音の風景・『艪が咽ぶ』
「矢切の渡し」
細川たかし歌
作詞・石本美由紀
作曲・船村 徹 (総出演)
矢切の渡しは、昭和51年”ちあきなおみ”「酒場川」のB面として発表され、昭和58年
”細川たかし”によって新たに吹き込まれ大ヒットした。
親の心をそむき、柴又から対岸の松戸へ駆け落ちする男女のストーリがしっかり歌われている。
作曲を手掛けた船村徹は、NHKでのドキメンタリー番組「新日本紀行」で
取り上げられたことをきっかけにこの歌を発案したそうです。
この歌には消えつつあった、江戸川の男女の逃避行が重ね合わされている。
歌詞に「揺れながら 艪が咽ぶ 矢切の渡し/息殺して 身を寄せながら 明日へ漕ぎ出す
別れです」という歌詞が有ります。
「咽ぶ」という言葉の意味として「涙で息が詰まるほど泣く」この『艪が咽ぶ』と
言う語彙に筆者はピンと心を打たれた!!
▲ 艪が咽ぶ 矢切の渡し 春探し (縄)
男女の駆け落ちを思いながらも、吾(筆者)は江戸川河川敷の岸辺を
青空の下、春を探しながら彷徨っていた。
江戸川の川面が光り、岸を離れた渡し舟の艪のきしむ音が
微かに風に乗って聞こえて来た。
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矢切の渡し表示板
矢切の渡しは、江戸時代の初期に、柴又と対岸の松戸の間を運航していた。
武州金町松戸関所の文書に残されている。
伊藤佐千夫が明治39年発表した小説「野菊の墓」ワンシーンに登場したことで
広く知られるようになった。
運航は杉浦家によって担われ、現在は2代目杉浦幸雄氏が行っています。
明治時代は日用品購入や社寺への参拝、野菜の運搬などで近所の人々の
足として使われていた。
おじいさんの頃は夜中の1時頃、千住の野菜市場に野菜を背負って行く
お百姓さんで一杯だったと言う。
当時は民家が川畔にあり、お酒も飲ましてくれたと言う。
尾崎士郎「人生劇場・青春篇」の舞台となった料亭「川甚」も在って、
川面に灯影が揺れていたと・・・・・。
その「川甚」も、此のコロナ禍で店を閉めてしまい寂しい限りです。
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「矢切の渡し」歌碑
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渡し江戸川の半ば
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岸の柳と待つ人達
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艪漕ぎの船頭さんと船外機
渡し舟は川中にくると、エンジンを動かし船外機により松戸川の対岸に着く。
現在都内で稼働している渡し船は、矢切の渡し舟の身になってしまい、
貴重な渡舟場として稼働しています。
「矢切の渡し」が一世を風靡してから時が流れましたが、『艪が咽ぶ』音がそうした
江戸川を織りなすシーンを彩ってきたのであ
「東京人。朝日ジャーナル、可豆思賀を参照しました。
画像は蔵出し画像としました」
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