小山修三氏が聞き手になった
「梅棹忠夫語る」に、
小山さんが、梅棹忠夫著作集への
司馬遼太郎氏の推薦文を引用した箇所があります。
それを引用したあとに、
梅棹】それはそういう評があたっている。
学問と思想のあいだを自由に往来した。
学問と思想と、ひとつでふたつ。
司馬遼太郎には見えていたんやな。・・・
小山】思想は学問じゃないのですか。
梅棹】学問から思想は出てこない。
思想から学問はあるな。(p121)
さて、
梅棹忠夫氏の中国感を、思い描ける箇所、
「中国を信用したらアカン」思想の場面。
梅棹】わたしは2年いたから、中国のことはよく知っている。
それから後も、中国30州を全部歩いている。そこまでした
人間は、中国人にもほとんどいないと言われたけど、
わたしは全部自分の足で歩いている。
向こうで生活していてわかったんやけど、
中国というところは日本とはぜんぜんちがう。
『なんというウソの社会だ』ということや。
いまでもその考えは変わらない。・・・
ウソと言うと聞こえが悪いけれど、
要するに『表面の繕い』です。
まことしやかに話をこしらえるけれども、
それは本当ではない。
小山】梅棹さんは『中国を信用したらアカン』
と言ってましたね。
梅棹】いまでもそう思う。・・・・
(p31)
はい。この思想から、学問を組み立てられる?
ところで、
6月といえば、中国の天安門広場が思い浮かびます。
ここには、諸君!に連載された「紳士と淑女」から
引用してみます。1969年8月号(89年6月)の文に
「厳戒軍司令部は、はじめ天安門広場の学生死者を
23人だと言っていた。中国政府は6・4虐殺から
1日おいて6日には『兵士、暴徒および野次馬』の
死者は300人だと言った。
また7000人が負傷し、うち兵士の負傷者5000人、
それとは別に行方不明が400人だという。
しかし十カ所の病院に電話で問い合わせた
一医師の話では、少なくとも500人が死んでいる。
紅十字の情報では死者2600人。
・・・・
いまでは中国政府スポークスマンは、
学生の死者はゼロだったと言っている。・・・・
死傷者少数と発表されたラサの反乱鎮圧も、
同じようなことなのだろう。十二億もの民がいる
中国・・数字は著しく伸び縮みする。
いったい中国政府の数字の詐術を見た者は、
どうして南京虐殺30万説を信じ得よう。
・・・・
(p510.「紳士と淑女 人物クロニクル1980‐1994」)
それにひきかえ。
と指摘するのは「産経抄」1989年6月7日。
「それに引きかえというのも何だが、
わが日本の中国報道にはこれまで
みっともない過去がある。
文革礼賛記事にしろ、林彪失脚否定報道にしろ、
北京の顔色をうかがい、中国べったりの
『土下座政策をとった』(ギブニー著「人は城、人は石垣」)。
中国に屈服することを拒否した新聞の特派員は追放され、
北京に駐在する新聞の紙面は、
中国礼賛記事で埋まったのだった。
その状況は毛沢東時代から鄧小平時代に
移っても変わることはなかった。
恥ずべきことは・・・」
(石井英夫「クロニクル産経抄25年」・上p397)
ちなみに、この日の産経抄のはじまりは
「中国はどこへ行こうとするのか、
北京は混乱し、情報は交錯しているが、
『北京放送』英語アナウンサーの勇気ある
反抗報道に感銘を覚えた。
『1989年6月4日、この日を記憶しておいてほしい‥』。
そう前置きして、『中国の首都北京に重大な
虐殺事件が発生しました』と世界に向かって
語りかけ、血の弾圧の模様と状況を細かく伝えた。
・・・・」
「梅棹忠夫語る」に、
小山さんが、梅棹忠夫著作集への
司馬遼太郎氏の推薦文を引用した箇所があります。
それを引用したあとに、
梅棹】それはそういう評があたっている。
学問と思想のあいだを自由に往来した。
学問と思想と、ひとつでふたつ。
司馬遼太郎には見えていたんやな。・・・
小山】思想は学問じゃないのですか。
梅棹】学問から思想は出てこない。
思想から学問はあるな。(p121)
さて、
梅棹忠夫氏の中国感を、思い描ける箇所、
「中国を信用したらアカン」思想の場面。
梅棹】わたしは2年いたから、中国のことはよく知っている。
それから後も、中国30州を全部歩いている。そこまでした
人間は、中国人にもほとんどいないと言われたけど、
わたしは全部自分の足で歩いている。
向こうで生活していてわかったんやけど、
中国というところは日本とはぜんぜんちがう。
『なんというウソの社会だ』ということや。
いまでもその考えは変わらない。・・・
ウソと言うと聞こえが悪いけれど、
要するに『表面の繕い』です。
まことしやかに話をこしらえるけれども、
それは本当ではない。
小山】梅棹さんは『中国を信用したらアカン』
と言ってましたね。
梅棹】いまでもそう思う。・・・・
(p31)
はい。この思想から、学問を組み立てられる?
ところで、
6月といえば、中国の天安門広場が思い浮かびます。
ここには、諸君!に連載された「紳士と淑女」から
引用してみます。1969年8月号(89年6月)の文に
「厳戒軍司令部は、はじめ天安門広場の学生死者を
23人だと言っていた。中国政府は6・4虐殺から
1日おいて6日には『兵士、暴徒および野次馬』の
死者は300人だと言った。
また7000人が負傷し、うち兵士の負傷者5000人、
それとは別に行方不明が400人だという。
しかし十カ所の病院に電話で問い合わせた
一医師の話では、少なくとも500人が死んでいる。
紅十字の情報では死者2600人。
・・・・
いまでは中国政府スポークスマンは、
学生の死者はゼロだったと言っている。・・・・
死傷者少数と発表されたラサの反乱鎮圧も、
同じようなことなのだろう。十二億もの民がいる
中国・・数字は著しく伸び縮みする。
いったい中国政府の数字の詐術を見た者は、
どうして南京虐殺30万説を信じ得よう。
・・・・
(p510.「紳士と淑女 人物クロニクル1980‐1994」)
それにひきかえ。
と指摘するのは「産経抄」1989年6月7日。
「それに引きかえというのも何だが、
わが日本の中国報道にはこれまで
みっともない過去がある。
文革礼賛記事にしろ、林彪失脚否定報道にしろ、
北京の顔色をうかがい、中国べったりの
『土下座政策をとった』(ギブニー著「人は城、人は石垣」)。
中国に屈服することを拒否した新聞の特派員は追放され、
北京に駐在する新聞の紙面は、
中国礼賛記事で埋まったのだった。
その状況は毛沢東時代から鄧小平時代に
移っても変わることはなかった。
恥ずべきことは・・・」
(石井英夫「クロニクル産経抄25年」・上p397)
ちなみに、この日の産経抄のはじまりは
「中国はどこへ行こうとするのか、
北京は混乱し、情報は交錯しているが、
『北京放送』英語アナウンサーの勇気ある
反抗報道に感銘を覚えた。
『1989年6月4日、この日を記憶しておいてほしい‥』。
そう前置きして、『中国の首都北京に重大な
虐殺事件が発生しました』と世界に向かって
語りかけ、血の弾圧の模様と状況を細かく伝えた。
・・・・」