不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

日々是好日・スローライフ(寅さんの柴又から発信)

・日常・創る・彩る・考え・綴る
・フジノ会・探検団・かめの会(俳句)
・家庭菜園 ・ めばえ・成長・収獲

秩父・山間へき地を旅する (その2)

2021年08月30日 | 紀  秩父のあっちこっち

山奥にもひっそりとがあった

 

 

埼玉県秩父市吉田『石間郷』とは?

『石間郷』は埼玉県秩父市の北西部に位置し、群馬県との境界に近く、標高1,038mの城峯山
の山裾に点在する5つの集落で構成されています。

山岳地形で平地がほとんど無いこの地では、集落は石間川の渓谷沿いに細長く延びて、
集落の標高差は330mにも及び、最上部では “山肌にへばりつく集落” として、

「第3回美しい日本のむら景観コンテスト」で「全国農業協同組合中央会長賞」
を受賞しています

 

 

 

◎ ブロ友のヒキノさんが素晴らしい映像を寄せて下さった。
是非ご覧ください

  

●秋の秩父路・・・・石間から太田部へ・・・山の民の村を行く
https://blog.goo.ne.jp/musshu-yuu/e/cd36d4f71746cf3bfe695bd2647031ef

 

 


  太田部、むつばあさんのふるさとへの道

木材の取引は基本体積で行われる

旧来木材で使われた単位は”石(コク)”で、1石 = 1尺 X 1尺 X 10尺
これをm3(立法メーター)に直すと(30.3 X 30.3 X 303)/1,000,000 = 0.278 m3

単価表記は 石単価 = m3単価 / 3.6 (1/0.278) なので
        72万円/m3 = 20万円/石 

昔は山大尽(お金持ち)なる言葉がありましたが、外国材が
船便で入るようになり、国産材は落ち目です。


  石間の道はこのような道路が多い。
母屋の前が若干の庭そして石垣、ガードレール付き道路、
切り立った石垣、急斜面の畑(逆さ掘り)


   逆さ堀の農作業

急な斜面に立ち、腰の部を上に向けて農作業をする。
常に土が下方に落ちないように気を配りながらの農作業です。 
土が乾いてしまった時は、

鍬に土が乗らず逆に土を落としてしまうほどです。
 そんな時は、板状の平鍬を使うと旨く上がります。


  道路曲がり角の石碑、道筋には、馬頭観音の碑が多い


  母屋の裏側を覗き見た・背負い籠(斜面のため背の運搬が多い)。

   

背負い運搬具の一種。ショイカゴ、カルイカゴ、オイビク、テルなど呼称は多い。
物を入れる籠に負い紐(ひも)を取り付けて仕上げられている。籠の素材は割竹とする

例が広くみられるものの、ほかに粘りのある小枝数本を曲げて骨とし、それにヌイゴ縄
を編み回してつくられたものもある。

籠は大小さまざまで、編み方はざる編みで目の込んだものもあれば、六つ編みで目の粗いものもあり、
変化に富む。形態は円筒形のものばかりではなく、底部が狭い形状のものもある。

 


  母屋の佇まい


野菜畑(ネギ、インゲン)に山に張り付いたように建つ石間

農作物もイノシシの出没で、周りに囲いをしなくては荒らされてしまう、
畑の周りに囲いがしてあるのが分かります。


  山並みを連なる高圧送電線(東京地方へ)


  石間です


  右折、太田部(花のあとさき、今は亡きむつばあさんの故郷)

 

 

『花のあとさき ムツばあさんの歩いた道』

 

 

 

 

コメ欄はopenです

 

コメント (18)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秩父・山間へき地を旅する (その1)

2021年08月29日 | 紀  秩父のあっちこっち

石間(斜面にへばり付く)、奥へ奥へと

 

 

 

石 間 部 落

ここ石間は奥へと進むと、百名山(城峰山)に通じ、その先は群馬県です。

ここは旧吉田町の石間地区。石間は「秩父事件(石間交流学習館」の原点とも言える場所である。

行ってみれば「なるほど」と思う人も多いと思う。山の急斜面にへばりつくように民家がある。

昔に比べれば今は道が良くなって、車がずっと山奥まで入っていけるが、明治の頃は人一人が通るだけの
細い道だけだったはずだ。

耕せる場所は本当に猫のひたいのような場所ばかりで、養蚕がこの地区の人々にとって最も大事な収入源であったろうと
容易に想像できる。その養蚕がやっていけなくなったのだから・・・。

 ここは私の家からだと比較的近い。車なら30分くらいで行ける。なのに私がここに初めて来たのは
25年前くらいが最初だった。

秩父は山々に囲まれていて、あまり人の入らないような山間、沢沿いのが無数にあるのだ。

私のまだ知らないそんな場所がまだあるかも知れない。

 


  県道37号線(皆野両神荒川線)に別れを告げ石間へと入る
「石間交流学習館」の看板あり。


  道路は石間川に平行する1本道


  山間部の道路としては整備されていた唯一の生活道路


  奥の山峡は霧が立ち込める、晴れる証し!?


  階段状に建つ石間


  ”山の神”であろう?大きな石の上に祠


  主要道路から入る自宅への道路


  水車小屋の水路


  観光用であろうか、水車小屋の佇まい

 

 
 丸太を加工した標識がにらみを効かす!

 

中山間地域とは


 平野の外縁部から山間地に至るいわゆる中山間地域は、経営耕地面積、総農家数、農業産出額で全国の

約4割を占めるなど、我が国農業・農村の中で重要な地位を占めています。


 中山間地域は、河川の上流に位置し、傾斜地が多い等の立地特性から、農業生産活動による国土の

保全、水資源かん養等の公益的機能の発揮を通じ、全国民の生活基盤を守る重要な役割(いわばダムある

いは防波堤の役割)を果たしています。 
(言葉バンクから引用)

 

 

 

コメント欄は閉めています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

炭焼き

2021年08月27日 | 紀  秩父のあっちこっち

1年中暑さにめげず炭を焼く・「心頭滅却」

「1年じゅう炭焼きと言っていた・・・。」
     この夏も炭焼きに明け暮れたことであろう➡思う、想像。

 

 

 

 

4年前の 炭焼き現場を見る - 日々是好日

 

最近は故郷も縁が遠くなりました。帰郷の折に立ち寄った炭焼き現場、

「暑さ寒さ関係ないんだよ…と、」言いながら燃え盛る炭焼き竈の火加減に余念がなかったTさんが頭をよぎった。

 

 


煙は1年中登っている


竈から炭を掻き出した時の様子、白消し炭(高級炭)

 

 

 

炭焼きや飛んで火に居る虫に似て (縄)

「飛んで火に入る夏の虫」は、自ら進んで危険や災難に進んで飛び込んでいく
という意味です。
夏の炭焼きは、特高精神でないと務まらない。

 

 

コメ欄は閉めています。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

牛物語 その3

2021年01月14日 | 紀  秩父のあっちこっち

大地を耕すことは大変な労働でした

牛を使う、戦後の農作業

 

 牛物語・その1 
 牛物語・その2 


牛は大地の耕しに大活躍した。
鼻から太い長いよだれと垂らしながら、大きな息を吐いて働いた。

私も小学校5・6年生から中学生くらいまで、畑や田圃の耕起を手伝った。

戦後から昭和30年ころまで秩父地方では牛馬による耕作でした。
その後に豆トラ耕運機があちこちに見られあっという間に普及しました。

最初に他家から子牛を買い求め、我が家で肥育することとなった。
親から離れ子牛は、親と離れ離れになり三日三晩泣いていた。

今思うと目に涙を垂らし、声が枯れるまで・・・・。
それが4日~1週間すると餌をたくさん食べるようになりわが家になつた。

大きくなりの農耕牛として畑で働くようになった。
家族の一員で藁と草を刻んで餌を与えて、日一日と大きく肥育して農耕に役立った。

 

下の画像は、ネット画像からお借りし構成しました。

 
   水田、畑の耕起道具・鋤  

   
田畑の耕起をする

  
                       

 
牛の鼻とりと代掻き
人間が水先案内人として、牛の進路を決める、すると代掻きが
全体的にまんべんなくできるように牛の案内役をした。
兄が後ろの万能を操り私が鼻取りをした。


 畑の耕起、大地の耕し
牛の先頭をの人を「鼻取り」と言い、中学生の頃よくやりました。

 

参   考

馬力とは

  時代は18世紀にイギリスにさかのぼります。エンジニアの
ジェームス・ワット氏が蒸気機関を改良、高効率な仕事をできるものにブラッシュアップさせました。

これはイギリスの産業革命に大いに寄与したといわれています。
  
ワット氏は、同時にこうしたエンジン個体の性能を数値で表せる単位が必要と考えました。
そこで、馬に荷物を引かせ、33,000ポンド(約15t)の荷物を1分間に1フィート(約30cm)

引ける能力を根拠とし、「1秒間につき550ポンド(lbf)を1フィート(ft)動かすときの仕事率(550 lbf·ft/s)」
として、1馬力と定めたとされています。

ちなみに550ポンドは、キロ換算249,476kgとなります。

 


農作業の革命機ミニ耕運機




 昭和30年頃から、ミニ耕運機が瞬く間に普及し、何処の農家に
「一家に1台耕運機」が畑にお目見えした。耕す、畝立てをする、除草等が出来る。

 

 

 

コメントは締めてます。
お越し有難うございます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

牛物語り 草刈  その2

2021年01月13日 | 紀  秩父のあっちこっち

 早朝の草刈・露がある時がよく刈れる

 

 

 牛物語り・その1 

 

牛の餌取りで、野山や田んぼに草刈に行きました。

帰りに籠の中に詰めて持ち帰り牛に与えました。少年時代の大変な

登校前の仕事でした。

 


草刈鎌


草刈に用いた竹の籠、世田谷岡本公園にて

 
 草苅
画像はネットよりお借りしました。



 褐色和種(赤牛)が飼育された

 

1、朝の草刈は三日に一回ほど

朝の草刈は、学校登校前に、日曜日は決められたように野山に行き草を刈ってきた。
牛は何時ももぐもぐしているので、草を刈ってきてもすぐ食べてしまった。
兄貴が世話係でしたから餌が無くなるとそれなりに調達して来て与えた。
また穀類もたくさん食べた。

稲藁を大量に食べますが、これに草を細かく切って稲原に混ぜて与えると、
とても美味しそうにして食べたので一層と草刈に励んだ。

牛は牧草は勿論のこと、クズやヨモギ、ススキやササなどの雑草も好んで食べます。
 一方野草の中には牛が食べると有害なものおいしそうにして有害毒草についてはいろいろあるようですが、
馬酔木(あしび)を間違えて、刈り込んで牛を酔わせてしまったことがあった。

 

2、有害な馬酔木を与えて苦い経験

 
馬酔木の植物

 

 ◎ 入会権とはどんな権利ですか?

法律で定められたものではありません。
慣習の一種ですが、民法の参考書には、物権編で触れられていることがあります。
入会権 とは、他人の山林立ち入り所有者の支障のない雑木、枯葉など持ち帰る権利が慣習として
認められている...

 

  入会権について詳しく

入会権とは、村落共同体等が、主として山林原野において土地を総有などし、
伐木・採草・キノコ狩りなどの共同利用を行う慣習的なことです。
入会権の
客体たる土地を入会地といい,入会権の帰属主体としての村落共同体を
入会団体ないし入会集団という。
判例は、入会団体の共同所有形態を金利能力なき
社団と同じ総有であるとしている。
入会権は、土地に対するものだけでなく、
此処で言う草刈等は、他人の土地に入って草刈が出来、束ねて持ち帰ることが出来ます。

 

 

 

 

コメント欄はopenです。
お越し有難うございます

コメント (18)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

牛物語 ・ その1

2021年01月11日 | 紀  秩父のあっちこっち

今年は丑年・年男

牛に纏わる田舎時代のエピソード

 

 

今年は丑年、我も牛年【年男】とて、
幼少、少年期(10歳頃~18歳)に出会った様々の牛に纏わる物語です。

農耕牛として、一心に育てられ、人間と共に農耕、運搬などに大活躍し農家にとっては
家族同様の存在でした
少年期に目に映った牛について綴ってみたい

日経新聞「私の履歴書」を毎日読んでいます。

日本の政治・経済・文化に多大に貢献された方々の最後となるべき筆運びであろう。

人間は年重ねると幼少期や故郷が懐かしく人生を振り返ると言う。

年齢に不足はない、薄皮を剥がすように一枚一枚丹念に昔を綴ってみたい。

 

 
此処から500m入ると故郷の実家。 奥の尖った山は百名山の両神山。


  生れ故郷の実家です


 すでにこの家はナシすぐ前に新築移転。
→先2mから牛小屋でした。


典型的な農家の作りで、玄関を入ると土間があり、
右手が牛小屋でした。
 

 

昔の生れた実家はこんな間取りでした。
玄関を入ると土間、右は土間に続いて牛小屋でした。

農家は①大地を耕すことと、②山林の手入れ、③牛馬、家畜を飼育すること、
④蚕を飼育して繭の生産することに分けられていたように思われる。

牛はどちらかと言えば草食動物、草を刈って餌を与えるのが大変でした。
朝露の切れないうちに野や山に赴き野草を刈って、籠に入れ背負い家まで運んだ。

日曜日は、学校が休みですから朝起きるとの山に出かけて牛の餌である草を刈り集め家まで運んだ。
わが家は父親が若くして亡くなったのでこれらの労働は、

子供達(兄・姉・私)の双肩にかかっていた。

 

最初に他家から子牛を買い求め、我が家で肥育することとなった。
親から離れ子牛は、親と離れ離れになり三日3晩鳴いていた。

今思うと目に涙を垂らし、声が枯れるまで・・・・。
それが4日~1週間すると餌をたくさん食べるようになりわが家に懐いて元気になり

大きくなり農耕牛として畑で働くようになった。

 

写真はネットからお借りしました。↓


他家で親子の生活をしていた。


縁あって我が家へ買われてくる

 

                     次回は牛と農耕について

 

 

コメ欄は閉めています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歴史発掘,秩父事件の背景,その2-2

2020年03月15日 | 紀  秩父のあっちこっち

椋神社に困民軍蜂起
苦しい租税、高利貸の取り立て・山林謀議、秩父に自由民権の風

 

 

9、11月1日、その日蜂起の日が来た

 

天に昇る龍にその姿が似ていることから「龍勢りゅうせい)」と名付けられた。
それは戦国時代の狼煙のろし)の風習と技法を源流とする「農民ロケット」だ

 

10、

 

 

 

11、

 

 

12、困民軍役割分担表

 

 

 

13、音楽寺終結11月2日、郡役所への出撃命令を待つ

mn

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歴史発掘,秩父事件の背景,その1

2020年03月13日 | 紀  秩父のあっちこっち

秩父困民党事件(明治17年)は何故起きたか
農民の生活とその背景


 

事件や事故が発生すると、必ず起きた動機、要因を検証します。

これ等が解明されればその事件や事故の全体像が浮かび上がってきます。

この事件は、地元秩父はおろか、日本をも揺るがすような大きな事件でした。

そこには地域的特殊要因が、あるいは時代を取り巻く何かの社会背景が有ったであろう、そのものを解き明かそうとしました。

下記の書物などを参考にしながら紐解いてみました。

 筆者が幼少のころ母親や祖母から聞いた断片的な話。
①椋神社を出た困民軍は、わが家の川向うの道路を筵旗や竹槍を持って勇ましく駆け抜けていった。
②久長に通じる清泉寺坂で警察官が殉職されたこと、➂金剛院の墓地にひっそりある暴徒の墓、
④当時学校ではあの子は暴徒の家(困民軍)の子供などと
断片的な話
など囲炉裏端で聴きました。

参考図書 ・歴史紀行・秩父事件 中沢市郎
    ・劇画・秩父事件   森哲郎
       ・秩父困民軍人との戦い 戸井昌造
  ・秩父事件を歩く戸井昌造
・ヒキノbloger

 

 

 

1、秩父の民衆ともう一つの日本




 困民党が武装ほう起した椋神社
当時此処に吉田小学校が有りました。

 

この秩父事件は

ちっぽけな山村に起きた

日本を揺るがす大きな事件であった。

極貧にあってなお生きる権利を訴え自由を叫び死を掛けて戦った。
秩父下吉田村・椋神社に、風布村、日野沢村などから山村で謀議した通り困民軍は幟、
筵旗や竹槍などを持って集結した。その数3千余名。
そんな名もない農民たちの悲劇の事件である。


2、藩閥専制支配による天皇国家 

 明治17年ときの政府は藩閥専制支配による天皇国家をめざし

一方では、民主主義運動の出発となった。

『自由民権運動』が板垣退助引き入る自由党によって活発に展開されていた。

「板垣死すとも自由は死せず」

秩父盆地にも自由民権の風

明治17年大井憲太郎が秩父に遊説に来た。大井は関東自由党の領袖であり自由党の指導者であった。その資料はないが、大井はきっと農民にとって自由民権とは何かを語りかけたに違いない。圧制政治からの自由である。
クリック拡大
大井憲太郎

 

3、松方デフレ下の流離無産の農民

 --そして

日本の全土は政府のデフレ政策と増税

深刻な経済不況の時代にあった。

農民の困窮度は、とてもとても酷どかった。

松方デフレで農民たちは「流離無産の民」として鍬を質に入れ、田んぼや畑を借金のために取り上げられ、
ひたすら納税に苦しみ、その果ては身代限り処分を受けるだけとなるのでした。

土地は有力者のものになっていく。地主制度の幕開けであった。
松方デフレ下の小作率は40%へと上昇に、多くの農民が土地を失い無一文になって行った。

※ 流離無産とは

働いても働いても生活は苦しい。租税や高利貸に巻き上げられ
生糸の相場が急落。農民は生活に困窮し村を離れざるを得なくなる。


4、秩父地方は傾斜地の桑畑・養蚕地帯




生糸の国際相場が急落


秩父地方の桑畑

 

農地を高利貸に取り上げられたり、

税金の滞納で競売されるなど強制執行を受けた農家は

全国で36万7千戸に達するという惨状を呈していた。


秩父は養蚕地帯でしたが生糸の国際相場の急落で、致命的打撃を受け、

金の工面で高利貸へ向かうのでした。

 

 

5、働けど暮らし楽にならざる


 馬 車

困窮にあえぎ高利貸の横暴に打ちひしがれた農民たちには、

もはや生きるすべが微塵もなかった――

折もおり生糸の国際相場の急激な暴落は

養蚕地帯の秩父農民は入るお金の道をふさがれた。

 

6、秩父盆地は山に囲まれて


 現在の秩父市、明治は大宮郷と言った

秩父――――

埼玉県西部の関東山岳地帯の

中央をなす盆地の一体である。

面積百平方キロメートル

盆地を縫って赤平川・荒川が関東平野に流れ

盆地の中央を荒川に沿って大宮郷(秩父市)がある。

秩父盆地は地質が悪く、農耕に適さず

古来養蚕絹織物が盛んでした。

昔の女性は、人生に栄華あることを知らなかった。ぼろ麻の着物を身に付け
他人の為に絹を織った。化粧もせず、顔色は飢えて薄白く、唯々働くのみで一生苦労をし通しでした。養蚕が忙しい時は、頭の毛に櫛をも入れず「働けど働けど我が暮らし楽にならざるなり・・」「田舎繁盛記」明治8年刊と記してある。

 

7、農民を絞り上げる高利貸


 

当時の農民にとって

金融機関と言えば、高利貸より他に無かった。

加えて、秩父の高利貸はとりわけ悪質であった。

高利貸の仕組みは、

十円の借金に対して、あらかじめ20%の2円を差し引き期限の3ヶ月が来ると、利息だけを返しに行く。
すると居留守を使って受け取らず、その金を使うように企み借用書を書き替え
そのたびごとに20%の天引きをした。

 

 

open

コメント (14)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秩父おなめ

2020年02月18日 | 紀  秩父のあっちこっち

故郷で培った”なめもの嗜好品“、秩父子は”オナメ”を食す


 

”秩父おなめ”3、75kgが届きました。

白いご飯にオナメ。

空き樽が物置にごろごろしているので、おなめ嗜好品大好物です。

「血圧が高く薬を飲んでいるのに、どうして塩辛いものを食べるの!!」と、

Y婦に文句を言われながらズルズルと食べています。

生まれつき食べて来たものは、身体に纏わりついてなかなか断つことが出来ない。

毎朝、毎晩食べるので、食卓の隅に瓶詰めにしておいてあります。

子供の頃からお袋が作り丹精して大樽で、縁側の隅で陽を当てながらじっくり熟成させた。

幼少期から食べて来たので、食卓には必需品のオカズです

金山寺味噌なるものがありますがこれは甘口、秩父おなめは辛口です。

 


ちょっとその前に、秩父おなめについてのプチ知識!

「おなめ」とは、埼玉県の秩父地方では、どこの家庭にでも

食事の時に出されている定番のものです。

おなめの作り方は、大豆と麦を主原料とし麹菌の酵素の力によって醸造されるのです。

秩父地方で昔から作られていたために、
「お箸をなめるほど美味しい」=「おなめ」というのが語源という説もあるようです。

酒の肴に漬物は欠かせない。
夏の暑い時冷えた、ビールにキュウリは絶品です。

絵図の様にキュウリを4つ割にして、オナメをちょいと着けて食べたら、
上手いこと請け合い、バッチリ。

 

 

 

コメ欄は閉めています。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

方言

2019年05月23日 | 紀  秩父のあっちこっち

アチャム詩・だんべ絵

 


 しば狩り籠 (世田谷民家園にて)

 


秩父名物干し柿

 

かって秩父地方を代表とする方言として

秩父音頭の囃子言葉に歌われていた。

 

♬  秩父名物ご存じねぇか

      アチャ・ムシ・ダンベェに

  吊るし柿 



  アチャ= それでは

ムシ = ですね

   ダンベェに= でしょう

 

 

 

 コメ欄は閉めてます。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする