「梅棹忠夫に挑む」(中央公論新社・2008年)のまえがきは、
梅棹氏本人が書いておりました。そこに、
「・・わたしの米寿に際して、
わかい友人たちがおいわいの会をひらいてくださるという。
それを、パーティーなどで飲みくいの席におわらせては
ざんねんであるとおもい、わたし自身をまないたに乗せて
議論をしたらどうかと提案した。・・・」
そういえば、と本棚から「桑原武夫傅習録」(潮出版社・1981年)
を出してくる。この序文を梅棹忠夫が書いておりました。
そのはじまりは
「桑原武夫先生は、ことし(1981年)の五月に、
喜寿の賀をむかえられる。第七十七回目のお誕生日の当日には、
友人・弟子たちがあつまって、祝賀会をひらく。その日を目標に、
この本・・の刊行計画はすすめられたのである。
桑原先生の人となり、行状、業績について、
たくさんの文章が知人たちによってかかれている。
それをあつめて、一冊の本にまとめようという企画である。
これは、賀の記念としては、まことにふさわしい計画であった。」
この「傅習録」に司馬遼太郎氏の文も掲載されており、
そこにある司馬さんの文に一読、ちょっと飲み込めない
と思えるような箇所があって、かえって印象に残っておりました。
その箇所というのは
「桑原氏の異常さは――といったほうがいい――対談のはじまる前に、
場面構成をすることである。いきなり始めればよさそうなものが、
諸役(編集者、速記者、そして話し手など)のざぶとんの位置を
決めなければはじめられない。・・・・
『速記の方はそこ。編集部はあちらに』と、氏は登山隊長のような
表情になった。さらに氏は小机の角度をすこし曲げ、
司馬サンはそこです、といた。それによって氏と私との位置に、
適当な角度ができ・・ひどく楽な気分になった。
同時に桑原氏の学問の方法の一端がわかったような気がした。
このことは、人文科学の分野は成しがたいとされていた
共同研究というものを氏が一度きりでなく幾度も成功させた
という記録的な業績の秘訣にもつながっているようにおもえる。」
(p156~157)
なぜ、こんな引用をしているのか?
昨日、「梅棹忠夫 知的先覚者の軌跡」という
国立民族学博物館から出ていた図録をひらいて
いたら、小長谷有紀さんのモンゴルに関する文に
こんな箇所があったからでした。
それは、梅棹氏が1975年の教養講座での話の一部でした。
「民族学はたのしいが、時間のかかる仕事だと講演し、
『かなりながく現地につかっていた経験』として、
モンゴルを例につぎのような話をしている。
『まず第一にウマにのることからおぼえるわけです。
ウマにのれなければ、隣のうちへゆくこともできませんから。
もちろんモンゴル語がわからなければ、どうにもならない。
それからイヌにかまれないですむ法とか、
ヨーグルトのなかにガとはハエがはいっているので、
それを唇でこしながらヨーグルトだけのむ法とか、
へんな技術をいっぱいおぼえなければならない。
そういうことをさんざんやって、二年たって・・・』
ここでいう『へんな技術』とは、いずれも
現地の人びとのふだんの生活にあみこまれている
身体的な技法のことである。・・・」
(p40)
さて、ここまで引用を重ねれば、
なんら不思議にも思わないだろう、
京都の共同研究という『へんな技術』を
回顧した文を、ここに引用させていただきます(笑)。
加藤秀俊著「わが師わが友」(中央公論社C・BOOKS)に
「京都文化のなかで」という章があるのでした。
そこから、ちょっとだけ引用させていただきます。
「研究会といっても、人文のそれは、
しかつめらしく肩を怒らせたむずかしいものではない。
むしろ、そのスタイルは、非公式の座談、といった
おもむきであった。職階上の差別はいっさいしない、
という原則は、まえにもいくたびか紹介したけれども、
なにしろあちこちに話題が展開し、時間はいちおう
1時から5時まで、といったふうに掲示されてはいるものの、
それが7時になり、9時になっても、えんえんと果てしなく
研究会がつづくこともめずらしくなかった。そして、
その間、大きなヤカンからそれぞれに渋茶を注いで
飲むのはともかくとして、腹が減ると、自由に出前の
ドンブリものや、うどん、そばのたぐいを電話で注文し
て食べるのであった。報告者にあたった人が、
古今東西の文献を引用して名論卓説を展開しているのに、
そのとなりにすわっている参加者がきつねうどんを食べ、
そこから立ちのぼる醤油の匂いが会議室に充満している、
といった風景も、わが人文の研究会ではごく日常的であった。
わたしは、はじめて研究会に出席したときには、
こういう光景にただびっくりするのみであったのだが、
これが人文科学研究所の『文化』であることを知るに
およんで、だんだん、その習慣をみずから身につける
ようになった。そして、うどんをすすりながらでも、
じゅうぶんひとの話をきき、かつ、ときには、箸を置いて
発言しうるものだ、ということを体験的に知った。」
(p98~99)
う~ん。このあと肝心な「京都」の地の利へと、
ひろがる箇所なのですが、今回はここまで。
うん。今回は
「知的生産の、へんな技術」の紹介でした。
梅棹氏本人が書いておりました。そこに、
「・・わたしの米寿に際して、
わかい友人たちがおいわいの会をひらいてくださるという。
それを、パーティーなどで飲みくいの席におわらせては
ざんねんであるとおもい、わたし自身をまないたに乗せて
議論をしたらどうかと提案した。・・・」
そういえば、と本棚から「桑原武夫傅習録」(潮出版社・1981年)
を出してくる。この序文を梅棹忠夫が書いておりました。
そのはじまりは
「桑原武夫先生は、ことし(1981年)の五月に、
喜寿の賀をむかえられる。第七十七回目のお誕生日の当日には、
友人・弟子たちがあつまって、祝賀会をひらく。その日を目標に、
この本・・の刊行計画はすすめられたのである。
桑原先生の人となり、行状、業績について、
たくさんの文章が知人たちによってかかれている。
それをあつめて、一冊の本にまとめようという企画である。
これは、賀の記念としては、まことにふさわしい計画であった。」
この「傅習録」に司馬遼太郎氏の文も掲載されており、
そこにある司馬さんの文に一読、ちょっと飲み込めない
と思えるような箇所があって、かえって印象に残っておりました。
その箇所というのは
「桑原氏の異常さは――といったほうがいい――対談のはじまる前に、
場面構成をすることである。いきなり始めればよさそうなものが、
諸役(編集者、速記者、そして話し手など)のざぶとんの位置を
決めなければはじめられない。・・・・
『速記の方はそこ。編集部はあちらに』と、氏は登山隊長のような
表情になった。さらに氏は小机の角度をすこし曲げ、
司馬サンはそこです、といた。それによって氏と私との位置に、
適当な角度ができ・・ひどく楽な気分になった。
同時に桑原氏の学問の方法の一端がわかったような気がした。
このことは、人文科学の分野は成しがたいとされていた
共同研究というものを氏が一度きりでなく幾度も成功させた
という記録的な業績の秘訣にもつながっているようにおもえる。」
(p156~157)
なぜ、こんな引用をしているのか?
昨日、「梅棹忠夫 知的先覚者の軌跡」という
国立民族学博物館から出ていた図録をひらいて
いたら、小長谷有紀さんのモンゴルに関する文に
こんな箇所があったからでした。
それは、梅棹氏が1975年の教養講座での話の一部でした。
「民族学はたのしいが、時間のかかる仕事だと講演し、
『かなりながく現地につかっていた経験』として、
モンゴルを例につぎのような話をしている。
『まず第一にウマにのることからおぼえるわけです。
ウマにのれなければ、隣のうちへゆくこともできませんから。
もちろんモンゴル語がわからなければ、どうにもならない。
それからイヌにかまれないですむ法とか、
ヨーグルトのなかにガとはハエがはいっているので、
それを唇でこしながらヨーグルトだけのむ法とか、
へんな技術をいっぱいおぼえなければならない。
そういうことをさんざんやって、二年たって・・・』
ここでいう『へんな技術』とは、いずれも
現地の人びとのふだんの生活にあみこまれている
身体的な技法のことである。・・・」
(p40)
さて、ここまで引用を重ねれば、
なんら不思議にも思わないだろう、
京都の共同研究という『へんな技術』を
回顧した文を、ここに引用させていただきます(笑)。
加藤秀俊著「わが師わが友」(中央公論社C・BOOKS)に
「京都文化のなかで」という章があるのでした。
そこから、ちょっとだけ引用させていただきます。
「研究会といっても、人文のそれは、
しかつめらしく肩を怒らせたむずかしいものではない。
むしろ、そのスタイルは、非公式の座談、といった
おもむきであった。職階上の差別はいっさいしない、
という原則は、まえにもいくたびか紹介したけれども、
なにしろあちこちに話題が展開し、時間はいちおう
1時から5時まで、といったふうに掲示されてはいるものの、
それが7時になり、9時になっても、えんえんと果てしなく
研究会がつづくこともめずらしくなかった。そして、
その間、大きなヤカンからそれぞれに渋茶を注いで
飲むのはともかくとして、腹が減ると、自由に出前の
ドンブリものや、うどん、そばのたぐいを電話で注文し
て食べるのであった。報告者にあたった人が、
古今東西の文献を引用して名論卓説を展開しているのに、
そのとなりにすわっている参加者がきつねうどんを食べ、
そこから立ちのぼる醤油の匂いが会議室に充満している、
といった風景も、わが人文の研究会ではごく日常的であった。
わたしは、はじめて研究会に出席したときには、
こういう光景にただびっくりするのみであったのだが、
これが人文科学研究所の『文化』であることを知るに
およんで、だんだん、その習慣をみずから身につける
ようになった。そして、うどんをすすりながらでも、
じゅうぶんひとの話をきき、かつ、ときには、箸を置いて
発言しうるものだ、ということを体験的に知った。」
(p98~99)
う~ん。このあと肝心な「京都」の地の利へと、
ひろがる箇所なのですが、今回はここまで。
うん。今回は
「知的生産の、へんな技術」の紹介でした。