

(20180103 打て!冬日のツーアウトフルカウント)

 美智子皇后の『橋をかける』という著書にこのような一節があるという。

「読書は、人生の全てが、決して単純でないことを教えてくれました。私たちは、複雑さに耐えて生きていかなければならないということ。人と人との関係においても。国と国との関係においても。」

 手にする本の違いは、まさに雲泥の差と思うが、複雑さを知りそれに応ずる気づきを得ようとする姿勢は似通っているかもしれない、などと不遜なことを考える。老眼は進むけれど、今年も「読みがい」のある本に出合いたい。今まで意識的ではなかったが、この齢になったらいくつか心積もりが必要になるだろう。


 ひとつは、数人の作家、ライターに絞って沢山読んでいこうということ。以前からその傾向があり、書棚を見れば偏っていることは一目瞭然だが、あと数人増やしたい。考えているのは、吉田篤弘、平川克美といった今まで単著を読んで「波長」が合うなあと感じる方々。それから没10年が過ぎた池田晶子の未読本。


 四度目になるだろうか、池田晶子の『残酷人生論』を元旦から読み始めた。相変わらず内容が頭に入ってこない。ただ、その文章に浸っているだけだ。それもいい。なんと言っても、この著は「わかる」ということそのものを取り上げているのだから。読書が教えてくれることは、書かれている中味でない場合もある。


 もう一つ、マンガの世界にあと二、三歩足を踏み入れてみようと思う。毎夜の睡眠導入は『酒のほそ道』(ラズウェル細木)だが、実は昨年少し範囲を広げている。コミックは実に多様で、改めて日本社会を知る格好の材料だと気づいた。糸井重里が「マンガを教育課程に」と提案したことも、今さらながら納得している。

「感」は惑うばかりで

2018年01月02日 | 雑記帳

(20180102 今年も簡単には矢印通りに進みません)

 今年の一字は「」と決めた。誰もがわかりよく使う字の一つだろう。学校に勤めていた時に、教育目標の候補としてこの「感」を考えたことがあった。それは「感動」「感謝」「実感」などをキーワードにできるし、知育や体育を作りあげていく大切な要素と思ったからだ。結局使わなかったが、今もその思いはある。


 そんなことも思いつつ選んだこの「感」。書き終わってから、念のためと調べてみると、ちょっと意外な広がりも見えてきた。つくりとなっている「」(カン)は「口をとじさせること」を表していて、打撃や刺激によって「心を強く動かす」という会意&形声文字になった。一面では「とじる」ことにもつながるのだ。


 「感」が字の一部分になっている語を探してみた。「撼」「憾」「轗」の三つがあった。いずれも読みは「カン」。撼の意味は「うごかす。揺りうごかす」。これは手偏なのでわかる。次の憾の意味は「うらむ。残念に思う」。んっ?轗にいたっては、意味が「車がでこぼこにつかえて、うまく進まないさま」。えっ大丈夫かあ。


 実は久しぶりの毛筆を持った時、ふと「『感』は、『惑』に似ていないか」と思ってしまった。いやいやそんなに惑ってはいけないと雑念を振り払い書くには書いたが…。仕上げてからこんなに調べたら、また惑うばかりだ。いや、「情報」に振り回されれば「感激」にたどり着けないという教訓を得たと無理矢理締めよう。